Wednesday, January 11, 2012, 06:29 PM
12月末からヨーロッパに行ってきました。法律の故郷ボローニャを訪問し、イギリスの法学者、経済学者にして哲学者・ベンサムのミイラに会ってくることが目的でした。いずれも正に感動的な「出会い」でした。ボローニャ大学の本部跡にはヨーロッパじゅうからやって来た留学生の家紋?みたいなものが貼ってあります。そして、解剖を行った階段教室が残されています。
世界最古の大学の面目躍如であるとともに、のちのオランダーの解剖、更には日本の解体新書の元もここにあったか、と思わせるものでした。現に、解剖教室の正面には、皮を剥がれた二人の人体が、まさに解体新書の表紙然として立っていました。
ベンサムやミルらの最大多数の最大幸福の考えは多くの人に知られています。
ベンサムはこの考えを推し進め、自分が死んだあとは献体してそのミイラを大学に残すことを遺言しました。
ロンドン大学に着き、受付に聞いてみましたが知りません。何人もの人に聞いて、やっとご対面。ちょうど、バングラデシュからの旅行者もお目当てで来ていました。
イギリスというと、オックスフォード、ケンブリッジとなり、ロンドン大学はさほどの評価を得ていません。しかし、それこそが最大多数の最大幸福を標榜したベンサムの考えというわけです。
ちょうど、ロンドン博物館ではディッケンズの特別展をやっていましたが、彼が描いたような暗く重たいイギリスを活力ある社会に変えたのがベンサムらの発想であるような気がします。
明治の初めには力を持ったベンサムらの考えも、ドイツ法が大きな力を持つようになると下火となりました。
今の日本に必要はないのか。いや、今こそ必要ではないかという気がしています。
| このエントリーのURL
Sunday, December 25, 2011, 10:38 PM
先日の昼食会で自然に口に出てきたのは、日本は文化人類学が政策に生きなかったからおかしなことになった、というものでした。これは直接的には戦前の戦争のことを言ったのですが(イギリスやアメリカの文化人類学が政策に生きたことは周知でしょう)、現在の会社経営にもいえるでしょう。特に輸出企業に。で、戦前、なぜ政策に生きなかったかというと、日本が民主主義国でなかったというのが最大の原因のように思います。前回書いたように、空の上から降りてきた、とうことが国家の基軸国(明治憲法制定時の枢密院の会議。古い!)では、それを当然否定する文化人類学が採用されるはずがありません。
なのに、坂の上がどうしたとか言って気持ちよくなっているようでは、日本人は進歩しません。
| このエントリーのURL
Saturday, December 17, 2011, 09:50 PM
家のそばにマンションができるというので、遺跡の発掘が行われたのは数年前でした。漢の時代の鏡が出てきたのも面白かったですが、かまどの跡も印象深いものでした。で、トルコの遺跡発掘の報告会に参加。
そこでは4000年も昔のかまどの跡が。しかも2000年前の日本と同じスタイル。こういうことは色々なところで見ます。
フランクフルトの北、ザールブルグで見た石臼が日本の今のとそっくりだったこと、石斧なんぞが太平洋から中央アジア、イギリスまで一緒だったことなどなど。
人類の文化というものは、相当早くに始まって、相当広くに早いスピードで伝播していたみたいです。
ところが未だに、2600年前の数代前に空から降りてきた・・・みたいな話を基本にして国家作りをするような性向が、我々の中にないとはいえません。
このあたり、鍋島直茂の「実」の発想で考えることが、やはり必要な気がします。
| このエントリーのURL
Sunday, December 11, 2011, 09:37 PM
たまたまテレビで、先日国王ご夫妻がおいでになったブータンのレポートをやっていたので観ていたら、学校で文殊菩薩にお祈りをする場面が。なるほどね。チベット仏教、つまりはモンゴル仏教の満州族と同じだわと、中国をぐるっと巡る大きな輪に改めて感動しました。満州族の首長は文殊として周囲を服属させたわけで、何百年いや、千数百年の歴史は今も生きづいているなと。
因みにこのブータンは、軍事、外交をインドに依存しているそうで、私が時々行く北マリアナ連邦と同じです。
ここでも、ボーダーに生きる人達の厳しさというか知恵というか、いや、残念さというか、何とも言えないものを感じます。
もっとも、かく言う日本自体がそういう立場にあるとも言え、それならそれなりに知恵を出すことが絶対に求められていると思います。
| このエントリーのURL
