竹原古墳から日本全体、そして世界へ 
Sunday, July 17, 2022, 05:23 PM
素人ながら気になって仕方がない『竹原古墳』から、装飾古墳あれこれを考え、日本とは何かを思ってしまいます。

 まず、葉隠に関係深い話しから始めますと、佐賀県には田代太田古墳があります。これは古墳時代後期6世紀後半に作られたと言われていますが、鳥栖市にある横穴式石室からなるもので、私も数十年前にその内部にある壁画を拝見する機会がありました。その古墳の一番奥には三角形がたくさん並び、かつ下に丸い模様が色とりどりに描かれています。つまり装飾古墳です。

この三角や丸が一体何かについては色々と説があるようですが、茨城県ひたちなか市の虎塚古墳(大塚初重先生らによる詳細な調査)やいわき市の中田一号墓などなどでも同様なものがあり、同じく虎塚古墳にもある丸については中国の吉林省集安市に環文塚があって、そこにもやっぱり丸い模様のものがある。つまりこれらは高句麗からきているのではないかという説(西谷正先生・大塚初重編『東アジアの装飾古墳を語る』)が相当有力のようです。福岡県うきは市の珍敷塚(めずらしづか)のヒキガエルの絵も高句麗や中国(道教の本『淮南子』)につながります。
このようなスタイルの装飾古墳は熊本県に最も多く、また上記のとおり日本の東・仙台あたりにまであります。それについては古墳時代における「海の交流」があったということが間違いないことでしょう(『装飾古墳と海の交流・虎塚古墳・十五郎穴横穴墓碑』稲田健一)。

 そして、ほぼ同じかその次の段階とでもいうのでしょうか、それが竹原古墳です。これの現物は博多駅を出て小倉駅へ向かう新幹線からトンネルを出て左側すぐのところにあります。遠賀川の上流であるところが一つの「ミソ」かと思います。
 その古墳の絵はより具像化し、大きな団扇のような、翳(さしば)が見られ、真ん中には馬が、そしてその上には馬のようでむしろ龍のようなものが描かれており、馬を引く人物は正に胡服を着て、角髪・美豆良(みずら)を結っています。更に一番下には船や波と思われるものがあります。
これら画像の解釈についてもいろいろな説が行なわれているようですが、金関丈夫(かなせきたけお)先生の話によると真ん中の絵は、やはり馬であり、一方、その上の馬のような形をしたものは龍であり、龍のいわば精を馬に植え付けて立派な馬を得るという龍媒信仰ではないか、とされます(『発掘から推理する』)。

そもそも馬とペガサス、龍は元は同じというのが私の経験で、西安郊外の霍去病(かくきょへい・前漢時代の英雄)の墓、ペガサス、大英博物館(馬=龍)、全部つながるように、思います。いつも言うように、この文化も、ユーラシア大陸全体にまたがっています。ちなみに、竹原古墳の龍のしっぽが巻いている姿は、まるでモンゴルの岩壁画の馬の絵とそっくりです(『モンゴル歴史紀行』松川節16頁)。さらに、その竹原古墳の入口には北に玄武、南に朱雀と思われるものの絵があり、奥が青竜だということになると、手前に四神の一つ白虎があったのかもしれません。
いずれにしても、その人物の着衣は、上記のとおをり「胡服」で、高句麗との強い共通性を伺わせます。

 そして、このような装飾古墳に描かれた文化は、日本の中で実際のところ相当に広がっていたと思われます。それを考えるには色のついた絵だけではなくて、線刻も大事ですし、埴輪の武人像が正に竹原古墳と同じ足結をしていて、角髪を結っていることにも注目です。竹原古墳の人物の耳のところが角髪と解釈すべきなのは、福島県双葉町の清戸迫横穴(きよとさくおうけつ)の人物像との対称です。また、このような装飾古墳は日本の真ん中、大阪・京都には少ないと言われますが、むしろ大阪・柏原市の高井田横穴群を見ると線刻で全く同じ。角髪、足結、そして竹原と同じ冠。冠については、埴輪の武人との共通性が強く見られますが、ある韓国の友人がローマの兵士との共通性を言っていたことにも注目です(特に新羅とユーラシアは強くつながる[古代オリエント博物館])。

清戸迫横穴は装飾古墳のとりあえずの北限のようですが上記のとおり角髪、この角髪について、国際的に見ると、北朝鮮の水山里(すいざんり)壁画古墳の「曲芸をする人物」の図が正に角髪。また高句麗には相撲とこれまたそっくりな図があります。
日本と仲良しだったのは百済だという話がポピュラーですけれども、実際のところ、高句麗から出てきたのが百済でもあります。つまり、このようなことをしっかりと把握し考えるには、朝鮮半島の歴史を考えなければなりません。新羅の力、圧迫が強くなると、高句麗と日本の関係が深まり、例えば、関東地方には高麗神社があるということもあります(もちろん後に新羅とも仲良くなります。中国の北、南まで含めた国際的視野が必要です)。

こうして「竹原型」の人物が日本中にいたということになると、私は、素人の全くのロマン(?)ではあるものの、これが「本来の(古い時代の)日本人」ではないかとも思うのです。その後中国南方の文化が入ってきて、着物を着たりする今の日本人ができ上った、と考えたいのです。
このあたりのことは『法律から読み解いた武士道と、憲法』にも39頁以下あるいは88頁以下あたりに少し詳しく書きましたが、そこでも述べているとおり、台湾や中国の苗族に対する呼称、例えば台湾で中国化した平埔族と蕃人、その中でも比較的中国化した熟蕃。全く生で首狩をしていた生蕃という中国文化に染まるか否か、染まり度はどうか、という分け方が参考になると思います。

少し話を広げ過ぎかもですが京都大学の田村実造先生は、髪の毛を剃らない本来の中国人、剃る日本人、満州族、蒙古人などの違いを述べておられましたが、私の経験では、この発想は剃るポーランド貴族、同ウクライナ人へ繋がります。現下のウクライナ情勢を見ていてもそういうこと(共通性と違い)をよく踏まえることが大事な気がします。

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鎌倉時代の道から太閤道 
Sunday, July 17, 2022, 05:10 PM
『葉隠』にも登場する渋谷さん。
中間(ちゅうげん)が大津で事件を起こしましたが、本陣・肥前屋九佐衛門に助けられました。

