ウクライナ情勢と「識者」のコメント 
Tuesday, January 25, 2022, 02:03 PM
ウクライナ情勢が緊迫、と報じられています。

確かにドネツク近くやベラルーシではロシアの戦車など、戦闘車両の集結が見られるようですね。

しかして、このウクライナ人、実は東方にも相当程度居住されています。これは、もともと農業の民だったので、日本でいえば明治時代あたり、相当な東方への移住があり、東シベリアにはウクライナ自治州を作る話もあった。ちなみにハバロフスク近くには現にユダヤ自治州がある。そして、中国東北のハルビンにはウクライナ教会が今も稼働している。

そんな複合的見方が必要でしょう。

ところが今朝の誰かさんのコメントを見ると、そんなバックグラウンドは全くなく、NATOの構成員であるドイツも燃料をロシアに依存しているから〜とかいうどこかに書いてあった上っ面だけのコメント。

これじゃ、時間の無駄と思われました。
また、突然ドンパチ始めるのではなく、違う方法が頭のよいやり方。もっとも急にドンパチは歴史上遺憾ながら東方の諸国。

この辺の「性格」も重要な要素でしょうね。
  |  このエントリーのURL
修験道を葉隠から考える 
Thursday, January 20, 2022, 06:29 PM
彦山(ひこさん[霊元法王により、英をつけ英彦山と])が現在のような形になってしまった経緯をちょっと考えました。

まず『葉隠』に鍋島清久という人が出てきます。この人は鍋島直茂の祖父で、お祭りの前に「昆布巻」になるフナを夫婦で逃がしたという慈悲深い人です。清久の代は、未だ鍋島家はごくごく小規模な武士団に過ぎませんでした。それで、『葉隠』にもあるとおり、清久は、鍋島家が肥前の主になるように、毎年、現在福岡県と大分県との境にある修験道の本拠地、神仏習合の彦山にお参りをしていました。

或る年の雪の頃、清久は、崖の上から足を踏み外して雪が積った崖下に転がり落ちてしまいました。このくだりを『葉隠』は、「その外、御善根御慈悲、限り無く候。兼々彦山御信仰なされ、毎年年越に御参籠なされ候。或時上宮なされ候處、大雪降り道筋相知れず、ほき落ちなされ、谷に御落ちなされ候。其の辺を御探しなされ候へば、弥陀の三尊御拾ひなされ候。御持帰りなされ、徳善彦山御勧請の御本尊に遊ばされ候。彦山の本地弥陀の三尊にて候由。不思議の御事にて候。其の功徳にて御家御繁盛と相見え候由」と書きます。
そして、清久は、くだんの「阿弥陀様は彦山の本地仏」と考えて、佐賀に持ち帰り、佐賀市の西、高橋というところにある徳善院にお祀りをしました。そしてその結果、鍋島家が肥前の主になれたことから、後に山本常朝は『愚見集』の中で、この徳善院と、鍋島氏の菩提寺・高伝寺と、百万部の祈祷をしていた万部島の三か所を特に尊崇しなければならないと書いているわけです。こういう話が「武士道書」・『葉隠』の言っていることです。教訓話だけではありません。

この徳善院ですが、一般的には、室町時代にできたと書かれています。しかし、私が20年くらい昔、徳善院のご住職に伺ったところによると、北部九州の古くは仁和寺の領地、荘園であったと。それで仁和寺系の寺院が福岡から佐賀にかけて非常に多く、徳善院もその一つであったと言われていました(現に現在も真言宗御室派)。

なぜかを『肥前国史』などで調べると、紀元800年代の始め天皇であった仁明天皇は、体の具合が悪くて中国からの薬草がどうしても欲しかった。それで、自分の息子を大宰帥(だざいのそち)にしました。この方が後に光孝天皇に。その方から宇多天皇が出ます。その宇多天皇が御所を置いたのが仁和寺です。ですから仁和寺を「御室」とも言います。
そんなわけで、北部九州と仁明天皇や仁和寺との関係は非常に強く、例えば、神埼市にある仁比山(にいやま)神社は仁明天皇の仁と、比叡山の比とをあわせてた名前。また、関東では成田山など新義真言宗の開祖で仁和寺で修行した覚鑁上人は佐賀県鹿島市の誕生院に生まれました。

以上は余談ですが、そんな鍋島清久の故事から、肥前における英彦山の御札配りの本拠地が徳善院になったという次第です。英彦山は、鍋島家の厚い尊崇を受け、2代藩主鍋島勝茂による国の重要文化財・銅(かね)の鳥居、鍋島光茂による石の鳥居、上宮は鍋島斉正が寄進。銅の鳥居から上宮に至るまで全面的に石が敷き詰められた石畳の参道があり、その両側にはかつて山伏の房が並んでいたのです。大陸に負けないくらい正に巨大です。徳善院もミニ彦山で、山伏とお坊さんの建物が山門の南側にあって、本堂の西側には彦山権現が祀られていました。そこにも鍋島直弘が石の鳥居。字は韓国から来た洪浩然。
ところが、明治維新がこの2つの場所に大きな影響を与えます。

