Monday, January 14, 2019, 05:52 PM
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坂井三郎さんは佐賀市西与賀町厘外の人で、最初は佐世保の海軍工廠などでの軍艦の整備や砲手の訓練などを経た後、霞ヶ浦海軍航空隊に入り、最終的には零戦のパイロットになりました。零戦の前は九六式艦上戦闘機という零戦によく似た形、ただし風防がなくて足が外に出ている飛行機で中国戦線を戦い、そしてアメリカとの戦争を終戦までやり遂げ、この間64機の撃墜王として有名です。その著書は、世界5か国語以上に翻訳され500万部以上が売られ、各国のエースと交流しました
。
その坂井さんが逝って十数年が経ちました。私が坂井さんのご自宅を訪問し、長時間の談話に及んだことも一再ではありません。
彼は、決して戦争賛美の人間ではありませんでした。零戦の戦いには四つのパターンがあるといいます。相手を撃ち落とすこと、自分が撃ち落とされること、相撃ちになること、そして勝負をつけずに別れることです。
彼が狙ったのは・・・最後のパターンでした。零戦は決して第二次大戦中、一貫した名機ではなく、巴戦が得意などと言って第一のパターンをねらったのでは、命はいくらあっても足りません。次のチャレンジの機会を得ることこそ大切、というわけです。
だから彼は、まず眼を良くすることを心がけ、昼間の星さえ見えるとまで言われました。そして、敵の機影を少しでも早く発見し、スルスルと忍び寄って、背後から襲う。こうして、自分が先任搭乗員(上官)として出撃したとき、部下を一人も死なせたことがない、というのが彼の最大の誇りでした。
日本が行った戦争の中で、上記のとおり九六艦戦、零戦と乗りついだ彼は、米国との戦争は横綱相手の立派な戦争。しかし、中国を相手にしたものは、どうにも説明のつかないものだったと言います。
彼と日本海海戦の話しをすると、それは東郷平八郎連合艦隊司令長官の敵前大回頭の右手の一振りで勝ったのではない。我々の先輩が一発必中の猛訓練をして「当てた」から勝ったのだ、というリアリズムは、観念論に流れがちな最近の風潮に厳しく警告を発するものです。
ところで、私のかつての友人清瀬信次郎先生(衆議院議長・東条英機の弁護人であった清瀬一郎さんのご子息、亜細亜大学名誉教授)は、「海軍というのはね、海を見ているので、段々おかしくなってしまうんですよ」という話をしていましたが、坂井さんも、機械を相手にしている海軍や空軍(彼の場合は海軍航空隊)の問題点を強く意識し、海軍機関学校を始めとするところの教育から生れた人間魚雷や、神風特攻隊、更に、海軍特有のその「身分制度」や新しい飛行機を作ろうとしない発想の貧困、終戦時に海軍将官で自決したのは大西瀧治郎中将だけ、といった様々な問題に対し、厳しく指弾していました。海軍善玉で陸軍悪玉などという俗論とは全く異なります。
『葉隠』についても決して賛美ではなく、『続・大空のサムライ』に、「葉隠に、『武士道とは、死ぬことと見つけたり』という一語があるが、(これは、主君のために、いつでも命を捧げることを武士の本分と教えたその頃の、狭義の支配者中心につくられた道徳のように思われてならない)」と述べておられます。
問題は、坂井さんの上層部への厳しい批判の元、あるいは何故そういう批判の対象たる事象が起きたのか、の根本が大事ではないかと思います。彼は、私に「嘉村孝先生」などと書いた本をくれたぐらいのことですから、彼の論、最終的には国家論をブラッシュアップするのが私達法律家の役割だと思います。
そうしますと、例えば、彼が書いているとおり、アメリカ軍の場合は、搭乗員が不時着した場合には徹底的に調査して救出する、日本の場合にはそれがない。あるいは、米国は、戦争で亡くなった人たちを、東南アジアの墓地においても徹底的に供養しているけれども、日本は記念碑などを建てたときは良いとして、その後は朽ちるまで、いわば捨て置かれ、未だ遺骨収集もなされていない所が沢山ある。私が時々行くテニアン島のようなところは、そこに遺骨があることが分かっていながら(米軍が蒔いた強力な豆が茂っているということはありますけれども)何もしないでほっぽり出すという実情です。
