ウクライナの話と日本 
Tuesday, March 4, 2014, 10:56 PM
ついでに書くと、今回のロシアの動きは、ラインラントへ進駐したヒトラーのドイツ、チェコのスデーデン地方を併合したドイツに極めてよく似ているということです。
ミュンヘン会談における宥和政策が、その後の第二次大戦を招いたという1つの評価は、多分、相当程度当たっているのでしょう。

だとすると、今のヨーロッパあるいはアメリカの対応は疑問です。もう一歩あるいは半歩でも積極的な行動が必要な気がしますが、もちろんお金の問題、資源の問題、色々あります。

一方、問題は我が国「政府」です。プーチンさんの名前をファーストネーム?で呼んだり、北方領土の問題があるからどうの。
これは、スターリンに騙された松岡洋右そっくりです。
度々記す真崎勝次少将には、衆議院議員の時、お家に連れて行かれて会ったことがありますが(当時、私は幼稚園)、少将はロシア語に堪能で、ロシアの駐在武官をされていたこともありました。
ロシアは油断のできない相手、中国とは提携すべし、と言われたのです。
南京への攻撃についても、ビスマルクのウイーン攻撃中止の故事を引いて、断固反対でした。

こうした、大きな意見を無視し、スターリンの、同じアジア人だよなんていう言葉にいい気持ちになって、日ソ中立条約を結び、結局は破滅を導いたのが松岡ら。

要は、益々A級戦犯なるものはどうしようもないわけで、それとDNA的に繋がっている人達は、よほど反省しないと、使い物にはならない御仁ということになるはずです。

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ウクライナから考える集団的自衛権 
Sunday, March 2, 2014, 06:27 PM
少々ひどい風邪?に罹って少しお休みしました。

この間、ほぼ最後の海軍兵学校の学生であった同業のN先生が亡くなりました。
海兵出身でありながら、その身分差別的なことについては大いに否定的であったN先生。原爆の体験者でもありました。
江田島にいる時の昭和20年8月6日、ズシンという言い方では表現できないものすごい衝撃を受けたそうです。あのような実体験のない、あるいは実体験がないことを自覚していない国民、あるいは政治家が、観念だけで最近のことを進めるのは、本当に危険だと思います。

集団的自衛権とやらで、どうして遠いイラクやアフリカのことを考えるのでしょう。ごく近い国から原発あたりに破れかぶれの攻撃がこないとは言えないこと、そんなことになったら、今の福島の比ではないことは、この下の記事にも記しましたが、国会議員の、まるで教科書棒読みのような抽象的議論には、およそ国家というものを身体で受け止めたことのある人間の議論とは思えないものを感じます。

なんて思っているところにウクライナの問題が緊急課題になってきました。ロシア軍のクリミヤ進駐で思い出すのは(?もちろん私は生まれていませんが)、義和団事件のあとの満州居座りです。その旧満州のハルビンにもウクライナ寺院、つまりウクライナ正教のキリスト教寺院があって、今も稼働中なのには驚きました。一方、クリミヤ半島及びその近辺にはタタール簡単にいえばモンゴルの居住地なり離れれば自治共和国があって、スターリンの強制移住の対象にもなりました。遠い国の話しではないのです。

話しを戻して、例の義和団事件のあとのロシアの動き、そして日露戦争前の東清鉄道の付属地に関わるロシアの動きは、正に今回の動きとそっくりです。要は、法律、あるいは条約というものに対する見方が、よく言って遅れている。
更に、この非法律的動きは、日露戦争勝利後の日本が真似てしまったものでもある、という点が大事なことではないかと思います。日本も法律を守れない遅れた国だったのです。何しろ、上記のとおり繋がっていますから。

ソクラテスの例を持ち出すまでもなく、法律というものを文言通りにきちんと実行しようという発想に対して、結果さえよければ法律の文言は少々動かしたっていいんだよ、という発想もあります。我が国の場合、大正時代の、私から言わせれば少し以上におかしいな、と思わせる発想のドイツ(ここも日本の親戚みたいなもの)からの生半可な輸入以来、判例研究なるものが大流行りとなり、果ては、法律の初学者に向けた、しかし権威ある本にまで、結果が大事、つまりは結果的妥当性を先行させる考え方が、特に学者と称する人の間で強くなっています。