まず、徳川時代において九州全体を取り締まっていたのは、小倉の細川・小笠原藩でした。そして、幕末になって長州と小笠原とは正に敵対します。その時まで、当然小笠原藩が英彦山を支配し、保護を加えていたのですが、英彦山の山伏達(の一部)にとってはこれが鬱陶しく、長州と連携し、明治維新を起こすについて大きな力を働かせました。その途中の文久三年(1863)には、「勤王山伏」が何人も斬首される事件も起きます。一方では「神兵」という勤王山伏の激しいグループができたりします。
いずれにせよその結果明治維新が達成されたわけですが、たびたび述べるとおり、大隈重信や東京大学の憲法学者・穂積八束に言わせると、維新は神儒一致の儒教主義(水府の史論)と国学とによってなされたと言われます。この国学は、復古神道につながり、神様と仏教との習合を認めません。

こうして、維新後の明治元年(1868)、いわゆる神仏分離令が出され、明治5年、修験宗自体が禁止。続いて廃仏毀釈が行われます。つまり神社とお寺とが一緒にある英彦山は認められません。この問題の経緯は、正に山伏の子孫でもいらっしゃる長野覚先生の『明治維新と英彦山山伏』などに詳しく書かれていますが、山伏達の行動つまり勤王に走ったがための山伏自体の廃止という結果、正に矛盾の極致になってしまったのです。

そもそも山伏というものはどういうものか。頭の上に大日如来のような宝冠をかぶり、自然と一体となって大自然を感得し、自分自身を大自然に融合させ、衆生を済度するとかいう意味のようです。ところがそういったことをこの神仏分離のコンセプトは認めません。山伏は全部還俗させて、神官になれ、ということになりました。そして英彦山権現は英彦山神宮になって、それまでに小倉藩の細川忠興が寄進していた霊山寺大講堂は奉弊殿になります。現在、英彦山に行ってみると山伏の房はわずかに1つだけ。あとは「その跡」だらけ。しかし、鍋島との関係を表す痕跡としてのいろいろな物が残っていることは嬉しいものです。
一方、佐賀の徳善院の方はどうなったかというと、これは純粋なお寺になりました。ただし上記の鳥居は残っており、その鳥居の前には昔は山伏やお坊さんの家があったのですが、現在はそれが全て取っ払われて田んぼとなっています。

そして、このことによる問題は、英彦山にしろ徳善院にしろ経済的な損失です。英彦山はもちろん鍋島の応援がなくなり(今でも一部「彦山参り」をする人々がいるようですが)、徳善院の方も鍋島家が明治維新で江戸に行ってしまったことからそのサポートがなくなりました。おまけに、昭和20年の敗戦により、それまで持っていた田んぼを農地改革で失うということがありました。従って、昭和30年代の初めまで残っていた二代光茂による立派な山門も遂に解体となってしまったわけです。つまり常朝さんの願いは叶っていません。

以上の歴史ですが、私としては、この山伏というもの、いわゆる修験道というものは相当に奥の深いものじゃないかと思っています。北部九州を見た場合、この英彦山が胎蔵界、宝満山が金剛界ともいわれます。大自然が顕す一種の曼荼羅です。さらに天台系の脊振山とか色々。大観望から見た阿蘇山は正に寝釈迦。大陸との関係では韓国の南山、山東省の泰山、更にはアフガニスタンのバーミヤンにまで共通するところがあり、この辺りをもう一度改めて考え直して見るべきではないかと思います。先に述べたように大自然と一体になる自分という考え方はもっと大きな意味がありそうです。

  |  このエントリーのURL
明けましておめでとうございます 
Thursday, January 20, 2022, 01:20 PM
今更ですが、おめでとうございます。

昨年、久しぶりに本・『法律から読み解いた武士道と、憲法」元就出版社を出し、これからまたもとに戻って言いたいことを書いたり発信したり(具体例は過去のブログにあります)しようかなと思っていたら、このサイトの大元に事故発生で、心ならずも止まってしまいました。

