★4月11日 
Sunday, April 11, 2010, 10:42 PM
 10日の話の続きです。
 平沼騏一郎というと、日本史では、独ソの提携に直面して「欧州の政情は複雑怪奇」というような言葉を残して退陣した総理大臣として出てきますが、元々は大審院検事などを務めた保守派、というより「国本」などで有名な右翼の政治家です。
 しかし、それほど単純な人ではなく、近衛文麿さんと近く、ナチスなどに心酔する人々に対してあんなものにかぶれるのは日本人としておかしい、とも言った人です(近衛さんが、そのヒットラーの格好をして仮装した写真があったりするのが誠に残念なのですが)。

 このころの極端右翼の行動をみると、東大の先生でありながら憲法の講義の前には拍手を打ってそれを行ったというコチコチのKさんでも、その後、今の長春にあった満州建国大学に行った折だったか、韓国でだったか、しっかり地元の衣装に身を包み、「こうでなければならぬ」と言ったとか。
 K元教授の本を所持し、時々紐解いてはあきれている私としては、それを出したのがあの岩波書店であるということにも何ともいえないものを感ずるとともに、一方、今の保守派ほど単純ではないよな、とも思うところです。
 
 上記の人とも関係ある政党の再編なのか分裂なのか・・・、色々動いてはいますが、このあたり、下に書いた元学生運動という問題とともに、「二代目や三代目」の問題は、同じ保守でも考えの厚みは先祖に及ばずという気がしてなりません。

 いずれにもいえることは「ステレオタイプ」ということではないでしょうか。考えてみると、マスコミが正にそうであり(先日話したマスコミ人、政治家、ともに、ジャーナリストが「正解」を求めている、と嘆いていました。保守は、こういう行動パターンでなければならぬ、とか)、教育、言論の罪が大きかったかなと思われてきます。
 
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★4月10日 
Saturday, April 10, 2010, 12:58 PM
 テレビを看ていたら、自民党の再船出。民主党と同様に「ガンバロー」の掛け声。あれって、以前、社会党などがやっていたスタイルだったよな、と思っているうち思い出したのが霞ヶ関での話。
 それは「右翼」の皆さんの集会で、一区切りついてから聞こえたのが「シュプレヒコール!」という掛け声。そして、何とかいうスローガンの連呼が始まりました。あれって、その昔「左翼」がやってたやり方だよね、と思わざるを得ませんでした。
 
こんな調子で、「右」も「左」も同じスタイルの昔の左翼方式。これじゃ政治がうまくいくはずないよと。
 要するに70年安保式で、考えの底が浅い.
 マッカーサーならずとも、これでは「日本人は12歳」と言われてしまいます。



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★4月5日 
Monday, April 5, 2010, 11:23 PM
 仕事上のこともあって、台湾の少数民族(といってもいわゆる高砂族でななく数百万の人口を持つ)の会に参加しました。

 同じテーブルに座った年配の方にニイハオと呼びかけると、「僕は北京語は嫌いなんだよ」との答えが。聞けば日本の元陸軍中尉で、大陸は大嫌い、日本は台湾でよいことをたくさんした、とのお話。

 「うん、なるほど。でも、最近の一部のように、日本人がそういうことを言ってはおしまいですね。要は植民政策として行ったのであって、反射的利益とは関係ありませんし、大陸よりましだっただけのこと。亡くなった私の昔からの知り合いが『僕の体の半分は日本人なんだよ。この気持ちわかるかい』と言われたことを思い出すと、何とも言えない気持ちになります」というと、じっと考えていたその人、だんだんと打ち解けて、「自分は弁護士の○○さんと友達だったんだ」と。「ああ、先日亡くなった方ですよね。実は私も、事件の相手方でしたが、それが終わってから仲良し?になりました。私から独立した勤務弁護士が、彼の手伝いで、台湾の従軍慰安婦を最高裁までやりましたよ」などなどの会話。

