★ 本が出ました。ブログ再開 
Saturday, September 18, 2021, 03:27 PM
 私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』(元就出版社、税込1980円)は、ようやく世に出ました。

 この博物館にあるとおり、「武士道」は一つではありません。多くの人がイメージするそれは、近世の中国的儒教主義に裏打ちされたものです。つまり、日本古来のものではない。

 その昔、東大名誉教授の相良亨先生が言われたとおり、以上中国的儒教主義の武士道・士道に対して、葉隠武士道は、バックを禅によっています。
 こうした違いは国際関係を見なければわからず、新渡戸「武士道」や三島の「葉隠入門」では全く片手落ちで、本来の日本の武士の生き方が無視されています。これでは我々の「ご先祖様」が浮かばれません。

 なので、国際的に、また時代の変化に応じで、実証的に、武士の生き方それぞれの論理を追ってみました。熱を入れて書いたので余計な時間がかかってしまいましたが、中身は「一応」確かで、写真という証拠もそれなりに載せましたので、よろしければ是非、書店かネットのアマゾン、楽天、紀伊国屋etc.へ。
 
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これをきっかけとして、再び日々のブログを再開します。

手始めに、最近の事件ではアフガンの情勢が憂慮されます。上記の本の末尾にも、ちょうど古代世界は中国、パルチアつまりペルシャ、ローマという3区分でできていた話、それは今日も変わらない、という話を書きました。そして、パルチアにおける女性の地位のことを書いて、出版したとたんに起きたのがカブール陥落とその後の情勢です。

アメリカは、そのブッシュ政権において、昭和の日本の為政者と同様、ここの文化人類学がわかっていなかった。

話は長くなるので、今日はここまでとし、是非本をお読みください。友人のイラン、アフガンの人たちとのディスカッションによって得た感想も含んでいます。


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葉隠の「太閤道」の話 
Saturday, September 18, 2021, 03:05 PM
 前回は、研究者の方にちょっと苦言?を呈したものだったので、今回はほのぼの(?)と、『葉隠』の中にある豊臣秀吉が通った道の話、つまり「太閤道伝説」をテーマにしてみました。

 ちなみに、『葉隠』という本は、単なる教訓話の本ではありませんし、もとより山本常朝さんの話だけでもありません。お坊さんは常朝さんだけではなく40人近く出てくるわけで、常朝さんが述べているところだけを取り上げて、三島何とかさんのように「『葉隠』では…」とよく本に書いてあったり言ったりするのは、時には危険でもあるわけです。それ以外の様々な歴史的な記事があり、あるいは思考・行動において参考になる事象が盛られている本であるという所を評価する、というのが良いかと思っています。
 前回の三好先生の見解もそれです。

 そこで、そんな目で『葉隠』を見ると、「聞書六」に、「太閤様名古(護)屋御在陣の処に、御母堂様御病気にて御上り、又御下向の時は佐嘉上道御通りなられ候」と書いてあります。

 これは、秀吉が1592年、肥前名護屋に陣を置きますが、3か月程して、母大政所の病気の報を聞き、上京した、という話です。現在の佐賀市の北、金立山の南にいわば旧道としてある、現在の県道、そこを通ったのだろうと思います。名護屋城から唐津を通って、そして小城市を通り、佐賀市の北・高木瀬町、神埼市を通って東の福岡県に行くというルートです。そこには現在、「名護屋橋」があって、その昔、秀吉がそこを通ったということの痕跡があります。

 更に『葉隠』では、「その節見物仕り候者の咄に、太閤様は小男にて、眼大に朱をさしたるがごとく、顔の色、手足まで赤く、花やかなる衣裳にて、足半(あしなか)をはかれ、朱鞘、金ののし付の大小をさし、刀のさやにも足半一足結付、馬上の御旅行にて云々」と情景が活写されています。足半は、田んぼなどに入る時、ペタペタしないように足の前半分だけになっている草履です。戦争でも用いられたようです。

 また、『葉隠』によると、名護屋橋に差し掛かった秀吉に対し、このとき竜造寺隆信の母慶闇尼が歓待したという話がのっています。慶闇尼は近隣の家から戸板を集め、竹四本を立てた上にのせて、堅く握った飯を土器に盛りならべて尼寺(にいじ・地名。昔、国分尼寺があったところ)の道路端に出し置かせた。秀吉はこれを見て「これは竜造寺後家が働きなるべし。食物なき道筋にて上下ともに難儀のところ、心付候事奇どく(奇特)也」と言って握り飯を手に取り「武篇(辺)の家は女までかように心働き候。この堅き握りようを見よ」とほめたということです。
 
 これについて、『肥前陶磁史考』を書かれた中島浩気さんは、握り飯を乗せた土器は肥前の近世の焼き物としては相当古いものに当る1つのエピソードであるということを言われています。
 
 話によると秀吉は、そのあと上京のため門司から大阪へ船で帰ろうとしたところ、関門海峡の篠瀬というところで船が座礁してしまい、海の中にドボンと落っこちたと。それに対して船頭(といっても実は武士)で、その隊長でもあった明石与次兵衛という人が、「毛利方が北側の浜で反乱気味(?)なのでこちらを通りました」と言ったのを多分言いわけと解したのか、かんかんに怒って切腹を命じたそうです。
 この辺りはどうもやはり秀吉という人と家康や鍋島直茂とは若干違いがある、要は武士から公家に変ろうとしていた人の行動パターンのような気がしますがもちろんはっきりとは分かりません。その事故現場には、岩の上に「与次兵衛ヶ碑」という石塔が建っていましたが、これも何回か海の中に落ち、現在は門司区の「めかり公園」にあるとか。

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学者の先生にちょっと問題提起 
Saturday, September 18, 2021, 02:51 PM
「江戸時代の武士はルソーらと同様の近代的思考を持っていた…とかいう『説』について一言。

 ネットで見るとすぐわかるのですが、『武士道と徳川社会の近代化』という記事や本を書かれたK先生。この方は「主君押込」というフレーズで非常に有名なのですが、何かおかしなところがあると思わざるを得ないのです。

 それはK先生だけでなく、特に近頃の歴史系のとりわけTVなどに出ておられる先生方のおっしゃることには、どうも首をかしげたくなるような点が散見されるので、ど素人ながら、ちょっと苦言(?)を呈してみます。

 もっとも、途中まではよいのです。
上記記事1頁目の「戦国武士から近世武士へ」のところでは、中世社会においては、いわば私が言っている「御恩と奉公」的な武士の倫理観があって、主君が家来をかわいがらなければ、時には家来のほうから主君をやっつけるということもあった。7回主君を変えなければ家来としては役には立たないなどと言われていた、というようなことが書かれています。それが、江戸時代になってからは身分関係が固定され、「君、君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」というようなことになってきた、という辺り。私も正にそのとおりだと思います。

