★3月29日 
Tuesday, March 29, 2011, 10:29 PM
 私が小学生の時、台湾から手紙が来たことは以前も記しました。以後、そのホーさんと長い間文通が続きました。
 そして、1987年、戒厳令が解除されたあと、我々は台北の駅で初めて会いました。

 そのあと、彼が連れて行ってくれたのが、台湾東部の原住民の部落です。そこのタイヤル族の人達は、実にきれいな日本語を話します。
 ジャングル戦が得意だった彼らは、戦争中、フィリピン、バターン半島の戦闘に参加。多くの人が死亡しました。
 そんな彼らが、その折り、正に「鬼畜米英」というのです。
 私は、その場で土下座したくなったことを忘れることができません。
 いわゆる「親日」は、そこでは半端じゃないのです。

 一方、その近くに、外省人の部落がありました。そこには、ある日本人が国民党の軍隊の一員として進駐。そのまま台湾人になっていました。
 その人は、元は日本の軍人。軍隊内で、ここで書くのもはばかられる事件があって、脱走。国府軍に身を投じ、中国の軍人として台湾に進駐し、余生を送っていたのです。
 それを、同行したTさんが根掘り葉掘り調べ始めると、辺りには不穏な空気がただよい始めました。
 やっとのことでそこを脱出。その数奇な運命の人も既に亡くなったそうです。
 私は、こうした人々全ての幸福に反することをしたくはないと切に思います。政治とはかくあるべしと。



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★3月28日 
Monday, March 28, 2011, 09:28 PM
 それにしても地震のすぐあと、色々なところからお見舞いの連絡をいただきましたが、いの一番は台湾からの電話でした。そしてメールも。今日も来ました。
 同様に中国からも電話やメールをいただきました。
 台湾での募金は莫大だそうで、いただいた電話でも、「こちらには、食べるものはたくさんあるから、早くいらっしゃい」とか。
 広く言えば中華世界の義理堅さ・・・。

 ただ私は、こうしたことを単純には喜べません。そんなにまで日本を・・・と思ってしまうのです。

 特に台湾という重層社会における複雑な過去、複雑な人間関係、更に、電話をくれた中国人の家系における古くからの日本との関係(大正時代の軍閥と日本との関係)を思うと、こんなに多様な人類が、みんな幸せになれるとよいな、と思ってしまいます。


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★3月27日 
Sunday, March 27, 2011, 09:42 PM
 このところ1カ月くらいブログの更新がないので、会う人から時々どうしたんです か?と聞かれます。
 特にどうとかはないのですが、世の変わり方にウーンとうなっているというか・・・。
 一昨日も昔の仲間や先輩の元高裁長官とお酒を飲んで、最近の法律改正(悪?、特に会社法関係や倒産関係)はおかしいよ、という話で意見一致。しかし、おかしくはない、というのが世の中の一応のトレンドなもので、何とも書けなくなってしまった次第。

 上記お酒飲みの前には、検察審査会の強制起訴の話が、ある会での話題に。
 これもどうみても変。別に小沢氏を支持しているわけではないけれど。
 要は、この改正(?)も、「民意の反映はよい」、というごく単純な、逆に身分差別的発想から生まれたもの。
 ここ数年、そういう考え方が郵政民営化から始まって、まるで英米との開戦時のように、ムードで広まってしまった・・・。
 そこへ降ってきたのが未曾有の地震・津波。

 あの日は、事務所から家まで22、3キロを4時間半かけて歩きました。昔、1里1時間と言っていましたから、体調の方は問題ないようです。

 被災された方々には心からお悔やみ申し上げますが、これを機に我が国もしっかりして欲しい・・・と思っていたところ、初めの方こそよかったのですが、段々と私の嫌いな英雄作りになる傾向が。あるいは日本はすごいとか。

 改めてこれは何か。この博物館にも書いた史記ばりのお話歴史病か。
 いや、ひょっとすると、アメリカのまねとしての人工国家性か、とも思います。

 初めてワシントンDC郊外のアーリントン墓地を訪ねた際、爆発したスペースシャトルの乗組員が正に神様扱いされて統合の象徴になっている姿に、強い違和感を覚えたものでしたが、そんな傾向にも似ているのかな、と思います。

