★6月2日 
Monday, June 2, 2008, 10:37 PM
 以前も書いたことですが、30年近く前、ある高名な刑事訴訟法学者のお話を聴いた事があります。
 その先生いわく、「私は『日本の』刑事訴訟法というものがどういうものか外国の人に説明できないのが残念です」と。
 そして30年、実はその先生こそが今回の「裁判員」なるものを考え出された重要人物?と知りました。そして、「えっ先生、あなたの言う『日本の』というのはこういうキメラみたいなものだったんですか?」とも。
 陪審でもない、参審でもない。奇妙なものだし、理念から導き出されてこない。つまり、国民が歴史を作るという陪審の根本からずれているし、鎌倉的にいうと、実は日本のものでもない。いわゆる妥協の産物みたいなものです。
 いよいよ施行まで1年を切って反対論もかえって盛んになってきましたが、こうした理念をとりあえず措けば、大化けしないとも限らない。韓国では先行して行われ、ポジティブな評価もあるそうです。もっとも牛の輸入などを見ていると、韓国と日本では、それをになう国民性が違うかな、という気もしますが。

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★5月30日 
Friday, May 30, 2008, 10:25 PM
 おとといは仕事で、この博物館に関係深い水戸へ行きました。茨城県人会で話しをした時のこと、ある人から「あなたのいばらぎは間違いで、いばらきが正しい」とのやや厳しいご指摘。
 しかし私としては「は〜、そんなこと言ってるからおかしくなるんですよ」との応答。
 なぜなら、茨城県なるものは明治政府のやらかした一種の創氏改名みたいなもので、今日の新聞に民俗学者の谷川さんが書いていた平成町などというとんでもない文化破壊の一例に過ぎないからです。
 茨城でいえば、常陸の国風土記に石岡の土蜘蛛の話しがあって、それに備えるために城(き)を造った。だから、県全体の名を茨城にしましょうという話し。東京などという人工地名から始まって、皆適当にそういう方式。栃木に至っては字まで作ったとのこと。
 で、そうなろと、実は佐賀県にも小城というところがあり、これも土蜘蛛に対抗するために小さな城(き9を作ったことに由来します。でも「おき」では言いにくいので、「おぎ」です。
 ワープロでも「いばらぎ」ででるとおり、そんなことに正しいも間違いもなし。以前書いたとおり、こうした議論は上田秋成と本居宣長との間にもあったのですが、自然であるのは秋成。宣長の教科書的名声?によって判断を誤ることなかれといいたいです。
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★5月18日 引越しブログ 
Sunday, May 18, 2008, 10:12 PM
かつてのブログの引越しです。

★5月13日
 ミャンマーのサイクロンが大変と思っていたら、今度は中国の四川省で大地震発生。
私の友人は10数年前に11人で成都に赴任し、日本のスーパーマーケットを立ち上げ、今日の隆盛を迎えました。今回の地震で店舗は相当の被害にあったようですが、ご本人は無事で、しかも営業再開との事、先ずは安心しましたが、被災者にはミャンマー同様、謹んで哀悼の意を表したいと思います。
 震源地に近い都江堰は、秦の始皇帝が李ひょうという親子に造らせた巨大な水利施設です。長江の上流にかかる巨大な岩山を火で焼き、水をかぶせて岩をもろくさせ、水路を開き、四川盆地に水を流す施設で、2300年前に造られて、今も四川盆地を潤しています。四川省の地図をよく見ると、その重要性と巨大さがわかります。そして、これとそっくりの小型版が葉隠の佐賀にある石井樋という水利施設。
 最近、漸く都江堰との関連が注目されているようですが、以前は成富兵庫のグッドアイディア程度ですまされていました。江戸初期とはいえ、どうしてあのような土木技術が佐賀までやってきたのか(可能性が大)を探ることの方が面白いのに、ただのお国自慢にしてしまってはつまりません。ちなみに、私はほとんど読んでいない司馬遼太郎さんは、宇治の水利施設と都江堰との関係に注目しているようです。
 このような土木技術と新しい武士道の発生とは極めて深い関係を有しています。
★5月11日
 ミャンマーのサイクロン被害は甚大のようです。
 元々、農村では竹の柱に・・的な家に住む人が多く、一方、パゴダには一生懸命寄進するという国民性を考えると、心が痛みます。ビルマは元寇の被害を受けていて、バガン(日本ではパガンといいますが、地元ではバガン)には、元の軍隊が書いた落書きなどが残ります。そして、ビルマ族には姓がありません。日本の皇室と同じです。アウンサン・スーチーさんと言っても、あれ全体が一つの名前というわけです。
 となるとそれは、チベットを含め、モンゴル・日本あるいは台湾の現住民族にまでつながる中国周辺民族のひとつということになり、親近感がわくのも当然です。京都大学の田村先生は、中国周辺の民族は一様に頭を剃っていると書かれていますが、ちょん髷といい、辮髪といい、この指摘は正しいでしょうし、姓もそのひとつの共通要素です。
 そんなときたまたま、トルコのいわば突厥に当たる人に会いました。顔は日本人そっくりですが、ムスリムですから豚肉を食べません。
 そして、ムスリムであることを利用してアラブでのビジネスとか。正に、中国周辺をぐるッと回ってのビジネス。チベット問題の先には〇〇スタンという多数の国家・地域の問題が横たわっていることを再認識させられました。
 チベット問題を考えるには先に書いたとおり、昔の満蒙あるいはそれ以上の大きさで考えなければなりません。そうでなければ、明治・大正の日本人に負けてしまいます。
★5月8日
 連休初めには台湾に行ってきました。
 仕事の上でも関係ある弁理士さんの昔話。「無政府状態の怖さは経験してみなければわかりません。」は、最もズシッときた言葉でした。もちろん1947年の2・28事件関係のことを言います。
 この件については何回も書きましたのでふれませんが、こうした痛みは一体何か。台湾という島の西を開いた中国。東を開いた日本のいわば文化的綱引きのようなもの。
 そう思ってみると、台湾には昔から生と熟という観念があります(最近は使われません)。この観念は、苗族などの大陸の種族でも、中華化されたか否かを表す言葉として使用されるものです。そして、実はチベットもモンゴルも同じ事象が見られます。更に、実はこの日本についても使用されるべき重要なフレーズではないかと思っています。アジアをどう論理的に「解釈」していくか、という視点です。
★4月21日
 いよいよもってチベットの問題は聖火とともに広がってきてしまいました。しかし、テレビ等でしゃべっている日本の識者?はいかがなものかと思います。14日に私が書いたちょっとした「論理」もないのですから。
 あるいは、先日、ダライラマ14世が成田を通った時、あれは、昔の中国との関係でいうと、孫文が神戸に来たときみたいなものです。その時は、政府は誰も出迎えません。中国の孫文派か北京等政府か勝敗の帰趨不明だったからです。今回も、政府関係者は当然ながら迎えなかったようですが、のこのこ行った人は何かな、と思います。
 むしろ、さすが14世は、軍事権、外交権のない自治を要求すると明確に言われたようで、一つのオファーでしょう。ただ、これもなかなか難しい。具体例としては北マリアナですが、チベットは元が藩で、つまりはグアム(準州)みたいなものですから、その「差」は他の地域との関係からも重要・重大と思います。
 話し変わって、近頃、靖国神社の映画の話が話題に。私と旧知の一水会の木村三浩さんらが上映会をされたのは立派。見なけりゃ話になりません。そして今日は、郵便局に行ったので、戦没者に哀悼の意を表したあと、閉館ま近の遊就館に入ってみました。以前、私が指摘した張作霖の写真はボードごと入れ替えられていました。
 しかし、とにかく昔とはポリシーが全く違います。私は今の前の前から見ていますが、昔はやたら軍歌を流してなどいませんでした(一部の映像のところだけ)。つまり、いつも言うとおり、今は昔の鎮魂の場と違い、我々は正しかったということを主張する展示館になってしまったのです。しかし、そもそも軍人勅諭にあるとおり、軍人が政治的に主張することはおかしいわけです。たんたんと職務に邁進してこそ軍人です。
 軍人だった桂太郎も日露戦争で首相の時は文官の服を着るというけじめがあったのに、東条さんは総理になっても軍服で、憲兵政治をしたからおかしくなった、といわれているのに、そのあたり全く分かっていない感じです。
 このことは洋の東西を問わないわけで、先日ある機会にお話を聞いた米軍の司令官も、政治向きの話は、ワシントンで決めることといわれていました。軍人は烏合の衆ではありません。政治と職務をくっつけることは、むしろ軍人に非礼ともいえます。
 本庄侍従武官長、大西中将、阿南大将を並べてあるのはよいとして(この人たちはきちんと責任をとり、軽挙を戒めた立派な人たち)、そこに、戦争終了後若者を道連れに一種の特攻を行った宇垣氏があるというのは、ここでもけじめがつきません。日本人の論理の浅さと本当のけじめの知らなさを感じます。なにやら分からぬ漫画に至っては、人間の崇高な死をなんと考えているのやら。「裁判員参上」「よろしく裁判員」とかいう最近のふざけた広告に通じるものを感ずるのは私だけでしょうか。日本人よ真にしっかりしろ、です(いや、それ以前の「真面目にやれ」かもしれません)。
★4月14日
 チベットの問題は聖火もからんで世界各地に波及しています。この問題こそある意味西洋と東洋との衝突ともいえます。
 中国瀋陽の清の故宮に行くと、昔から清の王様の奥さんは蒙古から来ていたことが知られます。そして、1644年、明が滅んで大清が中国の主になったとき、蒙古、チベットの奉ずるラマ教、つまりチベット仏教を大切にしていた清の皇帝に対して、チベットは服属します。学者にも、清はそれだけ大きく幅のある存在であったことを指摘する人がいるとおりです。現に清の版図こそ中国最大の版図であったともいわれます。
 しかるに1911年、辛亥革命がおきて清がつぶれました。ただし、中国がつぶれたわけではありません。王朝がつぶれたのです。しかし、その王朝ないし皇帝に服属していたチベットなどは後継者たる国民党や共産党に服属するいわれはないとします。
 しかし、この時代、「国」という西欧的仕組みが東洋に入り、しかも人間の「欲」というものが加われば、共産党といってもおいそれと利益は手放しません。それどころか、北京の雍和宮に展示してあるとおり、共産党がパンチェン・ラマを任命(承認)したりします。毛沢東記念堂の正面の柱が11本で、正に皇帝と同じ、といったことにも関係してくるでしょう。
 そんなわけで、問題は本質的で簡単に片付きません。しかし、であればこそ、かつて中国の国民に対して多大な迷惑をかけていたことは間違いないわが国としては(3月30日参照)、それと同様、ネットにも散々流れている人権侵害が停止されるようアジアの知恵で説得しうるだけの力量をもたなければならないと思います。
 しかもこうした問題は、チベットだけでなく、中国の都市と農村といった問題でもあるはずです。そのためには西欧的国家像をもう一度反省し、あるいはむしろこの博物館に書いた社稷的西欧行政主体を再評価してみることも必要ではないでしょうか。

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2008年4月まで 
Sunday, May 18, 2008, 02:00 PM
★4月4日
 今年の初めに書いた外国の兵士が、実は今回横須賀で事件を起こした人物と同様、米軍の一員として、中東に行っていた人です(もちろん、今回の事件の人が私が会った本人ではないので誤解なきよう)。
 米軍、オーストラリア、ニュージーランド、皆そういう兵士を雇っているようです。
 金銭の自由な移動が財産権の証券化をもたらしてサブプライムローン問題が日本に波及しているように、国際間のこうした人員の移動と事実上の権力の行使が、従前の国内法はもちろん国際法でも律しきれない様々な問題を引き起こすようになりました(簡単な話し、傭兵が国外で戦争して人を殺したとき、国内法で殺人罪に問えるか、とか)。
 ありとあらゆる事象を国際的視点から見なければならなくなった今日、改めて真の「法の支配」の意味も問われています。単なる「法律による支配」ではなく。
 その昔、国王が法の支配の下にあることが自覚されていましたが、むしろ国家が(あるいは企業が、そして、少し下に書いた三浦事件が)、より普遍的な法の支配の下にあることを改めて考えるべき時代になっています。それは、西欧が世界に提供した国家という枠組みへの疑問でもあり、宇宙船地球号的日本の中世武士道への見直しでもあるでしょう(荒唐無稽ではなく、考えの方向としては)。
★3月30日
 3月25日は、東洋のマタ・ハリと呼ばれた(これ自体も問題)清朝の王女・川島芳子さんが銃殺された日であるということで、29日にその供養が松本でありました。
 彼女とチベットの今回の事件とは、22日に書いた次第で関係があります。つまり、チベット、モンゴルの独立は連動し、モンゴルと旧満州の独立も連動しているのです(第一次、第二次満蒙独立運動)。私はそれを台湾での地図実見体験から知ることになりました。「日本人たる前にアジア人でなければならぬ」とわずか17歳くらいの彼女が大書したとおり、我々はまずはアジア人であるという視点に立たなければ他者を理解することができません。
 国際的であるということは、最低限を理解しているということではないかと思います(この博物館に以前あった掲示板に、軍国主義のサイトと誤解して、中国からサイバー攻撃があった時、「請理解我的真意」と書いたら、すっかり恐縮して、「友好」になったこともありました)。
 ところで、その芳子さんが昭和12年に松本で当時の日本の政策を厳しく批判し、正に「武士の情け」をもって大陸政策を進めるべしと述べたことがあります(以前も書きました)。その少し前、2・26事件の青年将校村中孝次は、天津に駐在した時、日本人の余りのひどさに、この状態を治すことも事件の一動機であると調書の中で述べています。私も長春の溥儀の宮殿に行った時など、アヘン貿易の恐ろしさをつくづく感じました。正に芳子と一致する見方であるし、芳子の記念室にその書がある荒木貞夫大将が、満州国十周年に、理想と違うといって出席しなかったこととパラレルです。
 それが、2・26のあと、こうした人々は殺されたり予備役に編入されたり、あげくは憲兵に狙われたりするに至ったわけで、こうした日本の当時の路線対立を正確に見なければ戦前の日本に対する正しい評価やA級戦犯への評価はできません。
 ところが、今の日本ではこうした実態把握が極めて乏しいと言わざるを得ず、戦前を十把ひとからげ。正に憂うべき事態であると思わざるを得ません。戦前は左翼が弾圧され、為政者側に立つ人が一枚岩だった、というわけではありません。左翼ではない人の中での対立をきちんと捉えることが大切なのです。もちろん、その前提としての明治憲法の理解も重要です。
★3月23日
 結局、台湾総統選挙は馬英九氏の勝利となりました。このことが、日本人にとっては一時の誤解を解く鍵になることを期待したいと思います。
 私の祖父の代から関係ある台湾の一族は、国民党による2・28の被害を受け、外省人と敵対しながらも、かねてより国民党支持です。その他ここではあえて詳しくは書きませんが、いわゆるステレオタイプな見方はできないのです。
 昔の日本人は、蒋介石のお蔭で賠償も取られず云々ということで、国民党べったり。その間の白色テロなど知る由もなかったのですが、民進党が登場すると、内政干渉ばりに応援をしたり、新渡戸さんまで持ち出してみたり。
 そして、その当然の前提として親日国だというステレオタイプ。もちろんその傾向は強いですが、全てそうとはいえませんし、それが当たり前でしょう。
 頭を冷やして、過去の日本を考えるきっかけにしたいものです。
★3月22日
 下の話に続けると、台湾の元々の地図ではモンゴルが中国領になっています。国民党の発想からは、モンゴルは中国の一部。確かに昔はその扱いで、だからモンゴルとチベットとは提携して中国から独立しようとした時期がありました。
 この動きは、満蒙独立運動ともつながっており、日ソの約束からモンゴルが独立。旧満州(中国東北)も独立ということになっていました。一人チベットはこの枠組みから外れましたが、逆に東北は、結局中国に組み入れられ、ソ連の影響を受けたモンゴルは独立しています。しかし、内蒙いわゆる内モンゴル自治区は今や漢民族が多数派。こういう流れを深謀遠慮というわけ。全部つながっています。
 こうした国際関係を考えると、話しは他人事ではないし、台湾としても正に微妙な立場。候補者も、今回のことにやたらなコメントはできないことになります。
★3月19日
 その台湾で、3日後に総統選挙が行われます。李総統後の最初の選挙である8年前の選挙では、各候補の選挙事務所を訪問しました。その前年に、私の好きな歴史博物館を訪れると、のちに候補になるはずの連戦氏の実家の特別展が行われており、こりゃ何だと思ったものでしたが、選挙事務所には熱気が充満し、見事でした。上の本にも書きましたが、夜10時の締め切りを過ぎても、各候補とも罰金を払ってサッカー場での大演説を続けるのです。似たような例はアメリカにもあったと思いましたが、国会での乱闘とは別の健全な民主主義を見る思いがしたものでした。
 これは総統、つまり大統領制のなせるわざともいえるでしょうが、それとともに、2・28事件、白色テロといった平和な日本では考えられない血で購った歴史があることが大きいでしょう(実は日本でも300万人の人が戦争で死んだのに。なお、2・28事件も大変ですが、白色テロはある意味もっと長く恐いものでした。私が初めて渡台したころまでは、その残り火がありました)。
 それなくしての日本での大統領制は、少なくとも直近ではろくなことが起きないでしょう。
 そんなことを考えているところにチベットの流血事件が起きました。チベットと日本も色々な関係があります。
 例えば、この博物館に貼ってある京都万福寺にはチベットと全く同一の衣装があります。何しろあの建物は、江戸時代初期、長崎のいわゆる三福寺同様、中国で材木を刻んで日本で建てたわけですから、つながっているのが当たり前です。
 チベット問題が総統選挙にも影響を与えているようですが、2月24日に書いた話とも関係し、改めて漢民族の深謀遠慮を思わされること切です。
★3月13日
 台湾、南京の人を交えて職場の交歓。日本文化の特質を一わたり語った挙句、アジアは仲良くしなけりゃいけない、が大方の結論。以前、掲示板に貼っておいた清朝の王女川島芳子の「日本人である前にアジア人でなければならぬ」の大書が思い出されます。
 そんな折、「ちょうど出ますよ」と長野県の松本から歴史読本の4月号「明治女傑伝」が事前に送られてきました。芳子が昭和12年に松本高女で演説した時の内容は以前にもふれましたが、確かに昔の女傑はすごい。押さえられていただけに今よりすごいかもと思います。
 そのすごさというのは、日本を大陸国家として見ていることではないかと思います。
 今の日本人は、目が主としてアメリカ方向やヨーロッパ方向に向いていますから(これは中国でも同じか)、自身を太平洋の一島国としか見きれないのです。価値基準の中にアジアが入らない。だから、逆に、実はアジアが極めてヨーロッパ的であることが分からず、日本が島国ながら独自の島国と思う誤りを起こしているように思います。実は独自の島国ではなく、昔のアジアの残滓が残った博物館のような存在であることを見きれない(本当はその中に、真の日本のものがあるのに)。そして、この「博物館性」から抜け出さなければ、ヨーロッパ化している世界に遅れを取るかと思いますし、今の政治も変わりません。日本のテクノロジーの先進性と精神の非ヨーロッパ性とは違います。
★3月6日
 ただ1個の「事件」とはいいながら、そんなわけで、M容疑者のサイパンでの扱いは、様々なことを考えさせてくれます。
 テレビに出てくるススペは官公庁の集まったところですが、ドイツの10数年間の統治、日本の35年間の統治、アメリカの軍政という様々な統治を経て、人種的には半分のチャモロ系(ただし色がブラウンより濃いカロリ二アン系も)、4分の1の韓国系、同じく4分の1の中国系と、様々な利害の中で、いかなる統治機構を持つかについてしっかり議論して今の形を作ったことは、国つくりのいわばモデルケースであり、日本の改憲論議などよりよっぽど実態に根ざしています。
 我々もあの「国」に学ぶことは極めて多いはずです。
★2月26日
 今年正月にいただいたメールによると、そのサイパン島では、今年も高校生による刑事模擬裁判が開かれるとのこと。例のニュースに出てくる裁判所でです。
 もちろん、それは陪審裁判で、日本でこれから始まる裁判員とは違います。何かとドイツが好きな日本は、ドイツの参審に似た形の裁判員という悪く言えばキメラの如きものを考え出したのですが、それは民主主義を具現化し、歴史を国民が作るという発想とは無縁とさえいえる奇妙なものです。実はドイツは、よほど民主的に変わっているのにです。裁判は裁判官のみによれ、などという反対論には組しませんが、逆に、その不徹底に異を唱えたくなります。
 あたかも今日は、2・26事件の日。
 あの事件で、民間からただ一人死刑になった水上源一さんは最後にあたり、「国民よ軍部を信頼するな」と述べたとか。戦前、軍部とともに「部」と称された司法部が、一体どうなっているのか、我々はより本質的に考えるべきでしょう。
★2月24日
 先日のコゾボ自治州の独立宣言を見ていたら、色々なことを考えました。よそから入ってきたアルバニア系住民が9割を占めたからとて独立というのでは、セルビアの方々も納得できないでしょう。
 こんなケースはあちこちにあり、1月17日や22日に書いた南方の某国も同じです。元々の住民がいるところに、イギリスがインドから労働力として連れてきたインド系が半分近くに達し、彼らはすごい才能の持ち主ですから、経済のみならず政治的力まで持つようになり、旧来の住民は何回かのクーデター騒ぎを起こしています。
 実際、中に入ってみると、相当な緊張感があり、いわば坩堝のように混じっているからいいようなものの、きちんと区分けされてしまえば、正に一触即発になるでしょう。
 コソボも慎重に対応することが必要です。
 しかも、こんなケースは中国東北地方などでは数十年前に逆の形で現出したことがあり、日本の為政者の、真の戦略を欠いた戦争惹起のため、今や、東北のほとんどは漢民族によって占められています(内モンゴルもみんなそう。つまり東北は巨大なコソボみたいなもので、独立じゃなくて併合されてしまったわけ。これもまた、東条さんたちのお粗末さの一例です)。餃子くらいで、とは言いませんがあの程度のことで大騒ぎし、戦略を欠いているという点では、今の日本もちっとも変わっていません。
 閑話休題、南の「国」サイパンではMという被疑者が逮捕されました。小さいとはいえ、あの国は純粋なアメリカではなく、自治を持った北マリアナ連邦です。ここでも、日本が戦略を欠いたためその姿になった、とも言えます。何しろ戦前は、ほとんど日本みたいなものだったのですから。
 Mを無罪にした人とも少々の関わりがありますが、今後に関心が持たれます。それにしても、長銀の事件といい、今度といい、小さい島国も大きな裁判にかかわるもので、我々はもっと太平洋を見つめ直すべきでしょう。
★2月12日
 韓国ソウルの南大門・崇礼門が消失したことについては、驚くとともに、深くお見舞いの気持ちを表したいと思います。
 この崇礼門、読んで字の如しで、礼を崇拝するですが、ここにいう礼は、日本でよくいう礼儀作法のことではありません。それも一部かもしれませんが、もっと数学的な階層・秩序です。礼記をはじめとする周礼、儀礼の礼です(三礼)。例えば、公侯伯子男などという華族制度の言葉は、礼記などにある言葉です。日本人の多くが単純に礼儀としか読めないところに、日本のアジアとの断絶、あるいは、哲学的思考の薄さ、更にはむしろ単純さを感じざるを得ません(そして、その単純さの根源も問題)。
 韓国の友人もいうとおり、この礼は究極的には天を向き、地に対し、例え門は燃えても、その奥の天と地は、そしてそれを機軸とする階層(人間も都市も)は、微動だにしません。特に、朝鮮儒教全盛の昔の韓国では。
 問題は、そのような階層秩序のみで政治をしてよいか、現代はそれに別のもの、一言で言えばより高次の「法の支配「を加えるべきかです。私は今の韓国では加わっている、少なくとも加える方向にあると思います。その意味で、韓国のやり方は、大いに日本の参考になるものです。
★2月10日
 アジアで初めて成文の憲法を持った国は、日本とトルコ。
 そのトルコで、公立学校での女子生徒によるスカーフ着用が解禁されかけているとのこと。スカーフだけでなくトルコ帽についても厳罰を持って望み、正に上からの革命を成し遂げ、世俗主義を定着させたケマル・アタチュルクの思いやいかに、と思われます。
