★12月19日 
Saturday, December 19, 2009, 08:56 PM
 昨日は、半日、法律を講じてきました。
たまに、「かわいそうだから救いましょうは法律でも裁判でもありませんよ」というと、「目から鱗か落ちました」などと言われてこっちがびっくりすることがあります。昨日はそういう発言がなくて安心でしたが(多分、公務員だからでしょう)、関心は持っていただいた感じでした。
 今更ヴィントシャイドだローゼンベルクだのと言うまでもなく、少なくともこの命題?は最近までの常識でした。
 今年亡くなられた滝川判事の著書にも「公平はあくまで立法者に向けられているのであり、裁判官が公平を基準にして裁判をするのは三権分立に反する」と書かれているとおりです。
 ところが、この命題にいわば異を唱えている「ような」本が確かにあります。
 これは大正時代「嘘の効用」を書かれた末広博士以来の世界的な大きな流れともいえ、裁判官はあらかじめ結論を決めているのであり、あとから解釈を加えてぎりぎりまで妥当性を追求する・・ってなことを書いた本が、初学者用としてまで売られているのです。でも、妥当性を勝手に裁判官に決められてはかないません。
 しかるに、この病気はある意味深刻です。先日、たまたまテレビで大岡越前守の話をやっていて、越前守はやさしい裁判をしました・・みたいなことを言っていました。要は、裁判官は自由に結論を決められ(いわゆる自由法学)、やさしくしたから偉いと。
 とんでもない。当時の法は厳格で、そんなことはできませんでした。だから彼は、「嘘」までついて妥当性を追求した、だから「嘘の効用」なのです。なのに、そんな話はどこにも出てこない。
 こういう、番組を作る人の意識に、既に法というものについての根本的誤解があります。しかも、裁判官は偉い人、というおまけの観念までついて回っています。

 そして、イギリスのロックに見られるとおり、元々司法と行政は同じで(彼は二権分立を説く)、司法に対する見方がこういうふうにブレているということは、行政も同じかもっとひどいということです。
 下の議論にも正にそれは言えて、このままでは我が国は国家の体をなさず、アメリカというタガにかろうじて支えられる「地域」になってしまう危険があると思います。
 ちなみに、私の友人のアメリカのジャーナリストも、韓国の裁判官も、先日来異口同音に、日本人はどうして法律を「解釈」してしまうのか、と言いました。

 そして、上記には、「世界的流れ」を言いましたが、もうひとつは、大岡話に見られるとおり、日本国民がお話国民であることが大きいとも思っています。これも時々書くことです。
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★12月13日 
Sunday, December 13, 2009, 01:34 PM
 天皇陛下が中国の副主席とお会いする云々をめぐって論議あり。陛下を正に商売の道具に使っているとしか思えないいわゆる保守系マスコミが、政治の利用云々と騒いでいます(陛下を電車のつり広告に載せているなどとんでもないことなのに)。
 こういう時こそ、落ち着いて原則を考えてみればよろしい。

 本来、憲法は、第7条において、天皇の国事行為を定め、天皇の行為を制限していました。ところが、旧憲法との一種の妥協で、象徴としての行為なるものをでっちあげたのが戦後の学者であり内閣です。例えば国会の開会式におけるお言葉などがそれ。もちろん、こうすることにより内閣の助言と承認を得ることにするというメリット?もあります。
 しかし、憲法制定時の理想のとおり、また、私のお友達の新右翼・一水会の木村さんが言うように、陛下には京都にて国民の安泰を祈られる伝統の世界に回帰していただくことだけにすれば、問題は起こりようがないのです。それをおかしな国民代表が作った法律でもない制度を作って問題化させたのは戦後の政権でした。
 憲法改正を云々する今の保守系と称する人々のやったことを、本来考え直さなければいけない。それが本当の戦後政治の総決算です。今回の議論について、まともなコメントをされているのは、日経にあった石原信雄元内閣官房副長官。さすがだな(いや当り前)と思いました。宮内庁長官の話は読んでもいませんが、そもそも内閣の助言と承認の執行機関の長が、あれこれ外部にしかも記者会見などして述べるのは、それこそ法律違反ではないでしょうか(こんなことが許されるなら密約問題などあり得ない)。このあたり石原さんと今の官僚との落差を感じます。この間、密約をしゃべった人も一応、法廷というところでの話。今回の処置自体は法律にかかわらない内規(上記のとおり、これは国民代表が作ったものではない)の話なのに、こちらの方が国家の根幹に問題のある、恐ろしい話です(陸軍刑法的に言えば抗命罪的)。
 