 本当は、正にその人にこそ、「日本人」を話題にすることは酷ともいえます。その方こそ天皇陛下の股肱の臣(軍人勅諭)として、正に帝国軍人としての教育を受けた、今の日本人以上の「日本人だった!」のですから。聡明なその方は、複雑な思いを抱きつつ許して下さると思って、その言葉を使いました。
 そして、日本大好き、大陸嫌いの元日本陸軍中尉が、従軍慰安婦の件で日本政府を追及してきた弁護士と仲良し。
 このことにこそ台湾というところの複雑さが、ごく一端とはいえあるのであり、我々は、決してステレオタイプな思考に陥ってはならないことを示しています。
 
 別れ際に、「今日は面白い経験をさせてもらってありがとう」と、気さくに握手して別れたあの方のご長寿と今後益々の有意義な人生を祈ってやみません。
 若い日本人が、何とかここのところを解り、真のアジアと世界の平和を考えてほしいと思います(もちろん素朴な理想論ではなく)。
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★4月4日 
Saturday, April 3, 2010, 10:47 PM
 アジアのA国裁判所の方から質問がきました。
 その国では、死刑についてあることをきっかけにより議論がなされるようになり、人権団体が死刑は違憲であるとの裁判を起したとのこと。それで、裁判所も慎重に考えているとのこと。
 で、質問というのは、日本では裁判所が死刑判決を出したあと、慎重を期するため、自身で上訴する制度はないか、ということ。もう一つは、上告審は、死刑事件についてやはり慎重を期するため、必要的に口頭弁論を開くことになっていないか、ということです。
 答えはいずれも否定。

 前者については、むしろ検事が、いわば裁判官の監視役みたいなもので、死刑が課せない事件に裁判所が誤って課したような場合、控訴できます(この点は、明治以来、本当に検事には監督権がありました。江藤新平のやったことは、実はそういうことなのであって、神様みたいにいうのは間違っているのです。一定の意義を認めるのはよいのですが。つまり、お相撲の行事と審判みたいな関係です〔本当は、怖いことです〕)。
 
 後者の問題についての典型は、三鷹事件。死刑事件を、口頭弁論を開くことなく、1票差で死刑の原判決維持としました(なお、当該死刑囚は獄中死)。

 今、日本の多くの法律家は、上記の問題について議論の必要性さえ感じていないのが実態でしょう。
 日本が色々な意味でアジアで置いてきぼりになっていく危険性を感じます。こういうことは統計に出る訳でないだけに厳しい。
 そんな中で、企業がどうあるべきか、といったことまで考えてしまいます。

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★3月28日 
Sunday, March 28, 2010, 10:26 PM
 ある行事に参加するために台湾に行ってきました。
 いささかあやしい北京語(普通話)で挨拶もして、いつもながらの大歓迎でした。
 しかし、私の語学力(?)が上がるたびに、多分それが台湾の北京語とは異なるせいでしょう、若い時からの友人から「ジャ ツン シャオ は大陸に搦め取られちゃうんじゃないか」との心配の声もありました。
 「とんでもない。台湾は第二のふるさと」が私の答えです。
 小学生以来、家族を入れると明治時代から。それを思えば台湾は親戚以上の間柄です。だからこそ真に台湾の人の為になる行動をとりたい。
 そうなると、いわゆる親台の最近の人とは違う考えになります。

 今回の訪問では、昨年にも増して大陸からの訪問客を見ました。雲南、安徽省、済南などなど。そういうところの人が、台湾の片田舎ともいえるところまでやってきています。
 この現象は、相互理解の観点からは、よいことでしょう。あたかも20年前の東ドイツ崩壊のように、民主主義の実態を大陸の人が見ることはかえって大陸の、少なくとも国民にとっては、お手本になるでしょう。私の中国語の先生も先日台湾を訪問してそう言っていましたし、大陸の人も分かっています。何より、大陸もこれまた複雑なのですから。
 それどころか、日本こそ台湾に学ばねばならないことがたくさんあります。
 そして、私の友人が空港で、カメラを向けたら直ちに停止を命ぜられたように、厳しい一権力がそこに存在することも必要です(友人さん、ごめんなさい)。

