Sunday, December 6, 2009, 11:57 PM
最近、中公から宮崎市貞先生の本が復刻されているのでパラパラめくっていますが、面白いところは面白いものの、これはどうかな、と思う点も多々あります。京都大学名誉教授で、郷里の飯山市では神様扱いですが、果たしてどうか。特にあの先生には「科挙」という有名な本があり、それが(意識するしないにかかわらず)日本人の頭を随分支配している気がします。科挙とは要は詰め込みなのだと。
これが、法科大学院の教育などにもアメリカのそれと並んで大きな意識的影響を与えていると思うのです。もちろんあの本は科挙のマイナス面だけ挙げているわけではありませんが。
実際のところ科挙は、むしろプラスが多かったと思います。この点は日本人の他の学者も指摘しています。
何より公平。門閥政治の反対です。君臣関係も日本のようながんじがらめにはならないのです。
このことを抜きにして明治時代の1905年、それが廃止された前後の状況だけで判断してはいけないと思います。
その他、宮崎先生本は自信満々。これまた葉隠にある「これも非なり非なりと思うて一生嘆息し」の精神には反するものです。
私は、地味でも同じ京都大学なら田村実造先生になかなか面白いところがあると思っています。特にちょんまげについての世界的考察には、先日も目が開かされることがありました。
我前児天去南京。我去南京的以前、期待訪問貢院。
貢院是科挙的考試場。現在這箇場変成小了。可是以前在這里有二万五千以上的考試房間。這箇房間中考生接受考査。
我最深受感動的点是平等制度。在日本従古代没有科挙制度。那箇時候有門閥制度。
在日本1889年左右開始国家公務員考試制度。在中国1905年結束了。
在日本那箇開始以前、所為、如果日本的公務員不喜歓他的主人、他不可以離開那箇主人。所為、日本的是強制。自己不能改変。
I read proffecer Ichisada Miyazaki's book these days.He was a professor of Kyoto university.He specialize in Asian history.Especially he was famous as writer of one book named "Kakyo".
In that book,he seid Kakyo was a examination hell.
Kakyo was a old Chinese test to be a national civil servant.It sterted in 6 century.And it ended in 1905.
In old Japan,there were not that system.In Japan,national servant's son becamed national servant.
Japanese government made new test sistem like Kakyo in 1889.
I think Kakyo was good system.Because that had equality.In Japan,If national servant's son dose not want to be a national servant,but,he had to be a national servant.he had to respect his master.
Of course,Kakyo's final age,there were a lot of ploblems.So,in Chaina,it was ended.
But resently,Chines governmnt made some new test sistems like Kakyo.It means that Kakyo sistem's core is not so bad.
So I have some doubts about Miyazaki's thinking.I think he was overconfident about Asian history.
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Friday, December 4, 2009, 12:27 AM
時々書くのですが、私がかつて立会した三菱重工爆破事件の法廷。2度にわたる法廷での大乱闘。それはノリピーなど及びもつかず、はっきり言ってオウムより厳しいものでした。近頃はとにかくたるんでいます。それに結末をつけられた陸軍士官学校出の裁判長、のちに語られるには、「裁判官に勇気が必要という人がいるが、私はそうは思いません。弱虫でも泣き虫でもよいのです。ただ一点、責任感が必要なのです」と。