 オスマントルコの瓦解を世俗主義の確立で切り抜け、近代国家をなし遂げたケマル・アタチュルクの手法とその意志は、よく似た政治形態の日本にとっては示唆するところ多く、現に、昭和初期の我が国では、十月事件の橋本欣五郎大佐ら影響を受けた人は多かったのです。
 一体、これからどうなるのか、ユーラシア大陸の東と西とで、実はよく似た点も多い日本とトルコの今後が懸念されますが、その厳しさは、イラクとの関係も含め、日本の比ではありません。日本はアメリカの傘の下なればこその能天気。少しはトルコの厳しさも見習って、物事を深く考えろよと言いたくなる首長なども多いこの国。
 トルコの遺跡にかかわる知人のプロジェクトも心配です。
★2月6日
 立春も過ぎ、明日7日は旧正月の元旦。いつも書くことですが、旧正月は大事にしたいものです。
 それはそれとして、今年もいくつかの新年会に出ましたが、どちらかというと疲れたのが「偉い」人との会合。頭が固く、もっと知りたい、という葉隠精神に欠けている傾向の方が多くて。
 面白かったのは台湾最大の慈善団体のそれ。日本人はほとんどいませんでした。
 大陸はもちろん世界中に援助の手を差し伸べるその団体(地震の時も、政府の集めるおかねより、その団体の方が多い)のキャッチフレーズは「敬天愛地」。仏教の団体ですが、しっかり天と地の東洋思想だな、と思いました。
 儒教的な、きちんと整除された世界と仏教的な愛情とをミックスさせるのがアジアの智恵でしょう。そこで買ってきたそのトップ証厳法師(彼女は50代でノーベル賞候補となり、アジアのノーベル賞・マグサイサイ賞を授与される。昨年も日本の賞を受賞。数年前、面会)の法話を聴いていてそう思いました。
★2月3日
 中国から輸入した餃子の問題でニュースはもちきりです。私の知り合いも何人かテレビに登場し、コメントしていますが、今朝も登場し、私がリンクを張っている(ただ今はつながらず)科学的鑑定の専門家・木下さんがされているような分析がまずは必要でしょう。彼とは小学生以来のペンフレンドです。
 何箇所かの中国工場を見学した私の経験からは、一般的にいって日本向けはそうめちゃくちゃなことはありません。もちろん格差社会の典型ですから、下を見ればきりはありませんが(それがちゃんとなれば、日本は太刀打ちできないということ)。
 そして、もっと大きな問題はいわずとしれた日本の食糧自給の問題です。他の先進国に比べてもあまりにお粗末。その根底には兵農分離以来の農に対する偏見がある。そして、アメリカの影響を受けた肉食は、牛一頭で何倍かの穀物を消費する非効率。
 正に砂上の楼閣か累卵の危うきにあるのに、皆飽食している(ただし、日本人の食べる量はまあまあ少ない。どこかの国と同量を食べれば、たちまち自給率は20パーセントに落ちるでしょう)。うまいものを食べる以前に食べられるかどうかが問題なのに、そこがわかっていない。正に、親鸞の火宅無常の世界に住んでいるのが日本の住人ということです。
★1月27日
 1週間ほど前に、久しぶりに小田原に行きました。駅の前の変わりようにはビックリしました。
 小田原といえば後北条氏で、様々な遺跡があり、大好きですが、もう一人、二宮尊徳も有名です。
 しかし、彼のどこがどうすごかったのか、というといまいち。私の知る限り、そこのところを経済学的にきちんと説明してみせたのは、総理大臣をやった宮沢喜一さんくらい。20年以上前の報徳桜会でのことでした。
 あの話し以外は、「芝刈り縄ない」や洪水を防いだとか、稲の苗を大事にしたとかの国定教科書的な話だけ。せいぜいが「報徳仕法」というのがあったんだよ、程度。やっぱり宮沢さんは大したものでした。
 ところでそのころ、尊徳の戦前の位置づけは、天皇家でもそれを尊崇し、たたえて頭を下げるというものであったことを知りました。
 ということは、明治憲法下における尊徳は、いわば、中国における孔子の位置づけか、と思われてきます。このことについては私は全くの素人ですから、ただの感覚ですが、研究してみる価値があるのでは?つまり尊徳は、孔子に成り損ねた人!?そう考えると、話は大きいです。もちろん「規模」が違うので、初夢かもしれませんが。
★1月22日
 17日に書いた南国の兵士の名は、ビリブさん。実はフェリペと同じです。フェリペというと、大航海時代のスペインの王・フェリペ2世が浮かびます。現に、赤道以南の彼の国にはスペインの教会のファザードつまり表玄関が残っていて、それは、赤道の北の私が時々訪問するサイパンにあるのとそっくりです。
 今更ながら、スペイン、ポルトガルらの影響の大きさを感じないではいられません。
 特に日本は、この博物館の中に書いたとおりサラゴッサ条約によるデマルカシオンの境界のいわば真下にあります。ですから、ポルトガル・スペインの両方から人がやってきて、様々な情報が届いたはずです。あるいは、マゼランはスペインの船団として世界一周をしましたが、相当数のポルトガル人が乗船してもいたのです。
 そのような世界情勢の中で、ヨーロッパ思想が日本にどういう影響を与えたか、あるいは、逆に、東洋の思想が西洋の思想にどういう影響を与えたか、この視点なくして武士の道はもちろん、日本の思想など語れるわけがありません。
★1月17日
 お正月に会ったある外国の兵士の話。日本の自衛隊と合同で仕事をすると、軍帽、軍服を着用しているのにやたら頭をさげますね、とのこと。
 そのことは以前もこの欄に書きましたが、正にそのとおりで、アジア大陸に行った時、すぐ日本人とわかるのは、やたらペコペペコと頭を下げるから、というのは有名な話しです。
 この「風習」は丁寧といえば丁寧。しかし、危険でもあります。もちろん、素性がすぐわかる、ということもありますし、「戦闘をもって基準とすべし」の軍人がそれをやっていたのでは、相手からやられてしまいます。だから、挙手の礼でよいのです。
 ちなみに、以前書いたとおり、新幹線の車掌さんも制帽を被りながら挙手の礼でなく、頭を(しかも帽子を被ったままで)下げます。もちろんそれが丁寧と考えてのことでしょうが、服装と行動がミスマッチです。乗客が要求しているのは規律に基づく安全のはずなのに、あれでは「油断」ありと同じ。
 こういうところに、官尊民卑と公私のけじめとを混同した発想が見られます。前者はいけませんが、後者は尊重されるべきです。そして、挨拶文化は、これまた日本に残った古いアジア文化かな、と深い興味も持たれます。
★1月1日
 あけましておめでとうございます。
 今年も真に世界に誇り、貢献できる日本とは何かを考えていきたいと思います。中学生の時からの葉隠の徒として。
 10数年前、筑波大学M教授の「アジアで唯一、年号を持つ国として誇りを持ちましょう」なんていう発言に、?を感じたものでした。年号は所詮輸入品なのですから。そもそもそういう価値観自体が輸入品であって、その輸入価値観を前提に判断していたのでは「日本の・・」などわかりませんし、世界の人に「日本ではこうなっているんだよ」とより本質的な別の価値観を示し、誇りを持つことができません。日本にはアジアからやってきた(よいか悪いかは別にして)「文化財」がこんなに残っていますと言っているだけのことで、自分のオリジナリティを主張していることにも、その有用性を述べていることにもなりません。
 私の身内が60数年前、戦争でビルマに行く途中タイに寄ったら、かろうじて「独立」していた地元・タイ軍の軍人が、日本のお下がりの小火器を示して、「すごいでしょ」なんてやったらしいのですが、それと同じことです。もちろんこの時のタイは、それ以前もそうですが、形ばかり独立の形式をとっていただけです。だから連合国から戦後、責任を問われなかったわけで、何やら今の日本をも思わせるところがあります(タイは、ただの「微笑みの国」ではないこと言うまでもありません)。
 大学の教授(あるいは名誉教授)と称する人が、上記のタイの軍人や亡M教授のようなことを言ってマスコミの寵児となっているような現象は本当に困ったことです。
 結論からいえば、鎌倉武士の生き方こそ真の日本的なもの、と言いたいわけですが、またおいおい書いて生きましょう(かつての掲示板の復活も何とかします)。鎌倉武士の発想は、日本独自であると共に、世界に和する、また、世界の参考になる大きなものなのですから。

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2007年12月まで 
Sunday, May 18, 2008, 01:59 PM
★12月25日
 師走はやはり忙しく、日本列島を走り回っています。
 中学の修学旅行以来、久しぶりに大津に行き一泊。夕方着いて朝帰っただけですから、全くといってよいほど見物はしていませんが、JR大津駅に降りた時はその寂しさにびっくり。しかし、食事を求めてだらだら坂を下りていくと、当然ながら琵琶湖にぶつかり、左手を眺めれば素晴らしい夜景が見えました。駅前だけなら佐賀の方が勝ったぞ、との思いもたちまち打ち砕かれた次第。昔は浜大津が京都への外港で栄えたとタクシーの運転手さんが教えてくれました。
 何しろここは日本全体の十字路。隣の野洲郡や神崎郡には江頭、常富、そして私の嘉村など、佐賀に関係深い地名、人名も多いようです。
 江戸時代の神代家伝記(くましろかでんき)によると、鎌倉時代、千葉一族は頼朝を助けた恩賞として佐賀の小城をもらい、神崎郡から家来を佐賀に連れていったとか。千葉氏は伊賀の守護でしたから、八風峠を越えて、愛知川の水運を利用し、琵琶湖、淀川を通って瀬戸内海へ抜けたのでは、と思います。
 先日、あるお坊さんと話したところでは、時代は下り、信長の石山本願寺攻めがあんなに大変だったのは、この逆ルートに位置する伊勢・長島などの一向宗徒の大阪への呼応があったからとか。
 県境などという明治以降の発想を転換しないと、本当に歴史は分からないなと思われます。明治政府の行ったおかしな県作りに再び拒否反応が起きてきました。
★12月14日
 12月14日というと、本当は季節が違いますが、赤穂浪士の討ち入りの日ということになります。同じ1700年前後に起こった、葉隠の長崎喧嘩との違いを山本常朝は強調し、浪士の討ち入り延引を非難します。
 それはそれとして、当時浪士を称揚し、「赤穂義士論」を書いたのは室鳩巣でした。彼に言わせれば、正に浪士は義士であり褒められるべき人々ということになります。
 この室鳩巣、学校の日本史では「駿台雑話」で有名です。その内容はいわゆる折衷学派として、儒教の正道を行こうとするもので、古学派や闇斎学派の矛盾を突いた意義ある記事がありますが、さほどのパンチ力は感じられません。
 それよりも、彼は明の太祖の筆になる六諭の和文説明書ともいうべきものを将軍吉宗の命により書いており、その内容は、親に孝行、長上を大事に・・・。
 1700年頃にはまだ元気よく義士論を書いていた彼も、20年もしてこの本を書く頃には、すっかりいわゆる御用学者になってしまっていたのかな、と思われてきます(元々あちこち仕官してきた人)。この本が教育勅語の元ともいわれるとき、見過ごせません。
★12月8日
 12月8日という日米開戦の日に、下の記事に引き続いて思うこと。 
 その小林秀雄が評価したのが村岡典嗣の「本居宣長」で、この先生、28歳でこれを書いたというのですから確かにすごい。日本の文献学の道筋をつけ、宣長についても後世における評価の基本を作ったといえるのでしょう。昔は、以前書いた「板碑の研究」の服部先生にしても、確か29歳で書いて、今もあれを越えるものはないといってよいのですから、ものすごい人たちがいたものです。
 でも、村岡先生の本は素晴らしいけれども、やはり宣長を褒めているという根本において、現代の視点にたてば問題があるのではないでしょうか。その古道論こそ本質、というのであれば、それが元で平田国学なるものが生まれ、狂信的発想へと導いて、日本人だけでも何百万人もの人が死んだ戦争へと向かったことが思われるからです。
 この先生は、平田の国学への耶蘇教の影響もしっかり書いておられ、正に分かっていた人です。だから、おかしな国家主義とは対立した立派な人でもあります。
 この先生のそうした素晴らしさを前提にするからこそ、現代の我々はそろそろそれを「脱皮」して超えていかなければ・・という気がします(専門外ではありますが)。
★12月3日
 29日に本居宣長のことを書いたので、ついでにもう一言。
 彼の「うい山ぶみ」などは勉強をしようという人には大いに励みになる文章で、なかなかな宜しいのではありますが,考えてみれば「うまず怠らず励みつとむるぞ肝要にて」などという言葉は、途中でやめないで勉強を続けなさいという当たり前のことを言っただけ。ただ文章は綺麗なんですね。この「きれいさ」がある意味人間をおかしくする。
 一方「玉勝間」あたりは、彼が漢学者荻生徂徠の孫弟子で、その影響をしっかり受けていることを考えると、そこまで漢心(からごころ)を排する偏狭さの元は何なのさ、と思わざるを得なくなります。
 上田秋成との論争については以前も書きましたが、国粋主義なのに中身はよその国という「ねじれ」は、彼も水戸黄門とおなじということです。
 要は、真に日本的なるものは何なのかを探し得なかったというとです(岩波文庫で5センチにもなる「古事記伝」を書いても。量じゃありません。)。この勘違いは今の世の中にも蔓延しており、それを解決してこそ本当の自信を持って外国の人とも接することができますし、人類の発展にも寄与できます。
 それにしても、小林秀雄のような人が本居宣長を褒めると、読みもしないで偉い人にしてしまい、「もののあわれ」だの「ますらおぶり・たおやめぶり」だのという概念ともいえないわからないものを有り難がるようになる国民は困ったものです(教科書というものがそのレベル)。そういえば坂口安吾は小林について、「小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である」と言っています。
★11月29日
 大川周明の幻の原稿が発見されたそうです。
 彼の「日本二千六百年史」は素晴らしい本です。特に昭和14年版が(のちに改定を余儀なくされる)。文体の切れ味もすごいですが、その時代区分や時代の本質の見方は文体以上の切れ味でしょう。
 彼は、北条義時や足利尊氏をきちんと褒めます。右翼と呼ばれA級戦犯になった彼がです。しかも昭和14年という日中戦争真っ最中で日米開戦直近に。
 こういうところに、単なるステレオタイプな見方に反省を迫るものがあるわけですが、それを思うと、現代の多くの見方は余りにも貧困です。今日も数人で話しましたが、マスコミの貧困さが益々日本人の発想を貧困にしていくようです。
そして国語教育の貧困はその昭和14年くらいの本さえ読めなくしています。国家的な意義・意識を低下させ、本居宣長などの影響を受けた源氏物語などという不倫譚を読ませるような教育はダメ(もちろん全く読むなとは言いませんし、本当は重要な意味がありそうですがそれを分かるには難し過ぎ)。吾妻鑑や甲陽軍艦こそお勧めです。
★11月25日
 先日あるお話しを聞いての感想。
 元海軍中尉で大空のサムライ・坂井三郎さんはゼロ戦のパイロットで、64機の撃墜王。その本は海外数カ国で訳され、世界で日々売れ続けています。彼には、亡くなるまで懇意にさせていただき、その最後の講演会も行いました。決して戦争賛美論者ではありません(これらのことは以前書いたとおり)。
 その坂井さんが亡くなったのは厚木の米軍基地での会合に出席されてすぐのことで、彼は、亡くなるまで世界の空のエースとの意見交換をされていました。「昨日の敵は今日の友」というわけです。もちろん、今の米軍と自衛隊との関係も昨日の敵は今日の友的関係でしょう。
 一方、私がかつて勤務した役所の所長さんはレイテ沖海戦で沈んだ戦艦扶桑に乗り組んでおられた元仕官ですが、正にサイレントネイビーで極めて寡黙な方でした。イギリス仕込みのせいなのか、フィリピン・スリガオでの沈没の生存者がわずか数名であったからなのか、今となってはわかりません。
 同じ海軍でも坂井さんや今の自衛隊の雰囲気と、その元戦艦乗員の雰囲気は正反対ですが、前者は、自衛隊が米軍の影響を強く受け、いわばそれによって作られた一つの姿であることにつながることは否めないでしょう。
 そのような戦後の流れの中で今日、一部に戦前回帰的な軍人発想がやや見られます。これを米国はどう見て、いざとなったらどうするのか、興味が持たれるところです。
もっとも、今回の防衛省をめぐる議論を聞く限り、旧軍の発想が頭をもたげたら、米国からきついお仕置きが来るのがオチであることは明らかでしょう。今回も平和なりゃこその問題発生(実は古い)であって、本質的に緊張感がありません。
 ちなみに、今の議論に大いにかかわっているある方は、この博物館を、はるか昔に自身のサイトで紹介され、私と同意見です。この辺りからも、戦前の陸軍二大潮流が人間の「肌合い」の問題でもあることが伺えます(つまりどういうことかというと、ODAで利益を得ようとするような昔の軍人官僚と同種の人種と、国民を守ることを第一とした第一線の軍人とは違う、ということです。江戸時代の公家化した、武士と名付けられたものと、江戸初期までの本当の戦闘集団〔実質的な意味での武士〕とは違う、ということでもあります。軍人勅諭の、明治維新を聖なるものとする歴史観に幻惑されてはならない、ということでもあります)。
★11月18日
 先日来、中東関係の研究者の2人の方からお話をうかがいました。一人は政府系シンクタンクの方、もう一人は旧知で、中東最西端での遺跡発掘のため現地に常駐の若い研究者です。前者は残念ながらやや紋切り型というか、情報が隔靴掻痒の感あったことを否めません。情報全体を分析し、高所からみるという立場でしょうが、どうしても現場については後者の方にその情報の質を譲らざるを得ないと思います。
 サウジアラビア大使がアラビア語がしゃべれないなどという、かつてここに書いたことも思い合わせて是正すべきこととです。
 ところで、後者の先生と話したのが、わずか数十年前まで存在した日本の近くのある地域における馘首の話し(わざと難しい言葉で書きます)。これは戦国時代と同様の、当時のその地域では「良いこと」なのであって、それと同様の価値観の違いを、現在の中東(もちろんその一部)と日本との間にも見ざるを得ない気がします。
 となると、そのような風習を、我々の先輩が数々の努力の結果矯正したように、対中東は十分な準備と説得をもって、かつ、それに携わる日本国民の安全を第一として対処すべきだと思われるのです。上記矯正に当たっては、地域の区分即ち大日本帝国憲法の適用されざる地域の設定と、そこでことに当たる人々の多くの犠牲があったのです(なので、この話しはわざと抽象的にし、隔靴掻痒の書き方になっています。)。
 もちろん地域の設定は普通の国民を守りました(この設定は何百年も前からあったものです)。
★11月10日
 先日香港で話をしたアメリカ人にはビックリで、ファンドの責任者という地位ですがその日本史の知識は並みの日本人のかなうところではありませんでした。ところがその後、国内で会ったアメリカ人。この人はその上を行き、小田原を中心とした後北条氏の城を次から次へと言うのです。
 北条氏綱以降、北条氏は小田原を中心に主として川にそって、その城を同心円状に拡大させ、上杉氏らに備えます。例えば多摩川に沿った八王子城、片倉城、平山城、枡形城、夢見ヶ崎城などなど。件の外人さんはそのことをしっかり踏まえて踏査されているとのこと。
 一方、アメリカ人の中には日本大好きの余り、日本は本当は戦争に負けていなかったのでは?みたいなあきれた歴史認識の人もいます。
 このところの政治情勢から、日本はご無理ごもっともでも所詮アメリカと仲良くするほかないんだから中東でもなんでもおっしゃるとおりがよい、という人がいますが、これはちょうど中国を、「中国は」と一言で片付けるのと同様に誤っていると思います。
アメリカも、当たり前まがら中国同様多様です。
 今のアメリカの政権は上記の前者タイプとは違います。強いて言えば後者。宗教国家、あるいは人工国家の面が極めて強く出た不幸な政権で、こういうとき我々は、「三十六計逃げるに如かず」の武士の生き方で行くべきではないかと思われます。
★11月6日
 佐賀県西端の嬉野市を訪問してきました。大野原の自衛隊演習場からは、第二次大戦で有名な川棚、針尾の通信施設、西海橋、西彼杵半島など本土最西端の風景が見えました。
 当然ながらそのあたりは、大航海時代に中国だけでなく西欧にも開かれていたところで、嬉野市の一部・不動谷にはキリシタンの数々の遺跡があります。
 葉隠における最重要の「喧嘩」・長崎喧嘩も大村純忠によろイエズス会への長崎寄進という事実を抜きにしては考えられません。しかも長崎喧嘩の一方の当事者・深堀氏は、鎌倉時代に外房・大原町の深堀から長崎港外に下向した三浦一族です。
 歴史は、昔の人に負けない大きな目で見なければいけないなと改めて思ったことでした。
★10月31日
 事後報告?ですが、今日の夕方、東京エフエムのラジオに登場しました。
 「武士道ってなんでしょうか」といった質問は本当に難しくて、図でも書いて説明しなければ容易に解ってはいただけません。まっ、最後は「フジヤマ、ゲイシャ、サムライ」ではない発想で!ということで納めました。
 つくづく感じるのは、いつも書くとおり、頭にこびりついた観念は、建物や構築物を壊すよりよっぽど難しい、ということです。あの文化大革命の時、「文化の破壊」を叫びながら実権派(当時、批判された反毛沢東派)に対して「中国文化」の本質である「市中引き回し」をしていたのですから。
 つまりは、何人(なにじん)だろうと、また洋の東西を問わないのです。
 そう思えば、現在の中東など、やたらに日本が口を出すところではないと思えてきます。つまりは、国民を守るためには口を出さない、というのも一つの態度。
 もちろん、何もするなということではありません。北風より太陽で行かねばならない地域というのです。
★10月25日
 10月23日には、毎年恒例の会津戊辰戦役における西軍墓地墓前蔡が、会津若松市長さん・市議会議長さん列席の上で行われました。
 2,3年前、地元出身の有名な、会津士魂の塊みたいな方にこのことを話しましたがご存じなかったのは意外でした。会津を攻めた薩長土肥大垣などの兵隊の墓を、「敗れた側の」会津の人が祭って下さっているというわけです。それどころか昭和63年には顕彰碑まで建てて下さいました。
 いったい近頃はどうも、このような博愛精神が日本人の中から欠落していっていると言わざるを得ないかと思います。そもそもこの慰霊蔡は、五十数年前に、会津側と、当時の山口県知事とのお話から始まったとのこと。会津と長州は口もきかないようなことが言われますが、逆にこういう実例もあるわけです。それが数十年前までの日本人でもありました。
 日露戦争の乃木大将じゃありませんが、敗者をいたわる気持ち、それどころか敗者が勝者を供養までして下さる気持ちをもう一度考えてみたいものです。実は、アッツ島の米軍との戦争でもこうしたことがあったことを以前雑誌に書きました。いまのような浅薄な日本人ではなかった、と言いたくなります。
 ちなみに若松は日本でも有数の寺院の多いところ。このあたりも考えさせられます。
★10月19日
 教え子であるA君が来て痛飲。私好みのクリエイティブな発想を大切にした彼は、試験にもきちんと合格。話は教育のことになりました。
 我々のように実務に関わる学問(?)は、縦横高さの3次元に時間と感情というものが加わる4次元以上のもの。つまり人間社会は、戦闘機の空中戦のようなものです。これはビジネスも政治も、本気で考えれば皆同じでしょう。
 そういうことを念頭において勉強するのに、暗記や当てはめは最低限度のものについては必要でしょうが、それだけでは通用しません。物理みたいなものです。
 しかるに今の法学教育に、暗記、当てはめ、思いつきは蔓延しています。そもそも教える側がそうですから始末におえません(もちろん例外を除いて。私は、本当は「教える」ということではないと思っています。先生は、ただいっしょに考えるだけです)。前総理大臣からして法律に書けばお利口さんが出来上がるかのごとき発想を述べてそれを実践し、つぶれたのですからやむをえないともいえますが。
 こうした人間がどうして次々輩出されるのか、それが現代の大問題であり研究課題にならなければなりません。つまり、こうした人間は、それ自体研究対象たる生きた標本みたいなものです(生きた化石よりましですが暗記的で頭が回転していないという意味では化石と同じともいえます)。
 つまりは葉隠が言う「ただこれも非なり非なりと思うて一生嘆息し・・」という生き方でなければ、生きた標本か化石だらけの人間社会になってしまいますー自分自身、標本や化石にならぬよう努めなければー。
 そんなことを思って帰宅すると、ちょうど、京都大学の数学の先生で、本を一切書かない佐藤幹夫という先生が、教え子がまとめてくれて本を出すことになった、との話し。おや、その先生は上記のような悪い見本の反対の、本当にクリエイティブな人なんだろうなと思いました。本を書いてしまえば、それはいわば標本か化石ですから。