とりあえずこのブログは再開します。

と書いたところでzoomの会議が近づきましたので、続きはすぐに。
  |  このエントリーのURL
[孝」と武士道 
Friday, November 26, 2021, 06:53 PM
 「孝」という観念については、京都大学教授を務められた桑原隲蔵(じつぞう)先生(桑原武夫さんのお父さん)の言葉に、「孝道は支那の国本で、又その国粋である。故に支那を対象とする研究には、先ずその孝道を開明理解しなければならぬ(『支那の孝道 殊に法律上より見たる支那の孝道』)」とあります。
『孝経』の「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という考え方が中国の古い昔からの中心的な観念として存在するのだということです。そして、これが歴史の中に時々頭をもたげては色んな事象を起すので、中国だけではなく日本や、特に韓国のことについても、そのことを踏まえることは大切だろうと思うのです。
そこで、この「孝」の観念を、肥前において、一七一六年(享保元年)の『葉隠』成立の前、元禄時代にしっかり打ち出したのが誰かというと、一六九五年(元禄八年)から『月下記』を書き始めた武富廉斎ということになります。
福岡女子大学教授を務められた井上敏幸先生の論考(かつて佐賀に存在した雑誌『新郷土』創刊四〇年記念出版『佐賀の文学』所収)を引用すると、武富廉斎は、「佐賀の白山に住した藩御用達の呉服商で、代々長崎貿易に従事し、町人頭の家格を持った富商であった。元禄七年、五八歳の折、鍋島綱茂から藩の儒者に仰せつけられ、……儒学に熱中した廉斎は元禄五年私財を投じて『大財聖堂』を建て、このことによって後年、多久茂文の『多久聖廟』建設に際し、様々な形で、その息子の英亮と共に参画した」とされます。
廉斎は中国の明末の動乱期に日本の佐賀にやってきて今宿などを支配した明の十三官の曾孫であり、上記のとおりの富商です。現在、佐賀市大財町(おおたからまち)には「明十三橋(あけとみばし)」があり、立派なご子孫もたくさんおられます。廉斎は、当代の著名な儒学者、伊藤仁斎、藤井懶斎(らんさい)、貝原益軒などとも広く交わっていたそうで、五九歳の折に書かれた『月下記』も、こうした広い学問的交友の中から着想したもので、藤井懶斎の『本朝孝子伝』(一六八四)をよりどころにし、地元肥前を含めた多くの孝子を登場させています。佐賀にもたくさんの孝子がいたわけです。
そしてそのころは、全国的にも、「孝子伝」が次々と生れてきますが、武富廉斎の曽祖父が上記のとおり儒教国家・明の内乱をさけて渡来した一人であったことが極めて大きいと思います。つまりは「孝」の拡大傾向も国際関係のなせるわざです。
冒頭に書いたとおり、孝はアジア文明の本質で、「孝子伝」自体、黒田彰先生の『孝子伝の研究』などによれば相当古い歴史をもっていて、漢の時代から孝子を載せた本や焼物があり、その中には、孟宗竹で有名な孟宗のように真冬にタケノコが食べたいと言う親のために一生懸命探したらタケノコが生えてきたとか、養老の滝のように、親孝行の息子のために滝がお酒になったなどという奇譚もあります。あるいはむしろ、復讐譚。親が殺されたときの敵討ちも孝から出てきます。
そのころ、幕府も孝の子供を徹底的に顕彰するという方針を打ち出していきます。ですから江戸時代の武士の価値観を決めたのがこの国際的インパクトによる「孝」の発想なのだと。そこから色々なものが出てきたのだということはやはり押さえておかねばならないことでしょう。
これに対して、『葉隠』とほぼ重なってくる井原西鶴は『本朝二十不孝』という、逆に親不幸の人を書くと言うので、これは正に芸術家らしい「逆らい方?」かなと思うわけですが、とにかくおもしろい。
そして、井上先生が以上に続けて挙げておられるのが、『葉隠』です。
井上先生はそこで『葉隠』を、この『月下記』と同じく『仮名草子』として取り上げておられ、「『月下記』は人倫の道としての「孝道」に焦点をあて、朱子学的規範と朱子学的道徳への目覚めを促そうとするものであったが、これに対して、『葉隠』はむしろ、儒教的な士道論に対する批判的姿勢を持つものであった。さらにいえば、儒教の影響を拒みつつ、戦国武士の思想の余習を、その発想の核として、佐賀藩主に対し、また藩そのものに対する武士の献身の伝統を心情の内面に向けて深く掘り下げたものであった」とする『日本思想大系二六・三河物語・葉隠』相良亨先生の見解に賛成しておられます。私もそれが正しいと思いますし、真の武士道理解のために、相良先生やその先駆者・和辻哲郎先生の考え方は必須です。
井上先生はその論考の末尾で「『月下記』と『葉隠』とは、孝道論(前者『月下記』・士道論)と士道論(後者『葉隠』・むしろ武士道論)という違いはあるものの、文治主義が浸透してくる元禄時代佐賀藩の思想交代劇の一部を垣間見せてくれる、恰好の仮名草子風著作物だったのである」とされていますがまさにその通りでしょう。それは全国的な傾向でもあります。
元禄という時代が、戦国時代から文治主義の時代へと移行していく、その過程の中にある『月下記』であったり『葉隠』であった。そのバックには、改めて、国際関係の変化が重要であったということを忘れてはならないというのが私の考えです。

  |  このエントリーのURL
オボ(オボー)の話 
Friday, November 26, 2021, 06:48 PM
大隈重信が『大隈伯昔日譚』の中で述べる、あるいは、東京帝国大学の教授であった穂積八束が『法学協会雑誌』の中で述べていた明治維新の原因、それは突き詰めて言えば、『葉隠』すなわち相良亨先生の言われる「武士道」、とは対極に位置する、_馗邸水戸の神儒一致の発想、それに∪仰考証学(考拠学)の影響を大きく受けた復古神道(国学)、この ↓◆△弔泙蝓柄衫廟萓犬慮世錣譴襦嵒雹瞭察廚任呂覆ぁ法峪瞭察廚その原因をなすと言われていることから、改めて△慮気砲△襦嵜斉察廚箸いΔ發里鮃佑┐討澆燭い隼廚辰燭錣韻任后

このあたりも私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』にも書いてありますが、ちょっと不足しているので、改めて今般取り上げてみました(でもやはり時間も紙数も足りません)。

 そもそも神道と言っても、もともと日本にあったいわゆる古神道(?)というものと、江戸時代に本居宣長や平田篤胤によって、いわば作られた復古神道、つまり△箸和腓い飽曚覆蠅泙后もちろんいわゆる国家神道も異なります。
そうして、むしろ逆にその古神道と「オボ(OBOO)」とが関わってくるのではないか、という一種のロマンを考えたいのです。

まず「オボ」とは何かというと、私の本の中に写真が出ている石堆、つまり石を山の形に積んで真ん中に旗を立てたものです。写真のものは内モンゴルの一部、現在の河北省(旧熱河省)の避暑山荘にあったものですが、この「オボ」は、モンゴル人のいるところだけではなくて、アジア全域に広がっており、むしろ北方のオホーツク文化や、巫女(シャーマン)の文化と繋がるという話もあります。

