台湾と武士道 
Wednesday, January 27, 2021, 12:20 PM
「士道への中継地点・台湾 」という題で某所でお話ししました。
 まず、台湾が歴史に登場するのは相当遅くなってからです。
元々フィリピンやインドネシアと近い原住民族は住んでいて遺跡もありますが、宋代の地図には台湾の地図自体載ってもいません。それが1554年頃、サラゴサ条約(1529年)を踏まえたポルトガルがやってきて、「フォロムサ(福爾摩沙・美麗島)」と呼んだとか。そしてその後、本当に上陸したのは、今のところスペインではないかと言われています。更に、オランダが1624年から38年間ここを治めました。その間、佐賀の干拓にもかかわり深いオランダ商館長マクシミリアン・ル・メールが行政長官を務めたりもしています。この38年間の「法律」が残っていますが見事です。
そしてこの間の1644年、北京では明が滅亡し、これに対して、父が鄭芝龍、母が日本人の田川マツといわれる人の子ども・鄭成功が、1662年、オランダを追い払い、台南に明の復興、つまり復明のための根拠地を置きます。
こうして、西の方を鄭成功が占領したとはいえ、真ん中から東の方は全くの未開の土地・蕃地であり、フランス人が作った地図にも東側は載ってもいません(東を開いたのは、後の日本の製糖会社とその関係者です。)。その鄭成功は台湾を占領してわずか1年ちょっとで亡くなります。
一方、上記1644年の明の崇禎帝の自殺後、その一族、唐王や魯王らが、いくつもの王朝を南の方に建てました。これを「南明」と言います。当時はまだ康熙帝も子どもだったので、本格的に南を攻めることがなかったとも言えます。
そして1673年には呉三桂らによる三藩の乱が起きて、明の遺臣が清朝に反旗を翻し、南方は大混乱に陥りました。それに呼応して大陸を攻めたのが鄭成功の子・鄭経です。彼が台湾で擁立したのが明朝の一族・朱術桂。
そしてこの間、鄭氏や、その仲間が日本にやってきて、応援を頼んだわけでその代表的な人が以前も書きましたが朱舜水であり、この人を大歓迎したのが水戸黄門です。今、朱舜水の像が後楽園の入口にも貼ってあることは以前も述べたことです。
彼らがどうしてこんなに頑張ったのかということなのですが、最大とさえ言える問題が辮髪だったと思います。『被誤解的台湾史(誤解された台湾史)』(駱芳美)にも、「孝経」の「身体髪膚之を父母に受く、敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」の教えだったことがしっかり書いてあり、それが染みこんでいた純粋儒教主義の明の遺臣でした。彼らにとって、満州族によって辮髪を強制されることは死んでも拒否したいことでした。上記朱術桂が自殺に追い込まれる時の言葉も「原是命望不剃髪、保全父母留給他的身体髪膚」です。朱舜水自身も、その絵を見ればもちろん総髪ですし、その手の爪がものすごく伸びているというわけです。この「孝経」の考え方は漢民族の本質的な問題であって、桑原武夫さんのお父さんである桑原隲蔵先生も述べるところです。
いずれにせよ、こうしたことから、この復明の活動をする多くの人が日本に逃げてきました。
更にこのコアの発想は、日本には簡単に言えば辮髪がない。孝の教えを徹底的に守っている、ということから水戸黄門、山崎闇斎、保科正之、野中兼山、山鹿素行といった人たちが日本の独自性を打ち出す大きなきっかけとなりました。そして、「身を立て道を行ない、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは孝の終わりなり」と、つまり孝が全うされるのだという考え方からは「忠」が徹底的に出て来て、「忠」の対象は「君」である。では「君」とは誰か。日本では「将軍」なのか「天皇」なのか。最終的には「天皇」であるという話になり、それが明治維新を引きおこし、更にその「君」が悪くて、もし間違ったことをしても「君側」がちゃんとしなければいけないという話になって、ちゃんとしない「君側」は「君側の奸」とされる。  
ということから、これは特に昭和の歴史、二・二六事件等々にまで発展してくる大きなきっかけを作ったというわけです。
台湾というと、現在大きくは、本島、澎湖島と金門島に別れるわけですが、実は金門島にも魯王の墓があったりして、当時清朝に対して戦っていた鄭成功とその子孫たちの勢力範囲は、何十年か前に国民党が戦っていた勢力範囲とちょうど重なると言ってもよいでしょう。
そして、鄭政権が最終的につぶれるきっかけになったのは、大陸から、入り込んだスパイが相当いたということが言われます。戦後の台湾も、全く似たような話で、まずは1947年に二・二八事件というものが起き、その後、蒋介石政権時代、いわゆる白色テロが行われ、1987年までそれが続きました。これは共産政権のスパイを取り締まるということで、まともな裁判を行わずに緑島にぶちこんだり死刑に処したりしてしまったということですが、この傾向の背後には、鄭政権の敗北の歴史があったということも言われています。要は400年前のことが数十年前にも、そして現在にも大きな影響を及ぼしているというわけです。
しかし、その結果、現在の台湾は極めて民主的な国になり、ある意味、日本の先を行っている面が相当あることを我々は忘れてはならないと思います。もちろん同じ台湾と言っても、東と西とでは大違いで、選挙の結果からもそれが言えるのですが、ノーベル賞まで輩出している国、コロナのお手本だということも絶対に忘れてはならないですし、その「原因」も考えてみるべきでしょう。

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サラゴサ条約の話 
Sunday, November 1, 2020, 10:39 PM
 サラゴサ条約は、その前に成立していたポルトガル・スペインの世界分割・トルデシリャス条約(1494年)を前提に、はるかに隔たった地球の反対側の分割線を決めるために、ポルトガルとスペインとが、両国の境界に位置するバダホスとエルヴァスで交渉を重ねた末、1529年に締結されたものです。

 サラゴサ条約というのですからスペインのサラゴサで結ばれたと思いますが、場所については、私が随分調べ、現地にも行ってみましたが分かっていません。もしサラゴサのどこで結ばれたのかお分かりの方は教えて下さい。

 ラ・アルファフェリアというムスリムの宮殿と、商工会議所あたりかなと思いましたが、むしろ、ローマ教皇の勅許を得なければなりませんからエブロ川に面した巨大なカテドラル、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂かも、なんて、勝手な推測です。

