[孝」と武士道 
Friday, November 26, 2021, 06:53 PM
 「孝」という観念については、京都大学教授を務められた桑原隲蔵(じつぞう)先生(桑原武夫さんのお父さん)の言葉に、「孝道は支那の国本で、又その国粋である。故に支那を対象とする研究には、先ずその孝道を開明理解しなければならぬ(『支那の孝道 殊に法律上より見たる支那の孝道』)」とあります。
『孝経』の「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という考え方が中国の古い昔からの中心的な観念として存在するのだということです。そして、これが歴史の中に時々頭をもたげては色んな事象を起すので、中国だけではなく日本や、特に韓国のことについても、そのことを踏まえることは大切だろうと思うのです。
そこで、この「孝」の観念を、肥前において、一七一六年(享保元年)の『葉隠』成立の前、元禄時代にしっかり打ち出したのが誰かというと、一六九五年(元禄八年)から『月下記』を書き始めた武富廉斎ということになります。
福岡女子大学教授を務められた井上敏幸先生の論考(かつて佐賀に存在した雑誌『新郷土』創刊四〇年記念出版『佐賀の文学』所収)を引用すると、武富廉斎は、「佐賀の白山に住した藩御用達の呉服商で、代々長崎貿易に従事し、町人頭の家格を持った富商であった。元禄七年、五八歳の折、鍋島綱茂から藩の儒者に仰せつけられ、……儒学に熱中した廉斎は元禄五年私財を投じて『大財聖堂』を建て、このことによって後年、多久茂文の『多久聖廟』建設に際し、様々な形で、その息子の英亮と共に参画した」とされます。
廉斎は中国の明末の動乱期に日本の佐賀にやってきて今宿などを支配した明の十三官の曾孫であり、上記のとおりの富商です。現在、佐賀市大財町(おおたからまち)には「明十三橋(あけとみばし)」があり、立派なご子孫もたくさんおられます。廉斎は、当代の著名な儒学者、伊藤仁斎、藤井懶斎(らんさい)、貝原益軒などとも広く交わっていたそうで、五九歳の折に書かれた『月下記』も、こうした広い学問的交友の中から着想したもので、藤井懶斎の『本朝孝子伝』(一六八四)をよりどころにし、地元肥前を含めた多くの孝子を登場させています。佐賀にもたくさんの孝子がいたわけです。
そしてそのころは、全国的にも、「孝子伝」が次々と生れてきますが、武富廉斎の曽祖父が上記のとおり儒教国家・明の内乱をさけて渡来した一人であったことが極めて大きいと思います。つまりは「孝」の拡大傾向も国際関係のなせるわざです。
冒頭に書いたとおり、孝はアジア文明の本質で、「孝子伝」自体、黒田彰先生の『孝子伝の研究』などによれば相当古い歴史をもっていて、漢の時代から孝子を載せた本や焼物があり、その中には、孟宗竹で有名な孟宗のように真冬にタケノコが食べたいと言う親のために一生懸命探したらタケノコが生えてきたとか、養老の滝のように、親孝行の息子のために滝がお酒になったなどという奇譚もあります。あるいはむしろ、復讐譚。親が殺されたときの敵討ちも孝から出てきます。
そのころ、幕府も孝の子供を徹底的に顕彰するという方針を打ち出していきます。ですから江戸時代の武士の価値観を決めたのがこの国際的インパクトによる「孝」の発想なのだと。そこから色々なものが出てきたのだということはやはり押さえておかねばならないことでしょう。
これに対して、『葉隠』とほぼ重なってくる井原西鶴は『本朝二十不孝』という、逆に親不幸の人を書くと言うので、これは正に芸術家らしい「逆らい方?」かなと思うわけですが、とにかくおもしろい。
そして、井上先生が以上に続けて挙げておられるのが、『葉隠』です。
井上先生はそこで『葉隠』を、この『月下記』と同じく『仮名草子』として取り上げておられ、「『月下記』は人倫の道としての「孝道」に焦点をあて、朱子学的規範と朱子学的道徳への目覚めを促そうとするものであったが、これに対して、『葉隠』はむしろ、儒教的な士道論に対する批判的姿勢を持つものであった。さらにいえば、儒教の影響を拒みつつ、戦国武士の思想の余習を、その発想の核として、佐賀藩主に対し、また藩そのものに対する武士の献身の伝統を心情の内面に向けて深く掘り下げたものであった」とする『日本思想大系二六・三河物語・葉隠』相良亨先生の見解に賛成しておられます。私もそれが正しいと思いますし、真の武士道理解のために、相良先生やその先駆者・和辻哲郎先生の考え方は必須です。
井上先生はその論考の末尾で「『月下記』と『葉隠』とは、孝道論(前者『月下記』・士道論)と士道論(後者『葉隠』・むしろ武士道論)という違いはあるものの、文治主義が浸透してくる元禄時代佐賀藩の思想交代劇の一部を垣間見せてくれる、恰好の仮名草子風著作物だったのである」とされていますがまさにその通りでしょう。それは全国的な傾向でもあります。
元禄という時代が、戦国時代から文治主義の時代へと移行していく、その過程の中にある『月下記』であったり『葉隠』であった。そのバックには、改めて、国際関係の変化が重要であったということを忘れてはならないというのが私の考えです。

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オボ(オボー)の話 
Friday, November 26, 2021, 06:48 PM
大隈重信が『大隈伯昔日譚』の中で述べる、あるいは、東京帝国大学の教授であった穂積八束が『法学協会雑誌』の中で述べていた明治維新の原因、それは突き詰めて言えば、『葉隠』すなわち相良亨先生の言われる「武士道」、とは対極に位置する、_馗邸水戸の神儒一致の発想、それに∪仰考証学(考拠学)の影響を大きく受けた復古神道(国学)、この ↓◆△弔泙蝓柄衫廟萓犬慮世錣譴襦嵒雹瞭察廚任呂覆ぁ法峪瞭察廚その原因をなすと言われていることから、改めて△慮気砲△襦嵜斉察廚箸いΔ發里鮃佑┐討澆燭い隼廚辰燭錣韻任后

このあたりも私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』にも書いてありますが、ちょっと不足しているので、改めて今般取り上げてみました(でもやはり時間も紙数も足りません)。

 そもそも神道と言っても、もともと日本にあったいわゆる古神道(?)というものと、江戸時代に本居宣長や平田篤胤によって、いわば作られた復古神道、つまり△箸和腓い飽曚覆蠅泙后もちろんいわゆる国家神道も異なります。
そうして、むしろ逆にその古神道と「オボ(OBOO)」とが関わってくるのではないか、という一種のロマンを考えたいのです。