Wednesday, November 30, 2011, 12:48 PM
鹿児島に出張すると、空港の売店の片隅に置いてある本を見る(買う)のが楽しみです。さすが鹿児島県は大きいだけに、維新の元勲にも容赦しない人がいて、ホントのことを伝える本が置いてあったりします。物事の進歩はこうじゃなきゃいけないと思います。明治維新が素晴らしいということは、日本人の共通認識みたいなところがありますが、維新という言葉自体、旧体制と変わらないことを前提としているとおり、そんなにすごいの?ともいえるし、もっと良く内容をチェックしてみれば、随分ひどい話だね、ということもあります。
例えば、破約攘夷を叫んだ志士の手紙などを読んでみれば、その神がかり的なことには、ウーんと唸らざるを得なません。先日読んだ水戸藩・諸生党の「忠が不忠になるぞ悲しき」なんぞ読んでみると、つくづくそんなことが思われます。そんな志士も、高杉晋作のように上海にでも行ってくれば、列強の動きを見て目が開かれ、微妙に行動が変化します。だから、広い視野が必要。
しかし、このエネルギーが明治維新を成し遂げたことは事実で、憲法学者の穂積八束が、東大退官の折に、水府の史論が維新を成し遂げたと言ったのは正しいでしょう。だから水戸黄門は徳川の藩屏でありながら正一位を授けられた。
でも、それが中国からのいただき物の発想であることは、この博物館の本文に書いたとおりです。
ですから、今の維新持ち上げも、いただき物文化の、しかも神がかりになる危険は十分あるわけで、そこの検証と、真の日本の発見なり確立を欠いたオペレーションは、世界の中の奇妙国を現出させることになるでしょう。
本当の日本とは何かを政党に関係なく勉強することが必要かと思います。
| このエントリーのURL
Friday, November 25, 2011, 05:27 PM
久しぶりに横浜へ行き、ビルの上からは鏡のように凪いだ横浜港と三つの塔、キング、クイーン、ジャックが見えました。横浜の人はみんな知っている?キングは県庁、クイーンは税関、ジャックは市政の記念館です。
この3つの塔、クイーンはイスラム的なイスタンブールを思い出すような塔。ジャックはイギリスか。そしてキングは、いわゆる興亜式というもので、愛知県庁などと同じです。
興亜式は、中国の長春に今もたくさん残っていて、要するに西洋と東洋をミックスしたものですが、成功したとは思えません。
神奈川県庁の仲間の九段会館は、長春では関東軍司令部。今は共産党委員会。横浜の裁判所のそっくりさんは長春ではやっぱり昔は法院。今は医科大学です。
いずれも何となく威圧的で、とって付けたような東洋趣味。
今の日本の目に見えない様々な制度の導入が、同じ傾向では困ると思うのです。分かりやすい話し、裁判員制度とやらは、西洋の大陸型とアングロサクソン型をミックスさせて日本に持ってきた、これはやっぱりおかしい。
ここでも、真の日本を探せなかった一例がみられると思います。
| このエントリーのURL
Monday, November 21, 2011, 11:04 PM
中華学校の成果発表会に参加しました。台湾主体ですが、欧米を含めた色々なところからの人が参加していて面白かったです。
特に、孝順の大きな文字があったのには、このアジア社会の持つ強固な一観念を見る思いがしました。
そして、実は日本もこの大きな枠の下にいながら、それを意識していないということ、また、中国などでは、あれほど強烈に年長者に席を譲ってくれる文化を持ちながら、孝順の根本的根拠、否、法的根拠ともいって良い孝経を意識しなくなっていることに、一種文化人類学の遺跡のような、我々のこの頭の中の痕跡が消え去ろうとしているという危うさを感じました。
頭に染み込んだものは、建物などの物質より強く残るといつもいう私の見解からは矛盾ですが、ここのところ、我々アジア人自身が、欧米の文化により、アジア人とは何か、その根拠とは何かを忘れてしまうのは、それを残すにしろ棄てるにしろ、正しい方向を模索するには、あまり良くない傾向ではないかと思っています。
| このエントリーのURL
Sunday, November 13, 2011, 09:53 PM
「あらゆる民族は、それぞれ人類の構成部分にすぎないから、一民族の歴史は常に人類の歴史(世界史)の構成部分の一つである。従って、民族の歴史を書くとき、全人類的な側面を見逃して孤立したものとして扱ってはならない。」とは革命前のロシアの歴史家 こE.Fシュムルロの述べるところですが、正に同感。65年前の終戦後、学校ではようやく本格的な世界史という授業が始まったそうで、我々には当たり前の「世界史」という授業は、実は昔からのものではないのです。
