Wednesday, January 28, 2015, 03:36 PM
我が国の法的厳格性の喪失国家ぶり、マニュアル国家ぶり、が、見事に示され、しかも一向に反省なく、益々物語性(普通の国とか美しい国とか)を深めて、究極的には、国家という概念、もちろん国家そのものの機能の破壊を導いている、というのが今回の事件とそれをめぐる諸情勢かと存じます。
法的厳格性の喪失には深い原因がありますが、法の捉え方も問題です。
要は、この事件が起きる前に! 私が2・3項目下に書いた通り、「中庸」ということがいかに危険かわかっていない。
彼らは「上」です。それを「中」と言えば、ガリガリと歯車は壊れるのです。
この辺は、例えば2・26事件の青年将校や、明治維新の志士の気持ちがわかっていない。正に中庸のぬるま湯国家ぶり。
そして、為政者は「屈しない」とかなんとか、海の向こうの国から教えられたマニュアルどおりに繰り返す。
反省の代わりに「自己責任」と言ってしまっては、国家の意義はありません。
と、以上も、感度よく考えていただかないと、あなた何言ってるの?と言われるだけでしょう。
日本語力、アジアの歴史の無理解、もちろん世界の歴史の無理解が、この傾向に拍車をかけます。
ちなみに、ご縁の深い田中康夫さんが年末に「33年後のなんとなくクリスタル」を出されました。すごく良い本なので、おすすめです。
一つ書評を見ました、「憂国の書」と書いてあったのは、上の意味での憂国の書なら賛成ですが、国民を忘れた憂国なら、田中さんの意図はそうではないはずです。ここのところが難しいんでしょうね。
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Wednesday, January 21, 2015, 09:05 PM
農業に関係深い私は、兵農分離以前の武士の生き方に共感を持ちます。
ある地域では鶏肉が有名で、東京にもたくさんの鶏肉が出荷されています。
しかして、この鶏、どうやって大きくなるかというと、ある私企業が生体から飼料から、何でもかんでも提供し、農家に育ててもらうわけ。なぜかというと、鶏を育てるのはものすごく臭いから。東京の人はよく分からずに美味しい美味しい。
で、数ヶ月経って成鳥になり出荷する時のお値段は、一羽数十円とのこと。このスタイルは、農協と同じです。
でも農協のばあいは、痩せても枯れても一応地元なわけです。
これが、今の農協改革と称するものは、直接的に東京などの私企業が農家を抑える。
これは、日本の中間的農家を潰し、自立した農家も厳しくなりそうです。
そいいうことを考えたりしたりしている人は、要は都会的で、農家が潰れたって構わない、と考えているよう。それは、食料を含む安保上極めて危険なことでもあるのに、平和ボケで地に足のついた発想がないということでしょう。
要は、武士の生き方からいうと、消費者としての、江戸時代的、半公家的武士像なのです。
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Tuesday, January 20, 2015, 11:44 PM
そして、そもそもそういう中途半端なフレーズは、ある人々の神経を逆なでするものだということに、思い至っていなかったようです。
例えば、新渡戸稲造は「封建君主は領民には責任を負わなかったが、天や祖先に高き責任感を有した」なんて、法的に考えたらとんでもないことを述べているわけですが、何の問題にもしない。
これは、実はすごく重いもので、中途半端は許さないものです。桑原隲蔵という先生が、孝の法的な意味について論文を書いていますが、そういうものを踏まえればちっとはわかったでしょうが、所詮突き詰めは足りない。いわば、物語に生きるお坊っちゃま。水戸黄門と同じです。
巨大な問題に気付かず、為政者以下我が国の多くの人々は、深く考えもしないで、新渡戸を崇めるのです。
そんなことだから、法的な厳しさに気付かず今回のような発言になるし、問題を起こします。
いよいよ深刻だな、と思われてきます。
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Monday, January 19, 2015, 12:36 AM
で、日本に哲学なし、と言ったのが中江兆民である事はこの博物館の結論のところにも書いてありますが(一年有半)、日本の為政者さんがこの度中東でしゃべったのが「中庸」ということ。
これ、まさに中国の観念の日本的単純化。「中庸」自体は、元々「礼記」の一部と言われ、「礼記」を読んでみれば、これは半分以上がお葬式の話。儒教とは葬式の思想と言われるとおりです。
しかし、日本人はそれを単純化していい考えですね、みたいなことになりました。
