Saturday, February 12, 2011, 09:58 PM
連休なので、少しゆっくりテレビをみました。一つはベトナム戦争を扱ったディスカバリーチャンネルでした(この番組のあとは、大いに仲良し?だった零戦のエース坂井三郎さんたちの番組)。
ああそうだったなー、と思うことがたくさんありました。
私はあのとき、多くの世論に抗して断固南ベトナム支持でした。ゴ・ジンジエムは許せませんが、北ベトナムには自由がないからです。そのこともはっきり番組に出ていました。
ところが最近は、あの時代に北やベトコンを支持していた連中が自民にしろ民主にしろ政権党なり政権をとったら、リベラルかと思いきや、自由がなくなっていること著しいと思います。このことは民主だけではありません。自民党の元ゲバ学生も同じです。
まるでこれでは、最近の日本は北ベトナム化です。元が左翼の連中ですから当たり前??。
というのも、もうひとつみたエジプトの映像。ムバラクさんも遂に退陣となったわけですが、あれを起こすのに、群衆はエジプトの国旗を盛んに打ち振っていました。
今の日本であんなことが起きるでしょうか。旗にも国歌にもそんな力はありません。
日本の国力の低下が言われていますが、みんながまとまれる、本当の意味の統合の象徴、中世でいえば一味同心のシンボルを欠いていることも大きいのではないか、と思われてきます。
皇族の最長老A殿下は、かつて、君が代は天皇歌とし、もっとみんなが歌える歌をと提唱されましたが、味あうべきお言葉ではないかと思います。
ベトナムのその後はボートピープルなどを出したあと、今は経済発展が一応の印象でしょうが、本当にこれからも伸びていけるのか。かつて、友人のベトナム人の案内で、ホーチミンにある旧大統領官邸を訪ねた折り、同行のBさんが、ちょっと政権批判を言ったとたん、ガイド役のお姉さんから厳しく咎められました。
シンガポールが明るい北朝鮮と呼ばれているように、自由がないのはアジアの御家芸?なのか。
それとも、真の自由によって国家を組み立て、経済的にも発展していくという能力があるのか、エジプトにしてもアジアにしても、世界からそのあたりを試されている時代なのかもしれません。
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Monday, February 7, 2011, 09:38 PM
韓国の企業が好調です。サムスンなど、20年以上前にソウルでその法務担当の弁護士と交歓会をしましたが、英語はみんな話すし、頭がいいな、と感心しました。それで、どうしてあの国が好調か、儒教との関係で考えてみました。ひところ儒教国家が好調という話がありましたが、ことはそんなに単純じゃない。
全くの感想ですが、私は韓国の儒教が法的効力を持っていたことが大きいのではないかと思います。それは逆説的です。明治時代の始めはそれが余りにも堅すぎで、蹉跌を招きましたが、今は、法的なストリクトさを持っているからこそ、その修正も法的にできつつあるということです。
日本の儒教は不徹底で情緒的なので、切り替えが難しい。要は親に孝行のレベルでしかないので、その毒を抜くことができない。
ここの部分は極めて重大な問題と思っています。
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Friday, January 28, 2011, 10:40 PM
お正月にいただいた年賀状の1枚が、ふとした縁からチュニジアからのものでした。返事を書かなくちゃと思っているうちに、もうすぐ1月も終わりそうです。そして、そんな間に例のクーデターが起きました。心配です。クーデターの原因には、さまざまな格差があるようですが、分かるような気がします。
中東の某イスラム教国で電車に乗った折り、車内にほとんど女性がいないのには驚きました。正に優等生のその国にしてからがそんな感じ。
もちろん一律に論じるわけにはいきません。よく問題にされるイランなども、その民主制については私は信頼しています(友人のイラン人を通じて)。
ところでチュニジアといえばカルタゴのハンニバル。ご縁というのも武士道を通じてのもので、かの国の人も武士道には大いに関心があるのには驚きました。
しかし、やはり正確な認識をもとにして論じあえるのが一番です。
事態が正常化され、大いに参考になる意見交換ができるようになることを祈っています。
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Thursday, January 20, 2011, 11:36 PM
