★4月26日 
Sunday, April 26, 2009, 03:59 PM
 台湾の友人が来日したので、お寿司屋さんに連れていったところ、そこでアルバイトしていたのが上海人。もちろん台湾の人にも色々ありますが、このケースでは、台湾の方の目がバチバチ。困ったような上海のお兄ちゃんに「メイグアンシー大丈夫ですよ」と。お兄ちゃんもにっこり。

 その席では正に台湾の将来について、色々な議論になりましたし、彼らは日本人がどう考えているのかに大いなる関心を示しましたが、私の意見はとりあえずは現状をかえない。

 台湾が経験してきた様々な苦労を考えると、大陸と台湾との関係をうまく取り持つのは、過去のことを考えれば、ある意味老いも若きも、日本人の責務だと考えますし、政治とはそういうものでしょう。若者が「自分には関係ない」というのはそれ自体がおかしい。

 ドイツのイエーーリングの「権利の為の闘争」を翻訳されたある先生は私の尊敬する法思想史家であるとともに、本来、民法学者ですが、彼は、ドイツの戦争責任について、若い人間もそのことに気づかないかぎり責任ありというのがドイツのポリシーであり、若者は関係ない、というのは間違いである、と言われています(ちなみに、その学問上の叔父にあたるKさんは、私のいわゆる元上司みたいな人ですが、先般、その法律書がドイツ語に翻訳されました。86歳の今も旺盛な知識欲です。あれに見習いたいと思います。なお、もう一人の知人で大家S先生の本は英語に訳されていますが、同先生はこれまた?二本松の方で、当然。武士道に関心。何と色々繋がることよ)。

「日本人たる前にアジア人でなければならぬ」という川島芳子の言葉を持ち出すまでもなく、そのくらいの度量と能力を持ってこそ彼女のいう「武士(もののふ)の道、大陸の道」でしょう。

 こせこせした議論が横行している現状については、分かりやすい話し、「もっと勉強せよ」と言いたくなります。その勉強に当っては、近ごろの本は、学者の大論文は別として、たいていが役立たずです(もちろん例外あり)。なぜなら書いている人の能力が落ちているからです。古本屋の安い、よい本を読めば、安上がりでしかも色々考えることができます。
 昔の人を馬鹿にするなよ、というのが私の意見。




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★4月23日 
Thursday, April 23, 2009, 10:56 PM
  オバマ大統領がペンタゴン(アメリカの国防総省)を訪問した映像を見ていて色々なことを思いました。かつて見たペンタゴンは、ワシントンのはずれのようなところにペッチャリとありましたが今も変わらずです。
 あの形、築城の基本に忠実と見ました。ヨーロッパでは、城は古くは高い塔状の形態をとっていましたが、火器特に攻城砲と呼ばれる強力な砲が生まれると、高い塔は役に立たず、平面化して広さを利用した砲の威力の減殺で対抗するようになります。日本の五稜郭もその主義です。
 そうするとあのペッチャリもそういう主義を取り入れたんだろうなと思います。
 もちろん、真上からの攻撃には9・11のとおり弱いわけですが。
 一方、日本の防衛省の建物は如何。あんなタワーは、古代西洋みたいなもので、攻撃して下さいといわんばかり。
 先日の北朝鮮の騒ぎ同様、どうも平和ボケだな、と言わざるを得ない感じです。



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★4月20日 
Monday, April 20, 2009, 11:21 PM
 あまり私にとってなじみの話しではないのですが、先日の痴漢最高裁の判決、事実を審理するところでもない最高裁が、1、2審の手続きを、紙を見ただけでああだこうだと言い、破棄自判というのはどうかなと思いました。
 裁判には事実審と法律審とがありますが、法律審の典型は、フランス革命のあと、革命派の議会が作った法律を裁判所がねじ曲げて適用したことに対して、これを是正する破棄院に見られます。
 私はこれが上級審の本来の姿で、その前提として民主的な裁判所であることが要求されると考えています。
 これに対して、日本の旧憲法時代の大審院は、今とは比べ物にならない力のなさで、力は司法省に握られていましたから、下級審をコントロールするすべがなく、個々の事件を通じて、言葉は悪いですがイビリみたいなことで下級審の判決を破棄してコントロールしていたといわれます。
 今回のことなど、昔の残滓ともいうべきものが威を振っていなければ幸いです。