まず「オボ」とは何かというと、私の本の中に写真が出ている石堆、つまり石を山の形に積んで真ん中に旗を立てたものです。写真のものは内モンゴルの一部、現在の河北省(旧熱河省)の避暑山荘にあったものですが、この「オボ」は、モンゴル人のいるところだけではなくて、アジア全域に広がっており、むしろ北方のオホーツク文化や、巫女(シャーマン)の文化と繋がるという話もあります。

一方、チベットの映像を見ていると、オボが次から次へと登場します。ですので、現在ではチベット仏教の「マニ堆」だという説明も河北省あたりではされています。しかし、白莉莉さんの論考「オボーと十三塚信仰の比較考察」によりますと、内モンゴル赤峰市では、むしろ新石器時代の中晩期に、最初の石積祭祀が現れ、オボに非常によく似ているものであるということで、チベット仏教のモンゴルへの渡来より遥か以前からユーラシア大陸全体に、このオボに相当するものが存在したということになると思います(モンゴルの現在の姿は仏教と習合した姿)。

そうなると、では韓国とかにもあるのではという話になるわけですが、韓国には「防邪塔」というものがあって、これも全く同じように石を積み上げて、一番上には出っ張った部分がある。私は、これはどう見てもオボと同じか関連あるものだろうと思います。

そうすると、では日本ではどうなのか、という話です。1か月ほど前、宗像大社の沖ノ島の映像を見ていたら、まさにそのようなものが出ていました。しかも、江戸時代の学者・貝原益軒大先生の『筑前国続風土記』の宗像大社・沖ノ島の項(沖ノ島は俗称で、本来は「澳津島」)を見ると、「なれこ石と云石有。初て此島に來る者は、海水に浴し、夜中に此石の辺を回る。」とあり、このことは松尾さんのチベットのご経験や諸本にあるモンゴルの慣習、つまり3回その周りを回ることとそっくりです。
さらに、4週間ほど前、たまたまテレビの「ブラタモリ」を見ていたら、淡路島の伊弉諾宮(いざなぎぐう)が出てきましたが、そこも、社殿の奥の奥を訪ねていくと、最後は石積みが出てきました。

元々大神(おおみわ)神社などが有名ですが、古神道からいうと社殿というものは本来なかった。いわゆる磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神籬(ひもろぎ)等々、石、山、樹林がご神体で、それを祀るために後で今の神社建築がくっついたということは間違いないようですよね(あるいは太宰府天満宮のように、菅原道真のご遺体を埋めたお墓の上に拝殿を建て、本殿はないというところもあります。もともとは安楽寺です)。

そんなことを考えていくと、一体この日本の神社というものも、広くユーラシアと一体だと考えるのが一番自然なような気がします。そして、むしろ京都大学の貝塚茂樹先生が『中国の古代国家』の中で、この「オボ」が「土」という字の元であるということを図を交えつつ詳しく説明され、そこにおいて、「オボ」がフランスの歴史学者クーランジュの『古代国家』の記述から、ローマを作ったロムルスの国家づくり、すなわち、土を掘って城壁をつくる作業、更に数回前にとりあげた「恋闕(れんけつ)」の「闕」にも繋がっていくということを述べておられることに世界への広いつながりを感じます。しかも闕は、韓国のチャンスンと同類で。そのチャンスンとセットの鳥・ソッテと同じ鳥形の出土品が佐賀の吉野ケ里遺跡から出土し、現に復元されていること、と止めども尽きず、「国際化」していきます。
ちなみに、私のお友達であった清瀬信次郎先生(清瀬一郎衆議院議長のご子息・靖国会総裁)も、同じ平河町のご町内として、また同じ大学の教員仲間として、しょっちゅうお話しをしていたのですが、伊勢神宮が、内宮は大陸における祖霊殿に、外宮は社稷壇に相当するということもおっしゃっておられました。確かに祖霊の信仰の地である内宮と、農業神である外宮とが対になっているというのも面白いです。

式年遷宮についても、実は河北省での説明では、オボに相当するマニ堆は、モンゴル族が移動するので寺が建てられない。そこでこのようなものを建てるのだという説明になっていました。そうすると、日本の天皇家が江上波夫先生のおっしゃるように、大陸から本来渡ってきたということ(これも正しいと思います)になると、そのような騎馬民族の「移動」ということから、20年毎の式年遷宮が行われるということになるのかもしれません(あくまでも「かもしれません」の「ロマン」です)。

本当に、終りがなくなってしまいますので、とりあえずここで打ち止めとしますが、日本だけでない、広くユーラシアの観点から、日本の神道も遠くローマまでつながるユーラシアの巨大なベルトの一部と、気宇壮大な観点から様々な事象を見ることが大切だろうと思います。
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【葉隠】前史と渡来人 
Friday, November 26, 2021, 06:39 PM
『葉隠』には中野甚右衛門により高麗より連れてこられた槇忠左衛門、子孫は秀島五左衛門など何人もの渡来人の話が出てきます。そして、その人々により肥前(日本)の陶磁器は飛躍的発展を遂げました。前々回の、秀吉の名護屋橋あたり通過の時、龍造寺隆信の母慶闇尼が「かわらけ」のような物にご飯を盛って差出した、というレベルから大きく進歩したのです(中島浩氣『肥前陶磁史考』)。

 更に、この秀吉の朝鮮出兵に伴って、当時李氏朝鮮を応援していた儒教国・明国人たちも日本にやってきました。このことは、その後の明の滅亡とともに、武士道の新局面を開くについて極めて重要なことがらであると言えます。しかし、当日はとりあえず焼き物の話でした。

 そこで、ここで取り上げる1人は「百婆仙」です。百婆仙は夫の深海宗伝と共に朝鮮半島から日本にやってきました。そのご子孫は現在も深海商店として、有田焼関係の絵付けに用いられる呉須を全国的、世界的に製造販売しておられます。

百婆仙は韓国の映画では「火の女神ジョンイ」。芥川賞作家村田喜代子さんの『龍秘御天歌』などで極めて有名な人ですが、私が時々紐解く上記『肥前陶磁史考』や、そこに引かれた報恩寺の塔などによると、元々高麗深海(同音の金海との説も。金海は製陶地で鍋島軍の城跡があるとのこと)の人で、日本に連れてこられ、元和4年(1618)に夫宗伝(新太郎)が亡くなると、「未亡人は此住み慣れし(武雄市)内田を引払い、平左衛門を始め同族工人960人を率いて有田の稗古場に転居せしは、彼亦決して尋常一様の夫人にあらざりしことが察せらる。其後有田に於いても磁器製造者として相当の地位にありし者の如く、今稗古場観音巖にある霊廟に金ヶ江氏(有名な李参平)と並んで深海氏と刻記されている。斯くて此女丈夫は、明暦2年3月10日(李参平死後4年目)96才の高齢を以て卒去した。今同地報恩寺境内にある百婆仙の墓碑と称するもの、即ち前に碑文を掲げし萬了妙泰道婆の塔がそれである。」というわけで、この墓碑文、なかなか難しいのですが、とにかく、高麗深海の人で鍋島軍の後藤家信に連れてこられた。白磁の製造に大功を立て、96歳で没した、などなど、現代にまで続く巨大な影響を及ぼしているわけです。

