★7月13日 
Tuesday, July 14, 2009, 12:58 AM
 昨日7月12日は、2・26事件の青年将校らの多くが死刑に処せられた日であり、法要がありました。

 このあたりの評価も、ずいぶん難しいものになってきたようです。
 それなりにしっかり勉強した人の本を読んでも、読みが「甘い」と言わざるを得ません。それは、要は明治憲法というものが解っていないことによるかと思われます。何のかんのと非難しつつ、「平和憲法」の中でぬくぬくと生きて来た世代は、日本書紀の神勅、すなわち天孫ににぎの尊に天照大神が下した勅を国家の基本に据えて、その子孫たる天皇の無謬性を法的な観念にまで高め、それを前提にした法律家、しかも、それは解釈を一切許さない上命下服の軍人として生きた彼ら、なんていう観念は、持ちたくても持てないのでしょう。

 だから、局面が違うとはいえ、北朝鮮問題など、一向ピントはずれの前提に立ってしまうのです。そういう状態ですから、中途半端に解られても危険。いわゆるオタクも困る。

 今の世の中の最大の便利さは、時空を容易に越えられる、ということなのですから、とにかく大きくものを見なけりゃいけません。

 というようなわけで、さっきは、イラン人の友人と、イラン問題、新疆の問題など話しました。つくずくと日本からトルコ、いやローマまで通ずる絹の道を感じます。このアジア大陸の北のルート、つまりはペルシャ語の道と、南のアラビア語の道を分けて考えることが大切でしょう。
 関西の某(大)学者のように、日本だけが特殊な言語、文化、なんていってるようでは、まともな政策もとりえません。この人については、友人のメキシコ人Aさんとのウェブ対談でも「おかしいですね」と、偶然意見一致。

 青年将校の純粋な気持ちを現代に生かすには、村中大尉が公判調書の中でも述べているような、アジアにおける日本、あるいは日本人の、正に武士道にもとる行為の、世界的に見た問題点に広い視点から気が付き、今後に生かしていくことが大事です。
 まるで針小棒大ともいえる話、無理なのかなーとも思われますが。




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★7月10日 
Friday, July 10, 2009, 07:58 PM
 中国では、新疆ウイグル自治区が大変です。西安あたりへ行けば、回族の目の青い人がたくさんいますから、あのあたりはもっとヨーロッパに近い。清朝・乾隆帝の親征により清国の版図に入っところです(もちろん昔からシルクロードの関わりはありますが)。

 辛亥革命のあとの、その独立をつぶしてしまったのは、日本の稚拙な大陸政策のなせるわざ、とは以前書きました。うまく対応して「衛星国」モンゴル人民共和国をこしらえたのがソ連でした。
 しかし、それが持ちこたえられなくなって、結局「人民」を外さざるを得なくなったように、新疆やチベットの現状維持は、中国にとってなかなかしんどいことと思われます。しかし、ここまできたらそう簡単には手放さないのも間違いないでしょう。相当な不安定要因です。
 
 それにしても、大正、昭和と、本を読んでみれば、日本のお粗末外交には慨嘆。
 そんなことを思う日々に、ちょっと読んだ中外日報の佐藤鉄太郎海軍中将の話が面白かったです。彼は、大陸へと矛先を向ける勢力に対し、日本は海へ目を向けるべきで、イギリスの百年戦争が大陸への介入を重ねた結果失敗した故事に学ぶべしと言ったとか(もっとも、今のイギリス王室はノルマンから出ていて1066年のノルマンコンクエストにより大陸を征服したのだと思えば確かに大陸に関心を持つのは運命みたいなもの。日本にもそれはいえるかもですし、あちらもノルマン以来からいえば、正に万世一系的)。

 要は、気宇壮大な考えがあったわけで、現代においても、外交にはそうした気宇壮大性が必須ではないかと思いますが、そのためにはアメリカやヨーロッパの方ばかり見ないで、足下のアジアを眺めましょうよ、と言いたい気がします。