この渋谷氏、太田亮「姓氏家系辞典」には「渋谷氏 相模【桓武平氏、秩父氏族】高座郡渋谷より起こる。河崎基家の後裔。畠山系図、千葉常総系図等に「河崎基家―河崎平三大夫重家―重国、渋谷庄司」と見える。其の子を高重と云い、共に東鑑にある」とあります。その先祖は、桓武平氏のいわば秩父系。基家は河崎冠者といい、現在の神奈川県高座渋谷の辺りを本貫地とします。
簡単ではありますが、渋谷氏のことを足で歩いて書いてあるお勧め本が、『相模のもののふたち―中世史を歩く(永井路子さん)』です。この本の始めのページには「源頼朝の挙兵と相模の武士団の動向」と題した図があって、中にもいろいろな御家人のことが記されてありますが、その中には、佐賀に関係のある名前がたくさんあります。例えば渋谷、大庭、村岡、毛利、中村、長尾、梶原などですが、九州に最も影響を与えたのは小田原の大友、厚木の島津ということになるでしょう。そして、すぐ隣の横浜市戸塚あたりから博多に下り、最後は佐賀で滅亡に追い込まれた武藤(武蔵の藤原)改め少弐一族もそのような「下り衆」です。鍋島直茂の妻陽泰院が出た石井一族も下総国猿島からです。

いつも言っていることですが、なぜこのように関東の御家人が九州に行ったかというと、源頼朝の挙兵に応じて、それを助けたことによる褒。そして元寇のとき特に長男系が九州に下ることを命じられて九州に移ったことによります。そのことはかつての久留米の十八師団の歌にも「(関東武士の)祖先の勇武の血を受けて」の一節があったことからも当然わかることですが、詳細は九大の教授から早稲田大学の名誉教授もされた瀬野精一郎先生の『鎮西御家人の研究』あたりを読んでください。渋谷氏はそんなわけで佐賀県にもしっかりと存在し、『葉隠』にも出てくるわけで、『次郎物語』の下村湖人先生のご親戚で、私の祖父の代から深いかかわりのある渋谷家にも繋がってくるわけです。

さて一方、渋谷氏は、千葉氏などと同様、九州だけでなく、本貫地である高座渋谷のあたりもしっかり確保していました。そして開幕当初、頼朝が奥州藤原氏を攻める際は、その渋谷からちょうど今の263号線つまり青山通りをたどる形で奥州に赴いたようです。そのことは『相模のもののふたち』にも、渋谷家は「内陸の通路を押さえている」一族だった「武蔵との連絡も緊密な…内陸の武士団」と書いてあるとおりです。

そこで、その「内陸部」を通っていたことの証拠を見てみようというわけで、徳川幕府の昌平坂学問所が江戸時代に作った『新編相模国風土記稿』及び『新編武蔵風土記稿』を見てみると、まず相模では渋谷庄についての詳しい記事があるのはもとより、川崎市宮前区土橋というところが紹介されています。『風土記稿』は「此土橋と云地名の起こりしを尋ねるに、村民の伝えによれば古は太田といひしが、其頃は鎌倉街道此地へ係りしにより、右大将頼朝此地を過給ひし時、新に土橋を架せしめしことありと、実なりや、今も此橋僅に其跡を存せり、此故に太田を改めて土橋と號せりと云、」と述べます。ちょうど、246からはやや西にずれている場所ですが、その後二子玉川を渡れば、世田谷に入って上馬、下馬というところがあります。これも頼朝の奥州行にちなむところで記念碑があります。更に進むと、具体的には246の東側に今も旧道が残っているのですが、渋谷の猿楽町があって、そこは、まさに頼朝がそこで猿楽を鑑賞したというあたりです。もっと北に行くと渋谷金王神社(八幡宮)があります。これは渋谷一族の金王丸という人、すなわち源義朝の戦死を常盤御前に伝えたと言われる人に関わる神社で頼朝ゆかりの桜。この辺りは金王神社から山手通り方向にがたんと落ちていまして、一種の城であったことがうかがわれます。今や渋谷と言えばこちらの渋谷が有名になりましたけれども、元をたどれば神奈川から来ていたのか、いやいやこちらが先とか色々です。さらに裏道を進んでいくと常盤松小学校や常盤松公園というのがありますが、これが先の常盤御前にちなむ名前だというわけです。もちろん伝説ではありますが。そのようなわけで、頼朝が通った道である246、江戸時代は大山街道と言われたわけですが、これは昔々からずっと続いている道であるということが言えそうです。
 このように鎌倉街道は全国的に今も残っています。

こんな話になると私の仕事場に近い「貝坂通り」。麹町3丁目から永田町の交差点の方に向かう道の平河町2丁目にあるのが「貝坂」です。落語の「文七元結」の最後に出てくる坂ですが、現在は食べる「貝」の字を書きますけれども、古くは「甲斐」に続く甲州街道であったと言われます。私もそれが正しいと思います。何故ならこの道をまっすぐ南に向かって進みますと、衆参議長公邸の脇からキャピトル東急ホテル、首相官邸の裏を通って、溜池から飯倉、そして魚籃坂、品川の港に届きます。品川というところは中世における「東京港」だったそうで、そこには東京湾交通や商業を仕切る日蓮宗のお寺が今もたくさんあります。つまり、品川港から太田道灌らの江戸城に物資を運んでくる道がこの道だったと考えたいわけです。
そして麹町3丁目に登り切りますと、そこから道は西に折れて、新宿通り即ち今の甲州街道になります。すなわち甲府につながる「甲府路」でもありましたし、国府につながる「国府路」でもあったわけです。ですので、その途中にあるから「こうじまち」というのが一番ぴったりするのではないでしょうか。一方では麹屋さんがあったからだという説がありますが、麹屋さんはどこにでもあったわけで、私としては前者の説を採りたいと思っています(もちろんあくまでも採りたいな、だけの話ですから、昔のことなど確定的なことが言えないことは当然だと思っています。むしろ確定的なことは言ってはいけないというのが私の考えです)。

 どちらにしても、このように鎌倉時代の道が残っているということは、その昔、どなたかの本で読んだように、 鎌倉街道は自然と折り合いをつけて、くにゃくにゃ曲がりながら小型の道として存在するが故に、なかなかなくならないのだ、今流行りの「持続可能性・sustainability」。つまり鍋島直茂の発想でいうならば「実」に対応しているからだと私は思います。

これに対して、律令の道、というのがありますが、これはまっすぐで広い道ではあるのですが、大概が地面の下に埋もれてしまっています。例えば、吉野ヶ里遺跡の北側を東西に走る道、これは正に一直線で広いのですが埋もれています。あるいは国分寺のあたりを南北に通っている道も、これも埋もれているのが発掘されて出て来ていたりします。このあたりに律令国家と鎌倉国家との違いというものも見て取れるように思います。鎌倉街道は上記のとおり自然と折り合いをつけた道ということです。

こうして渋谷さんの話から道の話になってしまいましたが、中世という時代がそのように「実」を追求する時代であった、形式的ではなかったという情報は以上のことからも大いに汲み取れるのではないでしょうか。

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小早川隆景は偉い 
Sunday, July 17, 2022, 04:55 PM
小早川隆景は、葉隠や常山紀談に登場する偉人です。現代はそのような人がとんと見当たらない。

