Wednesday, July 9, 2008, 01:50 AM
大正時代の中国は、辛亥革命後の紛々たる乱離の間ともいうべき大変な時代ですが、今日の世界情勢を考える上で、様々な示唆を与えてくれます。そのころ北京で発行された「北京週報」の1927年版はこんなことを言っています。 「米国の著者カールクロウなる人、日米問題なる一書を公にして、徹頭徹尾日本を罵倒せるが、多くは肯綮に当たらずといえども、日本の資源の貧弱なるを指摘せる点は、すこぶる事実に近きもので、彼は曰く、日本人は如何に威張りたるとて、その全国土は米国のカリフォルニア一州より600平方哩広きに過ぎず。日本人は山水の優美をもって誇れども、その美なる山水は、たまたまもって日本の国土の貧弱を物語るに外ならず。・・・」つまり、いささか古い言葉ですが、「美しい国」とかいうような、鍋島直茂の「実」の発想からみると「お話」としか思えないような発想は、だめと言っているわけです。
もちろん、ブルーノタウトみたいな外人に褒められたからといって景色の美で酔っている様な国民では困るわけです。
まだまだ引用すると参考になる話が満載ですが、今度の洞爺湖サミットにおける日本の立場を示唆する警句に満ちた本を見直すことも大切でしょう。
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Friday, July 4, 2008, 02:57 PM
下の如き小説非難(?笑)を書いていたら、昔から興味をもっていて1冊も読んだことのない丸山健二さんが、昨日の日経に我が意を得たりのことを書いておられました。曰く「父が愛してやまない日本文学も嫌いだった。愚にもつかない苦悩をつづった病的なものに映ったのです。」、
最新作については「ダイナミックな室町の日本人の精神を描きたかった。江戸時代以降の日本人は島国根性の狭い枠にとらわれてしまった。もともと日本人には強靭な生のエネルギーがあったのに」。
正に私と同じ意見じゃないかと思いました。
その昔、安曇野をバイクで翔る不思議な小説家。こりゃいいぞ、と思ったものです。
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Tuesday, July 1, 2008, 01:43 AM
そういえば、下段の席でそのA先生のお話し。例の晶子源氏や谷崎源氏など現代語訳の源氏については、全て一流の学者のアドバイスがあったとか。ちょうど、竜馬が行くという小説は(私は読んでいませんが)、太宰治の墓の前で死んだ田中英光の父・岩崎英重さんの著書がなければ書けなかったといわれているのと同じでしょう。
私は、岩崎の素晴らしい著書は読みますが、司馬さんの小説は全くといっていいくらい読んだことがありません。およそ、小説なるものを読まないのです。
親しくさせていただいている憲法のT教授によると、その方の先生・田上穣二さんも小説を読まない人だったとか。田上教授には口述試験で当たったことがあり、ややびっくりした面はありますが、正に美濃部的な厳格な論理の人だったと思います。
こんなことを飛行機の中で同席した人に言ったらあきれられましたが、小説はあくまでもただの楽しみ。ましてやそれが高じて美談に酔うようになると大変です。
この博物館に書いたとおり美談で歴史を作るのは決して日本式ともいえないのです。日本人が論理的国民になるには歴史は小説じゃないんですよ、という当たり前のことをまずは自覚してもらうことが大切かもしれません。
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Monday, June 30, 2008, 02:12 AM
このところ源氏物語がやたら出てくるね、と思ったら、今年はできて1000年目ということになっているそうですね。それで、先日、文部科学省OBのA先生に「あんなに難解で、解釈に苦労するような男女の機微の本は高校生には教えるべきではない。徒然草の前向きの部分とか吾妻鑑を読ませるべし」と言ったら、否定的でないお言葉で、やや溜飲が下がりました。