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★7月2日 
Friday, July 3, 2009, 12:54 AM
 久しぶりにアメリカの同業者Cさんとランチしました。彼とは、数年前、一緒に伊万里、平戸、長崎を回り、わずか1歳の息子さんをバギーに乗せて連れて歩いたのには、変なところでアングロサクソンの強さを感じたものです。
 同業者とはいっても、アジア、オセアニアの投資にかかわっていますから、日本のそれのように視野が狭くはありません。しかも話すと、お互いの知り合いが次々出てきて、世界は狭いなとつくづく感じます。

 そんな今日、20年位前から中国ビジネスを展開している同郷人からの便り。最近、北から南まで回ってきたそうです。私と同様、今後の発展は十分期待される、との話しとともに、特に品質におけるかの国の問題もズバリ指摘。

 一方、中国の持つ国家戦略を強く意識したと書いてありました。私も同意見です。むしろ漢民族のというべきでしょうが。この言葉は数日前のドイツ人も、再三言っていた言葉ですが、我が国は、この「国家」概念が誠に問題。国家主義とかいう概念がすぐ想起されてしまう発想の貧困。

 いつも書く北マリアナはもとより、南の島の新しい国作りにでも多くを学んで、早くしっかりした国家概念を作らなければ、戦略も何も生まれるはずがありません。



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★7月1日 
Thursday, July 2, 2009, 01:02 AM
 秋葉原の町にはコスプレのお姉さんたちがたくさんいます。コスプレはコスチューム・プレイ、つまりはアニメなどの役になりきって遊ぶことですが、日本の一文化として世界に広まっているとか。もちろんこうした現象は元々日本以外にもあったわけですが、どうも最近は劇場国家ならぬコスプレ国家として本家本元になってしまったようです。
 何しろ全てが外側だけで満足。「ごっこ」の世界。なぜか、なぜかと追求することをしない・・・。

 政治も正にごっこ。この期に及んで内閣改造とは、正にごっこですが、人間の「欲」という「実」を種にして覇権を握ろうとしている様は、一応、ごっこではない「健全さ!?」の残り火か。

 それにしても、解散権が内閣総理大臣にある、などと書いた条文は憲法のどこにもないのに、ご本人も回りもすっかりその気になっている。如何に解釈したとて、解散権があるのは総理大臣にではなく内閣そのものに。ただし、総理大臣に逆らった大臣はやめさせられるというだけ。
 要は、先日の件もそうですが、そんな度胸のある大臣はいないので、結局、事実上総理大臣にあることになっているだけ。
 
 しかし、この解散権というもの、フランス革命の三部会にみられるとおり、また、明治憲法にもみられるとおり、恐ろしい権力として機能してきた歴史あり。
 なのに、軽々しくも「総理の大権」だなどと述べる政治家がいるに至っては、正に、コスプレ国家の面目躍如!?と言わざるを得ない気がします。大権という言葉の意味、わかっているのかね、と。

 こういう状態を何とか支えてきたのは、このアジアでは、民主的ではないとはいえ、長い間官僚であったわけですが、その官僚にも陰りありでは、いよいよもってごっこをやり続けていくのかねと、いささか悲観的になります。


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★6月29日 
Tuesday, June 30, 2009, 12:51 AM
 今日は、若干の関係もある郵政の株主総会があったよう。株主総会シーズンも一段落で、先々週以来の様々なドラマもようやく一区切りとなったようです。
 個人的には今日も総会の現地から急信が入って緊張しました。
 今年ほど緊張の多かった年はなかった気がします。

 一方、昼間はイランの友人と、かの地の選挙を話し、先ほどは、あるドイツ人さんの講演を聞きました。イランの彼によれば、一応騒動は収束とか。アメリカ的見方だけではいけないな、と思います。今も色濃く陰を落としているイラン・イラク戦争。

 一方、ドイツの彼は、ヨーロッパでドイツ、ブランス共同でエアバスができたように、アジアも日本、中国、韓国で飛行機を作るようにならなければ置いてきぼりになるよと。
 正にそのとおりでしょうが、それには我々の意識変革がまず先行しなければ。現代における、ドイツの発想の変換は、日本的旧ドイツ観からは想像できないでしょう。その象徴が、ベルリンにできたホロコーストの記念碑でしょうか。

