★8月9日 
Friday, August 10, 2012, 12:39 AM
8月9日ということで、長崎の原爆、ソ連の参戦といったことが世上に色々出てきます。

しかし、概ねは極めて皮相的です。もちろん両方の事象ともアメリア、ソ連の戦争犯罪に間違いありません。
でも、それを騒ぐだけでは昭和30年代、つまり50年前の議論であって、そんなことは小学生の私が言っていたことです。

今の私になってみれば、先ずは自分つまり日本自身の問題として、何ゆえそこまでいわば1年以上戦争を引っ張っていたのか。その責任者は誰で、実際責任を取ったのかということです。

分かりやすい話、昭和19年の7月7日、サイパン島陥落以降は日本の戦争遂行能力はなくなりました。だから東條は総理を辞めるに至ったのですが、そのあとの人間もいわば尊王攘夷の志士宜しく、美辞麗句を並べるのみ。
私の身内が19年の8・9月頃、南シナ海で潜水艦による輸送船の撃沈に会い17・8時間の漂流の末助かったという正に奇跡の生還をしたことは以前も記しましたが(だから私がここにいる)、大海原でどれだけの人間がある意味原爆と甲乙つけがたい救助なしの状態で死んでいったことでしょう。そういうことが1年以上続いたあとの原爆でありソ連の参戦であったことを忘れてはいけないでしょう。

一方、イタリアにしろドイツにしろ、こんな戦争やってられるかといい、「ここにもう一つのドイツがある」と言ってヒットラー暗殺に失敗し、銃殺された人々、その数約5000人がいたことに、真の武士道を見る思いです。

私のごく近い子爵家の御姫様の学習院時代の一つ下の嵯峨公爵家の浩様は、例の愛新覚羅ふけつさんと結婚させられたわけですが、ソ連軍が入ってきた時。関東軍はいち早く逃げてしまい、さすがは関東軍なんていう皮肉を浩様が本に書かれていますが、軍人なのに全くもって国家とは何かがわかっていないし、要は責任感がなかった。

このことは、9月17日に米軍が来るまで、多くの将官が自決するのにしなかった東條にも末端の左官クラスにもいえるでしょう。
そして、そんな人間がなぜできたか、総理なんぞをやっていたのか、どうしてそういうシステムだったのか、ということなのです。

こうなると、正に文化人類学の分野かな、と思われてきます。そして、この文化人類学が政策にいかせる国にならなければ、まともな国家とは言えないのではないでしょうか。
当然、こういうことは、現代の日本にも残念ながら十分いえることです。

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★8月6日 
Monday, August 6, 2012, 10:22 AM
今日は、広島に原子爆弾が投下された日。瞑目。


刑法、刑事訴訟法の団藤重光先生が亡くなられた記事を思い出しました。
私は一度しかお会いしていませんが、今の職業につくようになったのは、団藤先生が仲人をされたK先生に勧められたからです。K先生のお父さんが団藤先生の仲人さんという関係でもあります。
学生運動という、今もそれが尾を引いていると思われる感情過多な動乱(と言っても戦争とは比べ物にならず)のおかげで、人生の予定が狂ってしまった私に、修正を施して下さった方の仲人さんに心から哀悼の誠を捧げたいです。

で、それはそれとして、団藤先生の本の素晴らしさはというと、「理想」を語っていることだと思います。法律の本の中には、理想を語る本と語らない本とがあります。一般的にいって、憲法や刑法は語る方でしょうが、民法や会社法などは淡々が多い。いわば、理想というよりも悪くいえば「魂胆」が隠されている。一方、行政法のように理想を語らなければおかしい本が判例の整理に終始し、一向理想を語らない場合もある。それは、それを書いた先生の「位置」によるのでしょう。

団藤先生のように理想を語るというのは、つまり根本に哲学というか、価値観の集合体があって、そこから演繹的に論理を紡ぎ出し、法律を動的にに運用し、動かすという発想が働いているということになります。一方の理想を語らない方は、判例の知識だけです。
今、その後者が幅をきかせているのが問題だと思います。

過日、ロンドンに行って、念願のベンサムのオートイコン、つまり、彼のミイラに会ってきたことは、先に記したと思います。彼は、法律どころか、経済、社会政策などなど極めて幅広い人ですが、ロック、ヒュームといった先行する哲学者を根本的に批判して功利主義を打ち立て、そこから様々な法的概念や発想を導き出しました。
アムステルダムのスピノザが通っていたシナゴーグにも行ったことがありますが、彼もコナツウスというホッブズなどから流れてきた概念から民主国家というものを導いています。このような演繹的思考を最近は軽視し、きちんと咀嚼もせずに帰納がいいとか言っているのは、どうも変です。要は、両方大事です。帰納なのかどうか知りませんが、判例を順序だてて並べるのは、逆に儒教主義(特に日本の一部の)であることを知るべきではないでしょうか。
法律学も、グルグルと論理を回し続けること、歴史もそう。そんなことを団藤先生の死亡記事から考えました。