とにかくあれ(源氏)はいけません。あんなものを教えるので、かえって若い人の国語力が低下するのです。今や、日本の若者の国語力は地を払っています。
確かに中国のある有名人が、「我が国では紅楼夢が出るまで、紫式部という女性にああいう本では負けてしまっていた」と言ったのは事実です。
しかし、その中国には武では三国志演義が、侠では水滸伝があります。源氏は情です。しかも男女の。
こんな実情をみれば、武士道の徒?があんなナヨナヨの源氏をありがたがって我が国の誇りみたいなことを言うなんて、正にもってのほかです。
よろしく源氏ではなく、平家物語、徒然草の40段以降あたり(この前とあとでは違います、といわれていたのは学芸大の安良岡康作先生。徒然草は、ただの無常感だけの本ではありません。もっと積極的な本です)、それに吾妻鑑、甲陽軍艦あたりを読ませるべし。そうすれば戦争の意味もわかります。
そして、もっと国語ができるようになり「声に出して?」なんていうややおかしな本をありがたがるような風潮はなくなります。あの程度じゃ困るのです。
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Saturday, June 21, 2008, 02:04 AM
昨日は仕事で長野市に行きました。駅前で、中国政府を非難するビラを配っている中国系と見られるおばさんがいたので、つい簡単な中国語で声をかけるとマレーシアから来たとの話。「もっとビラを配りたいから長野に友達はいないか」と聞くので「没有(いない)」と答えました。
これは例の?宗教のビラなので、いささか危険かとも思いましたが一応の友好(ヨウハオ)。
夜になって、今度は相談かたがた深い中国思想の研究家と話すと、その宗教自体は危険じゃありませんよ。ただ「気」を大事にするんです、との話。
しかし、気といわれると、私にはやはり眉唾で、今や正に長野市の一部になった松代の先覚者・佐久間象山といえども、自分の身内がコレラだかで死んだとき、火葬にすると気が飛んでよくないので土葬にすべしと言ったとか。正に非科学的で、今の墓地埋葬等に関する法律の趣旨にも反します。
藤田東湖の正気の歌が残念ながらパクリであると以前も書いたとおり、決して西洋万能とはいわないし、漢方薬の信奉者ではあれど、やはり怪しいものは怪しいのではないかと思います。
水戸黄門も合理を追求したとは言えるのですが、根本が不合理で大変な問題の源を残す。合理と不合理の区別は本当に難しいです。
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Wednesday, June 18, 2008, 01:08 AM
先日、何十年か前に最高裁判所で担当した事件の受刑者から手紙がきました。何十年も刑務所に入っているということは尋常ならざる事件なのであって、当然、
私の気持ちも穏やかではないわけですが、かといって、私はそのケースに死刑を
選択することには少なくとも躊躇を覚えます。
ロンブローゾという学者の、犯罪は遺伝学的なもので、必然であるとの見方はと
らないとしても、「自分はなぜこういう事件から手を引けないのだろう」と呻吟
する被告人や、その意識さえ「持ち得ない」つまり、自分は悪くないと思ってし
まう人間(少なくとも外形は)がいることも事実なのです。
そういうことを知り、死刑の実態も知った国民であってほしいのですが、後世の
人類から、当時の日本人は、韓国のように死刑場も見せられず、被告人の実態も
知らされずに、闇雲に世間の敵を抹殺していた、などという評価だけは受けない
ようにしたいものです。
後者の点について、来年からの裁判員制度が一定の役割を果たすことは間違いないでしょうが、先行している韓国の域には達しなければ世界からあきれられます(今日の死刑報道を見て)。
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Tuesday, June 10, 2008, 10:39 PM
8日間があくと色々考えさせられることだらけです。日曜は、恩師の奥様のお見舞いで山形に行きました。ご夫妻との数時間の対談でしたが、やはり年配の方と話すと、最近の日本人の能力低下が話題になることは否めません。