大手流通業の中国成都にあるスーパー(というよりデパート)のどう事長つまり会長をしている同窓のS君から、彼らの奮闘の歴史を記した本(ダイヤモンド社刊)を送ってもらいました。一読正にビジネスの原点を見る思いがしました。
私も7、8年前、その店舗を訪れましたが、カルフール、ウオルマートといった欧米の店舗とは全く違います。正に日本のスーパー以上のきれいな店舗で、キャシャーさんは最敬礼。その接客のよさは日本をしのぐほどです。
そこまで来るのにこれほどの努力があったのかと、聞いてはいたものの改めて関心しました。
反日デモも地震も、逆にそれがバネになって売上の向上につながっていきます。中国特有の引き抜きも自然になくなるような労務政策。
本当の日本のよさを徹底的に浸透させて中国の顧客の心をつかむ。進出した日本企業で最も成功した例といわれるゆえんです。単純な言い方をすれば誠心誠意とかいうことになるのかもしれませんが、それだけでなもちろんない。知恵があります。お客さんは来てはくれないもの、という原点から出発している覚悟(あるいはこれが知恵)もあります。
競争相手がどんどん脱落していく中で躍進を続けている同社の今後に注目したいと思います。
もちろんテレビや新聞にも最近はずいぶん取り上げられるようになりましたが、こうしたことについての報道は全くおそまつ。私が訪問した時点でも成都の発展ぶりは半端ではなかったのに、沿海部はいいけど内陸部はだめとか、一体、記者はどこを見ているんでしょうか。
孫子じゃありませんが、彼を知り己を知れば、といった基本が全くできていないのが日本の大部分の報道機関でしょう。外務省もまたしかり。一体、どの程度の諜報活動をしているのやら、誠に寒心に耐えません。
みなみに、上記流通業の出店には伊藤忠という現中国大使の出身母体がからんでいるわけで、やっぱり商社の方が外務省より上かいな、と思われてもきます。
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Friday, January 14, 2011, 11:16 PM
以前から、洋の東西は正につながっているという思いしきりです(当たり前)。そのことを思ったのがドイツのザールブルグにあるローマ時代のとりででした。北からのライン川、東からのドナウ川、それらの間に川の空白地帯があります(今は、運河で黒海と北海、地中海はつながっているはずですが)。それが黒森です。
かのゲルマン民族大移動のころ、川という障壁のないここを突破されると、ローマ人の押さえるガリアは危なくなりました。それで、ローマ人は二つの川の間に長城をおいたわけです。そして、たくさんのとりでを造りました。その一つがフランクフルトの北20キロメートルばかりのところにあって、世界遺産になっています。深い雪の中をたずねてみました。
たまたまバスの中で知り合ったドイツ人の老夫婦と一緒に、復元された建物内の資料館を巡ってみて、まず驚いたのは起源0年ころの石臼。私が子供のころ、佐賀の田舎にあったのと全く同じ。ドイツの元先生という紳士もこれはぐるぐる回してパウダーを作るんですよと。
そして外へ出てみると、その堀の形にまたびっくり。九州の吉野ケ里遺跡と正に同じです。
エルベ川以東はアジアだ、とは何冊かの本で読みましたが、誠にもってその通りだな、と深く感じた次第で、そのことは、戦争をはじめとする人間の行動パターンの相当な要素になっているように思いました。
そういえば、何かとドイツが好きな日本人。
我々の世界でも、裁判員なる言葉を発明?されたというA教授は、アメリカと、(やっぱり)ドイツをミックスしたような本を書かれています。その制度自体そうです。
正にこうした発想は「血」か!!とつくずく思うところでもありましたが、そこから列車で南に下ったフランスのアルザス地方、コルマールでは、ドイツ語で書いた「自由、平等、博愛」、そして人権宣言。
人間にとって大切なものは、血ではない。政治制度であると考えた人達の跡を見て、再び熱いものを感じました。
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Sunday, January 9, 2011, 11:09 PM
謹賀新年この間色々なアクシデントもありましたが、年末からの休みはヨーロッパの6つの都市を回りました。行政法の発祥の地とその伝播先へということです。
電車に並ぶということは全くなく、中国とちっとも変わらんなー(つまり、ユーラシア大陸はやっぱりつながっている。この経験は枚挙にいとまなし)、とか、街中で、前から歩いてきた男性がサッと手袋の中から紙片を出し、私の後から歩いてきた人物にすれ違いざまにそれを渡すとか(恐ろしい)、随分変な経験もしました。
