辰巳栄一元陸軍中将のこと 
Sunday, March 24, 2019, 06:58 PM
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私が小城出身の辰巳栄一元陸軍中将にお会いしたのは、昭和60年頃のことでした。正に「立派な方」という印象です。人品麗しく、かつ知性の塊のような人でした。ただ当時私は、中将と吉田茂との関係については、吉田の『回想十年』などで知ってはいたものの詳細は知らず、それほど印象に残る話は覚えていません。また、刺激的な話はされない方という印象です。しかし、その人柄、肉声に触れたということが極めて重要ではないかと思っています。また、辰巳さんに会ったことのある何人かの人とも関係はあります。

辰巳さんに関係する伝記のようなものとしては、先に高山信武大佐の書かれた『昭和名将録(二)』(芙蓉書房出版)があり、新しいものとして湯浅博氏が書いた『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問辰巳栄一』という本があります。一般的には後者が文庫本化され、ポピュラーなものになっているようですが、両方読み比べてみると、はっきり言って先に書かれた、そして、辰巳さんに以下のとおり奉仕した高山大佐のものがはるかに優れていると思います。後者は著者自身辰巳さんに取材されていませんし、前者の中に載っている辰巳さんの言葉を、彼のヒストリーの中に取り入れただけのものであって、よりオリジナルなもの、また貴重な情報が入っているのは高山さんの書かれたものです。

現に、高山さんはその『昭和名将録(二)』の中で、以下のように述べておられます。「附記、辰巳は彼の伝記を刊行することについては極めて慎重であった。敗軍の将、兵を語らずというか、責任感の強い彼は、敗戦の責を胸に秘め、苟も言いわけに類したこと、自己弁護の傾向を極度に忌避した。従来二、三の出版社ないし同僚等から執筆の依頼もあったが、尽くこれを辞退した。しかるにこのたび芙蓉書房代表取締役上法快男氏の要請に基き、かつて辰巳に奉仕した筆者の再三に亙る懇請を辛うじて容認されたのは、筆者にとって無上の光栄とするところである。とくに彼から提供された若干の直話、手記、写真等は、大東亜戦争の真実を語るものとして、永遠に後世に残るであろう。記事の内容については辰巳の校閲を得ていないので、事実の表現等にあるいは本人の意向に添わぬ点があるかもしれないので文責は筆者にあることを特に附記しておく。」と。

そして、この記録は昭和54年にこの本になっていて、以後別段辰巳中将はそれに異を唱えることもされていません。ですから、ここに書かれた一言一句は、やはり最も辰巳さんの肉声に近いものと言ってよいと思うわけです。一方、後者の著者は、現実に辰巳中将を取材してはいないとのこと。にもかかわらず末尾には、いわば推測を前提とした断定気味のことがある程度以上書かれていて、これらが本当に辰巳栄一さんや特に吉田茂の考えたことかどうかは、疑問符をつけねばならないのではないかと思っています。最も政権末期あるいは政権以後の吉田さんが全てにおいて正しかったかはもちろん疑問でしょう。ある程度その行動を知りえた世代から見て。

そこで、辰巳さんの一生で最も有名な話は、昭和11年11月の日独防共協定を締結する際、辰巳さんがロンドンまで訪ねて行って吉田茂にこの締結を進言した時の話でした。それについては、辰巳さん自身が吉田茂の『回想十年』の中に一文を寄せ、「いわばミイラ取りがミイラになってしまって、米英を敵にまわすことは絶対にできない」という吉田茂の慧眼に打ちひしがれて、説得を思い留まった、とリアルに書かれています。前後10年以上イギリスに駐在した辰巳さんにしろ、吉田茂にしろ、いわゆる「英米派」であって、陸軍の主流である「ドイツ派」とは全く一線を画した存在。英米派ということはどういうことかというと、決して軟弱ではなくて、むしろ当時のヨーロッパのことを考えてみますと、ダンケルクに追い詰められて大陸を撤退することになったイギリス軍が、ダイナモ作戦によって漁船まで使い、また積極的に志願して、その兵員をイギリス本国に帰還させ、そのような負け戦の事実を堂々と開陳したチャーチルに対し、国民は圧倒的な支持率で彼を鼓舞したという、そのアングロサクソンの持つ強靭さに惚れた人と言って良いのではないかと思います。
私自身もロンドンのチャーチル博物館・内閣戦時執務室の現場を訪問したことがありますが、同様な感じを持ちました。そして、第一次大戦時、あえて負け戦を報じて勝利につなげたデーリーメールの社主の話が、その昔教科書に載っていたことも思い出されます。ちなみに『葉隠』にもある永禄12年(1569年)の立花城の戦い、つまり大友宗麟による「落城の命令」も同じパターンでしょう。中世日本の世界標準は見事です。

その後、ロンドンで空襲を経験した辰巳さんは、交換船で日本に戻り、昭和19年、学童疎開を進言しますが、東條首相は「死なばもろとも」と答えてこれを拒否。しかし、いろいろと手を回して40万人の少年たちの学童疎開を実現させました。
そして戦後には、警察予備隊、保安隊等の再建、そして自衛隊創設についてのブレーンとなりました。この際の辰巳さんと吉田茂の会話を『昭和名将録(二)』から引いてみると
「辰巳 総理。ご報告した警察予備隊の幹部の件ですが、やはり元大佐クラスの採用が必要です。大佐ですと連隊長として軍隊の統率の経験もあります。今のままでは素人ばかりの寄木細工で、どうにもなりません。
吉田 (新聞を読みながら)ウイロビーのところにいる元軍人らを追放解除して、採用しろというのかね。
辰巳 そうです。
吉田 辰巳君、私は、旧陸軍にはさんざんいじめられた男だよ――。
辰巳 駄目ですか……。
吉田 駄目だな、あの連中は。
辰巳 そうですか。
吉田 (ザ・タイムスをとりあげて見ている)また動き出す、ダレスが……。公式には中間選挙がすんでからだろうが。」
このやり取りについても辰巳さんは高山さんに否定されなかったとのこと。ここでいう「ウイロビーのところにいる元軍人」が大事です。それは、『大東亜戦争全史』を書いたドイツ派・服部卓四郎元大佐らを指していることは明白です。この服部や辻政信のラインがノモンハン事件以来、チャーチルと真反対の、事実に基づかない強気強気の作戦指導を行って、多くの人命を失わせたことも事実です。しかも、そのラインのおかげで吉田茂自身憲兵に40日間拘束されたという経験もあります。つまり「いじめられた男」です。そう考えてみると同じような経験をしていた人には眞崎甚三郎大将もいるわけです。

辰巳さんが尊敬する人物として『昭和名将録(二)』では本間雅晴中将、吉田茂、武藤信義元帥が出てきますが、私の知る警察トップの方ががお聞きになったのがもう一人、眞崎甚三郎大将でした。明治以来の陸軍は長州が握ってきたわけですが、それにいわば風穴を開けたのが大正時代の上原勇作元帥(都城出身ですが都城はもともと薩摩ですから薩摩閥)。そして、佐賀の宇都宮太郎朝鮮軍司令官、そして、やはり佐賀の武藤信義元帥らであり、これらが眞崎大将にもつながってくるということでしょう。
こうしてみると書きたくもないことではありますが、特に昭和初期の政治との関係で、派閥を見ることは大事です。眞崎らいわゆる皇道派と、英米派、宮中グループ、本来は「国本」という雑誌を出していた平沼騏一郎らの一種右寄り路線も、対するもう一派とは全く違いました。この人たちは失敗もありましたが、英米と事を構えようとはしていなかったわけです(平沼にしても英米派)。そのあたりの一種の人脈の違い、例えて言えばDNAの違い、これは最も大きな要素ではないか。いわば武士道観として葉隠のいうところの「上方風の打ち上りたる武道」を引きずった長州と、上記「立花城」に見られる中世武士道との違いといってもよいのではないかと思います。