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★8月2日 
Thursday, August 2, 2012, 04:33 PM
神宮外苑の花火大会があるというので、交通規制の横断幕が歩道橋の上に貼ってありました。
それを見たら、数年前の上海で、外灘のイルミネーション見物日(これは極めて大規模なもの)に、直近の地下鉄駅がみんな閉まって、地下鉄はす通りしたのを思い出しました。

当局からは前触れもなくこうしたことが行われる、と地元の人はぶーぶー。駅に小さな紙は貼ってありましたが、周知不徹底は間違いないようです。

これで、やはり中国はだめ、日本はよい、で終わってしまっては、それこそダメなのです。
論語にある「よらしむべし、知らしむべからず」。正にそのスタイルというわけで、同様の事象は日本にも沢山あるわけです。例えば通達などというものは、正にそのための道具です(もちろん全ての通達が悪いとは言いませんが)。

花火大会のお知らせは、こうした伝統?から脱皮した良い例。こうした良い例をもっと増やしていくことが大切だと思います。
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★7月28日 
Saturday, July 28, 2012, 08:23 PM
ロンドンオリンピックが始まりました。
開会式をテレビで見ていたら、聖火がやって来ました。この聖火を始めたのは「民族の祭典」をうたったナチスだそうで、その昔の東京オリンピックで、日本選手がナチスばりのせい然としすぎた?入場行進をして、諸外国から顰蹙というか、驚かれたことなど思い出されました。

しかるに今回の聖火、グググッと持ち上がって、沢山の聖火が一つに。
うん、これはいいや。葉隠的にいうと、一味同心というやつだよ、と、さすがイギリスだなと思ったことでした。

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★7月22日 
Sunday, July 22, 2012, 11:19 PM
忙しくてもう一つのホームページ「東方からの見聞録」に手が伸びません。でも、材料は揃っています。

忙しくても移動時間のせいなので、本は読めます。最近、久しぶりに法社会学の本を読みましたが、ちょっとビックリでした。

昔の法社会学というと、「社会」と名の付くとおり、いわゆる左翼っぽい学者が有名で、そういう中身も相当あって、史的唯物論を前提とする論理過剰な本が主流?とも言えたのではないかと思うのですが、近頃読んだ新しい本は、逆にお上の代弁みたいなもので、これじゃ学者の批判精神はどこへ行ったのさ、と言いたくなりました。古い言葉ですが、大本営発表の社会学。これじゃ困ります。

もっとも、そんなことを言ったら学会から追い出されてしまうかも。でも、元々入る気もないよ、と言っている元気な学者もいるわけです。
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★7月12日 
Thursday, July 12, 2012, 10:21 AM
その昔、丸々帝国が滅びたのは、法治主義が機能しなくなったためである、ということを大学の先生から聞いたことがありますが、いよいよもってそういう気がしたのは、例のイジメ自殺の話。
テレビで夜回り先生こと水谷先生の言われていたことには正に大賛成でした。
つまり、イジメは犯罪です。但し、大人がやっていたのではないから、少年法で厳格に責任、というか矯正処分を受けるべき。そのためには、当然、警察が最初から動くべきです。
ところが、実際は警察が動かない。学校ももやもや。要はけじめがつかない。法治主義は貫徹されない。
そして、今になると、いじめた生徒や親を人民裁判的にいじめるという第二次非法治主義が始まる。
前者を厳正に、そして、後者はあってはならず、但し、上記の通り悪い少年は、少年院でもどこでも、必要な処分を受ける、というのがけじめでしょうに。
全くの非法治主義がまかり通っているのがこの国、というところに根本的問題があると思います。それは、ここの所の様々な事件なり社会問題、果ては外交問題でも経験しました。
つまり、ことは少年問題に限らないのです。
こうして、子供の時から非法治主義の教育では、まともな大人に育つはずもありません。マッカーサーならずとも12歳!と軽蔑することでしょう。
以前、ギリシャの民会やアゴラに行き、ソクラテスが幽閉された場所を訪れましたが、この日本国民は、「悪法が法か」といった根本的問題には全く関心がないようです。

もっとも、その法というもの、これは一種の道具ですから、国民に合うように常に改良を怠らず、自分の身につくようにしていかねばなりません。
私の友人の米国の弁護士で大学教授のAさんは、先日、日本の司法試験を自分で受けてみたそうです。その昔の刑事政策学者のM先生は、刑務所に入ってみました。
そういうことは、今は全く聞かず、つまりは、この方面の学者の多くが、ただの暗記人間になってしまっていることが、大いに危惧されるところです。

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★6月30日 
Saturday, June 30, 2012, 03:46 PM
中身が濃くてクラクラしそうな何日かでした。