 ところが問題は2番目です。「近世武士道における批判精神の成長」とあって、「武士は主君に対して絶対の恭順を示すべきものとされた」、のだが、「次第にその中に批判精神が芽生えてきて、中世社会とは異なった意味において、この社会秩序においても倫理の面においても、個々の武士の自立性の契機が重要な意義を担うようになっていく。」ということで持ち出されてくるのが『葉隠』です。  

 そこでは「御無理の仰付」、「牢人・切腹被仰付候とも、少しも不奉恨(うらみたてまつらず)、一の御奉公と存、生々世々御家を奉歎心入、是御当家(佐賀藩鍋島家)の侍の本意、覚悟の初門にて候」と主君への絶対服従の精神を説くのですが、それはあくまでも「覚悟の初門」であって、「さて気に不叶事(かなわざること)はいつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」と論を発展させていく、と述べられています。「没我的な献身」の一方では、「悪しき主君に徹底的に抗していく諫争の精神との両面が存することに留意しなければならない」とおっしゃるのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。

 少なくとも山本常朝の述べていることがそんな主体性のある話だとは思えませんし、藤野保先生の大著『佐賀藩の総合研究』あたりを読んだだけでも、鍋島家とその親戚による佐賀藩上級武士の全面的独占は迅速で、常朝さんが家老になって諌言したい、とかいっても、無理な話。これは幕府自体もそうでした。

 しかるにK先生は、さらには「主君」よりも「御家」に対する忠誠ということになってくるのだ、ということで、「悪主・暴君を放置しておくことは『却って御家に対して不忠之儀』」というような論理がはじまるということで「押込」というのがあったと。

 でもこれは、それ以前から徐々に生まれてきた「家」観念が強まった、というだけのことではないでしょうか(石井紫郎先生の言われる「武士から武家へ」)。何しろ「お家」がちゃんとしていなければ自身の身が危うい。つまりは自己保身と言っては言い過ぎでしょうか(幕末、尊王か佐幕かで右往左往する多くの藩がそれ)。
そして遂には、山鹿素行は「西欧のJ・ロックやルソーの民約説にも近い議論を提示している」と述べられ、だから徳川社会においても「公共性理念とデモクラシーの発展」という深い問題が登場してくるというようなことを言われています。

これはどう考えても、素行や常朝らの言っていることのフレーズを切り取っただけの話としか思えませんし、無茶です。だったら、ロックやルソーのようにそのような自立的な武士によって日本の近代社会ができたのかといえば、全くそうではなかった。
 いつも言うように、また和辻哲郎先生の述べられる如く、あるいは東大の穂積八束が『法学協会雑誌』において述べる如く、「水府の史論」等によって明治維新はなった。つまり水戸黄門らの説く「武士道」ではない「士道」によってなった。政治的な巨大なエモーショナルなものは、こんな話ではなくて、いわゆる水戸学であったり神儒一致であったり、国学であったりからです。それは何回か前に書きましたとおり大隈重信も言っていることです。

 ですから、K先生のような取り上げ方はどうみても賛成できません。
この先生の論を読んでみて一つ思うのは、厳しく言えば一向に国際的な視点がないということです。日本の江戸時代における歴史の中に、アジア諸国の激動との関係が全く書かれていない(これは一般の「日本史」の本もそうです。台湾が「東アジア史」として歴史を教えるのと異なる)。

 私もロックが学んだロンドンのウエストミンスタースクールや、ジュネーブのルソーの生地、パリのあちこち、スイス・レマン湖、ビエンヌ湖まで行ってみましたが、彼らは常朝さんとは格が数桁違います。例えばルソーがヴァランス夫人と会って、若気の至りからまさに目が覚め、懸賞論文に応募して書いたのが、『人間不平等起源論』ですが、それは、アンシャンレジューム下における人間の富の差というものを始源に遡って追及したもので、その後の社会政策的な問題、共産主義との関係、更には、現代におけるシェアホルダーとステークホルダーとの関係をどうするかという現在にまで及ぶ根本的問題を提起しています。これに対して、山本常朝さんがそんなことを言っているかといったら、一向そんなことはありません。ましてやロックやルソーたちの考え方は、そうした根本的問題を提起することによってその後の社会変革に結びついているわけですが、山本常朝さんが社会変革をしたなどということはおよそ考えられません(「昔に戻れ」です)。

 かといって『葉隠』という本自体がお粗末なわけではない。むしろ、常朝さんの言説を含む全体をまとめた田代陣基という人がすごい。そのことは、かつて親しくおつきあいさせていただいた三好不二雄佐大名誉教授(元宮内庁書陵部から旧制佐高教授。古文書学の大権威。)もおっしゃっておられたことでした。

『葉隠』は井戸みたいなもので、そこから様々なものを汲み出さなければいけませんが、それにはこちらにも一定の「力」が必要なのです。例えばK先生の言われる「諌言」も、中国の台諌などアジアや世界の歴史を知ってこそ、その真意がわかります。

 私の法科大学院時代の教え子現在弁護士をしているT君は東大在学中に、『立花隆先生、かなりヘンですよ―「教養のない東大生」からの挑戦状』という本を宝島社から出版し、先ごろ亡くなった立花隆さんを批判していました。東大理一の彼からみると立花さんの理科系の話にはかなりヘンなところもあったのであって、その本にも一定の意味があります。私がここで述べるのも、K先生の議論に対し、一定の意味があるのではないでしょうか。
もうひとり、しっかりしてよと言いたいのが、近頃大書店に並んでいる「修身」の本の解説を書いているT大のY名誉教授。「初等科修身」。この中に何が載っているか。「農夫作兵衛」「白拍子静」「青砥藤綱」「鉄眼の一切経」などなど。これらの話は江戸時代において、室鳩巣が吉宗の命令で作った「六諭衍義大意」から引っ張ってきたもので、元は寺子屋の教科書です。

 しかも遡れば、「六諭衍義大意」は明の太祖・朱元璋が、「六諭」という「親孝行」とか「郷土と和睦せよ」とかの「おさとし」をした。そういう単純な話をふくらませて作った「衍義大意」であり、今般私が出版した本(「法律家ら読み解いた武士道と、憲法」)にもその写真が載せてあるとおり、要は中国由来のものです。

 そういった説明が本来この解説になければならないのに、逆に「戦後私たちは、勝者である米国に寄り、今まで見てきた先祖が築いてきた国柄や心を、強制的に失わされてしまいました」云々などと書いてあるだけで、「先祖が本当に築いてきた国柄や心」の話なのか、「中国の朱元璋の輸入品」ではないのか、という悩みが全くない。これまた私のような元祖民族派(?)には「いかがなものなりや」というわけです。
 