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見直されるべき真崎兄弟をはじめとする人々の考え 
Monday, January 14, 2019, 06:17 PM
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真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)とその著書について一言。

今般、何故このようなテーマを取り上げる気になったかと言いますと、近頃の世上、第二次大戦という戦争、あるいは戦争の前提となる明治憲法下の制度、更にはそれを体した軍人に対する認識等に余りにも間違いが多く見受けられるようになったと思うからです。
例えば、あまり書きたくもありませんが例の従軍慰安婦の問題などについて、ある自治体の若い首長は、テレビで、「それは戦争の時代なのだから当然なのだ」などという暴論を吐いていました。
しかし、明治憲法下における日本の軍人は、「天皇の軍隊」を構成する者であり、それはあくまでもピュアな執行機関の一員として、絶対にそのようなことがあってはならないというものでした。それが軍人勅諭にうたわれた「軍人は禮儀を正くすへし」であり、裏付けとしての軍法会議もありました。文官も同様に、官吏服務規律を前提に「品位を保つ義務」(美濃部『行政法概要』)を課され、重たい刑罰による裏付けもありました。
しかるに現実には不祥事が起きたのは事実であり、それがなぜ起きたのかということを、そういった「仕組みの脆弱性」等々を含めて今後の課題として考えることが本当の制度論であり、また憲法論でもあるのに、何やら真の歴史認識を欠いた、極めて論理性の無い話が横行しているわけです。

あるいはまた一方、私が最近購入した日本国憲法制定時の議事録の縮刷版(といっても超縮小版。日本国憲法の制定に当っては、膨大な量の議事録に相当する議論が行われたことを知る人さえ少なくなりました。)には、リベラルとされる評論家のH氏が、真崎勝次元海軍少将のことを、「その著書『亡国の回想』について、余りにも謀略史観まがいの歴史認識に激しい反発をもった」云々という記述をもって書かれていました。以下のとおり、私が会った真崎少将は、決して、「日本は謀略によって戦争に巻き込まれたのだ、日本は悪くない」などという、正に「暴論」とは無縁の人であり、世界的視点から、今も問題とされている、北方の大国ロシアによる工作のことを述べているだけなのにです。
こうして、極めてラフに言えば、右も左(いや中立?)も誤っており、これを糺すことが大事ではないかと思うのです。

また、いわゆる旧軍の人々の話を聞くについては、まずはその前提としての「制度・仕組み」やそれによって出来上がった「彼らの頭脳の傾向」をしっかりと把握しておく必要があると思います。更に、現実に戦争をした人、指示した人、訓練で終わった人では全く違います。あるいは、二・二六事件の水上源一さんのように、民間からこうした事件に関わった人でも軍人に勝る軍人精神の人もいます(墓は賢祟寺の二・二六事件の軍人の墓の後ろにあります)。

そしてもちろん、そのような「傾向」が出来上がってきた明治維新以前の日本も当然知らなければなりません。これらを欠いて表層的なことばかりを言っていたのでは、「日本は悪くなかった」的な言説になってみたり、「戦争は極めて悲惨である」という、正に左右の、つまりはステレオタイプのいずれも「お話歴史」の分野に留まってしまいます。いつも言う通り、「お話歴史」での歴史の捉え方は、あくまでも「物語」であって論理性を欠き、かつ法的なロジックを欠くものでしかなく、時代をどのように持って行くかという将来的なビジョンを欠くものだと思います(しかも、その発想法は、これまたいつも言うとおり、中国由来かつ中国が捨てた史記的見方です)。

前置きはこのくらいにして、私が小学校に上がる前に松原のお宅でお会いしたのが、上記真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)でした。この方が書かれた本の中には、上記『亡国の回想』があり、もう一つの『隠された真相』を私は何度も読み返してきました。この本は日華事変以来の戦争の遠因、特に明治維新にまで遡り、例えばそこで行われた廃仏毀釈といったことが、日本の戦争を惹起する大きな原因になったことなどを詳しく記しておられます。つまりは思想史的で文化人類学発想があります(時代背景もあって、十分成功しているとは言いませんが、アプローチの仕方は正しいものです)。

この本の元は、戦後真崎少将が、長野県大町市等において、旧制松本中学の校長清水謙一郎先生の呼びかけに応じてされた講演が元になっています。ちなみに清水先生の弟子には、穂苅甲子男氏(元松本商工会議所会頭)がいますし、その同窓には山口富永氏がおり、この山口氏も『昭和史の真相』という本を書いています。これらの本における大将らの考えに対する見方は、長い間主流ではなく、しかし真崎大将らを悪く言っていた人々の根拠のない話が下火になると共に、最近は改めて見直されているようです。
例えば、『真崎甚三郎日記』の解説(東大のI名誉教授)でも、真崎大将らが「日本の対峙すべき相手はソ連(ロシア)であって米英ではない」と考えていたことがきちんと書かれています。

少将は、モスクワの駐在武官もされたロシア語に堪能な方で、兄上の真崎大将らが、日本軍を絶対に万里長城以南に入れないこと、特に、真崎参謀次長時代の最後に当る、昭和8年5月31日の塘沽(タンク)停戦協定などに見られるとおり、断固として「不拡大」の方針を取っていたことをよく知る人でした。
特に、大きな世界史的傾向を見るならば、昭和初期のソ連(現在のロシア)と米英そして中国との関係について見たとき、日本の真に対峙すべき相手は上記のとおりソ連であるにも関わらず北の防備を固める反対に、米英や蒋介石政権との戦争を惹起し、現在につながる多様な大問題をアジアはもちろん世界が背負い込むことになってしまったと私は思っています(もちろん原因はそれだけではありませんが)。

真崎大将、少将らがいわば追い落とされた昭和12年以降、日本は、南京を首都とする蒋介石と提携せずして、むしろそこを攻めてしまうという、いわばめちゃくちゃなことをやったために、せっかくきちんとまとまるはずの話がおもちゃ箱をひっくり返したような形になって、旧満州、内モンゴル、チベット、新疆などが大きな中国というコンセプトの中に入れられる結果を招くことになってしまいました。上記のとおり、それが現代における世界的大問題も引き起こしているのに、そういったことが分からなかった人々が戦争を始めたというわけです(謀略は、その中の一要素です)。

