機雷の話とシビリアンコントロール 
Wednesday, March 4, 2015, 11:44 PM
機雷の掃海に関わる国会の議論を見ていて、頭に浮かぶのは、ウラジオストクの丘の上に立つマカロフ提督の像でした。
彼は、水雷システムの専門家で、日露戦争において日本軍の敷設した機雷に乗艦が触れ、撃沈、死亡した人です。日本の多くの軍人が彼の本で勉強し、石川啄木は彼の死を悼む詩を残しています。

現物の機雷はあちこちにあり、東京の山手通り沿いのある神社の境内にもありました。あの大きさの機雷が、巨大な軍艦を沈める威力を持っています。機雷は正に有力な武器であり、戦争状態を現出する主役なのです。どこまでその重みを分かって議論しているのか、怪しい。

同じことはシビリアンコントロールについても言えます。

以前も書きましたが、山岡鉄舟の「武士道」に記されている桂太郎のエピソード。彼は当然軍人ですが、文官としての総理大臣の時は、しっかり文官としての服装でドイツ関係の会合に出席したとか。それに対して、東条英機の場合は、ご存知の通り、総理大臣になってからも軍服。

その部下ともいうべき佐藤賢了は、軍服を着て国会の答弁に臨み、 議員に対して「黙れ」とやった。その東京裁判での弁護をされたのが、私の先生の父上でした。戦後になっても傲岸不遜な態度は一向変わらず、テレビでも見ました。もっとも、アメリカの行うベトナム戦争には、宇都宮徳馬さん共々反対。この辺りは面白いものです。ついでながら、宇都宮徳馬さんの父上は、佐賀閥の陸軍宇都宮太郎大将。宇都宮さんの会社の顧問をされていたのが、私の先生。

まあ、こんなつながりが、やはり実態把握には大事ではないかと思います。もちろん、そういう経験を糸口として、勉強もしなければいけませんが。

そんなわけで、政治家なら少し以上、そういう糸口を持っているだろうと思われるのに、そういう勉強のあとが極めて怪しいのが残念です。

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2・26の考え方 
Saturday, February 28, 2015, 11:58 PM
2月も今日でおしまいですが、2日前が26日でした。私が子供の頃は日米開戦の12月8日と同じで、毎年、2・26事件のことが話題になりました。

このことでも、上っ面の議論じゃダメで、自分の経験が重要かなと思うわけです。
それに、その当時は、いわゆる法実証主義的な考えも強かったので、事を法的に考える力がなければ真実を見失います。

法的に考えるということは、法律を踏まえること以上に、例えば軍人勅諭や教育勅語を法的に捉えるだけのセンスが必要です。
それがないので、誰かが底意地が悪かっただの、奸佞邪知だのみたいなお話でことを処理しようとする。

またまた今日も抽象的ですが、本当のことは書いたつもりです。

そういえば、先日、MK氏が亡くなりました。彼とも2・26の会合で会いましたが、上記の切れ味はいまひとつだった気がします。要は彼の研究対象の人のシャープさに、若い彼は追いついていなかったからです。

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強きをくじき弱きを助けるのが武士道だったはず 
Friday, February 27, 2015, 11:44 PM
坂井さんのことはしょっちゅう書きますが、実戦の人として、18師団(菊兵団)の作戦参謀だったか、牛山才太郎さんにも何度か会って、お話ししたり、賀状のやり取りをしました。当時既に90近かったと思いますが、まさに矍鑠としておられました。練馬の普通科連隊の連隊長もされたので、覚えている人も沢山いるはずです。
どちらにしても、我が身内共々、ビルマの戦線を戦った人で、立派な作戦の眼を持たれた方です(実戦の経験もない私がこんなことを書くほうが失礼)。