 そんなわけで、やはり、逆に昔の先生は偉かったと言わざるを得なくなります。和辻哲郎先生、貝塚茂樹先生…。
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お城・ヨーロッパから日本まで 
Saturday, September 18, 2021, 02:25 PM
続きです。東西のお城、ヨーロッパから日本までと、その中身を考えてみました。
 まず、「城」という字ですが、土に成るという字を書きます。この「土」は、前回、貝塚茂樹先生の本から話をしたオボの土です。つまり、中国の発想からは、城というものが正に政治の重要な仕組みだったのが、その組織法の一環としての土だということです。「成る」の方は、中にカというものが入っています。そのような趣旨で出来あがったものが城だということが、『説文解字』の述べるところです。とまあこの辺りは全くの文系の話ですが、城は何といっても実践のための道具です。その面から考えていくと、その歴史やその地域的な広がりは中々面白いものがあると思っています。

 例えば、日本では一番古い城というと吉野ケ里遺跡が挙げられるでしょう。更に、戦国時代までの城については、このように城そのものの特徴もありますが、その他、防御施設としての城は、佐賀城や埼玉県行田市の忍城のように水をもって征するという形になっていたことも面白いことです。

このように戦国時代までの個々の城は、このような徹底的な防御の仕組みだったのですが、ただ単に一つだけ城がポツンとあっただけではありません。特に、この点は後北条氏の場合は顕著であって、小田原を中心とした同心円状に城が存在すると言われます。例えば、多摩川沿いには八王子城、片倉城、平山城、枡形城、そして多分、溝の口あたりも城の一種でしょう。そして、更には夢見ヶ先城、最も東には権現山城(東神奈川)などがチェーンのようにつながります。もっと北では石神井城、豊島城、平塚城なども並んでいます。南では江田城、茅ケ崎城等並び、さらにその手前には、小机城などが並びます。このような連携した城のあり方が本来なのだということを忘れてはならないと思います。一国一城令以後の平野に毅立して立つような城は、本来の実践の城ではありません。それは仙台城などの中間的な城を見ていても分かります。

 なお、私の事務所の傍、衆参両院議長公邸からその奥の日比谷高校、そして日枝神社、赤坂の溜池へと連なりますし、舌状台地がありますが、これも日比谷高校と日枝神社の間には正に堀切があって、その昔、赤坂見附辺りは正に池というか海というかのような形になっていたこと。首相官邸の裏も多分そのような状況であったことを考えると、あるいは品川に向かう街道筋(甲斐坂通りですが)でもあったことを考えると、その街道を扼する城であった可能性が高いように思います。こうしたことは、江戸時代の江戸幕府が作った『新編武蔵風土紀行』という膨大な資料を見ると、本当に各町内に一個ずつくらい城があったことが見られ、その点でも城の連携性は明らかであろうと思われます。

 ところが江戸時代、つまり1590年の惣無事令以降、秀吉、徳川政権がいわゆる一国一城令を作りました。このことについても中国の発想は相当影響を及ぼしているように思いますが、どっちにしても我々が意図するように天守閣をもった政治のための城となりました。本来、天守閣は大砲の弾道計算をするのに極めて便利な代物であって、あんなものは全く実戦には役に立たないと言ってもよいのにです。

しかし、江戸時代になると、今度は同じ武士の中にそのような城が大嫌いな人が出てきました。その典型が浅見絅斎です。この人は、先生は山崎闇斎つまりコチコチの儒教主義の人です。私がしょっちゅう取り上げる水戸黄門、保科正之、特に保科正之と関係の深い山崎闇斎とつながっていました。この人達の尊王論から言うと、城というのは京都に天皇を押し込めている悪い奴らの本拠地だ、というわけで、お城の白壁を見るのも大嫌い、あの東夷め、というわけで、東の方を切りつけていたという有名な話もあります。そして、彼はそういった発想を中国から得ていましたので、靖国神社・遊就館の入口においてある『靖献遺言』は全て中国のお話しになります。ここにも明治維新というものの本質が見て取れるように思えるわけです。一方、幕末になると実戦の戦争があり得ましたから、例えば、五稜郭には天守閣などありません。
 このように城一つ見ても、様々な政治的あるいは歴史的バックを見てとれるのではないかと思います。

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「恋闕」の話 
Saturday, September 18, 2021, 02:13 PM
恋闕という言葉、例えば二・二六事件で逮捕され、証拠不十分で釈放された、かの青年将校らの同調者である黒崎貞明中尉が書かれた『恋闕』という本があります。その本を見れば、「日本を愛し、昭和天皇に恋した昭和青年の歌」という紹介がなされています。

つまりこの恋闕の意味は、天皇に対する一般的な忠以上の恋焦がれる気持ちを表しているのです。ですから、正に三島由紀夫などもこのような観点から二・二六事件をとらえたりしたというわけです。

しかして、この闕というものは一般的には宮殿の門をいうと言いますが、極めて大きな意味があるものなので、もう少し広い視点で物事を見ようよというわけです。それには貝塚茂樹先生の『中国の古代国家』という本辺りが非常に役に立つもので、先生は、中国の最も古い本である三礼の一つ『周礼』などから説き起こされています。即ち、この本の29頁の西周都市創設の儀礼というところに、亀甲で占った上で周公が土を掘って、かつ城門を作ったということが書いてあるわけです。
 「『都域 百雉に過ぐるは、国の害なり』(『左伝』隠公元年)とか、『邑に百雉の城なし』(『公羊伝』定公12年)とかいう箴言が行われていた。高さ2尺、長さ1丈の板5枚を積んでその間に土をつめて固めたのが堵である。3堵つまり幅3丈を1雉とする『左伝』『周礼』の古文説と、5塔つまり幅5丈を1雉とする『公羊伝』の今文説とが対立している。今ここでどちらをとるかは宿題として後に再びふれることとしたい。ともかく、百塔興つというように、板築の高さ1丈の城壁が完成したことを歌っているのである。
第7章は、『迺ち皋門を立つ、皋門伉きこと有り。迺ち応門将将なり。迺ち冢土を立つ、戒醜の行なく攸』という。城壁が出来上ると、次に城門である皋門と、宮門である応門とを建設する。そして冢土つまり土地の精霊である土神を祭る大社を建てるが、そこは大衆の参詣する場所なのである。この城門、宮門、大社の建設が第6段の仕事とされている。周の応門と大社は密接な関係があるように、周の応門に当る魯の雉門もまた社と切っても切れない関係がある。このことはさらに後にふれることにして、ここで問題として取り上げたいのは、雉門は、両観つまり両闕の台を左右にもち、茅闕門とも称されていることである。このような特殊な門の形式は、実は宮垣の築造にともなって生まれてくる門の原始的性格を表すものである。」

 そこで、さらに貝塚先生は、フランスの有名な歴史学者というか文化人類学者フュステル・ド・クーランジュの『古代都市』から、「ロムルスは都会の境界を制するため、白い牡牛と牝牛に銅製の犂を引かせ、自らその柄を握り、祈祷を唱えながら進んだ。犂の歯が土塊を掘り起こして外に飛びちるとそれを境界の内に投げ込んだ。神聖な土地は一塊も境界外、つまり他国側に落としてはならないからであった。この宗教により制定された境界線は不可侵であり、外国人はもとより、市民も越える権利がなく、この線を跳び越えることは不敬なしわざとされていた。だが都市に出入りすることができるように、門を作る必要があった。ロムルスは門の予定地点では、いちいち犂を抱き上げてこの神聖な線を中断させたのだそうである。