だから、法科大学院で、かわいそうだから救うなんていうのは法律じゃない、と言ったら、「目から鱗が落ちました」なんていうコメントがくるわけです(それを言った彼が、法科大学院を辞めて、旧試験に一発で合格したのには嬉しくなりましたが)。

で、今の集団的自衛権の議論も、結論先行の政府(この、政府という言葉も、実は基本法には根拠のない不正確な言葉。昔の官吏服務規律にはありました)は、法律をないがしろにするおかしな発想。
そもそも、昔の法律は詔、つまり天皇陛下のご命令であって、十七条憲法にあるように承詔必勤だったんですから、これを政府見解かなんかでねじ曲げようなんていうのは、 天皇陛下に逆らうものでもあるのです。丁度聞いた話しですが、実務では陛下の御印をいただくことを、今もご裁可と呼んでいるそうですから(これもちょっと正確性を欠くとは思いますが)、ひん曲げはますます陛下の御心に反する。

その昔、内閣法制局長官から最高裁判事になられた高辻正己さんと食事をご一緒する機会がありましたが、あの方の「憲法講説」のように、あまりポピュラーじゃなくても良い本、のような発想できちんとしたことが行われなければなりません。

それに反する行動は、世界的にも遅れている上に、不忠の極めということに気がつかなければいけません。
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ゴーストライターの話しから 
Thursday, February 6, 2014, 11:09 PM
何とかいう耳が聞こえないということになっていた音楽家の交響曲以下が、ゴーストライターによるものだったというので大騒ぎです。
まあ、私としてはこういう話をしっかり掘り下げる力が日本の国民に求められていると思うのです。

彼が広島の出身者だったり、地震の鎮魂の曲を作ったりで、みんなジーンと、きたのでした。
でも、音楽でジーンと来るのは一種のお話や物語の世界です。機能的に国家をどうする、国や為政者の責任をどうするという直接的な意義はとりあえずありません。

これは、例えば戦後、いわゆる左翼の人々が平和平和と叫んでいたことと同じです。いくら平和平和と叫んだり、歌を歌っても、それでは平和はこないのです。冷徹な分析と責任に基づく作用が行われて始めて実現できることです。ベトナム戦争時代もそうでした。戦争を止めるのはアメリカ大統領だったり、北ベトナム政府だったのです。
だから、私はあの何となく浮いた感じの報道に違和感を覚えていたものでした。

で、同じことは今の日本政府にもいえます。今の日本政府は、美しいとか言っているお話族です。その淵源は、史記などにある。
そうでありながら、いや、だからこそか、積極的に平和を作る、なんていう美しい言葉になるわけですが、それは、白馬は馬にあらず、といった中国古代の名家みたいですし、みんながそういう美名に踊らされているというか、見抜けない人が増えている。結局、お話国民だからでしょう。

これもお話の零戦の(特攻の)映画が流行って、涙を流している人が多いようですが、戦争とはそんなものではない、いや、あってはならない。統帥の外道であるということは私でも言えます。もちろん、そういう戦争もあったし、私の母はそれを見送り、何十年も前に私の頭上をバンクして去って行った零戦には、目達原基地を飛び立った特攻機のことを幼少時から聞いていただけに、正にジーンときましたが、今の取り上げ方はおかしい。

いつも書くとおり、ご町内の飲み友達、東條英樹の弁護人清瀬一郎先生(戦後最大の衆議院議長。こう書かないとわからない時代になった)のご子息が言っていました。海軍はいつも海を見ているのでおかしくなっちゃうんですよと。当時はなかった空軍も同じです。機械で行う戦争ですから。

