Monday, October 26, 2009, 12:50 AM
今年も10月23日、会津若松において、西軍墓地の慰霊祭が神式、仏式の混合型で行われました。何しろ攻め寄せられ、敗戦の憂き目にあった土地の方々が、攻めて来た方の戦死者を祭って下さるのですから頭が下がります。こういうのを本当の武士道というのであって、やたらに刀を抜くのは武士道ではありません。剣豪山岡鉄舟が無刀流を唱えた意味を考えるべしということでしょう。
ところで、そんな敗戦がどうしてもたらせれたかを考える時、藩祖保科正之の家訓に行き着かざるを得ないのですが、これを会津の人に説明するのは大変です。
何しろ正之は名君ということになっていますから。彼の巨大な神儒一致つまりは神葬の墓を見せ、松平家墓所を見ると、やっと変だなと感ずる人も多いものですが。会津は朝敵ではない、正之は名君だった、が染み込んでいますから大変。私も、朝敵ではないと思いますし、薩長のやり方こそひどいと思う一人です。また、明治維新がそんなによいものだったのか、と考える一人ですが、一方、正之や五代目容頌という殿様のやり方は余りにも固く、それが後世、領民に悲劇を惹起したと思うのです。
そもそも会津というところは、第10代崇神天皇の四道将軍の相津(あいづ)の故事にあるとおり、古くから大和朝廷とかかわり深く、中世においては、三浦半島の佐原から行った平家物語で有名な佐原義連、つまり蘆名氏によって以後400年間治められました。そして、それ以前の奈良時代における徳一上人以来、仏教が扶植され、国宝の薬師如来で有名な勝常寺や恵日寺など、人口に比してお寺が極めて多いところです。
ですから、こうした会津本来の伝統を是非強調していくべきではないかと思います。
2・26事件でも有名な地元のAさんが、今、蒲生氏郷を売り出そうと思っているんですよ、と言われていたことは、本当によいことだと思います。
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Monday, October 19, 2009, 01:40 AM
中国の肖向前氏が亡くなったという報道で思い出したのが、高崎達之助さん。東西対立真最中の厳しい日中間における貿易・LT貿易の一方の当事者です。あの厳しい時代、日本と中国の貿易を成り立たせ、戦前は満州重工業総裁、戦後は初代電源開発総裁、通産大臣などなど。更には、岐阜県御母衣ダムで荘川桜を移植。
もとはといえば日露戦争の際の日比谷焼き討ち事件にも参加した血の気の多い人で、水産講習所今の東京海洋大学を出て、メキシコ、アメリカへ行き、缶詰の会社を興し、そして旧満州。
周恩来が、ああいう人物は二度と出ないと言ったとか。
こういう人の大きさに比べると、最近の日本人の何と小さいことよとあきれるばかり。そのことは、近衛篤麿公関係の某中国人の先生とも先日話したことでした。
また過日、防衛省関係の雑誌に「気宇壮大の武人たれ」と書いたのですが、そんな思いや切になります。
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Friday, October 16, 2009, 12:34 AM
私は近々、佐賀に行くことになっています。そこでは、あるシンポジウムが開かれることになっており、そのテーマは、佐賀の観光でして、私はパネリストの一人です。せっかくの機会なので、私は、我々は遠大なるビジョンを持たなければいけないと言うつもりです。
例えば、佐賀には一個の水利施設があります。その名は以前もふれた石井樋と言いますが、その目的は、佐賀平野に水を供給することにあります。
その施設は、葉隠ともかかわり深い成富兵庫の考案とされ、そのお陰で、佐賀平野は400年前から米の多生産地になることができました。
一方、その施設の様式は、中国四川省の都江堰という施設とそっくりです。あちらの大きさは比べ物になりませんが。そして、同様の施設は、この日本にも多々あると言われています。
この情報は、とても興味のあるもので、それは中国に止まらず、その先の中央アジアやヨーロッパまでつながるものかもしれません。ただのお国自慢ではなく、そうした遠大さを加えてこそたくさんの観光客も呼べると思っています
我近日去佐賀的大学。那箇時候在佐賀的大学有一箇討論会。那箇討論会的主題是関於佐賀的観光。
我計画我イ門得有遠大的理想。比如説在佐賀有一箇水利施設。
那箇施設的名字是石井樋。這箇施設的目的是対佐賀平原供応水。
因為那箇施設、所為佐賀平野従400年前就能生産很多米。