恩師の父上はA級戦犯・佐藤賢了の東京裁判における弁護人を務めた有名な学者であり、裁判官です。佐藤は「黙れ事件」で有名な東条の側近であるとともに、戦後は宇都宮徳馬さんとともにアメリカのベトナム介入を批判した人。あれだけの問題児(私は彼が話すのをテレビで見ました)でも昔の人の方がキャパが広かったかと思います。
そうしたキャパの広さを涵養するには、国語、特に古文の力が必須でしょう。かろうじて教える能力のある人がいないではない今の時期に、源氏物語はやめて平家物語をしっかり教えろと言いたいです。
日経で、源氏がブームということで特集がなされていましたが、その初めにもあったとおり、徳川家康など、それを愛読していたからこそ、後の雅趣味、幕府崩壊につながったのです。そのことは漢学者も予言していました。
学校では、もっと雄渾な国民文学を教えるべきで、宮廷の変てこ文学は余裕があればやればよし、です。
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Monday, June 2, 2008, 10:37 PM
以前も書いたことですが、30年近く前、ある高名な刑事訴訟法学者のお話を聴いた事があります。その先生いわく、「私は『日本の』刑事訴訟法というものがどういうものか外国の人に説明できないのが残念です」と。
そして30年、実はその先生こそが今回の「裁判員」なるものを考え出された重要人物?と知りました。そして、「えっ先生、あなたの言う『日本の』というのはこういうキメラみたいなものだったんですか?」とも。
陪審でもない、参審でもない。奇妙なものだし、理念から導き出されてこない。つまり、国民が歴史を作るという陪審の根本からずれているし、鎌倉的にいうと、実は日本のものでもない。いわゆる妥協の産物みたいなものです。
いよいよ施行まで1年を切って反対論もかえって盛んになってきましたが、こうした理念をとりあえず措けば、大化けしないとも限らない。韓国では先行して行われ、ポジティブな評価もあるそうです。もっとも牛の輸入などを見ていると、韓国と日本では、それをになう国民性が違うかな、という気もしますが。
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Friday, May 30, 2008, 10:25 PM
おとといは仕事で、この博物館に関係深い水戸へ行きました。茨城県人会で話しをした時のこと、ある人から「あなたのいばらぎは間違いで、いばらきが正しい」とのやや厳しいご指摘。しかし私としては「は〜、そんなこと言ってるからおかしくなるんですよ」との応答。
なぜなら、茨城県なるものは明治政府のやらかした一種の創氏改名みたいなもので、今日の新聞に民俗学者の谷川さんが書いていた平成町などというとんでもない文化破壊の一例に過ぎないからです。
茨城でいえば、常陸の国風土記に石岡の土蜘蛛の話しがあって、それに備えるために城(き)を造った。だから、県全体の名を茨城にしましょうという話し。東京などという人工地名から始まって、皆適当にそういう方式。栃木に至っては字まで作ったとのこと。
で、そうなろと、実は佐賀県にも小城というところがあり、これも土蜘蛛に対抗するために小さな城(き9を作ったことに由来します。でも「おき」では言いにくいので、「おぎ」です。
ワープロでも「いばらぎ」ででるとおり、そんなことに正しいも間違いもなし。以前書いたとおり、こうした議論は上田秋成と本居宣長との間にもあったのですが、自然であるのは秋成。宣長の教科書的名声?によって判断を誤ることなかれといいたいです。
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Sunday, May 18, 2008, 10:12 PM
かつてのブログの引越しです。★5月13日
ミャンマーのサイクロンが大変と思っていたら、今度は中国の四川省で大地震発生。
