★9月20日 
Monday, September 20, 2010, 09:55 PM
 下に記したとおり、8月には山東省に行ってきました。
 その煙台の町中で、面白いものに出会いました。それは、福建人の「会館」です。会館とは本来、一定の土地の出身者の、いわば県人会館みたいなものです。
 私に関係あるのは、そこには一種の仲裁制度があったということ。大審院長池田寅次郎さんの本では、その由来を記したあと、裁判、調停、仲裁の3つがうまく機能して、民事紛争の解決が図れると記載されています。
 その会館は、残念ながら扉が閉まっていていて、十分に内部を見ることができませんでした。
 しかし、中心に廟があることについては、しっかり見届けられました。
 つまり、そこは亜細亜伝統の社です。
 この社の観念は社しょくという観念で、昭和の歴史にも登場したものです(この博物館にも写真あり)。
 こうした観念を国家成立の元にすえるのが、亜細亜共通の考え方(いや、世界共通とも)。

 となると、東シナ海波静かに、と思われてきますが、何やら明治時代の大津事件も思い出されてきます。もっともそれは裁判になってからの話。今は、被疑者段階ですから被疑者国選がついていておかしくない。となると、勾留延長に準抗告はどうしてしないのかな。そのあたりはどうなっているんだろう。新聞は一般紙でもタブロイド並で
あおりすぎじゃないか、とか、色々考えます。
 ともあれ、あれを公判請求すると、相当面倒な「国内問題」にもなるでしょう。大きな見方が必要です。

 今年的暑暇我去了山東省。在山東、我看了一個新鮮的古跡。是在煙台福建省人的会館。
 我以前看了一個書本。那個書本説中国的会館是像日本人的県人会館一様的。在那個会館有仲裁制度。
 在世界的民事解決手段上仲裁制度是最重要的三個制度之一。審判、調停、仲裁是這個三個。
 那個会館関門了。hen遺憾。可是、我看到了一個廟和集会処。所為我覚得那個会館是一個社会。所為有審判処和仲裁制度。
 在亜州社是最重要的観念。社是郷土関係的結合社会。
因為我看了那個会館、所為越来越有興趣。

  |  このエントリーのURL
★9月19日 
Sunday, September 19, 2010, 09:56 PM
 アメリカの小説家であるPさんは、遠藤周作の「沈黙」に感動を受けたそうで、ちょうど、オランダ風説書関係の本を読んでいたら、そのモデルの話が出てきました。

 それで、以下のような話をしたわけですが、西川如見の華夷風説考といい、風説書といい、江戸時代の日本は、しっかり世界中に目配りしていたわけで、「太平の眠りを覚ますじょうきせん・・・」なんていう、実体と異なる歌を載せているわが国の教科書は、我々の江戸時代というものに対する判断を誤らせるものだと思います。

I am reading a book named "World Information from Dutch Captain" now.
That book said 5 missonaries went to Japan in 1642.
I wanted to reserch them.But,I didn't have enough time.So I tried to check that easily.The report investigated is as follows.
They arrived at the island of Oshima.It was located north of Hirado in Nagasaki Prefecture.
They shaved thir hair, and They were in kimono.
But, the goverment official spotted them as missonarys from the difference in their eyes and the nose.

They were took to Nagasaki, and they went to Edo.
After all, they abandaned thir faiths.And Mr,Joseph changed his name to San-emon Okamoto.And he married with Japanese daughter.They lived in the Christian mansion which was in Koishikawa for 42 years.

He is the model of the novel "Silence" of Mr.Shyusaku Endo.