まず小早川家ですが、元は桓武平氏であり、平安末、相模の土井実平が、石橋山の戦いで負けた源頼朝を船で安房に逃がすという功を立て、それにより安芸の国つまり広島県に領地をもらったとのこと。そして、三代の孫が初めて小早川を称し(小田原に早川があります)、その後、安芸豊田郡沼田の高山城、そして加茂郡竹原の2つに分かれましたが、その後、11代の孫に至って、毛利元就の三男隆景を養子とし、彼がのち両家を併せた、と言われます。

土井実平が海の武士であったのと同様、小早川氏も沼田などを拠点とする瀬戸内海の海の武士だったようです。

毛利元就には毛利隆元、吉川元春・小早川隆景の3人の子がいましたが、毛利隆元、吉川元春は比較的早くに亡くなったので、この隆元の息子輝元を助けて、毛利家を信長や秀吉の侵略から守った、いわば立役者が小早川隆景と言ってよいでしょう。小早川隆景の働きは戦国武将中の出色と言ってよいものだと思います。もっとも、隆景についてのまとまった本がなく、吉川弘文館の『人物叢書』にもありません。私が紐解くのは渡辺世祐著の『小早川隆景』です。これはもともと歴史家の筆にかなったものではありませんが、むしろ法律の実務家による素晴らしい本ではないかと思っています。詳細な資料をも網羅するものです。

 その小早川隆景について、『常山紀談』にはこんなふうに載っています。
「安芸中納言毛利輝元は、関ケ原の時秀家と共に徳川家に弓箭を取れしかども、関ケ原に自ら赴かざるの故に、安芸、備後等の国を削られ、長門、周防、両州を賜はりけり。
是より前小早川隆景遺訓して輝元を諌められし中に、毛利家五十余郡を領し、富貴誠に溢れたりといふべし。此れより後仮にも国を貧る心あらば、忽滅ぶべきよ、といましめられしに、輝元、隆景の戒を忘れ、果たして国を削られたりき。隆景先見の明かなる露もたがはざりけり。
隆景は武勇のみにあらず、智謀にすぐれたり。父元就、病重くなりて其の子を集め、兄弟の数ほど箭を取寄せ、多くの矢を一ツにして折たらんには細き物も折がたし。一筋づつわかちて折たらむにはたやすく折るよ。兄弟心を同じくして相親むべし、と遺言せられしに、隆景其の時、争は欲より起り候。欲をやめて義を守らば兄弟の不和候まじ、といはれしかば、元就悦びて、隆景の詞に従ふべし、といはれしとぞ。
秀吉九州を討平げられて後、筑前五十万石を小早川にあたへられしに、隆景、これは吾に過たる事なり。此の頃まで敵なりし身に大国をあたへらるるは、吾を愛するに非ず。九州をなつけん為のかりの謀(はかりごと)よ、と思ひて秀詮(ひであき)に国を譲り、備後の三原に引こもられしとなり。」と。

私がその御当主とお付き合いをしてきた毛利侯爵家に伝わった手紙、それは山口県防府市にある毛利邸に残されていますが、それには特に「三本の矢」が云々とは書いてありません。この『常山紀談』あたりから、そういう話ができあがったのかもしれませんが、実質的にはそういうことであることは間違いないでしょう。毛利の敵である信長、秀吉、そして家康らに対する深い思慮は見事です。

『名将言行録』にも、その広島城について、「輝元、居城廣島は地形卑くして要害宜しからざれば、山に據りて小高き所に城を築んとて、老臣を集めて評議し、此旨隆景に尋ける。
隆景日く、方今の城宜しからず、然れども城郭は国家安危の係る所なれば大事の決断なり、黒田孝高は巧者なれば相談申すべくとて、其後孝高西国下向の序に廣島の城を見せける、孝高見て要害悪きとは思ひながら、輝元八ヶ国を持たる大名なれば、若し異心を懐き此地に籠らん時、要害能くしては秀吉の為め悪しかりなんと思ひて、此要害苦しからす、只今城地を改め給はんも莫大の苦労なれば、只此儘にて何の憂かあらんと言ふ。
隆景此由を輝元に告げて城を改め築くことを止めさせたり。其後秀吉西国下向の時、此城を見て此城地形卑く、要害悪しゝ、水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。
輝元之を聞て、隆景を恨みけるに、隆景聞て要害の悪きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の国多過ぎ候へば後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害悪くして、龍城成り難しと、秀吉気遣ひ之なきが即ち当家安全の基なり。孝高は秀吉の近臣なれば、要害悪き所を見せ置き、心安く思はれ申さん為めなり、孝高定めて要害悪きとは存ながら」とあります。

これもまたなかなかの深謀遠慮ですし、正に毛利家は「長久」したわけです。

 ところで戦国時代の毛利家、あるいは小早川隆景の動きを上記の本から引いてみますと、まず西の方では大内義隆から「隆」の字をもらった龍造寺隆信が、そして、大友宗麟がぶつかっています。利害の対象となるのは、貿易の本拠地・博多です。それを巡って更に、大内を継いだ毛利が大友と争います。その東にはむしろ大友と連携する、一遍は亡びたものの、再びその再興を願っていた尼子勝久、山中幸盛の勢力があります。その様な西日本の情勢に対して、これを攻めようとしてくるのが織田信長。間に挟まっているのが宇喜田や荒木など、そして信長に逆らっているのが石山本願寺、この石山本願寺を助けるのが正に小早川隆景の水軍。東では浅井、朝倉とともに、それよりさらに東には武田勝頼が出てきます。このように、特にこの永禄年間の九州から東日本にかけての紛争は、正に国際的な紛争と同様の、「敵の敵は味方」といった複雑、かつ、ビビッドなものです。

そのような中で、むしろ国際観念を持っていたと思われるのが小早川隆景であり、そのことは『葉隠』の中に「伏見御城に於て、高麗陣御詮議の時分、太閤の御前にて、隆景色絵図をひろげ、『赤い国へは此の道より打入り、白き国を通り候て。』などと御申し候。直茂公其の座に御座なされ、『爰許にて空の御詮議は役に立つまじく。』と思召され、既に、仰上げらるべくと思召され候へども、若し御意にさかひ申す儀もやと、御控へなされ候。さて高麗にて段々御仕寄なされ候に、伏見にての御詮議少しも違ひ申さず、直茂公其の時の御一言御控へ、御仕合せと思召され候と、御話の由。助右衛門殿話しなり。右は前方に、隆景など潜かに渡海候ての事かとなり。」とあるとおりです。