その中でオーソドックスだった見聞談。
パリのアンバリッド。ルイ14世が造った廃兵院と呼ばれるもので、ナポレオンの墓があることでも有名です。
2度目の訪問ですが、その前庭に、フランスが諸外国から分捕ってきた大砲が並んでいて、中には下関の長州藩からのそれもあるというので見に行きました
。
早速発見。
というよりも、その手前にあったのが中国・清の道光帝時代のもの。その次が、
それより若干大きな長州のもの。毛利家の紋が入っていました。そして、その次が、一回り大きな上にアラビアかトルコの文字が彫られたもの。
あれはどうみてもオスマントルコのそれです(ちなみにトルコのブルーモスクの柱の大きさは、同時代のバチカン・サンピエトロ寺院よりも太い)。
うーん、と、うならざるを得ませんでした。
瀕死の病人と言われたオスマントルコよりもはるかに小さな大砲で、江戸末期から明治始めはアジアでは通用し、それをもとに日本にしろ清にしろ、この東アジアを分割しようとしたのかと。
その発想自体が西欧のまねであるばかりか、それに用いた道具のお粗末さ。
アジア人はもっと違った発想で人類に貢献できないのかね、と、つくづく思いますし、これからだって絶対何とかなると思います。
勉強と自己反省を怠らなければ。
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Wednesday, December 29, 2010, 12:00 AM
何年か前のお正月は、語学の勉強のために赤道近くの島国にホームステイしました。私よりも年上は2人だけ。私よりも若いパパ、ママの家にお世話になりました。小さな島ですが、複雑な過去を持ち、非常に勉強になりました。
私が初めて外国に出たのはグアムですが、あの時、友人がパンツのお尻を破ってしまい、デパートへ買い物に行ったときのタクシーの運転手さんの話に、強烈なショックを受けました。
彼は、うちのジャッジは大酒のみなんだ、と言ったのです。
私がショックを受けたのは、そういう情報を島民がちゃんと知っているということ。これは、その後何度も訪れることになるサイパンなども同じです。そこでは国民審査がしっかり機能していて、罷免された裁判官もいます。
最近、若者の外国離れが進んでいるとか。これは、わが国においては絶対にあってはならないことと思います。いくら近い外国でも、必ず得るものがあります。
そして、お酒のみでしょうがない、という言葉を、ああそうですか、で済ませてしまわない感度も大事でしょう。要はちゃんと仕事をすればいいんだよ、という考えが裏にあるのです。
外国を見ることは絶対に大事。まずはその意識を持つ若者、だけでなく成年も是非作らなければなりません。
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Saturday, December 25, 2010, 01:12 PM
日本人はどうしてこうも名君待望論や、その延長あるいは裏腹の、お話しを歴史と考える習性から抜けられないのかね(ちなみに為政者をけなすのも名君待望論の裏返し)、と、このごろの忙しい中で考えているうちに、ようやく読んだ「選択」の12月号。その編集後記に「龍馬ブームにようやく幕が下りると思ったらまた『坂の上の雲』が茶の間を賑わすという。政治も経済もお先真っ暗なご時世だ。『かつて日本人は偉大であった』そういう物語にでも光を求めないとやりきれない人が多いのだろう」と。正に同じことを考える人がいるものだなと思いました。その後ろの文章も、以下のとおりなかなかよいのですが、以上を読んで思い出したのが夏目漱石の講演「現代日本の開化」の中にあった、「外国人に対しておれの国には富士山があるというような馬鹿は今日余りいわないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います」という言葉。
名君や、金メダルや、日清、日露の戦勝に浮かれていた時勢に、漱石先生はやっぱりすごかったよな、と思われてきます。
およそお話にはウソがつきもの。例えば日本史の教科書にも載っている日本海海戦の東郷元帥らの場面、各参謀らが艦橋に勢揃いした場面ですが、現実の測距儀の大きさからしてもああいう場面はありえないし、人間がこぼれてしまう。しかし、こうしたお話で皆の気持ちを高揚させてきたわけでしょう。