  |  このエントリーのURL
★9月5日 
Sunday, September 5, 2010, 10:18 PM
 初代若乃花が亡くなりました。彼は昭和30年代はじめの大関の時、私の故郷に巡業に来て、私の実家に宿泊しました。その前には、大鵬の師匠佐賀乃花も2度ほど泊まり、赤ん坊だった私もだっこしてもらったとか。
 当時は、力士も山の奥まで巡業に来ていたものです。しかし、その後はそういう田舎まで巡業することはなくなったのではないでしょうか。
 そんなわけで、私が子供の時は、栃錦、若乃花の勝負には真剣でした。また、現に面白かったです。
 彼とも関わり深い青森県十和田市にも行ったことがありますが、新渡戸稲造さんのお祖父さんという傳さんらが開いたと言われる寒冷地で、全ての木の枝が東にしか張っていない、寒い、強風の吹くところです。やませの本場で、冷害に強い水稲藤坂5号ができたところ(古い!)。
 あそこから戦後出てくれば、土俵の中にお金がある、というわけで、頑張るのも分かる気がしました。本当に力の入った相撲でした。
 最近、木村庄之助を務められた元行司さんともたまに会いますが、今の相撲はつまらない、という点で意見一致です。まして形式だの品格なんて二次的なもので、そんなことを問題にしている識者?は実は全く識者じゃありません。
 昔の相撲がなぜ面白かったかといえば、うっちゃりがたくさんあったこと。だから見る方にも力が入るし、最後まで気が抜けない。とく俵に足がかかってからこそ本当の勝負が始まる。
 ところが今の相撲は、俵の手前で勝負あって、あっさり土俵を割ってしまう。これじゃ面白い相撲になるはずもありません。
 識者なら、もっと一途に相撲を取らせるべし。意見をいうならまず相撲の内容に。
 そういうポイントを知らないでよけいなことばかり言っている人間は識者じゃないし、そうしないで余計な注文を付けるから、正に力士は余計な所に目が行くというのも一理ありではないでしょうか。



  |  このエントリーのURL
★9月1日 
Wednesday, September 1, 2010, 03:48 PM
 日本の政治がどうもうまく回っていない気がする(もちろん、うまく回っているとする意見も有り得るでしょうが。現にあるんです)、その原因は何かと考えています。
 一つの大きな要素に「年代」というものがあるでしょう。昔の政治家がよかったとは言いたくないけれど、いわゆる健全な保守が厳然として存在したでしょう。
 「個人の責任か民主か」と問われたとき、しっかり「責任だ」と答える一群が。
 しかるに今は、責任は取らないわ、民主はあやふやだわ・・・。
 こうした傾向の奥にやはり戦後の教育の問題があるように思います。それは日教組がどうのなどという小さな話ではありません。国民全体が考えた戦後の国家像というものの底の浅さです。
 私の小学校、中学校時代といえば、戦後わずか10数年しかたっていませんでした。なのに先日まで鬼畜米英といっていたその国にすっかり心を奪われた礼讚教師がいたのには腹が立ちました(笑)。そうした教師はソ連などと仲良くしようというわけではありませんから、日教組なんぞには入っていません。だから日教組が原因なんていうのは当たらないのです。
 ある意味日本人というものの持つ、数百年にわたって作られた抜き難い性癖です。
 で、そうした教師の教育内容は、ごく単純な自由と民主と平和です。これは、もちろん巨大メディアも同様です。
 だから、バカの一つ覚えのようにしか平和が捉えられないし、戦争反対、平和!!というごく単純な図式です。
 もちろん一方には、日本は悪くなかった、日本のお陰でアジアは独立した!!なんていう権利と反射的利益をゴチャゴチャにしたような議論をする一群やメディアもあるわけです。
 いずれも、戦前なら戦前、今なら今の行政システムを前提にして、どうずれば戦争が起きなかったか、とか、起こさないためにはどうするべきか、なんていう議論がありません。
 また、アジア全体から見た戦前のシステムの欠陥とか、本当に問題のあった人物についての評価とかもまるっきりできていません。
 だから、森久男教授が「日本陸軍と内蒙工作」に書かれているとおり、何を伝えたいのかわからないような本(そこで指摘されているのは岩波新書の「満州事変から日中戦争へ」)が本屋にうずたかく積まれ、ますます総理大臣のお勉強が必要になるわけです。
 そして、そういう教育や吹き込みを受けた一般国民はもっとお勉強が足りませんし、否、むしろ変なお勉強をさせられてきましたから、悪い奴は死刑にしろ、といった単純な論理!?明治人の奥の深い議論には到底及びません。新聞の論説委員長クラスでも勉強不足で疑うことを知らない(疑うことは悪いこと、なんていう信じられない発想も)人が、最近は結構いるもの。
 そして、全て底が浅いので簡単にステレオタイプになる。
 僕たち早く、学校の教科書レベルから脱却しようよ、と言いたい訳ですが、「た
だこれも非なり非なりと一生嘆息し、心を守りてうちおくことなく」の葉隠精神(葉隠が全てすばらしいわけではありませんが、この言葉はよい。上記の疑うこ精神)が ないので進歩しない。