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西学の話 
Monday, January 14, 2019, 06:07 PM
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久米邦武先生は、江戸時代の天保10年(1839)、現在の佐賀市八幡小路に生れ、大隈重信の1歳年下として共に弘道館で学び、大隈家とは後年に至るまで家族ぐるみのおつきあいであったとのことです。佐賀での勉強を経たのち、江戸に上り、昌平坂学問所において古賀精里の孫・古賀謹一郎らの指導を受けて、再び弘道館に戻りその教諭になりました。そして、岩倉具視の子ども3人が佐賀に遊学した縁と思われますが、明治四年からの岩倉を団長とする米欧回覧の使節団書記官としてアメリカ・ヨーロッパを2年間近くにわたって視察してきました。
そして帰国後、5年間かけてでき上がったのが有名な『米欧回覧実記』です。岩波文庫で5冊もある膨大なものですが、その内容は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルキー・ドイツ・イタリア・ロシアなどなどヨーロッパのほとんどを網羅した「旅行記」というにとどまらず、各国の人文・地理・気候・工業・農業・商業・宗教等々に渡るすばらしい報告書となっております。そして各国への感想も、すべてが礼賛というわけではなく、その中身を厳しくひとつひとつチェックしており、付属の銅版画と相まって、今でも充分に通用するどころか、汲めども尽きぬ味のある本になっています。
当日は、この報告を完成させるにつき、5回ともいわれる書き直しの跡を見せて頂き、いかに心血を注いで書かれたのかということに感動を覚えました。そして私は、それだけではなくて、どうしてこのような、いわば博物学的な内容を久米先生が自ら体得し、かつそれを前提に欧米を見ていたのか、その下地はどんなことなのかということに大いに興味を覚えました。もちろん鍋島直正の近習であったことや父邦郷の影響は言うまでもありませんが。これは一般的な蘭学とも相当違うところにも興味を引かれます。
そこで考えてみるに、一体、佐賀にしろ、昌平坂学問所にしろ、いかに儒教主義の学校といっても、単なる訓古注釈や、いわゆる道学先生的な頭の固いことをやっていたわけではないわけです。それは、この米欧回覧のはるか昔、例えば佐賀の隣の福岡にいた、葉隠にある背振山境界論争にもかかわった貝原益軒即ち折衷主義の大学者が、極めて柔軟で、観念的な大義名分論に陥るわけではないどころか、『大和本草』など正に博物学的な書を物していることからもうかがえます。そして、上記古賀謹一郎は、儒学者ではあっても洋学に広く目を開いた人でした(後洋学所頭取となる)。
本来の儒教そのものが、特に大陸においては、1600年代のはじめ、イタリアの宣教師マテオリッチらがキリスト教を中国に布教しようとして北京に到達。明朝はこれを禁止したため、最初は仏教との習合を図っていましたが、途中からは、むしろ儒教との習合となり、「天主実義」に見られるようにキリスト教の神・ゴッドを「上帝」とみるというようなことが行われてきました。
そして、キリスト教の布教にあわせて、むしろ、中国に「科学」を入れたわけで、代表的なものとしては、ユークリッド幾何学の最高のレベルを伝えた『幾何原本』があったり、世界地図としての『坤輿万国全図』があったりしたわけです。西欧文明つまり西学の東への伝播が彼らによってなされ、リッチの弟子で遂にはキリスト教徒になったのが『農政全書』やアダム・シャールとの協力により『崇禎暦書』を著した徐光啓です。その影響は、日本の農書や天文学などにも顕著です。私は、かつての上海郊外にあたる徐光啓の故地「徐家匯」を歩き回ったことがありますが、今更ながら江戸時代における西洋、中国そして日本の関連性に感動を覚えました。
リッチには中国・元の時代の戯曲・元曲の翻訳がありますが、それが正に洋の東西に行き、東では歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」となって、新渡戸稲造さんの「武士道」にも引かれ、西ではボルテールによる「支那孤児」としてハッピーエンドの物語となる。平田篤胤の国学そして神道が、キリスト教と極めて似ているということも既に村岡典嗣先生によって説かれているところです。
いずれにしても、このような文化の東西交流、特に西から東への伝播は、久米先生のような方の頭には、しっかりインプットされていたものと思います。現に博物誌ともいうべき、「毛詩品物図考」が昌平坂学問所において、教材としてとりあげられていたことも、古賀精里・尾藤二洲と並ぶ寛政の3博士の1人柴野栗山によって書かれています。こうした意味からも『米欧回覧実記』は、日本の歴史について、改めて別の角度からの貴重な示唆を与えてくれる本ではないかと思うところです。


久米邦武先生は、江戸時代の天保10年(1839)、現在の佐賀市八幡小路に生れ、大隈重信の1歳年下として共に弘道館で学び、大隈家とは後年に至るまで家族ぐるみのおつきあいであったとのことです。佐賀での勉強を経たのち、江戸に上り、昌平坂学問所において古賀精里の孫・古賀謹一郎らの指導を受けて、再び弘道館に戻りその教諭になりました。そして、岩倉具視の子ども3人が佐賀に遊学した縁と思われますが、明治四年からの岩倉を団長とする米欧回覧の使節団書記官としてアメリカ・ヨーロッパを2年間近くにわたって視察してきました。

そして帰国後、5年間かけてでき上がったのが有名な『米欧回覧実記』です。岩波文庫で5冊もある膨大なものですが、その内容は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルキー・ドイツ・イタリア・ロシアなどなどヨーロッパのほとんどを網羅した「旅行記」というにとどまらず、各国の人文・地理・気候・工業・農業・商業・宗教等々に渡るすばらしい報告書となっております。そして各国への感想も、すべてが礼賛というわけではなく、その中身を厳しくひとつひとつチェックしており、付属の銅版画と相まって、今でも充分に通用するどころか、汲めども尽きぬ味のある本になっています。
この報告を完成させるにつき、5回ともいわれる書き直しの跡を見せて頂いたこともありm、あすが、いかに心血を注いで書かれたのかということに感動を覚えました。

そして私は、それだけではなくて、どうしてこのような、いわば博物学的な内容を久米先生が自ら体得し、かつそれを前提に欧米を見ていたのか、その下地はどんなことなのかということに大いに興味を覚えました。もちろん鍋島直正の近習であったことや父邦郷の影響は言うまでもありませんが。これは一般的な蘭学とも相当違うところにも興味を引かれます。

そこで考えてみるに、一体、佐賀にしろ、昌平坂学問所にしろ、いかに儒教主義の学校といっても、単なる訓古注釈や、いわゆる道学先生的な頭の固いことをやっていたわけではないわけです。それは、この米欧回覧のはるか昔、例えば佐賀の隣の福岡にいた、葉隠にある背振山境界論争にもかかわった貝原益軒即ち折衷主義の大学者が、極めて柔軟で、観念的な大義名分論に陥るわけではないどころか、『大和本草』など正に博物学的な書を物していることからもうかがえます。そして、上記古賀謹一郎は、儒学者ではあっても洋学に広く目を開いた人でした(後洋学所頭取となる)。

本来の儒教そのものが、特に大陸においては、1600年代のはじめ、イタリアの宣教師マテオリッチらがキリスト教を中国に布教しようとして北京に到達。明朝はこれを禁止したため、最初は仏教との習合を図っていましたが、途中からは、むしろ儒教との習合となり、「天主実義」に見られるようにキリスト教の神・ゴッドを「上帝」とみるというようなことが行われてきました。

そして、キリスト教の布教にあわせて、むしろ、中国に「科学」を入れたわけで、代表的なものとしては、ユークリッド幾何学の最高のレベルを伝えた『幾何原本』があったり、世界地図としての『坤輿万国全図』があったりしたわけです。西欧文明つまり西学の東への伝播が彼らによってなされ、リッチの弟子で遂にはキリスト教徒になったのが『農政全書』やアダム・シャールとの協力により『崇禎暦書』を著した徐光啓です。その影響は、日本の農書や天文学などにも顕著です。私は、かつての上海郊外にあたる徐光啓の故地「徐家匯」を歩き回ったことがありますが、今更ながら江戸時代における西洋、中国そして日本の関連性に感動を覚えました。

このような文化の東西交流、特に西から東への伝播は、久米先生のような方の頭には、しっかりインプットされていたものと思います。現に博物誌ともいうべき、「毛詩品物図考」が昌平坂学問所において、教材としてとりあげられていたことも、古賀精里・尾藤二洲と並ぶ寛政の3博士の1人柴野栗山によって書かれています。こうした意味からも『米欧回覧実記』は、日本の歴史について、改めて別の角度からの貴重な示唆を与えてくれる本ではないかと思うところです。

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メイフラワー盟約と「本当の日本の武士道」 
Monday, January 14, 2019, 06:00 PM
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先に、「一味同心とメイフラワー盟約」という題でお話ししました。

葉隠には、この「一味同心」という言葉が散々出てきます。これは中世に極めてポピュラーな言葉であって、「一味神水」という言葉で表現されることもあります。惣や一揆において土着の人々が一揆契諾状によって盟約し、1つの武士団を作るというような話です。典型的には青方文書など五島列島の松浦党などによく見られます。