私の友人は10数年前に11人で成都に赴任し、日本のスーパーマーケットを立ち上げ、今日の隆盛を迎えました。今回の地震で店舗は相当の被害にあったようですが、ご本人は無事で、しかも営業再開との事、先ずは安心しましたが、被災者にはミャンマー同様、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
震源地に近い都江堰は、秦の始皇帝が李ひょうという親子に造らせた巨大な水利施設です。長江の上流にかかる巨大な岩山を火で焼き、水をかぶせて岩をもろくさせ、水路を開き、四川盆地に水を流す施設で、2300年前に造られて、今も四川盆地を潤しています。四川省の地図をよく見ると、その重要性と巨大さがわかります。そして、これとそっくりの小型版が葉隠の佐賀にある石井樋という水利施設。
最近、漸く都江堰との関連が注目されているようですが、以前は成富兵庫のグッドアイディア程度ですまされていました。江戸初期とはいえ、どうしてあのような土木技術が佐賀までやってきたのか(可能性が大)を探ることの方が面白いのに、ただのお国自慢にしてしまってはつまりません。ちなみに、私はほとんど読んでいない司馬遼太郎さんは、宇治の水利施設と都江堰との関係に注目しているようです。
このような土木技術と新しい武士道の発生とは極めて深い関係を有しています。
★5月11日
ミャンマーのサイクロン被害は甚大のようです。
元々、農村では竹の柱に・・的な家に住む人が多く、一方、パゴダには一生懸命寄進するという国民性を考えると、心が痛みます。ビルマは元寇の被害を受けていて、バガン(日本ではパガンといいますが、地元ではバガン)には、元の軍隊が書いた落書きなどが残ります。そして、ビルマ族には姓がありません。日本の皇室と同じです。アウンサン・スーチーさんと言っても、あれ全体が一つの名前というわけです。
となるとそれは、チベットを含め、モンゴル・日本あるいは台湾の現住民族にまでつながる中国周辺民族のひとつということになり、親近感がわくのも当然です。京都大学の田村先生は、中国周辺の民族は一様に頭を剃っていると書かれていますが、ちょん髷といい、辮髪といい、この指摘は正しいでしょうし、姓もそのひとつの共通要素です。
そんなときたまたま、トルコのいわば突厥に当たる人に会いました。顔は日本人そっくりですが、ムスリムですから豚肉を食べません。
そして、ムスリムであることを利用してアラブでのビジネスとか。正に、中国周辺をぐるッと回ってのビジネス。チベット問題の先には〇〇スタンという多数の国家・地域の問題が横たわっていることを再認識させられました。
チベット問題を考えるには先に書いたとおり、昔の満蒙あるいはそれ以上の大きさで考えなければなりません。そうでなければ、明治・大正の日本人に負けてしまいます。
★5月8日
連休初めには台湾に行ってきました。
仕事の上でも関係ある弁理士さんの昔話。「無政府状態の怖さは経験してみなければわかりません。」は、最もズシッときた言葉でした。もちろん1947年の2・28事件関係のことを言います。
この件については何回も書きましたのでふれませんが、こうした痛みは一体何か。台湾という島の西を開いた中国。東を開いた日本のいわば文化的綱引きのようなもの。
そう思ってみると、台湾には昔から生と熟という観念があります(最近は使われません)。この観念は、苗族などの大陸の種族でも、中華化されたか否かを表す言葉として使用されるものです。そして、実はチベットもモンゴルも同じ事象が見られます。更に、実はこの日本についても使用されるべき重要なフレーズではないかと思っています。アジアをどう論理的に「解釈」していくか、という視点です。
★4月21日
いよいよもってチベットの問題は聖火とともに広がってきてしまいました。しかし、テレビ等でしゃべっている日本の識者?はいかがなものかと思います。14日に私が書いたちょっとした「論理」もないのですから。
あるいは、先日、ダライラマ14世が成田を通った時、あれは、昔の中国との関係でいうと、孫文が神戸に来たときみたいなものです。その時は、政府は誰も出迎えません。中国の孫文派か北京等政府か勝敗の帰趨不明だったからです。今回も、政府関係者は当然ながら迎えなかったようですが、のこのこ行った人は何かな、と思います。