いずれにしても戦国武将は、そんなわけで極めて国際的とも言える活動をしていたわけなのですが、一方、翻ってやはり江戸時代を考えたくなります。江戸時代の武士も日本国中と関わりをもっています。ただし、それは、主として婚姻を縁とするものであって、いわゆる「武士の公家化」にほかなりません。その結果、武士は水戸に代表されるような発想により明治維新によって滅ぼされてしまったとも言えます(再三書くとおり)。このあたりは、大川周明が「『源氏物語』を勉強するくらいなら『平家物語』を勉強せよ」と言っていたことが思い出されます。数々の問題行動があった大川周明ではありますが、その意味では「武士道」(彼の本にもたくさん「武士道」が出てきますし、上記小早川隆景にも永禄12年の立花城の戦いについては「士道」という言葉がでてきています)、どちらにしても武士の心の持ちようにつき大川の見方こそ本来の武士の姿であろうと思うのです。

毛利家は元就以来、九州の地歩を固めたいと願っていましたが、これもまた隆景の時代に筑前を治めることとなり、しかも、さらに言えば肥前の現在の鳥栖及び基山の辺りは、隆景が秀吉からもらったというご縁で後に対馬藩になったというようなわけで、現在に至るまでもその足跡を九州にもいろいろと残しています。大宰府天満宮の社殿も隆景が寄進したものです。
 いずれにせよ、隆景の考えていたことは、上記のとおり深謀遠慮に富んだものであって、本当の戦国武将と言えるのではないかと思っています。

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★ウクライナ戦争の本質 
Monday, April 25, 2022, 10:28 PM
昨年来のアクシデントで更新ができずすみません。
それでもウクライナのことだけは一言。

京都大学の名誉教授である田村実造先生が『最後の東洋的社会』の中で取り上げていることからまず。
「狩猟民である満州人と農耕民である中国人とでは風俗習慣がちがうのは当然であるが、そのうち深刻な政治問題にまでなったのが頭髪のゆいかたであった。満州人は頭髪の一部をのこして頭をそり、のこした毛をあんでおさげにするのである。『異国物語』に「頭をそり、てっぺん二寸四方ほど髪をのこし、ながくして三つにわけ候」とあるとおりである。このゆいかたを弁髪(べんぱつ)という。
一方、中国人のは束髪(そくはつ)といって総髪(そうはつ)である。興味あることは、このころの東アジアでは頭の一部をそった民族に、満州族のほか、日本人、モンゴル人があり、束髪しているのは中国人と朝鮮人であって、一三世紀以降はこの二大髪族の対立抗争の歴史ともいえるのである。そった方が尚武派(しょうぶは)、のばした方が尚文派(しょうぶんは)で、これをたとえると国際的な武士階級と公卿ないし町人階級の抗争ともみられよう。」と。

確かに日本の侍、満州族、モンゴル族などは頭を剃っています。そして私の経験をプラスすると、それはさらに西に進み、ウクライナ人(「オセレーデツィ」という)、ポーランド人も剃っています(あちこちにその写真あり)。

彼らは皆騎馬民族で田村先生の言われる「尚武派」です。例えば、アジア以外でもポーランドは強力な騎馬軍団を持っていました。

一体どうして剃るのか、よく月代を剃るのは兜を据えつけるためとか、蒸れるからいう話がありますが、それは、江戸の平和な時代になってから述べられたことが大きく(享保から天明にかけての有識故実家伊勢貞丈など)、そもそも日本だけのことで考える話しでもなく、世界的な傾向を見たほうがよいのではないかと思っています。
中国や韓国の場合は、いつも述べる『孝経』が大きな意味を持ち、「身体髪膚」特に髪膚を切るのは親不孝だという考慮が働いているのでしょう(しかし韓国も元は騎馬民族であって、『孝経』は後の話)。したがって総髪・束髪になります。これがいつからなのか、それも問題で、つまりは分らないことだらけなのですが、いずれにせよ頭を剃ることは武人の特徴であることは間違いないでしょう。
となると、ウクライナ人も正に武人であり、相当「強い」。ウクライナコサックです。

そんな前提で、今度は早稲田の長澤和俊先生の書かれていた『シルクロード文化史』の図が思い出されてきました。それは要するに約2000年位前のユーラシア大陸は東から中国、パルチア、そしてローマという枠組みになっていたということです。

私の書いた『法律から読み解いた武士道と、憲法』では、291頁以下に「中国・パルチア・ローマの中で」という章立てをし、上記のローマが延びて、今のアメリカまで行き、遂には日本・韓国までラフに言えばローマになったという経緯を書いておきました。今回のウクライナの話にも有益な発想ではないかと勝手(?)に思っています。つまり、結論を言えば、今回の戦争はローマとパルチアとの戦争です。

というのは、ローマの東・パルチア(イラン)の習俗として、女性はベールを被ります。男性は髭をはやさなければいけません。そしてソ連の崩壊によって、イスラム教国はどちらかというと、カザフスタンやウズベキスタンのような国として分離しては行きましたが、ロシアは、パルチア的に女性は教会でスカーフです。キリスト教の司祭も髭です。それに対して、ウクライナは「より」ローマだということです。

プーチン氏は988年、北からロシア、ベラルーシ、ウクライナというものがキエフ公国として大きな国になった時、ウラジーミル大公はその3つの地域をまとめるためにキリスト教を取り入れたということを強調しますが、これは、コンスタンチヌス大帝がキリスト教に改宗したり、フランク王国のクローヴィスがキリスト教に改宗したりということと同じで、要はみんなをまとめるためにキリスト教になったということの一例でしょう。それはあくまでも歴史の一場面。

そして1453年、東ローマ帝国が滅びた時、そのコンスタンティノス11世パレオロゴスの姪であったゾイ・パレオロギナはロシアのツァーリ・イヴァン3世と結婚していたので、モスクワが第3のローマになったとされ、これがロシア正教というわけですが、ところがその後、ポーランド、リトアニアなどに支配された歴史的な経過、即ちローマとのかかわりが深いウクライナについてはウクライナ正教ということになり(1596年の合同教会の成立)その特徴は外形的にはロシア正教を取りながらも、その内面においてはローマ法王に仕えるということです。つまり、そこにおいて、同じ正教であっても、いわゆる純粋ロシア正教と、ウクライナ正教とには違いがあるというわけです。

私が行ったことのあるウクライナ正教の教会、例えば中国のハルビンにあるウクライナ正教の教会では、女性はスカーフを被りません。しかし、上記のとおり一般的なロシアの教会では女性は必ずスカーフを被ります。この違いは大きいと思います。つまり、ロシアは「やはり」第3のローマと言いながら「パルチア・イラン」なのです。更に男性について言うと、上記のとおり男性司祭はロシア正教においては必ず髭をはやさなければいけない。なぜならそれはキリストに似ている姿だからなのだというわけです(これもパルチア的)。ところがウクライナ正教にはそれがありません。ここの文化人類学的違いが紛争の根本にあるかと思います(もちろん以上は雑駁なものですが)。