 そして、もう一人取り上げるのが村岡総本舗さんのお菓子の名前でも有名な李宗歓です。この人も(あとで)陶工を連れてきましたが、朝鮮役より6年以前に日本にやってきていて『御用唐人町荒物唐物屋職御由諸之次第』によると、「元祖宗歓儀高麗国竹浦の陸川崎と申所の産にて、文を学び武を練り(大明萬暦十五年『我天正十五年』)春三月中旬、家族を引率し海濱に遊漁す。俄に大風高波起り立ち漁船洋中吹流漂事幾日。既に食盡き飢て為死干時天道の助を得、一小鯨船に飛込み是以て飢を扶け万里の波濤を凌き終に筑前黒崎の濱に主従七人漂着す。…
日本天正十九年辛卯漁夫大蔵と申者案内にて太宰府に参籠して身の無事を祈る。此時肥州の太守龍造寺の御親郷龍造寺七郎左工門家晴様、成富十右工門尉茂安様御登阪御帰路の砌御参詣。漂流の始末粗御聞届御用有之由にて官尉御届の上佐嘉御連帰家晴様御舘被召置衣服並御扇子等被為頂戴頓而被召達御登城直茂様へ御目見被仰付御懇の蒙上意其後上々様方被為御目渡難有奉存侯。
且又段々御家老様方御屋敷へ御介副御役人御附副罷上り侯。」と。
そして、朝鮮出兵に参加し、「慶長四己亥四月御暇に而直茂様御帰国御供仕り候処 唯今住居仕候場所へ居宅仕候様被仰付 宗歓唐土の産に付町名を唐人町と御付被下御扶持(十人御扶持)被為拝領朝鮮御陣中諸用物相調候 御吉例を以御内外御用荒物唐物一手に相納御用屋職を以無退轉子孫相続致繁栄候様御意の赴家晴様御書取御披露の上御印を以被為戴冥加至極奉存事」とあります。

というようなわけで鍋島の家来になり先のとおり佐賀にある唐人町はこの人にちなむ名で、高麗の「川崎」というところの出だったので川崎を名字とした、との話。私の遠縁にも唐人町のすぐそばに川崎さんがいるというわけ(鏡円寺には川崎の名のお墓もあり)。
有田も佐賀も相当ハイレベルの人がやってきた、というわけです。もとより有田の李参平(鐘ヶ江金兵衛)は当然有名ですが、もっとたくさん。また、そのころに捕えられた孟子の子孫・孟二官が中国の浙江省・杭州の「武林門」にちなんで武林となり、孫は侍・武林唯七となって赤穂浪士となった話も何度も書きました。

福岡の唐人町なども特に中国人というわけではないという話も聞きますが、当時は現在の頭で中国だ韓国だと言っていたわけではないので、全部まとめて唐人町というあたりがむしろ正しいのではないかという気もします。

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★ 本が出ました。ブログ再開 
Saturday, September 18, 2021, 03:27 PM
 私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』(元就出版社、税込1980円)は、ようやく世に出ました。

 この博物館にあるとおり、「武士道」は一つではありません。多くの人がイメージするそれは、近世の中国的儒教主義に裏打ちされたものです。つまり、日本古来のものではない。

 その昔、東大名誉教授の相良亨先生が言われたとおり、以上中国的儒教主義の武士道・士道に対して、葉隠武士道は、バックを禅によっています。
 こうした違いは国際関係を見なければわからず、新渡戸「武士道」や三島の「葉隠入門」では全く片手落ちで、本来の日本の武士の生き方が無視されています。これでは我々の「ご先祖様」が浮かばれません。

 なので、国際的に、また時代の変化に応じで、実証的に、武士の生き方それぞれの論理を追ってみました。熱を入れて書いたので余計な時間がかかってしまいましたが、中身は「一応」確かで、写真という証拠もそれなりに載せましたので、よろしければ是非、書店かネットのアマゾン、楽天、紀伊国屋etc.へ。
 
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これをきっかけとして、再び日々のブログを再開します。

手始めに、最近の事件ではアフガンの情勢が憂慮されます。上記の本の末尾にも、ちょうど古代世界は中国、パルチアつまりペルシャ、ローマという3区分でできていた話、それは今日も変わらない、という話を書きました。そして、パルチアにおける女性の地位のことを書いて、出版したとたんに起きたのがカブール陥落とその後の情勢です。

アメリカは、そのブッシュ政権において、昭和の日本の為政者と同様、ここの文化人類学がわかっていなかった。

話は長くなるので、今日はここまでとし、是非本をお読みください。友人のイラン、アフガンの人たちとのディスカッションによって得た感想も含んでいます。


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葉隠の「太閤道」の話 
Saturday, September 18, 2021, 03:05 PM
 前回は、研究者の方にちょっと苦言?を呈したものだったので、今回はほのぼの(?)と、『葉隠』の中にある豊臣秀吉が通った道の話、つまり「太閤道伝説」をテーマにしてみました。

 ちなみに、『葉隠』という本は、単なる教訓話の本ではありませんし、もとより山本常朝さんの話だけでもありません。お坊さんは常朝さんだけではなく40人近く出てくるわけで、常朝さんが述べているところだけを取り上げて、三島何とかさんのように「『葉隠』では…」とよく本に書いてあったり言ったりするのは、時には危険でもあるわけです。それ以外の様々な歴史的な記事があり、あるいは思考・行動において参考になる事象が盛られている本であるという所を評価する、というのが良いかと思っています。
 前回の三好先生の見解もそれです。

 そこで、そんな目で『葉隠』を見ると、「聞書六」に、「太閤様名古(護)屋御在陣の処に、御母堂様御病気にて御上り、又御下向の時は佐嘉上道御通りなられ候」と書いてあります。

 これは、秀吉が1592年、肥前名護屋に陣を置きますが、3か月程して、母大政所の病気の報を聞き、上京した、という話です。現在の佐賀市の北、金立山の南にいわば旧道としてある、現在の県道、そこを通ったのだろうと思います。名護屋城から唐津を通って、そして小城市を通り、佐賀市の北・高木瀬町、神埼市を通って東の福岡県に行くというルートです。そこには現在、「名護屋橋」があって、その昔、秀吉がそこを通ったということの痕跡があります。

 更に『葉隠』では、「その節見物仕り候者の咄に、太閤様は小男にて、眼大に朱をさしたるがごとく、顔の色、手足まで赤く、花やかなる衣裳にて、足半(あしなか)をはかれ、朱鞘、金ののし付の大小をさし、刀のさやにも足半一足結付、馬上の御旅行にて云々」と情景が活写されています。足半は、田んぼなどに入る時、ペタペタしないように足の前半分だけになっている草履です。戦争でも用いられたようです。