 私の恩師
8000
の父上・草野豹一郎という大刑法学者も、ご本人ではなく教え子が本をまとめ、実は法学博士ではないのに「若き日の草野博士」なんて本に紹介されています。去年、これまた教え子が本を出した恩師・M先生も同じ。正にぶつかって考えるクリエイティブ人間。そういう人に日が当たる国にしなければ・・読む人もおらず、それはよいとして役に立たない論文の数で教授にするなんて大学はとても大学の名に値しません。
 そういえば、江戸時代の木下順庵という儒学者も、ほとんど本は書かず、弟子はすごいわけです。この間、葬式の帰り、お墓にお参りしてきました。
★10月16日
 先日の、死刑に関する法務大臣の発言。週刊誌でインタビュー記事の後追いが行われているようなので一言。
 司法による判断と執行という二段階の意味がわかっていないのは最初からあきらめるとして、法務大臣が苦しむから自動的に・・みたいな発言は、それこそ執行にあたる刑務官や検事、お医者さんのことを全く無視するものです。判子を押すだけの人よりもこちらの方がもっと大変(もちろん、深く考えれば格差は付けられませんが)。
 あるところで、学生が死刑執行の実際について元検事の先生に尋ねると「そのことは話さないことになっているんだ」と沈痛な顔。検事は執行に立ち会うことになっているのです。
 このような中央トップと出先との関係は、今も、昔の戦争の時も同様にあったわけで、この大臣の話しと同工異曲の中央の意識が戦争を遂行したかと思うと、第一線の兵士は本当に浮かばれないな、と思われてきます。司令官が苦しいから突撃は自動的に、なんて話ももちろん変ですし。
★10月10日
 中国山東省の曲阜には、三孔と呼ばれる孔廟(孔子の廟)、孔府、孔林があります。孔府は孔子の子孫が住む家で、皇帝の娘さんなどを嫁にもらって、正に万世一系でつながってきた家。内戦で主(あるじ)は台湾に移りました。
 孔林は孔家の墓。孔子をはじめとする10万人以上が眠るとされています。ただしここには、他家に嫁いだ女性は埋葬されないことになっていました。
 ところが、米国在住の孔さんという女性が徹底的に運動した結果、遂に孔林への埋葬が認められ、彼女は寿墓、つまり生きている内に墓を造ったとのことです。
 このところ日本では下火になり気味ですが、いわゆる女帝の議論などを考えると、中国もここまで来たかの感がありますし、日本、韓国との違いも感じます。
 気がついてみたら、日本と韓国が、否日本だけが最も伝統的中国的国家!?などというのはいかがなものかと思うのですが。いずれにせよ、こうした議論も、発想の変化を含めた世界的な動きを無視してはいけないと思います。
★10月6日
 日本にも数々の独立した機関があります。
 日銀法の改正で独立性を強めた日銀政策委員会とか、裁判所は憲法で司法権の独立が。そして教科書検定についても今、例の沖縄の問題についてそれが言われています。
 この議論のおおもとは司法権の独立についての議論ですが、戦後の有名な浦和充子事件以来、なされた裁判には国会は文句を言えない、つまり、憲法に規定された国政調査権は及ばないというのが通説とされてきました。
 しかし憲法は、国会を「国権の最高機関」とし、天皇陛下のお言葉でも毎回のようにこのことがいわれます。
 だったら、国民の代表、つまりは最高機関が何らかのことができないというのはおかしな話で、実は日本国憲法制定時の担当国務大臣である金森徳次郎氏も、そのことは当然と述べていたのです。
 それが、いつの間にやら、「この国権の最高機関は政治的な美称、つまり美しい言葉であって、法的効力は持たない」などという、法律なのに法律じゃない、という奇妙な説が幅をきかせるようになってしまったのです。そんな法律ってあってよいのでしょうか。挙句の果てに、そんなわけだから憲法改正にあたっては、国会が最高機関だという文字ははずそう、などと言っているのが今行き渡っている「改正案」だったりするのです(国会は頼りにならないからはずすなどというのは、いくら現状がそうだったとしても本末転倒です)。
 このことによる様々な問題はとてもここでは書ききれませんが、通説と称するものの、世界から見ての非常識、そのことを我々は常に反省しなければ世界に伍し得る国にはなれませんし、もちろん、法の支配にもならないのです。
★10月2日
 1日は、毎年のようにこの欄に書く「法の日」でした(それを写真つきで掲示板に転記していましたが、掲示板を閉じてしまったので、近々以前の記事を復活予定)。つまり戦前は司法記念日といい、昭和3年のこの日に陪審法が施行されたことを記念したものです。
 詳しくは雑誌等にも書いてきましたので省きますが、要は「法の支配」を考える日。
 この「法の支配」という言葉、近頃、いわゆる司法改革の名のもとによく出てくる言葉になりましたが、一向国民の頭に定着していない感じ。国民どころか昨年の日本法哲学会でも、統一テーマになりながら報告者の頭の中身はバラバラの印象です(バラバラだから学会で勉強する、といえばそれまでですが)。
 その理由は「日本語と東洋の歴史」で考えていないことによると思います。法の支配は、今、多くの専門家が言うように、社会のあちこちに昔の共産党の細胞のように弁護士や検事を張り付かせ、「法治主義」を徹底させること・・・ではありません。分かりやすくいえば、この博物館の北条泰時のように、より高次の立場から立法・行政・司法がチェックされ、正義が実現されることです(イギリスのチャールズ王子も、国王50周年の時、そう述べていました)。
 ただしそのために、上記法哲学会で言われたようにそれを判断する「法曹団を作る」などというのはとんでもないことです(そもそもこの法曹という言葉、ピンときませんよね。平安・鎌倉時代はホッソウと読みました)。法律家ってそんなに大したものなのでしょうか。残念ながら?違います。
 むしろ、そうしたチェックをする裁判官を、民主的に国民がコントロールするシステム、そして、そのために国民のレベルを上げることこそ法の支配の前提であって、この点は、その昔、最高裁判事の巡視の折、昼食をご一緒した高辻正巳元内閣法制局長官の本などきちんとしています。今の憲法学者は法律家を名君にする日本人特有の名君待望論の徒。これでは裁判官が三権の上に位してしまう文字通りの司法国家で、悪い意味の官僚主義になってしまいます。
 高辻さんにしろ、金森徳次郎さんにしろ、私はきちんとした法制局の官僚は好きです(実は、私の周りに法制局に関係した人は多い。厚労大臣の発言のように官僚を馬鹿にするのはだめ)。民主的基礎を持ったきちんとした官僚こそ大切なのです。
 そしてこの東洋にも、数千年にわたり英国などに負けない様々な政治制度の議論があり、法の支配の考えもありました。問題発言はあったものの、学者、文部大臣、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事を務めた田中耕太郎さんなど、東洋にもしっかり目配りした「法家の法実証主義」などの著書があります。
 こういう昔の、目を東洋にも向けた人の発想を学んで、自分の頭で考えなければ、浮ついた記憶だけの法の支配の議論になってしまい、「法の支配」の反対の、「法律家という特殊集団たる人間の支配」という恐ろしいことになってしまいます。
★9月29日
 ついにミャンマーでは日本人の死者が。謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。
 そして、これを機会に、どうしてあんなに離れた国と日本とが深く結ばれているのかを考えてみることも大事でしょう。人種的にも随分日本に近いことは下に記しましたし、ヤンゴン郊外の日本人墓地にははるか昔からの多くの日本人の墓があります。オーストラリアなどもそうですが、よく行ったものです(もっともカリフォルニアにも明治の初めに何人もいたことが米欧回覧実記に書いてありました)。
 そして何より第二次世界大戦との関係が大きい。アウンサンスーチーさんのお父さん・ウォンサン(アウンサン)将軍も、日本に来ていましたし、昔の軍人の指導者ネ・ウィン議長もそうでした。
 そうなった経緯は、インドのレドから続く援蒋ルート(米英などが蒋介石を助ける道)を遮断するために、数十万の大軍を投入したことによります。先日お会いした元某国大使は、インド独立の父・チャンドラ・ボースに会ったことがあるそうですが、ミャンマーをこうして占領した日本が、インパール作戦を発起したのは、このチャンドラ・ボース、東条、そして牟田口廉也のなせるわざ、と言うのが一般。
 その元大使のお話や文献によると、チャンドラ・ボースは本当に立派だったようですが、他の2人は全くおかしい。私は子供の時、牟田口がテレビで、イギリスの某中佐の手紙を手に、正に異常ともいうべき自己弁護をしているのを見ましたが、その彼がどう訓示したかは、この博物館のアラカルトに書いてあるとおりです。そして、あのような神がかりのような人物、もちろん何万人もの部下を死なせた責任者が、責任も取らずに今の朝霞にあった予科士官学校の校長になるというとんでもないことがなされたのです。特攻隊をほっぽり出して逃げた司令官も師団長になるということも。ビルマ敗戦の最高指揮官も参謀や部下を置いて、今も使われているヤンゴンのミンガラドン飛行場から飛行機でモールメンに逃走(女性連れとの話し。A級戦犯で死刑)。
 今日の沖縄の集会にしても、個々の事実もそうですが、国家全体にあきれるばかりの弛緩・無責任と神がかりがあったことが忘れられてはなりません。コンパクトにまとめられた本として、一次資料ではありませんが「ビルマ最前線・越智春海・図書出版社」あたり読んでみられることをお勧めします。もちろん防衛庁の戦史叢書も。
 こうした情報を前提にミャンマーを考えれば、奥は益々深くなります。 
★9月27日
 ミャンマーといえば、日本では「ビルマの竪琴」が思い出されます。
 しかし、戒律の厳しいミャンマー(いや、アジア全部そうであって、日本がおかしい。この博物館の水戸系の考えのため、明治5年、日本の僧侶は妻帯肉食をいわば強制されたのです)では、僧侶が楽しみの対象たる琴を携帯するなど考えられないともいいます。確か竹山道雄さんはミャンマーには行っていないはず。
 「ビルマの竪琴」の話し自体は感動的なものですが、その感覚だけであの国をみないで欲しい、現実はもっと厳しいのだと言うミャンマー人が多いのです。
 ミャンマー国内のある博物館行ったときのこと、カタログを買うと、「バーマ」とありました。「なんだやっぱりバーマじゃないか」とそばにいたミャンマー人が言うと、傍にいた人が、言った人のお尻をピシャリ!うかつなことを言うな、と。でも、そのあと叩いた人は二タッと笑いました。この感覚、分かりますか?バーマは昔風。ミャンマーは現政権が付けた名前。
★9月24日
 ミャンマーの情勢が緊迫しています。このところ、アウンサンスーチーさんの家の前は、車で前を通っても、その方向を向くことはおろか、近くに立ち寄ることさえおぼつかなかったのに、ご本人が出てきて感謝の意を表せたとあっては、何かの予感を感じるのもあながち当たっていないともいえますまい。
 この国、日本からははるかに遠いともいえますが、世界で唯一日本の外交政策が通じる国ともいわれ(それは現政権をいち早く承認したこと、多額のODAなどが関係)、ビルマ族はもとはモンゴル高原から下降したともいわれて、確かに天皇家と同様、姓がありません(アウンサンスーチーさんもあれが一つの名前)。顔も日本人に似た人が多く、走っている車は戦前のイギリスの車以外、ほとんど日本製(神奈中のバスなど)。元寇も2,3回受けています。第二次大戦で19万の日本兵が亡くなった国でもあります。
 そうしたこと以外、その政治体制を考えることは、日本の今を考えることにも大いに役立ちます。というのは、その国は東アジア同様、もとは中国の被冊封国家だったからです。現政権と徳川幕府・・実は似ています。ではNLDが考えていることはどうか。明治維新か?いや、違うと思います。
★9月22日
 様々の政治課題をいわばほっぽらかしにして、総理大臣は文字通り不在者投票?の日本。下に書いたとおり、この現状を世界に発信することの国益・国民益の喪失は著しく、ある意味回復不能とも言えます。
 数日前、日米開戦時の海軍大将・嶋田繁太郎の文書が出て、開戦の責任をひとごとのように記述してあることに責任感の無さが指摘されていましたが、全く変わりません。海軍が同意したからこそ戦争が始まったのにです。A級戦犯である彼を弁護したのは、私の関係者の縁者・滝川政次郎先生。死刑にならないことが分かったときの態度も、ある意味有名です。
 こういう為政者を大将とか司令官とかいう名前だけで崇める国民、果てはA級戦犯を偉い人みたいに言う国民では何十年たとうが、いや何百年たとうが、はっきり言って騙され続けということ。今回のことくらいでは感度の鈍らされた国民にはまだまだでしょうが、よいきっかけにすべしです。本当に必要な憲法改正とはこういう為政者を出さない仕組みを考えることなのです(以前、武道通信で新右翼・一水会の木村三浩さんと話したとおり。9条以前に、こういう国家の病気を治すことが先決)。
 ちなみに我が国の周りは、もっと切実で、本当の改革(言葉だけでなく)にもなっています。例えば来年の選挙で立法院の定員を225から113に半分に減らす台湾など、正に見習うべしです(先日、台湾のテレビに久しぶりに登場しました)。
★9月15日
 自民党総裁選挙をよそに、日本の正規の総理大臣の動向は、残念ながら朝青龍現象を呈しているといわざるを得ないかと思います。
 一体、今、近隣からミサイルでも飛んできたらどうするというのでしょう。自衛隊の最高指揮官が臨時代理も置かずベッドの上とは。もちろん、毎日自殺する人もいます。
 今の状態は、強いことばかり言って、本当の覚悟がなかった証拠です。しょせん、アメリカの傘の下にいるんだから、そんなこと起こるはずがないよ、などと総理大臣が考えたとすれば、自ら属国状態であることを世界に宣言しているのと同じ。国益を害すること著しい。石橋湛山のように、病気ならいさぎよく直ちに退陣すべしです。
★9月13日
 首相の退陣表明は、何やら終戦後の東条自殺劇を思わせるものがありました。8月15日以後、多くの将官が責任をとって自決するのに、自決しようとせず、米軍に囲まれ軍人ともあろう者が医者に印をつけてもらって結局弾が外れたていたらく。
 今回、総裁として戦った選挙で、多くの落選という犠牲を出しながら(もちろん、これは内向きの話ですが)責任をとらず、1カ月以上がたって、突然の辞任。
 彼のおじいさんはA級戦犯なわけですが、今回はこうして、A級仲間の東条さんとよく似た行動パターンであったといえます。戦後政治の総決算と言っても、何のことはない。行動は戦後のおじいさんの仲間そのもの、というわけです。
 そもそも、パキスタンあたりのことを考えれば、首相がこんなことができるでしょうか。シャリフ氏、ブット氏ら政敵に囲まれ、それ以外の様々な緊張の中にいるムシャラフ大統領がこんなことをしたら、それこそ命取りです。今の日本だって忙しい。
 つまりは、アメリカという巨大な傘の下にいる平和ボケとしか思えません。かわいそうなどと言っている町の声や地元の声も同様。憲法を改正し・・と言って、普通の国?を目指しても、その主唱者の行動が、アメリカに守ってもらっている保護国?という現実を露骨に示してしまったわけで、諸外国の信頼を損ねたどころか、国として扱ってもらえなくした大責任がある行動です。
 憲法改正にしても、文部省や教育委員会という巨大な傘の下の「学校」という「被保護国」の生徒が、「今月の目標は何にしましょう」とか「生徒会の規則を改正しましょう」とやっている程度で、全てが正に「ゴッコ」に止まっているのです。これじゃ、マッカーサーから言われた「12歳」を怒れません。
 いよいよもって、我々は、分かりやすくいうと、戦争を始めたA級の統制派的日本人、つまり、江戸時代で言うと長袴の疑似武士から、その前の日本人、つまり、宮本武蔵的本当の武士に回帰しなければならないのです。
 分かりにくいと思いますが、早い話、同じA級戦犯でも、「人類は一家、世界は皆兄弟」とやった笹川さんの方が視野も広く、よっぽどまとも度が高い、というわけです(もちろん、批判されることはありますが)。日本財団のこの標語、トップが安倍氏と同傾向の人物に変わってからはトンと聞こえません。日本人をまともにするためには、会津の什の教えの復活よりずっとましです。
★9月8日
 C型肝炎訴訟で、国勝訴、つまり責任はないとの判決が出ました。
 こういうケースを見るたびに思い出すのが新渡戸さんの武士道。そこには上杉鷹山の有名な伝国の辞が引かれますが、彼はこれについて「封建君主は領民には責任を負わなかったが、天や祖先に高き責任感を有した」という言い方をします。一見すると良いように見えますが、それでは領民の方は為政者に責任を求めえず、いわゆる反射的利益で満足せねばならないことになります。つまりはちゃんとやらなくても違法性はなく、法的責任はない。道義的責任だけということです。
 新渡戸さんを神様みたいにいう人は、こういうことをどう考えるのか、よく眼光紙背に徹してあの本を読んで欲しいものです。
 しかも新渡戸式はここでも実は「日本の」考え方ではありません。例えば、韓国の昔の代官屋敷には、その奥に王様を祭る祠があって、赴任した代官は、まずそこにお参りし、天の委任を受けた王様に責任を確認することになっていました。これ即ち、「天や祖先に高き責任感を有した」の具体的表れです。
 これに対し、日本の中世の考えは違います。こうしたことは上記の本にも書いておきましたが、「難しい」といわれ、つまり、旧来の発想で固まった方には理解がいまいちのようです。要は、広い視野と、本当の日本とは何かを追求する姿勢なのですが。
 ここを間違えると、良心の塊である2・26の青年将校が、志と全く違う結果を出すことになってしまったのと同じ悲劇が起きます。みんなつながっているのです。
★9月2日
 暑い8月も終わって、今年もいくつかの戦争に関する番組を見たな・・という思い。
 中に、NHKの「密林に倒れた最強部隊」即ち久留米の18師団によるビルマのフーコン作戦の記録は、私より若い人が作ったせいか誤った図が出てきたり、時間の制約や本音はもっとという面はありましたが、とにかく貴重でした。
 この兵団は、天皇陛下の菊のご紋章をいただいた最強兵団、つまり菊兵団と名付けられ、杭州湾敵前上陸以来の武勲を重ねて、連合軍のビルマ奪回を阻止するため、昭和18年末からビルマ最奥地の死の谷、フーコン谷地で戦ったわけです。
 しかし、番組にもあったとおり、13人の兵隊に銃は6挺などという実情ではいかな闘魂も及ばず、白骨街道を築いたわけです。生き残った人が言われたとおり、中央は分かっていながら撤退させない。番組には出ませんでしたが、「兵は死ね」とか「死守命令」などが沢山の本にも書かれているとおり。そんな中で、銃創が癒えるや400キロの道を戦友と戦うために取って返した人のことなど、子供の時からその雰囲気の中に育った私にはよく分かります。
 米国側の記録を見ると、連合軍側はしっかり休暇をとって、栄養満点。こちらはマラリアは病気の内には入らないなどという精神主義で病人が武器も持たずに戦っているようなもの(この精神主義がどういう武士道観?から出たかは再三書いたとおり)。
 だからこそ、そういう愚劣な戦争で沢山の勇気ある良心的な国民を死なせながら責任をまともに取ろうとしなかった中央の大臣、参謀など、とんでもない連中なのです(今度の選挙で思い当たるふしは?)。
 このあいだ、九州出身のある元帥の話が出て、「あれはうちの町の出身だ。偉いんだ」みたいなことを言っている人がいましたが、確かにその人は、戦後、自決しただけましなものの、実は、奥様から早く自決しなさいと責められて自決したとの事。それを確認した奥様は従容として自ら懐剣であとを追ったとは、正に偉いのは奥様の方。
 大将とか、元帥とかいう名前だけで郷里の誇りに思うなんて単純。ましてや、昨日辺りの新聞に「どうやれば日本は勝てたか」なんていう無責任極まる本が出ている情報に接すると、これがまた多くの人を錯誤に陥らせるんだろうと慨嘆に耐えません。
 なお、去年の6月18日にも現地の参謀、Uさんにお会いしたことを書きました。
★8月31日
 このところお騒がせなのが相撲の世界。
 しかし、昔の栃若の時代を知るものとしては全くといってよいほど興味なし(我が家にはその一方や、大鵬の親方が宿泊)。何しろ力士にガッツがなくて、打っちゃりが全くと言ってよいほど減少。いかに粘り強い面白い相撲をしていないかという証拠です。三段目以下あたりはハングリー精神でまだマシのようですが。このことは先日引退した偉い行司さんとも意見一致したところです。
 そんな相撲に、何かと国技だからと堅苦しい注文を付ければ、力士も益々くたびれて、本業の稽古に身が入らないのも必定。そもそも相撲が今の形になったのはもちろん明治以降で、江戸時代とは相当な変容が見られますし、神道化や形式化が著しい。国技というなら昔にかえすことを提唱したいものです。
★8月24日
 ちょっと留守をしているうちに、佐賀北の優勝。お祝いのメールを沢山いただき、関係者もいる身として大感激です。
 あの決勝戦の最中は飛行機の中で、残念ながら観戦はできませんでした。代わりに観ていたのが「スパイダーマン3」。その中で心に残った言葉は、何といっても「復讐は毒のようなもので、何も生み出さない・・・」というおばさんの言葉。久しぶりに「恩讐のかなたに」を読んだような気持ちになりました。
 一方、この間、日本の総理大臣はインドを訪問し、お願いした割には聞き届けてもらえなかったようです。そもそも、明治時代の日英同盟じゃあるまいし、こうしたことにはよほどの勉強が必要です。中国を挟むようなやり方が、昔のような[面]の国際関係ではない今、有害無益と言うことを考えるべし。まるで、世界史の教科書をそのまま実行したようなやり方は、足元を見透かされ、より大きな包囲が日本の周りでおきていることを知らないものです。
★8月17日
 40・9度の最高気温が出ました。広く言えば人類は、殺し合いなどしている段階じゃない、ということでしょう。
 日本の場合も、食糧自給率は40パーセントを切り、エネルギーに至っては1パーセントもないくらい。
 戦後、私の村にも、東京の歌舞伎俳優などが高い着物を持って米をもらいに来ましたが、日本人全体の話になることは充分考えられます。それをどうコントロールするかが政治家の役目ですが。
★8月11日
 長崎の原爆の日も過ぎて、お盆、8月15日と色々考える日が続きます。
 http://broadband.biglobe.ne.jp/index_documentary_p.html?ch=documentary_p&bgf=TOP_NV_09&bgt=C364 は無料動画のサイトで、NHKのアーカイブスは、当然ながらどれも考えさせられました。
 終戦近いスウェーデンを舞台にしたスパイ合戦と、それを有効に使用しない日本当局。この発想の元が大切だと思うのです。それは単に「日本人は」という「菊と刀」時代の発想では解けません(「菊と刀」については、あの時代のものとして評価しますが)。江戸以前、むしろ古代からの日本人の歴史を国際的視野から見て初めて解決できる問題と思います。
 それにしても、東京大空襲を39歳少将の身分でいわば勝手に近く実行したアメリカ軍人がのちに勲一等とは。今に続くアメリカべったり。もちろん、テロ特措法の扱いは充分慎重になすべきですが。昨日まで鬼畜米英と言っていた日本人がたちまちアメリカべったりになったこの発想法も合わせて研究すべしでしょう。維新というものと関係あるかもしれません。つまりはこれも江戸時代以前から。
★8月6日
 今日は広島に原爆が落とされた日でした。
 私が中学・高校のころは、左翼全盛の時代に逆らってT教授の本を愛読していましたから、あの慰霊碑の「過ちはくりかえしませぬから」という文言について、過ちをしたのはアメリカだ。何で日本人がこんなことを書くのか、などとプリプリ怒って、おかげで英語は全く勉強しない、という徹底ぶりでした(今もそれに似た人は、私ほどではありませんがいます)。
 しかし、その後色々勉強してみると、アメリカがいけない戦争犯罪を行ったのは間違いないのですが、ここまで持ってきた開戦の責任者東条をはじめとする連中は、正に万死に値します。情報を持ちながら勝てない戦を始め、昭和19年7月のサイパン陥落後、戦争遂行能力がないのにこれを遂行させるというイタリア・ドイツとは全く異なる非常識を行って(イタリアが弱虫は間違い。逆)、多くの人を死なせ、学童疎開には「死なばもろ共」などと言って反対し(東条。私が会った辰巳栄一中将が遂行)、そんな反対をしたくせに、終戦後、多くの将官が自決するのに、米軍に捕まる直前まで「もろ共」に死のうともしなかった人物。その精神構造は研究の要あり。
 そのようなのと同類の人間に、再び施政を許し、こういう悲劇を起こさない、というのが過ちをくりかえさないということでしょう。