昔のソ連を考えてみますと、ロシア正教5000万人とほぼ同数だったのがイスラム教徒です。このイスラム教徒はソ連の分割によって別れましたがロシア、他の国のイスラム教徒(全部ではない)は同様の文化を持ち、あいかわらずロシアと一緒の文化を持っているとも言えます。
ソ連末期、ゴルバチョフも自分の任期中、ウクライナ正教を弾圧して、ロシア正教と同じようにしようとしていましたが、それができなかった。そして結局独立していったということです。ですので、プーチン氏が言っている、ロシア・ウクライナ・ベラルーシが一体だというのはそもそも988年頃の話であり、以上の経過を見ると、どうしてもそこには水と油の部分があると言わざるを得ないように思います。

こんな文化人類学的な発想が大切であることは第2次世界大戦前の日本にも言えるのであって、日本は中国の北と南の違いがわからず、盧溝橋、南京の戦争を始めてしまった。この過ちは極めて大きいということです(『法律から読み解いた武士道と、憲法』188頁の明と清の家具の写真を参照)。

また、近代国家という「条約」を基本としてものを考える世界に対し、日本も同じですが、「固有の領土」という特殊な発想になる世界は遅れているということではないかと思います。日本がこれからどうするべきかということにもパラレルな話であり、現在のウクライナの話は極めて示唆するところ大だということになるでしょう。

もちろん、本来の姿への回帰を願いつつ。

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ウクライナ情勢と「識者」のコメント 
Tuesday, January 25, 2022, 02:03 PM
ウクライナ情勢が緊迫、と報じられています。

確かにドネツク近くやベラルーシではロシアの戦車など、戦闘車両の集結が見られるようですね。

しかして、このウクライナ人、実は東方にも相当程度居住されています。これは、もともと農業の民だったので、日本でいえば明治時代あたり、相当な東方への移住があり、東シベリアにはウクライナ自治州を作る話もあった。ちなみにハバロフスク近くには現にユダヤ自治州がある。そして、中国東北のハルビンにはウクライナ教会が今も稼働している。

そんな複合的見方が必要でしょう。

ところが今朝の誰かさんのコメントを見ると、そんなバックグラウンドは全くなく、NATOの構成員であるドイツも燃料をロシアに依存しているから〜とかいうどこかに書いてあった上っ面だけのコメント。

これじゃ、時間の無駄と思われました。
また、突然ドンパチ始めるのではなく、違う方法が頭のよいやり方。もっとも急にドンパチは歴史上遺憾ながら東方の諸国。

この辺の「性格」も重要な要素でしょうね。
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修験道を葉隠から考える 
Thursday, January 20, 2022, 06:29 PM
彦山(ひこさん[霊元法王により、英をつけ英彦山と])が現在のような形になってしまった経緯をちょっと考えました。

まず『葉隠』に鍋島清久という人が出てきます。この人は鍋島直茂の祖父で、お祭りの前に「昆布巻」になるフナを夫婦で逃がしたという慈悲深い人です。清久の代は、未だ鍋島家はごくごく小規模な武士団に過ぎませんでした。それで、『葉隠』にもあるとおり、清久は、鍋島家が肥前の主になるように、毎年、現在福岡県と大分県との境にある修験道の本拠地、神仏習合の彦山にお参りをしていました。

或る年の雪の頃、清久は、崖の上から足を踏み外して雪が積った崖下に転がり落ちてしまいました。このくだりを『葉隠』は、「その外、御善根御慈悲、限り無く候。兼々彦山御信仰なされ、毎年年越に御参籠なされ候。或時上宮なされ候處、大雪降り道筋相知れず、ほき落ちなされ、谷に御落ちなされ候。其の辺を御探しなされ候へば、弥陀の三尊御拾ひなされ候。御持帰りなされ、徳善彦山御勧請の御本尊に遊ばされ候。彦山の本地弥陀の三尊にて候由。不思議の御事にて候。其の功徳にて御家御繁盛と相見え候由」と書きます。
そして、清久は、くだんの「阿弥陀様は彦山の本地仏」と考えて、佐賀に持ち帰り、佐賀市の西、高橋というところにある徳善院にお祀りをしました。そしてその結果、鍋島家が肥前の主になれたことから、後に山本常朝は『愚見集』の中で、この徳善院と、鍋島氏の菩提寺・高伝寺と、百万部の祈祷をしていた万部島の三か所を特に尊崇しなければならないと書いているわけです。こういう話が「武士道書」・『葉隠』の言っていることです。教訓話だけではありません。

この徳善院ですが、一般的には、室町時代にできたと書かれています。しかし、私が20年くらい昔、徳善院のご住職に伺ったところによると、北部九州の古くは仁和寺の領地、荘園であったと。それで仁和寺系の寺院が福岡から佐賀にかけて非常に多く、徳善院もその一つであったと言われていました(現に現在も真言宗御室派)。

なぜかを『肥前国史』などで調べると、紀元800年代の始め天皇であった仁明天皇は、体の具合が悪くて中国からの薬草がどうしても欲しかった。それで、自分の息子を大宰帥(だざいのそち)にしました。この方が後に光孝天皇に。その方から宇多天皇が出ます。その宇多天皇が御所を置いたのが仁和寺です。ですから仁和寺を「御室」とも言います。
そんなわけで、北部九州と仁明天皇や仁和寺との関係は非常に強く、例えば、神埼市にある仁比山(にいやま)神社は仁明天皇の仁と、比叡山の比とをあわせてた名前。また、関東では成田山など新義真言宗の開祖で仁和寺で修行した覚鑁上人は佐賀県鹿島市の誕生院に生まれました。

以上は余談ですが、そんな鍋島清久の故事から、肥前における英彦山の御札配りの本拠地が徳善院になったという次第です。英彦山は、鍋島家の厚い尊崇を受け、2代藩主鍋島勝茂による国の重要文化財・銅(かね)の鳥居、鍋島光茂による石の鳥居、上宮は鍋島斉正が寄進。銅の鳥居から上宮に至るまで全面的に石が敷き詰められた石畳の参道があり、その両側にはかつて山伏の房が並んでいたのです。大陸に負けないくらい正に巨大です。徳善院もミニ彦山で、山伏とお坊さんの建物が山門の南側にあって、本堂の西側には彦山権現が祀られていました。そこにも鍋島直弘が石の鳥居。字は韓国から来た洪浩然。
ところが、明治維新がこの2つの場所に大きな影響を与えます。

