Monday, January 19, 2015, 12:36 AM
で、日本に哲学なし、と言ったのが中江兆民である事はこの博物館の結論のところにも書いてありますが(一年有半)、日本の為政者さんがこの度中東でしゃべったのが「中庸」ということ。
これ、まさに中国の観念の日本的単純化。「中庸」自体は、元々「礼記」の一部と言われ、「礼記」を読んでみれば、これは半分以上がお葬式の話。儒教とは葬式の思想と言われるとおりです。
しかし、日本人はそれを単純化していい考えですね、みたいなことになりました。
でも、こうした儒教が哲学かというと、私には技術ではあっても哲学とは言えないと思われます。哲学は、西洋の合理主義をみればわかる通り、個人、もっとはっきり言えば我から始まります。そして演繹していく。しかし、儒教は孝を大切にし、親と子という2つの観念から出発するわけです。そして、2つどころか千でも万でも膨れていきます。だから哲学のように見えるだけです。朝鮮儒教がその典型でしょう。
元々中国には諸子百家がいました。だから、老子や荘子を追求していけば哲学になると思います。また、「親鸞一人がためなりけり」と言われた親鸞聖人のような仏教者、つまり開山作仏の功を上げたと兆民に言われた人は一種の哲学者でした。
ちょっと、抽象的なことを書きましたが、とにかく哲学なしの中庸じゃ、例の問題解決にはなりません。
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Sunday, January 11, 2015, 10:26 PM
少し遅い、「あけましておめでとうございます」。
自分のプライベートな行動は、あまりこの欄には書きませんが、一つ。
年末から年始にかけては、ヨーロッパのポーランド、チェコを回りました。以前のベルリン、ポツダムほどではありませんでしたが、特にワルシャワは寒かったです。いつもの街中歩きは耳が千切れそうでした(私の旅行は、基本的に自分でプランを立てて街中を歩く、プライベートなゴソゴソ旅行です)。
ワルシャワでは、1944の「ワルシャワ蜂起」の記念碑が町中にあることに、旧市街の復興王宮などの名所を見る以上の感動というよりも深刻なものを覚えました。ロシアがワルシャワに睨みを利かすために建設した北の要塞も重たいものでした。
そして南に下ればオフィシェンチム。つまり、アウシュビッツのあるところです。大晦日はアウシュビッツ博物館見学で(広大な例の場所が、博物館ということになっています)言われる通りの深刻なものでしたが、除夜の鐘ならぬカトリック教会のガランガランは博物館前のホテルで聞くことになりました。もっとも、大晦日にアウシュビッツの目の前に泊る客はほとんどなく、レストランも元々ごく少なく、その上にクローズドで、ホテルの人の暖かいサービスで、やっとこさハンバーガーにありついた、というところです。
その翌日の元旦、クラクフ(地元はクラコフと発音する。綴りからもこれが適当?)へ戻るためのバスを待ちましたが、一向にこないため、オフィシェンチム駅まで、2キロあまりをスーツケースを引いて歩きました。雪も寒さも結構厳しいものでした。おまけに電車も肩透かし。色々ありました。
でも、それがよかったのです。前の日の大部分の見学者のように、観光バスでさっと来てさっと帰るはもちろんダメ。私の場合は、街中をそれなりに見るという事が加わりました。すると、このオフィシェンチムという街、800年の歴史を有する本来立派な?街だということがわかったのです。大きな教会もありました。あれが除夜の鐘のもとです。
ということは、特に広大な、東京ドーム47個分もあったというビルケナウ収容所の場合、こんな巨大な施設、というか遺跡は、本来の街の人にとって何をもたらすか。遺跡はお墓である。保存し慰霊すべし、の声もありますが、街の本来の発展から見るとどうか。遺跡といえば、東京の下町でも、広島でも、沖縄でも、相当な大空襲や原爆、艦砲射撃などの殺戮が行われた遺跡です。
しかし、機能的に考える必要があるような気がします。「許そう。しかし忘れない」じゃありませんが、残すことより忘れないこと、そして、真実を知ることの方が大事なような気がします。規模は少し縮めてでも。我々が、忘れない力を持つ必要があるような気がしました。そうでないと、本来の地元の人が浮かばれません。
そのあと、クラコフを経てチェコのプラハへ。
私の若き日の思い出、「チェコ事件」の現場バツラフ広場へ真っ先に向かいました。人間の顔をした社会主義を標榜したドプチェク第一書記に対して、ここにワルシャワ条約機構、つまりはソ連の戦車が押し寄せ、弾圧。もちろん感無量。当時、私は武士道?の徒として、共産主義が大嫌いだった(もちろん今も)。当然、ソ連のやり方に憤りました。