一方、チベットの映像を見ていると、オボが次から次へと登場します。ですので、現在ではチベット仏教の「マニ堆」だという説明も河北省あたりではされています。しかし、白莉莉さんの論考「オボーと十三塚信仰の比較考察」によりますと、内モンゴル赤峰市では、むしろ新石器時代の中晩期に、最初の石積祭祀が現れ、オボに非常によく似ているものであるということで、チベット仏教のモンゴルへの渡来より遥か以前からユーラシア大陸全体に、このオボに相当するものが存在したということになると思います(モンゴルの現在の姿は仏教と習合した姿)。

そうなると、では韓国とかにもあるのではという話になるわけですが、韓国には「防邪塔」というものがあって、これも全く同じように石を積み上げて、一番上には出っ張った部分がある。私は、これはどう見てもオボと同じか関連あるものだろうと思います。

そうすると、では日本ではどうなのか、という話です。1か月ほど前、宗像大社の沖ノ島の映像を見ていたら、まさにそのようなものが出ていました。しかも、江戸時代の学者・貝原益軒大先生の『筑前国続風土記』の宗像大社・沖ノ島の項(沖ノ島は俗称で、本来は「澳津島」)を見ると、「なれこ石と云石有。初て此島に來る者は、海水に浴し、夜中に此石の辺を回る。」とあり、このことは松尾さんのチベットのご経験や諸本にあるモンゴルの慣習、つまり3回その周りを回ることとそっくりです。
さらに、4週間ほど前、たまたまテレビの「ブラタモリ」を見ていたら、淡路島の伊弉諾宮(いざなぎぐう)が出てきましたが、そこも、社殿の奥の奥を訪ねていくと、最後は石積みが出てきました。

元々大神(おおみわ)神社などが有名ですが、古神道からいうと社殿というものは本来なかった。いわゆる磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神籬(ひもろぎ)等々、石、山、樹林がご神体で、それを祀るために後で今の神社建築がくっついたということは間違いないようですよね(あるいは太宰府天満宮のように、菅原道真のご遺体を埋めたお墓の上に拝殿を建て、本殿はないというところもあります。もともとは安楽寺です)。

そんなことを考えていくと、一体この日本の神社というものも、広くユーラシアと一体だと考えるのが一番自然なような気がします。そして、むしろ京都大学の貝塚茂樹先生が『中国の古代国家』の中で、この「オボ」が「土」という字の元であるということを図を交えつつ詳しく説明され、そこにおいて、「オボ」がフランスの歴史学者クーランジュの『古代国家』の記述から、ローマを作ったロムルスの国家づくり、すなわち、土を掘って城壁をつくる作業、更に数回前にとりあげた「恋闕(れんけつ)」の「闕」にも繋がっていくということを述べておられることに世界への広いつながりを感じます。しかも闕は、韓国のチャンスンと同類で。そのチャンスンとセットの鳥・ソッテと同じ鳥形の出土品が佐賀の吉野ケ里遺跡から出土し、現に復元されていること、と止めども尽きず、「国際化」していきます。
ちなみに、私のお友達であった清瀬信次郎先生(清瀬一郎衆議院議長のご子息・靖国会総裁)も、同じ平河町のご町内として、また同じ大学の教員仲間として、しょっちゅうお話しをしていたのですが、伊勢神宮が、内宮は大陸における祖霊殿に、外宮は社稷壇に相当するということもおっしゃっておられました。確かに祖霊の信仰の地である内宮と、農業神である外宮とが対になっているというのも面白いです。

式年遷宮についても、実は河北省での説明では、オボに相当するマニ堆は、モンゴル族が移動するので寺が建てられない。そこでこのようなものを建てるのだという説明になっていました。そうすると、日本の天皇家が江上波夫先生のおっしゃるように、大陸から本来渡ってきたということ(これも正しいと思います)になると、そのような騎馬民族の「移動」ということから、20年毎の式年遷宮が行われるということになるのかもしれません(あくまでも「かもしれません」の「ロマン」です)。

本当に、終りがなくなってしまいますので、とりあえずここで打ち止めとしますが、日本だけでない、広くユーラシアの観点から、日本の神道も遠くローマまでつながるユーラシアの巨大なベルトの一部と、気宇壮大な観点から様々な事象を見ることが大切だろうと思います。
  |  このエントリーのURL
【葉隠】前史と渡来人 
Friday, November 26, 2021, 06:39 PM
『葉隠』には中野甚右衛門により高麗より連れてこられた槇忠左衛門、子孫は秀島五左衛門など何人もの渡来人の話が出てきます。そして、その人々により肥前(日本)の陶磁器は飛躍的発展を遂げました。前々回の、秀吉の名護屋橋あたり通過の時、龍造寺隆信の母慶闇尼が「かわらけ」のような物にご飯を盛って差出した、というレベルから大きく進歩したのです(中島浩氣『肥前陶磁史考』)。

 更に、この秀吉の朝鮮出兵に伴って、当時李氏朝鮮を応援していた儒教国・明国人たちも日本にやってきました。このことは、その後の明の滅亡とともに、武士道の新局面を開くについて極めて重要なことがらであると言えます。しかし、当日はとりあえず焼き物の話でした。

 そこで、ここで取り上げる1人は「百婆仙」です。百婆仙は夫の深海宗伝と共に朝鮮半島から日本にやってきました。そのご子孫は現在も深海商店として、有田焼関係の絵付けに用いられる呉須を全国的、世界的に製造販売しておられます。

