Wednesday, October 31, 2012, 11:07 AM
たまたまテレビの番組欄を見ていたら、寧波の乱をやるというので教育テレビをつけてみたら、こりゃひどいわ、NHK夜11時の教育テレビのレベルもここまで来たか、と、もっと寝たかった、時間を返せ!と言いたくなりました。一番ひどかったのは、明の官員が辮髪だったこと。儒教国家明では「身体髪膚これを父母に受く」というわけで、清朝成立に際し、辮髪にして髪を剃るなんて断固拒否したのは有名な話で、あんなことありえません。
それだけではなくて、寧波の映像は全く(多分)出てこないし、寧波の乱の歴史上の意味付けもはっきりしない。これは難しいとしても、何を言いたいのか分からない。がっかりでした。
ま、それはそれとして、今や中国の貿易港として最上位の何本かの指に入る寧波は、古来より日本と最も強いといってよい関係があります。寧波の乱は、室町時代にその勘合貿易の利権を巡って大内、細川の軍隊が現地で戦争したことであることは、高校の日本史では習います。
今の寧波は、数日前、化学工場の拡張だかで、反対のデモ行進が報じられていましたが、その佇まいの中に昔のそのままが残っており、感動的です。町の骨格は宋の時代の地図と全く変わっていません。
中世、博多にいた3人の商人が、寧波に道路を寄進したことなど、福岡市立博物館に展示してありますが、寧波市の博物館には、その現物が置いてあったり、その他ここでは書き尽くせない古代から近世に至る日本との関係。
NHKさんももうちょっと何とかして欲しかったです。現地の取材をしたとは思えません。予算のせいでしょうか。
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Monday, October 29, 2012, 04:32 PM
近頃の維新、維新には、必ずしも薩長土肥がよいとも思わない私としては、もっと勉強してから、いや、原典に当たってから言ってよ、と言いたくなります。小説で分かった気になって血湧き肉躍ってるのは、太平記を読んでその気になってついには切腹にまで至った◯◯と同じです。維新の志士なるものが、いわば神がかりであり、しかも、大義名分論という中国南宋の思想に凝り固まっていた事は、正に歴史のパラドックス。いわば、明治維新を起こしたのは中国だ、という何とも矛盾した話である事は、靖国神社の遊就館を見れば、いや、遊就なる言葉が荀子から出ている事を見れば明らかでしょう。
そんなわけですから、維新なるものを成し遂げたからとて、その政治体制の本質は、大君つまり将軍の命令で動く国か、天皇の命令で動く国かというだけで、文明開花以外は全く以前と同じ、どころかむしろおかしくなった面もあります。だから戦争に負けてしまった。
文明開化だって幕府がやろうとしていたことです。
江戸時代、将軍の統治下でお勉強した人は、日本の主は天皇じゃないか、とハタと気がつき、維新を起こしたのですが、その「主が何とか」ということでよいのか、についての反省というか突き詰めがなかった。中江兆民のいう「日本に哲学なし」だったからです。
ですから、私が上に書いたように、靖国神社も荀子だよ、にハタと目が覚めても、「じゃやめた、日本ので」何ていっても何が本当の日本なのかも分からないし、突き詰めがないから、所詮、今までと同じということになってしまうでしょう。
中国というお釈迦様の手のひらの上であっちに行ったりこっちに来たりの有様に。
おまけに、ハロウィンに見られるとおり、表面だけ西洋化していますから、ますますアジアが分からず、自分の立ち位置が分からない。これじゃ、ロック、デカルト、スピノザ、ベンサムなどなど、政治の仕組みの根本にスピノザのエティカにみられるような抽象的演繹、あるいは突き詰めをした西洋人の社会にかないません。
じゃ、どこへ行ったらいいの?といえば、要は鎌倉武士ですわ、と言いたいのがこの博物館のポリシーです。鎌倉武士は後鳥羽上皇や後醍醐天皇をいじめたからダメ、なんて考えてるようじゃ、A級戦犯の大川周明さんが書いた日本二千六百年史から笑われてしまいます。
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Tuesday, October 23, 2012, 09:13 PM
10月23日、毎年行われる会津若松の西軍墓地墓前祭が、今年も地元の方々により神式仏式混合型でしめやかに執り行われ、薩長土肥それぞれの代表・関係者が列席しました。これを取り仕切っておられる東明寺住職中村昌道先生は、数々の経験を積まれた方で、これまたシベリア抑留の経験者です。