 となれば、明治憲法のように大命降下(天皇が元老の意見で決める)などというわけのわからない総理大臣の選び方はもちろんしないし、国会で選ぶとなればだまされないように選ぶ、ということが必要です。ところが、自分の息子にはなにやらの仕事をさせ、自分ではイラクにも行かないし、・・・などという人物を総理その他の顕官に就けるようなことでは、再び誤ってしまいます。
 彼らは、「私は最高の司令官?だから行かない」くらいのことを言うでしょうが、だったら、死者が出たら切腹するのか、と問い詰めるべきでしょう。本庄侍従武官長や阿南大将のように。ところが、イラクに自衛官が出て行ってるのに適当にそこらで劇など見ているようでは、そんな覚悟ありとは到底思えません。息子さんを2人も亡くした乃木大将を本当に見習えです。このような現象を、私は平和ボケと言うのです。
 世の中は格好いいお話じゃありません。なのに、格好や美人かで選挙をしてしまっただまされの事実が先日もありました。憲法問題もリアリズムで考えるべきです。
★8月3日
 日本人の特徴の一つに、強弁ということを取り上げている学者がおられます。典型例が平田篤胤で、キリスト教の文献をほとんど一字一句違わないくらいに引用して神道なるものを作り上げたのに、これを日本独自の国粋にする強弁。私にいわせると以前掲示板に書いたとおり正気の歌などというものは中国からの輸入品なのに、それとは違う独自のものがある、などという強弁も同工異曲。
 いずれも、国粋主義者こそ実は外国からの輸入品大好きという矛盾です。
 この傾向は、今の世の中にもしっかりあって、親に孝行的な伝統的保守=明(中国)の教えそのまま、などというのもその一例です。
 そして、今回の選挙で責任を取ろうとしない人も上記伝統的保守主義者で、かつ、強弁の主。この相関関係は重要です。
 速やかに本当の日本、つまり鎌倉武士的体質を涵養しなければ救われません。鎌倉武士と強弁人種とは違います。「本当の日本の伝統」も違うのです。
★7月29日
 今日の選挙で、投票率の低さには全くあきれました。戦後からしばらくの投票率の高さからみると、これだけ色々問題があるのにこの低さは・・・。
 税金と選挙権を連動させたのは明治憲法の時代とはいいながら、何やらそれに親和性を持ちたくなる発想にもなりかねません。
 この博物館の「公民教育研究」が言うように、明治憲法時代の人の方がまともとは、結局、衆愚、あるいは平和ボケということかもしれません。
★7月26日
 いっしょに仕事をしている台湾の学者R先生と話すのは楽しいものです。
 今日は、日本の刑事法廷は丁寧でいいね、との話。「へーそなんことあるのかな」と思ったら、「台湾では壇の上に検事が座っているからね」との話し。なるほど、日本で言えば旧刑事訴訟法の下にある台湾の刑事法廷はそうなってしまうんだな、と妙な関心をしました。長野県の松本にある司法博物館に行くと、日本でも昔はそうであったことがわかります。
 一方、私は数年前、台湾の行政法院の院長と新宿で食事をしたことがあります。その時は、いわば最高裁判所長官が私などと親しくざっくばらんに食事をして下さることに、台湾の先進性を見たものでした。韓国にしても中国にしても、こういう精神生活に近い部分は、日本より進んだ面、遅れた面が色々あります(機械や化学じゃないので、むしろ進んでいる点があることに要注意です)。
 アジア(もちろん、本来、世界全体)は互いに情報を共有し合うことが大事、とつくづく思いました。
★7月20日
 民主党が政府広報を通じての公選法違反で自民党関係者を告発したとの話。
 この政府とか首相とかいう言葉、はっきりしません。旧官吏服務規律には「天皇陛下の政府」という言葉がありましたが、今ははっきりした法的概念として根拠があるのか、私には不明です。時には「宰相」なんていう明らかに法的でない文学的表現がマスコミ上の表現として紙面を賑わわせたりします。
 こういうことばについても、旧憲法を脱却しなければまともな国民とはいえません。
 ところで、選挙違反で思い出すのは2回前の台湾総統選挙です。実際に見学に行ったところ、民進党も国民党も、夜10時の期限を過ぎても、罰金を払って自党の政策を訴えていました。
 今回の選挙では、我が国についても、ネットの「文書配布」に若干それめいた行動があるようですが、その傾向が自立した国民への一里塚と評価できるようになるのか、注目したいと思います。
★7月19日
 先日、一部仕事で香港に行ってきましたが、復帰十年のためタダで参観できた博物館は圧巻でした。入り口で一番納得したのはお墓。韓国・百済の5世紀の墓と同じ様式です。韓国公州で、1971年でしたかに発見された武寧王の墓と中国南朝の墓の様式が一致していることは文献では読んでいましたが、リアルに見せていただくと迫力が違います(武寧王は佐賀の加唐島<かからしま>で生まれたとの話は、日本書紀にあるとおり)。
 一方、公州のお墓の中のお棺の材質は、これまた報道されているとおり日本にしかないといわれている高野槇。
 つまり、日本、韓国、中国南朝がつながっていたわけで、この博物館の中に書いた、5世紀のアジアそのもの。倭王武の上表文の意味もグンと迫ってくる感じがしました。
 つくずく武士の生き方も世界的に見なきゃだめだな、と思ったことでした。
★7月12日
 今日は、2・26事件を起こした多くの青年将校が銃殺刑に処せられた日。鍋島藩菩提寺にある墓の前には花が手向けられていました。
 ただし、この事件の評価についての「評価人」のスキルは年々低下しているといわざるを得ない気がします。元々よくわからない事件である上に、きちんとした旧憲法の知識がなく、しかも、本当はもっと大切な江戸時代からの議論が理解できていないので、最大のキーワードである「君側の奸」の法的位置がわかっていないのです。
 この点は、現代史史料の月報で、5・15を起こした小沼正自身がいわば慨嘆していたことで、彼は、我々には革命とか、誰かを担ぐなどという考えは無かった、と言い、2.26の池田俊彦少尉の澤地さんへの批判もそこにありました。
 近頃の若い批評家には、はっきり言って無理な話になってしまったのではないか、と思います。もちろん、私自身、葉隠の聖(非を知る)の精神からは大きなことは言えませんが。
 なお、私自身はあの事件で予備役になった真崎少将には子供の時に会わされ、大将の息子さん(昭和天皇の通訳)とは亡くなるまでご厚誼いただきました。その他色々と関係し、一応関係者の端くれの端くれです。これでも貴重な人材かもしれません。
★7月8日
 昨日は盧溝橋事件の日。あの場所の昔は、永定河にしっかり水が流れていましたが、今や砂漠状態。異常気象の最近に照らすと、様々な危機を感じます。
 ところで、最近、光市の事件についての裁判の感想を求められます。
 私は、これはある意味、ロッキード事件と同じと思います。あの事件は、5億円の授受自体ははっきりしていたといってもよい状態だったのに、それを否定する角栄さんの言い分に、私選でたくさんの弁護士が就任しました。しかし、それは常識的に変だなと思ったものでした。
 一方、今回の事態、どうも事実関係についての被告人の言い分はおかしいようです(もちろん記録を検討していませんから断定はできませんが)。それに対して多くの弁護士が就任して無理?な主張をしている事象が問題です。
 ではどうすれば理想かというと、ローキードもそうですが、弁護士の誰一人私選では就任しない。でも、その結果選ばれた国選の弁護人は、徹底して被告人の言い分を法廷に出し、主張する。もし主張しないとすれば、それは国家全体として不健全。
 そうなってこそ理想ではないかと思います。つまり、このことは国民(弁護士もその一部)全体のレベルの問題であって、正に民主主義の本質の問題かと思います。
 あの事件については一部ご縁もある関係者が関わっていますが、人権の名のもとに機械的?に就任したことには、その昔の学生運動の問題と同じ薄さを感じます。ただし、被告人を打つことを皆がしてしまい、司法というシステムを壊すことは、逆に恐ろしいことです。
★7月5日
 梅雨とも思えぬ暑さで、怪談話が懐かしくなります。その中ではやはり円朝が素晴らしいといえますが、もちろんこれには元ネタがあって、中国やヨーロッパの改変がほとんどのよう。それははっきりしていますし、それでよいのです。
 ところで、こうした怪談話にある意味勝る怖さが歌舞伎。
 暑いせいか、今、国立劇場では菅原伝授手習鑑をやっています。この滅私奉公を新渡戸さんは日本の武士道と称してご推奨です。
 しかし、これ実は、元曲あるいはインド由来の話しとか。また、フランスのボルテールは藤原氏ならぬジンギスカンに置き換えてハッピーエンドの話しをこしらえているとか。要はちっとも日本独自ではないわけ。
 円朝のようにはっきり外国のものを参考にして作りましたというのはよいとして、「日本の」として鼻息荒くなるのが実はよそのもの、はこっけいです。
 つまり、視野を広くすることが大事。それで初めて日本独自のものも探せます。
★6月27日
 日本軍を「皇軍」と言ったのは、昭和10年代末期に陸軍大臣を務めた荒木貞夫大将であったと思います。長野県松本の川島芳子記念室にも「皇道日本」の同大将の軸があります。
 然るに、2・26事件の調書を以前引用しましたが、実際はその「皇道」が「増長」を招き、中国大陸では、アヘンをはじめとするとんでもない事態になっていたことを青年将校である村中孝次元大尉も述べています。このあたり、表向きと実際は大違いなわけで、そういうことになる日本人の性癖の由来を研究すべきなのです。
 私の身内が撃沈された輸送船にも、兵隊と一緒に多くの女性が船倉に同乗していました。当然、死亡です。米国での慰安婦の議論を聞いていて、こんなことがわからないのかねと思いました。そして、日本は真の皇道を持って事に当たらなければ、正に世界から尊敬されないと思います。
 その尊敬されない人士の中に、戦前の日本を十把ひとからげにして「日本は悪くなかった」式にいう人がいます。いや、多くの日本人が十把ひとからげに見るでしょう。極めて貧困なる歴史教育のせいです。
 しかし、簡単にいうと、満州事変を始めた一派、それを収拾した一派、更に拡大・破滅させた一派はそれぞれ別です。尊敬されない人士は、破滅組を推奨しているのです。
★6月26日
 株主総会や財団の評議員会が終わって一段落で、昨日は夜の勉強会に参加してみると、同業が少なくとも3人。それぞれ年代が違って面白かったです。若い人は苦労しているようでした。
 韓国では、ひところ20名くらいしか司法試験の合格者がなく、とんでもない狭すぎる門であったことから、何十倍も増やした結果全く観念の違う法律家が出来上がったようですが、日本も今やその傾向大です。増やすこと自体を悪いとは言いませんが。
 それにしても、そうしたことを「改革」の名の下にやってきて、実は全く改革などではない要素が相当(大部分?)あるのに、それを見抜けないマスコミは落第です。黒塗りの車に乗ったマスコミ人など、それこそ信用できません。
 先日あれこれ付き合った政治部記者氏、悪い人じゃないけれど余りにもナイーブというか、世間を知らない。あれじゃ生き馬の目を抜く政治家の裏には切り込めません。
★6月17日
 このところの年金問題でも、官と民との関係が問題になっています。社会保険庁は解体してほかの団体云々とか。
 しかし、これこそ官逃れ。こういう根本的行政を国民に責任を負った官が行わずしてどこがするというのでしょう。人殺しなどということは武士はできないから農民上がりの新撰組にやらせる、とか、岡っ引きや手代と言う武士じゃない町人か中間者になってやらせるなど、腐敗、無責任の発想そのままです。
 しかも、何とか審議会という官を入れた組織でごまかそうなどという発想は、実は官尊民卑そのものなのです。
 前政権以来、こういうごまかしは、益々その度を強めている気がします。刑務所はもちろん、エネルギー、食料といった根本について、国家、行政がどうかかわるべきかの議論に緊張感が欠け、逆におかしなお金や名誉欲が動いているのではないか、という疑いを濃くします。
★6月11日
 イランの友人Aさんとランチをいっしょに。彼は、日本の電車で若者が老人に席を譲らなくなっていることを嘆いていました。確かに韓国などに比べると日本は圧倒的に落ちます。そして、教室で学生が起立しないのは当たり前になりました。これは多分アメリカナイズでしょう。アメリカ人の先生は立たなくてよいと言いますし。
 しかし、かといってアメリカは、かわいそうな老人を助けるな、とは言いません。
 要は、うわべだけのアメリカの真似は、イランの人の顰蹙を買う、ということ。つまり、立たなくてよいことの実質を考えることだと思います。かわいそうな老人という実質を考えて立つ日本人を作ることが大切では。ただ単に、立て!ではなく。
★6月3日
 先日、何回目かのロータリークラブでの講演をこなしてきました。
 いつも言うのは一味同心の話し。元々シカゴで4人の人が始めたそうですから、正に一味同心の精神じゃなければならなかったはず。
 しかも、奉仕の精神は、葉隠的にいえば、鍋島清久が、祭りの前に、昆布巻きにされてしまう危険のあるお堀の鮒を逃がしてやった故事にあるようなやさしい、あるいはボランティアの精神。
 何のことはない、日本の歴史をしっかり勉強すればロータリーの精神になる!?
 何よりも、今の頭にこびりついている観念を捨て去ることが先ずは大切、という気がします。
★5月27日
 掲示板を閉めてしまったので、以前書いたことですが、24日と同様のことは、中国の朝鮮族自治州にいる朝鮮族の人にもいえます。
 彼らは戦後、「日本人」として迫害されました。
 そういう種をまいたことを自覚しなければ、美しく掃除しただけじゃ世界から尊敬されません。50年前にアメリカに移住した人が帰ってきて、「日本人はどう・
8000
オてきれいとか汚いとかにこだわるんだろうね」と慨嘆されたのを聞いて思うことです。
★5月24日
 想像してみてほしい。あなたは歳若い身で国家の為に出征し、目の前で同胞が一人一人と死んでいく。ところがある日突然戦争が終わり、するとあなたはたちまち国籍を失い、次の日からは全く別の国の国民として生まれ変わる。しかもその新しい国家というのが、今まであなたが命がけで戦ってきた敵国(中国)なのだ。そんな目にあえば、歴史があなたを笑いものにしているのではないかと思わざるにいられないだろう。
 周婉ヨウ「図説・台湾の歴史」(日本語版は平凡社、154頁)。
 最近、沢山の台湾関係本が出ており、恐るべき過去の実態をえぐった本もありますが、大変恐縮ながら一面的な物が多い中、この本は中正、堅実、厚さの割りに詳細で、ベストセラーになったのも当然と思われます。日本人はこういう台湾本を読むべし。
★5月14日
 台湾の総統選挙がまた近づいてきました。私の知り合いの知り合いである台湾の方の歌。 「血の祖国、法の祖国のむなしさよ 我があこがるるは心の祖国」
 つまり、血の中国でもない、法の日本によって治められたのでもない、自分があこがれるのは台湾人としての心からの統一ある祖国・・という意味です。つまり一味同心。
 一方、今の日本は、法による締め付けあるいは形式だけで憲法をいじろうとしています。しかし、以前、新右翼の木村三浩さんと対談(武道通信所収)した際も述べたとおり、今の日本は中身がふらふら。この状態で法の締め付け的な憲法改正ではただのゴッコに終わってしまい、心の祖国を作ることはできないでしょう。憲法でも教育基本法でも、「心から」じゃなきゃいけないのに「法で」では正にこの歌に反します。
 台湾の本当の苦労でもよく勉強してからにしては、と言いたくなります。9条以前。
 ちなみに私は、1960年ころ、つまり小学生の頃から台湾と文通してきた者で、明治時代からの縁を持ちます。
★5月11日
 大学の学生さんと話していて、色々な世界に蔓延している「考えることのなさ」が話題になりました。
 大学における山のようなレポート(それで勉強した気になる)、会社における山のような規則や契約(それでもれがないと思う神話的誤解)、政治の世界における取ってつけたような教育、憲法などの新立法(それで世の中がよくなると思う浅はかさ)などなど枚挙にいとまありません。この事態こそ、正に平和ボケ。
 では一体、何を、どこを参考に考えたらよいかですが、私は日本にしろ外国にしろ、その国家がつぶれた時期(つまり平和でなかった時期)の反省の書を読み考えることがよいのではと思っています。明治維新期、徳川はなぜつぶれたか、昭和20年、日本はなぜ負けたか、宋や明や清はなぜつぶれたのか、など。西洋より東洋が、とりあえずはより参考になります。
 その逆に、いや日本はよかった、なんて子供みたいなことを言っていては、東洋のルソーと称されるような明末清初の大学者などには及びもつかないことになります。
★5月3日
 今日は憲法記念日ということで、新聞紙上でも、ある程度の議論がなされてはいますが、浅いといわざるを得ないと思います。
 要は、アジアからの発想への理解が無いので、改正を考える政治家も、ただ文字をくっつけるだけの「憲法改正ごっこ」。その点では、決して同意はできないものの、明治憲法の起草者の方が数段上。明治は江戸から続いているわけで、せめて江戸時代の日本でもよく勉強してから憲法改正も考えた方が良いと思います。例えば、清国末期の康有為の行動などは明治維新を手本にしつつ、そのエネルギーのよって立つ基盤を誤解したことに失敗の原因があったといわれます。そのようなことをよく勉強すべきなのです。
 ちなみに、下の「今までに発表した葉隠関係の主な論考等」の末尾にある「日本のボタンのかけちがい(1999年)・自由と正義(1月号)」の副題は、「憲法を検証する視点」でした。上の本(葉隠論考)所収。
★4月21日
 戦後特に近年、行政法の世界では、古い権力的、つまり上からの個人の権利を制限しての行政を毛嫌い?してかサービス行政ということが強くいわれます。
 しかし、国家の存在意義は、決してサービスなどという「甘い」ものではないはずです。このところ、エネルギー、食糧、安全といった問題に直接関わったり関心を持たされたりという機会が増えましたが、ペルシャ湾から日本まで、数珠繋ぎのようにタンカーをつなげて、辛うじて生きているこの国民にとって、エネルギー政策はサービスどころの騒ぎじゃありません。正に生きるか死ぬかの最大の死活問題で、警察行政と同様の本質を持つはずです。もちろんそのために軍備を、などというのは愚の骨頂で、ビルマまでの戦争で負けた国がペルシャ湾までのラインを保持できるはずがありません。
 ここに外交というものも、正に警察的本質行政の意味があるわけで、単なる強気の如きことを言っているのはこれまた愚の骨頂。日清戦争時の陸奥外相の蹇々録でも読んでみてはと思うのですが。
★4月15日
 昨日、今日と台湾関係者、台湾人の方と懇談、取材を受けました。
 今、台湾を懐かしがる人は、まず昭和初期以降の台湾の経験からです。もう、年代的にそうなってしまっていますから。しかし、その前の明治、大正時代が大変で、かつ、そこで台湾統治の枠組みができました。
 たしかに阿片、賭博はもとより病気、ばんがいと呼ばれたもの(意味は伏せる)の中での開発は大変でした。
 そして、その大変なことを前提にしての統治制度といわば階級差ができ、それは今も尾を引いています。
 しかし、今はその多くのことが伏せられています。また、伏せなければならないこともあります。人間の尊厳のために。
 でも、そのために、真実が忘れられ、逆に綺麗なお話しの世界だけがあるのは困ったことです。
★4月12日
 このところ掲示板廃止とともに足が遠のきました。本業を真面目にやっているのですからこれが当たり前かもしれませんが。
 最近の勉強から考えることは、組織法の重要性ということでしょうか。昔の律令でいえば令です。
 この部分は明治憲法下でいうと「朕の家来」にかかわることで、国民が立ち入ることのできない内閣官制の分野でした。つまり、勅令という帝国議会の関与を許さない分野だったのです。
 この観念は日本人の中に深く根を下ろしていると思います。いわば右翼にとっても左翼にとっても。国家というものを自分から離れた存在にしてしまうのです。崇めるか抵抗の対象とするか。
 最近、エネルギーの話を聞いたのですが、今の日本は正に空中楼閣の上で踊っているようなもので、エネルギーについては食糧自給の危機どころではありません。
 となれば、日本国民にとっては、エネルギー問題は正に警察行政以上の、「国民を守る」喫緊の行政のはずなのに、国からはその緊張感が伝わってきません。はっきりいえば、エネルギーのためには徹底的平和の確保が重要と思われるのにその緊張感と覚悟が感じられないのです。これこそ国民の国家の組織報法への無関心のなせるわざと思うのです。ちょっと難しいかもですが、組織法とは国家・公務員の権限に関する法と言い換えてもよいものです。
★3月31日
 中野区の沼袋へ出かけて相談ごと。家の下を見ると妙正寺川の流れとわずかな森林が。おやおや、ここが沼袋合戦の場所かなと思うと、やはりそうでした。中野駅側から見ると、北に傾斜してどうみても城砦の形をなしています。
 文明9年(1477年)、江戸城主太田道灌は関東管領上杉顕定・定正を敗走させた長尾景春の党豊島泰明を平塚城(上中里の駅そば)に攻め、更に、泰明の兄豊島泰経等石神井練馬(石神井公園と豊島園)の両城から泰明のため来援したのを迎えて江古田・沼袋の地に激戦。泰経は敗死。鎌倉以来、今の東京北部を押さえていた豊島氏が没落するはしりとなりました。
★3月30日
 サクラの靖国神社。アジア各国の人も交えたたくさんの人々でどんちゃん騒ぎ。これが人類本来の姿かな、と思わせていただきました。
 おかしな国粋主義でなく、本当にグローバルであるべきで、江戸時代一部の、視野の狭い人々に精神を支配されてはならないと思います。
★3月26日
 理解されにくい文書の一つに、敗戦数ヶ月前の「近衛上奏文」があります。敗戦必至であり、今、対米戦をやめなければ共産革命が起きる・・・というものですが、一億火の玉の時に、そんなことあるはずないという人からは理解し難い文章でしょう(現代ではほとんどの人に理解不能、はいうまでもない)。
 しかし、当時の軍部、革新官僚などの思想をみれば、そうした懸念はありえました。
 そして今、数十年前「左翼」であったものが、官僚といういつでも自己保身に走れる旧ソ連の担い手と全く変わらない者らと組むならば、自由と民主主義から最も外れた国家が出来上がることは簡単です。日本の多くの場所でそれはあります。
 それを防ぐには、何事につけ「実質」で判断することが大事です。
★3月18日
 このところのすさまじい攻撃?に耐えかねて、ついに掲示板を閉鎖しました。どこの掲示板もやられているようで、やむをえないことかなと思います(いずれ、今までのデータの一部は公開します)。
 もっとも、その原因になったわいせつ文書については、ここに載るのはもちろん困ることで断固退治が必要ですが、世の中一般でお行儀よくせよ、ということについてはハテナとします。私が行ったことのあるある国ではわいせつ罪はほとんど存在しないようでした。自立した国民として自らを律することができればあんな法律を作ってあれこれ議論する必要はないわけです。それはお上に頼る姿ですから(もちろん、その筋の病気とか色々ありますから大変ですが)。
 ですから、刑法学者がわいせつ罪について、巨大な1冊などを物しているのをみると、他に書くことがあるのにね、と思ってしまいます。
        ☆       ☆
 ところで今日は、学生と鎌倉に行ってみました。国宝館の雛人形を見ていて、享保雛が。うーん、正に正親町町子さん(柳澤吉保の側室)らの雅な雰囲気。正にこれじゃ、徳川中期以降の侍は、武士じゃないな、と思いました。ちなみの、その雛は外つ国風です。
★3月1日
 2・26事件における北一輝登場の録音版のことを書いた本が売れているようです。
 しかして、その宣伝の文句は、あたかもこの録音版が新発見ででもあるかのようにとられかねない書き方です。
 冗談じゃない、私自信随分前にテレビの特集で聞きましたし、北一輝はあれのために死刑になったのは有名な話しで、出版社の広告はどうみてもそのことを知らない人を困惑させるものといわなければならないと思います。
 商業主義は、全くひどいものです。
★2月26日
 このところ3日続けてお医者さんに会いました。はじめは日本の医者は足りないんだ、と叫んでいる方。厚生労働省の言っていることは?・・という言い分には、自分の世界との共通性を感じました。二日目は脳神経外科の権威と同席しました。自分は余りにも狭い世界に生きてきた、との感懐を吐露されたのには親しみが持てました。三日目は技術系と医者とのコラボレーションの世界。我々法律の世界も、元々概念の数学といわれますが、犯罪の評価など、遺伝子工学的な解明も必要ではないかと思います。
 この3日の間、たまたま通りかかったお店の前で足を止めたところ、イランのインテリの方と話しが始まり、立ち話で1時間半近く。先日もテレビでやっていましたが、アメリカの一方的な報道はあてにならないな、と思った次第です。