中国古代の門を闕と呼ぶのは、ロムルスのローマ市創建の儀典と同じように、この神聖な境界線が中断され欠けていることを意味しているのだとみるとぴったりするのではなかろうか。」と。

そうすると、闕というものは正にアジア大陸全体に全く同じような文化として存在するものではなかろうかというふうに思うのです。例えば、闕にそっくりなものとしては、ドイツのベルリンにあるベルガモン博物館には中東の城砦の門が正に現地から運んできて再建築されているのですが、それが闕にそっくりです。闕の具体的なものとしては、中国の北京においては午門がそれだと言われていますし、また儒教の本場である山東省においては、曲阜において巨大な闕そのものを舞台の両翼に大きな闕として宮殿の入口としている例もあります。ですから、本当に古いのはメソポタミアかもしれませんけれど、もう少しロムルスの神話である紀元前1000年くらいのところを見てみれば、ローマにしろメソポタミアにしろ中国にしろ、ほとんど同じようなものがあったのだということだろうと思います。

 そして問題は、その闕というものがそのような都城を表すということになってくると、これは社稷というものにもつながってきます。社稷というものは、例えば青年日本の歌などにもあるような、土地の神、穀物の神というような話になりまして、特に土地の神である社の方はこの闕につながってきます。そこで闕を画像で見てみると大きな門が2つあって、鳥が飛んでいるというものがたくさんあります。ということは、それは韓国で言うと将軍標(チャンスン)とテソというものにつながっていき、チャンスンとテソはいわばセットであって、韓国ではその2つは一緒。それが日本になるとどうなってくるかというと、中国においては闕の前には必ずと言ってよいほど華表(カヒョウ)があって、その華表は神社の鳥居とそっくりだという説があります。そうなってくると、日本の神社の中の特に伊勢神宮は、私のお友達の清瀬新次郎先生(有名な衆議院議長をした清瀬一郎さんの息子)に言わせると、伊勢の内宮は社稷壇であり、伊勢の外宮は祖霊殿であるという話でした。

そうすると、要は日本のそのような神様の文化とは、ユーラシア大陸西端までつながっているのではないかという私の考えなのです。私がこのように洋の東西がとつながっているというのは、もうありとあらゆることに言えるのであって、例えば佐賀のカササギというものが韓国だけではなくてロシアにもヨーロッパにもイギリスにまでいるというわけで、はるか昔からもっとも単純な天文航法でもそのような東西への移動は簡単であったことから、そういったことが言えるのではないかと思っています。

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大隈重信と葉隠 
Wednesday, May 12, 2021, 01:27 PM
 大隈重信は、『大隈伯昔日譚』24頁以下で、こんなことを言っています。

「わたしが始めて学問をした時の佐賀藩の学制はこのようなものであったが、更に窮屈な思いをしたのは、佐賀藩特有の国の定めとも云うべき一種の武士道が加えられたからであった。その一種の武士道と云うのは、今から凡そ二百年前に作られた。実に奇妙なもので、その武士道は一巻の書に綴られ、書名を「葉隠」と云った。その要点は、武士であるなら、佐賀藩のためには唯死を以て尽くせと云うにあった。いかに世界が広くとも、藩の所領が多くとも、佐賀藩より貴重なものは他にないように教えたものである。この奇妙な書は、佐賀藩士凡てが遵奉しなければならないもので、実に神聖にして侵す可からざる経典であった。巻を開くと「釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、曾て一度も鍋島家に奉公した事のない人々であるから崇敬するに足りない」旨を記した一章がある。これだけでもこの本の性質がわかるだろう。なお信玄を釈迦や孔子と一緒にしたのは、その当時信玄がどれだけ武人の間に尊敬されていたかが明らかである。
佐賀藩は実にこのような経典と朱子学とを調和して教育の主義とし、これを実行せしめるために、陰に陽に種々の制裁があって、一歩もその範囲の外に出ることが出来ないように努めた。この為、私学、私塾は賤められ、藩校と同列にあつかわれることなく、他に新奇な学説や意見を立てるものがあれば、凡て異端邪説とされて、ひどく排斥された。故に藩中の年少の子弟はみなこの厳格な制裁の下に束縛され、日夜真面目につとめ、ただ文武の課業を励む以外には、いささかも遊び廻るような余裕がなかった。」と。

 この大隈の言を聞いて、ショックを受ける方もいらっしゃるかもしれませんね。山本常朝の典型的な言葉・「死ぬことと見つけたり」について、私も長い間悩みました。そして、彼のバックにある禅つまり無我の表出とももちろん読めますが、「赤穂浪士」については、例えうまくいこうがいくまいが、すぐ押し入って切り死にするのが武士道だ、「上方衆はほめられの仕方は器用なれども」とまで言っているわけです。逆に「長崎喧嘩」については、やられた鍋島武士が、その晩の内に相手の高木屋敷に打ち入り、関係者はその夜の内に切腹や、遠島など様々な問題が発生したのに誉めています。常朝さんは、そのおじいさんのことを書いた中野神右衛門の年譜で、龍造寺隆信が島原で敗死したとき、側にいた鍋島直茂がそこで腹を切ろうとするのを神右衛門さんが必死に止めたと。そして、後の島津への復讐に結びつけたということを、きちんと書いているのにです。

 こうして戦国をへだたった宝永時代の常朝さんの言は、やはり観念論と言わざるを得ないでしょう。鍋島京子様(小城鍋島家のお姫様)もその辺りを「読めば読むほど嫌になる」と言われていましたが、本当にその通りだと思います。やはり、元禄、宝永の泰平無事な世の中になって、戦国時代から100年近くも過ぎてしまうと、相当感覚が変わってしまったということなのでしょう。なので、そうしたいわば観念論を突き付けられた大隈さんとしては随分苦しかったということではないかと思うのです。
 ですから、私としては、大隈の言は、相当に正しい意見ではなかろうかと思うのです。

 一方『葉隠』は、1人の手で出来上ったものでもないということです。いわゆる「孝白本」は全11巻あり、最初の2巻は山本常朝が喋った話だろうと思いますが、後ろの方はいろいろな資料です。お坊さんも40人くらい出て来て、「非知り」を説いた江南和尚など、正に偉い人です。常朝の談話は宝永7年(1710年)から始まるわけで、3巻目からあとの方は元亀、天正から江戸時代初期にかけての話が主であって、全く中身が違います。しかも常朝さんとしては、その後者の部分に憧れてもいるわけです。私もそうです。だから後者の方の8割に、特に深く考える「材料」があると思います。