その18師団が壊滅したのは、中部ビルマ(ミャンマー)のメークテーラです。ビルマというところは、日本の倍くらいの広さですが、中は様々な気候に分かれています。メークテーラは砂漠と言ってよく、サボテンがあちこちに生えているところ。地べたを見れば数センチの鋭いトゲを持つ草が一面です。匍匐前進なんて到底できません。
そんなところで、対戦車砲も持たない日本軍が2000両のM4シャーマン戦車と対峙したのです。日本の軽戦車も若干はあれど、その装甲は、装甲とも言えない数ミリ程度。およそ勝負になりません。サイパンなどの南の島も同じです。

それ以前、戦車を持たない中国軍相手なら通用したわけですが、これでは話にならない。
坂井さんも言われていたとおりで、強気をくじき弱気を助ける武士道の反対をやっていたわけで、こういう本当のことを今の人はわからねばならないと思います。
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ウクライナとベラルーシから 
Monday, February 16, 2015, 11:12 PM
刀を抜かないのが本当の武士道なのに(つまり、抜かずして相手を屈服させること)、世界中が刀を抜きまくり、為政者も、モグラ叩き状態になっちゃったな、と思う今日この頃。ベラルーシでの合意もそっちのけで、ウクライナでも停戦はいっこう守られないようです。

で、このウクライナ人、実は東方に極めて多く、シベリアにはたくさん。多分、北方領土にいる人の多くがウクライナ人でしょう。そして、中国・ハルビンのウクライナ寺院は今も稼働中。

ちなみにこのベラルーシ。なぜ白ロシアというかというと、ロシアが黒で、ベラルーシが白。つまり、相撲の黒房、白房と同じ陰陽五行説から出ているとか。

世界はみんなつながっている。そういえば、先日の旅行でも、クラクフの町で元旦に、後ろから私を呼ぶ声が。アレーと振り返ると、前日バスの中で話しをしたベラルーシ人のグループでした。何て世界は狭いんだ。

それもこれも、ゴソゴソ歩きの成果かもしれない。世界を知らない為政者に任せていたんじゃ80年前と同じ失敗をやらかす危険があります。もっとも、坂井三郎さんが言われていたように、どこかの国による歯止めがしっかりあるとも言えるかもしれませんが。

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この事態をどう考える? 
Wednesday, January 28, 2015, 03:36 PM
我が国の法的厳格性の喪失国家ぶり、マニュアル国家ぶり、が、見事に示され、しかも一向に反省なく、益々物語性(普通の国とか美しい国とか)を深めて、究極的には、国家という概念、もちろん国家そのものの機能の破壊を導いている、というのが今回の事件とそれをめぐる諸情勢かと存じます。

法的厳格性の喪失には深い原因がありますが、法の捉え方も問題です。
要は、この事件が起きる前に! 私が2・3項目下に書いた通り、「中庸」ということがいかに危険かわかっていない。
彼らは「上」です。それを「中」と言えば、ガリガリと歯車は壊れるのです。
この辺は、例えば2・26事件の青年将校や、明治維新の志士の気持ちがわかっていない。正に中庸のぬるま湯国家ぶり。

そして、為政者は「屈しない」とかなんとか、海の向こうの国から教えられたマニュアルどおりに繰り返す。

反省の代わりに「自己責任」と言ってしまっては、国家の意義はありません。

と、以上も、感度よく考えていただかないと、あなた何言ってるの?と言われるだけでしょう。
日本語力、アジアの歴史の無理解、もちろん世界の歴史の無理解が、この傾向に拍車をかけます。

ちなみに、ご縁の深い田中康夫さんが年末に「33年後のなんとなくクリスタル」を出されました。すごく良い本なので、おすすめです。
一つ書評を見ました、「憂国の書」と書いてあったのは、上の意味での憂国の書なら賛成ですが、国民を忘れた憂国なら、田中さんの意図はそうではないはずです。ここのところが難しいんでしょうね。
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農業と武士道像 
Wednesday, January 21, 2015, 09:05 PM
農業に関係深い私は、兵農分離以前の武士の生き方に共感を持ちます。