 そして今日は2・26事件の日。
 この問題を取り上げる学者の目は、残念ながら相当曇っているな、と思わざるを得ません。明治憲法体制というものをきちんと前提にしないので、論理が始まらず、情緒に流れているといわざるを得ないのです。なお、明治憲法体制を知るには江戸時代以前から考える必要があります。
★2月17日
 今日はアジアの大晦日。明日が旧正月、つまり春節。
 日本も旧正月にしてアジアと連帯せよと、毎年言っているので今年はやめますが、その代わり、小正月、つまり15日の休みまで無くしたのは、いよいよもってアジアから遠ざかったことだ、ということを指摘しておきます。
 最近の政権はろくなことはしない、という感じ。
★2月11日
 建国記念の日の今日も、北京では6か国の様々な駆け引きが行われているわけですが、かの38度線の北の国の対応は、正に武士道的にいうと正名論。分かりやすくいえば分配論です。
 油を何百万トンちょうだい、といって、国内では「成分」と名づけられた階層によって分ける。もちろん軍隊にごっそり行くことが考えられますが。いわば配給の湯元を決める交渉という態をなしています。そこにはケインズ的な乗数効果といったものはみられません。
 この発想では経済が発展するはずもないわけですが、実はこの日本でも似たようなばら撒き行政の発想がないか、大いに反省してみるべきです。
★2月6日
 夜、北京の知り合いとインターネットで会話し、「これから何かするんですか」と聞かれたので、「中央郵便局に行って郵便を出します」と答えると、「えっ、日本じゃこの時間まで郵便局が開いているんですか」との驚いた声。「取り集め局なら24時間開いています」と答えると、またビックリ。
 そのあとメールが来て、「日本はいいですね。食事でもしてゆっくり郵便局に・・・」。保険とかもやっている雰囲気。
 となると、ちょっと感じが違うんだけどな・・・、と思いました。
 それで思い出したのが「何日君再来」というテレサテンの歌。小学生の時から台湾の忘れえぬ人と文通してきた私は、数年前、その人が交通事故で死んだこともあって、この歌を聞くと涙が出るのを覚えますが、大陸では君と軍の発音が一緒であることから、「君またいつ帰る」じゃなくて「日本軍はまたいつ帰って来るか」というとんでもない歌になってしまうとのこと(いや蒋介石軍だとの説もある)。
 ことほど左様に、お互いの理解には難がありますが、やはりきちんとした勉強というか、少なくとも知る努力が必要ではないかと思います。
★2月4日
 先日、高名な外国人で日本文学の権威Aさんの秘書を何十年もつとめたというお方と立ち話。
 米国に滞在されていたことから例のラストサムライの話になって、小生としては、困った映画です、という話をしたところ、その方、「でも、日本の宣伝になるし、関心を持ってもらえるんだからいいんじゃないですか」との言。
 これだから困るわけで、フジヤマ・ゲイシャの日本観がいくら広まろうと、ちっとも良いどころかとんでもない話です。
 おまけに今の日本人の中には、このフジヤマ系の話でヨイショされると日本は素晴らしいのでは、なんていう逆輸入自信がつく人が多いわけで、昔よりレベルが低下しているといわざるを得ません。
 ちなみに、学校では源氏物語なんていう訳のかからぬ本を教えるのではなく、徒然草や平家物語などに力を入れて、もっと倫理的にしっかりした本を読ませるべきです。徒然草について、安良岡康作先生は、ただの無情感の本ではなく(ぞれは前段の数十段)、自己確立の意志こそ徒然草を貫く精神といわれましたが、そういう教え方をしているのかもこれまた問題です。
★1月27日
 70年近く前、旧制佐賀中学で真崎甚三郎大将のお話を聞かれた方としばしの対談。大将は2・26事件のあと予備役編入。佐賀県教育会長に就任されたので、その話を聞いた人は私の身内にもたくさんいます。その内容は、戦争の帰趨、中国での日本の行動、武士道の本質等々、最近の流行とは相当違います。いや、逆といってもいいでしょう。
 この間はNHKの会長をされていた阿部眞之助さんの選集を読みましたが、大将と同一傾向。つまりは戦争を起こした東条はじめ為政者はとんでもないとの話し。逆に私も一度同席したこといある辰巳栄一中将など、いわば今の自衛隊の元を作った人は立派と。
 こういう話をしても通じない時代になってしまったことに何とも困ったことだなと思ったことでした。あべ何がしといえば野球の選手・・だけではどうもいけません。
★1月21日
 12月30日の欄にも書いたイラク専門家の先生と話したもう一つの話が、あのあたりで最も民主的なのはイランであるとの話し。そしたら今朝、テレビでそのことを報道していました。
 しかし、その中で、同テレビ局だかのカイロの支社長だかが、それを知ってビックリしたとか言っていたのは何たることかね、と思ったものです。イラク大使をされた片倉先生も述べておられましたが、日本のサウジアラビアあたりの大使は、英語はしゃべってもアラビア語はダメ、という人が長年とのこと。ここでも「実」ではない「形式」の国家運営が見て取れます。
 イランに関しては、その国家体制を初めとして、「人の振り見て我が振り直せ」と言いたい部分がいくらもあります。宗教の最高指導者が目の敵にされていますが、あのように、正に目に見えるということは一種の民主的システムでもあります。見えない国もあります。自分の足下に。 
★1月18日
 正月も半分以上終わり、年賀状も寒中見舞いに変わり始めました。
 今年も外国からのお便り、メールを相当数いただき、政治的には対立状態にある双方からいただく賀状にはずしっと来るものがあります。
 一個人が政治に翻弄され不幸なことになるようなことのないよう、もう一度国家観についても考えてみるべきでしょう。特に西洋の受け売りではないアジアの知恵で。
 戦前の日本人の気宇壮大さを取り戻すべき時でもあります。
★1月14日
 安倍内閣が憲法改正を参議院議員選挙の争点にしたとの話し。
 以前、武道通信さんのウェブ対談で、新右翼の木村三浩さんと対談した折も述べたことですが、自分の病気状態を直せないでいて鎧を着けることなどできるのか、と思います。もちろん、現行憲法に問題はありますが、そもそも9条以外の41や65や75といった基本の基本が守られているのか、というと全くめちゃめちゃの状態。エッ?そんなことないでしょ、という声が聞こえてきそうですが、一流を称する学者自体がすっかりマインドコントロール状態なので、始末におえません。
 例えていえば、内閣提案の法案が90パーセント以上で、何で国会が41条の「唯一の立法機関」か、とか。こんなことを言うと、それは・・だから合憲、よって「唯一の」ははずしちゃいましょう、などという正に学説(と言うより教科書)丸暗記型非クリエイティブ妄言がすぐさま聞こえてきそうです。
 この原因は内閣官制というドイツ・東洋専制主義以来の呪縛にありますが、それはそれとして、憲法そのものと、その解釈、運用は分けて考えなければいけません。
★1月11日
 アメリカでは、ブッシュ大統領がイラクに2万2000人の増派を決定。今までは数が足りなかったので占領地の治安が維持できなかったとの弁。
 しかし、以前書いたように、完全制圧のためには数十メートル四方に1名の完全武装の歩兵を置かなければ制圧できないといわれます。陸上自衛隊の員数もそれで構成されているとのこと。でも、現実にはその計算どおりにもいかないでしょう。70年前に日本の軍隊が大陸で経験したことでもあります。
 そのような米国にどこまでもついていこうとしてきた日本。戦後の日本には親米右翼という観念が出来上がりました。今、その考えの人が、一方では国家主義の復活の如きことを述べて自主憲法などと述べる。この博物館に書いた国家主義で中国の一部風、と同じで、親米、右翼、国家主義、中国の一部風が全て合わさった発想は、米が将来変わった時、一体どういう扱いを受けることになるのか、考えておいたほうがよいと思います。つまりは本当の日本とは何かを見据えた真の自立が必要でしょう。
★1月6日
 お正月も一段落気味で、皇居前のテントもとりのけられました。
 このところ感じることの一つは、あらゆるところに全く持ってごまかしが多いな、ということ。その一つが皇室についての報道です。
 その昔、天皇陛下のお顔はみだりに写真などにできないものでした。新聞に載せて踏み潰しでもしたら大変だったからです。ですから龍顔といい、硬貨にも龍を載せ、イギリスのように女王の顔を載せるような事はしませんでした。
 ところが、最近の特に女性誌じゃない週刊誌。皇室の味方のような保守的傾向は、それを装うのみで、中身はただの覗き趣味と超保守によるそれ以外叩き。これ全て売らんかなの商売としかみられません。でなければ、踏まれるかもしれない電車の中吊り広告に陛下のお顔など載せるのはおかしいわけで、矛盾しています。
 こういうのこそ昔風でいえば国賊なのに、逆に評価してしまう人がいるのは、つまりはだまされているのです。国も変ですが民間にもこういうだましが蔓延し、それが国民の意識を作ることに、もともと皇室への憧れを持つ者として、冷静な憤りを覚えざるを得ません。ここでもやはりインチキを見破る力と勉強?が必要です。
★1月1日
 「一人即一義、二人即二義、十人即十義」この無政府的混乱状態を回避するために天下の賢良・・の人を立てて天子となし、「壱同天下之義」の実現に従事することになったとする・・・(田中耕太郎引用の墨子)。
 この論は、正に12月30日のイラクの話につながります。フセインさんが賢良だったかは別としても、その最後は見事だったと思います。
 一体、ああいう国で国民を守るとはどういうことだったのか、アジア近隣の歴史も改めて考えたくなりました。
 この博物館に引いたデマルカシオンつまり世界分割という西洋の悪しき「お手本」がいかに世界の人を殺戮に導いたか。これは国境というものも同じ。
 民主主義についても、その究極的価値を絶対に認めるものですが、現実の適用について、西洋やアメリカの時計を持ってくるのは危険といわざるを得ないようです。
 いずれにせよ、こうしたことを考えるについても広い視野が必要。掲示板に貼った大野城の律令的時代の大きさ、広さにこれまた改めて考えさせられました(近々、雑誌登載。板築は版築が可)。
★12月30日
 昨日は、イラクで遺跡を調査されていた先生と2年ぶりにお会いし、充実した話になったことでした。
 イラクのフセイン政権は、昔の台湾の政権と同じで、密告による恐怖政治と思われますが現地取りまとめの面があったのでは、との見解にそうなんですよ、との話し。アラビアのロレンスは、あの辺の世界は砂だ、と言ったとか。上から強烈にまとめないとバラバラになってしまうとの話し。
 サダム・フセイン氏が死刑なら昔の台湾の指導者はどうなのか、そして勝った側の米国大統領は。トルーマンは。民主主義が人類の理想でも簡単には根付き得ないところがあります。実はこの日本もそうでしょう。形だけの民主主義の面は半分以上と見ます。
 いずれにしても、あのような政治体制をとることについて世界共通性があることに、文明の伝播性と人類の哀しさを感じざるを得ません。
★12月27日
 尊敬するA元判事からの手紙に、やはり鈴木先生の話し。
 英雄は英雄を知る、じゃありませんが、やっぱりすごい人はすごい人のことを正等に評価するんだな、と感動。
★12月25日
 東北大学の鈴木禄彌先生の訃報に接し、本当に残念だなと思いました。彼の先生の「近世私法史」はドイツのビーアッカー教授の本を翻訳したものですが、あれだけの大著の翻訳が大変であるだけでなく、先生はその大量の正誤表を作ってビーアッカー教授に送り、ビーアッカー教授もそれを謝し、巻末に掲げてあるばかりか、その補遺版まで掲げてあるという素晴らしさ!鈴木先生もすごいし、ビーアッカー先生もすごい。しかも鈴木先生はそれを35歳でやったんですからため息が出ます。
 もちろん若いからすごいというものでもなし。ここは本居宣長さんの説に習い、年をとっても我々も頑張らねばと思います。
 私も学会では川島武宜、谷口知平などという先生の謦咳に接しましたが、あの方々はごまかしがなかった。分からないことは分からないといい、それを著書にも書かれている。ウィトゲンシュタインなどにもそういうエピソードがある。
 ところが今は、ゼミをやっても答え合わせの裸の王様状態。全く馬鹿げています。
★12月24日
 昨日は天皇陛下のお誕生日。誕生日を祝い始めたのも明治以降の慣習といいます。もちろん昔陛下のお誕生日は天長節といいました。水戸武士道の発想がプンプンします。
 正月に年とりをする、その正月は旧で行う。それこそ日本の発想でありアジアとの共通の地盤につながるものと思います。今上陛下を平成天皇なんて言ってるのも、おくり名という観念に反するめちゃくちゃ。
 一方、今日はクリスマス。これまた本来の趣旨に反するめちゃくちゃぶり。
 なお、葉隠の「武士道というは死ぬこととみつけたり」の意味を正確に知るには、大村純忠による長崎のイエズス会への寄進の意味を知らなければわかりません。長崎と、その隣、深堀とのけんかが前提にある言葉だからです。
★12月22日
 このところはやっている言葉のひとつにCSR(コーポレート ソーシャル リスポンシビリティー)というのがありますが、その企業の社会的責任のようなのを逆手にとったのが銀行の政治献金!?
 あの左右対立の時代、自民党を守るため、というのは、私としてはあるといいなと思ったものですが、今やそんな時代ではないし、あの時代でも問題は大いにあたのに、今頃そういうことを言い出すとは呆れた話です。
 なぜそうなるかがやはり問題。大きくいえば米国の傘の下でボケているか、核になる人間には悪巧みがありそうだし、うんうんと従う人は綺麗な言葉にだまさせているだけでしょう。
★12月18日
 最近、韓国ではやっている数字に「386」というのがあるそうです。
 3は30代、つまりノムヒョン政権を支える世代。8は80年代の学生。6は60年生まれ、とのこと。現状を厳しく考えていない親北とのことですが。
 韓国は韓国として、日本でも、バブル期に会社に入った世代は・・とか。全共闘の生き残りはおかしいとか(これは私が言っていること)。
 何よりも、比較的若い人の古文・漢文を含めた国語力の低下はひどいと思います。地方では文学部国文科なるものは成り立たない状態。
 愛国心だの言う前にこれを直さなければ愛するための材料もさがせません。なのに、一片の法律を作って何やらしたつもりの政治家には「実」つまり好きになる材料獲得能力をよこせよといいたくなります。今まで、古文というと源氏物語のような非倫理的な本(!?)をいわくありげに教えていたことにも責ありです。
★12月16日
 今年ももうすぐおしまいで、12月14日の討ち入りも(もちろん本当は旧暦)いつの間にかすぎてしまいました。
 この赤穂浪士の処分については、その当時、論理を追求した様々な論が出ていることは周知のことです。特に林家の儒者の説や荻生徂徠は情においては忍びないが、法は法として切腹と。これは徳治を標榜する儒者としては変とも思っていましたが、漢の時代からむしろ儒家は法家と一種の習合をしたのであるともいえるわけで、納得。いわば林家や折衷学派と呼ばれる一派こそ常識的といえる一例かもしれません。礼を重視する儒家は本来法的学派ともいえます。
 話し変わって、今日の新聞に、奈良大安寺の塔は70メートルに達する七重の塔であったとの報道。それでも中国の大塔にはかなわないのですが、江戸時代にできた京都・東寺の日本一高い塔が五十数メートルですから、やはり律令時代は大きかった。奈良の大仏殿ももちろん大きかったし、筑紫観世音寺も金堂は今の2・5倍あったそうです。
 それで、日本もやっぱりすごかった・・なんて私は言うつもりはありません。それじゃいつも言ってる子供のようなお話国民になってしまいますから。それよりも大きいということにどういう意味があったかが問題で、わたしはやはり、律令国家は、いわば大陸と一体、あるいはその一部であったということを重視したいと思います。つまり発送が「大陸」だったのです。島国でありながら。その後、本当の島国になってしまった。
 同じ中国法を取り入れた江戸時代(荻生徂徠に明律国字解などのあることはこの博物館に説明)とその点は同様で共通なのですが、国の桁が違う。そこに日本の今を考えるヒントもあると思っています。
★12月9日
 昨日は12月8日。もちろん日米開戦の日で、20年くらい前、連合艦隊参謀で「トラ・トラ・トラ」の暗号で有名な千早正隆さんと会食したことなど思い出しました。
 千早さんの書かれたものは一部しか読んではいませんが、よいのではないかと思っています。
 いくら有名でも全く話にならない本の方が世の中には多い。研究者のものはまともなものの方が多い「かもしれません」が、一方、実体験者だからといっても安心できません。
 特に、現代のように戦争体験者が少なくなると観念論の威勢のいい本が「売れる」ので、蔓延。これは本当によくないことです。また、戦争体験、特攻の生き残りといっても最後はみんな特攻の生き残りみたいなものだったわけで要注意です。
★12月4日
 綸言汗の如し、という言葉があります。
 天皇の王言は汗と同じで引っ込まないということ、つまり、行政処分に撤回はないということ(今は違法状態を回復するために撤回は認められていますが)。
 その論から行くと郵政造反の復党は汗が引っ込んだということ。
 となれば、二条河原の落書と同じで、「このごろ都にはやるもの、・・・・偽綸旨」ということになります。
 綸旨のいんちきだけでなく、ありとあらゆることがおかしな具合。その根本は、まともな国家になっていない本当の平和ボケのせいではないかと思われます。
 二条河原の時は、世の中戦乱で偽綸旨。今は平和で偽綸旨。調度良く調和を取るのが本当の政治家のはずですが、美しい・・なんて言ってるようではだめでしょう。
★11月25日
 11月25日といえば、三島由紀夫が亡くなった日なんですが、あの時、「おかしなやつはどこにでもいるよ」などと言っていた政治家が、今では憂国の使途みたいな褒め方をしているのには、そのいい加減さに呆れるばかり。政治家の言は、その多くが(全部とは言わず)信用できない典型みたいな話です(以前も書きましたが)。
 しかし、いずれにしても、まだ日本人全体が大して裕福ではなかったあの頃、特注の制服をこしらえてかっこよくなり、言いたいことを言っていたあの挙動に、田舎から出てきた人が多い自衛官(その頃も多分今でもルーツを遡れば自衛官の3分の1は九州人)が反発してヤジったのは当然でしょう。
 2・26の青年将校とは全く違うし、むしろそのころの甘えん坊・全共闘と同類。現に討論会をやっていたんですから。この間、全共闘なんて大嫌いと言ってやりました。
 いずれにしても、文学で国は治まりません。日本浪漫派なんていうのも批判の価値もないくらい。葉隠が理想とする鍋島直茂らのような土の匂いは感じられません。
★11月21日
 台湾関係の方の通夜に出て、大陸の人と話しながら帰りました。改めてここ100年の歴史を考えました。
 いつも私は言うのですが、日本人は台湾にも大陸にも自由に行き来できる幸せな国民です。ですからその能力?を生かして、アジア全体の融和を図らなければなりません。
 なのに、変な具合に一方に肩入れし、しかもそれのピントがずれていて、ちっとも肩入れになっていないなどという人は、いくら英語をじゃべろうと、中国語をしゃべろうと、一向国際的ではないのです。
 つまり、国際的になる前提にはきちんと歴史を踏まえる必要があるのですが、それには本だけ読んでいてもだめでしょう。人に積極的に会うことも必要です。
★11月16日
 久しぶりに勝海舟の語録をひもとけば、尊王などと言っても、国民を向かない尊王なんて意味がない、との言葉。
 教育基本法では愛国心とかを大事に云々のようですが、国民を向かない愛国心では正に意味がないわけ。
 しかもこういう基本法を正に拙速そのもので、多数決で決めるとは、昭和26年のマッカーサーの言葉のとおり、日本人の民度がこれで分かります。いや、昔より落ちたというべきでしょう。
国家の作り方がわかっていないとしかいえません。
★11月8日
 今日も通った東京駅の南口、改札を出たところの床に星型の目印が。その傍には原敬首相遭難の場所と書いてあります。駅の中の浜口雄幸首相遭難のところにも、確か鋲が打ってありました。
 毎日のように東京駅を通る私は、これらの場所に来ると、心の中で手を合わせています。
 彼らこそ正に政治家の中の政治家でしょう。それは、当時の日本が、大日本帝国憲法という桎梏からは抜け出せないものの、独立していたから輩出できたともいえます。
 核論議で強気のことを述べているの今の政治家は、アメリカの傘の下にいることを自覚しない平和ボケとしか思えません。
★11月5日
 久しぶりに伽羅先代萩を観ました。新渡戸さんの菅原伝授手習鑑と同じく、ここでも子供が犠牲になります。熊谷陣屋もみんなそう。そういう歌舞伎を根拠に「武士は子を励まし、・・・国家又は国家の正当なる掌握者のために死ぬべきものとなした」なんていうわけですから、あの本の罪は深いといわねばなりません。
 それはそれとして、何故江戸時代にああいう歌舞伎が続々とできたのか、ということも問題。「東洋封建社会のモラル」あたりには書いてありますが。
 またまたそれはそれとして、最後の裁判の場面はリンカーンの故事も思い出す素晴らしいもの。今の裁判が真っ青、になってもおかしくないと思いました。やはり裁判にはドラマ性が必要です。難しくいえば弁論の全趣旨と証拠がうまくかみ合っていました。
 今の裁判がそうでない点が、新渡戸さんとは異なる大いなる問題。
 ちなみにもう一つ、山名宗全を悪者にしているのはこれまたおかしい(本に書きました)。
★11月3日
 今日は、昔で言えば明治節。つまりは明治天皇の誕生日ですが、我々の一世代昔の人は、以前は、明治節になおせ、とか紀元節を復活せよ、とか言っていたわけです。特に昭和30年代までは。
 しかし今から考えると、この博物館に書いたとおり、それはちっとも日本的ではないわけ。平安時代の議論などを読んでみると、神武天皇の即位や改元の話がいかにあちらの影響を受けているかがわかります。水戸黄門はその流れです。
 にもかかわらず、今に至ってもあいかわらず復活を言ったり、その議論につながる東京裁判がどうだの、日本のお蔭でアジアが独立しただのという、権利と反射的利益を混同した50年近く昔の議論をして保守を標榜している人が多いのは全くのこまりもの。
 要は、視野が狭いの一言です。同じ大陸文化の取り入れ時代でも、正に取り入れの最中で視野が広いので、平安時代の学者の方がよっぽど「日本」を考えています。
★10月29日
 いじめとかの解消に、全国の学校から会津の日新館に「什の教え」を分けてくださいとの依頼ありとのニュースには、首をひねらざるを得ませんでした。女の人と口をきいてはなりませぬ、罰としてしっぺい(これは什の教えとは別ですが)。有名なならぬことはならぬ、で郡長正16歳で切腹、とかこっちんこっちんの教えです。地元の先生も冗談を言われているくらい。逆にいじめに使われる可能性あり。
 しかもその現象面よりも本質が問題です。これにかわる松平容頌(かたのぶ)の日新館童子訓には佐賀の古賀精里も関与していますが、それ自体は良いことも書いてあるものの、書いてあることとやっていることが大違いなのです。
 例えば、末尾には仁徳天皇の「民のかまどは賑わいにけり」の話、つまり税金を軽くした立派な主君の話がかいてあるのに、あの領民を総動員した歴代巨大なお墓はなあに、ということになります。
 結局、フィールドワークも踏まえた考察が必要で、おまけに記事では「今は博物館になっている」という書き方で、今の日新館と昔のとが同じ場所にある、みたいな誤解がうかがわれます。今のは20年くらい前に会津若松の郊外に巨額の費用を投じて復元したもの。本物は掲示板に以前貼ったお城のそばに一部遺跡があります。
★10月23日
 今日は毎年書く会津の戊辰戦争における西軍墓地の供養の日。私はどうしても出席できず、お花を贈っておきました。
 会津は、最近は蒲生氏を顕彰しようとしています。私はすごくよいことと思います。若松という地名も近江の蒲生から来ているわけですし。しかも七日町の渋川問屋さん達がやられていること。渋川問屋は、2・26事件の渋川善助さんの家です。随分昔、その憂国の間と三島由紀夫が名づけたお部屋も拝見させていただきました。
 とにもかくにも、会津を一番長く治めたのは、蒲生の前の芦名。三浦半島の芦名に由来する芦名氏です。義経の鵯越の戦いで有名な三浦義連の子孫。
 三浦や蒲生、それに徳一や四道将軍をみることで本当の会津が分かるのでは。
★10月21日
 最近のいじめ事件は本当にひどいものです。
 しかし、いじめは学校だけではありません。大人の世界のいじめは、子供に勝るとも劣らないものです。
 これを解決するには真に健全な民主主義が機能することではないでしょうか。
 ところが、実態はその反対に流れています。そして、解決のためには担当者の徳目を引っ張り上げる、ような発想ばかりです。