まず、徳川時代において九州全体を取り締まっていたのは、小倉の細川・小笠原藩でした。そして、幕末になって長州と小笠原とは正に敵対します。その時まで、当然小笠原藩が英彦山を支配し、保護を加えていたのですが、英彦山の山伏達(の一部)にとってはこれが鬱陶しく、長州と連携し、明治維新を起こすについて大きな力を働かせました。その途中の文久三年(1863)には、「勤王山伏」が何人も斬首される事件も起きます。一方では「神兵」という勤王山伏の激しいグループができたりします。
いずれにせよその結果明治維新が達成されたわけですが、たびたび述べるとおり、大隈重信や東京大学の憲法学者・穂積八束に言わせると、維新は神儒一致の儒教主義(水府の史論)と国学とによってなされたと言われます。この国学は、復古神道につながり、神様と仏教との習合を認めません。

こうして、維新後の明治元年(1868)、いわゆる神仏分離令が出され、明治5年、修験宗自体が禁止。続いて廃仏毀釈が行われます。つまり神社とお寺とが一緒にある英彦山は認められません。この問題の経緯は、正に山伏の子孫でもいらっしゃる長野覚先生の『明治維新と英彦山山伏』などに詳しく書かれていますが、山伏達の行動つまり勤王に走ったがための山伏自体の廃止という結果、正に矛盾の極致になってしまったのです。

そもそも山伏というものはどういうものか。頭の上に大日如来のような宝冠をかぶり、自然と一体となって大自然を感得し、自分自身を大自然に融合させ、衆生を済度するとかいう意味のようです。ところがそういったことをこの神仏分離のコンセプトは認めません。山伏は全部還俗させて、神官になれ、ということになりました。そして英彦山権現は英彦山神宮になって、それまでに小倉藩の細川忠興が寄進していた霊山寺大講堂は奉弊殿になります。現在、英彦山に行ってみると山伏の房はわずかに1つだけ。あとは「その跡」だらけ。しかし、鍋島との関係を表す痕跡としてのいろいろな物が残っていることは嬉しいものです。
一方、佐賀の徳善院の方はどうなったかというと、これは純粋なお寺になりました。ただし上記の鳥居は残っており、その鳥居の前には昔は山伏やお坊さんの家があったのですが、現在はそれが全て取っ払われて田んぼとなっています。

そして、このことによる問題は、英彦山にしろ徳善院にしろ経済的な損失です。英彦山はもちろん鍋島の応援がなくなり(今でも一部「彦山参り」をする人々がいるようですが)、徳善院の方も鍋島家が明治維新で江戸に行ってしまったことからそのサポートがなくなりました。おまけに、昭和20年の敗戦により、それまで持っていた田んぼを農地改革で失うということがありました。従って、昭和30年代の初めまで残っていた二代光茂による立派な山門も遂に解体となってしまったわけです。つまり常朝さんの願いは叶っていません。

以上の歴史ですが、私としては、この山伏というもの、いわゆる修験道というものは相当に奥の深いものじゃないかと思っています。北部九州を見た場合、この英彦山が胎蔵界、宝満山が金剛界ともいわれます。大自然が顕す一種の曼荼羅です。さらに天台系の脊振山とか色々。大観望から見た阿蘇山は正に寝釈迦。大陸との関係では韓国の南山、山東省の泰山、更にはアフガニスタンのバーミヤンにまで共通するところがあり、この辺りをもう一度改めて考え直して見るべきではないかと思います。先に述べたように大自然と一体になる自分という考え方はもっと大きな意味がありそうです。

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明けましておめでとうございます 
Thursday, January 20, 2022, 01:20 PM
今更ですが、おめでとうございます。

昨年、久しぶりに本・『法律から読み解いた武士道と、憲法」元就出版社を出し、これからまたもとに戻って言いたいことを書いたり発信したり(具体例は過去のブログにあります)しようかなと思っていたら、このサイトの大元に事故発生で、心ならずも止まってしまいました。

とりあえずこのブログは再開します。

と書いたところでzoomの会議が近づきましたので、続きはすぐに。
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[孝」と武士道 
Friday, November 26, 2021, 06:53 PM
 「孝」という観念については、京都大学教授を務められた桑原隲蔵(じつぞう)先生(桑原武夫さんのお父さん)の言葉に、「孝道は支那の国本で、又その国粋である。故に支那を対象とする研究には、先ずその孝道を開明理解しなければならぬ(『支那の孝道 殊に法律上より見たる支那の孝道』)」とあります。
『孝経』の「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり」という考え方が中国の古い昔からの中心的な観念として存在するのだということです。そして、これが歴史の中に時々頭をもたげては色んな事象を起すので、中国だけではなく日本や、特に韓国のことについても、そのことを踏まえることは大切だろうと思うのです。
そこで、この「孝」の観念を、肥前において、一七一六年(享保元年)の『葉隠』成立の前、元禄時代にしっかり打ち出したのが誰かというと、一六九五年(元禄八年)から『月下記』を書き始めた武富廉斎ということになります。
福岡女子大学教授を務められた井上敏幸先生の論考(かつて佐賀に存在した雑誌『新郷土』創刊四〇年記念出版『佐賀の文学』所収)を引用すると、武富廉斎は、「佐賀の白山に住した藩御用達の呉服商で、代々長崎貿易に従事し、町人頭の家格を持った富商であった。元禄七年、五八歳の折、鍋島綱茂から藩の儒者に仰せつけられ、……儒学に熱中した廉斎は元禄五年私財を投じて『大財聖堂』を建て、このことによって後年、多久茂文の『多久聖廟』建設に際し、様々な形で、その息子の英亮と共に参画した」とされます。
廉斎は中国の明末の動乱期に日本の佐賀にやってきて今宿などを支配した明の十三官の曾孫であり、上記のとおりの富商です。現在、佐賀市大財町(おおたからまち)には「明十三橋(あけとみばし)」があり、立派なご子孫もたくさんおられます。廉斎は、当代の著名な儒学者、伊藤仁斎、藤井懶斎(らんさい)、貝原益軒などとも広く交わっていたそうで、五九歳の折に書かれた『月下記』も、こうした広い学問的交友の中から着想したもので、藤井懶斎の『本朝孝子伝』(一六八四)をよりどころにし、地元肥前を含めた多くの孝子を登場させています。佐賀にもたくさんの孝子がいたわけです。
そしてそのころは、全国的にも、「孝子伝」が次々と生れてきますが、武富廉斎の曽祖父が上記のとおり儒教国家・明の内乱をさけて渡来した一人であったことが極めて大きいと思います。つまりは「孝」の拡大傾向も国際関係のなせるわざです。
冒頭に書いたとおり、孝はアジア文明の本質で、「孝子伝」自体、黒田彰先生の『孝子伝の研究』などによれば相当古い歴史をもっていて、漢の時代から孝子を載せた本や焼物があり、その中には、孟宗竹で有名な孟宗のように真冬にタケノコが食べたいと言う親のために一生懸命探したらタケノコが生えてきたとか、養老の滝のように、親孝行の息子のために滝がお酒になったなどという奇譚もあります。あるいはむしろ、復讐譚。親が殺されたときの敵討ちも孝から出てきます。
そのころ、幕府も孝の子供を徹底的に顕彰するという方針を打ち出していきます。ですから江戸時代の武士の価値観を決めたのがこの国際的インパクトによる「孝」の発想なのだと。そこから色々なものが出てきたのだということはやはり押さえておかねばならないことでしょう。
これに対して、『葉隠』とほぼ重なってくる井原西鶴は『本朝二十不孝』という、逆に親不幸の人を書くと言うので、これは正に芸術家らしい「逆らい方?」かなと思うわけですが、とにかくおもしろい。
そして、井上先生が以上に続けて挙げておられるのが、『葉隠』です。
井上先生はそこで『葉隠』を、この『月下記』と同じく『仮名草子』として取り上げておられ、「『月下記』は人倫の道としての「孝道」に焦点をあて、朱子学的規範と朱子学的道徳への目覚めを促そうとするものであったが、これに対して、『葉隠』はむしろ、儒教的な士道論に対する批判的姿勢を持つものであった。さらにいえば、儒教の影響を拒みつつ、戦国武士の思想の余習を、その発想の核として、佐賀藩主に対し、また藩そのものに対する武士の献身の伝統を心情の内面に向けて深く掘り下げたものであった」とする『日本思想大系二六・三河物語・葉隠』相良亨先生の見解に賛成しておられます。私もそれが正しいと思いますし、真の武士道理解のために、相良先生やその先駆者・和辻哲郎先生の考え方は必須です。
井上先生はその論考の末尾で「『月下記』と『葉隠』とは、孝道論(前者『月下記』・士道論)と士道論(後者『葉隠』・むしろ武士道論)という違いはあるものの、文治主義が浸透してくる元禄時代佐賀藩の思想交代劇の一部を垣間見せてくれる、恰好の仮名草子風著作物だったのである」とされていますがまさにその通りでしょう。それは全国的な傾向でもあります。
元禄という時代が、戦国時代から文治主義の時代へと移行していく、その過程の中にある『月下記』であったり『葉隠』であった。そのバックには、改めて、国際関係の変化が重要であったということを忘れてはならないというのが私の考えです。