 それはそれとして、この条約は、地球を正にリンゴのように真上から半分に分ける、いわゆるデマルカシオンを構成するものですが、一応東経133度を基準にして(というのは、もっと東という説もあり。)、日本では福山市辺りがその境になっているといわれます。しかし、南の方は台湾、フィリピン、モルッカ諸島、チモールと、様々な後の世のトラブルの原因にはなっているものの、相当西側に寄っていてはっきりしていません。いずれにしても、この条約は世界史的に見て大きな意味があります。そして、この大きな意味は日本史的にもあると思うのです。

 というのは、まず1529年からさほど隔たらない1543年の鉄砲伝来はポルトガルによるもの。1549年のキリスト教の日本渡来は、ザビエルが鹿児島に上陸することによって始まりました。そのザビエルの日本布教の後、一緒に彼についていったベルナルドという鹿児島の人は、その後、ゴアでザビエルと別れてポルトガルのコインブラ大学で勉強し、ローマにも行きました。この人が日本人で初めてヨーロッパに渡ったと言われる人です(鹿児島のベルナルド)。

 そして、同じく1580年代の天正少年使節はヴァリニャーノと共に西側を通って、ポルトガルのリスボンに上陸し、ローマ法王に謁見したというわけです。恐らく福山よりも西側の人たちは西に行ったというわけでしょう。

 一方、時代が下りますが、徳川家康は、1610年、田中勝介を浦賀からメキシコに送りました。それが、日本人が最初に太平洋を横断した事例と言われています。そして、1613年、伊達政宗は仙台の月の浦から支倉常長をノヴア・エスパーニャ(メキシコ)、そしてローマに送りました。常長は、スペインのアンダルシアに上陸し、ローマに渡ったわけです。
 つまり、前者はポルトガルへ、後者はスペインへです。  

 サラゴサ条約が結ばれたのは1529年で、その後1588年にはスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れるということもありました。従って、スペインとポルトガルとの談合も徐々に崩れてはいましたが、1600年代に入ってまでまだ政宗が東回りを通ったということは、どうしてもこの条約をしっかり意識していたのではないかということを思わせます。もちろん、伊達政宗は、スペイン人であるソテロの手引きで支倉常長をローマに送りましたので、やはり東回りになったのでしょうし、またその頃は、月の浦からまっすぐ東(メンドシノ岬。帰りはアカプルコから西へ。)に行った方が天文航路を利用し、安定してメキシコに行けるということでもあったでしょう。
 
 その辺りのことは、伊達政宗がローマ法王に送っている手紙で「我等家之侍一人、支倉六右衛門と申者を同行者として渡申候。我等めうたい(名代)として御したか(従)いのしるし、御足をす(吸)いたてまつるために、能(態=わざわざカ)ろうま迄進上仕候。此伴天連そてろ、みちニ而自然はは(果)てられ申候者、そてろ被申置候伴天連を、おな(同)しやうニ我等か使者を(とカ)おほしめ(思召)し候て可被下候。某之国とのひすはんにや(ノビスパニア)之あひた(間)近国に而御座候条、向後ゑすはんや(イスパニヤ)の大皇帝とん・ひりつへ(ドン・フィリッペ)様と可申談候。」と、自分のところは非常にローマ(メキシコ)に近いのだと言っていることからも裏付けられそうです。いずれにしても、ソテロの立場からすれば東回りの方がよかったのでしょう。

 この条約の終わりの時期は本を見てもはっきりしませんが、相当深く侍たちの行動様式に影響を与えていたような気がするのです。私は全くの素人ですから、ぜひこの辺りは学者の先生に教えていただきたいところです。

 そして、結局ポルトガルも関与している1637年の島原の乱が終わり、1639年にポルトガルの来航禁止が行われました。これがいわゆる鎖国というものですが、こういうことの動機に何があるのか。

 キリスト教というものが大きな影響を与えていることはもちろんだと思いますけれど、その前の李氏朝鮮との関係で、日本国の代表者が誰になるのかというような話がかかわってきて、日本が東西に分割されたのではかなわないという声がそれなりに働いていたのかもしれません。そして、将軍は日本国大君と称したり、日本国国王と称したりと、天皇との関係で将軍の地位が対外的には色々と動きました。そして最終的には日本的華夷秩序というヒエラルキーの社会を東アジアに作り、武士も身分秩序優先の武家となる。ということで、そのような政策との風が吹けば桶屋が儲かる以上の関係がサラゴサ条約にもあったような気がします。

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ゾルゲ事件の尾崎秀実と「葉隠」 
Sunday, November 1, 2020, 10:16 PM
 なぜ尾崎秀実と葉隠とが結びつくのかということですが、彼が弁護人に送った手紙(岩波現代文庫の『愛情は降る星の如く』所収)の中に、このようなくだりがあるわけです。
それは、昭和18年12月7日付、弁護人の堀川祐鳳さん宛であって、「事件のみならず小生の心構えに関してもおきかせくだされ感謝に堪えません。ことゾルゲ君と比較され小生の腹の据りが足りないのでは無いかとの第三者の批判をずばりとお伝え下さったことは、まことに省みて恥じ入るとともに、一道の清風を感ずるものでありました。恐らくは、小生のくだらなさが、外に反映するものと存ぜられます。併しながら、小生におきましても人生の本義に徹せず、或いは未だ生死の問題に懐疑しているかの如きことは断じてありません。小生の内部は昔から変わらぬ情熱と誠実さをもって一貫していると確信しております。ただ過去の生活環境と生き方の態度によって、表面的に葉隠武士的単純さを示し得ないがために、表面的な第三者の観察の結果、本質を誤られる点が多いのではないかと存じます。」と。
 彼は、みすず書房の現代史資料中の供述書の中でも『葉隠』をより詳しく語っていますから、一応、『葉隠』の代表的な部分(常朝のしゃべったところ?)を読んだのでしょう。

 昭和10年代といえば雨後の筍のごとく、たくさんの「葉隠本」がでました。それらは、いわゆる「孝白本」栗原荒野編、本来、7〜8センチメートルの厚みのある『葉隠』が、わずか1センチか2センチに縮められて、要は『葉隠』という禅をバックにした要素が強い本も、水戸学的な儒教をバックにした武士道の本も、全部十把一絡げにして、『葉隠』と名前をつけたような本が、ポピュラーなものになっていたのでした。