百婆仙は韓国の映画では「火の女神ジョンイ」。芥川賞作家村田喜代子さんの『龍秘御天歌』などで極めて有名な人ですが、私が時々紐解く上記『肥前陶磁史考』や、そこに引かれた報恩寺の塔などによると、元々高麗深海(同音の金海との説も。金海は製陶地で鍋島軍の城跡があるとのこと)の人で、日本に連れてこられ、元和4年(1618)に夫宗伝(新太郎)が亡くなると、「未亡人は此住み慣れし(武雄市)内田を引払い、平左衛門を始め同族工人960人を率いて有田の稗古場に転居せしは、彼亦決して尋常一様の夫人にあらざりしことが察せらる。其後有田に於いても磁器製造者として相当の地位にありし者の如く、今稗古場観音巖にある霊廟に金ヶ江氏(有名な李参平)と並んで深海氏と刻記されている。斯くて此女丈夫は、明暦2年3月10日(李参平死後4年目)96才の高齢を以て卒去した。今同地報恩寺境内にある百婆仙の墓碑と称するもの、即ち前に碑文を掲げし萬了妙泰道婆の塔がそれである。」というわけで、この墓碑文、なかなか難しいのですが、とにかく、高麗深海の人で鍋島軍の後藤家信に連れてこられた。白磁の製造に大功を立て、96歳で没した、などなど、現代にまで続く巨大な影響を及ぼしているわけです。

 そして、もう一人取り上げるのが村岡総本舗さんのお菓子の名前でも有名な李宗歓です。この人も(あとで)陶工を連れてきましたが、朝鮮役より6年以前に日本にやってきていて『御用唐人町荒物唐物屋職御由諸之次第』によると、「元祖宗歓儀高麗国竹浦の陸川崎と申所の産にて、文を学び武を練り(大明萬暦十五年『我天正十五年』)春三月中旬、家族を引率し海濱に遊漁す。俄に大風高波起り立ち漁船洋中吹流漂事幾日。既に食盡き飢て為死干時天道の助を得、一小鯨船に飛込み是以て飢を扶け万里の波濤を凌き終に筑前黒崎の濱に主従七人漂着す。…
日本天正十九年辛卯漁夫大蔵と申者案内にて太宰府に参籠して身の無事を祈る。此時肥州の太守龍造寺の御親郷龍造寺七郎左工門家晴様、成富十右工門尉茂安様御登阪御帰路の砌御参詣。漂流の始末粗御聞届御用有之由にて官尉御届の上佐嘉御連帰家晴様御舘被召置衣服並御扇子等被為頂戴頓而被召達御登城直茂様へ御目見被仰付御懇の蒙上意其後上々様方被為御目渡難有奉存侯。
且又段々御家老様方御屋敷へ御介副御役人御附副罷上り侯。」と。
そして、朝鮮出兵に参加し、「慶長四己亥四月御暇に而直茂様御帰国御供仕り候処 唯今住居仕候場所へ居宅仕候様被仰付 宗歓唐土の産に付町名を唐人町と御付被下御扶持(十人御扶持)被為拝領朝鮮御陣中諸用物相調候 御吉例を以御内外御用荒物唐物一手に相納御用屋職を以無退轉子孫相続致繁栄候様御意の赴家晴様御書取御披露の上御印を以被為戴冥加至極奉存事」とあります。

というようなわけで鍋島の家来になり先のとおり佐賀にある唐人町はこの人にちなむ名で、高麗の「川崎」というところの出だったので川崎を名字とした、との話。私の遠縁にも唐人町のすぐそばに川崎さんがいるというわけ(鏡円寺には川崎の名のお墓もあり)。
有田も佐賀も相当ハイレベルの人がやってきた、というわけです。もとより有田の李参平(鐘ヶ江金兵衛)は当然有名ですが、もっとたくさん。また、そのころに捕えられた孟子の子孫・孟二官が中国の浙江省・杭州の「武林門」にちなんで武林となり、孫は侍・武林唯七となって赤穂浪士となった話も何度も書きました。

福岡の唐人町なども特に中国人というわけではないという話も聞きますが、当時は現在の頭で中国だ韓国だと言っていたわけではないので、全部まとめて唐人町というあたりがむしろ正しいのではないかという気もします。

  |  このエントリーのURL
★ 本が出ました。ブログ再開 
Saturday, September 18, 2021, 03:27 PM
 私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』(元就出版社、税込1980円)は、ようやく世に出ました。

 この博物館にあるとおり、「武士道」は一つではありません。多くの人がイメージするそれは、近世の中国的儒教主義に裏打ちされたものです。つまり、日本古来のものではない。

 その昔、東大名誉教授の相良亨先生が言われたとおり、以上中国的儒教主義の武士道・士道に対して、葉隠武士道は、バックを禅によっています。
 こうした違いは国際関係を見なければわからず、新渡戸「武士道」や三島の「葉隠入門」では全く片手落ちで、本来の日本の武士の生き方が無視されています。これでは我々の「ご先祖様」が浮かばれません。

 なので、国際的に、また時代の変化に応じで、実証的に、武士の生き方それぞれの論理を追ってみました。熱を入れて書いたので余計な時間がかかってしまいましたが、中身は「一応」確かで、写真という証拠もそれなりに載せましたので、よろしければ是非、書店かネットのアマゾン、楽天、紀伊国屋etc.へ。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


これをきっかけとして、再び日々のブログを再開します。

手始めに、最近の事件ではアフガンの情勢が憂慮されます。上記の本の末尾にも、ちょうど古代世界は中国、パルチアつまりペルシャ、ローマという3区分でできていた話、それは今日も変わらない、という話を書きました。そして、パルチアにおける女性の地位のことを書いて、出版したとたんに起きたのがカブール陥落とその後の情勢です。