これは、国家は国民を守るもの、という、本来国民が持つべき法的なコンセプト・観念力の弱さ、いわば未熟さに由来することと言わざるを得ないように思います。彼の先任搭乗員としての行動は、そうした残念な日本人の真逆です。しかし、それが日本人の生来の傾向かというと、最近復刻版が出ていて、私もその著書『弁護士の目』に書いた大川周明の『日本二千六百年史』や、先に取り上げた『公民教育研究』にもあるように、日本国家が江戸初期において、一味同心の中世的国家像を失ったことによるのであって、決して日本人生来のものではないと思います。一味同心を言う葉隠の「意義」もそこにあると思っています。
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Thursday, January 3, 2019, 04:04 PM
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昨秋、佐賀で「 葉隠の山本常朝と煎茶の売茶翁 」という題でお話ししました。連休初日に200人もの方々が集まって下さり、少しうれしかったです。
それで、そのさわりを。
最初は、このような題での講演を依頼されて面食らいました。というのも、売茶翁のいわば「元」にあたる黄檗宗に対して、それにぞっこん惚れ込んだのが山本常朝の主君・鍋島光茂の子供である綱茂。それに対して、いわば異を唱えたのが常朝側ということになるからです。しかし結局のところ、常朝さんも売茶翁も、「お茶」という点においては共通性があるということで何とかおさまりをつけた次第です。
さてそのようにおさめるには、やはり世界情勢を見なければいけません。この2人、いずれも世界の変化に対していわば正反対の行動をした方々だからです。
改めて述べるまでもなく、1600年代における日本周辺は正に波騒いでいました。そして、秀吉が行った文禄・慶長の役以降、明の滅亡も預かって数多くの大陸の人々が日本に逃げてきた、あるいは移動してきたという経緯があります。
分かりやすい話、元禄9年(1696年)の長崎の人口は6万4523人であると言われますが、その内約1万人が中国系とのことです。この傾向は佐賀県ももちろん同様であり、特に当時は船が小さかったので、長崎からの文化は大村藩との境の俵坂などを越えて、売茶翁の故郷、蓮池藩の領地である嬉野・塩田を通って塩田津へ。そこから船に乗って筑後川河口に近い蒲田津から佐賀江を通って蓮池、更には市内の今宿、十間掘川と通り、土橋の唐人町、つまり、今の佐賀市の真ん中にまで繋がっていたと言えます。売茶翁の父柴山常名の墓も塩田にあります。つまり、佐賀市は正に世界に開かれていたわけで、このことは、例えばケンペルの「江戸参府旅行日記」に載った地図などからも伺うことができます。上記今宿を仕切っていた明の十三官・武富廉斉の子孫に大隈内閣の武富時敏大蔵大臣などなど正にキラ星の如しです。
こうしたことは物の移動からも明らかで、元は中国からやって来た長崎の逸口香が嬉野、塩田、蓮池そして佐賀にまで存在するということからも、村岡総本舗の村岡安廣様が提唱しておられる「シュガーロード」と軌を一にする「逸口香ロード」があったことは間違いないのではないでしょうか。
それでこの売茶翁という人ですが、こんな国際的影響を強く受けた蓮池で幼少時化霖和尚の弟子になった後京都に登り、隠元禅師の後を継いだ萬福寺第4世の独湛性瑩より偈を授けられたとか。この独湛性瑩は、隠元同様中国からの渡来僧ですが(萬福寺は13代まで全て中国僧。その後も)念仏禅を唱えた人であり、それまでの日本の禅宗とは一風変わっています。これは黄檗禅だけでなく、正に葉隠における排耶僧・鈴木正三なども仁王禅と称して念仏を唱えることを提唱しています。そうした同傾向が葉隠関係者の中に見られるのも、同じ「時代」のなせる業でしょうか。
その後、売茶翁は仙台で約四年間を過ごし、雷山で修業し等々のことを行って、60歳を過ぎてから京都で茶を売ることを始めたのですが、彼が何を考えていたのかを知るには、『売茶翁偈語』を読むことはもちろん、彼の交友関係をしっかりと見てみる必要があるでしょう。