でも、こうした儒教が哲学かというと、私には技術ではあっても哲学とは言えないと思われます。哲学は、西洋の合理主義をみればわかる通り、個人、もっとはっきり言えば我から始まります。そして演繹していく。しかし、儒教は孝を大切にし、親と子という2つの観念から出発するわけです。そして、2つどころか千でも万でも膨れていきます。だから哲学のように見えるだけです。朝鮮儒教がその典型でしょう。
元々中国には諸子百家がいました。だから、老子や荘子を追求していけば哲学になると思います。また、「親鸞一人がためなりけり」と言われた親鸞聖人のような仏教者、つまり開山作仏の功を上げたと兆民に言われた人は一種の哲学者でした。
ちょっと、抽象的なことを書きましたが、とにかく哲学なしの中庸じゃ、例の問題解決にはなりません。
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Sunday, January 11, 2015, 10:26 PM
少し遅い、「あけましておめでとうございます」。
自分のプライベートな行動は、あまりこの欄には書きませんが、一つ。
年末から年始にかけては、ヨーロッパのポーランド、チェコを回りました。以前のベルリン、ポツダムほどではありませんでしたが、特にワルシャワは寒かったです。いつもの街中歩きは耳が千切れそうでした(私の旅行は、基本的に自分でプランを立てて街中を歩く、プライベートなゴソゴソ旅行です)。
ワルシャワでは、1944の「ワルシャワ蜂起」の記念碑が町中にあることに、旧市街の復興王宮などの名所を見る以上の感動というよりも深刻なものを覚えました。ロシアがワルシャワに睨みを利かすために建設した北の要塞も重たいものでした。
そして南に下ればオフィシェンチム。つまり、アウシュビッツのあるところです。大晦日はアウシュビッツ博物館見学で(広大な例の場所が、博物館ということになっています)言われる通りの深刻なものでしたが、除夜の鐘ならぬカトリック教会のガランガランは博物館前のホテルで聞くことになりました。もっとも、大晦日にアウシュビッツの目の前に泊る客はほとんどなく、レストランも元々ごく少なく、その上にクローズドで、ホテルの人の暖かいサービスで、やっとこさハンバーガーにありついた、というところです。
その翌日の元旦、クラクフ(地元はクラコフと発音する。綴りからもこれが適当?)へ戻るためのバスを待ちましたが、一向にこないため、オフィシェンチム駅まで、2キロあまりをスーツケースを引いて歩きました。雪も寒さも結構厳しいものでした。おまけに電車も肩透かし。色々ありました。
でも、それがよかったのです。前の日の大部分の見学者のように、観光バスでさっと来てさっと帰るはもちろんダメ。私の場合は、街中をそれなりに見るという事が加わりました。すると、このオフィシェンチムという街、800年の歴史を有する本来立派な?街だということがわかったのです。大きな教会もありました。あれが除夜の鐘のもとです。
ということは、特に広大な、東京ドーム47個分もあったというビルケナウ収容所の場合、こんな巨大な施設、というか遺跡は、本来の街の人にとって何をもたらすか。遺跡はお墓である。保存し慰霊すべし、の声もありますが、街の本来の発展から見るとどうか。遺跡といえば、東京の下町でも、広島でも、沖縄でも、相当な大空襲や原爆、艦砲射撃などの殺戮が行われた遺跡です。
しかし、機能的に考える必要があるような気がします。「許そう。しかし忘れない」じゃありませんが、残すことより忘れないこと、そして、真実を知ることの方が大事なような気がします。規模は少し縮めてでも。我々が、忘れない力を持つ必要があるような気がしました。そうでないと、本来の地元の人が浮かばれません。
そのあと、クラコフを経てチェコのプラハへ。
私の若き日の思い出、「チェコ事件」の現場バツラフ広場へ真っ先に向かいました。人間の顔をした社会主義を標榜したドプチェク第一書記に対して、ここにワルシャワ条約機構、つまりはソ連の戦車が押し寄せ、弾圧。もちろん感無量。当時、私は武士道?の徒として、共産主義が大嫌いだった(もちろん今も)。当然、ソ連のやり方に憤りました。
ところでそのあと、向かった先は共産主義博物館。観光コースからは見事に外れていそうな地味な小さな博物館ですが、その重さは逸品です(だから縮めても良いと言っているわけ)。
私はこの展示を見ているうちに、正に憤りがこみ上げてきました。
なぜなら、このチェコ事件が起きたのは1968年。私が高校3年生の年です。
当時、日本では大学、高校のお坊ちゃん共が、ベトナム戦争や文化大革命に触発されて、政府へのプロテストの真っ最中。ソ連へのシンパシーを感ずる人間が圧倒的。歌手なんぞもその手のアジテーターが随分。校長室を占拠したりの革命ゴッコ。そして、2つの大学の入試を中止させました。
で、その学生の連中、今はどうなっているかというと、前にも書いたように、与野党を問わず枢要な位置にいたり、官界、あるいはマスコミなどの頂点にいて、当時の趣味の悪さそのままに、おかしな「改革と称する」ものを行っている。左翼だったのが見事に右翼になっている。今行われている多くの政策の誤りは、上記コミュニズムへの憧憬と同様の誤りの延長で、ゴッコでしょう。あるいは物語か。