海軍中尉で、何度もお家に遊びに行った零戦の撃墜王・坂井三郎さんも同様なことを言っていました。彼は海軍嫌いで、陸軍好きです。
シンガポールから北ビルマまで、撃つに弾なしの状態で行軍させられた陸軍兵士、ましてやアメーバ赤痢や脚気で苦しんだ兵士、更に、輸送船が撃沈され17・8時間大海原に漂流しての戦死(これも関係)と、ひと思いとは大いに違います。
坂井さんの最大の誇りは、自分が隊長として出撃し、1人の部下も死なせていないこと。命を的に、の戦争はあってはならないし、それを命じて、戦後ぬくぬくと生き延びた人間は一体何か。

この間も人間魚雷の話しが出たのですが、脱出装置がない回天で、何時間も航行せざるを得なかった海軍兵士の苦しさを考えられるでしょうか。現に回天が当たって撃沈のケースはほんのわずかの例外を除いて聞いたことがありません。それを積んでいた伊号潜水艦が、終戦間際に、原爆を積んできたアメリカの巡洋艦インディアナポリスを撃沈した、ということは聞きましたが。また、そんな回天を企画立案した人はどういう人か。私はそことも関係を持っています。
もちろん、殉職した黒木、仁科さんたちは本当に気の毒ですが、彼らをそんなことに持っていった制度論が大事です。

こういう厳しい部分は、ムードや、音楽や絵画や映画で解決できる問題ではありません。逆にそういうものは適切な判断力を欠く原因になるのです。幕末に戦記物ですっかり盛り上がってしまって、蛤御門に突入しようとした某さんのようなものです。

こんなふうに、ムードで流れて行く日本国民を尻目に、アメリカの一部は集団的自衛権賛成とか。そりゃそうですよ。単純に言えば負担が減るんですから。しかし、うかうかそんなことを始めるならば、敗戦の泥沼の中から戦後の日本を、いわば騙し騙し苦労して作ってきた先輩政治家から馬鹿者と言われるのがオチじゃないかと思います。

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近頃の日本3 集団的自衛権 
Thursday, January 30, 2014, 10:09 PM
何かとおかしなこのところ、ある軍事評論家の講演会のお手伝いをしてみたら、ある質問。

日本の近くの半島からアメリカに向けてミサイルが打たれたら、日本の真上は通らなくても、近くなんだから撃ち落せばいいんじゃないですか?
おいおい、それこそ集団的自衛権の容認だよ。アメリカさんからの被害の表明と要請が必要ともされているけどね。どっちにしても、そのシチュエーションで打ち落としをやれば、某国は日本を敵として、原発だろうと何だろうと、攻め寄せて来る危険があるんだよ。だから問題なんじゃないか。福島の原発がああなって、ワイワイやっている日本にそんなことの解決能力があるのかね、と。

そしたら今日は、同じ講演者の席で、集団的自衛権を容認すれば(集団だから?)攻めてこないんじゃないですか?と。
上記のとおり逆で、こんな議論じゃ話になりません。
昨日のテレビを見ていたら、政党トップの政治家でも似たり寄ったりの記者会見で、びっくりします。

その昔、不当労働行為を、不当に労働者をいじめる行為、と解釈していた裁判官がいて呆れましたが(不当労働行為は労働組合法7条に定められた、支配介入、団交拒否など、パターン化された一定の行為)、日本の病気も深刻です。

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近頃の日本2 戦争責任など 
Monday, January 27, 2014, 12:55 AM
それで、2・26事件のご遺族とお会いし、色々な話をしましたが、そこで出てきたのが、天皇の戦争責任の話。
これについても、世間では、あった、なかったという表層議論ばかりです。
そもそも明治憲法では、天皇は誰に施政の責任を負っていたかといえば、皇祖皇宗に対してです。
となれば、外国に対して敗れ、国を潰された陛下には、恐れながら皇祖皇宗に対する責任があったと言わねばなりません。
じゃ、国民はどうなったのといえば、元々国民は、法的には反射的利益しか得られない立場だったのです。だから、規制権限不行使の事案では、公務員の違法を問うことができなかったのです。板橋火薬庫事件とかです。
少々難しい話ですが、そうなると、そういう仕組みにしていたこと、つまりは国民に対する為政者の責任をそもそも認めなかった憲法体制の構築に問題があります。
このスタイルは、韓国なども全く同じで、水原にある民俗村に行ってみればよくわかります。
だから、アジアの持つ後進性なのです。