 もっと話を戻せば、戦前から言われていることですが、天皇とか陛下とかいう敬称が、本来の日本のものかも問題。「すめらみこと」こそ日本のもののはず。だから、「真の日本の」を追求しない水戸黄門的発想はおかしいのです。何が右翼で何が保守なのか、よく勉強して考えるべき。
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★12月11日 
Friday, December 11, 2009, 10:53 PM
 12月8日も何という事なく過ぎてしまいました。昭和16年12月8日、ハワイを攻撃してアメリカとの戦争始まる、などといっても、正に夢物語の世代だらけですから。
 20年以上前、連合艦隊参謀の千早正隆さんと夕食を共にし、トラトラトラのお話をうかがったのも、遠い昔のことになりました。でもあの方の「日本海軍の驕り症候群」は立派な本です。
 海軍関係でも、坂井三郎さんをはじめとして、ある程度お付き合いがありましたが、最近亡くなったMさんは、私が横浜勤務時代の裁判所の所長で、正にサイレントネイビーでした。とにかく寡黙。
 戦艦扶桑に乗っていた方で、かの船は、レイテ沖海戦でスリガオ海峡に沈み、生存者は10名そこそこと聞きました。
 そのM所長で忘れられないのが以下の話(本にも書きましたが)。
 ある会議の時、誰かが「外は雨みたいです。傘をさした人がいますから」と言ったのに対して、「雨が降っているか否かは、雨そのものを見て判断すべきです」と言われたこと。いやはや脱帽。
 しかし最近、この精神は正に地を払っている感じがします。私の世界でも病気蔓延。
 そして、ここ数年行われた改革とかと称するものも、正にあの戦争開始と似たようなものだな、と思うこと切です。裁判員みたいなものもその一つですが、「とりあえずやってみるか」とか。せっかくここまでやったんだから、なんぞとなれば、「英霊に申し訳ないから、兵は引けぬ」というのと同じ。
 そんな自民党政治の最後でしたが、今度の政権はどうなのか、昨日は、中国語の先生と、日本は世界で唯一社会主義が成功した国・・・みたいな話で盛り上がりましたが、小沢氏の訪中をみていると、国務院の上に共産党があるあの国の体制を・・・。
 それにしてもあのチルドレンたちはお粗末。日本国民の代表としての国会における職権の行使者であることが分かっているのかね、といいたくなります。随分関係者もいますが。
 あのツーショット、要は、アジアのいなかっぺの姿。もっとアジアを知り、自分を知ることが大切。それには、アジアがヨーロッパやアメリカとしっかりつながっていることを自覚することも大切。視野を広く、広く。
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★12月6日 
Sunday, December 6, 2009, 11:57 PM
 最近、中公から宮崎市貞先生の本が復刻されているのでパラパラめくっていますが、面白いところは面白いものの、これはどうかな、と思う点も多々あります。
 京都大学名誉教授で、郷里の飯山市では神様扱いですが、果たしてどうか。特にあの先生には「科挙」という有名な本があり、それが(意識するしないにかかわらず)日本人の頭を随分支配している気がします。科挙とは要は詰め込みなのだと。
 これが、法科大学院の教育などにもアメリカのそれと並んで大きな意識的影響を与えていると思うのです。もちろんあの本は科挙のマイナス面だけ挙げているわけではありませんが。