むしろ、さすが14世は、軍事権、外交権のない自治を要求すると明確に言われたようで、一つのオファーでしょう。ただ、これもなかなか難しい。具体例としては北マリアナですが、チベットは元が藩で、つまりはグアム(準州)みたいなものですから、その「差」は他の地域との関係からも重要・重大と思います。
話し変わって、近頃、靖国神社の映画の話が話題に。私と旧知の一水会の木村三浩さんらが上映会をされたのは立派。見なけりゃ話になりません。そして今日は、郵便局に行ったので、戦没者に哀悼の意を表したあと、閉館ま近の遊就館に入ってみました。以前、私が指摘した張作霖の写真はボードごと入れ替えられていました。
しかし、とにかく昔とはポリシーが全く違います。私は今の前の前から見ていますが、昔はやたら軍歌を流してなどいませんでした(一部の映像のところだけ)。つまり、いつも言うとおり、今は昔の鎮魂の場と違い、我々は正しかったということを主張する展示館になってしまったのです。しかし、そもそも軍人勅諭にあるとおり、軍人が政治的に主張することはおかしいわけです。たんたんと職務に邁進してこそ軍人です。
軍人だった桂太郎も日露戦争で首相の時は文官の服を着るというけじめがあったのに、東条さんは総理になっても軍服で、憲兵政治をしたからおかしくなった、といわれているのに、そのあたり全く分かっていない感じです。
このことは洋の東西を問わないわけで、先日ある機会にお話を聞いた米軍の司令官も、政治向きの話は、ワシントンで決めることといわれていました。軍人は烏合の衆ではありません。政治と職務をくっつけることは、むしろ軍人に非礼ともいえます。
本庄侍従武官長、大西中将、阿南大将を並べてあるのはよいとして(この人たちはきちんと責任をとり、軽挙を戒めた立派な人たち)、そこに、戦争終了後若者を道連れに一種の特攻を行った宇垣氏があるというのは、ここでもけじめがつきません。日本人の論理の浅さと本当のけじめの知らなさを感じます。なにやら分からぬ漫画に至っては、人間の崇高な死をなんと考えているのやら。「裁判員参上」「よろしく裁判員」とかいう最近のふざけた広告に通じるものを感ずるのは私だけでしょうか。日本人よ真にしっかりしろ、です(いや、それ以前の「真面目にやれ」かもしれません)。
★4月14日
チベットの問題は聖火もからんで世界各地に波及しています。この問題こそある意味西洋と東洋との衝突ともいえます。
中国瀋陽の清の故宮に行くと、昔から清の王様の奥さんは蒙古から来ていたことが知られます。そして、1644年、明が滅んで大清が中国の主になったとき、蒙古、チベットの奉ずるラマ教、つまりチベット仏教を大切にしていた清の皇帝に対して、チベットは服属します。学者にも、清はそれだけ大きく幅のある存在であったことを指摘する人がいるとおりです。現に清の版図こそ中国最大の版図であったともいわれます。
しかるに1911年、辛亥革命がおきて清がつぶれました。ただし、中国がつぶれたわけではありません。王朝がつぶれたのです。しかし、その王朝ないし皇帝に服属していたチベットなどは後継者たる国民党や共産党に服属するいわれはないとします。
しかし、この時代、「国」という西欧的仕組みが東洋に入り、しかも人間の「欲」というものが加われば、共産党といってもおいそれと利益は手放しません。それどころか、北京の雍和宮に展示してあるとおり、共産党がパンチェン・ラマを任命(承認)したりします。毛沢東記念堂の正面の柱が11本で、正に皇帝と同じ、といったことにも関係してくるでしょう。
そんなわけで、問題は本質的で簡単に片付きません。しかし、であればこそ、かつて中国の国民に対して多大な迷惑をかけていたことは間違いないわが国としては(3月30日参照)、それと同様、ネットにも散々流れている人権侵害が停止されるようアジアの知恵で説得しうるだけの力量をもたなければならないと思います。
しかもこうした問題は、チベットだけでなく、中国の都市と農村といった問題でもあるはずです。そのためには西欧的国家像をもう一度反省し、あるいはむしろこの博物館に書いた社稷的西欧行政主体を再評価してみることも必要ではないでしょうか。
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