今の「仕分け」で、外国製の制服では士気にかかわる、とは、正にこの発想に反するものです。士気よりもむしろ責任感こそ大切でしょう。第二次大戦における日本軍の幾多の事例が、この責任感の問題を露呈しています。
そもそも中世の武士は、よそのものでも一向構わない。正に鍋島の直茂の「実」です。それどころか、竜造寺でも鍋島でも、大友から分捕ったマークを家紋にまでしていました。
発想を転換すること、江戸時代のお公家さん武士みたいな形式にこだわる発想は御免蒙ります。
そういえば、数週間前、鍋島のおひいさまに久しぶりにお会いしました。昔で言えば華族ですが、「○○さんは一条家から嫁に来たので、私は公家はいやだと言ったんです」との発言には、おやおや、さすが武家の矜持はしっかりしておられるわ、と頼もしく感じたものでした。
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Saturday, November 28, 2009, 08:06 PM
最近書いた、ある雑誌の巻頭言です。割合好評なので、転載します。 昭和三一年頃のことだった。祖父に連れられて世田谷の真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)のお宅に伺った。少将は幼稚園生の私に「君が嘉村さんのお孫さんですか」と優しく声を掛け、学童服をプレゼントされ写真屋さんに行って撮った記念写真が今も残っている。その著書「隠された真相」は、今も私にとって最高の昭和史本である。
祖父と少将の兄真崎甚三郎陸軍大将とは、大将が台湾軍司令官の時面識ができ、二・二六事件後予備役編入となり帰郷して佐賀県教育会長(今でいう教育長)をされていた大将と祖父とは、再び相当なつながりとなって、大将の日記にも主要登場人物として登場してくる。私も大将の息子さんでアフガニスタン大使や昭和天皇の通訳をされた秀樹様とは、亡くなるまで親しくお付き合いさせていただいた。
このような流れの中、祖父も含めた色々な人の話を聞いたが、そこに出てくる真崎大将、少将、近衞文麿公、有馬頼寧農林大臣(有名な有馬記念はこの人)、吉田茂さん、更には辰巳栄一陸軍中将(戦前のイギリス駐在武官で、吉田茂との関係は有名。学童疎開を推進して、死なば諸共などという東条首相と衝突。戦後、陸軍の将校クラブのあとをついだ偕行社の会長。私もお会いしたことがある)らは、同じ傾向を持つ人々であって、その後日本が犯したアジア全体を巻き込んだ大戦争とは全く異質の人達であったと思う。
およそ昭和の歴史を語る場合、戦前の日本は全て悪いという見方と、逆に、あの時代は仕方がなかったのだ。日本は悪くないという見方とが幅をきかせているように思うが、それらは正にステレオタイプと言わねばならない。
昭和戦前期を牛耳った軍部については、適切な表現とは言えないが、皇道派と統制派という二つの派閥があった(紙数上全くの便宜)。この二つの派の人物の傾向には一種のDNA的な違いを見ざるを得ない。それは、表現し難いが、兵農未分離派(前者)と分離派(後者)と言ってもよいであろう。要は、土の匂いのする暖かい人々と、よくいえば合理的、あるいは、吉田茂と関わり深いジャーナリストに言わせれば、「能面のような顔をした人」に代表されるグループとでもいうことになろうか。
昭和一桁の最後の時期、参謀総長を務めていたのは閑院宮殿下であり、参謀次長が真崎中将(当時の)であった。この二人のそりの合わなさも、根源的には公家と農民ということが大きいと聞く。総長閑院宮と林銑十郎陸軍大臣により三長官の合意という一種の法的拘束があったことを無視して教育総監真崎大将が罷免されたとき、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の殺害、そして二・二六事件へとつながっていくことになった。
同事件後のいわゆる粛軍人事のあと、それまで蒋介石も渋々ながら容認していた線を越えて翌年の盧溝橋事件、正に泥沼の日中戦争へとはまり込んでしまったのは、その能面派、あるいはもっと言えば西洋かぶれ派が牛耳ったことによる面が強い。よって、彼らは全く「合理的」ではない。
このような流れの根底に、今述べた青年将校のような、農民にシンパシーを持つ「優しい人々」兵農未分離派の悲劇が見られると考えるが、今日も、そのような誤りが起きるようなことのないよう、我々は深い考察と特に「戦前」というものへのステレオタイプの排除を怠ってはならない。
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Thursday, November 26, 2009, 01:31 AM
政権交替は仕分けをはじめとする様々な現象を生み出しています。今のところ、仕分けについては好評の声が多そうですが、これと同じようなことをしたA市の市長は、補助金をもらえない市民の支持を失って、次の選挙で落選しました。