中村先生がその最も上位の一人であられる藤沢市の時宗総本山遊行寺には、有名な「敵味方供養塔」があります。室町時代の上杉禅秀の乱のあと、その敵味方を弔ったというものです。かつての掲示板に写真が貼ってありますので、お時間ある方はどうぞ。
中村先生の博愛精神の奥にはこういう一つの観念があるのでしょう。
中世の敵味方供養塔は。島津関係にもみられ、これも私のいう中世武士道の一つの鑑でしょう。
それで、今の日本人はどうか。第二次世界大戦のアッツ島の戦いで、良く似た話があった事は、この博物館からアクセスできる「弁護士の目」に書きましたが、最近の風潮からすると、相当な危惧を覚えざるを得ない気がします。
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Tuesday, October 23, 2012, 09:05 AM
日中関係なかなか大変な昨今。ただ、一つ言えることは財界までも強行になっているわけではないということで、この点は救いかと思います。戦前の昭和10年代の初めはといえば、財界自体が冀東政権などについてこんな結構なものはない、などと言って、いわばきちんとものを見ていた石橋湛山などとは真逆だったのです。
塘沽停戦協定については色々な評価があるでしょうが、参謀次長真崎甚三郎中将(当時、のち大将)は、断固万里の長城でのストップ派であり、参謀総長として彼とうまくいっていなかった閑院宮つまりは宮中などが、のちの拡大派と組んで教育総監真崎解任を行い、先に述べたとおり中国のコアに部分に兵を進め、これを財界が後押ししたというのが戦前の構図でしょう。
このコアの部分とは長城以南、特に南京です。オーストリア・ドイツの戦争において、一国の首都を攻撃してよいのか、が論じられたことがあります。私が幼稚園の時お会いした、真崎大将の弟真崎勝次少将(2・26事件で予備役編入。私が会った時は衆議院議員)は、この南京攻撃時にも、何たる事をと慨嘆しておられたとか。
このあたり、本当の政治学や文化人類学がわからないと、失敗してしまう。今回の政府の行動にも一つ欠けていた点があって、次の一手を早めに打つべきだと思っています。とりあえず選手交代という手もあるでしょう。
因みに昨日、長野県の穂苅甲子男様から貴重な葫蘆島訪問のご本をいただきました。穂苅様は旧満州協和会、シベリア抑留など数々の経験をされつつ松本深志高校の同窓会長などつとめられ、大きく生きる素晴らしい方ですが、その恩師・旧制松本中学の清水謙一郎校長と真崎少将とは大の仲良しで、松本で何度も講演会を行いました。
そのような健全な集まりのない事も、日本の本当の国力を削いでいる原因の一つではないかと思います。
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Thursday, October 18, 2012, 10:04 PM
先日、出張で青森に行ってきました。青森空港を出ると、間もなく「浪岡」の表示が。浪岡御所とも呼ばれた北畠顕家ゆかりの城跡です。北畠顕家といえば、関東では鎌倉の杉本城を攻めたことでも有名です。彼はそこを落として、更に関西まで遠征して、最後は和泉の石津で討ち死にしたといわれます。
実際のところそれどころではなく走り回ったことが太平記に出ています。
このような南朝方を語る場合、戦前の国定教科書的発想では正しい理解に到達できないと思います。
南北朝正閏論では、それが特に明治時代に盛り上がったことからもわかるとおり、南朝を正とし、その議論の底に国粋主義を持ってきます。
しかし、以前も記した通り、南朝は実は良し悪しは別として中国型なのです。それは後醍醐天皇を描いた絵からも明らかで、天皇は冕と呼ばれる中国風の冠をかぶっています。
つまりは、明治維新同様、その大義名分論は中国からのおいただきなのです。ですから彼らの文化は、書道にしても歌にしても中国調で、北朝の天皇の方がよほど和風です。そこがわからないので、中国の大義名分論で理論武装した維新の志士派は、明治時代に、南朝を良しとし、北朝をダメと言いました。
私は別段、どちらが好きとか嫌いとかと言っているわけではありません。
しかし、「ねじれ」は滑稽です。また、悲劇ももたらします。
ただ、わからない人にはこの消息は難しいかもしれません。
なお、後醍醐天皇に諫草した北畠顕家は私が大好きな武将の一人です。
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Monday, October 15, 2012, 12:49 AM