而那施設的様式和中国四川省都江堰一様。我覚得那箇様式是中国来的。那信息很有意志和很大。我イ門想強調那箇信息、吸引更多旅客。
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Sunday, October 11, 2009, 01:53 AM
40数年前のあの日は、東京オリンピックの開会式でした。あの時の感動を思えば、今回のブラジル開催を心から応援してあげたい気がします。日本開催は、あと半ジェネレーションくらい遅らせても大丈夫でしょう。しかもブラジルは日本と関わった最も古い西欧ポルトガルの親戚です。数ヶ月前、テレビでウルグアイの世界遺産・コロニアの特集をやっていましたが、マカオのモンテの砦にそっくりで感動しました。マカオには日本人のキリシタンがたくさん追放され、確か天正少年使節の原マルチノがあそこで死んでいます。彼のポルトガル領だったゴアでの演説は有名。しかもマカオの世界遺産・聖ポール天主堂のファザードには、弾圧者徳川家康のお化けまで。
葉隠の佐賀にはポルトガルの遺産がたくさんありますし、その南の島原など、ポルトガル語がたくさん書かれたキリシタンの墓石が、オーバーではなく山のように出土しているのです。しかも、その墓石の形は、フランス革命の時のパリのスイス衛兵の墓とそっくりでした。カトリックですから当たり前でしょうが。もちろん平戸など西にも。
この博物館でも若干取り上げておきましたが、大航海時代は本当に面白いです。
いつも外人さんに話すのですが、八重洲はオランダ人のヤン・ヨーステンの名前から。そして、かつての掲示板に写真がある(2005年7月8日)ウイリアム・アダムスの日本の奥さんは日本橋の、今、取引関係にある信用金庫のあたりの娘さん。彼は東京湾をテムズ川に見立てたそうで、だから?東京の町割りは、私の関係した所では、ロンドンにも、オークランド(ニュージーランド)、バンクーバー、ヤンゴン・・みんな似ているなと思います。
6日には毛唐めと書きましたが、早速旧知のアメリカ人さんからメールが来ました。彼ら、みんな日本語が上手なので、一向上達しませんが、どこ国であれ、宇宙船地球号はみんな仲良くしなけりゃいけません。
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Tuesday, October 6, 2009, 11:47 PM
某市職員の方々に法律を講じるために早起きをしてラッシュアワーのホームを歩きました。こちらも端気味の場所を歩いてはいたものの、先方から来た外人(白人)、突然、持っていた傘を水平にこちらへ向けます。「何だこいつ」と思ってよけた途端、肩がドカン。少年の時以来、久しぶりにあの毛唐め!と思いました。あいつは絶対、海賊であるイギリスの子孫だぞ、とか(失礼)。
もちろん外人だから、という目で見てはいけません。色々な人がいるはずですし、現にいます。
こんな時、葉隠では「慈悲の目に にくしと思う人あらじ とがのあるをばなおも哀れめ」といいます。
この歌?は葉隠独自ではないようですが、仏教的なものが含まれていることは間違いないでしょう。
で、例の新渡戸稲造さんは、大正4年に書いた文章の中で、この歌を紹介するについて、「いかなる高位高官の者も、人力車夫も、門付けの女も、慈悲の目から憎くない」といった捉え方をします。
これが、私の言う西洋かぶれの発想です。あるいは、士族という観念から抜けられない人の見方と言わざるを得ません。こういう見方からは、水戸黄門が農民をいたわるのも、徳川綱吉が生類を哀れむのも、みんなよいことになります。なぜなら身分制度を前提にした「上からの御慈悲」としての慈悲として同類だからです。
「慈悲の目」とは、仏の目のはずです。それは上からのではありません。行きとし生ける者の死を前にした平等観です。だから哀れむのです。自分をも哀れみます。閻魔様は、地獄に落とすことの苦しみにもだえるといいます。だから、悪いことをしてはいけないというわけ。閻魔様の本地仏はお地蔵様。その信仰が、鎌倉に閻魔様とお地蔵様を同居させます。
こうした発想は、ある程度以上、東洋で発達してきたものと思います。もちろん、ルターの「ローマ人への手紙序文」など、親鸞とそっくりの文章に出会って感動ものですが、少なくとも、日本人が西洋かぶれになってしまうと、ここの上からと横からの微妙な差異は分かりにくいのではないかと思われます。
夕刻、K大の先生と食事をしていて、そういう西洋かぶれ論に行き着きました。