その地方について、私とBさんは、「○○って、補助金と仕送りで成り立っている県ですよね」と、かつて語ったものでした。この現象がもし日本中にあるとすると(いわゆる地方はたいがいそれ)、補助金や仕送りをもらえない人々は、次回大いに考えるでしょう。
今後、そのあたりがどうなるのか考えています。
日本という国が、諸外国に比べてもいわば抜きん出た中央集権の国であることがポイントかと思います。それを最も推進したのは明治政府。私の専門?の法律でいえば、明治初年の司法職務定制。よく似た制度の状態にあるのが今の中国です。要は、中央集権にして、全て中央にお伺いを立てる制度。裁判の中身までそれ。もちろん、行政についても官選知事でした。ですから江藤新平を単純にほめている○○新書の著者たる某大学の先生など、批判されて当たり前。
何しろ神武天皇の創業に帰すという何のことはない律令国家という日本ではない国家に帰そうとしたのですから。
いずれにしても仕分けについては、最終的に国会でしっかり議論してほしいもの。以前の○○法務大臣のように、会社法改正にあたって、「偉い先生にしっかり議論していただいてますから大丈夫」、なんてことはないと思いますが。
○○は、論争などしている暇はないので。一応、伏字とします。
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Tuesday, November 17, 2009, 01:14 AM
仕事の打ち合わせで、羽田のエアホース1を横目に見て上海に一泊してきました。会社での打ち合わせが終わると、近くのレストランで食事。クライアントに、こういうとき店員さんを呼ぶのに小姐というのは、いけなかったですよね、というと、そのとおりとのこと。服務員とか、服務人が正解。特に上海では、小姐は色物の雰囲気があって宜しくないようです。
翌日、ホテルのそばのショッピングセンターに行くと、その活気は半端じゃない。やはり経済の牽引車だけのことはあるなと思いました。
その一角にあったのがスターバックス。入ってパンと紅茶を頼みました。紅茶の方は、紅茶が通じず、英国茶とはご愛嬌。パンがひどくて、チンしたはずが冷たくて、今日の日本のドトールとは雲泥の差。同じスタバの外観はあっても大違い。もっとも、パリで入ったスタバやローマのマクドナルドも汚かったですが。
ここが日本並になれるか否かが中国の将来を左右するでしょうけれど、蒋介石の手記をみてもこの点は厳しそうです。もちろん日本も油断してはおれません。
それにしても、元々寒い上海は、フードをかぶる人までいる寒さで、北京ではすでに3回も雪が降り50年ぶりの寒さとか。経済競争も大変ですが、環境問題はいよいよ深刻です。
我上次星期6去上海出張。我的客戸在離虹橋機場近的地方有事務所。我イ門在那箇事務所商量一箇問題。
然后我イ門一致去吃飯。在餐庁、我詞問我的客戸。如果我想叫服務員我得zenme説。可以叫小姐ロ馬?他説不。服務員或服務人好。
第二天、我去付近的商城。在那箇商城有hen多人。那箇商城里有星巴克。我点了面包和紅茶。
紅茶不通了。服務員用手指英国茶。我説了是。
那箇面包不熱。
我覚的中国的星巴克没有日本的服務。
這箇問題是中国的最重要的問題。当然、対於我イ門日本来説最重要的也是質量。
Last Saturday,I went from Haneda to Syanhai.In Haneda airport,there were Airforce 1.
After arriving Shanhai airport,I took a taxi to the hotel.I met my client in the hotel.And went to his office.We discussed about one issue.
After that,we went to a restaurant.We had a dinner.I asked him,if we want to order a meal what should we call.小姐ok? He said it is not OK.You must say 服務員or服務人。Because 小姐 has sexual imege.
I am interested in this cause.
And second day,I went to a deparetment store near the hotel.
There were the Starbucks Coffee.I went and ordered a bread and a tea.
The barista torsted a bread.But,the bread's central part was not hot.Chinese and Japanese Starbucks's signbords are same.But,the contents are different.This is the most inportant isseu of Chinese economy.