松浦党の一揆契諾状では、「公私において一味同心の思をなし、忠節を致すべし。或いは一人公方より 面目を失い、或いは公私につき恨をなすと雖も、一揆中において談合を加え、 衆議に依りこれを相計うべし。一人の儀を以て事を乱すべからず。」などです。

葉隠の冒頭にも「相良求馬は、御主人と一味同心に、死身になって勤めたる者なり。一人当千というべし」というふうに出てきます。要は、葉隠の理想とするところは、家来は殿様と一味同心でなければならないというわけです。

しかし、中世武士団はより平等です。その「一味」のバックには熊野権現があったり、佐賀の場合には英彦山権現があったりという、基本的に仏教と習合した神があったりして、いわば神の前に平等に盟約して一つの武士団を形作るということです。確かに「将軍家」を上に置いたりしますが、それは遠い所のもの。これは、アメリカにおけるメイフラワー盟約とそっくりではないかという話になるわけです。

1620年、米国のメイフラワー盟約には、「神の栄光のため、キリスト教の信仰の促進のため、ならびにわが国王と祖国の名誉のために、バージニア北部に最初の植民地を建設する航海に出かけたものであり、本証書によって、神とわれら自らの前で厳粛かつ相互に誓約し、われらのより良い秩序の保全、ならびに前述の目的を達成するために、結束し、市民による政体を形成する。」とあります。国王たちは相当離れていて、当面「神の前」です。

この一揆契諾状に関しては、『日本思想史大系』での解説で、「肥前国下松浦郡を中心として、本土から五島列島にまでひろがる広大な地域に分布していることが分かる。……どれも1条に「公方」や「君」すなわち室町将軍家への忠節・奉公を約しているが、主たる内容はむしろ一族中の同心・協力の誓約、談合の際の衆議(多分の義)による決定、一揆衆中の武力衝突の禁止、夜討・強盗以下の重罪人に対する検断権の発動、所務・境相論等の解決法、土民百姓・下人らの逃亡に関する、いわゆる「人返し」規定等々の部分におかれている。在地の小武士団間のおける紛争の解決・禁止のための連合体の規約という性格を顕著に認めることができよう。」と、いわば自治ということが極めてはっきり出ていると思います。

さて、葉隠がどうして一味同心を言うのかということですが、「昔はよかった」と言う山本常朝からすると、今はそういう観念が喪失してしまったという事を慨嘆していることによるのだと思います。どうしてそうなったかということですが、種々の理由が挙げらるところ、私は日本の位置も大きいと思います。それはこの博物館にあるサラゴサ条約の影響による鎖国です(ポルトガルの来航禁止)。

そのようにして、鎖国体制になってしまうと、今度は将軍をトップにしたヒエラルキー社会がやってきました。つまりそれは、中国式の冊封国家体制が復活するということです。ただし、日本が被冊封国家であるのはいわば沽券にかかわるということで、日本自体が一種の皇帝の国になり、そこで将軍の名称を国王にするとか大君にするとか色々なことがありましたけれども、いずれにしても各大名達はいわゆる諸侯になるし、その諸侯は、今度はまた家来を雇っているとうわけで正にヒエラルキー。そうすると、その観念を支えるものは何かといえば忠順・勤勉の対象を横にいる仲間へではなく、上に向けるという、つまり中世的な一味同心の社会では全くなくなってしまったということです。要は縦に切る社会から横に切る社会に変わった。少々分かりにくい話だったかもしれませんが、詳しくはこのホームページを全部読めば。

しかして、佐賀になぜこうして『葉隠』中の一味同心が残ったのかというと、西南雄藩という中央から遠ざかった地にあるということが、こうしたものを残したと言えるのではないでしょうか。その点においても、相良亨先生が述べられるとおり、『葉隠』という本に地方的な土のにおいがするということが言えるかと思います。

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思い出す坂井三郎さんのこと 
Monday, January 14, 2019, 05:52 PM
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坂井三郎さんは佐賀市西与賀町厘外の人で、最初は佐世保の海軍工廠などでの軍艦の整備や砲手の訓練などを経た後、霞ヶ浦海軍航空隊に入り、最終的には零戦のパイロットになりました。零戦の前は九六式艦上戦闘機という零戦によく似た形、ただし風防がなくて足が外に出ている飛行機で中国戦線を戦い、そしてアメリカとの戦争を終戦までやり遂げ、この間64機の撃墜王として有名です。その著書は、世界5か国語以上に翻訳され500万部以上が売られ、各国のエースと交流しました

その坂井さんが逝って十数年が経ちました。私が坂井さんのご自宅を訪問し、長時間の談話に及んだことも一再ではありません。

彼は、決して戦争賛美の人間ではありませんでした。零戦の戦いには四つのパターンがあるといいます。相手を撃ち落とすこと、自分が撃ち落とされること、相撃ちになること、そして勝負をつけずに別れることです。
彼が狙ったのは・・・最後のパターンでした。零戦は決して第二次大戦中、一貫した名機ではなく、巴戦が得意などと言って第一のパターンをねらったのでは、命はいくらあっても足りません。次のチャレンジの機会を得ることこそ大切、というわけです。

だから彼は、まず眼を良くすることを心がけ、昼間の星さえ見えるとまで言われました。そして、敵の機影を少しでも早く発見し、スルスルと忍び寄って、背後から襲う。こうして、自分が先任搭乗員(上官)として出撃したとき、部下を一人も死なせたことがない、というのが彼の最大の誇りでした。

日本が行った戦争の中で、上記のとおり九六艦戦、零戦と乗りついだ彼は、米国との戦争は横綱相手の立派な戦争。しかし、中国を相手にしたものは、どうにも説明のつかないものだったと言います。
彼と日本海海戦の話しをすると、それは東郷平八郎連合艦隊司令長官の敵前大回頭の右手の一振りで勝ったのではない。我々の先輩が一発必中の猛訓練をして「当てた」から勝ったのだ、というリアリズムは、観念論に流れがちな最近の風潮に厳しく警告を発するものです。

ところで、私のかつての友人清瀬信次郎先生(衆議院議長・東条英機の弁護人であった清瀬一郎さんのご子息、亜細亜大学名誉教授)は、「海軍というのはね、海を見ているので、段々おかしくなってしまうんですよ」という話をしていましたが、坂井さんも、機械を相手にしている海軍や空軍(彼の場合は海軍航空隊)の問題点を強く意識し、海軍機関学校を始めとするところの教育から生れた人間魚雷や、神風特攻隊、更に、海軍特有のその「身分制度」や新しい飛行機を作ろうとしない発想の貧困、終戦時に海軍将官で自決したのは大西瀧治郎中将だけ、といった様々な問題に対し、厳しく指弾していました。海軍善玉で陸軍悪玉などという俗論とは全く異なります。

『葉隠』についても決して賛美ではなく、『続・大空のサムライ』に、「葉隠に、『武士道とは、死ぬことと見つけたり』という一語があるが、(これは、主君のために、いつでも命を捧げることを武士の本分と教えたその頃の、狭義の支配者中心につくられた道徳のように思われてならない)」と述べておられます。

問題は、坂井さんの上層部への厳しい批判の元、あるいは何故そういう批判の対象たる事象が起きたのか、の根本が大事ではないかと思います。彼は、私に「嘉村孝先生」などと書いた本をくれたぐらいのことですから、彼の論、最終的には国家論をブラッシュアップするのが私達法律家の役割だと思います。

そうしますと、例えば、彼が書いているとおり、アメリカ軍の場合は、搭乗員が不時着した場合には徹底的に調査して救出する、日本の場合にはそれがない。あるいは、米国は、戦争で亡くなった人たちを、東南アジアの墓地においても徹底的に供養しているけれども、日本は記念碑などを建てたときは良いとして、その後は朽ちるまで、いわば捨て置かれ、未だ遺骨収集もなされていない所が沢山ある。私が時々行くテニアン島のようなところは、そこに遺骨があることが分かっていながら(米軍が蒔いた強力な豆が茂っているということはありますけれども)何もしないでほっぽり出すという実情です。