 ちなみにこの話し、上記は民主主義の話しでしたが、皇帝権力や将軍が自らの命令に反して裁断を下した奉行の行ったことを破棄する話しになれば、武士道につながるわけ。大岡裁きなどがその流れです。武士の行き方を官僚の倫理という面からみると、極めて現代的な問題なのです。
 我々はこのあたり、感度をよくして国を自ら造る気概と知恵が必要です。そのリアリズムを欠いているのが現代の様々な議論といえるかもしれません。
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★4月17日 
Saturday, April 18, 2009, 01:03 AM
 先日、仕事場のレクで横浜の金沢文庫に潮干狩りに行きました。潮の具合も最高で、貝もたくさん採れましたが、25年くらい前、そこに3年住んでいた私としてはなつかしい場所でもありました。
 もし、あそこに住まなかったら、今のような考えを持ったかどうかわかりません。当時の県立金沢文庫は昭和5年に建てられた古い建物で、国宝がそのあたりにコロコロという状態でした。それは中世の日宋貿易の産物で、いやでも国際的興味をそそるものでした。鎌倉北条氏の発想が体に伝わってくるところだったのです。
 博多などに負けない国際都市(地区)と言えるかもしれません。北条氏は鎌倉の周りにたくさんああいう地域を持っていたとも言われますが、今日まで奇跡的に残った唯一といってもよい場所です。 
 県立金沢文庫の当時の館長さん(今、ある仏教系の資料館長)にはお会いしていませんが、実は佐賀の人。その弟さんには1年半ほど前にお会いし、知的で良心的な著述をなさっています。
 文庫のある六浦では中世、潮干狩りどころか殺生禁断がなされました。吾妻鑑にあるような殺伐とした時代なればこそ生き物を大切にした、という文庫展での見解は、葉隠の鍋島清久に通じ、多分アジア全体の放生に通じるものでしょう。
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★4月12日 
Monday, April 13, 2009, 01:11 AM
 日比谷公会堂を上から眺めるプレスセンターの建物で、5月から始まる裁判員制度について講演しました。
 このことについては、もっぱらどうしたら裁判員にならないで済むか、とか、守秘義務に反したらどうなるとかのおよそ瑣末としかいえない議論が横行し、一般の啓蒙書も正に「啓蒙」のレベルです(あれでずいぶん儲けた人もいるでしょう)。

 この博物館の本文に書いたとおり、昭和3年の陪審法施行に際して、国民のレベルアップを図るべく日比谷公会堂ができたり、公民教育と称する国民的勉強が行われ、本質論がたたかわされたのとは大違いです。 これじゃ、私のように国民参加(否、むしろ国民による司法実現)に賛成な者でも時期尚早かな、と思わざるを得なくなります。
 例えば過日の凶悪事件についての審理が余りにリアルでいやになった等の議論をしている一方、サムライジャパンなどと盛り上がっているのを見ても、サムライなら生々しいのも見ざるを得ないでしょうに、あれじゃ正に公家であり、「第八条 裁判員は、独立してその職権を行う」とある裁判員法の文言の本質を踏まえているのかね、と一言いいたくなります。もちろんいない国民が大部分であることでしょう。

 こういうふうに、一般が国家なるものの本質を掴まえて議論していませんから、北朝鮮に対する防衛情報たる迎撃ミサイルの移動まで全部テレビ報道というお粗末。
 要は、全てが「ごっこ」状態で、司法にしろ、立法、行政にしろ、国造りについてのリアルさにも欠けるわけ。公民教育研究に、マカーサーと同じ日本人12歳論が書いてあったのと一向変わっていないのです。
 これを機会に、「国家」と言っただけで鼻息が荒くなるような見せかけばかりの威勢のよさを放擲し、国民が真に国家の本質にせまるよすがになれば裁判員も反射的に役には立つでしょうが、一方、その法律の第1条に、「この法律は、国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、裁判員の参加する刑事裁判に関し、裁判所法及び刑事訴訟法の特則その他の必要な事項を定めるものとする」とあるのは一体何を言いたいの?被告人は一種の材料?と思わざるを得ないと言わざるを得ません。
下に書いたことを若干敷衍。