ある地域では鶏肉が有名で、東京にもたくさんの鶏肉が出荷されています。
しかして、この鶏、どうやって大きくなるかというと、ある私企業が生体から飼料から、何でもかんでも提供し、農家に育ててもらうわけ。なぜかというと、鶏を育てるのはものすごく臭いから。東京の人はよく分からずに美味しい美味しい。

で、数ヶ月経って成鳥になり出荷する時のお値段は、一羽数十円とのこと。このスタイルは、農協と同じです。
でも農協のばあいは、痩せても枯れても一応地元なわけです。

これが、今の農協改革と称するものは、直接的に東京などの私企業が農家を抑える。
これは、日本の中間的農家を潰し、自立した農家も厳しくなりそうです。

そいいうことを考えたりしたりしている人は、要は都会的で、農家が潰れたって構わない、と考えているよう。それは、食料を含む安保上極めて危険なことでもあるのに、平和ボケで地に足のついた発想がないということでしょう。

要は、武士の生き方からいうと、消費者としての、江戸時代的、半公家的武士像なのです。
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法的突き詰めのない傾向 
Tuesday, January 20, 2015, 11:44 PM
そして、そもそもそういう中途半端なフレーズは、ある人々の神経を逆なでするものだということに、思い至っていなかったようです。

例えば、新渡戸稲造は「封建君主は領民には責任を負わなかったが、天や祖先に高き責任感を有した」なんて、法的に考えたらとんでもないことを述べているわけですが、何の問題にもしない。

これは、実はすごく重いもので、中途半端は許さないものです。桑原隲蔵という先生が、孝の法的な意味について論文を書いていますが、そういうものを踏まえればちっとはわかったでしょうが、所詮突き詰めは足りない。いわば、物語に生きるお坊っちゃま。水戸黄門と同じです。

巨大な問題に気付かず、為政者以下我が国の多くの人々は、深く考えもしないで、新渡戸を崇めるのです。

そんなことだから、法的な厳しさに気付かず今回のような発言になるし、問題を起こします。

いよいよ深刻だな、と思われてきます。
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中庸じゃ哲学になりません 
Monday, January 19, 2015, 12:36 AM
で、日本に哲学なし、と言ったのが中江兆民である事はこの博物館の結論のところにも書いてありますが(一年有半)、日本の為政者さんがこの度中東でしゃべったのが「中庸」ということ。
これ、まさに中国の観念の日本的単純化。「中庸」自体は、元々「礼記」の一部と言われ、「礼記」を読んでみれば、これは半分以上がお葬式の話。儒教とは葬式の思想と言われるとおりです。

しかし、日本人はそれを単純化していい考えですね、みたいなことになりました。

でも、こうした儒教が哲学かというと、私には技術ではあっても哲学とは言えないと思われます。哲学は、西洋の合理主義をみればわかる通り、個人、もっとはっきり言えば我から始まります。そして演繹していく。しかし、儒教は孝を大切にし、親と子という2つの観念から出発するわけです。そして、2つどころか千でも万でも膨れていきます。だから哲学のように見えるだけです。朝鮮儒教がその典型でしょう。

元々中国には諸子百家がいました。だから、老子や荘子を追求していけば哲学になると思います。また、「親鸞一人がためなりけり」と言われた親鸞聖人のような仏教者、つまり開山作仏の功を上げたと兆民に言われた人は一種の哲学者でした。

ちょっと、抽象的なことを書きましたが、とにかく哲学なしの中庸じゃ、例の問題解決にはなりません。
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ポーランドとチェコから 
Sunday, January 11, 2015, 10:26 PM
少し遅い、「あけましておめでとうございます」。