政治家・若槻礼二郎の「古風庵回顧録」を読んでいますが、その序文は読売新聞の社長もしたジャーナリストの馬場恒吾によるものです。曰く、「軍縮会議に若槻氏が日本の代表として行くと決定したころ、ある新聞が若槻氏その他民政党の幹部が政党の資金を集めるため前に何か悪いことをしたかの如く書きたてたことがある。これは後になんでもなかったことが明らかにされたのであるが、その記事が出た時、私は日本を代表して列国会議に行かんとする人物の背後から短刀を突き立てんとするような新聞があることを情けなく思った。」と。
何と今も昔も変わらぬものかと思います。ある外国人と話したら、いくら言論の自由といったってひどすぎる。日本の週刊誌はあんなことを吊り広告にして、と言われました。
とにかくレベルが低すぎだし、前にも再三書いたように、総理大臣の悪口ならまだしも、皇族の写真を吊り広告に使う週刊誌なんて、いくら保守的なことを言っても本当の保守じゃない。ただの金儲けでしょう。
昔は踏みつけられる危険性のある紙に陛下のお顔つまり龍顔を載せるなんてとんでもないし、だからイギリスと違ってコインにもお顔は無く龍の彫物だった。
ポピュリズムのインチキ政治家同様、当然マスコミにも注意すべし。
馬場恒吾さんが社長をしていた時代の読売新聞とも全く違うことは、今度の「ips事件」をみても明らかです。
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Sunday, October 14, 2012, 10:44 AM
下のようなことを書いていたら、山中教授のノーベル賞受賞、これは誠に喜ばしいことです。何と言ってもノーベル賞を取るには独創的であることが必要なんでしょうから、こうしたことを種にして、みんなが独創的になる必要があると思います。「だから日本はすごいんだ」みたいな、お話歴史と英雄待望論ではせっかくの快挙が活かせません。
畑違いの法律の世界。いくつかの委員会に関係しました、あるいはしていますが、日本のトップ大学の先生の一部には、いわばリステイトメント力というか、判例を金科玉条とし、そのリストが頭の中にあることの能力いや「脳力」でここまで来たのかいな、と言いたくなる御仁がいます。その大学からはノーベル賞が非常に少ない。しかも問題は、そうした人と役所が仲良しなこと。
官僚叩きには賛成しませんし、国民のための官僚なら大歓迎ですが(官吏服務規律の改正には以前もふれました)、吉宗の公事方御定書宜しくコチコチで、その割には賄賂がある、なんていう日本の近くの何処かの国に似たような行動様式と、独創性のない学者というより暗記機械が結びつくと、正に今の日本のように、賞をとったことだけで喜ぶ、機能的とか、伊達政宗などの述べる実の発想から遠ざかった社会になってしまいます。それでは、「次の」発想が生まれるはずがありません。
今の日本は「明るい話題」で喜び、「勇気を与えてくれた」で感動している変な社会ですが、もう一度、一言でいえば「戦国時代」を思い出し、あらゆることを機能的に考えていくこと、その根本に、この博物館の本文に書いた哲学というのか、価値観の突き詰めを据えることが大事じゃないかと思います。
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Sunday, October 7, 2012, 09:27 AM
同じことを二度も三度も書いたり言ったりは恥と考えてはいますが、ついついブツブツ言いたくなるテレビ。東京駅がすごいすごいと。多分、販促の意味もあるのでしょう。あれがオランダ・アムステルダム中央駅とそっくりとは昔から言われたこと(復元の中央部分は正に一緒)。国会議事堂はロサンゼルスの市庁舎のタワーを縮めただけ。
最近の四谷駅まで、世紀末のウィーン、独創的建築家オットー・ワグナーの地下鉄駅の簡略版。大騒ぎをした中央郵便局もワグナーの郵便局に相当似ています。
私の先生で彫刻家のK先生は、真似は絶対ダメ、と言われて、ユトリロもどきの絵を書く学生に怒っておられ、彫刻といういわば個性を出しにくいと思われる分野で独自のものを出しておられましたが、あれじゃなくちゃいけないと思います。
褒めそやしの一番いけないことは、そこで止まってしまい、自惚れて競争に負けてしまうことです。日本製品は世界一みたいなことを言いますが、相当蚕食されています。あるいは、例えば正気の歌みたいに元々中国のものなのに、日本の国粋主義の依拠する歌と勘違いしている滑稽かつ悲劇的現象まであります。