 また、『葉隠』によると、名護屋橋に差し掛かった秀吉に対し、このとき竜造寺隆信の母慶闇尼が歓待したという話がのっています。慶闇尼は近隣の家から戸板を集め、竹四本を立てた上にのせて、堅く握った飯を土器に盛りならべて尼寺(にいじ・地名。昔、国分尼寺があったところ)の道路端に出し置かせた。秀吉はこれを見て「これは竜造寺後家が働きなるべし。食物なき道筋にて上下ともに難儀のところ、心付候事奇どく(奇特)也」と言って握り飯を手に取り「武篇(辺)の家は女までかように心働き候。この堅き握りようを見よ」とほめたということです。
 
 これについて、『肥前陶磁史考』を書かれた中島浩気さんは、握り飯を乗せた土器は肥前の近世の焼き物としては相当古いものに当る1つのエピソードであるということを言われています。
 
 話によると秀吉は、そのあと上京のため門司から大阪へ船で帰ろうとしたところ、関門海峡の篠瀬というところで船が座礁してしまい、海の中にドボンと落っこちたと。それに対して船頭(といっても実は武士)で、その隊長でもあった明石与次兵衛という人が、「毛利方が北側の浜で反乱気味(?)なのでこちらを通りました」と言ったのを多分言いわけと解したのか、かんかんに怒って切腹を命じたそうです。
 この辺りはどうもやはり秀吉という人と家康や鍋島直茂とは若干違いがある、要は武士から公家に変ろうとしていた人の行動パターンのような気がしますがもちろんはっきりとは分かりません。その事故現場には、岩の上に「与次兵衛ヶ碑」という石塔が建っていましたが、これも何回か海の中に落ち、現在は門司区の「めかり公園」にあるとか。

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学者の先生にちょっと問題提起 
Saturday, September 18, 2021, 02:51 PM
「江戸時代の武士はルソーらと同様の近代的思考を持っていた…とかいう『説』について一言。

 ネットで見るとすぐわかるのですが、『武士道と徳川社会の近代化』という記事や本を書かれたK先生。この方は「主君押込」というフレーズで非常に有名なのですが、何かおかしなところがあると思わざるを得ないのです。

 それはK先生だけでなく、特に近頃の歴史系のとりわけTVなどに出ておられる先生方のおっしゃることには、どうも首をかしげたくなるような点が散見されるので、ど素人ながら、ちょっと苦言(?)を呈してみます。

 もっとも、途中まではよいのです。
上記記事1頁目の「戦国武士から近世武士へ」のところでは、中世社会においては、いわば私が言っている「御恩と奉公」的な武士の倫理観があって、主君が家来をかわいがらなければ、時には家来のほうから主君をやっつけるということもあった。7回主君を変えなければ家来としては役には立たないなどと言われていた、というようなことが書かれています。それが、江戸時代になってからは身分関係が固定され、「君、君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」というようなことになってきた、という辺り。私も正にそのとおりだと思います。

 ところが問題は2番目です。「近世武士道における批判精神の成長」とあって、「武士は主君に対して絶対の恭順を示すべきものとされた」、のだが、「次第にその中に批判精神が芽生えてきて、中世社会とは異なった意味において、この社会秩序においても倫理の面においても、個々の武士の自立性の契機が重要な意義を担うようになっていく。」ということで持ち出されてくるのが『葉隠』です。  

 そこでは「御無理の仰付」、「牢人・切腹被仰付候とも、少しも不奉恨(うらみたてまつらず)、一の御奉公と存、生々世々御家を奉歎心入、是御当家(佐賀藩鍋島家)の侍の本意、覚悟の初門にて候」と主君への絶対服従の精神を説くのですが、それはあくまでも「覚悟の初門」であって、「さて気に不叶事(かなわざること)はいつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」と論を発展させていく、と述べられています。「没我的な献身」の一方では、「悪しき主君に徹底的に抗していく諫争の精神との両面が存することに留意しなければならない」とおっしゃるのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。

 少なくとも山本常朝の述べていることがそんな主体性のある話だとは思えませんし、藤野保先生の大著『佐賀藩の総合研究』あたりを読んだだけでも、鍋島家とその親戚による佐賀藩上級武士の全面的独占は迅速で、常朝さんが家老になって諌言したい、とかいっても、無理な話。これは幕府自体もそうでした。

 しかるにK先生は、さらには「主君」よりも「御家」に対する忠誠ということになってくるのだ、ということで、「悪主・暴君を放置しておくことは『却って御家に対して不忠之儀』」というような論理がはじまるということで「押込」というのがあったと。

 でもこれは、それ以前から徐々に生まれてきた「家」観念が強まった、というだけのことではないでしょうか(石井紫郎先生の言われる「武士から武家へ」)。何しろ「お家」がちゃんとしていなければ自身の身が危うい。つまりは自己保身と言っては言い過ぎでしょうか(幕末、尊王か佐幕かで右往左往する多くの藩がそれ)。
そして遂には、山鹿素行は「西欧のJ・ロックやルソーの民約説にも近い議論を提示している」と述べられ、だから徳川社会においても「公共性理念とデモクラシーの発展」という深い問題が登場してくるというようなことを言われています。

これはどう考えても、素行や常朝らの言っていることのフレーズを切り取っただけの話としか思えませんし、無茶です。だったら、ロックやルソーのようにそのような自立的な武士によって日本の近代社会ができたのかといえば、全くそうではなかった。
 いつも言うように、また和辻哲郎先生の述べられる如く、あるいは東大の穂積八束が『法学協会雑誌』において述べる如く、「水府の史論」等によって明治維新はなった。つまり水戸黄門らの説く「武士道」ではない「士道」によってなった。政治的な巨大なエモーショナルなものは、こんな話ではなくて、いわゆる水戸学であったり神儒一致であったり、国学であったりからです。それは何回か前に書きましたとおり大隈重信も言っていることです。

 ですから、K先生のような取り上げ方はどうみても賛成できません。
この先生の論を読んでみて一つ思うのは、厳しく言えば一向に国際的な視点がないということです。日本の江戸時代における歴史の中に、アジア諸国の激動との関係が全く書かれていない(これは一般の「日本史」の本もそうです。台湾が「東アジア史」として歴史を教えるのと異なる)。