福建で、福建語で、12345はなんと言う?とタクシーの運転手さんに聞くと、いちにさんしご。
台湾で、台湾語ではどう?と聞くと、何とかさんしご。
客家語がいちにさんしごなのは知っていましたが、面と向かってミン南語自体もそうだとは驚きました。こりゃ、あの辺りと日本との関係は普通じゃないなと考えた次第(日本の元はひふみとも)。
もちろん、鄭成功のお母さんは平戸の日本人です。

福建で郵便局に行ったら、ときどき一緒に旅行する同郷のおばさんがカウンターの向こうにいました。あなたどうしてこんなところにいるの?とは聞かなかったけれど、喉元まで出るのを抑えられませんでした。
台湾で開催された会に参加したら日本人・・・としか思えない人が来て、一緒に写真を取りました。その人のお母さんは台湾人ですが、綺麗な日本語をお話しされるので、120パーセント違和感がありません。

今更ですが、これらは、私が今まで言ってきたことのいわば物理的裏付けです。
しかし、まだまだ調べたいことが多いな、と思ったことでした。

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★6月19日 
Monday, June 18, 2012, 02:33 PM
今日は、外国人と結婚した若い女性に会いました。

若いけれども、やはり外国を知っている人は考えが広いなと思いました。要は外国人と付き合っている人は、ということです。必ずしも行かなくても、外国人の発想に出会うことはできます。

私なども、ラーメン屋さんのミャンマー人、お弁当やさんの中国人。駅の売店の台湾人とはしょっちゅうお話ししていますし、アメリカやベトナムが加わるので発想の違いや、もちろん各国の国情の違いを肌で感ずることがしばしばです。

その点、最近の日本というか一般的な日本の若者の内向き志向には一種の危機感を感じざるを得ません。
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★6月6日 
Wednesday, June 6, 2012, 10:47 PM
今日は、カリブ海から来た人と話をしたので、スペイン系の話題となりました。

スペインが太平洋のフィリピン、メキシコ(ノバエスパニア)の航路を確立したのは1565年のことであると言われます。
ですから、以後、相当数の日本人がメキシコに渡りました。
咸臨丸で渡ったのの300年も昔です。

ところが日本の教科書では、咸臨丸がいかにも初めてと読めるような記述。もちろん、支倉常長の話はあるけれど。よく読むと日本人が主導権をとって操縦した船で行ったのが初めて、とかいうことになっています(勝さんは船酔い的だったとの話もありますが)。
見てきたわけでもないのにどうしてそういう限定をつけて咸臨丸を持ち上げるのか。ここでも、すごいお話大好き、という日本人の性癖が見えます。限定を付けて世界一の塔とかも。

実際のところ、秀吉死去後の徳川家康政権の積極策は大したものでした。
先ごろも、スペイン国王から贈られた時計が久能山にあって、その部品が今や西洋にはなくて見せて欲しいとかいう話があるとの報道。
それが珍しい話ではなく当たり前の話になるような日本でなければ、国際国家とは言えません。

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★5月27日 
Sunday, May 27, 2012, 03:59 PM
京都の木屋町通りといえば、そのすぐ西に池田屋があり、幕末には歴史に現れ、あるいは現れない数多くの殺傷事件があったところです。
いわゆる志士と、それを取り締まる方との争闘。それは文久、元治の数年間特に激しく、その結果は蛤御門の変、長州征伐、そして幕府の瓦解へと向かいました。
これは、尊王攘夷を軸とするスローガンと法治主義との争いであったと思っていますが、本当は、当時、そんなことをしている時だったのか、と思われてきます。

それというのも先日来青森に出張して、当時の北方の情勢に改めて目が開かれたからです。

岡本監輔は、ロシアの南下が激しいその時、京都何ぞで視野の狭い争いをしている時ではないと、樺太を探検。ロシア当局との交渉。明治に入ってからも続いた彼らの努力の結果、ようやく劣勢を盛り返して樺太・千島交換条約にまでこぎつけたというわけ。

田沼意次以来の北方への関心がより本格的になされていれば、今の北方領土問題どころか、樺太、千島あるいはカムチャッカまで、日本のものになっていたでしょう。むしろ北海道を日本のものにしてくれた田沼こそ偉いというべきで、ロシアがシベリアを我がものとし、アメリカがアラスカをロシアから買って自分のものとしても、一応、侵略とは言われていません。樺太が、今やエネルギーで巨大に潤いつつあることを考えるとこの損失は数字ではかれません。
我が国とてロシアらに勝ることができたのに、田沼意次の芽を摘んだのは、彼の政敵で、でありながら彼に賄賂を贈ったともいわれるコチコチの観念論者・松平定信でした。

岡本らの努力、そして強力な外国に対して騙し騙し対応していた幕府の足を引っ張り、会津藩などの北方への配置をさせないようにしたのは、定信の後継者ともいうべき尊王攘夷の観念論者です。しかも尊王攘夷の元は尊華攘夷という外来思想であるとなれば、正に何をか言わんや。

改めて今の国情を見ても、こうした遠大な経綸を欠いた勢力が、本当に努力している人の足を引っ張っていることにむしろ義憤を覚えざるを得ない気がします。

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