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Wednesday, November 11, 2009, 04:07 PM
富士に出張し、三島から興国寺城の上を新幹線で通りました。北条早雲がここにいて、韮山の堀越公房をにらんでいた、というわけでしょうか。早雲というと戦国の梟雄というイメージが強かったですが、最近の研究では、とんでもない。立派な考えを持っていた人、ということのようです。
枯るる木に また花の木を植えそえて もとの都になしてこそみめ
とは、快元僧都記にある彼の歌で、戦乱で荒れた鎌倉を再び昔のような都にしてみたいという彼の希望が述べられています。
勝海舟も彼をほめていましたっけ。
一方、車内で読んだ雑誌に、ある売れっ子と思われる歴史小説家の一文。勝の酷評と反対に、水戸の藤田東湖を随分ほめてありました。そして、正気の歌が若者を鼓舞した、すごい、とか。
あれは、中国の文天祥の受け売りで、正に著作権法違反みたいなもの、勝海舟は、そういうことで若者をかりたてる東湖は大嫌いといっているのに、くだんの小説家さんには、一向そういう意識はなさそうです。要は、明治維新はすごい、という、いかにも売れそうな前提があります。
おまけに、昭和の将軍についても見て来たような品定め。
こういう言説がまかり通っているからこの国は国の体をなさなくなるんだわ、と思いました。
我昨天早晨座新幹線去富士市。従三島駅出発以后、新幹線従興国寺城的上面通過了。那箇古城是1470年左右由北条早雲建立的。他対抗伊豆的諸候。終yu他把他的主人滅亡了。
所為一般人説他是反抗者、粗野人。可是由yu最近的研究、他不是。
他留下一箇詩歌。他説「在院子里的枯木上再植活樹、這株会再一次成長」。
這箇詩歌関係鎌倉。這箇時候鎌倉破壊了。
現在我イ門在鎌倉能看到他イ門建立的大門的根基。
我覚得我イ門得有不拘泥的意見。
Yesterday I left my house at 9am,.I took the bullet train(shinkansen).
After leaving Mishima station,we passed over the Koukokuji castle.Now it is a tea field.
The old castle was constructed by Soun Hojyo in about 1470.
He made this castle to protect the master of Izu area.That master was a relative of Kyoto Shogun.
Finaly Soun beated the master.It was the first case what was a revolution by vassal.
After that,there were a lot of battles in Japan.It was named Sengokujidai.
So ordinary people say Soun was brutal person.
But resentry by the new study ,Soun was not bad man.He made one Japaneas poem about Kamakura."To dead tree attach new blossom tree,I want to reconsttruct new capital".
Now we can see the foundation of the shrine gate between Turugaoka shrine and the sea.it was build by Soun Hojyo's famiry.
I think we have to think and exam a persn ovjectivly,without bias.
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Monday, November 9, 2009, 01:21 AM
何とも悲惨な北広島町の事件です。ある知的財産の案件、つまりは種苗関係で、あ辺りには何度も行きました。
こんなところにどうして人が住んでいるのだろうと言いたくなるようなところですが、古くから砂鉄と炭になる木材が豊富なところで、昔は正に工業地帯と言っても過言ではありません。
以前も記したとおり、大きな鉄の固まりが道路端に置いてあり?、これはタタラ製鉄が失敗し、固まりになってしまったものとか。これを使い物になる鉄にするには、後年の反射炉によって精錬する技術が必要だったようです。
その反射炉、葉隠の佐賀藩には、幕末に一応存在して、それと直接関わるかはよく知りませんが、鉄道模型を作ったり・・(そういう絵がある)ということですが、金沢藩にも佐賀と全く同じような鉄道模型があったのにはびっくりしました。
そのほかにも、各藩に行けば行くほど、幕末諸国は似たようなことをしていたもので、司馬遼太郎さんあたりにほめられて、佐賀は一番、なんて考えはもちろん絶対捨てなきゃだめ。