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オボ(オボー)の話 
Friday, November 26, 2021, 06:48 PM
大隈重信が『大隈伯昔日譚』の中で述べる、あるいは、東京帝国大学の教授であった穂積八束が『法学協会雑誌』の中で述べていた明治維新の原因、それは突き詰めて言えば、『葉隠』すなわち相良亨先生の言われる「武士道」、とは対極に位置する、_馗邸水戸の神儒一致の発想、それに∪仰考証学(考拠学)の影響を大きく受けた復古神道(国学)、この ↓◆△弔泙蝓柄衫廟萓犬慮世錣譴襦嵒雹瞭察廚任呂覆ぁ法峪瞭察廚その原因をなすと言われていることから、改めて△慮気砲△襦嵜斉察廚箸いΔ發里鮃佑┐討澆燭い隼廚辰燭錣韻任后

このあたりも私が書きました『法律から読み解いた武士道と、憲法』にも書いてありますが、ちょっと不足しているので、改めて今般取り上げてみました(でもやはり時間も紙数も足りません)。

 そもそも神道と言っても、もともと日本にあったいわゆる古神道(?)というものと、江戸時代に本居宣長や平田篤胤によって、いわば作られた復古神道、つまり△箸和腓い飽曚覆蠅泙后もちろんいわゆる国家神道も異なります。
そうして、むしろ逆にその古神道と「オボ(OBOO)」とが関わってくるのではないか、という一種のロマンを考えたいのです。

まず「オボ」とは何かというと、私の本の中に写真が出ている石堆、つまり石を山の形に積んで真ん中に旗を立てたものです。写真のものは内モンゴルの一部、現在の河北省(旧熱河省)の避暑山荘にあったものですが、この「オボ」は、モンゴル人のいるところだけではなくて、アジア全域に広がっており、むしろ北方のオホーツク文化や、巫女(シャーマン)の文化と繋がるという話もあります。

一方、チベットの映像を見ていると、オボが次から次へと登場します。ですので、現在ではチベット仏教の「マニ堆」だという説明も河北省あたりではされています。しかし、白莉莉さんの論考「オボーと十三塚信仰の比較考察」によりますと、内モンゴル赤峰市では、むしろ新石器時代の中晩期に、最初の石積祭祀が現れ、オボに非常によく似ているものであるということで、チベット仏教のモンゴルへの渡来より遥か以前からユーラシア大陸全体に、このオボに相当するものが存在したということになると思います(モンゴルの現在の姿は仏教と習合した姿)。

そうなると、では韓国とかにもあるのではという話になるわけですが、韓国には「防邪塔」というものがあって、これも全く同じように石を積み上げて、一番上には出っ張った部分がある。私は、これはどう見てもオボと同じか関連あるものだろうと思います。

そうすると、では日本ではどうなのか、という話です。1か月ほど前、宗像大社の沖ノ島の映像を見ていたら、まさにそのようなものが出ていました。しかも、江戸時代の学者・貝原益軒大先生の『筑前国続風土記』の宗像大社・沖ノ島の項(沖ノ島は俗称で、本来は「澳津島」)を見ると、「なれこ石と云石有。初て此島に來る者は、海水に浴し、夜中に此石の辺を回る。」とあり、このことは松尾さんのチベットのご経験や諸本にあるモンゴルの慣習、つまり3回その周りを回ることとそっくりです。
さらに、4週間ほど前、たまたまテレビの「ブラタモリ」を見ていたら、淡路島の伊弉諾宮(いざなぎぐう)が出てきましたが、そこも、社殿の奥の奥を訪ねていくと、最後は石積みが出てきました。

元々大神(おおみわ)神社などが有名ですが、古神道からいうと社殿というものは本来なかった。いわゆる磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神籬(ひもろぎ)等々、石、山、樹林がご神体で、それを祀るために後で今の神社建築がくっついたということは間違いないようですよね(あるいは太宰府天満宮のように、菅原道真のご遺体を埋めたお墓の上に拝殿を建て、本殿はないというところもあります。もともとは安楽寺です)。

そんなことを考えていくと、一体この日本の神社というものも、広くユーラシアと一体だと考えるのが一番自然なような気がします。そして、むしろ京都大学の貝塚茂樹先生が『中国の古代国家』の中で、この「オボ」が「土」という字の元であるということを図を交えつつ詳しく説明され、そこにおいて、「オボ」がフランスの歴史学者クーランジュの『古代国家』の記述から、ローマを作ったロムルスの国家づくり、すなわち、土を掘って城壁をつくる作業、更に数回前にとりあげた「恋闕(れんけつ)」の「闕」にも繋がっていくということを述べておられることに世界への広いつながりを感じます。しかも闕は、韓国のチャンスンと同類で。そのチャンスンとセットの鳥・ソッテと同じ鳥形の出土品が佐賀の吉野ケ里遺跡から出土し、現に復元されていること、と止めども尽きず、「国際化」していきます。
ちなみに、私のお友達であった清瀬信次郎先生(清瀬一郎衆議院議長のご子息・靖国会総裁)も、同じ平河町のご町内として、また同じ大学の教員仲間として、しょっちゅうお話しをしていたのですが、伊勢神宮が、内宮は大陸における祖霊殿に、外宮は社稷壇に相当するということもおっしゃっておられました。確かに祖霊の信仰の地である内宮と、農業神である外宮とが対になっているというのも面白いです。