その中には、例えば湛堂慧淑のように鎌倉時代の叡尊の系譜につながる律のお坊さんがいたり、法弟にあたる大潮元皓は荻生徂徠の弟子で、中国語の会話能力に極めて優れていていたこと。その門下には、折衷学派の儒学者・宇野士新(宇野明霞)がいて、折衷学派と言えば、例えば佐賀の隣・博多の貝原益軒などもそれに当りますが、極めて穏当な儒学を唱えているということが思い出されます。葉隠の対極にある神儒一致の山崎闇斎系とは異なるのです。
こうして、売茶翁の交際は永谷宗円(永谷園の祖)や大典顕常、伊藤若冲、池大雅、最終的には木村蒹葭堂などなど、こうした幅の広さが売茶翁の真骨頂と言えるのではないでしょうか。
そして、売茶翁は「儒仏道いずれにもあらず」と述べるように萬福寺を「出た」と言われますが、決して黄檗宗を「捨てた」わけではありません。それは、むしろ黄檗禅の徹底と言ってもよいと思います。
即ち、この「儒仏道いずれにもあらず」で思い出されるのが中国の「虎渓三笑」の故事です。3世紀、中国山西省の廬山・東林寺では、慧遠(佛)、陶淵明(儒)、陸修静(道)の3人が楽しく話しているうち、2人を見送った慧遠が、自らに課した虎渓の橋を渡らないという戒を破ってしまって、虎からウォーと唸って教えてもらい、3人が大笑いしたという話。これは、実は浄土真宗の本山である西本願寺に、お御堂を廬山に見立て、虎渓の庭、虎の間、更には「三笑」を演ずる能舞台があるというしつらえで視覚的に具現化されており、どうも浄土真宗と萬福寺(虎あり)とには極めて強いつながりがあるようです。
かくして、このような幅の広さをもった売茶翁は、まだまだ研究すべきものを含んでいると思いますが、一方の常朝さんの方はどうかと言いますと、こうした新しいものに対して、どちらかというと特に闇斎系武士道に対してマイナス面を見て、中世の「一味同心」の世界に憧れたということが言えるでしょう。
しかし、「一味同心」といえば叡尊がいた西大寺の大茶盛が浮かんできます。つまり茶を飲んでみんなが団結をするということです。葉隠の中にも「茶の湯の心は、眼耳鼻舌身意を清浄ならしめること」といった一節が出てきます。売茶翁はもとより茶です。
やはり、両者了社は禅。神儒一致とは明らかに異なります。
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Friday, June 1, 2018, 10:54 PM
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不当に安く土地が売られた、とかいうと、明治14年の政変のきっかけとなった北海道官有物払い下げ事件を思い出しますし、書類が改竄されたとかいうと、第二次大戦最末期の台湾沖航空戦で、総理大臣自体がめちゃ負けの戦を逆にとって自信満々の記者会見をしていた映像などを思い出し、いつになっても変わらぬ姿よと、思うわけですね。
その意味から、最近、父もその一環に参加したインパール作戦を紐解いてみました。
インパール作戦は、ご承知のとおり昭和19年3月8日に開始されたビルマ(現在のミャンマー)の北西部からインドにかけての戦いです。3万人近い日本の兵士が死にました。
なぜこのような戦争がなされたのかということについて、よく言われるのは、東条英機首相の考え、インド独立の志士チャンドラ・ボースのインド独立への思い、昭和12年7月7日に盧溝橋事件が始まったときの連隊長・牟田口廉也第一五軍軍司令官のいわばリベンジの発想、プラスして言えば、その上官である河辺正三ビルマ方面軍司令官の思い等々です。
確かに、昭和19年(1944年)1月17日にまとめられた帝国議会における東条首相の演説稿を見ますと、「自由インド仮政府首班、ボース氏を大東亜会議に迎え、その席上において、政府はインド独立のため、一階梯として皇軍の占領下にあるアンダマン諸島及びニコバル諸島を近く自由インド仮政府に帰属せしめる用意がある旨を宣明致しました。…さらに、実力をもって、積極的な援助を送るものなることを…。」などとあり。さらに、東条首相は、「転じて欧州の情勢を見まするに、我が盟邦ドイツは幾多の波乱のまっただ中、盤石の構えを敷いて、一路米英の撃砕に邁進致しておるのであります。」云々として、よく言われる通り、このインパールからむしろ北西へ、ドイツへの回廊を確保しようなどという話があったようです。