 そして一方、西洋の数百年前の産物である国境とか国観念を、真にアジアの地から考え直し、アジア人として互いに経済的に発展する道を探ること、これこそが我々の、特に今の実態を作った日本人のなすべきことと思います。
 
 そのためには何が必要か。それは、真の日本の歴史を知ること、いや、これこそ本当の日本のもの、どうぞご参考にしてくださいといえる、オリジナルで価値の高い、「思考の日本製品」を探り当てることです。裁判員制度のように、ヨーッロパとアメリカのミックスのようなものを、どこかの名誉教授のように「日本の制度」などと言うのではなく。


前ji天我去台湾訪問東部地方。
在那個地方有一個寺廟。那個寺廟和我hen老的関係。
 我参加在那個寺廟的ju会。那個ju会、従全台湾来hen多法尚和尼niang。
在那個会我説一点er講演。

結束以後我訪問離那個寺廟近的一個慈善団体。那個団体的領導是一個尼niang。
一個女士説明那個団体的意思。女也説這個団体和政治和宗教没有関係。
比如説、那個団体在印尼的地震的時候対再建伊期蘭寺廟寄付了。在高雄発生地震的時候那団体也対再建少数民族的基督教堂寄付了。
 所為我対女也的説明感動了。
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★3月22日 
Tuesday, March 23, 2010, 11:26 PM
 地下鉄の中で、久しぶりに旧知のMさんに会って、2駅ばかり話しをしました。
 以前、最近の役所の判断は、自分の方がおかしいのかと思ったら、嘉村さんと話していて、そうじゃないことがわかってほっとした、なんて話したことのある人です。
 去年9月の台湾行政法院視察の話をしたらまたまた意気投合。
 それに、北マリアナ連邦では、これまでに2人の裁判官が国民審査で罷免されたんですって、というと、ウーンなるほど。
 あの国の裁判所に行くと、裁判官のプロフィールが玄関に貼ってあり、みんなが裁判官の実態を知っています。そういう「制度」がやはり大事なんだろうな、と思います。

 江戸時代、制度通を書いたのは伊藤東涯。今でもこれを読まないと、役所制度の本質はわからないと思います。伊藤仁斎についで古学を深めた荻生徂徠も制度を大事にしました。つまりは、今風でいえば組織法ですが、内閣官制が勅令によったとおり、我々はこれに口出しできない体質を持っています。かろうじてみんなの党とやらがそれらしきことを言っていますが、戦時体制とか言って不徹底。奈良時代以前からです。
 脳みそにこびりついた観念を剥ぎ取ること、それは難しいです。
 
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★3月20日 
Saturday, March 20, 2010, 10:59 PM
 なが年、中近東の遺跡を掘っておられる先生に久しぶりに会って談論風発。様々なところで意見が一致しました。
 そして、自分の位置も再確認した気がします。つまり、自分は実務家なのだと。
 以前も書いたとおり、かつて上海にあった東亜同文書院の根津一校長は、入学式で、「物事の蘊奥を究めたければ大学に行け。ここでは、今何をしなければならないかを考究する。」という趣旨のことを言われたとか。根津校長が陸軍士官学校出だあったとおり、自衛隊の小平学校(元陸軍経理学校)の校歌にも同様の趣旨のことがあります。
 そして、今何をするかということは、今、歴史の1ページを作っていくということです。それが実務家であり、また、本来は国民自身でなければいけません。
 そして、それができるには、過去のページも知る必要があります。あくまでも実務家として。
 しかるにそれができていないのが今の政治家であり多くの国民ではないでしょうか。
 下の方にも書いたとおり、我々人間も、実はひとつの遺跡にほかなりません。その自分を知ることが今後の理想を追求する元と、とりあえず思ったことでした。
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★3月16日 
Tuesday, March 16, 2010, 10:49 PM
 年度末は何かと忙しく、間が空いてしまいました。
 忙しいといえば、週に何度も走り抜けるのが東京駅の改札口。
 その東京駅は、このところ昔に返す復元工事中ですが、一体、復元の意味があるのかどうにも疑問です。
 あの建物、佐賀の辰野謹吾の設計ですが、よく言われるとおり、オランダのアムステルダム中央駅にそっくり。というより、それを簡略化したものといってよいでしょう。
 保存でもめた、その真ん前の中央郵便局も、1月に書いたオットー・ワグナーのウイーンにある郵便貯金局によく似ています。国会議事堂がロサンゼルスの市庁舎にそっくりだったり、最近できた四ッ谷駅がこれまたワグナーの造ったカールスプラッツ駅にそっくりなどなど。
 