 でも、本当に徳目で解決できるのなら、なぜ、毎日毎日子供のような大人のいじめが横行しているのでしょうか。それを解決できるのは裁判所だけ、などというのでは明治以前の状況ですし、裁判官に必要以上の徳目を要求するのは真に健全とはいえません。
★10月18日
 その昔も本や雑誌に書いたことですが、38度線から北を見ると、アメリカの悪口がたくさん山に書いてあります。それはなんだか、ロサンゼルスの山に「ハリウッド」と板で書いてあるのに、様式は似ています。
 そして、その首都平壌には、大同江を挟んで、宮殿と主体思想塔が正にリンカーン記念堂とワシントン記念塔然としてそびえているそうです。
 つまりはこの勝負、国民をユナイトするためにそうしたものを作った、互いにそっくりの(もちろんどちらかが真似をした)人工国家同士の争いということになります。
 では一体、日本は国家としてどうあるべきなのか。私は、両方とも真似すべきではないし、その必要もないと思っています。日本が真似したら、再び危険な国になります。
★10月17日
 北朝鮮が、失敗かどうかは別として、核開発に至る技術を持ちえたのは日本の植民地時代の遺産が大きくものをいっていると思われます。元々鉱物資源に富み、スープンダムに代表される水資源にも富んでいましたし、そこに日本の置き土産が加わってこういうことになっていることは考えるべきことです。
 中国からの物資を運んでいる橋もいまだに日本時代のものです。
 そして、あの発想法。これこそ戦前の日本にそっくりでしょう。今やABCD包囲陣のようになって、次にどうなるか、改めて日本の65年前も考えてみるべし。
★10月13日
 タクシーの中で国会論議を聞いていたら、日本が「美しい国」とかいう話で、山紫水明とか白砂青松(これは出なかった?)だから、みたいな話が出ていたのには呆れてしまいました。お国自慢かいな、と。その昔昭和40年代に、確かに林房雄さんは、「緑の日本列島」を書いて「左翼」と対決しましたが。要するに遅れているということでしょうか。日本のお蔭でアジアが独立した、とかいう議論も昭和30代に言ってたこと。
 どうも健全保守の議論が湿っているの・
8000
ヘ残念です。
 どこの国でもいろいろな風土を背負い、その中で身の丈を考えて国作りをしています。その身の丈への合わせ方がきちんとできている国を美しい国というのではないかと思います。決してよその国の制度を無理やり取り入れるようなことをせず。
 ましてや観光地じゃあるまいし、山や海が綺麗じゃ砂漠やツンドラの国に申し訳ありません。そんなことだから歴史も美しいお話で感動してしまうのですし、お行儀良くしましょう、などという教育観で終わってしまうのです。
★10月11日
 その昔、社会主義の国には泥棒はいないと言われていました。確かに少なかったのは事実でしょう。でも、本当にゼロのはずがない。
 それを追求すると、当時の「左翼」は、それは社会主義とは言っても、資本主義の残滓が残っているからだ、などと逃げを打ったものです。でも、彼らとしては逃げどころか大真面目でもありました。
 いま、北朝鮮の核実験で色々な言説があふれていますが、日本の常識で判断してはいけません。手っ取り早い話、昔の総連系の人が書いた本だと、日本語でも、相当彼らの発想がわかります。
 戦前の日本にしても、人間とは摩訶不思議な発想をするもの。ここでも視野の広さが求められます。
★10月8日
 仲秋の名月のあと、ものすごい暴風で埃が払われたか、澄み切った空に月とオリオン星座が綺麗です。こういう空を眺めれば、天文航法を思い出します。葉隠に関係深い千葉一族の北辰一刀流も。
 ところで、最近、伊藤東涯の本を読みましたが、江戸も比較的早い彼の天文知識は、現代の我々普通人の比ではありません。もちろん、素晴らしいという意味で。儒教というものが、ある意味天文に論理の元を置いているのですから当然ですが(この博物館にも北京の観象台の写真を載せてあるとおり)。
 いずれにしても我々は、昔の人の力を過小評価しているのではないかと思います。
★10月1日
 今日10月1日が「法の日」つまり昭和3年に旧陪審法が施行された日であることは毎年のようにふれているので、今年は省略します。
 ところで、国家というもの、それをいわば圧制の仕組みとしてとらえ、それと対峙する観念は石川啄木などにもみられ、戦後長い間、国家というものはそういう取り上げ方しかされなかったと言っても言いすぎでないと思います。
 ところが最近は、何が国家かの定義づけもなく、無批判に国家、特に日本という存在を崇め奉る風潮です。
 しかし、国民自身が国家を担う気持ちになれば、無批判に崇めたり憧れたりというのは変です。むしろ愛することのできる国になるよう頑張らなくちゃ、という気になるでしょう。「法の日」も、陪審という、国民が機関になって国家を担う制度であったことを思えば、正にそういうことだったのです。結局、「法の日」の話にに戻りましたが。
★9月28日
 新内閣は、米国でもナショナリズムの傾向ありと報道されているようですが、大きな問題は、それをどこまでも突き詰めようとすると、いよいよもって日本の限界を曝け出すことになってしまうことです。1940年代の米国の日本研究を持ち出すまでもなく、一定限度をこえれば米国は黙っていないはずです。
 以前も言ったとおり、日本と北マリアナとは本質的に変わりません。そのことに気付かず、また、国家内部の仕組み、広い意味での組織法的限界を無視して、外国に作用法的働きかけをなそうとすれば、必ず身体内部からの「病気」が根幹を崩れさせるはずです。
★9月24日
 彼岸の季節、皇居の土手の彼岸花見物にでもと、麹町から半蔵門へと歩いてみました。麹町警察の前がやはり相当高く、半蔵門になると低くなります。
 昔から疑問だったのは「我が庵は、松原遠く海近く、富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠んだ太田道灌の居城はどこだったのだろうということ。今の道灌堀のあたりだと相当低くなって富士も見にくいかもしれないし、当時の東京の港・品川から辿り着くには麹町3丁目あたりの方が直近だし・・・。つまりは貝坂の道の方が自然で、昔は甲斐坂(つまり甲州街道)と呼ばれたそうだし・・・。
 などと色々勝手な推理をしてみました。
★9月22日
 世界で色々な問題発言が問題になっており、日本では内閣の交代があります。いずれもその前提には選挙ということがあるわけですが、バチカン、非同盟諸国、アメリカ、日本、どこでも選挙民のレベルが問題のような気がします。
 共産主義は巨大な実験でしたが、それがつぶれた今、今度は民主主義なるものが改めて巨大な実験になっているようです。
 旧憲法の日本でも、普通選挙の前提として、選挙民のレベルアップが図られました。その方向がきちんと定まらなければ、世界中がおかしくなるでしょう。
 日本の昔は、普通選挙といっても男性だけ、その前は直接国税の納付額が一定レベルを超えていることが要求されました。このことに確かに問題はありますが、「代表なければ課税なし」その言葉を改めて考えてしまいます。
 選ばれる人のレベルがそういうことに影響されていないことを祈りたいものですが、何とかチルドレンあたりには明らかな問題があったと思います。
★9月16日
 掲示板に貼ってある大野城やドルメンのことを考えていると、人間というものは、知恵が進むに連れて国際的でなくなる動物ではないか、という気がしてきました。
 人間と違って、本当の動物は非武装地帯も国境も関係なく行ったり来たり。
 人間も、北部九州はもちろん東北にしても、古くなれば古くなるほど大陸的で、常に半島やその奥の大陸との政治的動向によって諸情勢が変わっていたのが、国境というものが、がちっと決まってしまえば、隣の情報など全く入らず、「日本文化」とかいう言葉に酔ってしまうのではないかと思います。
 随分昔、韓国に行ってきたという人が地図を見せてくれたら、皇極とか神武とか、日本に関わり深い地名が満載で、これはこれはと目が開かれたものでしたが、そういう意味で、インターネットの時代は自分で心がけてグローバルになりたいものです。
★9月13日
 悠仁(ひさひと)親王殿下のお印が「高野槇(こうやまき)」に決まったとの話に、皇室の深いお考えが思われてきます。
 高野槇は、日本の木であるとともに、国際的な木です。それは遠い昔、海を越えて大陸に渡って行きました。その心は?昨年8月の掲示板がヒントです。
★9月10日
 明日は9・11ということになりますが、それにいわば巻き込まれた我が国も困ったもの。イスラエル・レバノンでは、停戦とはいえ、クラスター爆弾の破裂でたくさんの犠牲者が出ているともいわれます。
 対戦車砲や対戦車ミサイルの発達により、今や戦車の最大の敵は歩兵といわれて久しい状況。レバノン南部の勢力が、そう簡単には陥落しないはずです。
 にもかかわらず、それを殲滅すると叫ぶようなどこかの国の大統領にお付き合いすることは、次期総理大臣にはやめてもらいたいもの。
 でも、本当の戦略眼、いわば常識がなければ、まだまだこういう事態は続いていくのでしょう。
★9月8日
 信州葫蘆島(ころとう)友の会発行の「葫蘆島引揚60周年記念誌」を読んでいたら、電車を乗り過ごしてしまいました。
 葫蘆島は渤海湾の最奥。60年前の日本の敗戦後、105万人以上の日本人が、祖国への帰還をしたところです。そのすぐ東の営口へは、私も行ったことがあります。
 旧満州引揚の悲惨さはあちこちに書かれていますが、中国大陸にしろ、台湾にしろ、アジアの同胞は暖かく日本人を送り出してくれたわけで、シベリア抑留の想像を絶するひどさとは対照的です。
 そして、暖かく送られたとはいっても、もちろんたくさんの人が死に、命からがらだったわけで、王道楽土とか、五族協和とか、全くの絵空言で国民を駆り出し、責任を取ろうともしなかった当時の為政者など、改めて靖国神社に祭られる資格などないと思われてきます。8月29日にも書いたとおり、民主国でなければこそ、為政者や官僚の「責任」が国家運営の根幹だったはずです。
★9月6日
 30年近く昔の「駆け出し」のころ、有名な先生の民事訴訟論考4巻の索引を作らせていただいたことがあります。その先生の随筆に「陪審員の偽証」という一文があって、イギリスにおける陪審制度の歴史にふれておられます。
 陪審は本来、国王の所有地などの所在を明らかにするための巡回裁判などに由来し、したがって質問に答える証人的存在がジュリーの発生の由来だった、したがって、当初は偽証罪があり、様々な紆余曲折を経て、今日に至った。その間には失敗もたくさんあったが、粘り強く、今日の制度に到達した、といった話し。知り合いの英国人の先生に確かめてもそういうわけ。
 この有名な先生は明治の生まれですが、そんな訳で陪審肯定論者。実は、ご自身、その昔の日本で行われた1件を経験されていて、その問題点も聞いたことがあります。
 ところで、その方よりも若い、昭和1桁の方が、例の裁判員制度には反対との言(9月4日)。ちょっとショックでした。日本人のレベル向上には不可欠ですし、治者と被治者を逆転させる当然の発想のはずです。
 ただ、もちろん、その途中でおかしなこともあるでしょう。でも、ここ数十年の北マリアナでもしていること。本当の意味の教育とリンクさせれば大丈夫ですが。問題は、それができるかです。そこまで思うと、私も今の日本人で大丈夫か、とも・・全然思わないでもありませんが。
★9月4日
 昨日は、30年ぶりの同期の会。昔の先生もおいでになって、楽しい会でした。
 色々な人の話を聞いていると、年代の差を感じるとともに、葉隠のいう「これも非なり非なりと思うて一生嘆息し、心を守りて打ち置くことなく」の探究心、真理へのあくなき追求心の有無を感じます(不遜ながら。この言葉は葉隠の最もよい言葉と思います)。
 昔の探究心に感動した先生の、現在の探究心の欠乏にややがっかりしたりとかも。
 一方、昔は対して関心を抱き合わなかった友人が30年経って肝胆あい照らす仲にも。やはり、葉隠の「非を知る」「聖(ひじり)」の精神は大事ですし、人生の面白みもそこにあるのでしょう。
★8月29日
 およそ戦前の日本がどういう仕組みの国だったか、という基本中の基本を前提にしないで27日に書いたようなことは論ずることはできません。
 以前、某氏と誌上対談の折、東条英機も衆議院の多数派から選べれたんだから・・などとのたまわったのにはビックリ仰天の域を超えてしまいましたが、戦後生まれの時代たる今は、こういうお方が重要誌上を闊歩しているのです。
 戦前の総理は大命降下、即ち天皇の命令で任命されたもので、責任は天皇に対して負う。だから国民など法的にはおよそ蚊屋の外だったのです。だから国民は構造的にいやでもだまされ的なことになるようできていたのです。もちろん、何も知らずに聖戦遂行を叫んでいた人はその典型。
 しかして、上から国民を徴発していた為政者に完全な自由意志があったかというと、これも実は怪しいのであって、何しろ明治維新というものが美しいお話に発している上、軍人勅諭なるものも西周というこれまた不思議な官僚の手になる周到なお話ですから、みんなすっかり「その気」になっていたのであり、昭和になってからきちんと醒めていた政治家はごく少ないと思います。
 よく日本浪漫派などというものを取り上げる人がいますが、あんなもの田舎から徴兵された一兵卒には関係ないこと。そんな文学の話はお話の典型として論ずるならよいけれど、より法的構造に目を向けるべきです。
★8月27日
 慌しかった8月も最終週に入ります。
 この間、NHKの番組で、日中関係云々から、日本人は戦前、指導者にだまされていた、どうのこうのと問題を立てて議論されていましたが、とても聞く気にもならずスイッチを切りました。だまされていた・・といえば、今も正にだまされ中でしょうし。
 今日の報道で、「<天下り規制>政府 撤廃検討 代わりに刑事罰で規制強化」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060827-00000006-mai-polなどというのも明白なだましでしょう。こういう話にいわくありげな理屈をつけるのも悪者なら、そうだよね、式に同意する裸の王様症候群の人も困りものです。「戦前だまされ論」を論じていた人も、概念を突き詰めることを忘れた裸の王様式人物と見ました。
 一方、いわゆる右寄りというか国粋的発言も様々に見られましたが、一番おかしいのはいつも言うとおり、国粋主義者こそ非日本的であることです。
 分かりやすい話、着物を着て、自分は日本人で、日本の文化そのものだ、などと言っている御仁は、前に書いたとおり、着物はカン在彦さんが言われるとおり、唐の風俗。いや、私に言わせれば、そのもっと昔の漢の風俗であることをどこまで自覚されているのか。中国では黄門式を捨てたように、色々な異文化が入ることによって、着物を捨ててチャイナドレスが生まれた。
 京都大学の田村実造教授が言われていたとおり、中国周辺国家は、男性が頭を剃る文化で、でもそこには中国文化の古いものがしっかり残っている。だから後生大事に着物が日本文化だ、などと言っているのは本当は中国の遺文化の中にいるのに、それが分からない正に視野が狭い話しです。
 じゃ、日本文化って何?といえば・・・もちろんこの博物館に書いてあります。ちゃんと自信が持てます。要は、視野を広く持つこと。それによる本当の自信を持つことです。そうでないとキメラのようなおかしな愛国心ができあがります。 
★8月13日
 台湾のデパートの屋上には日本のお嫁さんの写真が貼ってあって、ラーメンの広告になっていました。一方、中国・吉林省の延辺朝鮮族自治州では、バスの横っ腹にやはり日本のお嫁さんの写真が貼ってあって、せんべいの広告になっていました。
 この間島といわれたあたりは、戦前、朝鮮半島で日本人から圧迫された朝鮮族の人々が半島を脱出して入植。地元の中国人の土地を奪ったとして軋轢を生じました。日本の敗戦とともに、台湾の2・28事件と同様、中国人から「日本人」として逆に迫害され、かえって「親日」的?になったというわけです。ここまでは「一応」の知識として了解していたのですが、最近、留学生から聞いたのが次なるショックな話。
 (特に文革時)、迫害され苦しかった朝鮮族の人達は、「地上の楽園」を称していた北朝鮮への帰還を企画。しかし、周恩来氏が来て止めてくれたお陰で、その点では悲劇に遭わず今日ありとの話なのです。確かに当時、相当もめ、周恩来の努力が見られます。
 正に、日本人にはわからない台湾と同様の劇的な話です。そのことの種を、北でも南でも日本は蒔いたのであることを、日本人は知らねばならないと思います。台湾でも北国でも、単純に親日的などと言っていられるところではありません。
★8月11日
 おととい、学生さんと話したのがきっかけで、何十年ぶりかで丸山真男の「日本の思想」を読んでみましたが、どうもよくわかりませんでした。「日本の伝統思想において唯一の自然法的体系であった儒教が・・・」などといわれても、「そうですか?」と言いたくなってしまうのです。余りにもラフな言葉の使用法のオンパレード。「日本政治思想史研究」あたりはそうでもないのですから、あのあたりまでの特徴なのかな、とも素人ながら思います。
 当たり前ですが、いかに偉いといわれている先生でも決して鵜呑みにはできません。昨年、「一流の先生が言われているのですから、我々如きがその内容をそれ以上敷衍することはできない」などとのたまう学生に出会ってあきれてものが言えませんでしたのであえて一言。
 法律に社会学的アプローチをされて、丸山さんともある点結びつくと思われる川島武宜先生などは、本を読んでも、学会で謦咳に接した時も、私はここまでしか解っていない、ということを明言されていました。私はああいう学者が本物と思います。
★8月9日
 長崎に原爆投下の日。新聞には昭和20年のことが色々出ていて、山西省に司令官の命令で置き去りにされ、司令官は勝手に帰国の「蟻の兵隊」の話が出ていました。
 そういうケースはたくさんあります。特攻隊が飛んでいる横から足をガタガタさせて司令官は台湾に逃げたとか(有名なT)。その彼は、にもかかわらず師団長となり、関東軍にいたため、ソ連に抑留。日本人は一向けじめを付け得ず、ソ連のお蔭?でわずかにお仕置きのようなことになる。
 東条陸相時代の陸軍次官で、A級戦犯で処刑された木村ビルマ方面軍司令官は、マンダレー街道を敵に攻め寄せられて、田中新一参謀長(東条と敵対してビルマへ)不在の間に「これ幸いとばかりにラングーン(ヤンゴン)から逐電!したのである」と書かれている始末(どの戦史にもあり。「ビルマ最前線」などわかりやすい)。おまけに女性も一緒とは何をかいわんや。敵前逃亡はそれだけで死刑です。
 これが少なくとも処刑されたA級戦犯の実態なのであり、最低限、愚劣な戦争を始め、かつ終わらせなかった責任があります。しかも、本庄繁侍従武官長をはじめとする責任感ある人々が次々自決する中、東条なる人、おめおめと9月10何日まで生き延び、挙句、米軍に捕まりそうになって、医者に印をつけてもらって自殺を試み失敗とは武人の風上にも置けません。
 そういう責任者と、黙って命令を受けて死んだ兵隊とに同時に頭を下げることなどできません。東京裁判がどうのは関係なし。それを見破れない日本人は、現代のインチキな戦犯、特に責任無視で居座っている人の嘘も見破れないということです。
★8月6日
 原爆投下の今日、法事で帰省中にも世の中は様々に動いています。
 そんな中で、「親韓」ムード、急速に冷え込む、との報道http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060806-00000013-yom-pol&kz=pol
には、やれやれ日本人はどうしてこう勉強不足なんだろうと、その他様々の事象ともあわせて慨嘆せざるを得ません。ただの一時のムードで動く国民。
 靖国問題のいわば強硬派は、当然、明治維新大好き、それを起こした水府の史論・つまり水戸学大好き、となるでしょう(意識はしていなくても)。しかし、その元を尋ねれば、韓国の儒学者・李退渓らに行き当たります。特に山崎闇斎らはそうです。何より靖国神社自体が礼記の言葉とかがあちこちにある矛盾した?場所なのです。
 つまりは、ここでも韓国に対する国粋主義者こそ実は韓国的、というパラドックスです。対中国にしろ対韓国にしろ、もっと勉強してよと素人ながら言わざるを得ません。同じアジアの同胞なんですから。
 ちなみにカン在彦さんが言われるとおり、日本は「着物」という唐の衣服が残る国です。いわばアジアの文化財国であることを深く認識しなければいけません。
★7月30日
 記録的な雨で大きな災害を受けた長野県も梅雨明けで、知事選挙もたけなわです。田中候補の話しを聞いて、山岡鉄舟の「武士道」を編纂された勝部真長先生の書かれていたことを思い出しました。すぐ下の7月4日にも書いた服装論です。
 それは、日露戦争のあとのあるパーティーで、桂太郎総理大臣が、文官の服装で現れたこと。彼は、もちろん本来は陸軍の軍人ですが、総理という立場は文官なので、けじめをつけてきました、言ったそうです。
 あの、専横著しいとさえいえる長州閥の軍人でさえ、それだけのけじめをつけたのに、昭和の東条総理は、軍人勅諭に「軍人は政治にかかわるな」と書いてあるのに、常に軍服姿。あれだけでも、おかしいと考えないほうがおかしい。ここに昭和の弛緩と異常さを見るというわけです。軍人勅諭では、「世論に惑わず政治に拘わらず、只ゝ一途に己が本分の忠節を守り」とあり、選挙権、被選挙権さえ無くしてあったのです。そうでない場合の危険性については斉藤隆夫の粛軍演説参照。
 田中さんは、そういう話しではなく、被災した温泉地でも、ホテル従業員の方などが制服の笑顔で他県の人に接している以上、自分も今日は、防災服ではなくスーツを着るとの話し。いずれにしても勝部先生と同様の視点を感じ、納得です。
 弛緩の反対のけじめという意味で共通。平成は昭和以上の弛緩あり。
★7月21日
 その大蔵栄一大尉の「2.26事件への挽歌」には昭和9年、昭和天皇が秋季特別大演習に臨席された折のことが書いてありますが、陛下が桐生小学校の宴会場に現れたとき、万歳三唱はなく、水を打ったように静かになってしまったのに対し、「どこか間違っている。天皇を雲の上にまつり上げて、雲の下では勝手なまねをしているのが今日の日本である。これが妖雲だ。この妖雲を一日も早く切り開いて真の日本の姿を現出しなければならないーということであった。」とあります。
 2・26事件前の日本も、今の日本も、まことしやかなことを言って責任も取らない妖雲そのもののトップだらけであることはちっとも変わりません。A級は昔も今もいるのです。それにだまされて、1票を差し上げるどころか、うっかりしたら命までさしだそうという、戦前と全く変わらぬ庶民であることが最も残念なことです。
★7月20日
 今朝の日経などで報道された靖国神社のA級戦犯合祀への昭和天皇のご批判。関係ないなどと述べている政治家は一体、「承詔必謹」などという言葉をわきまえているのかね、とあきれてものがいえません。
 終戦時でも、この天皇制と密着した十七条憲法の言葉によって数十万の中国派遣軍が帰還することになったというのに、今の政治家は総理大臣以下全く法的ではなく、自分の気分だけで動く人種が相当いるということになります。
 一方イラクでは航空自衛隊の皆さんのまだまだ続く大変な仕事に対し、これまた総理大臣以下、万一A級戦犯と同様の批判が起きる事態も考えられることを思えば、せめて在任中は一切の楽しみを断てと言いたくなります。プレスリーなどもっての他。
 先日の2・26の供養を機会に改めて大蔵大尉の回想録を読んでいて思うことです。
★7月14日
 今日はパリ祭。数年前に、テレビでもおなじみのフランス人数名と話した時、「アメリカはだめだよ」と中の1名が言われたことには一面の真理ありかと思っています。
 アメリカの独立戦争はフランスの強力な支援の下に成立しましたし、その国家作りのほとんどはフランス革命の一部を借用したもの。厚みが違います(もちろんアメリカの思想家にははすごい人がいます)。
 しかし一方、フランス革命は余りにも陰惨でもあります。
 そして日本、わずか60年前に、300万人もの国民が死んだのに、それを国家作りに生かしていません。それほど国民の頭脳に染み込んだ観念の破壊は、建築物の破壊にくらぶべくもなく難しいということでしょう。
 でも、理想は追わなければならないんですね。何が真の理想であるかを探求しつつ。
★7月12日
 今日は、2・26事件における多くの将校の刑死の日。鍋島家菩提寺では70年目の供養が行われました。そこで、関係の方と話したことは、正直者が馬鹿をみる社会であってはならないということです。
 一方、話し変わって、北朝鮮のミサイルの件は、落ち着いて動かなければいよいよもって日本の外交力の限界を見せつけることになりそうです。まるで、日清戦争の時の朝鮮国内の勢力が今の日本と北朝鮮という具合に。バックは米国、中国と。以前、米国大使までやった人が、外交で大事なことは人脈、信頼、なんていうままごとのようなことを言っていたのにはあきれましたが、そういう状態そのものが続いている気がします。