 尾崎の読んだのがどの程度の『葉隠』かはわかりませんが、弁護士さんが尾崎にいまだ「死ぬこととみつけたり」的な覚悟が足りないといって、励ましか何かをしたのではないでしょうか。それに対して尾崎は、上記のとおり述べて、私はちゃんと覚悟は出来ているから安心しなさい、というようなことを言っているとこういうことになるのでしょうか(上記現代史史料では、日蓮、宣長などたくさんの思想家の話が出てきますから、さすがに色々考えたのでしょう。)。どちらにせよ、このやりとりは、「時代」を背負い、『葉隠』というものの全体やバックを少なくとも、よくは知らずに行われた一つのやりとりでした。
 ここまでが『葉隠』の話で、肝心なのはその先です。

 そもそも、この尾崎秀実はどういう人物か。世の中では、一応スパイという風に言われていますが、中にはいわば軍国主義の犠牲者のようなことを言っている人もいます。一体どちらが「正しい」のでしょう。

 彼の言を見ると、この手紙の次の段で「之を要するに、私は終始、コミンテルンのために協力してきたつもりであり、また、ゾルゲその人もコミンテルンから派遣せられたものと信じて居ったものであり、コミンテルンの本質はもとより超国家的組織であり、私の政治目標もまた、常に、世界的共産、大同社会の実現を志して来たものであった。
従って私の本部への情報提供は、国防保安法の『外国へ漏洩する目的』を以てしたものでは決して無かったのであります。コミンテルンはソ連邦とは理論上はもとより実際も別物です。」と書いているのですから正真正銘のスパイであったことが分かります。ただし彼は、ソ連のためにやったのではない、そのソ連の上にあるコミンテルンのためにやったのだ。だから、国防保安法に違反していないと言うのです。

 このような彼の言から見ても、真崎勝次少将にもつながる三田村武夫さん(内務省警保局から衆議院議員。昭和18年9月警視庁に逮捕される。のち、自民党代議士)が『戦争と共産主義』の中で述べられるとおり、彼こそ、本当の筋金入りの共産主義者だったし、徹底したスパイであったと思います。

 こうした「確信犯」とも言うべき尾崎に対し、三田村さんは、「筆者はコムミニストとしての尾崎秀実、革命家としての尾崎秀実の信念とその高き政治感覚には最高の敬意を表するものであるが、然し、問題は一人の思想家の独断で、八千万の同胞(つまり日本人)が8年間戦争の惨苦に泣き、数百万の人命を失うことが許されるか否かの点にある。同じ優れた革命家であってもレーニンは、公然と敗戦革命を説き、暴力革命を宣言して闘っている。尾崎はその思想と信念によし高く強烈なものをもっていたとしても、十数年間その妻にすら語らず、これを深くその胸中に秘めて、何も知らぬ善良なる大衆を狩り立て、その善意にして自覚なき大衆の血と涙の中で、革命への謀略を推進して来たのだ。正義と人道の名に於て許し難き憤りと悲しみを感ぜざるを得ない。」と書かれるわけです。

 尾崎は妻である英子さんにも共産主義者であることを秘して、ただひたすら、コミンテルンの手先としての役割を果たそうとしました。その果たし方は、当時の近衛総理大臣の最側近のブレーンとして、オピニオン雑誌である「改造」「中央公論」といった雑誌の巻頭を飾る論文に寄り、上記のとおり徹底的に蔣介石政権を叩かなければいけないという事を言ったわけです。
それに対して、真崎大将はもとより少将たち更には近衛、吉田茂、関係の深い松本重治さんたちは、蔣介石とは提携しなければいけない(日本の真の敵はソ連である。)という考え方でした。彼の方はそのような考え方が通ったのではソ連がつぶれ、国際共産主義が成り立たないと思ったので、その逆の方に議論をリードしていき、近衛総理の「蒋介石を対手(あいて)にせず」という声明についても、相当な貢献をしていたようです。ですから、彼を軍国主義の犠牲者などと言っているのはとんでもない話だと思います。

 なお彼は、ソ連とコミンテルンの関係について、上記のように述べますが、本当にそうだったのか。ベトナム戦争の時のベトコンと北ベトナム軍との関係もそうですが、実際のところ、コミンテルンはソ連の手先そのものだったのではないでしょうか。

 彼と当時行動を共にした人の中には、戦後いわゆる「左」のトップになった人が多くありますが、それだけでなく、軍人の土肥原賢二大将のようなA級戦犯もいます。こうした「乗せられた人」に正に責任があるはずです。つまり、彼ら、つまり真崎兄弟や吉田茂らの反対派は、見事に尾崎らの策にはまってしまった、ということでしょう。

 彼の死後上記『愛情は降る星の如く』などという本がまとめられましたが、この題は彼がつけたわけでもなく、遺族がつけただけ。「愛情」については、米国人の女性共産主義者スメドレーとの関係など「いろいろ」です。

 とにかく、こうした情緒的表題などによって、本質を見失ってはならないと思います。また、三田村さんを殊更謀略論に持っていくのも問題だと思います。前掲書の戦後の再版本には、馬場恒吾、岩淵辰雄即ち、大隈重信につながる人々が推薦文を寄せており信頼すべきものです。ただし、表題の変更はいただけません。

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台湾の『歴史』から見る日本の東西(武士道とパラレル) 
Saturday, June 20, 2020, 11:19 AM
コロナのせいもあって、お休みしていました。
というか、この間に400ページくらいにわたる本を一応書き上げ、いずれお目にかけるべく頑張っています。

その本の中にもちょこっと書くのがこれです。

 最初に、なぜ武士道と台湾などという話が出てくるのかということですが、台湾には元々原住民族がいます。この人達は、現在は十いくつか、ほんの少ししかいない部族もいますので分ければたくさんの部族がいますけれど、一応14とか16部族とかで、共通語は日本語です。

そして、この方々が実は武士道とも大きな関係があります。というのは、昭和5年(1930年)の霧社事件に至るまで(本当はもう少し早くやめていますが)、彼らの中には首狩りという慣行がありました。出草と言います。

これはどういうことかと言いますと、物の本によれば戦国武士と全く同じ発想のことなのだというのです。首狩りは、台湾だけではなくて北東アジアにも広がっている話なので世界共通ですが、台湾の場合は、ボルネオ、ニューギニアと近いでしょう。