 こうしたそっくりも、全てが悪いとは必ずしも言いません。
 なぜならこれらの建物は「道具」なのですから、さっさとよいものを造って利用すればよかっただけのことで、鍋島直茂の実に通じます。

 ただし、であれば、用済みとなればさっさと壊すべきで、物まねを文化財などと言って保存しようとするのは、正に滑稽と考えるのです。
 それよりも、真にオリジナルの「日本の」作品を造ってこそ、保存を云々するのが当然でしょう。
 その意味からは、東洋伝統の建築にこだわっている中国や台湾の行き方こそ正しいものと思われてきます。

 また、このような建物だけでなく、意識しない思考、思想が外来であるにも関わらず、オリジナルと思い込み、見当違いの誇りや果ては排外主義にまで至ることは絶対に避けたいものです。
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★3月4日 
Thursday, March 4, 2010, 12:00 AM
 国際的活動をされている方々と夕食を一緒にして出てきた話が日本人のお客への対応は最高という話。
 それで思い出したのが対応最悪の横浜での1年前のこと。あるお役所に書類を出そうとして、絶対受け取らない雰囲気で、3、4度の長期押し問答。受け取ると仕事をせねばならないから受け取らないわけ。受け取る行為は、準法律行為的行政行為といいます(こういう言い方は今はやらない由ですが、便利)。
 結局、受け取らせたはいいけれど、今度は一向動かない。途中、何度催促してもだめ。
 そこで、こうして発生する慰謝料を裁判所に請求したらどうなる?こういう規制権限の不行使に対し、最近、少しだけ前向きの判決もないではないですが、多くはだめ。
 こうしたことへのお客扱いは、旧正月とは異なり、正に「アジアの一員」として、一向よろしくないわけです。
 それはどうしてか、というと、私があちこちで書いているとおり、新渡戸さんがその「武士道」に、誇らかに、封建君主は領民には責任を負わなかったが、天や祖先に高き責任感を有した、などという見当外れのことを書いても、それをもてはやしている抜き難い国民性があるからです。
 日本人よ、もっとしっかりせよ、と言いたくなります。

 我最近在思索日本的警察。去年2月、我去横浜訪問一箇警察。那箇訪問的目的是提出控告。可是警察官不軽易接収那箇控告。他イ門不喜歓多余的工作。最后他イ門接収了控告。可是到今天没有聯絡。
 対了、我三箇星期前去了長野県上田市参加一箇審判。在那箇審判、審判員説這箇事件在鹿児島比在上田処理好。他不喜歓処理那箇事件。
 在日本的警察、審判有hen多問題。



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★2月28日 
Sunday, February 28, 2010, 08:44 PM
 2月26日には、2・26事件の74年目の法要が行われました。改めて、「君側の奸」なる非日本的な観念を生み出し、悲劇を惹起させたばかりか、その後の日本あるいはアジア破滅の原因を作った江戸時代のおぼっちゃんの発想に言いようのないものを覚えます。
 このような発想に立てば、明治維新なるものはいわば通過点であり、昭和11年からの数十年こそ本当の画期であると考えます。
 ある農業関係の本には、昭和35年の農業基本法制定こそ江戸時代と現代とを分ける画期と書いてありますが、相当程度賛成できます。

 つまりは、時代区分というものの反省が絶対に必要と思うこと切です。



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