 実際のところ科挙は、むしろプラスが多かったと思います。この点は日本人の他の学者も指摘しています。
 何より公平。門閥政治の反対です。君臣関係も日本のようながんじがらめにはならないのです。
 このことを抜きにして明治時代の1905年、それが廃止された前後の状況だけで判断してはいけないと思います。

 その他、宮崎先生本は自信満々。これまた葉隠にある「これも非なり非なりと思うて一生嘆息し」の精神には反するものです。
 私は、地味でも同じ京都大学なら田村実造先生になかなか面白いところがあると思っています。特にちょんまげについての世界的考察には、先日も目が開かされることがありました。

 我前児天去南京。我去南京的以前、期待訪問貢院。
 貢院是科挙的考試場。現在這箇場変成小了。可是以前在這里有二万五千以上的考試房間。這箇房間中考生接受考査。
 
 我最深受感動的点是平等制度。在日本従古代没有科挙制度。那箇時候有門閥制度。
 在日本1889年左右開始国家公務員考試制度。在中国1905年結束了。
 在日本那箇開始以前、所為、如果日本的公務員不喜歓他的主人、他不可以離開那箇主人。所為、日本的是強制。自己不能改変。

I read proffecer Ichisada Miyazaki's book these days.He was a professor of Kyoto university.He specialize in Asian history.Especially he was famous as writer of one book named "Kakyo".
In that book,he seid Kakyo was a examination hell.
Kakyo was a old Chinese test to be a national civil servant.It sterted in 6 century.And it ended in 1905.
In old Japan,there were not that system.In Japan,national servant's son becamed national servant.
Japanese government made new test sistem like Kakyo in 1889.
I think Kakyo was good system.Because that had equality.In Japan,If national servant's son dose not want to be a national servant,but,he had to be a national servant.he had to respect his master.
Of course,Kakyo's final age,there were a lot of ploblems.So,in Chaina,it was ended.
But resently,Chines governmnt made some new test sistems like Kakyo.It means that Kakyo sistem's core is not so bad.
So I have some doubts about Miyazaki's thinking.I think he was overconfident about Asian history.

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★12月3日 
Friday, December 4, 2009, 12:27 AM
 時々書くのですが、私がかつて立会した三菱重工爆破事件の法廷。2度にわたる法廷での大乱闘。それはノリピーなど及びもつかず、はっきり言ってオウムより厳しいものでした。近頃はとにかくたるんでいます。
 それに結末をつけられた陸軍士官学校出の裁判長、のちに語られるには、「裁判官に勇気が必要という人がいるが、私はそうは思いません。弱虫でも泣き虫でもよいのです。ただ一点、責任感が必要なのです」と。
 今の「仕分け」で、外国製の制服では士気にかかわる、とは、正にこの発想に反するものです。士気よりもむしろ責任感こそ大切でしょう。第二次大戦における日本軍の幾多の事例が、この責任感の問題を露呈しています。
 そもそも中世の武士は、よそのものでも一向構わない。正に鍋島の直茂の「実」です。それどころか、竜造寺でも鍋島でも、大友から分捕ったマークを家紋にまでしていました。
 発想を転換すること、江戸時代のお公家さん武士みたいな形式にこだわる発想は御免蒙ります。

 そういえば、数週間前、鍋島のおひいさまに久しぶりにお会いしました。昔で言えば華族ですが、「○○さんは一条家から嫁に来たので、私は公家はいやだと言ったんです」との発言には、おやおや、さすが武家の矜持はしっかりしておられるわ、と頼もしく感じたものでした。
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★11月28日 
Saturday, November 28, 2009, 08:06 PM
 最近書いた、ある雑誌の巻頭言です。割合好評なので、転載します。 