式年遷宮についても、実は河北省での説明では、オボに相当するマニ堆は、モンゴル族が移動するので寺が建てられない。そこでこのようなものを建てるのだという説明になっていました。そうすると、日本の天皇家が江上波夫先生のおっしゃるように、大陸から本来渡ってきたということ(これも正しいと思います)になると、そのような騎馬民族の「移動」ということから、20年毎の式年遷宮が行われるということになるのかもしれません(あくまでも「かもしれません」の「ロマン」です)。

本当に、終りがなくなってしまいますので、とりあえずここで打ち止めとしますが、日本だけでない、広くユーラシアの観点から、日本の神道も遠くローマまでつながるユーラシアの巨大なベルトの一部と、気宇壮大な観点から様々な事象を見ることが大切だろうと思います。
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【葉隠】前史と渡来人 
Friday, November 26, 2021, 06:39 PM
『葉隠』には中野甚右衛門により高麗より連れてこられた槇忠左衛門、子孫は秀島五左衛門など何人もの渡来人の話が出てきます。そして、その人々により肥前(日本)の陶磁器は飛躍的発展を遂げました。前々回の、秀吉の名護屋橋あたり通過の時、龍造寺隆信の母慶闇尼が「かわらけ」のような物にご飯を盛って差出した、というレベルから大きく進歩したのです(中島浩氣『肥前陶磁史考』)。

 更に、この秀吉の朝鮮出兵に伴って、当時李氏朝鮮を応援していた儒教国・明国人たちも日本にやってきました。このことは、その後の明の滅亡とともに、武士道の新局面を開くについて極めて重要なことがらであると言えます。しかし、当日はとりあえず焼き物の話でした。

 そこで、ここで取り上げる1人は「百婆仙」です。百婆仙は夫の深海宗伝と共に朝鮮半島から日本にやってきました。そのご子孫は現在も深海商店として、有田焼関係の絵付けに用いられる呉須を全国的、世界的に製造販売しておられます。

百婆仙は韓国の映画では「火の女神ジョンイ」。芥川賞作家村田喜代子さんの『龍秘御天歌』などで極めて有名な人ですが、私が時々紐解く上記『肥前陶磁史考』や、そこに引かれた報恩寺の塔などによると、元々高麗深海(同音の金海との説も。金海は製陶地で鍋島軍の城跡があるとのこと)の人で、日本に連れてこられ、元和4年(1618)に夫宗伝(新太郎)が亡くなると、「未亡人は此住み慣れし(武雄市)内田を引払い、平左衛門を始め同族工人960人を率いて有田の稗古場に転居せしは、彼亦決して尋常一様の夫人にあらざりしことが察せらる。其後有田に於いても磁器製造者として相当の地位にありし者の如く、今稗古場観音巖にある霊廟に金ヶ江氏(有名な李参平)と並んで深海氏と刻記されている。斯くて此女丈夫は、明暦2年3月10日(李参平死後4年目)96才の高齢を以て卒去した。今同地報恩寺境内にある百婆仙の墓碑と称するもの、即ち前に碑文を掲げし萬了妙泰道婆の塔がそれである。」というわけで、この墓碑文、なかなか難しいのですが、とにかく、高麗深海の人で鍋島軍の後藤家信に連れてこられた。白磁の製造に大功を立て、96歳で没した、などなど、現代にまで続く巨大な影響を及ぼしているわけです。

 そして、もう一人取り上げるのが村岡総本舗さんのお菓子の名前でも有名な李宗歓です。この人も(あとで)陶工を連れてきましたが、朝鮮役より6年以前に日本にやってきていて『御用唐人町荒物唐物屋職御由諸之次第』によると、「元祖宗歓儀高麗国竹浦の陸川崎と申所の産にて、文を学び武を練り(大明萬暦十五年『我天正十五年』)春三月中旬、家族を引率し海濱に遊漁す。俄に大風高波起り立ち漁船洋中吹流漂事幾日。既に食盡き飢て為死干時天道の助を得、一小鯨船に飛込み是以て飢を扶け万里の波濤を凌き終に筑前黒崎の濱に主従七人漂着す。…
日本天正十九年辛卯漁夫大蔵と申者案内にて太宰府に参籠して身の無事を祈る。此時肥州の太守龍造寺の御親郷龍造寺七郎左工門家晴様、成富十右工門尉茂安様御登阪御帰路の砌御参詣。漂流の始末粗御聞届御用有之由にて官尉御届の上佐嘉御連帰家晴様御舘被召置衣服並御扇子等被為頂戴頓而被召達御登城直茂様へ御目見被仰付御懇の蒙上意其後上々様方被為御目渡難有奉存侯。
且又段々御家老様方御屋敷へ御介副御役人御附副罷上り侯。」と。
そして、朝鮮出兵に参加し、「慶長四己亥四月御暇に而直茂様御帰国御供仕り候処 唯今住居仕候場所へ居宅仕候様被仰付 宗歓唐土の産に付町名を唐人町と御付被下御扶持(十人御扶持)被為拝領朝鮮御陣中諸用物相調候 御吉例を以御内外御用荒物唐物一手に相納御用屋職を以無退轉子孫相続致繁栄候様御意の赴家晴様御書取御披露の上御印を以被為戴冥加至極奉存事」とあります。

というようなわけで鍋島の家来になり先のとおり佐賀にある唐人町はこの人にちなむ名で、高麗の「川崎」というところの出だったので川崎を名字とした、との話。私の遠縁にも唐人町のすぐそばに川崎さんがいるというわけ(鏡円寺には川崎の名のお墓もあり)。
有田も佐賀も相当ハイレベルの人がやってきた、というわけです。もとより有田の李参平(鐘ヶ江金兵衛)は当然有名ですが、もっとたくさん。また、そのころに捕えられた孟子の子孫・孟二官が中国の浙江省・杭州の「武林門」にちなんで武林となり、孫は侍・武林唯七となって赤穂浪士となった話も何度も書きました。

福岡の唐人町なども特に中国人というわけではないという話も聞きますが、当時は現在の頭で中国だ韓国だと言っていたわけではないので、全部まとめて唐人町というあたりがむしろ正しいのではないかという気もします。

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