ところでそのあと、向かった先は共産主義博物館。観光コースからは見事に外れていそうな地味な小さな博物館ですが、その重さは逸品です(だから縮めても良いと言っているわけ)。
私はこの展示を見ているうちに、正に憤りがこみ上げてきました。
なぜなら、このチェコ事件が起きたのは1968年。私が高校3年生の年です。
当時、日本では大学、高校のお坊ちゃん共が、ベトナム戦争や文化大革命に触発されて、政府へのプロテストの真っ最中。ソ連へのシンパシーを感ずる人間が圧倒的。歌手なんぞもその手のアジテーターが随分。校長室を占拠したりの革命ゴッコ。そして、2つの大学の入試を中止させました。
で、その学生の連中、今はどうなっているかというと、前にも書いたように、与野党を問わず枢要な位置にいたり、官界、あるいはマスコミなどの頂点にいて、当時の趣味の悪さそのままに、おかしな「改革と称する」ものを行っている。左翼だったのが見事に右翼になっている。今行われている多くの政策の誤りは、上記コミュニズムへの憧憬と同様の誤りの延長で、ゴッコでしょう。あるいは物語か。
その当時も、心ある先生は言いました。「君たちね、戦争中はお国のために死になさいなんて言ってた人間が、今、左翼として革命を説いているんだよ。気を付けようね」と。今はその逆が、例えばマスコミ界のトップにいたりもします。
チェコで、ソ連の侵攻に抗議して若者が焼身自殺していた時に、ソ連を褒め、アジテーターとして歌なんぞ歌っていた連中は、責任を取れ。じゃなきゃ、出てくるな、と言いたくなりました。
所詮彼や彼女らは、いわゆるヘゲモニーを握ることしか考えていないのです。お粗末なゴッコ的観念の上で。
だから、ものを機能的に考えたり人物を正当に評価できない。誰がそういう人間かは皆さんで調べてみて下さい。いわゆる保守の論客に沢山いますから。
☆ ☆
と、いうようなわけですが、この頃、いよいよもって私も貴重な人材の域に達してきちゃったのかな、と思うこと切です。
昭和史のことを考えてみると、軍人では、元とはいえ陸軍の辰巳栄一中将から一兵卒まで色々な人々と関わりがありましたし、真崎甚三郎大将のご子息(大使を経て昭和天皇の通訳)とはなくなるまで仲良し。この人たちは極めて立派な方々で(真崎大将を悪く言う人は、その出自や政策を知らない人。また、その辺の見てきたような本を鵜呑みにしている人)、その頭で考えていくと、今の世の中はやっぱり変。
もちろん昔も変ではあって(?)、明治憲法は日本書紀の神勅という、空の上から降りてきた話を基軸にしたが故に、「天に」責任を負う、とかいうわけのわからぬものでした(もっとも、真面目に天に、と考えれば、それはそれなりにちゃんとした国になるわけでした。何しろ「真面目」は、一つの武器になるくらい有用なものですから)。
しかし、この「天」ばかりを考えているのは、法的視点からはやっぱりダメで、今回のヨーロッパの事件からもそれは言えます。
少々長くなったので、今日はこれまでとしますが、今年は少し踏み込んで、自身の生の経験を書いていこうかなと思っています。
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Monday, December 15, 2014, 09:30 PM
総選挙の投票率を見て、11月に行った台湾の地方選挙を思い出しました。その投票率は70パーセント近く。
日本の、いわば、押し付けられた?(これは、いわゆる押し付け憲法の話しとは別)民主主義と、台湾の勝ち取った民主主義との違いでしょう。
台湾は1947年の2・28事件以降、40年に渡る戒厳令の中にありました。その間、一般の日本人は知りませんが、多くの台湾人が死に、その血で勝ち取ったのが今の民主主義です。それに対して、日本のは敗戦後アメリカからよく言えばプレゼント、悪く言えば押し付けでできたものです。
それでも、300万人の日本国民が死んだ、その結果としてプレゼントされたものだと知っていた間は、高い投票率でした。
しかし、それが忘れられようとする今、特に若い人の投票率が低いということでしょう。
2000年の台湾総統選挙の時、陳水扁、連戦両候補の選挙事務所に行きました。そこでは様々なグッズのプレゼントがあります。何元まではよいということになっています。要は選挙の自由が広い。そして、10時まで、大きなスタジアムで演説したと思ったら、その後、両候補とも罰金を払って演説を続けました。