 昭和三一年頃のことだった。祖父に連れられて世田谷の真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)のお宅に伺った。少将は幼稚園生の私に「君が嘉村さんのお孫さんですか」と優しく声を掛け、学童服をプレゼントされ写真屋さんに行って撮った記念写真が今も残っている。その著書「隠された真相」は、今も私にとって最高の昭和史本である。
 祖父と少将の兄真崎甚三郎陸軍大将とは、大将が台湾軍司令官の時面識ができ、二・二六事件後予備役編入となり帰郷して佐賀県教育会長(今でいう教育長)をされていた大将と祖父とは、再び相当なつながりとなって、大将の日記にも主要登場人物として登場してくる。私も大将の息子さんでアフガニスタン大使や昭和天皇の通訳をされた秀樹様とは、亡くなるまで親しくお付き合いさせていただいた。
 このような流れの中、祖父も含めた色々な人の話を聞いたが、そこに出てくる真崎大将、少将、近衞文麿公、有馬頼寧農林大臣(有名な有馬記念はこの人)、吉田茂さん、更には辰巳栄一陸軍中将(戦前のイギリス駐在武官で、吉田茂との関係は有名。学童疎開を推進して、死なば諸共などという東条首相と衝突。戦後、陸軍の将校クラブのあとをついだ偕行社の会長。私もお会いしたことがある)らは、同じ傾向を持つ人々であって、その後日本が犯したアジア全体を巻き込んだ大戦争とは全く異質の人達であったと思う。

 およそ昭和の歴史を語る場合、戦前の日本は全て悪いという見方と、逆に、あの時代は仕方がなかったのだ。日本は悪くないという見方とが幅をきかせているように思うが、それらは正にステレオタイプと言わねばならない。

 昭和戦前期を牛耳った軍部については、適切な表現とは言えないが、皇道派と統制派という二つの派閥があった(紙数上全くの便宜)。この二つの派の人物の傾向には一種のDNA的な違いを見ざるを得ない。それは、表現し難いが、兵農未分離派(前者)と分離派(後者)と言ってもよいであろう。要は、土の匂いのする暖かい人々と、よくいえば合理的、あるいは、吉田茂と関わり深いジャーナリストに言わせれば、「能面のような顔をした人」に代表されるグループとでもいうことになろうか。
 昭和一桁の最後の時期、参謀総長を務めていたのは閑院宮殿下であり、参謀次長が真崎中将(当時の)であった。この二人のそりの合わなさも、根源的には公家と農民ということが大きいと聞く。総長閑院宮と林銑十郎陸軍大臣により三長官の合意という一種の法的拘束があったことを無視して教育総監真崎大将が罷免されたとき、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の殺害、そして二・二六事件へとつながっていくことになった。
 同事件後のいわゆる粛軍人事のあと、それまで蒋介石も渋々ながら容認していた線を越えて翌年の盧溝橋事件、正に泥沼の日中戦争へとはまり込んでしまったのは、その能面派、あるいはもっと言えば西洋かぶれ派が牛耳ったことによる面が強い。よって、彼らは全く「合理的」ではない。

 このような流れの根底に、今述べた青年将校のような、農民にシンパシーを持つ「優しい人々」兵農未分離派の悲劇が見られると考えるが、今日も、そのような誤りが起きるようなことのないよう、我々は深い考察と特に「戦前」というものへのステレオタイプの排除を怠ってはならない。



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★11月25日 
Thursday, November 26, 2009, 01:31 AM
 政権交替は仕分けをはじめとする様々な現象を生み出しています。
 今のところ、仕分けについては好評の声が多そうですが、これと同じようなことをしたA市の市長は、補助金をもらえない市民の支持を失って、次の選挙で落選しました。

 その地方について、私とBさんは、「○○って、補助金と仕送りで成り立っている県ですよね」と、かつて語ったものでした。この現象がもし日本中にあるとすると(いわゆる地方はたいがいそれ)、補助金や仕送りをもらえない人々は、次回大いに考えるでしょう。
 今後、そのあたりがどうなるのか考えています。