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★4月10日 
Friday, April 10, 2009, 01:35 AM
 最近、一流会社の会長さんたちと食事をして、話が某会社顧問さんの自叙伝に及びました。
 その人が、戦争中、500キロ以上を行軍したというので驚きの声。戦後生まれの私ですが、その反応にはこちらが驚きました。だって、500キロの行軍なんて当時は当たり前でしょうにと。現に我が身内はシンガポールから北ビルマまで毎日のようなに機銃掃射を受けながらタコツボを堀って行軍したんですから。
 もっと時代を溯れば、関東から九州、また京都と動き回った足利尊氏とか、その反対派で、青森から鎌倉を落として近畿地方和泉の石津で敗死した北畠顕家とか。アレキサンダー大王まで持ち出すまでもなくそんことはつい最近まで当然のことだったのです。
 ちなみに鎌倉時代の歴史書東鏡をみますと、京都から鎌倉までの500キロ弱、馬では4日という記録があります。
 武人とはそういうものであって、びっくりしていては困る訳。

 このことはほかのことにもいえ、来月開始の裁判員とかいう制度が始まるということは、国民が死に向き合わなければならないということなのに、「私はいや」などという態度をとる一方で、サムライジャパンなどとはやしていることとは矛盾します。
 このあたり、威勢のいい掛け声と実際何をするのかというリアリズムとの乖離が、年代の移行による必然ではないことを祈りたいと思います。



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★4月9日 
Thursday, April 9, 2009, 02:56 PM
 その昔の勉強仲間の会の50周年行事があり、取りまとめ役であったことから、打ち上げ旅行で2度目のテニアンを訪問。地元の人との交歓や、サイパンでは裁判所を見学したり、高校生の陪審コンテストで優秀な成績を収めた高校生に話を聞いたり。有意義な時間を過ごしました。

 そのテニアンの衛星放送テレビで見たのが日本による台湾領有の話。
 NHKが好きというわけではありませんが、やっとまともな台湾領有論が行われているわ、と思いました。
 以前台北で1度食事をしたこともある台湾人の医者Kさんがメインの登場人物。彼らはR総統の仲間でもありますが、むしろ批判的です。その大きなポイントは、かつての台湾領有における差別にありといってよいでしょう。私のごく近い親戚にも台北一中や台北第一高女に行った人がいますが、番組でも言っていたとおり明らかな差別がありました。
 この差別の根源や蒋介石進駐後の悲劇に番組はふれていませんでしたが、当時の日本人の意識は正にこの博物館に記述した儒教武士道の延長にあり、それがああしたことに至る大きな要因になったと思います。
 それは、正にサイパンなどの南洋諸島においても全く変わりません。サイパンガラパンにある博物館で購入してきた本に、台湾の人々との全く共通することが書いてありました(当たり前ですが)。
 もちろん、一応原地の人に納得してもらえば、それなりの評価も得、それが台湾人は日本好きという半分は本当の話にもなるわけですが、ことはそんなに単純ではありません。
 番組の最後で、言葉というアイデンティティの根幹を奪われ、自らの思いを台湾語で語れない憤りが述べられていましたが、その苦しみは十分わかります。
 以前、Kさんの仲間と食事したときも、「Rがそんなに日本が好きなら日本人になってしまえ」と吐き捨てるように言われた人がいたことが思い出されます。
 そんな彼らも徐々に減ってきています。去年、台北に行った時、取りまとめ役のCさんと電話で話しましたが、既に施設で生活する日常となっていました。
 私に「僕の体は半分以上日本人になってしまっているんだよ」と言いつつ、様々なもどかしさを訴えていた祖父以来の関係者・別のKさんの悲痛な言葉が今も思い出されてなりません。