で、このお国自慢の考えは、結局どこも持っちゃだめ・・と、そういうことになるのじゃないか、と思います。
それにしても、事件の一日も早い解明を祈念し、犠牲者の方の冥福を祈ります。
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Wednesday, November 4, 2009, 01:30 AM
少し古いニュースですが、八丈島沖で事故にあい、船室に閉じ込められて生還された方々には、つくづく御苦労様というか、お祝いを申し上げたいし、一方、亡くなった方には弔意を表したいと思います。私の一親等の親族が、戦時中、南シナ海で、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、17、8時間の漂流を味わったことは以前も記しました。
その時、輸送船は完全には沈まず、直立状態でいっしょに漂流し、中にはまだ生存者がいたはずとか。
しかし、ようやく救助に来た海軍の砲艦に、沈みかけた輸送船からの救出の余力はなく、爆弾を当てて撃沈してしまったそうです。せめて一思いに、の気持ちでしょうが、正に阿鼻叫喚の地獄の有り様。
戦争とはそういうもの。
フランスのパリにある廃兵院(アンヴァリッド)内の戦争博物館を訪れた時、まずは入り口に、戦争のむごたらしい絵が何点もあったのには、フランス人の「強さ」を感じたものでした。
日本のこの種の場所には美しい絵があったり、「名をぞとどめん」みたいな、和歌があったり。まるでお話しの態。一向、戦争のリアルさがありません。
だから、戦争遂行能力を喪失しているのに戦争を続行したり、また、続行させた人物への責任追求が一向なされない、どころか神様にまでしてしまうのです。
真の強さとは何なのか。改めて考えるべきかと思います。
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Monday, November 2, 2009, 11:41 PM
ある国立大学のシンポに参加してきました。最近は独立行政法人になって、大学も色々大変のようです。いや、大変というのは本来おかしなことで、よくなった、じゃなくちゃいけないんですが、果たしてどうか。
それ以外の独法でも様々な問題に遭遇します。個別案件にはふれられませんが、要は、官尊民卑という問題と公私の別という問題とを混同した結果であるような気がします。
昔は、国立大学というと、公務員養成機関という使命が与えられており、これまた中国や韓国の伝統に由来し、現在、政法大学と名の付くかの地の大学も、やはりそういう機関でした。しかし、それは東大に代表される様々な問題がるというので、東大も独法化。これがおかしな官尊民卑を排除しているだけならよいのですが疑問。
本来公的であるべき電鉄会社やガス会社は、私鉄などを認めたために永く私人に壟断されてきた、あるいは、贈収賄の規制からはづれてきたという重大問題が現実にはあると思うのです(内部の人間がそう言っているんですから)。
おかしな官尊民卑は断固排除すべしですが、公私の別を欠いた政策や発想は、それこそ排除すべしと思います。
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Monday, October 26, 2009, 12:50 AM
今年も10月23日、会津若松において、西軍墓地の慰霊祭が神式、仏式の混合型で行われました。何しろ攻め寄せられ、敗戦の憂き目にあった土地の方々が、攻めて来た方の戦死者を祭って下さるのですから頭が下がります。こういうのを本当の武士道というのであって、やたらに刀を抜くのは武士道ではありません。剣豪山岡鉄舟が無刀流を唱えた意味を考えるべしということでしょう。
ところで、そんな敗戦がどうしてもたらせれたかを考える時、藩祖保科正之の家訓に行き着かざるを得ないのですが、これを会津の人に説明するのは大変です。
何しろ正之は名君ということになっていますから。彼の巨大な神儒一致つまりは神葬の墓を見せ、松平家墓所を見ると、やっと変だなと感ずる人も多いものですが。会津は朝敵ではない、正之は名君だった、が染み込んでいますから大変。私も、朝敵ではないと思いますし、薩長のやり方こそひどいと思う一人です。また、明治維新がそんなによいものだったのか、と考える一人ですが、一方、正之や五代目容頌という殿様のやり方は余りにも固く、それが後世、領民に悲劇を惹起したと思うのです。
そもそも会津というところは、第10代崇神天皇の四道将軍の相津(あいづ)の故事にあるとおり、古くから大和朝廷とかかわり深く、中世においては、三浦半島の佐原から行った平家物語で有名な佐原義連、つまり蘆名氏によって以後400年間治められました。そして、それ以前の奈良時代における徳一上人以来、仏教が扶植され、国宝の薬師如来で有名な勝常寺や恵日寺など、人口に比してお寺が極めて多いところです。
ですから、こうした会津本来の伝統を是非強調していくべきではないかと思います。
2・26事件でも有名な地元のAさんが、今、蒲生氏郷を売り出そうと思っているんですよ、と言われていたことは、本当によいことだと思います。
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