こういうことがわからないと、世界に恥をかくだけです。総理大臣や大使らが、ヨーロッパで何のかんのというたびに、こういう発想法のないことが露わになり、日本という国はもとよりそれを選んでいる国民のレベルが白日の下にさらけ出される。
日本は世界一なんて言ってる奢りもおまけとして明らかになります。

なんて思っているところに、今度はまたもやNHKの会長がめちゃくちゃ発言。
書くもおぞましい従軍慰安婦を、大阪の何とやらに引き続き、真正面から肯定するような発言は、「皇軍」という存在を何と考えているのでしょう。
上記のように天皇は皇祖皇宗に責任を負い、官吏や軍人は天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し忠順勤勉をむねとすべしとされ、上官の命令は朕が命令と心得よとされたればこそ(官吏服務規律や軍人勅諭。読んだことあるのか、と言いたくなります)、そんなことはあってはならず、正に「神兵」でなければならなかったのです。

あんな発言こそ、靖国神社に祀られた英霊に対する冒涜であり、靖国神社こそ抗議すべきなのに、これがなされない。
日本はそんな正々堂々たるモグリ売春認容国家だったりしたのでしょうか。
私もアムステルダムの飾り窓を外から見たことはありますが、むしろそのことと対になる、博物館のキリスト教とは無縁の解剖の絵の数々や、デカルト、スピノザ、ライプニッツらの故地の数々に、一種哲学的な高度さを感じたものでした。

日本の上層のお粗末さは、むしろスキャンダルという形に現れていないだけにより危険なものを覚えざるを得ません。



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近頃の日本 1 A級戦犯の実態 
Friday, January 24, 2014, 01:42 PM
健康診断で病院に行きました。
正にコンプライアンスの塊で、きちんとされていましたが、一方、こんなにきちんとできるのに、国がというか、国家の上層部がきちんとなっていないのはどういうことなのかね、と、どうしても思ってしまいます。

ビルマ戦線における日本軍は、兵隊は一流、中堅幕僚は保身で、上層部は堕落していると言われたそうで、それは、インパール作戦の一環ともいうべきフーコン作戦(フーコン谷地のフーコンは死を意味する。白骨街道を現出)に従軍して、生還した身内からも散々聞かされてきました。
私自身何度もビルマ(ミャンマー)に行きましたが、色々な意味で、極めて厳しいところです。

当時のビルマ方面軍司令官木村兵太郎中将は、マンダレー街道を南下する敵・英印軍の攻撃に、上層部の許可も得ず独断で、ラングーン(今のヤンゴン)から、話では女性と一緒に、飛行機でモールメンまで逃げ(敵前逃亡罪)、部下を置き去りにし、最後まで踏みとどまった参謀長の田中新一中将は、それ以前に東條と衝突し、左遷された将軍でした。身内とはいつも、師団の会合で会っていました。しんがりを徒歩で後退したチャンドラボースの責任感は高く称えられています(軍人にせよ裁判官にせよ、勇気など必要ではない。責任感こそ大切、といつも書く典型の話です)。

田中参謀長が歯噛みした相手の木村中将の方は、だのに後に大将に昇進(インパール作戦の牟田口軍司令官と同じパターン)。木村中将は東條さんの時の陸軍次官でもあります。

ビルマでの戦死者は20数万とも言うのにです。一兵卒からしたら許されない所業でしょう。

なのにつまりは、日本人はこういうことにけじめがつけられず、のほほんとしていて、アメリカさんの指図で木村大将はA級戦犯で死刑になりました。

こういう次第なのに、死ねば仏様とかいう奇怪な理由で、その命令を受けて死んだ人と彼・木村とを一緒の神様にして頭を下げることなんかできるか。というのが多くの兵隊達の意見だったし、私のお友達でいえば零戦の撃墜王坂井三郎さんだった、というわけです。