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★4月3日 
Saturday, April 4, 2009, 01:04 AM
 旧知の考古学者O先生が中近東の遺跡発掘の件で新聞に出ていました。
 トルコは、日本と同じころ成文憲法を作ったアジアの同胞です。そのケマル・アタチュルクの改革は、私が尊敬する日本人の改革者・原敬と同方向ながらその困難さと到達点は原のはるか上をいくものでしょう。まちろん、原の生命を賭しての改革もすばらしいもので、最近の「改革まがい」とは大違いです。
 そして、このあたりは、2000年くらい前は、中国、ローマのちょうど中間としてのパルチアの地域。
 ここを知らずしては人類の何たるかもわかりません。
 金銭抜きで何十年にもわたって真実を求める発掘活動をしているO先生の仕事が日の目を見てほしいと思うとともに、こういう学者の功績を実際の政治や経済に生かすことこそ余人の務めではないかと思われます。
 
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★3月31日 
Tuesday, March 31, 2009, 11:15 PM
 ソマリア沖の海賊対策のため、護送船団が組まれることで思い出すのが私の身内。
 昭和19年7月、サイパン島陥落後の日本は、南方へのシーレーンは正に喪失。私の故郷・佐賀県の北の海も朝鮮半島への安全は確保されず、今も多くの船が呼子沖の海に沈んでいるそうです。
 ですから、シンガポールから護送船団を組んだ我が身内の船も、海南島近辺の大海原で米軍の潜水艦の攻撃を受け、運よく私の身内は、17、8時間の漂流ののち助けられました。その反面、助けられなかった人がこれまたおびただしい数、南の海に沈んでいることでしょう。
 つまり、すでに戦争遂行能力など全くなかったわけで、にもかかわらずこれを遂行したトップは、一体どんな頭の構造をしていたのか、それを明らかにしなければ、再び同じ過ちを起こしてしまいます。
 その、深い深い理由を探るのが私のテーマ。
 そんな中、昨日も今回の裁判員制度の話と武士道とがどう結び付くのか・・・といった質問を受けましたが、被告人という国民ないし人間に、刑罰という賦課を与える権限の問題ということになれば、切り捨て御免などの権限(権力)を持っていた武士の倫理と当然結び付いてくるわけで、我々はそうした発想法を常に磨いておかなければ、深いところからの「改革」にはなり得ないと思うのです。
 ソマリアも裁判員もつながっている・・・これは本当のことです。

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★3月30日 
Monday, March 30, 2009, 07:35 PM
 中国からの留学生を連れて長野の善光寺に参拝。
 先日、盛岡での学会に参加した留学生は、ついでに有名な平泉に行ったそうですが、金色堂の小ささにびっくり、がっかりであったとか。しかし、善光寺の大きさには納得。しかも、立派な庫裏にはこれまたびっくり。
 そんな現象を見ていて思ったのは、確かに善光寺は大きいということと、この大きさはどこから来たのか、ということでした。
 今の善光寺の元は飯田にあって、その前は蘇我、物部の仏教をめぐる戦争にあり、つまりは聖徳太子の時代に由来することは解説書にあるとおりです。そして、これを造った本田善光さん夫妻の像をよく見ると、奥さんの方はいわば立て膝をして韓国の女性と同じ姿勢をとっていることに大陸との関連が言われてきました。
 そうすると、今の建物は江戸時代のそれとは言いながら、あの大きさそのものが、正に大陸的ということではないかと思います。いわば、東国にある数少ない大陸的規模を持つ遺跡といってよいのではないかと。
 2年前に、また最近、ある雑誌に我が国民の「気宇壮大さ」の大切さを書き、その代表として大野城や奈良の大仏様のことを書きましたが、同じことがここでも言えそうです。
 もちろん、平泉の遺跡も、現象面の小ささとは反対に、目に見えない大きさはあることを、留学生ならぬ日本の「地元」人間として、踏まえなければならないことはもちろんです。

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