 20年も昔、札幌の友人らがドイツ連邦憲法裁判所の判事を招聘しましたが、その判事は、毎日、バイクに乗ってヘルメットを被って通勤していたとか。日本の最高裁判事が、秘書官つきで、大きく静かな部屋にいるのとは大違いです。
 アジア全体の劇的変化を考えるべきとき、一方の中国でも、逆に儒教的退歩的面がないとはいえないところに、アジア全体の問題を考えます。
これは、夜分話した中国の人との会話。

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★6月21日 
Monday, June 22, 2009, 01:23 AM
 株主総会の季節、当該会社では、想定問答などの整理に余念ありません。
 この時期、他の社団、財団などでも同種会議が集中しています。特に最近の公益法人の見直しで、一時はどうなるかと肝を冷やした団体も多いことでしょう。それが何とか収まり傾向にあるというのも正に日本的か。
 
 ところで、こうした会議というもの、正に国民の資質が問われます。中には審議の運営が相当いい加減あるいは不当ないしは違法まがいの団体もあるようで、会社と違ってこうした団体には監督官庁というものがありますから、それが最後のチェック機関とはなるわけですが、余りにひどい、民主主義の掛け声を種に人権や正義がないがしろになるようなケースでは。お上の裁断も必要になるでしょう。

 本来、それでは困るわけで、以前も書いたとおり(京都の槇村事件など)、明治初めの政府が中央集権を進めたのも余りに極端な地方のエゴを是正する一面がありました。再びそこへ戻らざるを得ないケースがちらほら見えるようでは、裁判員などというものも、当面希望が持てなくなってしまいます。

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★6月15日 
Monday, June 15, 2009, 07:25 PM
 科学的鑑定の問題で中部地方のある県に行きました。小学生の時以来の友人がお願い先。
 彼のような理科系の人と話すのは楽しいものです。嘘いつわりのない世界だからでしょうか。
 私も工作や理科の実験が大好きだった昔に帰って、もういちど別の人生をやってみたい気になります。もっとも、おっちょこちょいの私は、計算がからきしだめで、理科系では点数が取れなかったと思いますが。

 で、ひとわたり話が終わって、案内してもらったところが武田八幡宮。
 武田信玄が改築した本殿はじめ、みどころ満載。素晴らしいの一語。特に、この神社に願文をささげ、武田勝頼とともに自害した奥方は、小田原の北条氏政の妹で、わずか19歳ときては、その願文の素晴らしさとあわせて、昔の人はやっぱりすごかったな、とただただ感じ入るばかりでした。辞世の歌は
  黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒
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★6月10日 
Wednesday, June 10, 2009, 11:55 PM
 健康診断で、隣の弁護士会の講堂に行くと、正義の女神の像が置いてありました。
 よく議論になるのですが、その像は、右手に剣を持ち、左手に天秤を下げていました。最高裁にもありますが、大体、似たような形であった記憶です。
 だらんと下げた秤はどうも力なく、剣の方がしっかり立っているのは何かを暗示させます。

 以前も書きましたが、お隣韓国では、秤を高高と掲げ、剣は国柄に合わないと六法全書を持つ女神が、最高裁の真正面に。入り口には「自由、平等、正義」の文字です。

 陪審発祥の地、イギリスの中央刑事裁判所(ロンドン)では、庁舎の頂上のクーポラ天辺に、腕を真横にして剣と秤を持った女神像があります。公平を強く意識させます。

 そして、パリでは、パリ大学法学部の入り口に「自由、平等、博愛」。しかもその面前にはルソーらの墓があるパンテオンが。

 こうしたあつらえは、裁判官を信じず、人間は常に謙虚でなければならぬと教えているように思います。
 日本にはなぜこうしたものがないのか。あるいは設置できないのか、きわめて深い理由がありそうでなりません。そういえば、中国にもなかったな、とか。
 もっとしっかりした国になるとはどういうことか、考えるべきだと思います。
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★6月9日 
Tuesday, June 9, 2009, 09:24 PM
 ある学者の学会報告を拝聴。「私は木を見て森を見ずと言われています」との冒頭のお言葉。むしろ、学者は基本的にそれが正しいともいえるでしょう。木も見なければ、山も変な方向を見ているおかしな評論家がメディアを賑わしているご時世、とんでもない、立派な先生です。もちろん、そういう評価ありの人。