 さて、そんな大隈の近世に対する認識、特に明治維新論は有意義なものです。
「(明治維新を起こした)その第一種に属するものは支那学(所謂儒学)で養成せれたものである。これは家康以来幕府のために、いのちをつないで来た教育を受けたもので、彼らは幕府のために奨められて、そのもとに職を得たものが多かったにもかかわらず、彼らが学んだところはみな、皇室を尚ぶこと、僭越は憎むべきこと、…口では幕府を称賛するが、その心のうちでは、幕府の役人が永年専横を重ねて今日にいたり、皇室を殆ど一個の偶像にしてしまったことを知らないものはなく、そうしてこれを知っているものは、秘かに悲憤慷慨をしないものがなかったのである。思い返せば、家康が民衆を服従さす一策として儒教を奨励したのであるが、二百数十年の後になっては、自分の子孫を殺す道具になったのである。……
 
 第二種の書生は国学派に属するものである。否、単に国学と云うよりも、むしろ漢学に導かれた国学(つまり「神儒一致」。筆者注)というのが適当であろう。即ち水戸藩が奨励したもので、あの『大日本史』のようなものはその結果として世に出るようになった。彼らはわが国体を明らかにし、臣民が守るべき節義を重んじなければならないと高言し、その派の人たちが大いに全国に広まることができたのである。……(ですからこれは、国学というより「水府の史論」。強いて言えば「神儒一致」)。

 第三種は神道派(これが今、教科書的に言う「国学」。)に属するものである。この神道派と国学者の間には多少の相違があった。平田篤胤のような人は、国学を世を治める術に応用したもので、当時の社会に改革の原動力をしみこませたことが少なくなかった。要するにこの種の書生は、神代からなる日本帝国の歴史を基礎とし、その神聖な天孫に対し、国家のためにつくす義務があると考えていたから、これもまたもともと幕府の味方となるものではなかったのであった(いわゆる「復古神道)。

 そうしてこの三種の書生は、凡そ互いにその目的のために一致した。彼らは強いて各々の学派の異同について争うことはせず、三方から声を同じうして尊王の大義を説き、人々をして国を愛することが自ら重しとする心を発揮させたのである。」と。

 つまり、一は萩生徂徠が『政談』の中で、家康の文教好きが、いつか幕府を滅ぼすのではないかと心配していたとおりになった話。そして、二は『大日本史』の「水府の史論」(これが和辻哲郎、相良享、そして私の言う「士道」です)、三は、私の言う復古神道というわけです。
少しずれているかもしれませんが、概ね当っているでしょう。

 そして、大隈は、「こうした時に、丁度外交上の問題が起こり、これが改革の炎に油をそそぎ、彼らの心は一層気焔をあげて燃え立ち、尊王の問題に攘夷の旗を立てたのである。」と述べます。

 そんな大隈らがどんな政体を考えていたのか。それは、英国流であると言われますが、私は、取りまとめていえばジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルらの主張する功利主義(最大多数の最大幸福)に親和的なものだと思っています。現に、明治初年から10年位までにかけては、このベンサムやミルらの書いたもの『自由論』や『功利主義論』などの本がたくさん翻訳されました。そして、このことについては大隈のブレーンといわれる小野梓(土佐)らが非常に大きな役割を果たしたようです(関嘉彦『ベンサムとミルの社会思想』)。

 大隈らが明治15年(1882年)3月14日に作った「立憲改進党趣意書」は、正に「最大多数の最大幸福」をうたったものではないでしょうか。
 「来れ我兄弟、来て我政党を結び、我臣民たるの職分を尽せよ。
幸福は人類の得んことを期する所なり。然れども少数専有の幸福は我党これに与せず。蓋し此の如きの幸福は所謂る利己のものにして、我党の冀望する王室の尊栄と人民の幸福とに反すればなり。……
是を以て若し一二私党の我帝国を専らにし、王室の尊栄と人民の幸福を蔑にし、目前の荀安を愉み、遠永の禍害を顧みざるものあらば、我党は此を目して以て公敵と為さんとす。」と。

 この考えは、現在テレビで放映されている渋沢栄一の考えにもつながっていきます(渋沢栄一を官に就かせたのは大隈重信。このあたりも、どこかに書いてあるかもしれませんが)。

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鈴木正三と葉隠 
Saturday, April 17, 2021, 11:53 AM
 この博物館にある鈴木正三がいかに葉隠武士道にかかわったか、これは重要テーマです。

 中世の九州は、いつも書くとおり、800年前に源頼朝によってアサインされた少弐(武藤)、大友、島津という関東からの三家が、三分割してそこを治めたというのが基本です。もちろん弱小の御家人たちもいましたが。その体制が中世末期においては、徐々に崩れてきました。
特に少弐氏(武藤氏)が、中国地方の大内氏から博多の利権を蚕食され、大友氏が少弐氏を応援するという姿があったのですが、少弐氏が、結局は最後の当主といわれる少弐冬尚において、1559年、神埼の勢福寺城で自殺に追い込まれて、その最後の本拠つまり佐賀が龍造寺氏に取って代わられるということになります。

 一方、南では島津によって圧迫された蝕肥の伊東氏が、大友の援助を頼み、それに応じた大友宗麟が、1578年耳川の戦いにおいて島津に破れてしまったということで、ここに大友氏も急速に勢力を失っていきます。

 しかして一方で登場するのがキリスト教という勢力です。1582年大友、大村、有馬の三家は、いわゆる天正遣欧少年使節を遠くローマまで送ったり、それと前後して大村氏が長崎、茂木をイエズス会に寄進するというようなこともありました。しかし、1586年〜87年にかけての秀吉の九州平定により、長崎は再びイエズス会から取り上げられ、その後はキリスト教への弾圧が始まります。
 
 特に1615年前後の弾圧は激しいもので、ここにすべてのキリスト教徒は抹殺されたかのように思われたようですが、1637年、天草・島原の乱がおきました。実は相当な数のクリスチャンがまだまだ残っていたというわけです。

 そのような中で、鈴木正三という人は、1579年という織田信長の時代、三河の国に生を受けた旗本の長男であり、関ヶ原や大阪の陣などなどにも従軍した武士です。しかし、相当早い段階から仏教に目覚めて、家は弟・鈴木重成に譲り、いろいろなところで修行をしました。そして天草・島原の乱が終わった後、いわゆる「排耶僧」として天草に約3年間滞在し、あちこちに寺を作りました。なので彼は、その地域に近い、佐賀や『葉隠』にもしっかり取り上げられているというわけなのです。