 私もロックが学んだロンドンのウエストミンスタースクールや、ジュネーブのルソーの生地、パリのあちこち、スイス・レマン湖、ビエンヌ湖まで行ってみましたが、彼らは常朝さんとは格が数桁違います。例えばルソーがヴァランス夫人と会って、若気の至りからまさに目が覚め、懸賞論文に応募して書いたのが、『人間不平等起源論』ですが、それは、アンシャンレジューム下における人間の富の差というものを始源に遡って追及したもので、その後の社会政策的な問題、共産主義との関係、更には、現代におけるシェアホルダーとステークホルダーとの関係をどうするかという現在にまで及ぶ根本的問題を提起しています。これに対して、山本常朝さんがそんなことを言っているかといったら、一向そんなことはありません。ましてやロックやルソーたちの考え方は、そうした根本的問題を提起することによってその後の社会変革に結びついているわけですが、山本常朝さんが社会変革をしたなどということはおよそ考えられません(「昔に戻れ」です)。

 かといって『葉隠』という本自体がお粗末なわけではない。むしろ、常朝さんの言説を含む全体をまとめた田代陣基という人がすごい。そのことは、かつて親しくおつきあいさせていただいた三好不二雄佐大名誉教授(元宮内庁書陵部から旧制佐高教授。古文書学の大権威。)もおっしゃっておられたことでした。

『葉隠』は井戸みたいなもので、そこから様々なものを汲み出さなければいけませんが、それにはこちらにも一定の「力」が必要なのです。例えばK先生の言われる「諌言」も、中国の台諌などアジアや世界の歴史を知ってこそ、その真意がわかります。

 私の法科大学院時代の教え子現在弁護士をしているT君は東大在学中に、『立花隆先生、かなりヘンですよ―「教養のない東大生」からの挑戦状』という本を宝島社から出版し、先ごろ亡くなった立花隆さんを批判していました。東大理一の彼からみると立花さんの理科系の話にはかなりヘンなところもあったのであって、その本にも一定の意味があります。私がここで述べるのも、K先生の議論に対し、一定の意味があるのではないでしょうか。
もうひとり、しっかりしてよと言いたいのが、近頃大書店に並んでいる「修身」の本の解説を書いているT大のY名誉教授。「初等科修身」。この中に何が載っているか。「農夫作兵衛」「白拍子静」「青砥藤綱」「鉄眼の一切経」などなど。これらの話は江戸時代において、室鳩巣が吉宗の命令で作った「六諭衍義大意」から引っ張ってきたもので、元は寺子屋の教科書です。

 しかも遡れば、「六諭衍義大意」は明の太祖・朱元璋が、「六諭」という「親孝行」とか「郷土と和睦せよ」とかの「おさとし」をした。そういう単純な話をふくらませて作った「衍義大意」であり、今般私が出版した本(「法律家ら読み解いた武士道と、憲法」)にもその写真が載せてあるとおり、要は中国由来のものです。

 そういった説明が本来この解説になければならないのに、逆に「戦後私たちは、勝者である米国に寄り、今まで見てきた先祖が築いてきた国柄や心を、強制的に失わされてしまいました」云々などと書いてあるだけで、「先祖が本当に築いてきた国柄や心」の話なのか、「中国の朱元璋の輸入品」ではないのか、という悩みが全くない。これまた私のような元祖民族派(?)には「いかがなものなりや」というわけです。
 
 そんなわけで、やはり、逆に昔の先生は偉かったと言わざるを得なくなります。和辻哲郎先生、貝塚茂樹先生…。
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お城・ヨーロッパから日本まで 
Saturday, September 18, 2021, 02:25 PM
続きです。東西のお城、ヨーロッパから日本までと、その中身を考えてみました。
 まず、「城」という字ですが、土に成るという字を書きます。この「土」は、前回、貝塚茂樹先生の本から話をしたオボの土です。つまり、中国の発想からは、城というものが正に政治の重要な仕組みだったのが、その組織法の一環としての土だということです。「成る」の方は、中にカというものが入っています。そのような趣旨で出来あがったものが城だということが、『説文解字』の述べるところです。とまあこの辺りは全くの文系の話ですが、城は何といっても実践のための道具です。その面から考えていくと、その歴史やその地域的な広がりは中々面白いものがあると思っています。

 例えば、日本では一番古い城というと吉野ケ里遺跡が挙げられるでしょう。更に、戦国時代までの城については、このように城そのものの特徴もありますが、その他、防御施設としての城は、佐賀城や埼玉県行田市の忍城のように水をもって征するという形になっていたことも面白いことです。

このように戦国時代までの個々の城は、このような徹底的な防御の仕組みだったのですが、ただ単に一つだけ城がポツンとあっただけではありません。特に、この点は後北条氏の場合は顕著であって、小田原を中心とした同心円状に城が存在すると言われます。例えば、多摩川沿いには八王子城、片倉城、平山城、枡形城、そして多分、溝の口あたりも城の一種でしょう。そして、更には夢見ヶ先城、最も東には権現山城(東神奈川)などがチェーンのようにつながります。もっと北では石神井城、豊島城、平塚城なども並んでいます。南では江田城、茅ケ崎城等並び、さらにその手前には、小机城などが並びます。このような連携した城のあり方が本来なのだということを忘れてはならないと思います。一国一城令以後の平野に毅立して立つような城は、本来の実践の城ではありません。それは仙台城などの中間的な城を見ていても分かります。

 なお、私の事務所の傍、衆参両院議長公邸からその奥の日比谷高校、そして日枝神社、赤坂の溜池へと連なりますし、舌状台地がありますが、これも日比谷高校と日枝神社の間には正に堀切があって、その昔、赤坂見附辺りは正に池というか海というかのような形になっていたこと。首相官邸の裏も多分そのような状況であったことを考えると、あるいは品川に向かう街道筋(甲斐坂通りですが)でもあったことを考えると、その街道を扼する城であった可能性が高いように思います。こうしたことは、江戸時代の江戸幕府が作った『新編武蔵風土紀行』という膨大な資料を見ると、本当に各町内に一個ずつくらい城があったことが見られ、その点でも城の連携性は明らかであろうと思われます。

 ところが江戸時代、つまり1590年の惣無事令以降、秀吉、徳川政権がいわゆる一国一城令を作りました。このことについても中国の発想は相当影響を及ぼしているように思いますが、どっちにしても我々が意図するように天守閣をもった政治のための城となりました。本来、天守閣は大砲の弾道計算をするのに極めて便利な代物であって、あんなものは全く実戦には役に立たないと言ってもよいのにです。

しかし、江戸時代になると、今度は同じ武士の中にそのような城が大嫌いな人が出てきました。その典型が浅見絅斎です。この人は、先生は山崎闇斎つまりコチコチの儒教主義の人です。私がしょっちゅう取り上げる水戸黄門、保科正之、特に保科正之と関係の深い山崎闇斎とつながっていました。この人達の尊王論から言うと、城というのは京都に天皇を押し込めている悪い奴らの本拠地だ、というわけで、お城の白壁を見るのも大嫌い、あの東夷め、というわけで、東の方を切りつけていたという有名な話もあります。そして、彼はそういった発想を中国から得ていましたので、靖国神社・遊就館の入口においてある『靖献遺言』は全て中国のお話しになります。ここにも明治維新というものの本質が見て取れるように思えるわけです。一方、幕末になると実戦の戦争があり得ましたから、例えば、五稜郭には天守閣などありません。
 このように城一つ見ても、様々な政治的あるいは歴史的バックを見てとれるのではないかと思います。