★7月7日
 七夕の今日の長野は暑く、曇っていました。長野県を「信州」と称すべし、とは田中知事の発言。正に大賛成で、この事務室便りでも、同趣旨のことを書いたところです。何しろ、明治以後の県名は歴史を全く無視したひどい造語ですから(それも新武士道)。
 ところで先日、茨城の方にお話しをしたら、どうしても「いばらぎ」になってしまうので「いばらき」です、と1人の方から指摘を受けました。土蜘蛛の「城・き」があったということ。なるほどそれならわかりますが、実は佐賀県でも、やはり土蜘蛛の城に発した「おき」が小城(おぎ)になってしまっています。
 以前、上田秋成と本居宣長の論争について書いたとおり、音便やリエゾン、アル化は人間として当り前で、「き」じゃなきゃ、なんていうのはやや硬いな、と思ったことでした。ちなみにパソコンでは「いばらぎ」でも茨城と出ますし。所詮16もあった藩を一つにまとめた明治政府のやったこと。ちなみに藩という言葉も明治になっての言葉。
 黄門が茨城の代表じゃありませんし、茨城も本来、ごく一部の地名に過ぎません。ほんの一部を県名にした神奈川と同じでしょう(神奈川にはそれなりの理由あり)。
★7月4日
 かつて、講演会で私の話しを聞いて下さった橋本元総理大臣が亡くなりました。冥福をお祈りします。剣道を愛されたあの方の雄姿といえば、国鉄民営化の時の運輸大臣としての制服姿が思い出されます。
 もっとも、文官たる大臣の制服姿に、日露戦争終了時の桂太郎総理の話が浮かんだのも事実です。それは、山岡鉄舟の「武士道」に勝部真長先生が書かれているのですが、武人たる桂も、総理としてはあえて軍服を着用しなかったことに昭和の東条英機との違いを言われている話しです。
 もちろん、この話しと橋本さんの国鉄の制服とは性質を異にする面があります。滅び行く国鉄の最期を現場とともに、ということでしょう。とすれば一味同心のよさがあったのかもしれません。
★7月2日
 日銀総裁については、同じ雑誌(例えばダイヤモンド)の中でも、辞任について積極、消極があるのですが、やはり、消極論にはあやしいものを感じざるを得ません。
 考えてみれば歴代総裁の中には相当の問題人もいました。今回と同様、広告塔の役割をしていたのにファンドならぬゴルフ場が倒産してしまえば我関せずだった人とか。
 会津藩五代目松平容頌が開いたのが日新館で、その日新館に入る前の什という組織の教えの最後にあるのが「ならぬことはならぬものです」です。正に秋霜烈日で、葉隠とは相当な違い。でも、今の世の武士道の良いところをいうとすれば、このけじめです。
 そしてけじめという意味では、改めて誰かさんのアメリカ旅行も国費とはひどすぎです。ちなみにBSEは肉は食べなくてもコンソメのだしなどに骨から来ていないか要注意。
★7月1日
 日銀総裁には、会津士魂の「ならぬことはならぬものです」(失敗は許されない。責任を取れ)を贈呈したいもの、と思っていたら、総理大臣のアメリカ旅行も、辞める以上将来の責任は負えないはずなのに、何でもします式の言葉の大盤振る舞い。何たる軽さよ。挙句、イラクで命を的に使命を全うしている自衛官の気持ちはどこえやら。プレスリー宅訪問とはあきれます。息子の映画鑑賞同様許されません。
 日本はアメリカの傘の下、すっかり太平洋の島国として平和ボケ状態。しかし、そのアメリカも、ソ連がなくなり、正に平和ボケで、最も良くない面が出ている現状ではないかと思います。
 「強いものは居座り、弱いものは泣き寝入り」とは同じ小泉でも小泉俊明前衆議院議員の弁。
★6月29日
 掲示板の「1年前の事務室だより」6月7日に書いてあるK先生が先日亡くなりました。ご町内の生き字引で夕食をともにして語らったこともしばしばでしたから、残念です。
 昭和史について、一次史料あるいはそれに近い史料をもとに語れる人がいなくなることは誠に残念ですし、今の日本を考えると憂うべきこと。
 わずかの記憶でも我々が頑張らなければいけません。
★6月25日
 6月23日は沖縄終戦の日でした。その沖縄戦を記した貴重な文献「愛と鮮血の記録」があります。沖縄学徒隊の最期を記した本です。これを出した出版社は全貌社。我々の世代からみたら反共の代名詞みたいな出版社であることを覚えている人も多いでしょう。
 でも、それが出版された昭和41年には、反共と沖縄戦の悲惨さを訴えることとはちっとも矛盾しなかったはずです。左右対立が厳しいといっても、健全な時代だったという気がします。いわば「右翼?」が沖縄戦の悲惨さを訴える本を出したのですから。
 今の世よりよほど自由な発想ができたあの時代に帰ることが戦没者対しても申し訳が立つかと思います。
★6月21日
 何十年か前、ある有名な死刑事件の犯人を見ました。極めて悲惨な幼年、少年時代を送ったその(後の)死刑囚は、死刑と無期の間を往復。結局死刑になりました。
 今回の光市のケースは正に時代も変わり、問題の人物の生育暦は前者のケースとは相当違うことでしょう。しかし、恵まれているようで恵まれていない危うさが現代には逆にあります。
 どちらにしてもそういう事件を起こす人物は、少なくともその時点で普通とはいえないわけで、その実態はもっと国民が知って議論することが必要でしょう。また、最低限言えることは、無期だけでなく終身刑を早期に作ること。終身刑はこれこれの理由でだめなどと言う矯正担当者がいますが、そんな理屈にへこむような政治家では困ります。
★6月18日
 ビルマ作戦のU参謀(95歳)に数年ぶりにおめにかかりました。北ビルマ・フーコンの作戦について、悪戦苦闘の著書あり。お元気で何よりです。
 戦争最末期、新たなる作戦の立案が求められたとき、(武器も食糧もない状態で)「私は手品師ではない」と断ったとのこと。最悪の戦場にいた人にして言える言葉。
 こういう経験のない、いけいけどんどん型の、死なばもろ共みたいな風潮がはやるのは、真に困ります。
 「大東亜戦争肯定論」の林房雄さんが言われるとおり、真面目に戦争をしなかった者ほど、戦争が終わると再び戦争を始める(戦艦大和の最後・角川版の後ろに)。若い人にここをわかってほしいです(私も若いつもりですが)。
★6月17日
 まあそれにしても、社会保険庁の保険料免除事件もこれまたひどいもの。保険というものには、モラルハザードという言葉が常につきまとうものですが、それは一般には被保険者側の話。しかし、今回は保険者が被保険者の一切の給付請求権を喪失させる組織ぐるみの犯罪(類似?)行為。
 しかもこれまた責任をとろうとしませんし、任命権者も知らぬ顔。
 こうしたことについて、当面は責任を取れ、取らない、の大合唱でしょうが、やはり根本的にこうしたことをなくす方策が大事です。外部の人間を入れるとか、相互監視とか言いますが、入れた結果があれですから、ここはやはり、この博物館に書いた民主主義で解決するのが一番と思うのですが・・・。戦艦大和の臼淵哨戒長が言われたとおり、個人の徳目にのみ頼る国家は滅びます。
★6月15日
 アメリカでは、バスの前に白人、後ろに黒人(逆だったかも)を座らせる措置をしたら、平等原則違反だと裁判になり、結局違憲となりました。微妙ともいえる問題が違法と宣告されたわけです。それで、制度の改廃という「動き」がありました。
 福井日銀総裁の村上ファンドへの投資は微妙、いや、投資以上の投機に関わっている人が、金利政策等々の総元締め、というのではバスの話し以上に、違法に極めて近い話しといってよいでしょう。なのに、居座って総理大臣以下徹底擁護。「動き」なし、の情勢です。
 近頃のコンプライアンス論議では、法律の遵守だけでなく、倫理の遵守が当然とされています。この問題が、万一倫理違反に留まる話しとしても、裁判官と同じくコンプライアンスを標榜すべき張本人が居座りでは、いよいよこの国は国家の体をなしません。
 これがまかり通るのは、徳川以降の制度のせい、ともいえそうです。
★6月12日
 もう一つ続きを書くとすると、宇都宮徳馬さんの従兄弟あたりだったかが宇都宮三千雄(みちと)という人で、佐賀県護国青年連合会会長。大政翼賛会で、私の祖父とも近く、海軍中尉三上卓、つまり5・15の犬養首相暗殺の本人とも親戚です。
 三上さんはかの「青年日本の歌」の作詞者とされている人(2・26の大蔵栄一氏の本によると全部ともいえないような)。
 おまけを付けると、5・15に、民間から参加した愛郷塾の橘孝三郎さんを判決したのがやはり佐賀県の神垣秀六判事(のち大審院判事)で、私の先生の父上。
 私的なことを書きすぎなのでこの辺でやめるとして、とにもかくにもこういう流れを見ると、昔の人の方が思考の幅が広いと言いたいわけ。
 余りにも小さくまとまった今の日本人。何とかしたいものです。
★6月11日
 その宇都宮大将(朝鮮軍司令官)の息子さんが、自民党最左派とも言われた宇都宮徳馬さんで、ベトナム戦争反対、とか言われていたわけですが、そのいわば盟友(?)みたいな人に佐藤賢了氏あり。東条英機の側近で、軍務局長・中将、というより「黙れ事件」で有名です。A級戦犯で、弁護したのは私の恩師の父上・草野元大審院判事でした。ちなみにA級戦犯といっても、死刑は例の7人だけで、彼は有名企業の社長までやりました(そういう人はたくさんいます)。
 「黙れ事件」は軍人である佐藤が議会答弁で、議員に「黙れ」とやった話で、以後議会はシュンとなり、チェック機能を喪失したといわれるわけですが、昭和30年代にテレビでみた佐藤氏は正に横柄そのもの。「あの調子で黙れとやったんだな。罪は大きいや」と思ったものでした。
 ただ、その人が宇都宮さんとともに「ベトナムについてはアメリカに忠告せにゃならぬ」と言ったところに失敗者としての健全性を感じます。
 今の日本にはイラクにしてもそれがない。とんでもない薄っぺらい国になったものでこういう国が掲示板にある「品格」を持つにはもっと自分を見つめることが大事です。
★6月8日
 仕事で栃木県に。駅から仕事場まで徒歩10分、と勘違い。実はタクシーで10分でした。
 勘違いの徒歩の途中にあった宇都宮氏ゆかりの寺に、鎌倉末期の鉄でできた板碑が存在していました。石製は全国で見てきましたが、鉄は初めてでした(ここだけとか)。そのできばえの素晴らしさは、改めて鎌倉時代の素晴らしさを感じさせてくれました。
 北関東・尾島の新田一族の精神性の高さは以前触れましたし、東毛歴史資料館にその旨書いてあります。一方、お隣栃木・宇都宮氏も素晴らしいな、と思いました。
 ちなみに、この宇都宮氏が鎮西・佐賀などに下向し、後の宇都宮太郎陸軍大将らを生み出しています。5・15など昭和の歴史にも様々に関係している人々で、私にも若干の関係があります。
★6月3日
 米軍グアム移転(というか世界的再編)などで、7000億とか3兆円とかの寄付(?)が問題になっています。
 ところで、これから廃止される多額納税者の公開の話。人口86万の佐賀県ではわずか20人くらい。一方136万の沖縄県では例年百人単位。軍用地、思いやり等々のなせるわざでしょう。
 だから沖縄が恵まれているなどとはとても言う気にはなりません。まるで札ビラでほっぺたをのやり方。日本全体にしろ、基地のある県や町にしろ、このやり方ではまともに議論する下地がありません。そういう前提で問題を語っているということだけは踏まえるべきではないかと思います。
★6月2日
 ワールドカップの選手を乗せる飛行機にサムライとか、サムライサングラスとか。
 ひねて言うわけじゃありませんが、こういうカタカナサムライはアメリカの悪影響であって、本物ではないとしか思えません。安直フジヤマ、ゲイシャ趣味。サムライ、サムライと褒められると自分でもサムライになってしまうのではどうも軽佻浮薄。
 某社の車を中国で売るのに「覇道」と名づけて問題になったのと似たような現象という気がします。
 前回、やた烏がシンボルになり、似たような烏が大陸にいたことが気付かれたのはご愛嬌。ちなみに、尻尾が9本の狐もシベリアの伝説にあります。
 真の日本のものを探しましょう。また、日本のものを外国の影響でおかしな具合に捻じ曲げるのはやめましょう。武士道や侍も含めて。
★5月31日
 日本人の画家の作品が、イタリア人の絵にそっくり、ということで物議をかもしています。
 ネット社会はいとも簡単にいわゆるパクリが可能。このサイトも、私の書いたことが学生のレポートになっていたり、私の書いた絵が他のサイトに出所も示さず引用されていたり、「武士道」を標榜する人にあるまじきことが行われています。
 ところで、アジアでCDなどを買うと、めちゃくちゃ安い。それで、日本人は、それを海賊版と言って避難します(する人がいます)。確かにそういう類がありますが、ちゃんとしたところで買うものは海賊版ではありません。実はロイヤリティを除けば原価はただのようなものなのです。
 それを、日本では馬鹿高くした原価にロイヤリティが付いていて、それを買わされているだけなのに、それが分からない。ここでも視野の広さが要求されます。ちなみに中国で1元(約15円)のものが、東京駅前では1000円で売られていました。
★5月28日
 先日、それ相当の方々と食事をして、出ていた話が国家論でした。どうも論ずる前提で困ったのは、何を国家とみるかということ。もちろん、山や川じゃ困るわけです。
 私は広い意味の行政の主体として、特にそれを形作る法的枠組み、専門的な言葉でいえば組織法を特に国家論の前提としたいのですが、そうした声はあまり聞こえません。
 これは内閣官制という勅令によってこうした組織ができていたなごりといってよいでしょう。ドイツでも、皇帝は自身の家来である官僚組織には国民の干渉を長い間許してきませんでした。ですから日本人も、そこを問題にする下地がないのです。
 そうしたことによるいつの間にかの議論のゆるみに、我々は気がつく国民にならなければいけないと、不遜ながら思った次第です。
★5月22日
 5月22日というと、1333年、つまり元弘3年、「一味散々」敗れ去った日、北条高時が東勝寺で自害した日、と言われています。
 この点、太平記と、東京の東村山などにある板碑の記載とが、見事に一致していることを時々書いてきました。群馬県新田の地から、新田義貞は南へ下って藤沢へ。そして稲村ガ崎。鎌倉街道は今も地域の道として使われ、歴史の生き証人です。
 これに対して律令の道は、奈良、京都の碁盤の目のような直線の人工的な道であるため、かえって埋まってしまい、時々掘り出されるだけです。
 道にも、この博物館でいう実と形式という区別があることを思い出しました(詳しくは上記の本に)。
★5月17日
 掲示板に支石墓の写真を貼っておきましたが、この支石墓、ユーラシアの全体が互いに関係しているのか、それともある程度のブロックごとにできあがったものかについては争いがあるようです。どちらかといえばブロック説が強いようですが、人類の驚くべき交流の歴史を考えると、そうともいえません。石斧などもアジアの奥と同じようなタイプのものが南太平洋などにもありますし。
 それはそれとして、今日は、新宿・歌舞伎町の劇を観ました。歌舞伎町といえば盛り場、犯罪というイメージが強い所ですが、国際的なある意味平等な町です。
 こういう町をどう見るか、という各人の見方により、またその人のタイプ、考えも分かります。
 いずれにしても考えを広くできる人こそ本当に豊かな人ではないでしょうか。考えの狭い人、そして国は、正に「貧困」です。
★5月14日
 取り込みごとで間があいている間に、人事異動の葉書がたくさん来ました。
 中に、高等裁判所での審理が1回で終わってしまうケースがほとんどなので大丈夫かなと心配です、との、当の裁判官からの手紙。この人は良い人です。
 先日の広島の刑事事件にかかる最高裁の弁護人の対応など、色々と議論に上っていましたが、実際のところ、裁判に時間がかかっているのはごく一部。むしろ早すぎる方が問題です。あるいは、時間がかかる原因を裁判官の訴訟・
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w揮が作っていることもある。
 こういう問題、批判的なのは、これまた良い人であるのが一般ですが、官とマスコミの言い分、報道をしっかり検証できる資質が国民に求められます。それにはやはり国民の司法参加は必須でしょう。
★5月2日
 戦時中(つまり65年くらい前)、米国は日本という国を徹底的に研究しました。その結果生まれた「日本と天皇と神道」(Modern Japan And Shinto Nationalism ・Bydc Holtom著)の戦後における改訂版には「法律上の特権や財産上の補助を失ったとはいえ、日本の国民的信仰は依然として存在し、世界にとって善となるか、悪となるかの潜在的な力を持っている」とあります。
 そのように評された国家神道の良くない点については真崎勝次少将の言を以前記しました。
 最近の傾向はこれらの危惧をいくらかでも思い起こさせます。日米同盟などという言葉と国家神道的行動が今はピタリと合ってはいても、一つ間違えれば米国から厳しく指弾される事態にもなりうることを心すべきです。
★4月28日
 過日、中国の人の講演を聞いて、かの国における財産権の保障と民主主義の勃興に、フランス革命と同様の論理を感じました。
 一定の財産権の保障をしてしまう以上、民主主義は不可避です。フランス人権宣言17条に財産権の保障があって、それは民主主義に不可欠といわれるとおり。
 その前提に立ったとき、立法における一定の選挙解禁と党との関係、司法における通達行政的な運用と法治との整合性・・・などなど問題は吹き出る可能性があります。
 そこをどう、うまく解決するか。アジア的な知恵と軍事がものをいうのか。
 ただ、軍事がものをいったとしても、実は同根といえるミャンマー政権、昔の台湾、そして日本の江戸時代よりもうまく舵取りできそうな気がしますが、まだまだ不明。何しろ十数億の人口と、都市と農村という重大要素がありますので。 
★4月26日
 知り合いが数年前にネパールの王族の方々にあるものを差し上げに行きました。
 その後、その方々の大部分は例の事件で死亡。
 今度は、その後就任した国王と国民との間で緊張が。そして議会復活。
 一方、タイでは国王がおかしな選挙は認めないと言われて拒否権発動。
 ちょうど、これらの国の今は、まるでフランス革命期みたいなもので、人類としてどう動くのが真に理想的であるのかという価値観の演習を他国民である我々に提供してくれているような気がします。
 日本国民もしっかりこれを見てお勉強するべきではないでしょうか。
★4月23日
 イギリスのヘンリー王子が、アフガンへ、他の将校と平等に前線に出してくれないと除隊する、と関係者を困らせている?とか。
 思い出されるのは、日本では、例えばサイパン島の守備に当たるとき、いわゆる玉砕は目に見えていたので、宮様師団長は交代して、斉藤義次中将に代わり、亡くなりました。
 大将が真っ先かけて突進した源義経とは違う姿が中世とは異なる昭和において、日本で行われたわけですが、イギリスではどうなるか、注目したいと思います。
★4月22日
 今、日本の社会の色々なところで、改革とか、コンプライアンスとか、教育とかといって、大量の文書が「生産」されています。
 しかし、その相当部分が実は必要ないか、形だけの有害なものである、という気がします。昨年、あるところで、あることを教えました。しかして、同僚の考えていたことは、教えることによる一定「線」への到達です。しかし、私が考えていたのは一定「ポイント」への到達です。
 およそ様々な試験において、合格ラインという名の「線」が要求されますが、本当に必要なのは「線」ではなく「点」のはずです。線ならピントがずれていてもいつかは到達するでしょうし、紙を積み上げても到達するかもしれない。でも、「点」なら、方向がずれていれば絶対到達できない。
 日本社会が、点ではなく線を求めて紙爆弾の教育をしていることに、教育の「切れ味」の「鈍り」を感じます。センスの悪い人間が合格することになりますから。ただし、これはもちろん努力を否定するわけではありません。センスも努力で生まれます。
★4月20日
 日本家屋の輸出について、関係者と話をするうち、プレカットした材木を周辺国に輸出しても、その組み立てをする大工さんはじめの手当てが相当大変、という結論。
 そうなると、奈良の大仏さんの建物はもとより、長崎の三福寺、宇治の万福寺など、硬いチーク材をプレカットして海外から運び、あれだけの大寺院を建築するには相当な明人がやってきたんだろうな、と思われます。2ないし4万とかいう数字も当然でしょう。それと新しい武士道との関係はこの博物館に書きましたが。
 鍋島藩でも後に大蔵大臣が出た武富家とか、四十七士の一人の家とか。
 新年度に入って、留学生が増えたな、と思いましたが、とにもかくにも、日本人の視野を広げるために国際化は大事です。
★4月17日
 神奈川県湘南平にあるテレビ塔の金網には、愛を誓う男女がつるした南京錠が沢山ぶら下がっているそうです。
 ところで、東京の湯島の聖堂にも、以前は考えられなかった受験合格の絵馬が沢山。合理主義の儒教にとんでもない、と思っていたら、本家?の中国北京の国子監(これは、聖堂の西にある学校で、左廟右学の考え方からいうと、日本の湯島では、昌平坂学問所、つまり昔の東大、今の医科歯科大に相当するもの)にも全く同様の絵馬が。
 つまりは、人間、洋の東西を問わず「弱い存在」ということかもしれません。
 だから、日本でも中国でも、廃仏、崇仏の争いを重ねながらも仏教は滅びずに今日まできた、ということかと思います。
★4月15日
 佐賀県では先日、吉野ヶ里町と福岡県の那珂川町とを結ぶ坂本峠に、トンネルが開通しました。
 この峠、平安時代の平家のドル箱・神埼の荘と博多とを結ぶルートです。博多側には、岩戸合戦で有名な岩戸、鎌倉にもある梶原、安徳天皇が木曽義仲から京都を追い出されて一時身を寄せた安徳などなど、平家、鎌倉にちなむ地名が満載。
 しかし、トンネルのすぐ下では、五箇山ダムの建設が着々と進められています。
 現代においては埋もれてしまっていたかつての幹線ルートの再生を願うとともに、昔の歴史が明日の更なる発展のためにもきちんと残されてほしいと思うこと切です。
★4月11日
 中学卒業後、すぐにNHKの養成所で三味線を習い、国立劇場で演奏していた人と、ひとしきりこういう制度の功罪について論議。
 その人の言でも、もちろん(?)罪が大きいとのご託宣。そもそも国家がああしたものを予算を取って保護するなどというのは、芸の本質に反することと。
 ただし、もちろん、そうしたものが無くなるのはさみしいなー、という感情は理解するのですが、無理矢理やりお金で養成したとて、所詮、真の芸術とは無縁のドンガラのような形だけが残るだけでしょう。
 このことはあらゆる教育にいえるわけですが、難しい問題です。いずれにしても、今や三味線、義太夫どころか、普通の古文が忘れられようとしているわけで、国語教育を抜本的に考え直すべきだと思います。
★4月8日
 テレビでは、日本の理科教育、理科離れについて、碩学のシンポジウムが行われています。
確かに、現在の理科離れはひどいレベルのようです。文科系の私の仕事でも、合同・相似が一向判らずに、国土調査・境界確定を考えようとする人、司法解剖を恐れる修習生など、とんでもない現象が見られます。
 これには、儒教的な格物致知の考えの消滅も大きな影響を及ぼしているのではないか、という感想を持ちました。大和本草の成立のいわれなどを考えると儒教という文科系と、理科系とは決して無縁ではありません。
★4月3日
 聖徳太子は十七条憲法の中で、「篤敬三寳。三寳者仏法僧也。」(篤く三法を敬え。三法は仏、法、僧なり)と言われました。
 アジア各国でお寺に参りますと、参詣人は3回頭を垂れて三法に対し、三拝します。ところが日本はそうでない。また、仏法僧の僧は、明治初めの妻帯肉食の政府によるいわば強制以来、尊敬の対象ではなくなってしまった。
 こうした、宗教の破壊とアジアとの断絶は、正にこの博物館に書いた経過によってなされたものと思います。
 そして、その結果、どうも「日本語の破壊・消滅」が進んでいるように思います。国語教育のアジアとの共通性の回復、それが日本語の壊滅、つまり思想のDNAの消滅の、救済手段のような気がしています。
★3月29日
 ミャンマーからの滞日の方と食事。かの国の、複雑かつ暖かさに再びいろいろ考えました。数日前、その首都?がピンマナに移転したとの報道に接したばかりでしたし。
 ヤンゴンからバゴーを通ってまっすぐ北に延びるマンダレー街道。片側3車線のイギリスが作った立派な道路。途中の橋は、東京の現在の鉄道の橋よりよほど頑丈で、街中を今もイギリス時代のバスが走る(日本車だらけですが)。
 だからといって、イギリスは、ミャンマーはうちが立派にしてあげた、とは言わないでしょうし、もちろん中東同様、ミャンマーでも、イギリスの罪は重い。だから日本も、植民地を○○してあげたなどというのはおかしい。