およそ法的に考えると、昔のそういう軍人や為政者は、その責任の名宛人は天皇であったわけで、これは、明治憲法や軍人勅諭から導かれることです。なのに、「陛下の国家」を潰しておきながら、何の責任もないとは如何に、です。
「戦争責任」の第一次的意味は、当時の制度を前提にすると、正に天皇に対する絶対の責任であったはずです。だから、本庄繁侍従武官長は立派に切腹したのです。
この点は、戦後のいわゆる戦争責任の話と、明治憲法を踏まえた話とはきちんと分けるべきで、分ければますます、知らぬ顔の半兵衛なんて許されないはずです。こういうところも法的厳密性がないからそもそも議論にならない。

そしてもちろん法的責任が問えない。
さっきの仏様論のような感情論かお話論に行ってしまうのです。

こうして、コンプライアンスどころか、法律を無視する傾向はいつから始まったか、また、その原因は何かを考えていくと、日本の、というか、アジアの恐るべき後進性に行き当たるのですが、その後進性を正にリニューアルしたのが明治維新でした。
へーなんで?なんて言われそうですが、もとより学校ではそうは教えない、どころかマスコミも小説家も明治維新を持ち上げるからおかしなことになるわけです。

このことについては「武士道バーチャル博物館」を見てください。
http://hagakurebushido.jp/

もっとも、別の角度から見ると、実は、明治時代は、法律は正に王言、つまりは天皇のお言葉でしたから、その文言通りに事を処す文理解釈が花盛りで、勝手な捻じ曲げはできなかった。律令時代でも江戸時代でも、通信手段が文書しかなくて、正にロゴスがものをいったと言えるかもしれません。

しかし、ドイツのエールリッヒなどの受け売りを強調するようになった大正中期。末広厳太郎に代表される「嘘の効用」などという、ある意味強烈な名著が出る頃から、結果の具体的妥当性なるものが強調され、法律の文言はそっちのけになって行きました。エールリッヒではないドイツの学者は、「公平は立法府に向けられた理念であって裁判官に向けられたものではない」と言ったのに。これが公平だろう、なんていう思い込みで裁判はよし、とする考えが蔓延してきたのです。

ここでも真似っ子国家の悲劇が見られます。

そして今や、表面的な具体的妥当生で何でもOKの時代に。法律を守らなくて、秘密を暴露しても英雄みたいな調子。秘密保護法なんていう以前の話です。
この表面的な具体的妥当生とは何かというと、お話です。美しさです。極端なのが日本の誇り、富士山!みたいなこと。あるいは、同様に法律を作っても守らない日本の近くの寒い国には数々の美談があります。

このお話し性の元は、戦前の国定教科書の元になった大日本史であり、その元は中国の史記!何のことはない、国粋の元は外国だった、ということ。これも、上記の博物館で確認できます。

ずいぶん書いたので、今日はここでおしまいにしますが、日本の為政者レベルの色々な意味での低下傾向は著しいと言わねばなりません。

以上を1とし、2はおって。
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年のはじめに ユーラシアの新年 
Monday, January 6, 2014, 12:40 PM
あけましておめでとうございます。
日本のはるか北のユーラシア大陸は午前11時になっても明るくなりません。そんな中をいつものゴソゴソ歩きでお正月も終わりました。

年末を外国の都市で過ごしたことが何度も、になりますが、紅白歌合戦に相当する番組の日本との違いに、改めて深いものを感じます。今回も、目指せモスクワやジンギスカンを巨大な会場一杯に歌ったり踊ったり(確かあれはドイツでもやっていて、ドイツとロシアとの共通性をも思い知らされました)。
日本の歌合戦のようなものもありますが、お仕着せではない自然な全体の盛り上がり、これが諸外国に共通な気がします。日本の「国づくり」を改めて反省させられます。

もっとも、そんなロシアで、ロシア正教の教会に入ってみると、女性は必ず髪を隠さなければなりません。ここでも、中東だけではない中央ユーラシア大陸の伝統的、保守的共通性がみられます。
もし、西欧化の推進者ピョートル大帝が今存在したら、彼は多分そのような規則は許さなかったのではないかと思います。彼と共通な行動を行ったトルコのケマルアタチュルクは、断固として女性のスカーフを取らせ、男性のトルコ帽を取らせましたから。