 例えば『葉隠』には、「正三は、鈴木九太夫と申したる御旗本にて候。委細は驢鞍橋に見え候。要門和尚随仕の内、髪を剃り申し候處、『剃毛を火鉢にくべて見候へ。もはや臭気はあるまじ。』と申され候に付て、剃刀に付き候毛を、火にくべ候へども、何の香も仕らず候。その時、正三申され候は、『匂はなき筈なり。我覚え有り。修行は斯くのごとく仕届けねば成らず。』と申され候由。要門和尚直の話しなり。(『葉隠 聞書第十』)」、とか、「岩村内蔵助最期の事 内蔵助は三極流の軍術を伝え、正三の仏法をも直授せられたる由に候。病気もこれ無く、庭を廻られ候へば、気色悪しく成り候故、座に入り、打臥し申され候に付、内方驚き、いだき起され候へば、眼をくわっと見開き歯噛をなし、正三風の発起を出し、其の儘臨終の由なり。正三弟子に、是程に修したる人は有るべからず。大事の所なり。(『葉隠 聞書第七』)」などと、出てきます。前者の話は、少し科学的にどうか…的なところがあり、そこも『葉隠』全体の傾向につながる気がします(『葉隠』の成立した1716年〔享保元年〕は、世界の動きから見て、相当に科学が発達しているはずですが、「首を落とされても一働き」のような話は、私としては「ちょっとね」です)。

 逆に言えば、「武士道書」といわれる『葉隠』の真の意味や意義は、こうしたバックグラウンドに連なる人や事象を見なければわかりませんし、面白くもありません。
いずれにせよ、いろいろな勢力がこのあたりに乱の後入ってきて、例えば島原と言えば「島原(しまばる)そうめん」が有名ですが、あれも小豆島から来たのだそうで、鈴木正三は「排耶書」といわれる『破切支丹』を書き、善政を施した弟とともに、その地域のマインドの切替を図ったわけです。ちなみに弟は、幕府に対して、税金を安くしてほしいという直訴を行い、その願いが届けられなかったため自刃したとも言われ、あるいは病死したとも言われるとにかく名代官でありました。

 そのような鈴木正三、一体何を考えていた人なのかというと、具体的なものとしては、早い時期のものとして、『二人比丘尼』という浮世草紙が有名で、上田秋成の『雨月物語』の先駆のようなよい作品ですが、「排耶書」としての上記『破切支丹』はちょっと奇妙なものです。一方『萬民徳用』という本は、「士農工商」それぞれが徹底的に元気に生きる生き方を述べているような本で、これも面白い。
 ただ、彼の世代はまだまだ戦国時代に生きていたはずなのですが、その成育環境の中に既に「身分」というものが相当に芽生えて(?)いたのでしょうか。もっとも、江戸中期以降とは相当違うようで、山本七平さんは、このような職業倫理を考える人として、鈴木正三と石田梅岩の二人を挙げているところ、ちょうど元禄時代辺りを境にして、前は正三。その後に出てきた代表者は石田梅岩としています。確かに、2人は「代表」であり、かつその中身は、梅岩のように、完全に封建制度が確立した、身分制社会の人のそれと、鈴木正三のような、まさに最末期とはいえ、中世の息吹の残っている人との間には、前者に、よりマイルドなものがあるということかもしれません(私はその昔の佐賀時代、裁判所の部内誌に『葉隠と石門心学』を書きましたが)。

 いずれにせよ、正三の書には、『葉隠』と共通の太田道灌の歌もでてきたりで、『葉隠』に百年近く先立つ正三が、武士道書・『葉隠』に相当な影響を与えたとみられることを深く探究してみれば、『葉隠』を、あるいは「武士道」を、もっと広く、深く考えることができるでしょう。

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黄檗僧と武士道 
Monday, February 1, 2021, 12:38 AM
 この博物館にある黄檗僧の渡来は武士道、葉隠にとって極めて重要な要素です。
 
 黄檗宗の本山は現在の福建省福清市にあるお寺・黄檗山萬福寺でしたが、1654年、代表的な人物・隠元禅師が渡来しました。葉隠関係でいうと、本当は、それよりも前に渡来した隠元の法妊にあたる道者超元が極めて重要です。この人は不生禅の盤珪禅師に影響を与え、その盤珪の述べたことが葉隠に出てきますし、それは、「死ぬことと見付けたり」の本質(の一部)でもあるからです。しかし道者禅師は中国に帰ってしまい、その後は隠元及びその弟子たちが大きな影響力を持ちました。葉隠の真の理解にはこうしたバックグラウンドの理解が必須であり、ただの教訓書としてのみ見たのでは一面的になってしまいます。

 特に鍋島家と葉隠との関係では、本藩の3代目鍋島綱茂及び小城の鍋島直能、元武といった殿様らが有名です。
 その結果本藩の高伝寺にも隠元の弟子即非や独立の額が掲げてあり、小城には黄檗宗星巌寺があり、鹿島の普明寺は現在も中国様式の厳格な姿を境内に残しています。そして蓮池においては、菩提寺宗眼寺は曹洞宗ですが、その西に龍津寺があって売茶翁はそこで修業しています(いつも書くこと。)。
 
 そのような情勢であるところ、その小城から出た有名なお坊さんが上記星巌寺を開いた潮音禅師です。この人は13歳の時、小城のお寺に入って仏教を勉強するとともに、京都で隠元禅師の教えを受けました。典型的な黄檗僧です。しかも潮音禅師は5代将軍綱吉の母・桂昌院の帰依を受け、綱吉が群馬県館林にいた時、広済寺という大きな寺を作るについて尽力し、信頼を得ました。綱吉が将軍になったため、広済寺は廃寺となり、その名前と伝統は現在も東京江戸川区の広済寺に残っています。
しかして、潮音禅師にとって最大の蹉跌が、先代旧事本紀大成経事件に連座したことです。「先代旧事本紀」は、「古事記」、「日本書紀」よりも後れますが日本の古代を書いた本であり、それを更に敷衍した「先代旧事本紀大成経」という一種の偽書ができあがりました。そして、これを主導した神道家・永野采女という人との関わりから潮音禅師にも飛び火。それは、伊勢神宮の内宮外宮ともう1つ、内宮の南側にある伊雑宮(いさわのみや)が最も格が高く、天照大神がそこに祀られているというような話なわけです。そのため伊勢神宮から強烈な抗議が出ました。永野采女は遠島、潮音禅師も1か月間の逼塞を余儀なくされました。そしてその後、群馬県甘楽郡南牧村に黒瀧山不動寺を建てることになります。不動寺には立派な山門を通った先に、祖師堂、大雄宝殿等があり、こんな山奥にどうしてこんな巨大なお寺があるのだろうと感動するところです。しかも、そこには鍋島の殿様の位牌まであります。

 そこで一体潮音禅師は何故にそのようなことを考えることになったのかというわけですが、若い時にある神道家と話した時に、その人の神道についての回答が不十分であったとのこと。そのためご自身でこの点について深く関心を持つことになり、それを極める過程の中で、上記の3つのお宮のことを考えるようになったようです。そして、それは、日、月、星の関係に収斂していきました。