真の日本とは何か、やはりこれを探すことが大事ではないかと思っています。
その意味では、建築では伊藤忠太の悩みに共感を覚えます。
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Thursday, September 27, 2012, 10:15 PM
私の知り合いに、台湾の原住民族を調べている方がいます。その人と台湾のある地方へ行った際、元国民政府軍の一員であった北海道出身の日本人に会いました。その人は、元日本のサーカス団員で、手品がすごく上手でした。私たちの目の前で、色々な手品をしてくれました。名前も台湾式に変わっていましたが本来の日本の名前も教えてくれました。
でも、その複雑な過去を知った時、私はこんな調査をしていていいのかな、と思いました。
その時、周りには旧国府軍の人達が集まり、険悪な空気になりました。
やっぱりね、と私たちはそこを離れました。
ことほど左様に、台湾という所は単純にはいきません。
私の友人の台湾人Kさんは日本にも留学した親日派?ですが、そのお姉さんは日本が大嫌い。でも日本人形を集めるのが趣味。Kさんは、もちろん国民党が嫌いで客家もいや。
そんなわけですから台湾に多くの友人を持つ私も、食事を設定する時には少々気を使います。
単純な親日などというものではないのです。
今回の南の島を巡っての台湾との関係は、日本国民の目を少し開いてくれただけよかったと思います。正に雨降って地固まるにしなければいけません。
一方、上海の中国人の友人と今日電話で話したところでは、上海では大したことないですよ、との話。デモらしいものはないし(一部報道)、一部の地方が問題なんです、と。私自身も八月末1週間くらい寧波等に行っていましたが、もとより何もありませんでした。
問題は将来の中国、台湾の関係です。中国人であることを自覚している台湾の人も多くなってきました。
単純、ステレオタイプが一番いけないことです。
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Sunday, September 23, 2012, 09:46 PM
吉野作造が大正8年に書いた文章には、「近頃、学者、軍人、記者等の一部の間に、外務当局を鞭撻して武断的対支外交の措置に出ずべきを、しきりに説き廻る連中があるという噂を耳にする。顔ぶれを見ると、またあの連中かと真面目に相手にする気にもなれぬが、・・・曰く一泡吹かしてやるべし・・・と。」云々とあります。
正に一泡ふかすつもりが、元々資源のない我が国のこと、最後は昭和20年の敗戦に至ったことは歴史上の厳然たる事実です。
中に学者なるものが出て来ますが、学者と実務は違います。それぞれ相補完しあってこそ良い結果が得られるというか、ご飯も食べられるということでしょう。
ひところの共産主義なんていうものは、いわば学者の理屈を鵜呑みにして大失敗した典型とも言えます。何につけても、1+1が2にならないのがこの世の中なのに政治家が2と考えるようでは大変なのです。
このところのごたごたも、そういう意味で、目を開くチャンスにしなければなりません。
大正8年といえば、その前の大正4年、大隈内閣の対華21箇条の要求などにより正に日貨排斥の頃。当時福建省の領事館にいた私の祖父は、日本人排撃の中で、軍閥李厚基将軍勢力の動静を探る他、時には弾丸の下もくぐって拉致事件の解決などに当たったとか。
今の中国でも、私の友人の某企業総代表は、これをチャンスに変えるべく奮闘しています。
そんな時、政治家が足を引っ張るようでは、国家なるものの本質が何なのか全く分かっていないと言わざるを得ません。国民の福祉、それは通産行政を含めて、福利厚生に役立つ作用を行うことです。
下に書いたウェストファリア条約によってできた国は、それ自体が存立の目的というのではなく、国民を守る存在に昇華したはずです。明治初年の江藤新平の文章などをみても。
国家をそのために死すべきものなどというのは、遅れて来た国ドイツなどの真似でしかないし、日本本来のものでもありません。私は、ベルリンの武器庫で見た炸薬弾を日本人が戦争末期、正に使っていたことに、ヒトラーにうまいこと載せられた哀れな姿を見る思いがしました。鎌倉武士という日本人の身の丈に合わせた法律・御成敗式目を作った武士の発想ではないのです。
そこのところをよーく考えてみることが、本当の武士の道でしょう。
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