 それどころか、今の政権と日本との、昔と今の関係、これは深いです。
 分かりにくいと思われるかもですが、分かりやすくは様々な事情で書けないのです。
★3月23日
 以前、大阪・横山知事のセクハラ問題について、府議会は何ら機能せず、結局、検察庁という中央の官僚機構により結末がつけられました。
 一方今回、長野では、様々な問題を含む知事告発案件が、県議会の多数によって議決されました。もとより、このままいけば中央のご意向伺いです。
 しかし、後者は、横山ケースとは逆の、地方議会の突出としか評価できません。議会と知事が仲良し状態なら、問題があっても議会はだんまり。逆に緊張状態なら、理由にならない理由で刑事事件化。
 江藤新平が、明治初年に司法職務定制を定めたのは、中央の官僚による地方の裁判のコントロールのためなのですが、その動機には、それまで地方が持っていた司法権が、余りにも地方的利害に密着し、公平が図れなかったことに由来します。つまり、以上の現象と同じ民主主義の未熟です(そしてそれを官僚が解決するという哀しい姿)。
 だからこそ、この博物館に資料提供している「公民教育研究」では、戦前に、陪審という「民主主義」を進めるにあたって、国民の民主的政治スキルのアップがはかられたのです。それなのに、戦後も戦後の80年たった今、その理想とは逆の現象、つまり民主主義の未熟が、またも顕在化したのです。掲示板に年末に貼った原敬の理想は、全く実現されていません。
★3月15日
 刑事事件の判決言い渡しでは、時に間違い(執行猶予をつけてはいけないケースなのにつけるなど違法な判決)が言い渡されることがあります。
 大概、検事が気付いて指摘し、即時、裁判官が言い直すことが多いのですが、被告人が帰りかけたのを呼び止めて言い直したケースまで、最高裁では「救済」されています(つまり、違法ではないと)。
 これについて、私が初めてついた裁判長は、「僕が間違ったなら、検事に『控訴してくれ』というね。そもそもあの最高裁判決がおかしいよ」と。
 事情の分からない方には少し難しいかもしれませんが、要するにジャッジは間違いを糊塗することなく、潔く上級の審判を受けて破棄されてこそジャッジというわけ(相撲の行司さんの刀もそういうこととか。これについては更に議論あり)。
 例の米国野球のジャッジやり直しを観て(拙著「弁護士の目」にはこういう話、満載ですが、文庫本にならないのがちと残念。笑)。
 なおこういう事件を「お話し」にせず、論理で考えて初めて「歴史は論理」となる。
★3月13日
 3月15日前のこの時期、何かと忙しいものです。しかし、皇居の周りの柳は、寒さにかかわらず芽をふいてきました。
 「青々たる春の柳、御園に植ゆることなかれ。交わりは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも秋の初風の吹くに耐めや。輕薄の人は交りやすくして亦速(またすみやか)なり。楊柳いくたび春に染むれども。輕薄の人は絶て訪ふ日なし。」とは、私の好きな上田秋成の名作「雨月物語」冒頭・菊花の契のはじめに書いてある言葉ですが、柳に罪はなし。
 一方、水戸黄門は陶淵明に心を寄せて西山荘に柳を植え、五柳先生と号したとのこと。柳も色々考えさせてくれます。
★3月5日
 昨日土曜は、東洋のマタハリとも呼ばれた川島芳子の劇を観てきました。
 もっぱら彼女が書き残した記事を劇に仕立てたものですから、戦前、松本で観衆を前に演説した一節も出てきました。
 当時の日本のやっていたことは「友好」の名の下における最悪のこと。むしろ友好の文字を捨てるべし、との芳子の発言は、掲示板に貼ってある「1年前の事務室だより」2・26事件の首謀者・村中孝次大尉の公判調書の一節からもうなずかれます。
 ひるがえって現在の日本。「改革」という名の様々な怪しさをみると、「改革という言葉は捨てるべし」ということになってきそうです。
★3月1日
 サイパン島からのメールによると、このたび名古屋の弁護士達が、かの地の裁判所を訪問し、我が国のそれとの違いにビックリされた様子。
 本当にそれはいえます。
 ひるがえって、では早速我が国もそういう制度を取り入れて、とかとなるのが一般の傾向ですが、それまた問題で、私は、まずは日本にそういう陪審のような制度がかつてなかったのか、と言いたいわけ。現に、特に鎌倉時代にはそれがある(滝川博士)。
 こうやって、自分の国に地をつけて考えないから、あらゆる場面で、国粋主義のようで、実は外国の受け売りなどという奇妙な現象が生まれるのです。現在、日本の国粋的発想は、この博物館に書いたとおりほとんど史記の伯夷伝に淵源を持つ。 
★2月26日
 今日は2・26事件の日。刑死者の墓前には私に関係深い会津からの人も含めて多くの人々が集いました。青年将校にはやはり佐賀や熊本などが多いのは真崎大将も含め、運命、いや、明治以来の陸軍内の流れを感じます。長州の陸軍支配を前提にせずにこの事件は語れませんから。
 軍閥どうしの争い云々といった取りまとめの抽象論でなく事実がそうなのです。
 それにしてもこの事件をどう解釈するかはまだまだ完成の域に達していないと思います。それどころか不正確な話しが跋扈しています。少なくとも江戸時代からの歴史を正確に考えなければ問題の本質はつかめません。
 図らずも、遺族の方から、明治維新がなければこういうことは起きなかったかも、というお言葉をうかがい、相当な同感を覚えました。ある大学の先生です。
★2月21日
 しかしそれにしても、13日に書いた桜井の駅。坊門某なる公家のばかな託宣に従って亡くなった楠正成は、確かにいわば滅私奉公の鑑(かがみ)として神様に祭られたわけですが、彼に死ねと命じた連中はきちんと責任をとったかというと、とらない。
 これぞ正に60年前の戦争における兵隊と為政者との関係と同じでしょう。
 こうなると、戦闘で死んだ人は何やらわけの分からぬ神様扱いでお茶を濁され、背後の人間は責任を取らないという、いわば死に損です。実は、勲章などという賞勲制度も正に同工異曲であり、名誉を種に人を操るという、平等感とは全く無縁のものです。
 ここでも鎌倉の御家人が、堂々と実質的な恩賞を求める姿こそ本物の武士の姿と思えてきます。現代の国民もおかしな仕組みをしっかり評価できる力を待たねば負けます。
★2月20日
 先日、大正末年、昭和初期生れの5人の先生達と昼食をともにしました。1人の恩師は「君はよくもこんな老人をあつめたもんだね」と。
でも、私にとって年は関係ありません。
 何しろその先生から昔、ある問題についてレクチャーを受けた時は、脳味噌の中に垂れ込めていた霧が、櫛で梳くように晴れていった思い出があります。あとにも先にもあんなことはありません(今のところ)。
 それは、ある事実を教えてもらったのではありません。考える方向を示してもらったのです。ああいう教育はそんなにない。それが現今の問題であると思うとともに、至福の時でした。
★2月13日
 大阪に日帰り出張。京都を過ぎて、山崎を通る頃、昔、東海道線で通るときは「桜井の駅」がよく見えたな、と思い出しました。楠正成・正行父子の別れの場とされるところです。奈良の桜井市ではありません。大阪府島本町桜井。
 「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕間暮れ・・・」と歌われましたが、現在は、滅私奉公の碑とか色々建っているようです。神戸の湊川神社にしても、江戸時代のはじめまでは小さな土饅頭程度だったのが、何かと一色に固めて1つの考えで迫るのはよくないな、と思わざるを得ません。正成も決してそんなことは望んでいなかったであろうことは、太平記を読めばわかります。
 明治以降、歌や絵によって新しいお話ができてしまったことをこころし、原典にあたるべきです。
正成が、九州から東上する尊氏を迎え撃つについて、いったん京都に迎え入れ、天皇は延暦寺に避難していただき、義貞と正成で挟撃を図る案を出したのに対し、坊門某なる公家は「1年のうち2回も延暦寺に逃げるのは格好悪い」的な「実」に反する言を吐き、それは沙汰やみとなりました。それが湊川の悲劇の始まりで、今日でも似たような判断をしている日本の政治家がしっかりいる。これは「公家化」といわねばならない現象でしょう(いかに威勢よき顔をしても)。60年前の戦争ももちろん同様です。
★2月11日
 今朝の日経新聞には南方熊楠のことが出ていて、彼の東洋思想からの西洋科学へのアプローチに触れてありました。数十年前、同じ職場の所長さんと熊楠談義に及んだことを思い出します(その方が関与したとされる有名な小説には熊楠、エンサイクロペディア・ブリタニカが頻繁に出る)。
 で、この東洋思想からの西洋科学へのアプローチは別段彼(熊楠)に始まったことではありません。記事にも触れてあるとおり江戸時代の儒学者には当然のことなのです。会津の御薬園、吉宗の薬円台(現在の習志野・自衛隊空挺団の場所)など本草学と儒教との関係を見落とせません。本草学は格物致知。つまり儒教武士道につながります。
 先日ある会合で「武士道を研究(?)するのにどうして中国のことを勉強するの?」などという質問がありましたが、残念ながらトンチンカン質問といわざるを得ません。
★2月7日
 今日の新聞に、ネットのせいで、世界で昔の現地の言葉が復活している由の話しが出ていました。日本の方言も。
 大いに宜しいことで、でなければ人類の文化は発達しないと考えます。葉隠にしても、中身は方言いっぱいで、だからよくわからないし、一方内容豊かなのです。
 例えば「はまる」とか。これは「準備する」という感じではありますが、身体の周囲を固めるニュアンスもあって「はまっとんしゃっ(準備怠りないですね?)」とかいうのですが古語に出た言葉。こうした言葉があることによって人類は様々の発想も浮かぶ。
 実は神儒一致の元みたいな本居宣長は、こういうことがきらいで、日本には50音という素晴らしいものがあった(撥音とか堕落)みたいに言うものですから、上田秋成から逆に田舎者的にいわれたのも当然と思います。要するに視野か広いか狭いかの問題。
このあたり、教科書の評価や古事記伝だけで判断してはいけないこともちろんです。
★2月4日
 ある問題で、行政官僚OBの方の非常に整序されたお話しをうかがう機会があり、これなら日本も捨てたものじゃないなと思ったことでした。
 近く、日本の昭和の歴史を考えてみても、政治家、軍人、官僚、宮中、民間などなど様々な考えのグループがぶつかり合い、暗躍したわけですが、おかしなことになった大きな原因の一つは政治家,軍人、宮中がおかしくなったとともに、官僚が法律の厳正な執行をしなくなった、あるいは法の支配がいよいよ失われたということがあったかと思います(もちろん、そこには2・26や黙れ事件みたいなものあり。特に司法権は問題で、なのに公職追放なし)。
 国家の機軸の立て方も問題ですが、不十分とはいえ、とにかく立てた以上、それをしっかりと執行する真の官僚が求められます。一方その問題につき、ある元司法トップの行動はなんともおかしなもので、かつて「裁判官の声は神の声」なんていわれた憲法の先生がおられましたが、そんな発想はやめたほうがいいなあと思った次第です。
 今や裁判は、中世評定衆じゃありませんが国民が責任を持って行うべき時代です。
★1月31日
 あるアジアの友人に、太平洋のある小国家にはやたら貴国の人が多いですね、というと、まっすぐアメリカには入りにくいので、まずあの辺りに入り、実績を作ってからアメリカに行くのです、との話。
 いやはや戦略的?だなと関心するとともに、個人にも正に戦略観あり。日本のようにどこへでも行けてしまう国民はやはり平和ぼけになるのかなと思いました。
★1月28日
 明日はアジアのお正月、春節です。太陰暦を忘れ、擬似西欧化した日本のおかしさは時々記してきました。
 ところで、この1,2年、少なくともその社会的地位からいうと、一流とされる数学者や天文学者の先生とお会いする機会があり、天文学や暦と、この博物館に書いてある国粋主義なり武士道なりとについて話しを向けてみましたが、一向関心も示していただけません。これが、韓国とかだったら飛びつく話しなのに(現に私の友人の韓国人はそういう本まで出しています)。
 本来、物理と政治とはつながってよいものです。中国の政治家には理科系が多いですし。なのに日本では政治家は文科系。それも著しい文科系です。そして、理科系の人は上記のとおり。少なくとも昔はそうではなかったと思います。儒教的教養は理科と言ってもよいものですから。日本全体の力の低下がここにも見えるといわざるをえません。
★1月26日
 何かと「試験」の季節。センター試験とかいう、どうも感心できない試験もあれば、学校、大学の期末試験も。
 自分もそうした一部を垣間見て思うのは、論点を提示した問題についてはどれも判子を押したような、しかも大量の中身が。一方、何が問題か判らない問題については、論点が判らないので、さっぱり。
 自分の昔の経験では、論点が判らない方が、論点探しという作業が加わるので、大量な答案になった記憶があるのですが、この点からも日本人のクリエイティブな発想というものが減じているなと思われます。
 こういう現実を前にしながら合格者の大量輩出という司法試験のようなことをすれば、結局裁判所が交通整理をすることになり、戦前のように、裁判官は弁護士よりも一段上、というようなことになって、おかしな統制国家が出来上がることでしょう。ただでさえ官尊民卑の意識が消えないのに。
★1月23日
 「人は死ねばゴミになる」は伊藤栄樹元検事総長の書で、筆の立つ人でしたが、彼(か)の人があるところで、「検察庁が電話1本架ければたちまちトイレットペーパーが出回ることになります」と言われたことがあります。
 もちろん、例のトイレットペーパー出し惜しみの時です(今や昔の物語ですが)。
 今回のライブドア騒動はこういう発想と無縁であることを祈りたいと思います。検察はあくまでも坦々と。そして巨悪に向かってほしい。
★1月21日
 30年近く前、4か月間席を置かせていただいた恩師の病床を見舞いました。その方のお父上は日本の仏教学の泰斗です。
 1年に、年初と1,2回の出会いながら、先生との話しは、意見は必ずしも一致しなくても、いつも弾みます。そうして弾ませていただくことができるのも、先生の教育にあずかるところ大でしょう。
 一体、教育とは、考える方向を示すこと。否、むしろ本当に考えるという姿勢を植えつけること。いわば、そういう生き様を共にすること。
 最近読んでいる葉隠と同時代の儒者の本を帰りの電車の中で読みながら、そんなことを考えました。知識の伝授に偏した最近の教育を思いながら。
★1月17日
 昨年も何回か武士道にまつわる講演をさせていただきましたが、今年も近々第1回目があります。
 ただし、私はこの方面の学者ではありません。本業の方も、学校で教えてはいても学者ではありません。何かといえば実務家です。それは過去をイグザミンすることももちろんありますが、何より将来に向けて理想を実現する仕事です。
 そこで思い出すのは、上田秋成と本居宣長との論争です。言語に関する論争は、ある意味で、実務家と学者の論争といえないでしょうか。
 秋成は宣長の古事記伝のような前人未到の研究は残さなかったかもしれませんが、考えの深みと広さは比べ物にならないと思います。宣長の「玉かつま」など読んでいると頭が痛くなる偏狭な本といわざるを得ません。一方の秋成の雨月や春雨はその仏教的・思索的深さは、人を明日へと導くものです。私はそういう秋成に無限の親しみを感じます。
★1月13日
 霞ヶ関のある役所の地下、本を買おうと思ってふとカウンターを見ると、同じ並びの右側には印紙・切手、左側数十センチメートルには書籍と書いた札が。そして、ガラスケースの中には、本が「平で1冊づつ」置いてあります(平積みではない)。
 これをみると、いつも北朝鮮や昔の中国を思い出します。お客は売っていただく立場として、並んで買わせていただく。さすがに、昔の中国のように、「私は印紙の担当だから本は売りません」とか、「そこの担当者はご飯を食べに行っていて1時間しないと帰りません」とはいわないものの、売る方が客に整列を強制している点では同じです。そういうことをしているという自覚がないのです。
 このご時勢でも未だにあんな状態ではこまりもの。北朝鮮は「別格」として、中国などは劇的に変化しているのに。これを改めなけれな日本はいよいよ「文化財国」です。
★1月7日
 昨日は埼玉県まで仕事に行きました。その仕事先の少し先には、旧岡部町(現深谷市)があり、ここには砲術家・高島秋帆が流されたと言われ、私にも若干の関係があります。
 その秋帆のことを記した「下総佐倉藩分領地・枝松和雄」という一文を読んでいたら、「先見性を持たず、伯楽の資質を持たぬ為政者気取りの者達が権力を握り、激動の時代にいることは、その国にとって不幸なことである」とありました。
 正に、身につまされる言葉です。
★1月5日
 明けましておめでとうございます。
 昨年つくづく感じたことの一つは、日本人の国語力の低下。私とて大きな顔はできないのですが、余りにも古典・漢文の能力がなさすぎ。そもそも教える力を持った人自体が数十年前から枯渇しているのでどうしようもないとはいえますが。
 ちなみに私の高校の漢文の先生は1年に15頁くらいしか進まない方で、それだけ中身が濃かった。古文の先生もその後、国立国語研究所に行かれ、今はある大学の先生。しかし、そのお二人に比すれば、他の先生には「陰り」が見られました。
 何とかしないと,日本人とはそもそも何なのかについて、わずか百年前のことさえわからなくなってしまいそうです。それは当然、日本人の考える力を低下させます。
★12月30日
 年賀状を書いていたら、傍らのテレビでやっていたのが「夜回り先生」即ち水谷修先生のお話。テレビをほとんど見ない(見る時間がない)私ですが、久しぶりに感動しました。
 しかし、こうしたリストカットなどの行動に走る少年を、どうして国が救わず個人がここまでするのか。この国家の持つ深刻な問題性を感じざるをえませんでした。これもまた、戦艦大和の臼渕大尉の言われる「個人の徳義」に頼る国家の姿の裏返しではないでしょうか。
 しかも問題を抱えた少年の、その問題は、結局、まともな民主主義が機能していない国家では解決不可能であるようにも思いました。
 真に自立した国家とは何かについて考えさせられたレポートでした。
★12月25日
 エコノミストの吉野俊彦氏が9月に亡くなっていたことを、うっかりしていて最近知りました。
 佐賀の下村治氏とは高度成長、安定成長の論敵。森鴎外の研究家であるとともに、その線から、永井荷風、河上肇にまで研究が及んだのは納得できます。
 しかも、その経済の解説はわかりやすく、最近読んだデフレの話も感動物でした。
 雑誌に書かれていた東大での我妻栄先生の講義の話も、私にとっては貴重な考えのヒントでした。
 ごまかさず、裸の王様みたいにならずに追求していく姿勢。それが永井荷風にもなったのかと、小説を読まないのに全集を一応用意している私としては親和性を感じます。
★12月23日
 本日は天皇陛下のお誕生日。今年も記者会見でのお言葉には感動しました。
 ところで、昨日、内閣制度120年にあたっての某テレビ局のインターネット記事には唖然としてしまいました(多分、放送でもそう言ったんでしょう)。
 いわく「議院内閣制は、国会議員から指名された総理大臣が内閣を組織し、議会に責任を持つ制度で、明治18年に当時の太政官制を廃止して導入され、現在の憲法によって制度的に保障されました。(22日16:28)」と。
 以前、これまた某評論家と対談していて同じ事を言われて唖然としたのですが、「もちろん」全くの誤り(後半が)。戦前の内閣官制では議員・議院とは関係なく天皇が任命するのです。東条英機ももちろん。元老という老人が勝手に選んだりもしました。
 つまり、そういう制度に根本的問題があったわけで、同じ「内閣」という名前が付いていても全く違うのです。それも知らないのが本当の「平和ボケ」でしょう。
 陛下がおっしゃるとおり、もっと本当の歴史を勉強しなければと思います。
★12月20日
 数年ぶりでバリアフリーダイビングの忘年会に参加。日頃何もできていないので本当に申し訳ないのですが、かえって暖かく迎えていただき恐縮です。
 色々なケースの障害を持たれている方が、健常者のボランティアに支えられてダイビングを経験することは、実は武士道の一つのタイプ、葉隠型に通じます。そのことは、この上の本に書いてあります。
 一方、先日の講演が終わったあと、ある相当な年配者の男性が、「あなたの言われる武士道は、(本当の)ロータリークラブの精神につながるのでは」といわれました。
 正にそのとおりであり、「感度」(いや考える力)のよい人は違うなと、つくづく思いました。
★12月18日
 そして一昨日は、最後の海軍兵学校のA先生といっしょに仕事。
 江田島で、正に広島の原爆を体験した人。あれだけ離れていても、とてつもない爆風に3階建てのコンクリートの建物が倒れ掛かってくるかと思ったとか。
 あのテニアン島の爆弾のピットを見ても、リトルボーイなどの現物の模型も、あれでそれだけのエネルギーとはと、やはり驚きます。
 しかし一方、さほどの心配もせずに、翌日視察にいった将校は被爆。1週間後に現地を通った私の身内もゴクゴク水を飲んだとか。
 今の日本人も、問題を深刻に考えない。これはネバダやビキニの米兵、そして政治家もそうでした。仏教で言えば火宅無常の世界なのに。
★12月17日
 その台湾の彼と話した1テーマが海軍というもの。
 台湾ですから当然軍役があるわけで詳しい。私の子供の時からの知り合いの孫も潜水艦に乗っていました。
 彼もいわく、海軍は一番恐いし、人間の頭を不思議な感情にさせるところと。これは、時々書く東条英機の弁護人の息子さんである先生も言われるところです。数億年前の人間のふるさと「海」を眺めて暮らす海軍には独特の発想が生まれます。陸軍の方が常識的でしょう。海軍の坂井三郎さんも言われていたことです。
 日本でも、海軍機関学校でどんなことが行われたか。
 こういう前提を知って特攻隊などというものも考える必要があります。
 掲示板の川棚は、海上特攻の基地でした。
★12月15日
 今週は出張の多い週でした。でも、せっかく遠出したので、台湾からの留学生に声をかけて最近の台湾の情勢などを話し合いました。
 先日の地方選挙の結果は、台湾の置かれている微妙な立場と国民の政治意識の高さを示すものでしょう。日本のマスコミがステレオタイプに報じる姿は台湾の実相を伝えているとはいえません。
 どの分野でもそうですが、もっと真実を伝えるメディアが欲しいと思うのですが、商業主義というものがどうしても災いするようです。しかし、それで済んでいる国は、やはり平和ボケといわれても仕方ないのかもしれません。
★12月11日
 昨日は武士道についての講演をしてきました。「目からうろこが落ちた」と言われる時と「難しい」と言われる時との二様なのですが、昨日は前者でほっとしました。
 何しろ、話は「あんなことがあった」ではなくて、それもありますが、基本はロジックなので、難しくなってしまうのでしょう。
 その帰り道、すぐそばに博物館があったのでじっくり2時間ばかり古代、中世だけ。
 木簡、板碑の文字に感動しました。おかげで仕事が夜中まで。
 なお、1年前の「事務室だより」を掲示板に貼っておきました。写真は特攻の基地、長崎県大村湾の川棚の海です。飛行機だけではない、ここにも深く考えさせる特攻があったことをもっと知るべきでしょう。
★12月8日
 今日は日米開戦の日。そんなことも知らない世代が今や相当にのぼるそうですが、事実です。
 ハワイへの攻撃と同時に(あるいはもっと早く)マレー半島コタバル敵前上陸。そして、私が最後の講演会を主催した大空のサムライ・坂井三郎さんは台湾からフィリピンのクラーク・フィールド飛行場を攻撃。
 坂井さんは「大空のサムライ」以上に「零戦の真実」をお勧めでした(講談社文庫)。
 どの本だったか、日本は相当数の飛行機を保有しているとの誤解が、当時、敵国にあり、それは同じ飛行機による攻撃回数が異常に多かったためであったとか。現代でも様々に反省を迫られる話し満載です。
★12月2日
 ここ数日、何かと勉強会が重なった日々でした。
 その中で、気になったのは律令と法の解釈ということ。律令は、ユスチニアヌス帝のローマ法大全と同様、施行者の解釈を許しません。それは違勅や違格となり、徒刑の対象となります。法律の交付者が専制としての行政・司法を行うことから、家来による解釈を許さないのです。
 このことと、自分が今行っている解釈という作業の正当性とを考え合わせる時、今の日本では余りにも律令の逆が多い。つまり、律令のような専制ではなく作られた、あるいは作られるべき法であるのだから、都合が悪ければより柔軟に改正してよいはずなのに、裁判官による解釈で運用してしまう余地が多すぎるなと思われることです。
 これも、民主主義とは何かの問題です。

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