その当時も、心ある先生は言いました。「君たちね、戦争中はお国のために死になさいなんて言ってた人間が、今、左翼として革命を説いているんだよ。気を付けようね」と。今はその逆が、例えばマスコミ界のトップにいたりもします。
チェコで、ソ連の侵攻に抗議して若者が焼身自殺していた時に、ソ連を褒め、アジテーターとして歌なんぞ歌っていた連中は、責任を取れ。じゃなきゃ、出てくるな、と言いたくなりました。
所詮彼や彼女らは、いわゆるヘゲモニーを握ることしか考えていないのです。お粗末なゴッコ的観念の上で。
だから、ものを機能的に考えたり人物を正当に評価できない。誰がそういう人間かは皆さんで調べてみて下さい。いわゆる保守の論客に沢山いますから。
☆ ☆
と、いうようなわけですが、この頃、いよいよもって私も貴重な人材の域に達してきちゃったのかな、と思うこと切です。
昭和史のことを考えてみると、軍人では、元とはいえ陸軍の辰巳栄一中将から一兵卒まで色々な人々と関わりがありましたし、真崎甚三郎大将のご子息(大使を経て昭和天皇の通訳)とはなくなるまで仲良し。この人たちは極めて立派な方々で(真崎大将を悪く言う人は、その出自や政策を知らない人。また、その辺の見てきたような本を鵜呑みにしている人)、その頭で考えていくと、今の世の中はやっぱり変。
もちろん昔も変ではあって(?)、明治憲法は日本書紀の神勅という、空の上から降りてきた話を基軸にしたが故に、「天に」責任を負う、とかいうわけのわからぬものでした(もっとも、真面目に天に、と考えれば、それはそれなりにちゃんとした国になるわけでした。何しろ「真面目」は、一つの武器になるくらい有用なものですから)。
しかし、この「天」ばかりを考えているのは、法的視点からはやっぱりダメで、今回のヨーロッパの事件からもそれは言えます。
少々長くなったので、今日はこれまでとしますが、今年は少し踏み込んで、自身の生の経験を書いていこうかなと思っています。
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Monday, December 15, 2014, 09:30 PM
総選挙の投票率を見て、11月に行った台湾の地方選挙を思い出しました。その投票率は70パーセント近く。
日本の、いわば、押し付けられた?(これは、いわゆる押し付け憲法の話しとは別)民主主義と、台湾の勝ち取った民主主義との違いでしょう。
台湾は1947年の2・28事件以降、40年に渡る戒厳令の中にありました。その間、一般の日本人は知りませんが、多くの台湾人が死に、その血で勝ち取ったのが今の民主主義です。それに対して、日本のは敗戦後アメリカからよく言えばプレゼント、悪く言えば押し付けでできたものです。
それでも、300万人の日本国民が死んだ、その結果としてプレゼントされたものだと知っていた間は、高い投票率でした。
しかし、それが忘れられようとする今、特に若い人の投票率が低いということでしょう。
2000年の台湾総統選挙の時、陳水扁、連戦両候補の選挙事務所に行きました。そこでは様々なグッズのプレゼントがあります。何元まではよいということになっています。要は選挙の自由が広い。そして、10時まで、大きなスタジアムで演説したと思ったら、その後、両候補とも罰金を払って演説を続けました。
先日の訪問では旧知の県会議員候補者がわざわざ訪ねてきてくれました。そして、一行の一人一人に名前の入ったカレンダーをくれました。無事当選 でよかったです。
こうしたバイタリティが日本にはない。
何とかしないと日本の将来は本当に危うい気がします。
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Wednesday, December 3, 2014, 05:13 PM
おじいちゃんが黒龍会の大物という女性に久しぶりにお会いし、話をすると、どうしてこうも意見が一致してしまうのかねと、可笑しくなってしまいます。今この世の中に蔓延している「美しい話」「物語」これらを断固排除するという点で意見が一致しました。
昔の「右翼」は本当にまともだったんです。
そういえば、最近の話題の一つとして、久しぶりに国産旅客機が作られた、なんていう話がありました。またまた、日本が最高みたいな話ですが、所詮はドンガラのこと。その昔のYS11もロールスロイスのエンジン。それで、国産とか世界一的に騒ぐのは、第二次世界大戦末期の戦闘機開発と同じです。
「烈風」の開発について、三菱重工の技術者が書いていますが、上昇力を高めるにつき、肝心のエンジンの性能はそっちのけで、機体の形にこだわり、遂には敗退、とは以前も書いたことでした。
涙滴型の「美しい」機体に乗りながら、決して零戦あるいは海軍の姿勢を褒めなかった撃墜王・坂井三郎さんのことが偲ばれます。彼が逝って10年以上が経ちましたが、何度もお家に伺い、正に意気投合でした。私のことを先生とまで書いてサインをいただいたりしました。