しかし、今から考えてみますと、同じボースでも中村屋のボースの方が上ではなかったかとか、ドイツは回廊どころか現にスターリングラード攻防戦(1943年2月まで)で破れ、レニングラード包囲戦(1944年1月まで)でも破れる直前で、東条演説は全く実現性のない話であったと言わねばなりません。
そもそも私の父は、インパール作戦開始に先立つ昭和18年(1943年)から、志願して久留米の第一八師団(菊兵団)の一員として北ビルマのフーコン作戦(レド公路の防衛戦。広く言えばこのフーコン作戦や第2次アキャブ作戦もインパール作戦の一部、[防衛庁戦史室『インパール作戦―ビルマの防衛』])に従軍し、毎日毎日敵機の来襲を受け、飢餓とマラリア、白骨街道のただ中、もちろん道路などはまともに通れず、ジャングルの中に開いた伐開路によってかろうじて通行を確保するような実情。夜になると虎の声が真近に聞こえ。航空戦力は全くと言ってよいほど望めない。その様な中で、2,000メートル〜3,000メートルのアラカン山脈を、現代のチンギスハンよろしく牛を連れてインドを目指すなどということはおよそ考えられないことです(兵棋演習に参加された竹田宮大本営参謀宮は「むしろメチャクチャな積極案」と報告)。
現代戦を行うには日本軍自体の元々の発想が余りにも古すぎたと言わねばなりません。日本軍のお手本はドイツということになるかもしれませんが、ドイツではその80年位前にビスマルク、モルトケのコンビにおいて普墺戦争や普仏戦争を戦いました。そのとき確かにモルトケは鉄道を敷いて兵器や物資を輸送し、迅速にオーストリアやフランスとの戦いに勝ちましたが、それを見事に真似して、ビルマ占領とともに、いわゆる「戦場に架ける橋」の泰緬鉄道を作った。しかしすでにその当時から航空関係の司令官は、「そんなものを作ったって爆撃されたら機能しない。自分に飛行機を与えてくれればよほど意味のあることをしてみせる。」と言っていたとおりで、何万人もの死傷者を出したこの鉄道は現在では機能せず結局止まってしまっているという極めて時代遅れのものでした。
それはそれとして、牟田口中将のおかしなことについては、たくさんの本に書かれていますのでここでは省略しますが、ひとつだけ言いますと、当初、メイミョウという日本でいえば軽井沢の様な所で指揮を執っていた牟田口中将も、遂には前線に出てきたまでは良かったものの(ただし、花柳界も一緒)、クンタンに進出した司令部で、「日本軍というのは神兵だ。……それを泣き言を言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ。手がなくなったら足で蹴れ。足がなくなったら歯で噛みついていけ!」との『葉隠』の一節からの訓辞を垂れたとのこと。その頃は、毎日祝詞をあげていたとの話もあるくらいで、本当にまともな状況ではなかったのです。そして結果的には、この作戦だけで上記のとおり3万人近くもの犠牲者を出し、ビルマ防衛を破綻させました。
そこで、問題はこれについての反省です。世の中にある反省本では、もっぱら牟田口中将の神がかりともいうべき行動の異常さを取り上げ、さらには南方軍や参謀本部の責任が全く果たされていなかった云々といったことが言われています。私自身の経験としても、牟田口さんが昭和30年代の終わり、三国一郎さんの「私の昭和史」のテレビ番組に出て来た時、彼の話しを聞いて、まともじゃないことはよく分かっています。しかし、今般、牟田口中将のお孫さんがその資料を開示されたことは、誠に立派なことと言わねばなりません。
しかして、私は彼らへの攻撃だけにとどまってはいけないと思っています。ひとつは大きな国家の仕組みの問題と、事に当たっての精神の問題です。もちろんその前提としての物量の問題もあります。インパールだけでなく、フーコン(「死」の意味)でも火力はもちろん食糧、医薬品の欠乏で上記のとおり白骨街道を現出しました。私自身、後に一八師団が壊滅したメイクテーラの戦場に立ったとき、当日も話に出た2,000両の戦車を相手に匍匐前進も出来ないトゲだらけの沙漠で、対戦車砲もなく戦った将兵のことなど、暗澹たる気持ちになりました。