現に、飛行機の中で隣り合わせたトルコ人の若い女性2人は、機内で日本の若い女性と同様にお化粧をペタペタ始めました。最初はロシア人とばかり思っていたら極めて積極的なトルコ人で、私が読んでいた日本語の本に縦書きの部分と横書きの部分があることに驚いていました。そのあと、ホテルで朝食をとった隣席は、アメリカ人男性ととロシア人女性とのカップルで、当たり前といえば当たり前ですが、世界は動いているなと感じさせられました。

ステレオタイプの発想に陥らないことを肝にめいじ、今年も色々考えていきたいと思います。

ホームページ・武士道バーチャル博物館・東方からの見聞録
http://hagakurebushido.jp/
http://kamura-lu.jp/

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八幡宮から考えること 
Sunday, December 22, 2013, 07:29 PM
関西に出張しました。
大阪から東京に向かう新幹線。左は山崎。右には男山が見えます。この山に鎮座するのが源氏の守り神・石清水八幡宮ですよね。

この八幡宮という存在。明治維新までは八幡宮寺、つまり寺だったことはちょっと勉強した方はご存知でしょう。それを神社というか、神道に変えさせたのが廃仏毀釈です。

私が小学校に入る前、以前も何度も書きましたが、祖父が私を真崎勝治海軍少将の家に連れていきました。兄の真崎甚三郎大将が、2・26事件で予備役編入された時、弟である少将も予備役編入となりました。そのまま現役であれば、大将まで登ったであろうと言われます。私が会った時は衆議院議員でした。

この真崎少将は、戦後、旧制松本中学の校長・清水謙一郎先生との縁から、長野県の松本、大町方面で相当回数の講演をされています。
それは、一部本にもなっていて、私はそれらから大きな影響を受けました。
その一冊の中で言われている日本の敗戦の原因の1つが廃仏毀釈です。

日本には古来、神道というものがあった(これの元を探るのは難しいですが)。それはシャープだけれども血の、つまり血縁の宗教であり、排他的になりやすい。そこで、聖徳太子が出られて、平等を標榜する仏教を取り入れられ、規律と平等の、いわば幅の広い国にされた。それが、明治維新後、日本こそ最高、のような夜郎自大の発想から、1000年近く続いた神仏習合を分離し、日本こそナンバーワン的な発想になったのが、第二次世界大戦に敗れた大きな原因である、という考えです。
聖徳太子が建てられた四天王寺の西側に、日本で最も古い鳥居が建っていることも思い起こされます。

八幡宮のいわれは、中野幡能という立派な先生の研究によれば、新羅の金属関係の能力に秀でた工人らと関わり深く、宇佐八幡宮をはじめとする九州の山岳信仰と韓国や山東半島との共通性もうかがわれます。
この金属の技術は奈良の大仏様に結集し、よって、大仏様の東側には、手向山八幡宮が現に存在するとおりです。

こういう、正に日本人の世界的な幅の広さを圧殺し、昭和の歴史でも、仏教という世界宗教に目を開かれていた真崎大将らを、教育総監罷免、という形で圧殺して、これを憤った相沢三郎中佐の事件、それを応援していた青年将校らを2・26事件を種に葬り、ついには、正に夜郎自大としか言えない中国本土、どころか、北部、南部仏印進駐。シンガポール、果てはビルマ(ミャンマー)、あるいはハワイ、ニューギニアにまで兵を進めて、世界を敵に回し、日本を潰させたのが廃仏毀釈、つまりは夜郎自大の成れの果てです。

こういうことをきちんと研究もしなければ、原典にも当たらないし、人にも会わない(今や会えない)、そうして、日本が最高みたいな発想が再び出てきた最近の風潮はおかしいと言わざるをえません。
正しい日本食なんて言っても、会席料理は禅宗の懐石料理に由来するんでしょうし、砂漠の中で刺身というわけにはいかない。
それこそ鍋島直茂、伊達政宗の「実」の発想から、実態に合わせて機能的にものを考えることができるか否かこそが大事だと思います。