 ですから、この不動寺に行きますと、後ろの山は正に太陽と月と星とを象徴する3つの高い峰です。これは、潮音禅師にとっては、最終的には、仏教も儒教も道教も神道もある意味無い世界、3教、あるいは4教合一の世界を考えていたのではないかと私は思います。神羅万象が仏説を説くのです。

 それというのも、この1600年代、他の思想家、例えば以前に取り上げた中江藤樹らもそうですが、仏教と儒教と神道というものを、どう調和させていくのかが大きなテーマになりました。その中で新来の仏教である、黄檗宗というものと向き合ったとき、この教えは禅宗の中の臨済宗の一派ですが、それまでの臨済・曹洞という何百年も経過してきて、ある意味沈滞していた仏教に対して、極めて厳しい一種の真剣勝負を挑むものだったのではないかと思います。それは特に黄檗山萬福寺に今もかけてある、数々の「聯」というものがそれを象徴しているような気がします(この辺りは私の感想ですが)。つまり禅宗にはもともと特定のお経をあがめるということもありません。その代わり一種の、大学で言えばゼミの問題を即時その場で考えて答えなければならないという厳しさがあるわけです。そうなってきたときに、何教がどうのという話ではなくて全ての教えは1つにまとまる、それを三教合一などという言葉で言いますが、まさにそれであったのではないか。逆に言えば潮音禅師という人は極めて大きな考え方を持った人だったのではないかという気がします。潮音禅師自身が残したものが不十分なため、どこまで考えているのかがわからないという面がありますが、むしろ黄檗の本質なのかもしれません。

 なお、葉隠では、山本常朝の甥にあたる山本五郎左衛門という人が、潮音禅師に対し綱茂公に印可を与えるな、とせまる場面が出てきますが、結局、小城の殿様を含めて印可が与えられたということで、水戸黄門らとの関係が強い小城の殿様も、一方では仏教との深い関係があったということで柔軟な思考がうかがえます。

 一方、潮音禅師は1628年から1695年の人だったのに対して、それにやや遅れて生まれたのがやはり元々黄檗僧として出発した蓮池出身の売茶翁(1675年から1763年)です。潮音禅師もそうですが売茶翁も「偈語」という禅語と詩のミックスしたようなものが極めて重要です。この「偈語」をよく読むと彼らの考えていたことがわかりそうです。即ち、最後は黄檗宗というもの自体を捨てて、東山で茶を売る生活をするよ、ということです。売茶翁は煎茶道の祖とも言われて、現在黄檗山萬福寺には巨大な記念碑や売茶堂が残っていますがそういうことです。

 いわば、すべて無に帰するわけです。無に帰すると、逆に仏教であろうと神道であろうと皆一緒になってしまうわけです。その意味から新来の仏教にぶつかった潮音禅師であり売茶翁ですが、彼らは真剣にそれらのことを考えて、こうしたものを残していったのではないかと思います。

 ちなみに潮音禅師のことを書いた「緑樹」という本があり、彼の一派を「緑樹派」と呼びます。この「緑樹」は鍋島光茂の娘・緑樹院が土井利重の妻となっていましたが、若くして亡くなり、その菩提を弔うために萬福寺に緑樹院が建てられていることに由来します。

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台湾と武士道 
Wednesday, January 27, 2021, 12:20 PM
「士道への中継地点・台湾 」という題で某所でお話ししました。
 まず、台湾が歴史に登場するのは相当遅くなってからです。
元々フィリピンやインドネシアと近い原住民族は住んでいて遺跡もありますが、宋代の地図には台湾の地図自体載ってもいません。それが1554年頃、サラゴサ条約(1529年)を踏まえたポルトガルがやってきて、「フォロムサ(福爾摩沙・美麗島)」と呼んだとか。そしてその後、本当に上陸したのは、今のところスペインではないかと言われています。更に、オランダが1624年から38年間ここを治めました。その間、佐賀の干拓にもかかわり深いオランダ商館長マクシミリアン・ル・メールが行政長官を務めたりもしています。この38年間の「法律」が残っていますが見事です。
そしてこの間の1644年、北京では明が滅亡し、これに対して、父が鄭芝龍、母が日本人の田川マツといわれる人の子ども・鄭成功が、1662年、オランダを追い払い、台南に明の復興、つまり復明のための根拠地を置きます。
こうして、西の方を鄭成功が占領したとはいえ、真ん中から東の方は全くの未開の土地・蕃地であり、フランス人が作った地図にも東側は載ってもいません(東を開いたのは、後の日本の製糖会社とその関係者です。)。その鄭成功は台湾を占領してわずか1年ちょっとで亡くなります。
一方、上記1644年の明の崇禎帝の自殺後、その一族、唐王や魯王らが、いくつもの王朝を南の方に建てました。これを「南明」と言います。当時はまだ康熙帝も子どもだったので、本格的に南を攻めることがなかったとも言えます。
そして1673年には呉三桂らによる三藩の乱が起きて、明の遺臣が清朝に反旗を翻し、南方は大混乱に陥りました。それに呼応して大陸を攻めたのが鄭成功の子・鄭経です。彼が台湾で擁立したのが明朝の一族・朱術桂。
そしてこの間、鄭氏や、その仲間が日本にやってきて、応援を頼んだわけでその代表的な人が以前も書きましたが朱舜水であり、この人を大歓迎したのが水戸黄門です。今、朱舜水の像が後楽園の入口にも貼ってあることは以前も述べたことです。
彼らがどうしてこんなに頑張ったのかということなのですが、最大とさえ言える問題が辮髪だったと思います。『被誤解的台湾史(誤解された台湾史)』(駱芳美)にも、「孝経」の「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」の教えだったことがしっかり書いてあり、それが染みこんでいた純粋儒教主義の明の遺臣でした。彼らにとって、満州族によって辮髪を強制されることは死んでも拒否したいことでした。上記朱術桂が自殺に追い込まれる時の言葉も「原是命望不剃髪、保全父母留給他的身体髪膚」です。朱舜水自身も、その絵を見ればもちろん総髪ですし、その手の爪がものすごく伸びているというわけです。この「孝経」の考え方は漢民族の本質的な問題であって、桑原武夫さんのお父さんである桑原隲蔵先生も述べるところです。
いずれにせよ、こうしたことから、この復明の活動をする多くの人が日本に逃げてきました。
更にこのコアの発想は、日本には簡単に言えば辮髪がない。孝の教えを徹底的に守っている、ということから水戸黄門、山崎闇斎、保科正之、野中兼山、山鹿素行といった人たちが日本の独自性を打ち出す大きなきっかけとなりました。そして、「身を立て道を行ない、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは孝の終わりなり」と、つまり孝が全うされるのだという考え方からは「忠」が徹底的に出て来て、「忠」の対象は「君」である。では「君」とは誰か。日本では「将軍」なのか「天皇」なのか。最終的には「天皇」であるという話になり、それが明治維新を引きおこし、更にその「君」が悪くて、もし間違ったことをしても「君側」がちゃんとしなければいけないという話になって、ちゃんとしない「君側」は「君側の奸」とされる。  
ということから、これは特に昭和の歴史、二・二六事件等々にまで発展してくる大きなきっかけを作ったというわけです。
台湾というと、現在大きくは、本島、澎湖島と金門島に別れるわけですが、実は金門島にも魯王の墓があったりして、当時清朝に対して戦っていた鄭成功とその子孫たちの勢力範囲は、何十年か前に国民党が戦っていた勢力範囲とちょうど重なると言ってもよいでしょう。
そして、鄭政権が最終的につぶれるきっかけになったのは、大陸から、入り込んだスパイが相当いたということが言われます。戦後の台湾も、全く似たような話で、まずは1947年に二・二八事件というものが起き、その後、蒋介石政権時代、いわゆる白色テロが行われ、1987年までそれが続きました。これは共産政権のスパイを取り締まるということで、まともな裁判を行わずに緑島にぶちこんだり死刑に処したりしてしまったということですが、この傾向の背後には、鄭政権の敗北の歴史があったということも言われています。要は400年前のことが数十年前にも、そして現在にも大きな影響を及ぼしているというわけです。
しかし、その結果、現在の台湾は極めて民主的な国になり、ある意味、日本の先を行っている面が相当あることを我々は忘れてはならないと思います。もちろん同じ台湾と言っても、東と西とでは大違いで、選挙の結果からもそれが言えるのですが、ノーベル賞まで輩出している国、コロナのお手本だということも絶対に忘れてはならないですし、その「原因」も考えてみるべきでしょう。