そもそも、まず制度論においては、「責任なき戦場」云々といっても、明治憲法というもの自体が責任を取る形になっていませんでした。その憲法下においては、天皇は皇祖皇宗に責任を負い、その家来である軍人や官僚は、「天皇陛下及び天皇陛下の政府に対し忠順勤勉を主(ママ)とすべし」といった、「上」への責任の方向が制度であり、政府が国民に責任を負うなどという仕組み自体がそもそも無かったわけです(新渡戸『武士道』が「天や祖先に高き責任感」と言って満足している次第)。
そんな風ですから考えも極めて硬直的なものとなり、天長節(つまり天皇誕生日、今の昭和の日)までにインパールを落とすなどと無意味な期限の目標を立てるなど、これは辻政信参謀がマレー作戦において何とか節までにどこを落とすといった無意味な目標を立てたのと全く同じ誤った手法を取ったのです。こうして、国家の仕組みとそれを前提にしたこのような行動パターンが大いに問題です。しかしそうは言うものの、明治26年、日清戦争に先立って作られた「戦時大本営編成案」においては、「参謀総長は陸海軍の大作戦を計画奏上し、勅裁の後これを陸海軍各独立指揮官に下令するの手続をなす」と書かれていたとおり、大本営がその職責をきちんと果たしていたならば、南方軍やビルマ方面軍をストップできたし、「反射的」にせよ兵士は救われた、ということが最低限言えないでもありません。しかるにそれがなされていなかった。これについては、大正時代以来、法律の文言を軽視する傾向が出てきたことも原因としてあるように私には思われます(それに対して、フーコン入口のミートキーナにおいて、辻政信が強くかかわったと言われる「死守命令」を文字通り守り、800名の部下を脱出させたあと自決した水上源蔵少将こそ正に武人の鑑であり、立派な法律家である、というべきだと思います)。
そして、上記のとおり組織論から出てくる精神の問題が重要で、牟田口中将が祝詞などをあげて「神頼み」をしていたこと、それを誰も止めなかったということ、その根本には明治維新を引き起こした復古神道などという、以前も書いたとおり、そのもとは中国からやってきた儒教思想の亜流、その影響が彼らの頭を意識せずに支配していたということが大きいと私は思っています。
ついでにモルトケとビスマルクとの関係を考えてみると、モルトケが普墺戦争においてウイーンを占領しようとしたのに対し、上位のビスマルクがこれをストップしたということがあります。こういうことについての戦訓は、上記大本営の動かざることをみれば全く生かされておらず、盧溝橋や南京でも同様でした。
その意味から、制度構築論、つまり憲法の作り方と、その構築された行政主体からくり出されるいわば行政作用をなす者の精神において、日本人の組織的な遅れ、精神的な遅れが明らかです。私の懇意にさせていただいている先輩もその執筆者であるところの『失敗の本質』には近頃流行の「忖度」といった言葉まで載っているようなわけで、こうしたことは現在においても変わりがないということでしょう。
そんな訳で、総まとめで言うと、私は牟田口さんだけを悪いとかいうのでは到底足りないと思います。
そして、私共もそれなりの年になり、私たち世代が、あの牟田口さんのテレビを見たなどという貴重な経験をしている最後の生き残りだということも言えますので、大いにそういったものを生かして、より深く考えて現状の打開、つまりは日本のレベルアップに務めなければいけないのではないかと思っています。
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Tuesday, May 8, 2018, 07:35 PM
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過日、香川県のある島に行きました。そこのホテルに9・11の写真があって、その近くに実は皇居前だという松林の写真があったことから、その2つは以下のようなことでつながるんじゃないか、と、説明の方に提言したので、その話を。