 しかし一方、この「学者の良心」のみで進んでいくと、まとまったものが完成されるには相当な年月を要しますし、うっかりすると自己満足にも陥ります。現に大学者の多くの業績は、相当な高齢でそれなりのものができ、貝原益軒のように、本を書き始めたのは70歳なんてことにもなります(もちろん、本居が言うように、晩学の人も、努めれば立派な業績を残すでしょうが)。

 そこで一方に、木はよく見ないけれども山を見て方向性で勝負するという人種にもそれなりの存在意義はあるでしょう。私がそれである実務家というのはその一種。

 実は、かの先生の報告のテーマは「国家神道」であり、明治以来の宗教法制をしっかり跡付けた上でなければ国家神道などという観念は持てない、という雰囲気が見られましたが、日々、人権などというものに対面している私からは(例えば、売買契約は、憲法29条で保障された財産権の移転にからむ人権の問題)、明治憲法、その制定に当たっての、枢密院における伊藤博文の言葉、憲法学者美濃部達吉の本などなどからみれば、旧憲法下の国家体制が法的にも倫理的にも国家神道という一種の宗教であったことは当然であると見られます。
 
 実務家の、太い「論理」をよすがとして。これに実証をほどこすことはもちろん大切でしょうが。



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★6月4日 
Thursday, June 4, 2009, 02:31 PM
 このところ、北朝鮮をめぐって重大な報道がなされていますが、その一つがアメリカのジャーナリスト2人が北朝鮮当局に逮捕され、裁判にかけられるという話しです。
 アメリカの報道でもどうなるか分からないということですが、かの国の制度については、額面と実態が全くことなるのは当然で、ましてや日本人の頭で考えてもだめです。

 その昔、「社会主義や共産主義になったら泥棒なんかいないはずなのに、ソ連にもちゃんといるじゃないか」という議論をすると、その国のシンパは、「それは資本主義の残滓としてあるのであって、革命が成就すればなくなるんだ」なんてうそぶいていたものです。
 そういう話しを聞いて、「そうだな」なんて納得してしまうおめでたい人間もいたわけで、そういう人間が自民党や(もちろん民主党や社民党にも)、官僚にいて、その昔のことはすっかり忘れるか、全共闘がなつかしいなんて言っているから困ったものなのです。
 つまりは、日本の「試験制度」に重大な欠陥があると思っています。私などはその被害者?です。

 一方、私は、その昔は北朝鮮と名が付けばあらゆる本を買って読んでいました。今では多すぎて手が回りませんが。そんな中に、朝鮮総連系のかの国の学者の書いた法律の本があり、これにはある意味目が開かされました。上記の泥棒の話しと同様、独特の発想を持っているからです。
 そんな目から見ると、テレビなどでしゃべっているお方の発想は余りにも日本的。大前提の違いを無視して外交を云々しているので、議論になりません。

 それはそれとして、先日、岩波から現代文庫を出された先生から、そのご本をいただいたので、久しぶりにお会いし、食事しました。
 その際、私が「あの福島正夫さんの罪は深いですよ」と言ったら、先生は「そうですね。私もその点は反省せざるをえない」と言われました。何しろあの福島さんの本など、正に地上の楽園のことが書いてあるわけですから。ああいう人が、要は右も左も、東大の名誉教授だの早稲田の客員教授だのになって、全集などを出し、権威に弱い素直な学生が、様々な過誤を犯し、自身をだめにしてしたどころか、それ以上のことになっていることを、我々は忘れてはならないと思います。
 ちなみに福島氏が客員教授をしていたw大の文書を読んでみたら、相変わらずのべたほめ。しかもあの人が北朝鮮のことを書いていたことなど全くカットといういわば故意的隠蔽にはあきれるばかり。
 新渡戸稲造の「武士道」といい、福島氏の本といい、ほめる人は本当に読んだのかね、と言いたくなります。もちろん読んではいないでしょう(そのことは葉隠の山本常朝にも言えることですが)。

 その福島さんは、早々と亡くなり、ほっかむりするか、あの世に逃げるか、なんていうのでは、本当に困る。だから我々は、勉強を怠ってはならないのです。



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