先日会った中国の友人、別れる時よい言葉をプレゼントしてくれました。

「偏聴則信
  兼聴則明」

 一方に偏して聴いたのでは、単純な信に。
 色々と聴いてみれば、物事を明らめることができる。

というようなことみたいです。上記葉隠の「非知り」の精神につながるものといえるでしょう。

  |  このエントリーのURL
★8月26日 
Thursday, August 26, 2010, 09:56 PM
大学同士の交流大会に出席するため、中国の山東省に行って来ました。
久しぶりの煙台はすっかり変わって、特に海のそばには青島風のすばらしい建物が建っていました(奥に入るといまいちでしたが)。
煙台の名は、倭冦の襲来に備えてのろし台が建てられたことに由来するとか(市内の蓬莱には海城あり)。そののろし台あとの周囲は、今は公園になっており、日清戦争のあとの日本、アメリカ、イギリス、ドイツ、デンマークなどの領事館あとがあります。
そして、宿泊したホテルの隣には、古い建物があって、そこは昭和に入ってから日本と満州国との出先に相当する役所になっていたようです。
第一次大戦以来、日本が山東省に権益を得ようとして様々なことを行ったことは歴史の本にあるとおりですが、こうして現物を見ると、なるほどと思われてきます。
それにしても、このあたりの人々の顔は日本人によく似ています。それは、大連との間、対馬海峡が、それぞれ島を介して正に指呼の間にあることによるのでしょう。
上記お役所の屋根の形は、高麗門、つまりお城の門として据えられた門のそれにそっくりでした。
どちらかというと地味な山東省ですが、実は日本と切っても切れない関係にあるのでは?と思われてきます。

  |  このエントリーのURL
★8月13日 
Friday, August 13, 2010, 09:19 PM
 中東A国の駐日大使とお話しする機会がありました。学者であられる大使のお話は極めて多岐にわたり、改めてイスラム世界の広さと奥の深さを感じました。
 A国には、周辺諸国からお酒、映画、その他の娯楽や投資を求めてたくさんの人がやってくるそうです。
 それにしても、複雑な人種構成、宗教構成・・を持つあの地域。問題が起きた時どうされるんでしょうか、という質問に、「ディスカッション、ディスカッション」と強調されたのには感動しました。
 しかし、ディスカッションが通用するには、やはり前提としての教育が必要でしょう。
 その教育とは、決して暗記の教育ではなく、また、考えない教育でもなく、考える、クリエイティブな人間を作る教育であるべきだと思います。
 その意味から、我が国の教育も、正に根本的改造が必要だという気がします。

  |  このエントリーのURL
★8月9日 
Monday, August 9, 2010, 12:31 AM
 知り合いのN先生は、最後の海兵出身者で、昭和20年8月6日には江田島におられ、広島への原爆投下時には強烈な爆風(多分、その表現は適切でないくらいの強烈な圧力。いわゆるピカ・ドン)を感じたとか。先日まで日経に私の履歴書を連載されていたノーベル賞の下村先生も諫早で同様な経験をされたことを書かれていました。
 そのN先生と同期に近い海兵の出身者が、その昔、私の勤務していたところにいましたが、彼はコチコチ国粋の代表みたいなことになっています。
 ゼロ戦の撃墜王・坂井三郎さんも言われていましたが、海軍というのはチト変わったところといってよいでしょう。最近で言うなら空軍もそうです。
 要はメカの世界ですから戦争というものが肌身に滲みてきていないところがある。
 東条英機の弁護人で、衆議院議長をされた清瀬一郎さんの息子さん信次郎先生とは、同じ大学で講師仲間でしたし、ご町内仲間で、よく一緒に食事をしましたが、「海軍はね、海を見ているんでおかしくなっちゃうんですよ」と言われていました。
 坂井さんも言われたとおり、陸軍がだめで海軍がよいなんて逆ですよ、というわけで、我々はこの8月の評価をするについても、おかしな常識?は断固かなぐり捨てなければならないと思います。
  |  このエントリーのURL
★8月5日 
Thursday, August 5, 2010, 01:14 PM
 仕事場にゴキブリが登場したというので、食事ついでに薬屋さんへホウサン団子を買いに行きました。
 大通りに出て歩いて行くと、向こうから大きなポリ袋をたくさん下げた女性がとぼとぼとやって来ます。よくみると食材の山が入った袋がいっぱい。やれやれ大変だね。と思いながらすれ違って、「あれっ」と思い出したのがいつもいくミャンマー人がスタッフのお店の人。「ああ、あの人か。髪を下していたので気づかなかったわ」と思って振り返ると。その女性は余りの重さに荷物をおろして一休みしていました。お店まではわずか2、30メートルしかないのに。多分ああして、遠い食材屋さんから運んできたのでしょう。わずかだから手伝ってあげようかな、と思いましたが、でも、すぐそこだしプライドの問題もあるんじゃ、というわけでやめにしました。
 そして、ゴキブリ退治の団子を買って、帰りにそのお店に寄ると、もうひとりのインド系ミャンマー人の学生アルバイトさんがいて、くだんの女性は、汗をふきふきしていました。
 