アメリカは、そのブッシュ政権において、昭和の日本の為政者と同様、ここの文化人類学がわかっていなかった。

話は長くなるので、今日はここまでとし、是非本をお読みください。友人のイラン、アフガンの人たちとのディスカッションによって得た感想も含んでいます。


  |  このエントリーのURL
葉隠の「太閤道」の話 
Saturday, September 18, 2021, 03:05 PM
 前回は、研究者の方にちょっと苦言?を呈したものだったので、今回はほのぼの(?)と、『葉隠』の中にある豊臣秀吉が通った道の話、つまり「太閤道伝説」をテーマにしてみました。

 ちなみに、『葉隠』という本は、単なる教訓話の本ではありませんし、もとより山本常朝さんの話だけでもありません。お坊さんは常朝さんだけではなく40人近く出てくるわけで、常朝さんが述べているところだけを取り上げて、三島何とかさんのように「『葉隠』では…」とよく本に書いてあったり言ったりするのは、時には危険でもあるわけです。それ以外の様々な歴史的な記事があり、あるいは思考・行動において参考になる事象が盛られている本であるという所を評価する、というのが良いかと思っています。
 前回の三好先生の見解もそれです。

 そこで、そんな目で『葉隠』を見ると、「聞書六」に、「太閤様名古(護)屋御在陣の処に、御母堂様御病気にて御上り、又御下向の時は佐嘉上道御通りなられ候」と書いてあります。

 これは、秀吉が1592年、肥前名護屋に陣を置きますが、3か月程して、母大政所の病気の報を聞き、上京した、という話です。現在の佐賀市の北、金立山の南にいわば旧道としてある、現在の県道、そこを通ったのだろうと思います。名護屋城から唐津を通って、そして小城市を通り、佐賀市の北・高木瀬町、神埼市を通って東の福岡県に行くというルートです。そこには現在、「名護屋橋」があって、その昔、秀吉がそこを通ったということの痕跡があります。

 更に『葉隠』では、「その節見物仕り候者の咄に、太閤様は小男にて、眼大に朱をさしたるがごとく、顔の色、手足まで赤く、花やかなる衣裳にて、足半(あしなか)をはかれ、朱鞘、金ののし付の大小をさし、刀のさやにも足半一足結付、馬上の御旅行にて云々」と情景が活写されています。足半は、田んぼなどに入る時、ペタペタしないように足の前半分だけになっている草履です。戦争でも用いられたようです。

 また、『葉隠』によると、名護屋橋に差し掛かった秀吉に対し、このとき竜造寺隆信の母慶闇尼が歓待したという話がのっています。慶闇尼は近隣の家から戸板を集め、竹四本を立てた上にのせて、堅く握った飯を土器に盛りならべて尼寺(にいじ・地名。昔、国分尼寺があったところ)の道路端に出し置かせた。秀吉はこれを見て「これは竜造寺後家が働きなるべし。食物なき道筋にて上下ともに難儀のところ、心付候事奇どく(奇特)也」と言って握り飯を手に取り「武篇(辺)の家は女までかように心働き候。この堅き握りようを見よ」とほめたということです。
 
 これについて、『肥前陶磁史考』を書かれた中島浩気さんは、握り飯を乗せた土器は肥前の近世の焼き物としては相当古いものに当る1つのエピソードであるということを言われています。
 
 話によると秀吉は、そのあと上京のため門司から大阪へ船で帰ろうとしたところ、関門海峡の篠瀬というところで船が座礁してしまい、海の中にドボンと落っこちたと。それに対して船頭(といっても実は武士)で、その隊長でもあった明石与次兵衛という人が、「毛利方が北側の浜で反乱気味(?)なのでこちらを通りました」と言ったのを多分言いわけと解したのか、かんかんに怒って切腹を命じたそうです。
 この辺りはどうもやはり秀吉という人と家康や鍋島直茂とは若干違いがある、要は武士から公家に変ろうとしていた人の行動パターンのような気がしますがもちろんはっきりとは分かりません。その事故現場には、岩の上に「与次兵衛ヶ碑」という石塔が建っていましたが、これも何回か海の中に落ち、現在は門司区の「めかり公園」にあるとか。

  |  このエントリーのURL
学者の先生にちょっと問題提起 
Saturday, September 18, 2021, 02:51 PM
「江戸時代の武士はルソーらと同様の近代的思考を持っていた…とかいう『説』について一言。

 ネットで見るとすぐわかるのですが、『武士道と徳川社会の近代化』という記事や本を書かれたK先生。この方は「主君押込」というフレーズで非常に有名なのですが、何かおかしなところがあると思わざるを得ないのです。

 それはK先生だけでなく、特に近頃の歴史系のとりわけTVなどに出ておられる先生方のおっしゃることには、どうも首をかしげたくなるような点が散見されるので、ど素人ながら、ちょっと苦言(?)を呈してみます。

 もっとも、途中まではよいのです。
上記記事1頁目の「戦国武士から近世武士へ」のところでは、中世社会においては、いわば私が言っている「御恩と奉公」的な武士の倫理観があって、主君が家来をかわいがらなければ、時には家来のほうから主君をやっつけるということもあった。7回主君を変えなければ家来としては役には立たないなどと言われていた、というようなことが書かれています。それが、江戸時代になってからは身分関係が固定され、「君、君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」というようなことになってきた、という辺り。私も正にそのとおりだと思います。