 国民を統合するにはお話や、名君待望やではなく、システムが大事、ということを、ボーダーに生きる人々である台湾や、マリアナや、最近ではアルザスやらの人々を見て思うのですが、何とかそういうふうにならないのかな、いや、そうなるには日本は大国過ぎるのか、でも、これからはどうかわからないけど・・・なんて思っています。

 それにしても、今回の地震のあとのメディアには、これまた見る気が起きません。
 特に新聞はひどい。一般紙もとうの昔にタブロイド紙なみに成り下がり?センセーショナルだけが売り物。号外を出してみたり、まるで狼少年。
 売れない新聞は益々信用をなくし、自らの首を締めているだけでしょう。

 淡々と事実を伝えるテレビが意外によかったですが、これも、ゆとり?が出てくるにつれ、要は英雄レポートに。
 結局、株の報道が一番まともに将来を予見していそうだと思っています。



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★2月27日 
Monday, February 28, 2011, 12:08 AM
 アメリカ人のAさんは、お正月に函館に行って来たとか。五稜郭が面白かったというので、長野県にも同じ西洋式の城がありますし、東京のお台場も同じ発想ですよ、と教えてあげたら、是非見てみたいとのこと。

 お台場は周りを土手で囲った五稜郭と同様の西洋式の保塁でしょう。ただ、海の中にあるのが奇異かもしれませんね。
 私はお台場研究をやったわけではありませんから、ただの思いつきですが、昔はあれが品川の方まで延びていたようで、明らかに先手必勝とばかりに打ち寄せる外的を手前でたたこうとの戦術。
 とまあ、言ってしまえば格好はいいですが、そもそもそれができる20年くらい昔、中国ではアヘン戦争がありました。そして、揚子江に浮かんだイギリスの軍艦が南京を射程に捉えたとき、清国は自国の砲との射程差に、白旗を上げざるを得なかったようです。
 となれば、下の方に書いたとおり、お粗末な砲しか持っていなかった幕府は、射程を稼ぐために台場を前に造ったということではないでしょうか。

 同じことは、昔、軍艦島と言われたサイパンのマニャガハ島にも言えます。
 「以前の掲示板」にその写真が貼ってあるとおり、その島の大砲は明治時代の代物。火力の弱さを自分が進出しておくことで稼ぎ、一発撃ったまではよいけれど、場所がわかればマニャガハは、木っ端微塵にやっつけられてしまう。
 そうなると、江戸時代も昭和も、発想は同じ特攻精神となる。
 うーん、これではいけない。何とかこの精神構造を転換させないと、日本は勝てない。そんなことを電車の中でつらつら思いました。
 
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★2月12日 
Saturday, February 12, 2011, 09:58 PM
 連休なので、少しゆっくりテレビをみました。
 一つはベトナム戦争を扱ったディスカバリーチャンネルでした(この番組のあとは、大いに仲良し?だった零戦のエース坂井三郎さんたちの番組)。
 ああそうだったなー、と思うことがたくさんありました。
 私はあのとき、多くの世論に抗して断固南ベトナム支持でした。ゴ・ジンジエムは許せませんが、北ベトナムには自由がないからです。そのこともはっきり番組に出ていました。

 ところが最近は、あの時代に北やベトコンを支持していた連中が自民にしろ民主にしろ政権党なり政権をとったら、リベラルかと思いきや、自由がなくなっていること著しいと思います。このことは民主だけではありません。自民党の元ゲバ学生も同じです。

 まるでこれでは、最近の日本は北ベトナム化です。元が左翼の連中ですから当たり前??。
 
 というのも、もうひとつみたエジプトの映像。ムバラクさんも遂に退陣となったわけですが、あれを起こすのに、群衆はエジプトの国旗を盛んに打ち振っていました。
 今の日本であんなことが起きるでしょうか。旗にも国歌にもそんな力はありません。

 
 日本の国力の低下が言われていますが、みんながまとまれる、本当の意味の統合の象徴、中世でいえば一味同心のシンボルを欠いていることも大きいのではないか、と思われてきます。
 皇族の最長老A殿下は、かつて、君が代は天皇歌とし、もっとみんなが歌える歌をと提唱されましたが、味あうべきお言葉ではないかと思います。