 ラーメンを食べながらミャンマーの情勢についておしゃべり開始。
 そんな中で、五戒の話になり、その女性は、「ミャンマーの人は殺すのはきらい。私も絶対、ゴキブリだって殺さない。ゴキブリにだって生きる権利ありますよ」と。ありゃ、ここにゴキブリ殺しありますよ、とはもちろん言いませんでしたが、かつて、今のネピドーのそばで、おしっこで虫を死なせるのもいや、というわけでかがんでおしっこをしたミャンマーのお医者さん(男性)を思い出しました。
 しかし、最近のミャンマーは、政治経済の影響から、こうした伝統的な仏教の習慣にも、若干の陰りが見えないではないとのこと。
 色々なことを考え、やっぱりあの時手伝ってあげればよかったなー、と思われたことでした。



  |  このエントリーのURL
★8月3日 
Tuesday, August 3, 2010, 11:23 PM
 先日、蓬莱という名の中華料理の店で食事をしました。
 この蓬莱は、山東省にある町ですが、古くは秦の始皇帝が徐福を送り出した所と言い、明の時代には、倭寇を撃退するための海の城が造られました。
 このあたりから遼東半島の大連に向けては多数の島があり、はるかに九州までつながっていることを思うと、前者の話もまんざら嘘ではなさそうな気もしてきますし、後者の話にもおもしろいプラスαがあります。
 というのは、長崎県のある島を訪れた時のこと、その島の正に倭寇の出撃基地と上記の蓬莱の海城とが全く同じスタイルであることに気づいたのです。

 東支那海を挟んで東と西とに全く同じものがあることは、そのほかにも数々の事例があります。
 その意味から、かの国・地域について勉強しなければ、日本とは何かは解らない、というのが私の結論。
 ついでにいえば、それをきちんと行って、今までと違う価値観を打ちたて得ないところに昨今の政権党の迷走の原因もありそうに思います。
  |  このエントリーのURL
★7月26日 
Monday, July 26, 2010, 11:40 PM
 このところ読んでいた本が、我々の世界の大先達の本2冊。自身の来し方を振り返る、といったたぐいのものです。

 しかしてそうした人の本は、話がアメリカとヨーロッパに片寄っているなーという感想しきりでした。ただでさえ明治以降ヨーロッパからの法律導入は急であったので、ある程度以上はやむを得ないでしょう。でも、昔の人に近い例えば田中耕太郎さん(東大教授、最高裁長官、文部大臣などをした人)などには「法家の法実証主義」なんていう本があって、しっかり東洋に足をおいています。
 しかし、最近の長老?は、全くといってよいほどそういう教養に欠けるようです。
 そして、そのうえで「日本では」という議論をしますから、現象としての日本を語ってもその理由には関心が行っていません。
 だから政策提言的なことを言っても、根本的解決法を語れていないと思えるのです。

 その意味から、真の批判的学者よ出でよ!と言いたくなります。

  |  このエントリーのURL

戻る 進む