これは、国家は国民を守るもの、という、本来国民が持つべき法的なコンセプト・観念力の弱さ、いわば未熟さに由来することと言わざるを得ないように思います。彼の先任搭乗員としての行動は、そうした残念な日本人の真逆です。しかし、それが日本人の生来の傾向かというと、最近復刻版が出ていて、私もその著書『弁護士の目』に書いた大川周明の『日本二千六百年史』や、先に取り上げた『公民教育研究』にもあるように、日本国家が江戸初期において、一味同心の中世的国家像を失ったことによるのであって、決して日本人生来のものではないと思います。一味同心を言う葉隠の「意義」もそこにあると思っています。

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売茶翁について 
Thursday, January 3, 2019, 04:04 PM
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昨秋、佐賀で「 葉隠の山本常朝と煎茶の売茶翁 」という題でお話ししました。連休初日に200人もの方々が集まって下さり、少しうれしかったです。
それで、そのさわりを。

最初は、このような題での講演を依頼されて面食らいました。というのも、売茶翁のいわば「元」にあたる黄檗宗に対して、それにぞっこん惚れ込んだのが山本常朝の主君・鍋島光茂の子供である綱茂。それに対して、いわば異を唱えたのが常朝側ということになるからです。しかし結局のところ、常朝さんも売茶翁も、「お茶」という点においては共通性があるということで何とかおさまりをつけた次第です。
さてそのようにおさめるには、やはり世界情勢を見なければいけません。この2人、いずれも世界の変化に対していわば正反対の行動をした方々だからです。
改めて述べるまでもなく、1600年代における日本周辺は正に波騒いでいました。そして、秀吉が行った文禄・慶長の役以降、明の滅亡も預かって数多くの大陸の人々が日本に逃げてきた、あるいは移動してきたという経緯があります。
分かりやすい話、元禄9年(1696年)の長崎の人口は6万4523人であると言われますが、その内約1万人が中国系とのことです。この傾向は佐賀県ももちろん同様であり、特に当時は船が小さかったので、長崎からの文化は大村藩との境の俵坂などを越えて、売茶翁の故郷、蓮池藩の領地である嬉野・塩田を通って塩田津へ。そこから船に乗って筑後川河口に近い蒲田津から佐賀江を通って蓮池、更には市内の今宿、十間掘川と通り、土橋の唐人町、つまり、今の佐賀市の真ん中にまで繋がっていたと言えます。売茶翁の父柴山常名の墓も塩田にあります。つまり、佐賀市は正に世界に開かれていたわけで、このことは、例えばケンペルの「江戸参府旅行日記」に載った地図などからも伺うことができます。上記今宿を仕切っていた明の十三官・武富廉斉の子孫に大隈内閣の武富時敏大蔵大臣などなど正にキラ星の如しです。
こうしたことは物の移動からも明らかで、元は中国からやって来た長崎の逸口香が嬉野、塩田、蓮池そして佐賀にまで存在するということからも、村岡総本舗の村岡安廣様が提唱しておられる「シュガーロード」と軌を一にする「逸口香ロード」があったことは間違いないのではないでしょうか。
それでこの売茶翁という人ですが、こんな国際的影響を強く受けた蓮池で幼少時化霖和尚の弟子になった後京都に登り、隠元禅師の後を継いだ萬福寺第4世の独湛性瑩より偈を授けられたとか。この独湛性瑩は、隠元同様中国からの渡来僧ですが(萬福寺は13代まで全て中国僧。その後も)念仏禅を唱えた人であり、それまでの日本の禅宗とは一風変わっています。これは黄檗禅だけでなく、正に葉隠における排耶僧・鈴木正三なども仁王禅と称して念仏を唱えることを提唱しています。そうした同傾向が葉隠関係者の中に見られるのも、同じ「時代」のなせる業でしょうか。
その後、売茶翁は仙台で約四年間を過ごし、雷山で修業し等々のことを行って、60歳を過ぎてから京都で茶を売ることを始めたのですが、彼が何を考えていたのかを知るには、『売茶翁偈語』を読むことはもちろん、彼の交友関係をしっかりと見てみる必要があるでしょう。
その中には、例えば湛堂慧淑のように鎌倉時代の叡尊の系譜につながる律のお坊さんがいたり、法弟にあたる大潮元皓は荻生徂徠の弟子で、中国語の会話能力に極めて優れていていたこと。その門下には、折衷学派の儒学者・宇野士新(宇野明霞)がいて、折衷学派と言えば、例えば佐賀の隣・博多の貝原益軒などもそれに当りますが、極めて穏当な儒学を唱えているということが思い出されます。葉隠の対極にある神儒一致の山崎闇斎系とは異なるのです。
こうして、売茶翁の交際は永谷宗円(永谷園の祖)や大典顕常、伊藤若冲、池大雅、最終的には木村蒹葭堂などなど、こうした幅の広さが売茶翁の真骨頂と言えるのではないでしょうか。
そして、売茶翁は「儒仏道いずれにもあらず」と述べるように萬福寺を「出た」と言われますが、決して黄檗宗を「捨てた」わけではありません。それは、むしろ黄檗禅の徹底と言ってもよいと思います。
即ち、この「儒仏道いずれにもあらず」で思い出されるのが中国の「虎渓三笑」の故事です。3世紀、中国山西省の廬山・東林寺では、慧遠(佛)、陶淵明(儒)、陸修静(道)の3人が楽しく話しているうち、2人を見送った慧遠が、自らに課した虎渓の橋を渡らないという戒を破ってしまって、虎からウォーと唸って教えてもらい、3人が大笑いしたという話。これは、実は浄土真宗の本山である西本願寺に、お御堂を廬山に見立て、虎渓の庭、虎の間、更には「三笑」を演ずる能舞台があるというしつらえで視覚的に具現化されており、どうも浄土真宗と萬福寺(虎あり)とには極めて強いつながりがあるようです。
かくして、このような幅の広さをもった売茶翁は、まだまだ研究すべきものを含んでいると思いますが、一方の常朝さんの方はどうかと言いますと、こうした新しいものに対して、どちらかというと特に闇斎系武士道に対してマイナス面を見て、中世の「一味同心」の世界に憧れたということが言えるでしょう。
しかし、「一味同心」といえば叡尊がいた西大寺の大茶盛が浮かんできます。つまり茶を飲んでみんなが団結をするということです。葉隠の中にも「茶の湯の心は、眼耳鼻舌身意を清浄ならしめること」といった一節が出てきます。売茶翁はもとより茶です。

やはり、両者了社は禅。神儒一致とは明らかに異なります。

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インパール作戦の話 
Friday, June 1, 2018, 10:54 PM
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不当に安く土地が売られた、とかいうと、明治14年の政変のきっかけとなった北海道官有物払い下げ事件を思い出しますし、書類が改竄されたとかいうと、第二次大戦最末期の台湾沖航空戦で、総理大臣自体がめちゃ負けの戦を逆にとって自信満々の記者会見をしていた映像などを思い出し、いつになっても変わらぬ姿よと、思うわけですね。

その意味から、最近、父もその一環に参加したインパール作戦を紐解いてみました。

インパール作戦は、ご承知のとおり昭和19年3月8日に開始されたビルマ(現在のミャンマー)の北西部からインドにかけての戦いです。3万人近い日本の兵士が死にました。
なぜこのような戦争がなされたのかということについて、よく言われるのは、東条英機首相の考え、インド独立の志士チャンドラ・ボースのインド独立への思い、昭和12年7月7日に盧溝橋事件が始まったときの連隊長・牟田口廉也第一五軍軍司令官のいわばリベンジの発想、プラスして言えば、その上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官の思い等々です。