ただ台湾は、1661年からの鄭成功のオランダ駆逐以来、いわゆる「漢化」をしていきました。
オランダが治めていた台湾、台南に熱蘭遮城を築いていたところ、鄭成功によってそれが駆逐されたのです。

そして、その鄭成功の孫の代で(1683年)台湾政権が陥落して以降、清朝がここを治めましたが、台湾全土を治めたわけではなくて、要するに西の方が福建省になっていたわけです。
そして、その辺りにも元々首狩りの風習をもつ人たちがいましたが、「漢化」されてこれがなくなっていきました。それで出来上がった部族が平埔族です。
そして、平埔族はほとんど中国人と同じような格好にもなっていたのですが、もう少し旧来の伝統を残したもの、これをいわゆる蕃人の中の「熟蕃」といいます。少し中国文化に熟したわけです。そして治化政策に全く染まらない人達を「生蕃」といいます。「生(なま)」です。台湾においてはそのような区別があって、長く続いたわけです。要は、中国文明に馴染む地域、準馴染む地域、全く馴染まない地域ということです。そして、そこに首狩りという武士道にもつながり得るような風習がからむわけです。

一方、日本の本州の場合、江戸時代の学者・伊藤梅宇の『見聞談叢』によれば、京都の東の不破関から西を関西と言い、その東を関東と言います。
ただし、名古屋などは関東の一部なのですが、少し京都っぽいのでここを中京と言います。では、今我々が関東と言っているところは何というかというと、箱根の坂の東なので板東と言ったというわけです。これは長い日本列島、特にその中で本州というものが中国文明に化された地域、準化された地域、本来的な日本の地域という、こういう分け方になるだろうと思います。

そうすると、そこに京都政権と鎌倉政権との違いがあるわけです。京都政権は、やはり中華化した儒学的なヒエラルキー的な世界。それに対して鎌倉は平等の世界。法律も、京都・奈良は律令の世界。鎌倉は御成敗式目の世界です。それを体したお役人(武士)がいた。

そんなわけで、台湾と武士道は発送的につながりますよと言いたいわけです。

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千葉一族の西遷と日蓮宗 
Friday, March 6, 2020, 06:20 PM
江戸時代に馬渡俊継によって書かれた『北肥戦史(九州治乱記)』はこう言います。「右大将家の御時、中祖千葉介常胤、鎮西の監職にて、関東の所領の上、肥前国小城郡晴気庄を給はりしより、子孫代々、当郡の地頭となりぬ、常胤六代の孫千葉介頼胤、去ぬる文永年中、蒙古の武備として当国に下りてありけるが、同十一年の冬、蒙古と相戦ひ疵を被り、其手癒えずして翌八月十三日、小城に於て歳三十七にて失せぬ、其子二人、関東にあり、中新介胤宗は、総領を嗣ぎて下総国を領し、太郎宗胤は肥前国小城を知行しけり、此宗胤、永仁三年(あるいは二年とも)正月十六日卒去し、其子大隅守胤貞が時、建武元年甲戌、始めて下総国より肥前の小城へ下向しけるとぞ聞えし」と。

鎌倉幕府の開府にあたり、1180年、石橋山で敗れた源頼朝は土肥実平の手引によって房総に渡り、千葉常胤の手厚い歓待を受けました。その後の常胤の処遇、鎌倉幕府における位置づけについては『吾妻鏡』を見るとよくわかります。即ち、将軍に、毎年の正月にご飯を献ずる「椀飯」という行事において、千葉一族は、ほとんどその元旦の奉仕をしています。

頼朝がいかに常胤を尊敬していたかについては『千葉氏』(千野原靖方)に「公文所・問注所が設置された翌月の11月21日のこと、頼朝は要用があって問注所寄人の筑前権守俊兼なる者を召し出した。俊兼は華美を好み、この時も行粧を繕い袖褄重色の小袖十余領を着て御前に参進し、これをみた頼朝は俊兼の刀を召し、みずからその刀を取って俊兼の小袖の褄を切り落としてしまった。そして「汝富才翰也、盍存倹約哉、如常胤・実平者、不分清濁之武士也、所謂領者、又不可双俊兼、而各位服巳下用鹿品、不好美麗、故其家有富有之聞、令扶持数輩郎従、欲励勲功、汝不知財産之所費、大過分也」(【読み下し】汝才翰に富む也、なんぞ倹約を存ぜぬ哉、常胤・実平の如きは、清濁を分たずの武士也、謂ふに所領は又俊兼に双ぶべからず、而して各位服巳下用鹿品を用い、美麗を好まず、故に其家富有りの聞こえ有り、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功に励み欲す、汝財産の費やす所を知らず、大いに過分也)と頼朝は俊兼を戒めた。俊兼は言葉もなく面を垂れて敬屈し、向後は華美を停止することを誓い、これを傍らでみていた広元・邦通らも皆魂を銷す思いであったとある。『吾妻鏡』は、常胤を賞賛して引き合いに出し、(彼を)御家人の鑑として扱っているのである。」とあるとおりです。

いずれにしても、こうして千葉一族は小城晴気(はるけ)庄地頭に補されました。そして、元寇のとき、千葉一族の中の長男系が、異国警固番役として九州に赴くことになり、千葉頼胤が博多で蒙古軍との戦いにおいて討死するということがありました。現在、佐賀の小城・鎮西総本山日蓮宗松尾山光勝寺には頼胤の墓がある一方、千葉にもあるそうで、このあたりは何しろ古い話なのでよくわかりません。そして、その子宗胤、胤宗の内、宗胤が佐賀に下向し晴気に居住し、弘安の役にも出陣。佐賀に領地があるだけでなく、千葉でも惣領として領地を保有しており、どこにあったかというと現在の市川から真間のあたり(千田庄、八幡庄など)だそうです。一方、弟の胤宗系は、千葉に土着しているので、次第に実力を高めていったとか。