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赤穂浪士討入りの日に 
Saturday, December 14, 2013, 09:28 PM
今日は12月14日、つまり赤穂浪士の討入りの日です。といっても、旧暦が本当ですから季節的には不正確ですが。

で、この47人、あるいは46人の内の武林唯七のおじいさんは明人で、孟子の子孫・孟ニ官であった、ということは有名です。私が持っている木版刷りの江戸時代の本にも書いてあります。
どうして武林になったかというと、出身地浙江省の杭州に、武林門という門があり、今は武林広場とかがあります(Google earthで見ると、すぐわかります)が、それにちなんでの武林です。

この博物館に書いたとおり、この頃、万単位の明人が日本にやってきたと言われています。しかも、佐賀で言えば、武富廉斎(その子孫は、大隈内閣の大蔵大臣武富時敏さんとかトルコ大使の武富敏彦さんとか)をはじめとする超優秀かつ影響力のあった人々です。

この事実は全国的であり、極めて重要ですが、私は学校では習いませんでした。
日本人のルーツは基本的には大陸にあり、それを前提としなければ様々な事象も判断が狂うのに教えないのは、何か自信のなさを物語っているような気がします。
しかし、だからこそ私は、この列島に住んだ祖先が、自分の頭で考えて自分の身の丈に合わせ、しかも世界に誇れる、オリジナリティを発揮して創造したものは何かを追求しているつもりです(結論?[いやいやそう簡単に結論は出すべきでないとも思っていますが]は、この博物館に書いてあります)。それが真に役立つ民族主義です。

ここの所の発想自体が分からないと、今流行りの、日本は最高だ、のような日本のものではないものを誇る滑稽なものになってしまいます。

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日米開戦の日に思うこと 
Monday, December 9, 2013, 04:00 PM
今日は12月8日。70年以上昔の日米開戦の日です。
で、私が会った旧軍人(といっても、最も密接であったのは一親等の親族)のことを思い出していました。私もいよいよ持って語り部の世代に突入か。というわけで、ちょっと。

何人もの有名な元軍人に会いましたが、偉いな、と思った1人が辰巳栄一中将でした。陸軍の将校クラブ偕交社(といっても今とは組織が別で、九段の坂の途中に立派な建物がありました)の理事長時代で、穏やかな武人でした。
中将が最も尊敬されたのは確か吉田茂、それに本間雅晴中将、真崎甚三郎大将だったと思います。真崎大将と私の祖父は極めて親しく、私は大将の息子さん、つまり、昭和天皇の通訳をされた元アフガニスタン大使秀樹様と親しく接しました。大将の弟さん真崎勝治少将(当時、衆議院議員)からは、小学校の入学にあたり洋服をプレゼントされました。

この人々、特に吉田さんと、真崎大将、近衛文麿さんらは、戦争を始めたくなかった、あるいはストップをかけたかった一連の人々です。
それは、開戦以前もそうですが、開戦後、最早戦争遂行能力のなくなった国であることを自覚していた人々だからです。

それに対して、「死なば諸共」などと言いながら、彼らを憲兵を通じて弾圧し(元憲兵にも何人もの知り合いがいました)、戦後米軍に踏み込まれるまで腹も切らず、医者に印を付けさせて拳銃で撃ち、急所を外れて逮捕されたのが東条英樹でした(その東条の弁護をし、衆議院議員議長までやった立派な人、清瀬一郎さんのご子息とはご町内でいつも食事をしたり、同じ大学で教えたりのお仲間だったことは以前も記しました。本当はもっと関係ありますが)。
この辺り(もちろん括弧の中の話じゃなくて)が今の情勢では、極めてあやふやです。全然、けじめがつけられていません。