先日の訪問では旧知の県会議員候補者がわざわざ訪ねてきてくれました。そして、一行の一人一人に名前の入ったカレンダーをくれました。無事当選 でよかったです。
こうしたバイタリティが日本にはない。
何とかしないと日本の将来は本当に危うい気がします。
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Wednesday, December 3, 2014, 05:13 PM
おじいちゃんが黒龍会の大物という女性に久しぶりにお会いし、話をすると、どうしてこうも意見が一致してしまうのかねと、可笑しくなってしまいます。今この世の中に蔓延している「美しい話」「物語」これらを断固排除するという点で意見が一致しました。
昔の「右翼」は本当にまともだったんです。
そういえば、最近の話題の一つとして、久しぶりに国産旅客機が作られた、なんていう話がありました。またまた、日本が最高みたいな話ですが、所詮はドンガラのこと。その昔のYS11もロールスロイスのエンジン。それで、国産とか世界一的に騒ぐのは、第二次世界大戦末期の戦闘機開発と同じです。
「烈風」の開発について、三菱重工の技術者が書いていますが、上昇力を高めるにつき、肝心のエンジンの性能はそっちのけで、機体の形にこだわり、遂には敗退、とは以前も書いたことでした。
涙滴型の「美しい」機体に乗りながら、決して零戦あるいは海軍の姿勢を褒めなかった撃墜王・坂井三郎さんのことが偲ばれます。彼が逝って10年以上が経ちましたが、何度もお家に伺い、正に意気投合でした。私のことを先生とまで書いてサインをいただいたりしました。
とにかく昔の事を知る人がいなくなって、困ります。
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Thursday, October 16, 2014, 10:59 AM
70歳でラオスに 薬学のボランティアに行かれた方の話を聞きました。
そのJICAを作るに当たって大きな役割を果たされたのが旧知の末次一郎さんでした。
陸軍中野学校を出られた方で、戦後の様々な局面に活躍。ああいう人のしたことが、本当の戦後政治の総決算であり、近頃の話は全くダメ。
橋本総理とも入魂で、ロシア関係にも先導役を果たされました。
で、そのラオスのボランティア。そういう地道なことが大事だと思います。汚い教室の雑巾掛けから教えるような活動が。
最近は、猫も杓子もミャンマー、ミャンマーと騒いでいますが、長い本当のお付き合いあればこそ話もうまくいくのであり、決しておかしな下心ではなく、こうした地道な、良い環境作りが大事です。
その意味では、南の島などももっと力を入れるべきで、うかうかしているうちに、色々な事が進んでいる気がします。確かに、日本人はこうした土地で信頼される要素を持っているので、幅広い、面的な活動が望まれます。
外交でもなんでも、漢方と西洋医学をうまくかみ合わせることが大切。だから、やたらに剣を抜くのは本当の武士道ではない。
末次さんの活動も、正にそういうことだったなと思われてきます。
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Tuesday, October 7, 2014, 11:53 PM
それで、今日は久しぶりに夜中、タクシーでの帰還と相成り、渋谷を通っています。
この渋谷の本家は神奈川県の高座渋谷の方であり、渋谷氏の本貫地であることはあちこちに書いてありますよね。相模の武士・渋谷氏の末裔は、葉隠の佐賀県にもたくさんおられます。
かく言う私の先祖も、江戸時代の本・神代家伝記によれば、千葉一族が、佐賀の小城の地頭に補せられた時、近江の国神崎郡常富の荘から付き従ったとか。
永井路子さんの「相模の武士たち」は、本当に足で書かれた名著だなと思うのですが、その中の半分以上、いや大部分の武士の末裔が九州やその他地方にいることを思うと、鎌倉時代の広がり、大きさを思います。
貿易もすごかったですし。
一方、この246の横にある猿楽町や上馬、下馬、これも皆、源頼朝にちなむ場所ですが、古い昔の奥州への道沿いの話です。
律令時代の大道はどこかに消えても、鎌倉時代の小さな道は、自然と折り合いをつけながら今に残る。
そんなことの知恵に学ぶべし、とは、随分前に新聞に書かせていただきましたが、今でも、どころか今こそ、しっかり学ぶべきではないかと思います。
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Friday, October 3, 2014, 10:27 PM