そして、そんな中、『成田参詣記』によると、現在の東京湾上において日蓮と千葉一族の家来富木常忍とが出会うということがありました。そして、富木常忍はすっかり日蓮に帰依するところとなって、岩波の日本古典文学大系の説明(兜木正亨先生)には、この人につき、以下の説明があります。
「『立正安国論』の提出は表面的に幕府の採用するところとはならなかったが、非難を受けた念仏・禅の人たちの策謀は大きな波紋となって日蓮に及んできた。立正安国の主張は日蓮の生涯をとおして一貫して変らなかった。教義・思想の上では、佐渡配流を境として一線を引いて、転換の時とするが、『開目抄』にも『立正安国論』の名は末文近くにあげられており、その他の遺文にもたびたび引き合いに出され、全遺文には約三十カ所にこの書名が引かれている。安国論の提出によって翌月27日に松葉谷の草庵が暴徒のために焼かれ、日蓮は前からの外護者であった下総若宮の富木常忍の邸に身をよせた。今の中山法華経寺は富木邸を寺とし常忍を第一祖とする。第二世をついだ日高は、太田乗明が出家した後の名であるが、乗明や曾谷教信等の入信はこの時に始まったものであろう。弘長元年(1261)鎌倉に帰り、5月には鎌倉の浜から海路、伊豆に流され、同3年に赦されて鎌倉に帰るまでは伊豆の伊東に配流の時を送ったが、『四恩抄』・『教機時国抄』などはこの間の著作である。文永元年8月には故郷に帰り、母の病を見舞い、その病を治したといわれる。11月、安房の国東条の小松原で地頭東条景信の襲撃にあったが、あやうく難をまぬがれた。」と。こうして、常忍は、自らの城を提供して現在の中山法華経寺になったということです。

この中山法華経寺は、その後、中山門流となり、やはり千葉一族の日祐(胤貞の猶子)という人がこれを大々的に発展させました。この発展の流れが、鎌倉の小町大路にある妙隆寺等々のお寺であるとともに、日祐は九州の下って光勝寺の開山となり、室町時代妙隆寺にいた足利義則との関係で有名な日親がやはり佐賀の光勝寺に下ったとの話があります。かくして小城には千葉一族の守り本尊ともいうべき妙見社(千葉では現在千葉神社と言いますが、小城では伝統的な妙見社)があったり有田には焼き物がしっかり焼けるように祈祷する法元寺があったりなどなどの、広い展開を見せます。

そして昭和46年、千葉のニュータウン建設に伴い、肥前の銘のある釣鐘が発見されました。これは日本で4番目に古い釣鐘で、どうも佐賀の小城から、千葉での宗胤系と胤宗系との戦争についての、応援のために陣鐘として持ってきたという説があります。そんなわけで改めて中世の人々の移動の広範さに驚かされる次第です。

ところで、日蓮という人が日蓮宗を開いた理由というのをちょっと見てみたいと思います。上記「日本古典文学大系」の解説によりますと、要は、彼は比叡山に上って様々な勉強を重ねた揚句、円仁らの影響によって伝教大師が本来作ったところの天台宗の奥義が失われ、密教化していることを憂いて、それで法華経そのものに立ち返ることを考えたということのようです。それが確かに他宗を誹謗するという話になるのかもしれませんがその勉強量はすごいです。それとともに、親鸞ついては一切批判がないというのも面白いところで、一切の雑業を捨てて法華経に帰依するか、阿弥陀如来に帰依するかという類似性のせいでしょうか。また、日蓮宗というものが、批判の割には、律宗寺院との関係が極めて深く、この点は、日蓮宗の東京湾沿いの寺院と金沢文庫の称名寺(真言律宗)との関係などから見ると、むしろ商業的な営みの中でコラボしているという面が見られるようにも思います。このあたりが、現在も品川駅付近にたくさんの日蓮宗寺院があることにも関わっていくのでしょうか。中世は品川こそが正に東京港でしたから。

なお、千葉一族は九州だけでなく、全国展開しており、東北の相馬、亘理、東などなどにわかれ、それぞれの地に妙見菩薩が祭ってあります。そのほか、東国武士が鎌倉政権の命令で全国展開していったことは、いわゆる「鎮西御家人」として、極めて大きな意義を有します。ちなみに、『葉隠』に出てくる多くの武士の祖先が実は東国武士でもあります。

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今年の年賀状から 
Thursday, February 6, 2020, 08:34 PM
今年は明智光秀が大河ドラマの主要登場人物らしいですね。そこで、『名将言行録』からこんな話を引用してみました。

「秀吉曰く、信長公は勇将なり、良将にあらず、剛の柔に克つことを知り給ひて、柔の剛を制することを知られず。
一度敵せる者は、其の憤怒終に解けずして、悉く其根を断ち、其葉を枯さんとせらる、故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。
是れ量狭く器少なるが故なり。人の為めに憚らるれども、衆の為めに愛せられず、譬ば虎狼の如し。

其嚼れんことを怖ると言ふとも、見る者之を殺して、其害を免れんとす。是明智が弑逆の依て生ずる所なりと。依て秀吉は其弊を革(あらた)め、敵する者は之を伐亡せしかど、降参せば、譜第同前に懇にし、心を置かざる故、昨日まで敵対せし者も、身命を棄て忠節を致すべしと思ふ故、謀反する者之なく早く天下を平治せり。」と。

 というわけで、「事件」にはそれなりの理由があったのかもしれませんし、秀吉の生き方や考え方も参考になりますね。

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伊勢神宮と中江藤樹 
Sunday, February 2, 2020, 07:03 PM
旧正月もおしまいですが、伊勢神宮の参拝が結構盛んなことから、そのことについての、いわば原理原則論と武士道との関係を考えてみたいと思います。

そのきっかけになるのが、中江藤樹という人の生き方です。
今や、近江聖人・中江藤樹の名前も忘れられそうですが、昔は孝子として、聖人として、有名ですよね。この人、1608年に生まれ、わずか41歳で亡くなった江戸時代最初期の人です。彼が書いた本、特に『翁問答』の後半部分は、士道(さむらいどう)としての侍の生き方を書いています。その中に『甲陽軍鑑』のことも書かれていますから、多分、「武士道」という言葉を最初に多用した『甲陽軍鑑』より、若干後れる書物ではないかと思いますが、いずれにしても最も古く「武士道」や「士道」を説いている一人ということができます。