 ところが問題は2番目です。「近世武士道における批判精神の成長」とあって、「武士は主君に対して絶対の恭順を示すべきものとされた」、のだが、「次第にその中に批判精神が芽生えてきて、中世社会とは異なった意味において、この社会秩序においても倫理の面においても、個々の武士の自立性の契機が重要な意義を担うようになっていく。」ということで持ち出されてくるのが『葉隠』です。  

 そこでは「御無理の仰付」、「牢人・切腹被仰付候とも、少しも不奉恨(うらみたてまつらず)、一の御奉公と存、生々世々御家を奉歎心入、是御当家(佐賀藩鍋島家)の侍の本意、覚悟の初門にて候」と主君への絶対服従の精神を説くのですが、それはあくまでも「覚悟の初門」であって、「さて気に不叶事(かなわざること)はいつ迄もいつ迄も訴訟すべし」、「主君の御心入を直し、御国家を固め申すが大忠節」と論を発展させていく、と述べられています。「没我的な献身」の一方では、「悪しき主君に徹底的に抗していく諫争の精神との両面が存することに留意しなければならない」とおっしゃるのです。
 しかし、本当にそうでしょうか。

 少なくとも山本常朝の述べていることがそんな主体性のある話だとは思えませんし、藤野保先生の大著『佐賀藩の総合研究』あたりを読んだだけでも、鍋島家とその親戚による佐賀藩上級武士の全面的独占は迅速で、常朝さんが家老になって諌言したい、とかいっても、無理な話。これは幕府自体もそうでした。

 しかるにK先生は、さらには「主君」よりも「御家」に対する忠誠ということになってくるのだ、ということで、「悪主・暴君を放置しておくことは『却って御家に対して不忠之儀』」というような論理がはじまるということで「押込」というのがあったと。

 でもこれは、それ以前から徐々に生まれてきた「家」観念が強まった、というだけのことではないでしょうか(石井紫郎先生の言われる「武士から武家へ」)。何しろ「お家」がちゃんとしていなければ自身の身が危うい。つまりは自己保身と言っては言い過ぎでしょうか(幕末、尊王か佐幕かで右往左往する多くの藩がそれ)。
そして遂には、山鹿素行は「西欧のJ・ロックやルソーの民約説にも近い議論を提示している」と述べられ、だから徳川社会においても「公共性理念とデモクラシーの発展」という深い問題が登場してくるというようなことを言われています。

これはどう考えても、素行や常朝らの言っていることのフレーズを切り取っただけの話としか思えませんし、無茶です。だったら、ロックやルソーのようにそのような自立的な武士によって日本の近代社会ができたのかといえば、全くそうではなかった。
 いつも言うように、また和辻哲郎先生の述べられる如く、あるいは東大の穂積八束が『法学協会雑誌』において述べる如く、「水府の史論」等によって明治維新はなった。つまり水戸黄門らの説く「武士道」ではない「士道」によってなった。政治的な巨大なエモーショナルなものは、こんな話ではなくて、いわゆる水戸学であったり神儒一致であったり、国学であったりからです。それは何回か前に書きましたとおり大隈重信も言っていることです。

 ですから、K先生のような取り上げ方はどうみても賛成できません。
この先生の論を読んでみて一つ思うのは、厳しく言えば一向に国際的な視点がないということです。日本の江戸時代における歴史の中に、アジア諸国の激動との関係が全く書かれていない(これは一般の「日本史」の本もそうです。台湾が「東アジア史」として歴史を教えるのと異なる)。

 私もロックが学んだロンドンのウエストミンスタースクールや、ジュネーブのルソーの生地、パリのあちこち、スイス・レマン湖、ビエンヌ湖まで行ってみましたが、彼らは常朝さんとは格が数桁違います。例えばルソーがヴァランス夫人と会って、若気の至りからまさに目が覚め、懸賞論文に応募して書いたのが、『人間不平等起源論』ですが、それは、アンシャンレジューム下における人間の富の差というものを始源に遡って追及したもので、その後の社会政策的な問題、共産主義との関係、更には、現代におけるシェアホルダーとステークホルダーとの関係をどうするかという現在にまで及ぶ根本的問題を提起しています。これに対して、山本常朝さんがそんなことを言っているかといったら、一向そんなことはありません。ましてやロックやルソーたちの考え方は、そうした根本的問題を提起することによってその後の社会変革に結びついているわけですが、山本常朝さんが社会変革をしたなどということはおよそ考えられません(「昔に戻れ」です)。

 かといって『葉隠』という本自体がお粗末なわけではない。むしろ、常朝さんの言説を含む全体をまとめた田代陣基という人がすごい。そのことは、かつて親しくおつきあいさせていただいた三好不二雄佐大名誉教授(元宮内庁書陵部から旧制佐高教授。古文書学の大権威。)もおっしゃっておられたことでした。

『葉隠』は井戸みたいなもので、そこから様々なものを汲み出さなければいけませんが、それにはこちらにも一定の「力」が必要なのです。例えばK先生の言われる「諌言」も、中国の台諌などアジアや世界の歴史を知ってこそ、その真意がわかります。

 私の法科大学院時代の教え子現在弁護士をしているT君は東大在学中に、『立花隆先生、かなりヘンですよ―「教養のない東大生」からの挑戦状』という本を宝島社から出版し、先ごろ亡くなった立花隆さんを批判していました。東大理一の彼からみると立花さんの理科系の話にはかなりヘンなところもあったのであって、その本にも一定の意味があります。私がここで述べるのも、K先生の議論に対し、一定の意味があるのではないでしょうか。
もうひとり、しっかりしてよと言いたいのが、近頃大書店に並んでいる「修身」の本の解説を書いているT大のY名誉教授。「初等科修身」。この中に何が載っているか。「農夫作兵衛」「白拍子静」「青砥藤綱」「鉄眼の一切経」などなど。これらの話は江戸時代において、室鳩巣が吉宗の命令で作った「六諭衍義大意」から引っ張ってきたもので、元は寺子屋の教科書です。