 ベトナムのその後はボートピープルなどを出したあと、今は経済発展が一応の印象でしょうが、本当にこれからも伸びていけるのか。かつて、友人のベトナム人の案内で、ホーチミンにある旧大統領官邸を訪ねた折り、同行のBさんが、ちょっと政権批判を言ったとたん、ガイド役のお姉さんから厳しく咎められました。
 シンガポールが明るい北朝鮮と呼ばれているように、自由がないのはアジアの御家芸?なのか。
 それとも、真の自由によって国家を組み立て、経済的にも発展していくという能力があるのか、エジプトにしてもアジアにしても、世界からそのあたりを試されている時代なのかもしれません。


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★2月7日 
Monday, February 7, 2011, 09:38 PM
 韓国の企業が好調です。サムスンなど、20年以上前にソウルでその法務担当の弁護士と交歓会をしましたが、英語はみんな話すし、頭がいいな、と感心しました。

 それで、どうしてあの国が好調か、儒教との関係で考えてみました。ひところ儒教国家が好調という話がありましたが、ことはそんなに単純じゃない。
 
 全くの感想ですが、私は韓国の儒教が法的効力を持っていたことが大きいのではないかと思います。それは逆説的です。明治時代の始めはそれが余りにも堅すぎで、蹉跌を招きましたが、今は、法的なストリクトさを持っているからこそ、その修正も法的にできつつあるということです。
 
 日本の儒教は不徹底で情緒的なので、切り替えが難しい。要は親に孝行のレベルでしかないので、その毒を抜くことができない。
 ここの部分は極めて重大な問題と思っています。



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★1月28日 
Friday, January 28, 2011, 10:40 PM
お正月にいただいた年賀状の1枚が、ふとした縁からチュニジアからのものでした。返事を書かなくちゃと思っているうちに、もうすぐ1月も終わりそうです。そして、そんな間に例のクーデターが起きました。心配です。
クーデターの原因には、さまざまな格差があるようですが、分かるような気がします。
中東の某イスラム教国で電車に乗った折り、車内にほとんど女性がいないのには驚きました。正に優等生のその国にしてからがそんな感じ。
もちろん一律に論じるわけにはいきません。よく問題にされるイランなども、その民主制については私は信頼しています(友人のイラン人を通じて)。
ところでチュニジアといえばカルタゴのハンニバル。ご縁というのも武士道を通じてのもので、かの国の人も武士道には大いに関心があるのには驚きました。
しかし、やはり正確な認識をもとにして論じあえるのが一番です。
事態が正常化され、大いに参考になる意見交換ができるようになることを祈っています。


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★1月20日 
Thursday, January 20, 2011, 11:36 PM
 大手流通業の中国成都にあるスーパー(というよりデパート)のどう事長つまり会長をしている同窓のS君から、彼らの奮闘の歴史を記した本(ダイヤモンド社刊)を送ってもらいました。
 一読正にビジネスの原点を見る思いがしました。
 私も7、8年前、その店舗を訪れましたが、カルフール、ウオルマートといった欧米の店舗とは全く違います。正に日本のスーパー以上のきれいな店舗で、キャシャーさんは最敬礼。その接客のよさは日本をしのぐほどです。
 そこまで来るのにこれほどの努力があったのかと、聞いてはいたものの改めて関心しました。
 反日デモも地震も、逆にそれがバネになって売上の向上につながっていきます。中国特有の引き抜きも自然になくなるような労務政策。
 本当の日本のよさを徹底的に浸透させて中国の顧客の心をつかむ。進出した日本企業で最も成功した例といわれるゆえんです。単純な言い方をすれば誠心誠意とかいうことになるのかもしれませんが、それだけでなもちろんない。知恵があります。お客さんは来てはくれないもの、という原点から出発している覚悟(あるいはこれが知恵)もあります。
 競争相手がどんどん脱落していく中で躍進を続けている同社の今後に注目したいと思います。
 もちろんテレビや新聞にも最近はずいぶん取り上げられるようになりましたが、こうしたことについての報道は全くおそまつ。私が訪問した時点でも成都の発展ぶりは半端ではなかったのに、沿海部はいいけど内陸部はだめとか、一体、記者はどこを見ているんでしょうか。
 孫子じゃありませんが、彼を知り己を知れば、といった基本が全くできていないのが日本の大部分の報道機関でしょう。外務省もまたしかり。一体、どの程度の諜報活動をしているのやら、誠に寒心に耐えません。
 みなみに、上記流通業の出店には伊藤忠という現中国大使の出身母体がからんでいるわけで、やっぱり商社の方が外務省より上かいな、と思われてもきます。