日本という国が、諸外国に比べてもいわば抜きん出た中央集権の国であることがポイントかと思います。それを最も推進したのは明治政府。私の専門?の法律でいえば、明治初年の司法職務定制。よく似た制度の状態にあるのが今の中国です。要は、中央集権にして、全て中央にお伺いを立てる制度。裁判の中身までそれ。もちろん、行政についても官選知事でした。ですから江藤新平を単純にほめている○○新書の著者たる某大学の先生など、批判されて当たり前。
 何しろ神武天皇の創業に帰すという何のことはない律令国家という日本ではない国家に帰そうとしたのですから。

 いずれにしても仕分けについては、最終的に国会でしっかり議論してほしいもの。以前の○○法務大臣のように、会社法改正にあたって、「偉い先生にしっかり議論していただいてますから大丈夫」、なんてことはないと思いますが。

 ○○は、論争などしている暇はないので。一応、伏字とします。


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★11月16日 
Tuesday, November 17, 2009, 01:14 AM
 仕事の打ち合わせで、羽田のエアホース1を横目に見て上海に一泊してきました。
 会社での打ち合わせが終わると、近くのレストランで食事。クライアントに、こういうとき店員さんを呼ぶのに小姐というのは、いけなかったですよね、というと、そのとおりとのこと。服務員とか、服務人が正解。特に上海では、小姐は色物の雰囲気があって宜しくないようです。
 翌日、ホテルのそばのショッピングセンターに行くと、その活気は半端じゃない。やはり経済の牽引車だけのことはあるなと思いました。
 その一角にあったのがスターバックス。入ってパンと紅茶を頼みました。紅茶の方は、紅茶が通じず、英国茶とはご愛嬌。パンがひどくて、チンしたはずが冷たくて、今日の日本のドトールとは雲泥の差。同じスタバの外観はあっても大違い。もっとも、パリで入ったスタバやローマのマクドナルドも汚かったですが。
 ここが日本並になれるか否かが中国の将来を左右するでしょうけれど、蒋介石の手記をみてもこの点は厳しそうです。もちろん日本も油断してはおれません。

 それにしても、元々寒い上海は、フードをかぶる人までいる寒さで、北京ではすでに3回も雪が降り50年ぶりの寒さとか。経済競争も大変ですが、環境問題はいよいよ深刻です。
 
 我上次星期6去上海出張。我的客戸在離虹橋機場近的地方有事務所。我イ門在那箇事務所商量一箇問題。
 然后我イ門一致去吃飯。在餐庁、我詞問我的客戸。如果我想叫服務員我得zenme説。可以叫小姐ロ馬?他説不。服務員或服務人好。
 第二天、我去付近的商城。在那箇商城有hen多人。那箇商城里有星巴克。我点了面包和紅茶。
紅茶不通了。服務員用手指英国茶。我説了是。
 那箇面包不熱。
 我覚的中国的星巴克没有日本的服務。
 這箇問題是中国的最重要的問題。当然、対於我イ門日本来説最重要的也是質量。

Last Saturday,I went from Haneda to Syanhai.In Haneda airport,there were Airforce 1.
After arriving Shanhai airport,I took a taxi to the hotel.I met my client in the hotel.And went to his office.We discussed about one issue.
After that,we went to a restaurant.We had a dinner.I asked him,if we want to order a meal what should we call.小姐ok? He said it is not OK.You must say 服務員or服務人。Because 小姐 has sexual imege.
I am interested in this cause.