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「恋闕」の話 
Saturday, September 18, 2021, 02:13 PM
恋闕という言葉、例えば二・二六事件で逮捕され、証拠不十分で釈放された、かの青年将校らの同調者である黒崎貞明中尉が書かれた『恋闕』という本があります。その本を見れば、「日本を愛し、昭和天皇に恋した昭和青年の歌」という紹介がなされています。

つまりこの恋闕の意味は、天皇に対する一般的な忠以上の恋焦がれる気持ちを表しているのです。ですから、正に三島由紀夫などもこのような観点から二・二六事件をとらえたりしたというわけです。

しかして、この闕というものは一般的には宮殿の門をいうと言いますが、極めて大きな意味があるものなので、もう少し広い視点で物事を見ようよというわけです。それには貝塚茂樹先生の『中国の古代国家』という本辺りが非常に役に立つもので、先生は、中国の最も古い本である三礼の一つ『周礼』などから説き起こされています。即ち、この本の29頁の西周都市創設の儀礼というところに、亀甲で占った上で周公が土を掘って、かつ城門を作ったということが書いてあるわけです。
 「『都域 百雉に過ぐるは、国の害なり』(『左伝』隠公元年)とか、『邑に百雉の城なし』(『公羊伝』定公12年)とかいう箴言が行われていた。高さ2尺、長さ1丈の板5枚を積んでその間に土をつめて固めたのが堵である。3堵つまり幅3丈を1雉とする『左伝』『周礼』の古文説と、5塔つまり幅5丈を1雉とする『公羊伝』の今文説とが対立している。今ここでどちらをとるかは宿題として後に再びふれることとしたい。ともかく、百塔興つというように、板築の高さ1丈の城壁が完成したことを歌っているのである。
第7章は、『迺ち皋門を立つ、皋門伉きこと有り。迺ち応門将将なり。迺ち冢土を立つ、戒醜の行なく攸』という。城壁が出来上ると、次に城門である皋門と、宮門である応門とを建設する。そして冢土つまり土地の精霊である土神を祭る大社を建てるが、そこは大衆の参詣する場所なのである。この城門、宮門、大社の建設が第6段の仕事とされている。周の応門と大社は密接な関係があるように、周の応門に当る魯の雉門もまた社と切っても切れない関係がある。このことはさらに後にふれることにして、ここで問題として取り上げたいのは、雉門は、両観つまり両闕の台を左右にもち、茅闕門とも称されていることである。このような特殊な門の形式は、実は宮垣の築造にともなって生まれてくる門の原始的性格を表すものである。」

 そこで、さらに貝塚先生は、フランスの有名な歴史学者というか文化人類学者フュステル・ド・クーランジュの『古代都市』から、「ロムルスは都会の境界を制するため、白い牡牛と牝牛に銅製の犂を引かせ、自らその柄を握り、祈祷を唱えながら進んだ。犂の歯が土塊を掘り起こして外に飛びちるとそれを境界の内に投げ込んだ。神聖な土地は一塊も境界外、つまり他国側に落としてはならないからであった。この宗教により制定された境界線は不可侵であり、外国人はもとより、市民も越える権利がなく、この線を跳び越えることは不敬なしわざとされていた。だが都市に出入りすることができるように、門を作る必要があった。ロムルスは門の予定地点では、いちいち犂を抱き上げてこの神聖な線を中断させたのだそうである。

中国古代の門を闕と呼ぶのは、ロムルスのローマ市創建の儀典と同じように、この神聖な境界線が中断され欠けていることを意味しているのだとみるとぴったりするのではなかろうか。」と。

そうすると、闕というものは正にアジア大陸全体に全く同じような文化として存在するものではなかろうかというふうに思うのです。例えば、闕にそっくりなものとしては、ドイツのベルリンにあるベルガモン博物館には中東の城砦の門が正に現地から運んできて再建築されているのですが、それが闕にそっくりです。闕の具体的なものとしては、中国の北京においては午門がそれだと言われていますし、また儒教の本場である山東省においては、曲阜において巨大な闕そのものを舞台の両翼に大きな闕として宮殿の入口としている例もあります。ですから、本当に古いのはメソポタミアかもしれませんけれど、もう少しロムルスの神話である紀元前1000年くらいのところを見てみれば、ローマにしろメソポタミアにしろ中国にしろ、ほとんど同じようなものがあったのだということだろうと思います。

 そして問題は、その闕というものがそのような都城を表すということになってくると、これは社稷というものにもつながってきます。社稷というものは、例えば青年日本の歌などにもあるような、土地の神、穀物の神というような話になりまして、特に土地の神である社の方はこの闕につながってきます。そこで闕を画像で見てみると大きな門が2つあって、鳥が飛んでいるというものがたくさんあります。ということは、それは韓国で言うと将軍標(チャンスン)とテソというものにつながっていき、チャンスンとテソはいわばセットであって、韓国ではその2つは一緒。それが日本になるとどうなってくるかというと、中国においては闕の前には必ずと言ってよいほど華表(カヒョウ)があって、その華表は神社の鳥居とそっくりだという説があります。そうなってくると、日本の神社の中の特に伊勢神宮は、私のお友達の清瀬新次郎先生(有名な衆議院議長をした清瀬一郎さんの息子)に言わせると、伊勢の内宮は社稷壇であり、伊勢の外宮は祖霊殿であるという話でした。

そうすると、要は日本のそのような神様の文化とは、ユーラシア大陸西端までつながっているのではないかという私の考えなのです。私がこのように洋の東西がとつながっているというのは、もうありとあらゆることに言えるのであって、例えば佐賀のカササギというものが韓国だけではなくてロシアにもヨーロッパにもイギリスにまでいるというわけで、はるか昔からもっとも単純な天文航法でもそのような東西への移動は簡単であったことから、そういったことが言えるのではないかと思っています。

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大隈重信と葉隠 
Wednesday, May 12, 2021, 01:27 PM
 大隈重信は、『大隈伯昔日譚』24頁以下で、こんなことを言っています。