自分のプライベートな行動は、あまりこの欄には書きませんが、一つ。

年末から年始にかけては、ヨーロッパのポーランド、チェコを回りました。以前のベルリン、ポツダムほどではありませんでしたが、特にワルシャワは寒かったです。いつもの街中歩きは耳が千切れそうでした(私の旅行は、基本的に自分でプランを立てて街中を歩く、プライベートなゴソゴソ旅行です)。

ワルシャワでは、1944の「ワルシャワ蜂起」の記念碑が町中にあることに、旧市街の復興王宮などの名所を見る以上の感動というよりも深刻なものを覚えました。ロシアがワルシャワに睨みを利かすために建設した北の要塞も重たいものでした。

そして南に下ればオフィシェンチム。つまり、アウシュビッツのあるところです。大晦日はアウシュビッツ博物館見学で(広大な例の場所が、博物館ということになっています)言われる通りの深刻なものでしたが、除夜の鐘ならぬカトリック教会のガランガランは博物館前のホテルで聞くことになりました。もっとも、大晦日にアウシュビッツの目の前に泊る客はほとんどなく、レストランも元々ごく少なく、その上にクローズドで、ホテルの人の暖かいサービスで、やっとこさハンバーガーにありついた、というところです。

その翌日の元旦、クラクフ(地元はクラコフと発音する。綴りからもこれが適当?)へ戻るためのバスを待ちましたが、一向にこないため、オフィシェンチム駅まで、2キロあまりをスーツケースを引いて歩きました。雪も寒さも結構厳しいものでした。おまけに電車も肩透かし。色々ありました。

でも、それがよかったのです。前の日の大部分の見学者のように、観光バスでさっと来てさっと帰るはもちろんダメ。私の場合は、街中をそれなりに見るという事が加わりました。すると、このオフィシェンチムという街、800年の歴史を有する本来立派な?街だということがわかったのです。大きな教会もありました。あれが除夜の鐘のもとです。

ということは、特に広大な、東京ドーム47個分もあったというビルケナウ収容所の場合、こんな巨大な施設、というか遺跡は、本来の街の人にとって何をもたらすか。遺跡はお墓である。保存し慰霊すべし、の声もありますが、街の本来の発展から見るとどうか。遺跡といえば、東京の下町でも、広島でも、沖縄でも、相当な大空襲や原爆、艦砲射撃などの殺戮が行われた遺跡です。

しかし、機能的に考える必要があるような気がします。「許そう。しかし忘れない」じゃありませんが、残すことより忘れないこと、そして、真実を知ることの方が大事なような気がします。規模は少し縮めてでも。我々が、忘れない力を持つ必要があるような気がしました。そうでないと、本来の地元の人が浮かばれません。

そのあと、クラコフを経てチェコのプラハへ。

私の若き日の思い出、「チェコ事件」の現場バツラフ広場へ真っ先に向かいました。人間の顔をした社会主義を標榜したドプチェク第一書記に対して、ここにワルシャワ条約機構、つまりはソ連の戦車が押し寄せ、弾圧。もちろん感無量。当時、私は武士道?の徒として、共産主義が大嫌いだった(もちろん今も)。当然、ソ連のやり方に憤りました。

ところでそのあと、向かった先は共産主義博物館。観光コースからは見事に外れていそうな地味な小さな博物館ですが、その重さは逸品です(だから縮めても良いと言っているわけ)。

私はこの展示を見ているうちに、正に憤りがこみ上げてきました。
なぜなら、このチェコ事件が起きたのは1968年。私が高校3年生の年です。
当時、日本では大学、高校のお坊ちゃん共が、ベトナム戦争や文化大革命に触発されて、政府へのプロテストの真っ最中。ソ連へのシンパシーを感ずる人間が圧倒的。歌手なんぞもその手のアジテーターが随分。校長室を占拠したりの革命ゴッコ。そして、2つの大学の入試を中止させました。