さて、中江藤樹の一生の概略は彼の年譜によって知ることができます。まずは、近江の農家に生まれたのですが、おじいさんが加藤公の家来として、米子や伊予の大洲で仕事をし、彼はそのおじいさんの養子となって、大洲に行きました。しかし、27歳のころ、当時もう高齢になっていた母のため、郷里の近江に帰ったというわけです。このあたりについては、その昔の、講談社だったか小学館だったかの絵本では、若くてきれいなお母さんが帰ってきた中江藤樹を「学問の途中でやめてはいけません」と叱る場面等が出ていましたが、実際は相当な年寄りであり、藤樹も27歳になっていて、あれははっきりいって?です。
そんな話は別として、まず彼の勉強ですが、最初は朱子学から入りました。そして、彼にとって大きな問題が「格套」ということです。要は、朱子学的なピッチリとした原理原則を大事にするということです。それは一言で言えば「述べて作らず」。特に「四書」という朱子の編み出した4つの経典をそのまま内容を深化させるだけという、悪く言えば道学先生的なコチコチです。なので、彼は30歳の時、結婚します。これは論語に「三十にして立つ」という言葉があることから30歳で結婚したということの様で、いかにもコチコチ人間であることがわかります。

ところが、彼の考えは段々と深まっていきました。特に、儒教の根本的な経典である『孝経』の「孝」という考え方が、一般的には親に対する孝行、というものだったのを、どんどん深めていきました。「孝」の観念は、東アジアにおける新石器時代からのものともいわれ、現に博物館などでもそのような展示が見られますが、要するに、この体は親から受けたものだ。だから「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という有名な言葉になるわけです。そして、そこから「忠」というものも生まれてくるというようなわけで、儒教の根本です。
ただ、中江藤樹はこれをさらに深めて「孝」の元はなんなのかと考えた時に、それは「天」であり、天そのものが孝である。それは、我々の体の中に体されているということになりました。しかして、日本で天というと天照大神が祀られている伊勢神宮。しかし、30歳前半までの藤樹は、伊勢神宮はあくまでも、この格套の観念からいくと、皇室の宗廟であるから一般庶民が参るところではないと考えていたわけです。これはある意味儒教の常識であって、『佐賀新聞(2007年7月13日・高尾平良)』にも伊勢神社の話が出ているのですが、「伊勢神宮は古くから皇室の宗廟として、未婚の皇女である斎宮によって奉祀され、神前への奉幣も天皇に限られ、皇族の奉幣すら禁じられていた。が、9世紀には皇室内の主導権争いにからんで、伊勢神宮に奉幣する皇族・貴族があらわれ、延暦年間(782-805)の『皇大神宮儀式帳』によれば「王臣家ならびに諸民、幣帛を進めせしめず重ねて禁断、若し欺事をもって幣帛を進むる人を流罪に…」と、天皇以外の奉幣を重罪としている。しかし10世紀初めの『延喜式』の『大神宮式』には「…幣帛を、三后・皇太子もしまさに供すべき者あらば臨時に奏聞せよ」と皇后・皇太后・太皇太后および皇太子に限り天皇の許可を得ての奉幣を認めている。古い時代の伊勢神宮は、庶民信仰とは程遠い神社であった。」と書かれているとおりです。

そして、このことを強調したのが、むしろ後代になるのですが、水戸黄門であり、『日本倫理思想史』を書いた和辻哲郎先生は「士道の立場は怪力乱神を説くことを好まない。『西山公随筆』などには顕著にこの傾向が現れている。伊勢神宮のために初穂を集めて歩く御師の活動などは、彼(水戸黄門)の喜ばないところであった。元来伊勢は日本の宗廟であるから、その祓、供物などは、民衆のたやすく受くべきものでない。これが彼の主張であった。…士道の立場はまた鎌倉時代以来の武者の習をも好まない。軍記物で賛美された主従間の献身的道徳は、室町時代にあっては、義経記や曽我物語として民衆の間に沁み込んだが、しかし義経主従や曽我兄弟のような民衆的英雄は、光圀の眼には、士として上乗のものではなかった」。と言われています。
これが葉隠武士道と対極の「士道」です。

したがって、水戸黄門の場合は、伊勢神宮に当時あった御師、即ちお札をくばる職業などはとんでもないことだということになり、その伝統が現在も伊勢神宮にはありますから、そこには、賽銭箱というものが原則的にありません。あくまでも特に伊勢の内宮は皇室自体の宗廟であり、お参りをするのは皇室だけだというような考え方なのです。私達の今の常識からは相当離れていますね。しかし、それが逆に伊勢神宮がアジア的、ということでもあります。

もう一度話を中江藤樹に戻しますと、彼によれば、天照大神というものは天であったという考え方です。そこで、ちょうど33歳の時、王陽明系の王龍渓の書に触れることがあり、ここで初めて格套から抜け出すことができ、真実性というのはこの我々すべてのなかに備わっているのであり、その大本は天にあるのだというような、分かりやすくいえば大きな発想を持ち、そして、伊勢神宮をそのための大切な場所という風に認識し直しました。それで34歳の時、初めて伊勢神宮に参ったというわけです。

こうして彼は、現在では日本における陽明学の祖であると言われており、また水戸黄門らの朱子学をもとにした山崎闇斎的な武士道とも全く異なる発想をもった、私にいわせれば広い考え方を持った士道の人だということができると思います。この考え方は、さらに押し詰めていけば、あらゆる宗教の同一性や世界的な広がりに繋がっていくのではないかとも思ってもいるのです。

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戦争時、法はとまらなかった!? 
Monday, December 23, 2019, 12:53 AM
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そもそも北部九州において、鎌倉時代・源頼朝からその統治権を与えられたのは、横浜を出身地とする武蔵の藤原氏、即ち武藤氏であり、太宰の少弐に補されたことから、後に少弐氏を称しました。武藤弐の前は、平家の家人・原田種直らが少弐家を継承しており、要は日宋貿易の日本側の窓口となる地位が少弐だったというわけです。律令のいわゆる四等官制の中で太宰府の場合は、「帥、大弐・少弐、大監・少監、大典・少典」の区別があり、実際上は現地の少弐が最も大きな力を持っていたようです。

ですから、当時の唯一の貿易港・博多を押さえた少弐氏は、極めて国際的かつ重要な地位にあり、また、もちろん利権を持っていたということです。ちなみに、同じ九州の東側は大友氏が、南は島津が、やはり鎌倉幕府からその統治権限を与えられていました。のちに、大友氏も、博多については、特に息浜(おきのはま)を押えて貿易にかかわりました。このような鎌倉以来の少弐氏の地位を簒奪し、筑前・博多に利権を得ようとしたのが中国の大内氏というわけです。