「わたしが始めて学問をした時の佐賀藩の学制はこのようなものであったが、更に窮屈な思いをしたのは、佐賀藩特有の国の定めとも云うべき一種の武士道が加えられたからであった。その一種の武士道と云うのは、今から凡そ二百年前に作られた。実に奇妙なもので、その武士道は一巻の書に綴られ、書名を「葉隠」と云った。その要点は、武士であるなら、佐賀藩のためには唯死を以て尽くせと云うにあった。いかに世界が広くとも、藩の所領が多くとも、佐賀藩より貴重なものは他にないように教えたものである。この奇妙な書は、佐賀藩士凡てが遵奉しなければならないもので、実に神聖にして侵す可からざる経典であった。巻を開くと「釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、曾て一度も鍋島家に奉公した事のない人々であるから崇敬するに足りない」旨を記した一章がある。これだけでもこの本の性質がわかるだろう。なお信玄を釈迦や孔子と一緒にしたのは、その当時信玄がどれだけ武人の間に尊敬されていたかが明らかである。
佐賀藩は実にこのような経典と朱子学とを調和して教育の主義とし、これを実行せしめるために、陰に陽に種々の制裁があって、一歩もその範囲の外に出ることが出来ないように努めた。この為、私学、私塾は賤められ、藩校と同列にあつかわれることなく、他に新奇な学説や意見を立てるものがあれば、凡て異端邪説とされて、ひどく排斥された。故に藩中の年少の子弟はみなこの厳格な制裁の下に束縛され、日夜真面目につとめ、ただ文武の課業を励む以外には、いささかも遊び廻るような余裕がなかった。」と。

 この大隈の言を聞いて、ショックを受ける方もいらっしゃるかもしれませんね。山本常朝の典型的な言葉・「死ぬことと見つけたり」について、私も長い間悩みました。そして、彼のバックにある禅つまり無我の表出とももちろん読めますが、「赤穂浪士」については、例えうまくいこうがいくまいが、すぐ押し入って切り死にするのが武士道だ、「上方衆はほめられの仕方は器用なれども」とまで言っているわけです。逆に「長崎喧嘩」については、やられた鍋島武士が、その晩の内に相手の高木屋敷に打ち入り、関係者はその夜の内に切腹や、遠島など様々な問題が発生したのに誉めています。常朝さんは、そのおじいさんのことを書いた中野神右衛門の年譜で、龍造寺隆信が島原で敗死したとき、側にいた鍋島直茂がそこで腹を切ろうとするのを神右衛門さんが必死に止めたと。そして、後の島津への復讐に結びつけたということを、きちんと書いているのにです。

 こうして戦国をへだたった宝永時代の常朝さんの言は、やはり観念論と言わざるを得ないでしょう。鍋島京子様(小城鍋島家のお姫様)もその辺りを「読めば読むほど嫌になる」と言われていましたが、本当にその通りだと思います。やはり、元禄、宝永の泰平無事な世の中になって、戦国時代から100年近くも過ぎてしまうと、相当感覚が変わってしまったということなのでしょう。なので、そうしたいわば観念論を突き付けられた大隈さんとしては随分苦しかったということではないかと思うのです。
 ですから、私としては、大隈の言は、相当に正しい意見ではなかろうかと思うのです。

 一方『葉隠』は、1人の手で出来上ったものでもないということです。いわゆる「孝白本」は全11巻あり、最初の2巻は山本常朝が喋った話だろうと思いますが、後ろの方はいろいろな資料です。お坊さんも40人くらい出て来て、「非知り」を説いた江南和尚など、正に偉い人です。常朝の談話は宝永7年(1710年)から始まるわけで、3巻目からあとの方は元亀、天正から江戸時代初期にかけての話が主であって、全く中身が違います。しかも常朝さんとしては、その後者の部分に憧れてもいるわけです。私もそうです。だから後者の方の8割に、特に深く考える「材料」があると思います。

 さて、そんな大隈の近世に対する認識、特に明治維新論は有意義なものです。
「(明治維新を起こした)その第一種に属するものは支那学(所謂儒学)で養成せれたものである。これは家康以来幕府のために、いのちをつないで来た教育を受けたもので、彼らは幕府のために奨められて、そのもとに職を得たものが多かったにもかかわらず、彼らが学んだところはみな、皇室を尚ぶこと、僭越は憎むべきこと、…口では幕府を称賛するが、その心のうちでは、幕府の役人が永年専横を重ねて今日にいたり、皇室を殆ど一個の偶像にしてしまったことを知らないものはなく、そうしてこれを知っているものは、秘かに悲憤慷慨をしないものがなかったのである。思い返せば、家康が民衆を服従さす一策として儒教を奨励したのであるが、二百数十年の後になっては、自分の子孫を殺す道具になったのである。……
 
 第二種の書生は国学派に属するものである。否、単に国学と云うよりも、むしろ漢学に導かれた国学(つまり「神儒一致」。筆者注)というのが適当であろう。即ち水戸藩が奨励したもので、あの『大日本史』のようなものはその結果として世に出るようになった。彼らはわが国体を明らかにし、臣民が守るべき節義を重んじなければならないと高言し、その派の人たちが大いに全国に広まることができたのである。……(ですからこれは、国学というより「水府の史論」。強いて言えば「神儒一致」)。

 第三種は神道派(これが今、教科書的に言う「国学」。)に属するものである。この神道派と国学者の間には多少の相違があった。平田篤胤のような人は、国学を世を治める術に応用したもので、当時の社会に改革の原動力をしみこませたことが少なくなかった。要するにこの種の書生は、神代からなる日本帝国の歴史を基礎とし、その神聖な天孫に対し、国家のためにつくす義務があると考えていたから、これもまたもともと幕府の味方となるものではなかったのであった(いわゆる「復古神道)。

 そうしてこの三種の書生は、凡そ互いにその目的のために一致した。彼らは強いて各々の学派の異同について争うことはせず、三方から声を同じうして尊王の大義を説き、人々をして国を愛することが自ら重しとする心を発揮させたのである。」と。

 つまり、一は萩生徂徠が『政談』の中で、家康の文教好きが、いつか幕府を滅ぼすのではないかと心配していたとおりになった話。そして、二は『大日本史』の「水府の史論」(これが和辻哲郎、相良享、そして私の言う「士道」です)、三は、私の言う復古神道というわけです。
少しずれているかもしれませんが、概ね当っているでしょう。

 そして、大隈は、「こうした時に、丁度外交上の問題が起こり、これが改革の炎に油をそそぎ、彼らの心は一層気焔をあげて燃え立ち、尊王の問題に攘夷の旗を立てたのである。」と述べます。

 そんな大隈らがどんな政体を考えていたのか。それは、英国流であると言われますが、私は、取りまとめていえばジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルらの主張する功利主義(最大多数の最大幸福)に親和的なものだと思っています。現に、明治初年から10年位までにかけては、このベンサムやミルらの書いたもの『自由論』や『功利主義論』などの本がたくさん翻訳されました。そして、このことについては大隈のブレーンといわれる小野梓(土佐)らが非常に大きな役割を果たしたようです(関嘉彦『ベンサムとミルの社会思想』)。