And second day,I went to a deparetment store near the hotel.
There were the Starbucks Coffee.I went and ordered a bread and a tea.
The barista torsted a bread.But,the bread's central part was not hot.Chinese and Japanese Starbucks's signbords are same.But,the contents are different.This is the most inportant isseu of Chinese economy.
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★11月11日 
Wednesday, November 11, 2009, 04:07 PM
富士に出張し、三島から興国寺城の上を新幹線で通りました。北条早雲がここにいて、韮山の堀越公房をにらんでいた、というわけでしょうか。
早雲というと戦国の梟雄というイメージが強かったですが、最近の研究では、とんでもない。立派な考えを持っていた人、ということのようです。

枯るる木に また花の木を植えそえて もとの都になしてこそみめ

とは、快元僧都記にある彼の歌で、戦乱で荒れた鎌倉を再び昔のような都にしてみたいという彼の希望が述べられています。
勝海舟も彼をほめていましたっけ。

一方、車内で読んだ雑誌に、ある売れっ子と思われる歴史小説家の一文。勝の酷評と反対に、水戸の藤田東湖を随分ほめてありました。そして、正気の歌が若者を鼓舞した、すごい、とか。
あれは、中国の文天祥の受け売りで、正に著作権法違反みたいなもの、勝海舟は、そういうことで若者をかりたてる東湖は大嫌いといっているのに、くだんの小説家さんには、一向そういう意識はなさそうです。要は、明治維新はすごい、という、いかにも売れそうな前提があります。
 おまけに、昭和の将軍についても見て来たような品定め。
 こういう言説がまかり通っているからこの国は国の体をなさなくなるんだわ、と思いました。

 我昨天早晨座新幹線去富士市。従三島駅出発以后、新幹線従興国寺城的上面通過了。那箇古城是1470年左右由北条早雲建立的。他対抗伊豆的諸候。終yu他把他的主人滅亡了。
 所為一般人説他是反抗者、粗野人。可是由yu最近的研究、他不是。
 他留下一箇詩歌。他説「在院子里的枯木上再植活樹、這株会再一次成長」。
 這箇詩歌関係鎌倉。這箇時候鎌倉破壊了。
 現在我イ門在鎌倉能看到他イ門建立的大門的根基。
 我覚得我イ門得有不拘泥的意見。

Yesterday I left my house at 9am,.I took the bullet train(shinkansen).
After leaving Mishima station,we passed over the Koukokuji castle.Now it is a tea field.

The old castle was constructed by Soun Hojyo in about 1470.
He made this castle to protect the master of Izu area.That master was a relative of Kyoto Shogun.
Finaly Soun beated the master.It was the first case what was a revolution by vassal.
After that,there were a lot of battles in Japan.It was named Sengokujidai.
So ordinary people say Soun was brutal person.
But resentry by the new study ,Soun was not bad man.He made one Japaneas poem about Kamakura."To dead tree attach new blossom tree,I want to reconsttruct new capital".
Now we can see the foundation of the shrine gate between Turugaoka shrine and the sea.it was build by Soun Hojyo's famiry.
I think we have to think and exam a persn ovjectivly,without bias.



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★11月8日 
Monday, November 9, 2009, 01:21 AM
 何とも悲惨な北広島町の事件です。
 ある知的財産の案件、つまりは種苗関係で、あ辺りには何度も行きました。
 こんなところにどうして人が住んでいるのだろうと言いたくなるようなところですが、古くから砂鉄と炭になる木材が豊富なところで、昔は正に工業地帯と言っても過言ではありません。
 以前も記したとおり、大きな鉄の固まりが道路端に置いてあり?、これはタタラ製鉄が失敗し、固まりになってしまったものとか。これを使い物になる鉄にするには、後年の反射炉によって精錬する技術が必要だったようです。

 その反射炉、葉隠の佐賀藩には、幕末に一応存在して、それと直接関わるかはよく知りませんが、鉄道模型を作ったり・・(そういう絵がある)ということですが、金沢藩にも佐賀と全く同じような鉄道模型があったのにはびっくりしました。
 そのほかにも、各藩に行けば行くほど、幕末諸国は似たようなことをしていたもので、司馬遼太郎さんあたりにほめられて、佐賀は一番、なんて考えはもちろん絶対捨てなきゃだめ。
 
 で、このお国自慢の考えは、結局どこも持っちゃだめ・・と、そういうことになるのじゃないか、と思います。

 それにしても、事件の一日も早い解明を祈念し、犠牲者の方の冥福を祈ります。


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