 確かに、昭和19年(1944年)1月17日にまとめられた帝国議会における東条首相の演説稿を見ますと、「自由インド仮政府首班、ボース氏を大東亜会議に迎え、その席上において、政府はインド独立のため、一階梯として皇軍の占領下にあるアンダマン諸島及びニコバル諸島を近く自由インド仮政府に帰属せしめる用意がある旨を宣明致しました。…さらに、実力をもって、積極的な援助を送るものなることを…。」などとあり。さらに、東条首相は、「転じて欧州の情勢を見まするに、我が盟邦ドイツは幾多の波乱のまっただ中、盤石の構えを敷いて、一路米英の撃砕に邁進致しておるのであります。」云々として、よく言われる通り、このインパールからむしろ北西へ、ドイツへの回廊を確保しようなどという話があったようです。

しかし、今から考えてみますと、同じボースでも中村屋のボースの方が上ではなかったかとか、ドイツは回廊どころか現にスターリングラード攻防戦(1943年2月まで)で破れ、レニングラード包囲戦(1944年1月まで)でも破れる直前で、東条演説は全く実現性のない話であったと言わねばなりません。
 そもそも私の父は、インパール作戦開始に先立つ昭和18年(1943年)から、志願して久留米の第一八師団(菊兵団)の一員として北ビルマのフーコン作戦(レド公路の防衛戦。広く言えばこのフーコン作戦や第2次アキャブ作戦もインパール作戦の一部、[防衛庁戦史室『インパール作戦―ビルマの防衛』])に従軍し、毎日毎日敵機の来襲を受け、飢餓とマラリア、白骨街道のただ中、もちろん道路などはまともに通れず、ジャングルの中に開いた伐開路によってかろうじて通行を確保するような実情。夜になると虎の声が真近に聞こえ。航空戦力は全くと言ってよいほど望めない。その様な中で、2,000メートル〜3,000メートルのアラカン山脈を、現代のチンギスハンよろしく牛を連れてインドを目指すなどということはおよそ考えられないことです(兵棋演習に参加された竹田宮大本営参謀宮は「むしろメチャクチャな積極案」と報告)。

現代戦を行うには日本軍自体の元々の発想が余りにも古すぎたと言わねばなりません。日本軍のお手本はドイツということになるかもしれませんが、ドイツではその80年位前にビスマルク、モルトケのコンビにおいて普墺戦争や普仏戦争を戦いました。そのとき確かにモルトケは鉄道を敷いて兵器や物資を輸送し、迅速にオーストリアやフランスとの戦いに勝ちましたが、それを見事に真似して、ビルマ占領とともに、いわゆる「戦場に架ける橋」の泰緬鉄道を作った。しかしすでにその当時から航空関係の司令官は、「そんなものを作ったって爆撃されたら機能しない。自分に飛行機を与えてくれればよほど意味のあることをしてみせる。」と言っていたとおりで、何万人もの死傷者を出したこの鉄道は現在では機能せず結局止まってしまっているという極めて時代遅れのものでした。

それはそれとして、牟田口中将のおかしなことについては、たくさんの本に書かれていますのでここでは省略しますが、ひとつだけ言いますと、当初、メイミョウという日本でいえば軽井沢の様な所で指揮を執っていた牟田口中将も、遂には前線に出てきたまでは良かったものの(ただし、花柳界も一緒)、クンタンに進出した司令部で、「日本軍というのは神兵だ。……それを泣き言を言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ。手がなくなったら足で蹴れ。足がなくなったら歯で噛みついていけ!」との『葉隠』の一節からの訓辞を垂れたとのこと。その頃は、毎日祝詞をあげていたとの話もあるくらいで、本当にまともな状況ではなかったのです。そして結果的には、この作戦だけで上記のとおり3万人近くもの犠牲者を出し、ビルマ防衛を破綻させました。

そこで、問題はこれについての反省です。世の中にある反省本では、もっぱら牟田口中将の神がかりともいうべき行動の異常さを取り上げ、さらには南方軍や参謀本部の責任が全く果たされていなかった云々といったことが言われています。私自身の経験としても、牟田口さんが昭和30年代の終わり、三国一郎さんの「私の昭和史」のテレビ番組に出て来た時、彼の話しを聞いて、まともじゃないことはよく分かっています。しかし、今般、牟田口中将のお孫さんがその資料を開示されたことは、誠に立派なことと言わねばなりません。

しかして、私は彼らへの攻撃だけにとどまってはいけないと思っています。ひとつは大きな国家の仕組みの問題と、事に当たっての精神の問題です。もちろんその前提としての物量の問題もあります。インパールだけでなく、フーコン(「死」の意味)でも火力はもちろん食糧、医薬品の欠乏で上記のとおり白骨街道を現出しました。私自身、後に一八師団が壊滅したメイクテーラの戦場に立ったとき、当日も話に出た2,000両の戦車を相手に匍匐前進も出来ないトゲだらけの沙漠で、対戦車砲もなく戦った将兵のことなど、暗澹たる気持ちになりました。

そもそも、まず制度論においては、「責任なき戦場」云々といっても、明治憲法というもの自体が責任を取る形になっていませんでした。その憲法下においては、天皇は皇祖皇宗に責任を負い、その家来である軍人や官僚は、「天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し忠順勤勉を主(ママ)とすべし」といった、「上」への責任の方向が制度であり、政府が国民に責任を負うなどという仕組み自体がそもそも無かったわけです(新渡戸『武士道』が「天や祖先に高き責任感」と言って満足している次第)。

そんな風ですから考えも極めて硬直的なものとなり、天長節(つまり天皇誕生日、今の昭和の日)までにインパールを落とすなどと無意味な期限の目標を立てるなど、これは辻政信参謀がマレー作戦において何とか節までにどこを落とすといった無意味な目標を立てたのと全く同じ誤った手法を取ったのです。こうして、国家の仕組みとそれを前提にしたこのような行動パターンが大いに問題です。しかしそうは言うものの、明治26年、日清戦争に先立って作られた「戦時大本営編成案」においては、「参謀総長は陸海軍の大作戦を計画奏上し、勅裁の後これを陸海軍各独立指揮官に下令するの手続をなす」と書かれていたとおり、大本営がその職責をきちんと果たしていたならば、南方軍やビルマ方面軍をストップできたし、「反射的」にせよ兵士は救われた、ということが最低限言えないでもありません。しかるにそれがなされていなかった。これについては、大正時代以来、法律の文言を軽視する傾向が出てきたことも原因としてあるように私には思われます(それに対して、フーコン入口のミートキーナにおいて、辻政信が強くかかわったと言われる「死守命令」を文字通り守り、800名の部下を脱出させたあと自決した水上源蔵少将こそ正に武人の鑑であり、立派な法律家である、というべきだと思います)。
そして、上記のとおり組織論から出てくる精神の問題が重要で、牟田口中将が祝詞などをあげて「神頼み」をしていたこと、それを誰も止めなかったということ、その根本には明治維新を引き起こした復古神道などという、以前も書いたとおり、そのもとは中国からやってきた儒教思想の亜流、その影響が彼らの頭を意識せずに支配していたということが大きいと私は思っています。

ついでにモルトケとビスマルクとの関係を考えてみると、モルトケが普墺戦争においてウイーンを占領しようとしたのに対し、上位のビスマルクがこれをストップしたということがあります。こういうことについての戦訓は、上記大本営の動かざることをみれば全く生かされておらず、盧溝橋や南京でも同様でした。