何十年ぶりかで朝のテレビ小説・花子とアンを見終わったら、勢い?でその次も観ています。
スコットランドからのお嫁さんを見ていたら、その昔、我が故郷に嫁いで来たドイツ人のおばあさんを思い出しました。ご主人が門司の税関長をされていた方で、国際結婚に至り、私が知った頃は既にご主人は亡くなられ、寂しく隣の部落に住んでおられて、やはり外地に暮らしたことのある私の祖母に会いに時々見えていました。
あの方から教わった茄子を蒸した料理は、私が作れる数少ない料理です。
それにしても彼女は結局寡婦となり、お気の毒でしたが、人口千数百人の村に彼女が来てくださったことは、山村の国際化に大いに貢献することになったような気がします。
先日、村では九州全体の剣道大会がありました。こんな小さな村が、佐賀県一を続けたりするのは、よそからの長年にわたる血の要素も大きな気がします。佐賀から博多への最短距離にあるため、山の中でも多くの人々が行き交ったのです。
そんなことを考えていた今日、久しぶりに友人と、近くの中華料理屋に行きました。たまたま隣の人たちの席の後ろにゴキブリ登場。それがきっかけで言葉を交わしてみたら、福岡からやってきたお医者さんのグループ。上記の村のことはもとより、村内のお店の情報もツーカーで、すっかり盛り上がってしまいました。
そしてついには武士道談義でも意気投合。特に九州の国際性は同意見でした。早く九州に帰ってきてくださいよ、には参りましたが。
そこへいくと、東京の非国際性は、確かに顕著な気がします。政治の中心であるためにアジアとの交流とかも遅れています。
東京を国際化させること、それには鎌倉時代の江戸を再確認し、鎌倉武士のアジアに通じるネットワークを学ぶことかと思います。
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Saturday, September 20, 2014, 04:32 PM
ロンドンに行ったとき、地下鉄で隣に座った男性がスコットランドの人で、地下鉄の乗り換えの不便さが話題になりました。穏やかな、すごくよい人で、メールアドレスの交換をしなかったことを悔やんでいます。
スコットランドは法律についても、日本と同様、大陸法に近いところがあり、波長が合うのかもしれません。
いずれにしても、今回の件や、ウクライナの件、そしてイラク情勢などから、日本人は国家というものはどういうものなのかを考え直してみる必要があろうかと思います。
例えば、台湾の友人で1947年の2・28事件を体験したH先生は、「無政府状態があんなに怖いものとは思いませんでした」と言われています。
無政府状態に比べれば、38度線の北の国でも、まだましなのかもしれません。しかし、そこで真に人間性ある生活ができるか、というと否定的でしょう。この「人間性」ということがすごく大切な気がします。
人間性が十分に機能している国なら、多民族国家でも大丈夫。機能していなければ、民族自決にならざるを得ないのではないでしょうか。イラクも正に人間性でしょう。戦争や人を傷つけることの罪も、人間性という言葉が一番総括りできそうな気がします。
そんなことを思ったのは、この夏のテレビ・ペリリュー島の戦いと、その後、九州で起こった例の事件を考えてでした。あの女子生徒に対して真っ向から答えを提示することは難しい。しいて大括りの答えを言うなら、人間性かなと思ったのです。
そういえば、8月の中国出張も色々なことを考えさせてくれました。福岡から、単身飛行機に乗って上海浦東空港に降り、リニアモーターカーから地下鉄に乗り換えて虹橋空港に向かいました。車内には白くて丸いムスリムの帽子をかぶったおじさんがいたりして面白かったのですが、いつもながら年長者に席を譲るマナーは見事でした。
ところが、ある席が空いた途端、ちょっとしたアクシデントが起きました。空いた席の隣には、都市住民と思われるお金持ちそうなおばさんが元々座っていました。その隣が空いた途端、農民のおばさんと上記金持ちの娘さんとが席の奪い合い、というほどでもありませんが、タッチの差で席をゲットした農民のおばさんに対し、美人である金持ちの娘は正に射るような視線を注ぎました。
そして、金持ちのである母親は「この席にはうちの娘が座るはずだった」とまくし立てます。しかし、農民さんは素知らぬ顔で前を向いたまま。自分が降りる駅まで全くの無表情で通して降りて行きました。
これを見ていて、私が感じたのは、都市住民と農民との歴然たる差別(意識)です。これは、昔から感じるところであり、正に制度的非人間性です。そして、それへの農民さんの対応も見事!?でした。