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★1月14日 
Friday, January 14, 2011, 11:16 PM
 以前から、洋の東西は正につながっているという思いしきりです(当たり前)。
 そのことを思ったのがドイツのザールブルグにあるローマ時代のとりででした。北からのライン川、東からのドナウ川、それらの間に川の空白地帯があります(今は、運河で黒海と北海、地中海はつながっているはずですが)。それが黒森です。
 かのゲルマン民族大移動のころ、川という障壁のないここを突破されると、ローマ人の押さえるガリアは危なくなりました。それで、ローマ人は二つの川の間に長城をおいたわけです。そして、たくさんのとりでを造りました。その一つがフランクフルトの北20キロメートルばかりのところにあって、世界遺産になっています。深い雪の中をたずねてみました。
 たまたまバスの中で知り合ったドイツ人の老夫婦と一緒に、復元された建物内の資料館を巡ってみて、まず驚いたのは起源0年ころの石臼。私が子供のころ、佐賀の田舎にあったのと全く同じ。ドイツの元先生という紳士もこれはぐるぐる回してパウダーを作るんですよと。
 そして外へ出てみると、その堀の形にまたびっくり。九州の吉野ケ里遺跡と正に同じです。
 エルベ川以東はアジアだ、とは何冊かの本で読みましたが、誠にもってその通りだな、と深く感じた次第で、そのことは、戦争をはじめとする人間の行動パターンの相当な要素になっているように思いました。
 そういえば、何かとドイツが好きな日本人。
 我々の世界でも、裁判員なる言葉を発明?されたというA教授は、アメリカと、(やっぱり)ドイツをミックスしたような本を書かれています。その制度自体そうです。
 正にこうした発想は「血」か!!とつくずく思うところでもありましたが、そこから列車で南に下ったフランスのアルザス地方、コルマールでは、ドイツ語で書いた「自由、平等、博愛」、そして人権宣言。
 人間にとって大切なものは、血ではない。政治制度であると考えた人達の跡を見て、再び熱いものを感じました。
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★1月9日 
Sunday, January 9, 2011, 11:09 PM
謹賀新年

 この間色々なアクシデントもありましたが、年末からの休みはヨーロッパの6つの都市を回りました。行政法の発祥の地とその伝播先へということです。

 電車に並ぶということは全くなく、中国とちっとも変わらんなー(つまり、ユーラシア大陸はやっぱりつながっている。この経験は枚挙にいとまなし)、とか、街中で、前から歩いてきた男性がサッと手袋の中から紙片を出し、私の後から歩いてきた人物にすれ違いざまにそれを渡すとか(恐ろしい)、随分変な経験もしました。
その中でオーソドックスだった見聞談。

 パリのアンバリッド。ルイ14世が造った廃兵院と呼ばれるもので、ナポレオンの墓があることでも有名です。
 2度目の訪問ですが、その前庭に、フランスが諸外国から分捕ってきた大砲が並んでいて、中には下関の長州藩からのそれもあるというので見に行きました

 早速発見。
 というよりも、その手前にあったのが中国・清の道光帝時代のもの。その次が、
それより若干大きな長州のもの。毛利家の紋が入っていました。そして、その次が、一回り大きな上にアラビアかトルコの文字が彫られたもの。
 あれはどうみてもオスマントルコのそれです(ちなみにトルコのブルーモスクの柱の大きさは、同時代のバチカン・サンピエトロ寺院よりも太い)。
 うーん、と、うならざるを得ませんでした。
 瀕死の病人と言われたオスマントルコよりもはるかに小さな大砲で、江戸末期から明治始めはアジアでは通用し、それをもとに日本にしろ清にしろ、この東アジアを分割しようとしたのかと。
 その発想自体が西欧のまねであるばかりか、それに用いた道具のお粗末さ。

 アジア人はもっと違った発想で人類に貢献できないのかね、と、つくづく思いますし、これからだって絶対何とかなると思います。
 勉強と自己反省を怠らなければ。

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