大内氏は、百済の琳聖(りんしょう)太子の末裔を称して朝鮮貿易を行い、特に大内義弘は、朝鮮に領地を請うことまで行い、日本史でも習う応永の乱において、堺で室町幕府の足利義満への反旗を翻し、鎌倉の足利満兼とタイアップしてそれを滅ぼそうとしましたが、敗北しました。しかし、その後も、弟盛見らは、国際性による十分な財力に物を言わせ、少弐氏を圧倒する姿勢を示します。

この間、将軍から中国との貿易権を得たことは、数回前の「寧波の乱」に書いたとおり。

そのような中、応仁・文明の乱で、大内氏が京都に出払っている間に大宰府を回復したのが少弐政資でしたが、1497年、佐賀の多久に追い詰められて、遂に自刃。
「花ぞ散る 思へば風の 科ならず 時至りぬる 春の夕暮」は時々お話する名歌です。
かくして、1530年頃、大内氏は佐賀を攻めましたが、田手畷の戦いにおいて鍋島清久の軍勢のため蹉跌。ただ、これらの龍造寺、鍋島らの勝利は全く局地的なものでしかありません。少弐政資の後が少弐資元ですが、これまた多久で自刃に追い込まれました。一方、大内義隆は1550年、上記局地戦の勝利に貢献して力をつけ戦国大名化してきた龍造寺隆信に、自身の「隆」の字を与えて「隆信」とし、現在佐賀にある高伝寺も山口の瑠璃光寺の末寺というわけで、着々と肥前にその地歩を占めようとしました。国宝の瑠璃光寺の塔は、中国南部の塔との共通性を強く持っています。しかし、ご存知の通り大内義隆は1551年陶晴賢のため、長門の大寧寺に於いて自刃に追い込まれます。一方の少弐氏はその後も少弐冬尚、少弐政興まで頑張っていましたが、ついに龍造寺隆信のため、その命脈を断たれることになります。

この流れをどう見るかということなのですが、一つは鎌倉政権が下した一種の行政処分(現代の法律学では公務員の任命行為は講学上特許といわれます)としての地位が数百年にわたって法的権威を持っていたこと、それによる貿易権が大きな意味を持ち、大友氏も正に鎌倉的秩序を維持しようとして肥前に攻めて来たりしていました(1570年今山の戦い)。こうした「法的地位」は全国的に確固たるもので、だから守護大名、戦国大名の区別もできたと思います。例えば、会津の芦名氏は、これまた頼朝からもらった地位を、伊達政宗に滅ぼされるまで、400年にわたって維持してきたというわけです。

「戦争時法は死滅する」というのは一つの法諺ですが、逆に、このような戦国時代の方が、自らの法的地位をきちんと提示しつつ戦争を行うという意味から室町幕府、あるいはむしろ朝廷による地位というものを大義名分として押し出して戦争をしていた。ですから、大内氏は少弐に優るために、太宰の大弐を手に入れるということも行われました。そのような法的な仕組みがあったればこそ、足利将軍もそう簡単には滅亡しないで、後々までもその地位を維持したということでしょう。織田信長は、確かに足利義昭を追放はしましたが、将軍家が潰れたわけではないわけです。

逆に、徳川時代になってからのほうが平和になって、そのような厳しい法の運用がなされなかったともいえます。例えば、末弘厳太郎教授の言われる「嘘の効用」などというのは、その極致とさえ言えます。法の解釈、即ち「嘘」に「効用」があってよいのか、名著ではあるもののちょっと反省してみたいものです。果たして現代はどうなのか。平和であるがゆえにこそ、法の支配が貫徹されて…いないかもしれませんよね。
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江戸時代における大陸からの人々の渡来とその武士道への影響について 
Saturday, November 9, 2019, 06:58 PM
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1600年代における外国人特に明人の日本への渡来の大きな原因は、1644年の明の滅亡ですが、その前に秀吉の文禄・慶長の役もあります。そのやってきた明人たちの数については、100年後1700年ころの長崎の統計では6万人の内の1万人、全国では数万人規模でやってきたことは間違いありません。

『外来文化と九州』の、ごく一部を引用すると、「はじめに、九州以外の各地における戦国末から鎖国前の在住唐人の活動の一端を、寛政6年跋の小宮山昌秀『西州投化記』等に拾ってみよう。古くは遣明船の通事の宋素卿こと朱縞・林従傑・閻宗達、奈良西大寺で豊心丹の製造法を伝えた張三官、京一条で饅頭屋を営み虎屋の祖と言われる三官、幼くして倭寇の俘虜となり、のち嵌金等の工芸に秀れた淅人の潘鉄、同様の事情で渡日し京都妙覚寺で写書等にあたった福建興化府出身の陳体経とその父や兄があった。信長に召出されて安土城の瓦を焼き、その技法が全国に波及したとされる瓦焼一官(一寛)と、江戸芝の「八官町」に屋敷を与えられ町名はその名に因むという子の八官、天正7年(1579年)に家康の夫人関口氏を治療したという唐医減慶、また子が上総介忠輝に仕えて妻の姓により花井遠江守と称し松代城2万石を領し、孫は旗本の主水正義雄と名乗った唐人八官もいる。……」と枚挙にいとまなし。これは「九州以外」のさらに一部なのであって、同書では、佐賀を除いた博多・臼杵・府内ですら甚だしく多いです。

その中国人(明人)たちがどういう気持ちでやって来たかというと、唐通事は明の遺民とその後裔で、日本古代の鴻臚館、清朝でも鴻臚寺の属官として、たんなる訳官ではないわけで、他のオランダ通詞などとは異なり鴻臚館の格式に則った「通事老爺」として唐人の尊敬をうけている云々と。つまりは外交官。
彼らは、親の代は中国系の服装もしていますが、子どもの代になると完全に侍の恰好になって名前も「○○衛門」などと改め日本人になってしまいます。その為、同書でも「同化した」という発想で書かれています。