確かに西洋かぶれによって日本は130年の間にたいした国になった面が強いですが、このあたりで東洋文化を見直す必要性を感じるや切です。
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Thursday, October 1, 2009, 12:19 AM
久しぶりの雨、渋谷の金王坂を通りながら、この記事を書いています(あのブログどこで書いているんですか、という質問をよく受けますが、電車や車の中で、PDAで書いて、メールで飛ばしてあとで貼り付けているわけです。パソコンに向かって書いているわけではありません)。この渋谷のあたり、渋谷、金王坂、猿楽町、上馬・下馬、たくさんの鎌倉時代の言葉にあふれています。源頼朝が奥州へとたどった道とも言われます。
ローマは、都市のあちこちに古代が顔を出しているような町といえるかと思いますが、東京も、コロッセオはなくても、地名や、坂といった景観の中に、しっかり歴史的遺物を見ることができるといってよいでしょう。我々は、大きいことはいいことだ、ではなく、こういうことの中に、本物を探る力を持たなければいけないのではないかと思います。
そして、特にそうした鎌倉の遺物の中に、真の日本のものがある、と言いたいのがこの博物館です。
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Tuesday, September 29, 2009, 12:39 AM
新政権になって、官僚の記者会見廃止とかといったことが行われていますが、相変わらず頭が古いなと思うのが恐縮ながらマスコミ。一向変わらず「○○省」が何をする、といってみたり、「政府」はといってみたり、要は正確に事実を伝えません。○○省は、分かりやすく?いえば、いわば建物みたいなもの(官署)。
官庁(これも専門用語ですからわかりにくいですが)として国民に義務の賦課などを行うのは各省の大臣です。
政府というのも一体どれを言っているのか。少なくとも司法や立法ははずしているつもりでしょうが、実はそこにはしっかり司法行政や立法行政が存在し、議院内閣制の見地からは大いに問題があるのに(つまり、内閣の一部として、国民に責任を負う立場ではない、いわゆる司法官僚や立法官僚がいるということ)。
下記25日に記した勅令である官吏服務規律には、「およそ官吏は天皇陛下及びその政府に忠順を尽くせ」とありました。
となるとやっぱりマスコミは古い?
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Saturday, September 26, 2009, 12:54 AM
24日のようなことを書いていて、思い出したのが現役ではありませんが、旧札幌控訴院(今の高等裁判所に相当)の正面に正義の女神の像(といっても顔だけですが)があったこと。そして、真実を映し出す鏡もありました。こういう像を裁判所の正面に掲げておけば、裁判官もしっかり仕事をしなければ、という気持ちを起こす傾向が強まるでしょう。
これは大正時代の建物ですが、その隣にある今の裁判所には残念ながらそんな飾りはありません。控訴院の像はあくまでも大正時代のものです。
どうしてあの時代にあって、今の時代にないのか。これが問題です。それは、まずは裁判官が、官吏服務規律などにより、天皇に対する厳しい責任を要求されていた時代であったという事にもよるのでしょうが、戦後、それは国民に対する責任に変って、責任ということについては厳然として変わりないはずなのに、なぜないのか。天皇という存在であったがゆえにというのであれば、ここでも正に一種の名君待望論(の裏返し)です。
世界のどこの国にもこうしたものがあるのに、ないこの「国」。もう一度、国とは何かを考えてみなければなりません。
台湾の2・28事件のただ中にいたことのある台湾人弁理士K先生が、昨年、「無政府状態ということほど怖い世界はないとつくづく思いました」と言われたことも思い出されます。国とは何か、国の実体とは何か、正に実質的に考えるべき問題です。
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Thursday, September 24, 2009, 10:34 PM
連休は、公式行事の台湾行政法院訪問に参加し、台湾の裁判官からのお話をうかがいました。台湾というと我が国の法制が残っているという先入観があるかもしれませんが、基本は国民党が戦後持ち込んだ大陸時代のもので、五権分立は孫文の考えによります。もっとも辛亥革命以前に日本が清朝への情報提供をした時代がありますから、その意味では日本の影響もありでしょう。でも、最近、特に民主化以降は、日本どころかドイツの進んだ立法を取り入れ、はるかに日本の先を行っている面が強いと思います。