とにかく昔の事を知る人がいなくなって、困ります。
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Thursday, October 16, 2014, 10:59 AM
70歳でラオスに 薬学のボランティアに行かれた方の話を聞きました。
そのJICAを作るに当たって大きな役割を果たされたのが旧知の末次一郎さんでした。
陸軍中野学校を出られた方で、戦後の様々な局面に活躍。ああいう人のしたことが、本当の戦後政治の総決算であり、近頃の話は全くダメ。
橋本総理とも入魂で、ロシア関係にも先導役を果たされました。
で、そのラオスのボランティア。そういう地道なことが大事だと思います。汚い教室の雑巾掛けから教えるような活動が。
最近は、猫も杓子もミャンマー、ミャンマーと騒いでいますが、長い本当のお付き合いあればこそ話もうまくいくのであり、決しておかしな下心ではなく、こうした地道な、良い環境作りが大事です。
その意味では、南の島などももっと力を入れるべきで、うかうかしているうちに、色々な事が進んでいる気がします。確かに、日本人はこうした土地で信頼される要素を持っているので、幅広い、面的な活動が望まれます。
外交でもなんでも、漢方と西洋医学をうまくかみ合わせることが大切。だから、やたらに剣を抜くのは本当の武士道ではない。
末次さんの活動も、正にそういうことだったなと思われてきます。
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Tuesday, October 7, 2014, 11:53 PM
それで、今日は久しぶりに夜中、タクシーでの帰還と相成り、渋谷を通っています。
この渋谷の本家は神奈川県の高座渋谷の方であり、渋谷氏の本貫地であることはあちこちに書いてありますよね。相模の武士・渋谷氏の末裔は、葉隠の佐賀県にもたくさんおられます。
かく言う私の先祖も、江戸時代の本・神代家伝記によれば、千葉一族が、佐賀の小城の地頭に補せられた時、近江の国神崎郡常富の荘から付き従ったとか。
永井路子さんの「相模の武士たち」は、本当に足で書かれた名著だなと思うのですが、その中の半分以上、いや大部分の武士の末裔が九州やその他地方にいることを思うと、鎌倉時代の広がり、大きさを思います。
貿易もすごかったですし。
一方、この246の横にある猿楽町や上馬、下馬、これも皆、源頼朝にちなむ場所ですが、古い昔の奥州への道沿いの話です。
律令時代の大道はどこかに消えても、鎌倉時代の小さな道は、自然と折り合いをつけながら今に残る。
そんなことの知恵に学ぶべし、とは、随分前に新聞に書かせていただきましたが、今でも、どころか今こそ、しっかり学ぶべきではないかと思います。
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Friday, October 3, 2014, 10:27 PM
何十年ぶりかで朝のテレビ小説・花子とアンを見終わったら、勢い?でその次も観ています。
スコットランドからのお嫁さんを見ていたら、その昔、我が故郷に嫁いで来たドイツ人のおばあさんを思い出しました。ご主人が門司の税関長をされていた方で、国際結婚に至り、私が知った頃は既にご主人は亡くなられ、寂しく隣の部落に住んでおられて、やはり外地に暮らしたことのある私の祖母に会いに時々見えていました。
あの方から教わった茄子を蒸した料理は、私が作れる数少ない料理です。
それにしても彼女は結局寡婦となり、お気の毒でしたが、人口千数百人の村に彼女が来てくださったことは、山村の国際化に大いに貢献することになったような気がします。
先日、村では九州全体の剣道大会がありました。こんな小さな村が、佐賀県一を続けたりするのは、よそからの長年にわたる血の要素も大きな気がします。佐賀から博多への最短距離にあるため、山の中でも多くの人々が行き交ったのです。
そんなことを考えていた今日、久しぶりに友人と、近くの中華料理屋に行きました。たまたま隣の人たちの席の後ろにゴキブリ登場。それがきっかけで言葉を交わしてみたら、福岡からやってきたお医者さんのグループ。上記の村のことはもとより、村内のお店の情報もツーカーで、すっかり盛り上がってしまいました。
そしてついには武士道談義でも意気投合。特に九州の国際性は同意見でした。早く九州に帰ってきてくださいよ、には参りましたが。
そこへいくと、東京の非国際性は、確かに顕著な気がします。政治の中心であるためにアジアとの交流とかも遅れています。
東京を国際化させること、それには鎌倉時代の江戸を再確認し、鎌倉武士のアジアに通じるネットワークを学ぶことかと思います。
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