しかして地下鉄が虹橋空港に着いて、私が空港ターミナルを探していると、(農民の)お掃除のおばさんが寄ってきました。そして、親切にわかるところまで案内し、「友好友好!」と言って去って行きました。
そういうことを言わねばならなくなった点は両国にとって不幸ですが、こういう感じは普通です。
日本のマスコミも、いわば制度的人間性不足と個々人の優しさの存在を分けて報道もすべきです。
そして、我が国も制度的人間性不足にならないように日々努力をすることによって、真に尊敬される国になるかと思います。
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Tuesday, September 16, 2014, 11:43 PM
先日、20年くらい前におしゃべりをしたロータリークラブで、久しぶりに「真の日本の武士道とその生かし方」の題で講演してきました。
この、「真の」というフレーズと「日本の」というフレーズが大事なわけです。残念ながら、今、蔓延しているのは「嘘の」「日本のじゃない」「武士道と称するもの」なんです。
わかりやすい話、江戸を東京と変えたという事実だけからでも、明治維新以降の日本が奇妙な中国化を果たしたことが明らかでしょう。つまりは明治維新そのものをまずはきちんと検証しなければいけないんですが、それ以降の美しいお話に酔っている人にはわからないんです。別に私は中国の好き嫌いを言っているのではなく、身の丈に合わない洋服を急に着ちゃったのでおかしくなっていますよ、と言いたいわけ。
ところが、この明治維新以降の刷り込みは強烈です。
今日の朝ドラ・テレビで、柳原白蓮さんの息子さんの戦死をやっていました。あれだけの悲劇に遭遇し、以後、平和運動に熱心だった方でも現皇后陛下の御成婚に大反対だったとは、私にもその友人クラスの知り合いがいましたし、現にいますからわかります。反対の理由は華族じゃないということです。
でも、この華族というもの、靖国神社の灯篭の裏にも書いてある言葉、これは中国の何千年も昔からのものであることは以前も記しました。
私の仕事場のそばが、柳原二位の局、つまり大正天皇の生母でもある方の屋敷跡で、今も「下馬」とか「下乗」とか書いた大きな石があります。これ自体中国にゴロゴロしているものですが、要はこういうヒエラルキーの世界は、明治維新で強化されたのです。だから、一君万民的に考えていた2・26の将校は憤ったのです。
また、先日は昭和天皇の記録が公になりました。終戦時、昭和天皇の直近で警備した陸軍中尉とは亡くなるまでおつきあいがありましたが、あの録音版を奪取しようとして森近衛師団長を殺害した将校は、師団長のご遺体をいわばゴミ捨て場の如きところに捨てたそうで、それを見て、皇軍の権威地に堕つと感じたとか。
彼ら録音版奪取を意図した将校のバックと、2・26の将校に影響を及ぼした人とは全く異なるわけで、このことだけからも、戦前の世界のまともな人士とおかしな人士との違いが明らかなのです。本当は。
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Thursday, September 4, 2014, 11:38 PM
この間仕事で高崎の駅に降りたら、いました、いました。ものすごい数の人が。富岡の製糸場が世界遺産になったから。
でも、ことは製糸場だけの話じゃないんであって、それを積み出す横浜が大事で、昭和39年に生糸の輸出にブレーキがかかるまで、横浜では生糸検査所が、また、大正期の不況後の価格調整の帝蚕倉庫があったりして、色々なものが機能的に動いていました。
ですから、どこかを遺産にしてしまうというのは、そのように機能的に考えることを止めさせ、またも「物語国」を作る一助になってしまいます。
中国の史記だけでなく、アメリカにも、リンカーンの丸太小屋のようなお話歴史大好き人間がいます。むしろ本質とさえ言えるかもしれません。
しかし、それではいけない、と、きっぱりと述べる勢力もあるのです。
一方、中東のある友人は、前にも書きましたが、うちは5000年の歴史。アメリカはたかだか300年、たいしたことないよと。
でも、大きかったり、古かったりで喜ぶのは子供でしょう。そもそも人類の歴史としては一緒ですから。
しかも、実質で勝負しようと言った鍋島直茂、伊達政宗らの発想は絶対にそんなものではなかったはずです。
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