それは、国というものに対する観念が機能的でないことによると思われます。国という観念をまずは立てるか立てないか。立てるならば、それをどういう存在にするか、あるいは考えるかです。
会社と同じく、国観念の歴史も、邪馬台国や朕は国家なりのルイ14世などを除いた近代国家としては、そんなに古いものではなく、17世紀が良いところ。それは、あくまでも国民を守るべき存在であって、ドイツのように、そのために死ねなどというのは、決してポピュラーではありませんでした。
ところが、日本は後者ですし、ドイツのベルリンなどに行きますと、日本同様(というか日本が輸入したと思われます)、ドイツ軍の少年兵が成形炸薬弾を先頭に付けた棒で戦車への体当たりをした遺物などが置いてあります。

これは、上記の人々の、真崎大将らへのいわば反対派がやったことですし、しかも、そのことの責任を取らず、あるいは戦争終了後、若い人を道連れにそんなことをした司令官までいた。これは、世界に恥ずべき一種のそれこそテロ行為です。

今の日本が、こういうことをきちんと清算し、正邪善悪の反省ができている社会なのかが問題ですが、このところの政治情勢は上記の人の子孫が関与していても、彼らは全く学習できていないと言わねばなりません。

近頃の何とか法。
以前も、これまた最近話題に登っている新右翼のKさんと誌上対談をした折、私は憲法改正について、日本が今のような病気の身体で重たい鎧を着たのでは転けちゃうのでは、と言ったのですが、益々病気が進んでいる今、それを使いこなせるとは思えません。既に存在する守秘義務条項のある国家公務員法の運用さえまともでなかったことは、ついこの間もはっきりしたばかりですし。

要はああいうものを作る人士の中にあるアプリケーション志向、あるいは、史記・大日本史・国定教科書ばりのお話し国民性が問題なのです。美しい国とか、世界遺産とか、おもてなしとか。

沖縄の島守と呼ばれた島田叡さん、つまり終戦直前にあえて沖縄に赴いた沖縄県知事は、その前、佐賀県警察部長で、私の祖父とも関係がありました。もちろん、戻ってはこられませんでした(その本も私は持っています)。
こういう覚悟を持って政治、あるいは戦争を考えることを今の政治家がなしているのか。
その昔も、本当に考えていたのは第一線で戦死した人や2・26の青年将校みたいな人達だけでしょう。「僕は実は天皇陛下の為に死ぬなんて思っていなかった」などとしゃーしゃーとして述べる戦争世代には、そういう人士に限って出世?しているので、腹が立つ以上のものを覚えます。そういう老人に若い人が騙されてはいけません。

で、そんなことを思う少し前、南アフリカのマンデラ大統領が亡くなりました。
27年間の刑務所生活、本当に大変だったと思います。

何十年も前、バブルのせいでニューヨークの最高級ホテルに泊まった折、部屋を出た途端に黒人のメイドさんがずらっと並んでいて、一瞬びっくりし、かつ恥じ入った次第です。
その後、何人もの黒人の先生にいろいろ教えていただき、南太平洋の島にステイした時には、ママから日本人はいいわね。私たちはブラウンだから、と言われて困ったりしたこともありましたが、縁戚は黒人の人とも結婚しているし、昔とは違っている自分が嬉しいです。

マンデラ大統領が、自らが大統領になってから、和解を説き、報復を禁じたことにも正に打たれました。

で、マンデラ大統領に重ね合わされたのが台湾の人達の「緑島」生活でした。何人もの知り合い、と言ってももう亡くなりましたが、この、島全体が刑務所の島に送られました。私がのほほんと(でもないか)成長している最中に。

その仲間の1人の人が詠んだ歌が、前も記した「血の祖国 法の祖国の虚しさよ 我が憧れるのは 心の祖国」です。
この心の、真に助けあう精神の国づくりができてこそのなんとか法、でしょう。その昔の教科書には、イギリスのデーリーメールのオーナーだったかが第一次大戦の実情を報じることによって、イギリスが態勢挽回できた話が出ていましたが、日本の大本営発表は秘密どころか嘘を並べたくっていたのです。このことも清算未了です。

ずいぶん長くなったので、この辺りでやめますが、とにかくなってないと言わざるを得ません。


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