で、その学生の連中、今はどうなっているかというと、前にも書いたように、与野党を問わず枢要な位置にいたり、官界、あるいはマスコミなどの頂点にいて、当時の趣味の悪さそのままに、おかしな「改革と称する」ものを行っている。左翼だったのが見事に右翼になっている。今行われている多くの政策の誤りは、上記コミュニズムへの憧憬と同様の誤りの延長で、ゴッコでしょう。あるいは物語か。

その当時も、心ある先生は言いました。「君たちね、戦争中はお国のために死になさいなんて言ってた人間が、今、左翼として革命を説いているんだよ。気を付けようね」と。今はその逆が、例えばマスコミ界のトップにいたりもします。

チェコで、ソ連の侵攻に抗議して若者が焼身自殺していた時に、ソ連を褒め、アジテーターとして歌なんぞ歌っていた連中は、責任を取れ。じゃなきゃ、出てくるな、と言いたくなりました。
所詮彼や彼女らは、いわゆるヘゲモニーを握ることしか考えていないのです。お粗末なゴッコ的観念の上で。
だから、ものを機能的に考えたり人物を正当に評価できない。誰がそういう人間かは皆さんで調べてみて下さい。いわゆる保守の論客に沢山いますから。

☆ ☆
と、いうようなわけですが、この頃、いよいよもって私も貴重な人材の域に達してきちゃったのかな、と思うこと切です。

昭和史のことを考えてみると、軍人では、元とはいえ陸軍の辰巳栄一中将から一兵卒まで色々な人々と関わりがありましたし、真崎甚三郎大将のご子息(大使を経て昭和天皇の通訳)とはなくなるまで仲良し。この人たちは極めて立派な方々で(真崎大将を悪く言う人は、その出自や政策を知らない人。また、その辺の見てきたような本を鵜呑みにしている人)、その頭で考えていくと、今の世の中はやっぱり変。

もちろん昔も変ではあって(?)、明治憲法は日本書紀の神勅という、空の上から降りてきた話を基軸にしたが故に、「天に」責任を負う、とかいうわけのわからぬものでした(もっとも、真面目に天に、と考えれば、それはそれなりにちゃんとした国になるわけでした。何しろ「真面目」は、一つの武器になるくらい有用なものですから)。

しかし、この「天」ばかりを考えているのは、法的視点からはやっぱりダメで、今回のヨーロッパの事件からもそれは言えます。

少々長くなったので、今日はこれまでとしますが、今年は少し踏み込んで、自身の生の経験を書いていこうかなと思っています。

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総選挙の投票率と台湾 
Monday, December 15, 2014, 09:30 PM
総選挙の投票率を見て、11月に行った台湾の地方選挙を思い出しました。その投票率は70パーセント近く。
日本の、いわば、押し付けられた?(これは、いわゆる押し付け憲法の話しとは別)民主主義と、台湾の勝ち取った民主主義との違いでしょう。

台湾は1947年の2・28事件以降、40年に渡る戒厳令の中にありました。その間、一般の日本人は知りませんが、多くの台湾人が死に、その血で勝ち取ったのが今の民主主義です。それに対して、日本のは敗戦後アメリカからよく言えばプレゼント、悪く言えば押し付けでできたものです。

それでも、300万人の日本国民が死んだ、その結果としてプレゼントされたものだと知っていた間は、高い投票率でした。

しかし、それが忘れられようとする今、特に若い人の投票率が低いということでしょう。

2000年の台湾総統選挙の時、陳水扁、連戦両候補の選挙事務所に行きました。そこでは様々なグッズのプレゼントがあります。何元まではよいということになっています。要は選挙の自由が広い。そして、10時まで、大きなスタジアムで演説したと思ったら、その後、両候補とも罰金を払って演説を続けました。

先日の訪問では旧知の県会議員候補者がわざわざ訪ねてきてくれました。そして、一行の一人一人に名前の入ったカレンダーをくれました。無事当選 でよかったです。
こうしたバイタリティが日本にはない。

何とかしないと日本の将来は本当に危うい気がします。


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