しかし、私としては、同化ではなくて逆に日本の中にそれらの文化が入り、あるいは徹底的に扶植したのではないかと思います。
そして、元からいた日本人も、その新しい文化に目覚めて、自分たちの行動様式を完全に変えたのではないかと考えています。ちょうど戦前の日本がアメリカに占領されることによって、今の日本になったこと以上の深甚なる影響があったのではと。要は影響を与えたのが「アメリカ」だったか「明」だったかというだけの違いです。こんなことを書くと「固定観念」からの反論があるかもしれませんが、その現象は、今の中国に日本が同化されたというわけではなくて、そもそもその前の明と清とが全く違う国だったということを踏まえなければなりません。明は伝統的中国国家、清は北方ツングース系の国です。それは、北京と南京との違いを見ればわかることですし、ここ数十年前の蔣介石の行動からも見て取れます。ここのところを正確に考えないために、「同化」という表現が出るのでしょう。それどころか、現に実際に、山崎闇斎系の「神儒一致」の武士道が出現したこと、「武士道観」がすっかり変わってしまったことを見なければいけません。

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この下の話につながる寧波の話 
Wednesday, October 16, 2019, 07:22 PM
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この下の、脊振山の話しで一部ふれた、日本と中国との貿易における中国側の入口である寧波について一言。

まず現代の寧波です。意外に日本では知られていないかもしれませんが、日本政府作成の「世界の港湾取扱貨物量ランキング」で2017年、世界第4位という大きな港です。ちなみに同じ表で日本は、2002年には20位までの間に千葉と名古屋とが入っていたのに、2017年の統計ではいずれも圏外に外れてしまいました。空港もぱっとしません。日本はもっと頑張らなければいけないとつくづく思います。
ところでこの寧波、位置的には上海の南、杭州湾の南にあって、日本の五島列島をまっすぐ伸ばすとこちらの港に行き着きます。そして、遣唐使の時代から千年以上、この寧波から運河を通って紹興、杭州と通り、蘇州から鎮江、揚州そして大運河を通って長安や北京に行くというのが日本から中国へのメインのルートでした。ですから昔から、たくさんの日本船がここにやってきました。しかもこの寧波の東側には舟山列島という合計すれば1000にも上る島々があり、正式な貿易ができないときにはこの舟山列島を通じて私貿易が行われました。

ここでは、遣唐使の時代は(空海や最澄がいますが)とりあえずカットして、中世においては栄西や道元をはじめとした多くの僧、特に禅宗の坊さんがこの寧波に行たことを指摘したいと思います。寧波の近くには、天童寺や阿育王寺、足をのばせば天台山、さらには霊隠寺、径山寺などなどの多くの寺が集まっています。ですので、日本から坊さんが行ったのも当たり前です。もちろん中国からも蘭渓道隆、無学祖元など多くの僧が来ました。

そして、貿易の面では、鎌倉の寺社造営料船はもとより、室町時代には足利義満による勘合貿易の勘合船がここを通りました。したがって、福岡市立博物館や寧波博物館を訪れると、例えば博多の商人が寧波に道路を寄進したその石、寧波で焼いた瓦が博多のお寺で使われていることなど、様々な交流のあとを見ることができます。

しかして、時代が下って室町時代後期になると中国地方の大内氏が将軍の持っている貿易権を簒奪します。その貿易ルートは兵庫つまり今の神戸から博多を通って寧波に入っていきます。また大内と対抗する細川氏の場合は、堺から南海公路を通って鹿児島の坊津からやはり同じように寧波に入ります。こうして、博多と堺が重要になり、この2つの港の勢力つまりは日本人同士と、元中国人である日本人(?)とがちょうど寧波でぶつかったのが1523年の「寧波の乱」というわけで、この際、細川方は期限切れの勘合符を利用し、明の官憲と結託して席次も上位に座ったため大内と細川の騒乱になって、隣の国で相当な戦争を行ってしまったということ。これが「寧波の乱」で、その昔日本史で聞いた話でしょう。
こうした状況を大きく見れば、いつも言うとおり、「当時は武士と商人とが一致」という中世らしい姿です。

この「寧波の乱」の後、日本が正式に中国に入って貿易することが困難になり、上記私貿易、舟山列島を中心とする私貿易が一層盛んになり、当然倭寇が跳梁跋扈し、その中の頭目である王直(彼の家の跡は平戸などにあり)が、1543年、ポルトガル人を種子島に連れてくるということもありました。いずれにせよ、全て寧波がらみの話しです。

一方、江戸時代に入ると、博多ははずれて、長崎が日本の出入口に。そして、中国が許可状を出す勘合貿易とは逆に、江戸幕府が許可状を出す、特に糸割賦制というものが始まりました。中国産の生糸をポルトガルなど経由で輸入するについて、ポルトガル商人らの儲けを押えるため、日本人の糸割賦仲間とだけ貿易ができるという逆管理貿易です。鍋島にもその割当てがありました。中世における日本と中国との貿易は中国による管理貿易であった「勘合貿易」、江戸時代に入ると今度は逆に、日本による管理貿易(朱印船や奉書船も)ということになったと言ってよいかもしれません(これまた「ド」のつく素人の私の考え)。

東シナ海というところは、江上波夫先生らによれば、日本と大陸を映す鏡であると言われるのですが、ちょうど法的な貿易の仕組においても、中世と近世において、よく似た、しかし真逆のことが行われたという意味では一つの鏡的な働きをしていたということでしょうか。

さて、話を戻して、寧波と日本とはそのような長いつながりがあったのですが、その寧波が日本の武士道に最大の影響を及ぼしたのが何かと言いますと、これまたいつも通りの1644年の明の滅亡と、それにより日本吃師を行った明人・朱舜水がこの近くの人だったという事です。彼は復明のために日本に何回も使いし(来たのは長崎とか)、その影響を大きく受けて、中国の『史記』にならう『大日本史』を作ったのが水戸黄門だという事はかねてより壊れたテープレコーダー式に書きました。現在「寧波博物館」に行きますとその『大日本史』がしっかりと置いてあります。

東京帝国大学教授・穂積八束によれば、この『大日本史』が導いた水府の史論(後期水戸学)が明治維新を惹起したと言われているわけなので、明治維新を起こしたのは、この朱舜水たち明人だという考えもあります。これはほぼ100%当っていると思います。

最後の部分はバックグラウンドが分からないと理解しにくい話で、日本の中学高校教育において、日本史・世界史という分類により、アジアの歴史が日本の歴史にどう投影しているかということがしっかりと教えられていないことが問題かと思います。元文科省主任教科書調査官にも再三お話ししましたことなのですが。
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