 しかも遡れば、「六諭衍義大意」は明の太祖・朱元璋が、「六諭」という「親孝行」とか「郷土と和睦せよ」とかの「おさとし」をした。そういう単純な話をふくらませて作った「衍義大意」であり、今般私が出版した本(「法律家ら読み解いた武士道と、憲法」)にもその写真が載せてあるとおり、要は中国由来のものです。

 そういった説明が本来この解説になければならないのに、逆に「戦後私たちは、勝者である米国に寄り、今まで見てきた先祖が築いてきた国柄や心を、強制的に失わされてしまいました」云々などと書いてあるだけで、「先祖が本当に築いてきた国柄や心」の話なのか、「中国の朱元璋の輸入品」ではないのか、という悩みが全くない。これまた私のような元祖民族派(?)には「いかがなものなりや」というわけです。
 
 そんなわけで、やはり、逆に昔の先生は偉かったと言わざるを得なくなります。和辻哲郎先生、貝塚茂樹先生…。
  |  このエントリーのURL
お城・ヨーロッパから日本まで 
Saturday, September 18, 2021, 02:25 PM
続きです。東西のお城、ヨーロッパから日本までと、その中身を考えてみました。
 まず、「城」という字ですが、土に成るという字を書きます。この「土」は、前回、貝塚茂樹先生の本から話をしたオボの土です。つまり、中国の発想からは、城というものが正に政治の重要な仕組みだったのが、その組織法の一環としての土だということです。「成る」の方は、中にカというものが入っています。そのような趣旨で出来あがったものが城だということが、『説文解字』の述べるところです。とまあこの辺りは全くの文系の話ですが、城は何といっても実践のための道具です。その面から考えていくと、その歴史やその地域的な広がりは中々面白いものがあると思っています。

 例えば、日本では一番古い城というと吉野ケ里遺跡が挙げられるでしょう。更に、戦国時代までの城については、このように城そのものの特徴もありますが、その他、防御施設としての城は、佐賀城や埼玉県行田市の忍城のように水をもって征するという形になっていたことも面白いことです。

このように戦国時代までの個々の城は、このような徹底的な防御の仕組みだったのですが、ただ単に一つだけ城がポツンとあっただけではありません。特に、この点は後北条氏の場合は顕著であって、小田原を中心とした同心円状に城が存在すると言われます。例えば、多摩川沿いには八王子城、片倉城、平山城、枡形城、そして多分、溝の口あたりも城の一種でしょう。そして、更には夢見ヶ先城、最も東には権現山城(東神奈川)などがチェーンのようにつながります。もっと北では石神井城、豊島城、平塚城なども並んでいます。南では江田城、茅ケ崎城等並び、さらにその手前には、小机城などが並びます。このような連携した城のあり方が本来なのだということを忘れてはならないと思います。一国一城令以後の平野に毅立して立つような城は、本来の実践の城ではありません。それは仙台城などの中間的な城を見ていても分かります。

 なお、私の事務所の傍、衆参両院議長公邸からその奥の日比谷高校、そして日枝神社、赤坂の溜池へと連なりますし、舌状台地がありますが、これも日比谷高校と日枝神社の間には正に堀切があって、その昔、赤坂見附辺りは正に池というか海というかのような形になっていたこと。首相官邸の裏も多分そのような状況であったことを考えると、あるいは品川に向かう街道筋(甲斐坂通りですが)でもあったことを考えると、その街道を扼する城であった可能性が高いように思います。こうしたことは、江戸時代の江戸幕府が作った『新編武蔵風土紀行』という膨大な資料を見ると、本当に各町内に一個ずつくらい城があったことが見られ、その点でも城の連携性は明らかであろうと思われます。

 ところが江戸時代、つまり1590年の惣無事令以降、秀吉、徳川政権がいわゆる一国一城令を作りました。このことについても中国の発想は相当影響を及ぼしているように思いますが、どっちにしても我々が意図するように天守閣をもった政治のための城となりました。本来、天守閣は大砲の弾道計算をするのに極めて便利な代物であって、あんなものは全く実戦には役に立たないと言ってもよいのにです。

しかし、江戸時代になると、今度は同じ武士の中にそのような城が大嫌いな人が出てきました。その典型が浅見絅斎です。この人は、先生は山崎闇斎つまりコチコチの儒教主義の人です。私がしょっちゅう取り上げる水戸黄門、保科正之、特に保科正之と関係の深い山崎闇斎とつながっていました。この人達の尊王論から言うと、城というのは京都に天皇を押し込めている悪い奴らの本拠地だ、というわけで、お城の白壁を見るのも大嫌い、あの東夷め、というわけで、東の方を切りつけていたという有名な話もあります。そして、彼はそういった発想を中国から得ていましたので、靖国神社・遊就館の入口においてある『靖献遺言』は全て中国のお話しになります。ここにも明治維新というものの本質が見て取れるように思えるわけです。一方、幕末になると実戦の戦争があり得ましたから、例えば、五稜郭には天守閣などありません。
 このように城一つ見ても、様々な政治的あるいは歴史的バックを見てとれるのではないかと思います。

  |  このエントリーのURL

進む