その意味から、制度構築論、つまり憲法の作り方と、その構築された行政主体からくり出されるいわば行政作用をなす者の精神において、日本人の組織的な遅れ、精神的な遅れが明らかです。私の懇意にさせていただいている先輩もその執筆者であるところの『失敗の本質』には近頃流行の「忖度」といった言葉まで載っているようなわけで、こうしたことは現在においても変わりがないということでしょう。 

そんな訳で、総まとめで言うと、私は牟田口さんだけを悪いとかいうのでは到底足りないと思います。
そして、私共もそれなりの年になり、私たち世代が、あの牟田口さんのテレビを見たなどという貴重な経験をしている最後の生き残りだということも言えますので、大いにそういったものを生かして、より深く考えて現状の打開、つまりは日本のレベルアップに務めなければいけないのではないかと思っています。
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香川県のある島での経験から 
Tuesday, May 8, 2018, 07:35 PM
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過日、香川県のある島に行きました。そこのホテルに9・11の写真があって、その近くに実は皇居前だという松林の写真があったことから、その2つは以下のようなことでつながるんじゃないか、と、説明の方に提言したので、その話を。

一般的な葉隠の本には、冒頭に「漫草」という章があります。これは多分、田代 陣基によって付されたものであり、彼が、宝永7年(1710年)に初めて山本常朝に会いに行った経緯が書かれています。それは、本来、殿様が死んだら追い腹をするのが一般であるのに、1661年の追腹停止令の後は、もし追腹をすると罰則があるので、「そのほどの身を、方袍圓頂にまかせて、在るともなく、なきにはあらぬ影法師」という、つまり死ぬでもなく生きるでもないお坊さんの生活をしている常朝さんという人がいる。その人に会うということは、いわば散り留まった桜の花に会うようなものだ、といったことが書いてあります。ですから私は、「葉隠」という言葉の命名は、西行の「葉隠れに散りとどまりし花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する」、というのでよろしいのじゃないかと思っているのです。漫草の現代訳に関しては、私の『葉隠論考』(創英社)に一応のものが書いてありますが、これが正しいかどうかは分かりません。何しろ、原文自体におかしな所が色々ありますので。

それはそれとして、この漫草の最後は、「所しづかなれば身閑なり。身より心のしづかなるにぞ、松樹槿花の境(さかひ)も、思ひつづけ侍るなり」という文章で締められています。この「松樹槿花の境」とは何かという事なのですが、私の考えとしては、白居易の詩、『白氏文集・巻十五・放言五首』の「松樹千年、終に是れ朽ち、槿花一日、自ら栄を為す」に由来するものと考えます。
この詩は、松の木というものも千年も経てば枯れてしまう、槿の花は一日で落ちてしまうけれども素晴らしい花を咲かせる、何れにしても、長ければ良いというものではないし、短くて悪いものでもない。白居易はそれぞれが自分の最大の特徴を発揮すれば、それでよいのだ、という積極的な意味にとらえているようです。

いずれにせよ、日本では松というとおめでたい木の代表なのですが、アジア諸国では必ずしもそうではなくて、以上のような由来があることから、むしろお墓に植える木であるという伝統もあるようです(銚子のあるお寺のお墓や、韓国の宗廟もそうだった気がします)。そんな訳で、定朝という人が生でもなく死でもないという境地にいるということがこの文章のミソなのですが、その話から発展して、「お墓と武士道が裏表」ということを考えてみましょう。

そこで、お墓とは一体何か、祖先崇拝とは一体どういうことかという事ですが、これはもちろん相当な古い歴史を有するものです。特にアジアにおいては、『孝経』の発想から、身体髪膚を子どもに残してくれた父母に対する「孝」の思想より、祖先を崇拝するということが極めて大切なことになりました。中国や韓国では土地の神や穀物の神を祭る社稷壇。祖先を祭る祖霊殿、宗廟の伝統です。日本は必ずしもはっきりしていないかと思いきや、山崎闇斎らの書いた物の中にもしっかりとそのことが書かれていますし、私がかつて元衆議院議長・清瀬一郎先生のご子息、清瀬信次郎先生のご縁ある方から伊勢神宮の内宮と外宮の関係を指摘され、これは見事に祖霊信仰と農業神とが一致しているという1つの例であることに目が覚めました。祖霊祭祀は伊勢神宮を含めた東アジア共通のものだ、ということでしょう。
そして、平安時代は、そうした考え方が強くて、それが儒教とも結びついて、親の体を傷つけない土葬が多いわけですが、中世の鎌倉時代等々においては火葬も増えて、また、お寺と墓との結びつきについては、むしろお寺の外に墓がある(寺は道場)というのが当たり前であって、現代とは全く異なります。

その様な中、現代風の墓はいつどのようにして出来てきたかを考えますと、これまた明文化の流れによるものだと言ってよいかと思います。この明のお墓文化を取り入れたのは、保科正之であったり水戸黄門らで、それは、会津の松平家墓所や水戸藩の瑞龍山、常盤共有墓地などに明白に現れています。同様の、いわゆる亀趺を配した墓は他の藩にもあります。そしてこのスタイルの墓が、明治以降、特に明治維新の起爆剤ともなった水戸藩の常盤共有墓地の流れから一般庶民にも今の羊羹型が広がってきました。ですから今世間にあるお墓は、実は水戸黄門らによる儒教墓の流れを汲んでいるという事でしょう。そして、武士道も、お墓と同様、中世のそれと近世のそれとがある。近世のそれのバックには、お墓と同様、山崎闇斎らの思想的影響を見ることができる、とまあ大体そんなことになるのではないかと思います。お墓と武士道との関係を書き始めると終わらなくなりますので、今回はこの程度とします。
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明治憲法に絡め取られた「右翼」 
Tuesday, March 20, 2018, 09:12 PM
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『右翼運動百年の軌跡』という本があります。この本は立花書房からずいぶん昔に出た本で、私も著者にお会いしたような気がしますが(というのは、本名を明かされていない方です)、その本の中で私にとって一番印象的なのは、第二次大戦前は、鴨緑江がどうしたとか黒龍江がどうなったなどという大きなフレーズの歌が多かったのに、近頃の日本の歌は釧路の夜がどうだったとか新潟がどうした位のご当地ソングになってしまい、とかく日本人全体として考えることが小さくなってしまったのは、いわば慨嘆に堪えないというような記述があった事でした。私は、この切り口は極めて大事ではないかと思っています。つまりそうなってしまった理由を探ることが大事なのです。

まず、日本の右翼運動の大きな元として、頭山満さん達の玄洋社は重要です。この玄洋社を構成する人たち、特に安川敬一郎さん(安川電機の源流に位置する人)達は、明治七年の佐賀の乱の時、私の故郷の佐賀の峠を福岡側から攻め登ってきました。しかし、我が故郷のほうが上に位置しますから、朝倉弾蔵率いる佐賀軍のために福岡側が負けてしまって引き返したということが『頭山満翁正伝』などに載っています。その後、頭山さん達は、明治一〇年の西南の役に呼応しようとしましたが、在監中のため参加できなかったり、板垣退助を説いて実力行使に出ようとしましたが止められて自由民権運動に舵を切ったり、明治二五年の選挙干渉に協力したりと色々なことがありましたけれども、話はだんだんと大きくなっていってアジアの解放、特に中国の解放の話になっていきました。
このことについて分かりやすく書いた本として、『頭山満と近代日本』という大川周明の書いたものがあります。その中に彼らの肉声と基本的ポリシーが書いてあり、「頭山翁は『南洲先生が生きておられたならば、日支の提携なんぞは問題じゃない。実にアジアの基礎はびくともしないものになって居たに相違ないと思ふと、一にも二にも欧米依存で暮らしてきた昔が情けない』と長嘆したが、其の大西郷は実に下の如く言っていた――『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。それには日本人が日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまわねばならぬ。そしてそれらの人々によって支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ。』大西郷の此の精神を、最も誠実に継承し、また最も熱烈に実行せんとせる者は、実に荒尾精その人である。」というようなわけで、いわば当時、外の民族から制圧されていた中国に対して、これをしっかりさせるためには自分たちも中国人になって、中国の再興をはからなければならないなどという考え方をもっていました。