一般的な葉隠の本には、冒頭に「漫草」という章があります。これは多分、田代 陣基によって付されたものであり、彼が、宝永7年(1710年)に初めて山本常朝に会いに行った経緯が書かれています。それは、本来、殿様が死んだら追い腹をするのが一般であるのに、1661年の追腹停止令の後は、もし追腹をすると罰則があるので、「そのほどの身を、方袍圓頂にまかせて、在るともなく、なきにはあらぬ影法師」という、つまり死ぬでもなく生きるでもないお坊さんの生活をしている常朝さんという人がいる。その人に会うということは、いわば散り留まった桜の花に会うようなものだ、といったことが書いてあります。ですから私は、「葉隠」という言葉の命名は、西行の「葉隠れに散りとどまりし花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する」、というのでよろしいのじゃないかと思っているのです。漫草の現代訳に関しては、私の『葉隠論考』(創英社)に一応のものが書いてありますが、これが正しいかどうかは分かりません。何しろ、原文自体におかしな所が色々ありますので。
それはそれとして、この漫草の最後は、「所しづかなれば身閑なり。身より心のしづかなるにぞ、松樹槿花の境(さかひ)も、思ひつづけ侍るなり」という文章で締められています。この「松樹槿花の境」とは何かという事なのですが、私の考えとしては、白居易の詩、『白氏文集・巻十五・放言五首』の「松樹千年、終に是れ朽ち、槿花一日、自ら栄を為す」に由来するものと考えます。
この詩は、松の木というものも千年も経てば枯れてしまう、槿の花は一日で落ちてしまうけれども素晴らしい花を咲かせる、何れにしても、長ければ良いというものではないし、短くて悪いものでもない。白居易はそれぞれが自分の最大の特徴を発揮すれば、それでよいのだ、という積極的な意味にとらえているようです。
いずれにせよ、日本では松というとおめでたい木の代表なのですが、アジア諸国では必ずしもそうではなくて、以上のような由来があることから、むしろお墓に植える木であるという伝統もあるようです(銚子のあるお寺のお墓や、韓国の宗廟もそうだった気がします)。そんな訳で、定朝という人が生でもなく死でもないという境地にいるということがこの文章のミソなのですが、その話から発展して、「お墓と武士道が裏表」ということを考えてみましょう。
そこで、お墓とは一体何か、祖先崇拝とは一体どういうことかという事ですが、これはもちろん相当な古い歴史を有するものです。特にアジアにおいては、『孝経』の発想から、身体髪膚を子どもに残してくれた父母に対する「孝」の思想より、祖先を崇拝するということが極めて大切なことになりました。中国や韓国では土地の神や穀物の神を祭る社稷壇。祖先を祭る祖霊殿、宗廟の伝統です。日本は必ずしもはっきりしていないかと思いきや、山崎闇斎らの書いた物の中にもしっかりとそのことが書かれていますし、私がかつて元衆議院議長・清瀬一郎先生のご子息、清瀬信次郎先生のご縁ある方から伊勢神宮の内宮と外宮の関係を指摘され、これは見事に祖霊信仰と農業神とが一致しているという1つの例であることに目が覚めました。祖霊祭祀は伊勢神宮を含めた東アジア共通のものだ、ということでしょう。
そして、平安時代は、そうした考え方が強くて、それが儒教とも結びついて、親の体を傷つけない土葬が多いわけですが、中世の鎌倉時代等々においては火葬も増えて、また、お寺と墓との結びつきについては、むしろお寺の外に墓がある(寺は道場)というのが当たり前であって、現代とは全く異なります。
その様な中、現代風の墓はいつどのようにして出来てきたかを考えますと、これまた明文化の流れによるものだと言ってよいかと思います。この明のお墓文化を取り入れたのは、保科正之であったり水戸黄門らで、それは、会津の松平家墓所や水戸藩の瑞龍山、常盤共有墓地などに明白に現れています。同様の、いわゆる亀趺を配した墓は他の藩にもあります。そしてこのスタイルの墓が、明治以降、特に明治維新の起爆剤ともなった水戸藩の常盤共有墓地の流れから一般庶民にも今の羊羹型が広がってきました。ですから今世間にあるお墓は、実は水戸黄門らによる儒教墓の流れを汲んでいるという事でしょう。そして、武士道も、お墓と同様、中世のそれと近世のそれとがある。近世のそれのバックには、お墓と同様、山崎闇斎らの思想的影響を見ることができる、とまあ大体そんなことになるのではないかと思います。お墓と武士道との関係を書き始めると終わらなくなりますので、今回はこの程度とします。