そんなお話大好き国民、名君待望論国民にどうしてなったか、それこそが大事で、選択さんも、「選択を読んでいると暗くなる」という「ご意見」に対し、「カラ元気やユーフォリア(イタリア語で幸福感)ではなく、小誌ならではの『明るさ』もあるはずだ。聖域の中に巣くう闇を、地道に解明していく調査活動、事の本質を明確にし、・・・『これはけしからん』とふつふつと沸き上がる怒りの炎も、世を照らす一助となろう」と言われます。
正に、本質の解明が大事。それにより明日を切り開いていきたいものです。
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Sunday, December 12, 2010, 02:00 PM
ノーベル平和賞の受賞を見ていて、ボーダーラインに生きる民族のことを考えています。私の知る満族は、一部の例外を除いて厳しい人生を送っています。朝鮮族もまた、民族自体が厳しい歴史を背負っています。以前も書きましたが、戦前、吉林省の朝鮮族自治州へ出て行ったのは日本にプッシュアウトされたせい。なのに、戦後は「日本人」だからと迫害を受け、そこで、1960年代、「地上の楽園」に逃げ出そうとしたところ、周恩来さんに止められ、危ういところで助かった。しかし、今も厳しい、とは知り合いの何人もの朝鮮族が語ってくれたことです。
そこへいくと、日本はそれなりに大きいので、ボーッとしていられる。やはり平和ボケです。
ところでヨーロッパはどうかというと、重要なモデルがアルザス・ロレーヌでしょうか。
フランスのルイ14世がこの地方をフランスに組み入れた時、ドイツ民族であるはずのアルザス住民は、自分たちはフランスの政治制度に共感を抱くので、ルイ14世に忠誠を尽くす、と言ったとか。
また、私の知り合いの台湾人の仲間が詠んだ歌に、「血の祖国 法の祖国のむなしさよ 我があこがるるは心の祖国」というのがあります。血の、つまり中国の、でもなく、法の、つまり日本のでもない、自分たちの台湾というわけです。
戦前の行政法学者の本をみると、国民と天皇との関係は「血による」忠誠で関係づけられており、であるからこそ、公務員には日本人しかなれない、という議論がなされています。
これは、ルイ14世時代のアルザス地方の住人の意識とは逆であり、欧州議会をストラスブールに持ってきた今のヨーロッパの意識とは全く違います。
いったい何が妥当であるのか、それを決めるのはやはりあまり好きな言葉ではありませんが、哲学とか価値観とか世界観というものなのでしょう。少なくとも狭い視野はよくないと思います。
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Saturday, December 11, 2010, 10:12 PM
12月8日という、昔だったらそれなりに色々なことを考える日も何となく過ぎて行きました。そして昨日は、旧知の中東関係の古代史学者の先生からちょっとした相談を受けて、そのあと、現今の政治情勢などの話しになりました。
その中でも述べたのですが、最近の日本には獅子吼する政治家がいないということが私の慨嘆するところです。蒋介石の昔の写真などを眺めていると、この獅子吼がしっかりあります。いや、よい悪いは別として、当時の政治家には多かったし、現代の外国の政治家にはいます。しかし、日本の今はだめ。せいぜいあったとしてもただ大きな声を上げるだけ。
本文にも書いたとおり、中江兆民は、「一年有半」の中で、「日本に哲学なし。ただ仏教僧中創意を発して開山作仏の功を遂げたるものなきにあらざるもこれ遂に宗教家範囲のことにて純然たる哲学にあらず。速やかに教育の根本を改革して死学者よりも活人民を打出するに務むるを要する」と述べました。
だとすれば、日本の政治家も、政権党になったなら(いや、もちろんなる前から)、せめて開山作佛の功を遂げた先人がいた日本の中世でも勉強して、今と全く違った社会のモデルを日本の中に求めてみたら、といいたいのですが、さっぱり勉強が足りません。
一方、勉強というと欧米一辺倒、あるいは遺跡などは日本という狭い見方だけ、これが正に主流です。
その先生も言われましたが、中東の紀元前の政治の変化が日本の遺跡にまで影響を及ぼしているとの話。そういう大きな目で見ましょうよ、といいたくなります。
戦前出されたある本。古本屋で200円で買ってきたのですが、内容は中央アジアから西欧まで。副題が「シナを超えて」もちろん「中国を越えて」の意味。やっぱり戦前の日本人の方がでっかいや、と思ったものです。
とにかく勉強しなきゃ話になりません。
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