そんな頭山満と極めて近い関係にあった杉山茂丸(夢野久作の父)にも面白い話があり、例えば、「明治二二年、元玄洋社員来島恒喜が起こした条約改正にからむ大隈重信外相暗殺未遂事件の際、杉山にも嫌疑がかかり裁判所に勾留され、意地悪の検事が『その方よく聞け。この裁判所は他の行政庁と違い、天皇より司法の大権を委任したもうところゆえ、ここで取り扱う法律は明鏡の如きものである。その鏡に写ったその方故、何というても寸芼も仮借することはできぬ』というのに対し、『その明鏡を君の如き根性の曲がった法官が取り扱うから無辜の罪人が幾人もできるのじゃ。君は検事で候というて、言語動作共に傲慢無礼で、総て方角違いのことをいうて人を威嚇するが、一体事実を虚構しても、人を罪に落とせばそれで満足するのか。予は今嫌疑で捕縛された所謂疑問の人であるぞ。それに対して無礼の言語動作は何事であるぞ』と応酬。」更に居丈高な判事に対し、「天皇の名において裁判をする人間がそんなことで良いのか」と一喝(その著書『百魔』 から)。
この人が久作をつれて大宰府・観世音寺に参拝の折、今も陳列されている大黒天を古代の天皇の姿として説明したことは拙著『弁護士の目』に紹介してあります。ついでに『葉隠論考・武士道の諸相』も、よろしければ見てください。

そのような思想、行動傾向の頭山らと、これまた極めて関係が深く、援助も受けたのが宮崎滔天です。彼の三十代までのことを記した『三十三年の夢』は非常に面白い本で、彼が中国(清)の改革派・康有為や革命家・孫文を応援し、特に世界で活動していたために中国では全くと言って良いほど知られていなかった孫文を世に出したという意味で、この本には大きな歴史的意義があります。この本を読んでいると、上記と同様に、「みずから支那人として事に従わんと擬したり」云々とあって、頭山さんと全く同じ発想です。しかし、最終的には恵州の起義に失敗し、滔天は桃中軒雲右衛門に弟子入りして遂には浪花節語り(祭文語り)となり、桃中軒牛右衛門となったというわけです。
このような滔天らを応援した人には、大隈重信や元々彼と極めて近かった犬養毅がいます。大隈は爆弾で片足を失いながらも来島の墓を建てて参拝したとか。つまり、こうした人々は、いわば人間の行動傾向が似ているという意味で同じカテゴリーにくくれると思います。その対極に位置するのが山縣らの長州閥ということになるでしょうか。

ところで、彼らがこのようなアクティブな行動をとったバックないしは基底に何があったのかという事ですが、滔天の述べるところは、「余は侠客を歌わん為に浪花節界に投じたとも言わるるのである。」、「余は日本の武士というものよりも、侠客・男伊達というものに多くの趣味を有していた。」とあるとおり、当時の一般的な武士のイメージではなくて侠客の「義を見てせざる勇なきなり」の発想をもっていたというわけで、ここが極めて大事ではないかと思います。

しかし、こういう考え方は明治時代をもって終わりを告げ、大正から特に昭和になってくるとずいぶん変わってきました。その原因は、明治二二年の大日本帝国憲法という「法治主義」あるいは、もう少し難しい言葉で言うと、法実証主義の時代になると、右翼なり民族主義というものの持っていた、こうした「侠」の発想が矯められてしまった。特に明治憲法は、「国王は悪をなさず(king can do no wrong)」、アジア的に言えば、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」という『古文孝経』の教えに基づくものともいえ、その責任の名宛人は天皇、天皇の責任の名宛人は皇祖皇宗というわけで、きちんと整序され、武人なり官吏は、それを臣道として厳格に守ることが日本の武士的人間の生き方として法的に規定されたのでした。
ですから、昭和七年の五・一五事件において、犬養毅は、いわば「ゆとり」ある「話せばわかる」と述べたのに対し、「問答無用」の扱いになってしまったのだと思います。
さらには、昭和一一年の二・二六事件においては、事を起こした青年将校は、いわゆる皇道派と言われ、仏教(浄土真宗)の門徒であった真崎甚三郎大将らとも親和性を持つ、暖かい心を持つ人々であったにもかかわらず、その行動様式は明治憲法的な統帥権の独立や、君君たらずの発想、つまり、君側の奸を除けば天皇の聖明が一時に現れるという、超純粋的な行動につながったものと思います。

これらを総じて言えば、明治時代の頭山や宮崎らの考え方は、国境を越えた極めて広いものであったにもかかわらず、上記のとおり、明治憲法によって、その基本に日本書紀の神勅が置かれるような方法での法的な整序がなされると共に、「シャープだけれども細い」国家観念ができてしまった。それが、「明治憲法による『右翼』のからめ取り」であり、よその国の為に骨を折るなどということとは全く違うことになってしまったのではないか、そして我が国の近くのあるくにの激派と同一レベルになってしまったのではないかと私は思うのです。
 

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書き換えとかが起こるわけ 
Tuesday, March 20, 2018, 08:58 PM
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またまた随分空いてしまいましたね。
とにかくここ数年の世の動きにはちょっと困ってしまっていて。でも、自分も共同体である人類社会の構成員の1人で、その人類社会の1つの構成単位である「国」の、特に司法という世界から歴史を作る責任を負っている一員としては、こんな世界で一言物申すことも少しは意義があるどころか、本来やらなきゃいけないことのかな、とも思うので、久しぶりに一筆書いてみます。

で、最近の我が国の事象は、1つは法実証主義の喪失に由来するかと思います。
と、門外漢の方にはわけのわからない話ですが、要は、法律というものは本来解釈してはいけないものなのに、解釈を容認推奨する風潮が、大正10年あたりから力を持ち、それが先年の安保法制とやらにも行われ、今般の書き換えにも至った、ということです。

そもそも日本の行政法はドイツからの受け売りですが、その元にはフランスがあります。フランス革命後の現在の国務院、コンセイユデタの創設です。これは、革命勢力が、王党派の裁判所は信用できない、というわけで行政特有の裁判所みたいなものを作った。それは今もパリのセーヌ川の北にしっかりありますが、その文化をアルザスのストラスブール大学で勉強したのがドイツのオットーマイヤーという学者。彼によって、フランス行政法はドイツにわたり、革命勢力のつまり自由と平等の世界の行政法からドイツ皇帝の為の専制的な行政法に180度の展開をした。私がストラスブール大学の法学部に行った時は、そのファザードは正に赤青白の三色旗の色で塗ってあり、本当に感動したものでしたが、その論理を逆転させるとは、人類とは全く面白いことをするものです。
その意味で、ドイツ行政法はとんでもないものではありますが、何しろ皇帝の行政法だし、パラレル?な中国行政法にも「綸言汗の如し」という言葉がある通り、いっぺん出来上がったものを「書き換える」なんて考えられないものだった。汗がいっぺん出たならば引っ込まないのです。

ところが大正中期、「嘘の効用」なるものを言い出した法律家がいる。末広厳太郎さんです。この本が、現在においても名著ということになっているのが、我が国の悲劇だと思います。何年か前に復刻されたその本の帯にも、「名裁判官は嘘つきだ」つまり解釈で良い結果を出せば良い、と書いてあります。

この傾向は、いわゆる自由法学とか利益衡量とかいうような話になって、法律で裁判せずに「公平」というだけの物差しで裁判する傾向を生んだ。そして正に自由にやりたい放題??

こういう話には反対説があるでしょうが、私はそう思っています。
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