 大隈らが明治15年(1882年)3月14日に作った「立憲改進党趣意書」は、正に「最大多数の最大幸福」をうたったものではないでしょうか。
 「来れ我兄弟、来て我政党を結び、我臣民たるの職分を尽せよ。
幸福は人類の得んことを期する所なり。然れども少数専有の幸福は我党これに与せず。蓋し此の如きの幸福は所謂る利己のものにして、我党の冀望する王室の尊栄と人民の幸福とに反すればなり。……
是を以て若し一二私党の我帝国を専らにし、王室の尊栄と人民の幸福を蔑にし、目前の荀安を愉み、遠永の禍害を顧みざるものあらば、我党は此を目して以て公敵と為さんとす。」と。

 この考えは、現在テレビで放映されている渋沢栄一の考えにもつながっていきます(渋沢栄一を官に就かせたのは大隈重信。このあたりも、どこかに書いてあるかもしれませんが)。

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鈴木正三と葉隠 
Saturday, April 17, 2021, 11:53 AM
 この博物館にある鈴木正三がいかに葉隠武士道にかかわったか、これは重要テーマです。

 中世の九州は、いつも書くとおり、800年前に源頼朝によってアサインされた少弐(武藤)、大友、島津という関東からの三家が、三分割してそこを治めたというのが基本です。もちろん弱小の御家人たちもいましたが。その体制が中世末期においては、徐々に崩れてきました。
特に少弐氏(武藤氏)が、中国地方の大内氏から博多の利権を蚕食され、大友氏が少弐氏を応援するという姿があったのですが、少弐氏が、結局は最後の当主といわれる少弐冬尚において、1559年、神埼の勢福寺城で自殺に追い込まれて、その最後の本拠つまり佐賀が龍造寺氏に取って代わられるということになります。

 一方、南では島津によって圧迫された蝕肥の伊東氏が、大友の援助を頼み、それに応じた大友宗麟が、1578年耳川の戦いにおいて島津に破れてしまったということで、ここに大友氏も急速に勢力を失っていきます。

 しかして一方で登場するのがキリスト教という勢力です。1582年大友、大村、有馬の三家は、いわゆる天正遣欧少年使節を遠くローマまで送ったり、それと前後して大村氏が長崎、茂木をイエズス会に寄進するというようなこともありました。しかし、1586年〜87年にかけての秀吉の九州平定により、長崎は再びイエズス会から取り上げられ、その後はキリスト教への弾圧が始まります。
 
 特に1615年前後の弾圧は激しいもので、ここにすべてのキリスト教徒は抹殺されたかのように思われたようですが、1637年、天草・島原の乱がおきました。実は相当な数のクリスチャンがまだまだ残っていたというわけです。

 そのような中で、鈴木正三という人は、1579年という織田信長の時代、三河の国に生を受けた旗本の長男であり、関ヶ原や大阪の陣などなどにも従軍した武士です。しかし、相当早い段階から仏教に目覚めて、家は弟・鈴木重成に譲り、いろいろなところで修行をしました。そして天草・島原の乱が終わった後、いわゆる「排耶僧」として天草に約3年間滞在し、あちこちに寺を作りました。なので彼は、その地域に近い、佐賀や『葉隠』にもしっかり取り上げられているというわけなのです。

 例えば『葉隠』には、「正三は、鈴木九太夫と申したる御旗本にて候。委細は驢鞍橋に見え候。要門和尚随仕の内、髪を剃り申し候處、『剃毛を火鉢にくべて見候へ。もはや臭気はあるまじ。』と申され候に付て、剃刀に付き候毛を、火にくべ候へども、何の香も仕らず候。その時、正三申され候は、『匂はなき筈なり。我覚え有り。修行は斯くのごとく仕届けねば成らず。』と申され候由。要門和尚直の話しなり。(『葉隠 聞書第十』)」、とか、「岩村内蔵助最期の事 内蔵助は三極流の軍術を伝え、正三の仏法をも直授せられたる由に候。病気もこれ無く、庭を廻られ候へば、気色悪しく成り候故、座に入り、打臥し申され候に付、内方驚き、いだき起され候へば、眼をくわっと見開き歯噛をなし、正三風の発起を出し、其の儘臨終の由なり。正三弟子に、是程に修したる人は有るべからず。大事の所なり。(『葉隠 聞書第七』)」などと、出てきます。前者の話は、少し科学的にどうか…的なところがあり、そこも『葉隠』全体の傾向につながる気がします(『葉隠』の成立した1716年〔享保元年〕は、世界の動きから見て、相当に科学が発達しているはずですが、「首を落とされても一働き」のような話は、私としては「ちょっとね」です)。

 逆に言えば、「武士道書」といわれる『葉隠』の真の意味や意義は、こうしたバックグラウンドに連なる人や事象を見なければわかりませんし、面白くもありません。
いずれにせよ、いろいろな勢力がこのあたりに乱の後入ってきて、例えば島原と言えば「島原(しまばる)そうめん」が有名ですが、あれも小豆島から来たのだそうで、鈴木正三は「排耶書」といわれる『破切支丹』を書き、善政を施した弟とともに、その地域のマインドの切替を図ったわけです。ちなみに弟は、幕府に対して、税金を安くしてほしいという直訴を行い、その願いが届けられなかったため自刃したとも言われ、あるいは病死したとも言われるとにかく名代官でありました。

 そのような鈴木正三、一体何を考えていた人なのかというと、具体的なものとしては、早い時期のものとして、『二人比丘尼』という浮世草紙が有名で、上田秋成の『雨月物語』の先駆のようなよい作品ですが、「排耶書」としての上記『破切支丹』はちょっと奇妙なものです。一方『萬民徳用』という本は、「士農工商」それぞれが徹底的に元気に生きる生き方を述べているような本で、これも面白い。
 ただ、彼の世代はまだまだ戦国時代に生きていたはずなのですが、その成育環境の中に既に「身分」というものが相当に芽生えて(?)いたのでしょうか。もっとも、江戸中期以降とは相当違うようで、山本七平さんは、このような職業倫理を考える人として、鈴木正三と石田梅岩の二人を挙げているところ、ちょうど元禄時代辺りを境にして、前は正三。その後に出てきた代表者は石田梅岩としています。確かに、2人は「代表」であり、かつその中身は、梅岩のように、完全に封建制度が確立した、身分制社会の人のそれと、鈴木正三のような、まさに最末期とはいえ、中世の息吹の残っている人との間には、前者に、よりマイルドなものがあるということかもしれません(私はその昔の佐賀時代、裁判所の部内誌に『葉隠と石門心学』を書きましたが)。

 いずれにせよ、正三の書には、『葉隠』と共通の太田道灌の歌もでてきたりで、『葉隠』に百年近く先立つ正三が、武士道書・『葉隠』に相当な影響を与えたとみられることを深く探究してみれば、『葉隠』を、あるいは「武士道」を、もっと広く、深く考えることができるでしょう。

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