そんなことを考えているところに、先日、ある官僚OBの方と学生とで杯をかたむける機会がありました。そこで、この激動ともいえる時代の今後は、どうあらねばならないか、というような話になって・・・
私は、ギリシャ文明の思考方法の徹底か、その廃棄(ということはないと信じていますが)か・・・ってなことを考え、あるいは言ったのですが(というのはギリシャ文明は例えば仏教という形でも我が国に到達し、いわば思考の根幹を支配しているから。仏教はインドと、ギリシャと中国の文明の混合物)、そのすぐあと、別の席で、ある米国人は、アメリカが憲法無視で、裁判なく自国民を殺したことを、ギリシャから文明は始まって、ローマに行くと皇帝政治になった。イギリスで生まれた民主主義国の仕組みも、アメリカで専制的になった、なんて言ってました。
ここでも、文明の伝播をいう人がいたわけですが、もうちょっと大きく考えてもいいかなと思います。
| このエントリーのURL
Monday, November 7, 2011, 08:45 PM
伊万里市に残る川南造船所跡地を視察してきました。戦前、戦中、川南豊作氏によってつくられ、敗戦間近には特攻兵器海龍を製造していたところです。その実態にはわからないところが多々ありますが、海龍は人間魚雷回天をより強力にしたものといってよいかもしれません。頭部に爆薬を装着する以外に魚雷を抱き、翼をつけて操作性をあげたもののようです。
ここでも海軍は、兵器というものの範疇を超えたものをつくりました。
先にも書いたとおり、ご町内での食事仲間にして同じ大学の講師仲間、そして東条英機の弁護人で衆議院議長・清瀬一郎さん(ここまで説明しなけりゃいけなくなった時代が悲しい)の息子、清瀬信次郎先生は、「海軍はね、毎日海を見ているのでおかしくなっちゃうんですよ」と言われていたことが思い出されます。
しかし、そのことと関連はしますがそれだけではない原因もあります。
海龍の土手っ腹には菊水のマークが入っていました。言わずとしれた(知れないか)楠正成のマーク。遡れば水戸黄門の趣味です。その趣味は「黄門」という中納言の中国式表記からわかるとおりの中国趣味。にもかかわらず尊王攘夷という、結局外国からのいただきものの価値観から脱皮できていないのに外国を排するいう矛盾したものです(木村三浩氏がいう、拝することと排することの同居!!)。
楠正成についても、わざわざ楠公などと称する。
その菊水をつけて排外をするという究極の矛盾。それに携わることになった人々の悲劇は、理解してみばみるほどかわいそうです。メカの話し以前の思考なり、政策なりのメカが狂っている。
だから我々はちゃんと勉強して、そういう矛盾の中で生活するようなことがないようにする。それこそがこういった「遺跡」を残す意味だと思うのですが、その議論に参加しておられた大学の先生らの議論は、恐縮ながら、どうにも底の浅いものとしかみえませんでした。幾人かは以前、お会いもしましたが。
結局、今月終わりから壊し始めるそうです。
| このエントリーのURL
Friday, October 28, 2011, 05:31 PM
その会津若松の松平家墓所は、極めて広大なものです。しかも、それは誰が何と言おうと中国式です。大きく造るということ自体が中国式ともいえます。では、他の式はというと、端的な話、鍋島直茂式です。それは、小さくてよいから敵方に向けよ、というもの。そうしておけば、万一敵が攻めてきた時、殿様の墓が敵に蹴散らされては大変と、家来が頑張るだろうから、という「戦略」あってのもの。
私はこれはすごいと思います。
しかも、そこに、ある国際性も感じます。
ユーラシア大陸のモンゴル、ツングースなど騎馬民族は、常に移動していました(ツングースは一応定住的)。彼らはモンゴル、あるいはチベットの仏教を尊崇していましたが、移動する民族ですから大きな寺は造れません。もちろんウランバートルなどにそれなりの大きさの寺はありますが。
で、普段はどうしたかというと、石を小さな山状に積んで、それをお寺の代わりにしたというわけです。
満州族が関内つまり万里の長城以南を支配するようになってから、彼らは承徳などに豪華な離宮を営むことになりますが、そこにも上記のような小山は残してあります。
しかし、大きいことはいいことだ、の考えに取り込まれてしまった時、遂に清朝は滅びました。正に100年前のことです。
同じことは、清朝だけでなく、その他多くの王朝にも、ついでに会社にもいえるのではないかと思っています。
| このエントリーのURL
戻る 進む