少なくとも現象面ではそうみえましたが、そこは複雑極まる台湾のこと、途中でずいぶん古い目の傾向の人にも会い、韓国同様、法律の条文とその適用の実態、特に、その前提となる官僚制度という共通の文化に思いが至りました。
一方、そういうこと以外に、関西のK大学から参加された高名な二人の名誉教授には関心しました。お一人は、最近の日本の裁判官の脳神経に関心があると言われます。私とある意味同じです。戦争時代の日本人が、特に将校以上において、なぜあのような発想になったのか、脳神経における固体変異的なところがあるでしょう。私はその変異の原因を歴史から見たいとも思っているわけです。
もう一人の先生は、難しい話をかみ砕いて考えて提示する、正に私の昔のM教官と同じ。いや、これも勉強をしていた時代の私は正にそうだったつもりで、それで書いた答案は、独創的とほめられたものですが、今は、判例とかいう法的拘束性がないことになっているものに縛られて、身動きできない暗記人間になりかけている。これではいけないと改めて思いました。
そういう大先生に比べると、「海外経験がそれだけあってもその程度?」と言いたい、これまた戦争を始めた参謀本部や海軍軍令部の将校にも当てはまりそうな人物がいたことも事実(どこの国の人とは言いません)。
そんな台湾の高雄行政高等法院の入り口に、以下の言葉がありました。
司法透過
博愛与智恵 実現公平正義 保障人民権利 安定社会秩序 維護国国家福祉 促進世界和平
それこそ台湾にしろいつも書く韓国にしろ、同様のことがなされているのに、なぜ日本にはそれがないのか。大きな問題だと思います。
高雄で一行と別れて、一人花蓮へ向かい1泊しました。旧知の市長(に相当)、議長らが夕食を用意してくれましたが、根本的主催者はこれまた旧知の大学教授。彼が精進料理しか食べないので、全員14、5名が精進料理です。ある意味子供の時から知っている一同ですが、改めてカルチャーショックを受け、台湾の奥の深さを感じました。
皆、日頃は乾杯乾杯のオンパレードなのです。半年ほど前、イギリスの牧師さんと話して、台湾の仏教は生きている、と盛り上がりましたが、まだまだ認識不足と思った次第です。
久しぶりの台湾のテレビには日本のこともよく登場し、親日的という表面の印象は受けますが、同席した旧世代の人の厳しい目と、理解してもらった時の優しい目を見落としてはいけませんし、日本がよくしてあげたなんていう尊大さは絶対にあってはならないことと思います。
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Friday, September 18, 2009, 12:23 AM
新政権が発足し、官僚政治の打破という言葉が新聞紙面に踊っています。昨日は、その官僚の一番上の方におられた方と会食しました。中に、「きちんとした官僚なら、退職を命ぜられてやめない人はいない」とのお話(例外はあり、何年か前にもめる)。
日本にもスポイルズシステムを導入しうるということか。それが健全に働くなら、それこそ民主主義です。
しかし、立法、行政が例え変わっても、断固として変わらないのが世界各国司法の習いでもありました。アメリカの違憲立法審査権はその変わらない司法というものに資する武器として、フェデラリストと反対派との政治的闘争の中で、選挙で敗れた方のフェデラリスト、ジョン・マーシャル判事によって生み出されたといいますし(マーベリー対マディソン事件)、フランスのコンセイユ・デタ・行政裁判制度は、守旧的な司法に任せておけないという欲求から生まれてきたものだったかと思います。
我が国の場合、戦後、司法行政権を裁判所が握り、その行政にかかわっているのは裁判官です。そして、裁判官には厳格な身分保証があります。
もちろんこれは、戦前への反省から生まれたもので、これを壊して直ちに民主化すべきか、その「かねあい」に難しいものはありますが、こここそが最も守られている官僚主義の牙城であること、それは地味ですが、国家の根幹を形作っていることだけはわきまえ、司法権の独立という言葉に潜む教条主義に陥らないようにしなければ、悪い歴史が繰り返す、という危険もないではありません。
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