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サラゴサ条約の話 
Sunday, November 1, 2020, 10:39 PM
 サラゴサ条約は、その前に成立していたポルトガル・スペインの世界分割・トルデシリャス条約(1494年)を前提に、はるかに隔たった地球の反対側の分割線を決めるために、ポルトガルとスペインとが、両国の境界に位置するバダホスとエルヴァスで交渉を重ねた末、1529年に締結されたものです。

 サラゴサ条約というのですからスペインのサラゴサで結ばれたと思いますが、場所については、私が随分調べ、現地にも行ってみましたが分かっていません。もしサラゴサのどこで結ばれたのかお分かりの方は教えて下さい。

 ラ・アルファフェリアというムスリムの宮殿と、商工会議所あたりかなと思いましたが、むしろ、ローマ教皇の勅許を得なければなりませんからエブロ川に面した巨大なカテドラル、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂かも、なんて、勝手な推測です。

 それはそれとして、この条約は、地球を正にリンゴのように真上から半分に分ける、いわゆるデマルカシオンを構成するものですが、一応東経133度を基準にして(というのは、もっと東という説もあり。)、日本では福山市辺りがその境になっているといわれます。しかし、南の方は台湾、フィリピン、モルッカ諸島、チモールと、様々な後の世のトラブルの原因にはなっているものの、相当西側に寄っていてはっきりしていません。いずれにしても、この条約は世界史的に見て大きな意味があります。そして、この大きな意味は日本史的にもあると思うのです。

 というのは、まず1529年からさほど隔たらない1543年の鉄砲伝来はポルトガルによるもの。1549年のキリスト教の日本渡来は、ザビエルが鹿児島に上陸することによって始まりました。そのザビエルの日本布教の後、一緒に彼についていったベルナルドという鹿児島の人は、その後、ゴアでザビエルと別れてポルトガルのコインブラ大学で勉強し、ローマにも行きました。この人が日本人で初めてヨーロッパに渡ったと言われる人です(鹿児島のベルナルド)。

 そして、同じく1580年代の天正少年使節はヴァリニャーノと共に西側を通って、ポルトガルのリスボンに上陸し、ローマ法王に謁見したというわけです。恐らく福山よりも西側の人たちは西に行ったというわけでしょう。

 一方、時代が下りますが、徳川家康は、1610年、田中勝介を浦賀からメキシコに送りました。それが、日本人が最初に太平洋を横断した事例と言われています。そして、1613年、伊達政宗は仙台の月の浦から支倉常長をノヴア・エスパーニャ(メキシコ)、そしてローマに送りました。常長は、スペインのアンダルシアに上陸し、ローマに渡ったわけです。
 つまり、前者はポルトガルへ、後者はスペインへです。  

 サラゴサ条約が結ばれたのは1529年で、その後1588年にはスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れるということもありました。従って、スペインとポルトガルとの談合も徐々に崩れてはいましたが、1600年代に入ってまでまだ政宗が東回りを通ったということは、どうしてもこの条約をしっかり意識していたのではないかということを思わせます。もちろん、伊達政宗は、スペイン人であるソテロの手引きで支倉常長をローマに送りましたので、やはり東回りになったのでしょうし、またその頃は、月の浦からまっすぐ東(メンドシノ岬。帰りはアカプルコから西へ。)に行った方が天文航路を利用し、安定してメキシコに行けるということでもあったでしょう。
 
 その辺りのことは、伊達政宗がローマ法王に送っている手紙で「我等家之侍一人、支倉六右衛門と申者を同行者として渡申候。我等めうたい(名代)として御したか(従)いのしるし、御足をす(吸)いたてまつるために、能(態=わざわざカ)ろうま迄進上仕候。此伴天連そてろ、みちニ而自然はは(果)てられ申候者、そてろ被申置候伴天連を、おな(同)しやうニ我等か使者を(とカ)おほしめ(思召)し候て可被下候。某之国とのひすはんにや(ノビスパニア)之あひた(間)近国に而御座候条、向後ゑすはんや(イスパニヤ)の大皇帝とん・ひりつへ(ドン・フィリッペ)様と可申談候。」と、自分のところは非常にローマ(メキシコ)に近いのだと言っていることからも裏付けられそうです。いずれにしても、ソテロの立場からすれば東回りの方がよかったのでしょう。

 この条約の終わりの時期は本を見てもはっきりしませんが、相当深く侍たちの行動様式に影響を与えていたような気がするのです。私は全くの素人ですから、ぜひこの辺りは学者の先生に教えていただきたいところです。

 そして、結局ポルトガルも関与している1637年の島原の乱が終わり、1639年にポルトガルの来航禁止が行われました。これがいわゆる鎖国というものですが、こういうことの動機に何があるのか。

 キリスト教というものが大きな影響を与えていることはもちろんだと思いますけれど、その前の李氏朝鮮との関係で、日本国の代表者が誰になるのかというような話がかかわってきて、日本が東西に分割されたのではかなわないという声がそれなりに働いていたのかもしれません。そして、将軍は日本国大君と称したり、日本国国王と称したりと、天皇との関係で将軍の地位が対外的には色々と動きました。そして最終的には日本的華夷秩序というヒエラルキーの社会を東アジアに作り、武士も身分秩序優先の武家となる。ということで、そのような政策との風が吹けば桶屋が儲かる以上の関係がサラゴサ条約にもあったような気がします。

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