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Tuesday, March 20, 2018, 09:12 PM
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『右翼運動百年の軌跡』という本があります。この本は立花書房からずいぶん昔に出た本で、私も著者にお会いしたような気がしますが(というのは、本名を明かされていない方です)、その本の中で私にとって一番印象的なのは、第二次大戦前は、鴨緑江がどうしたとか黒龍江がどうなったなどという大きなフレーズの歌が多かったのに、近頃の日本の歌は釧路の夜がどうだったとか新潟がどうした位のご当地ソングになってしまい、とかく日本人全体として考えることが小さくなってしまったのは、いわば慨嘆に堪えないというような記述があった事でした。私は、この切り口は極めて大事ではないかと思っています。つまりそうなってしまった理由を探ることが大事なのです。
まず、日本の右翼運動の大きな元として、頭山満さん達の玄洋社は重要です。この玄洋社を構成する人たち、特に安川敬一郎さん(安川電機の源流に位置する人)達は、明治七年の佐賀の乱の時、私の故郷の佐賀の峠を福岡側から攻め登ってきました。しかし、我が故郷のほうが上に位置しますから、朝倉弾蔵率いる佐賀軍のために福岡側が負けてしまって引き返したということが『頭山満翁正伝』などに載っています。その後、頭山さん達は、明治一〇年の西南の役に呼応しようとしましたが、在監中のため参加できなかったり、板垣退助を説いて実力行使に出ようとしましたが止められて自由民権運動に舵を切ったり、明治二五年の選挙干渉に協力したりと色々なことがありましたけれども、話はだんだんと大きくなっていってアジアの解放、特に中国の解放の話になっていきました。
このことについて分かりやすく書いた本として、『頭山満と近代日本』という大川周明の書いたものがあります。その中に彼らの肉声と基本的ポリシーが書いてあり、「頭山翁は『南洲先生が生きておられたならば、日支の提携なんぞは問題じゃない。実にアジアの基礎はびくともしないものになって居たに相違ないと思ふと、一にも二にも欧米依存で暮らしてきた昔が情けない』と長嘆したが、其の大西郷は実に下の如く言っていた――『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。それには日本人が日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまわねばならぬ。そしてそれらの人々によって支那を立派に道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ。』大西郷の此の精神を、最も誠実に継承し、また最も熱烈に実行せんとせる者は、実に荒尾精その人である。」というようなわけで、いわば当時、外の民族から制圧されていた中国に対して、これをしっかりさせるためには自分たちも中国人になって、中国の再興をはからなければならないなどという考え方をもっていました。
そんな頭山満と極めて近い関係にあった杉山茂丸(夢野久作の父)にも面白い話があり、例えば、「明治二二年、元玄洋社員来島恒喜が起こした条約改正にからむ大隈重信外相暗殺未遂事件の際、杉山にも嫌疑がかかり裁判所に勾留され、意地悪の検事が『その方よく聞け。この裁判所は他の行政庁と違い、天皇より司法の大権を委任したもうところゆえ、ここで取り扱う法律は明鏡の如きものである。その鏡に写ったその方故、何というても寸芼も仮借することはできぬ』というのに対し、『その明鏡を君の如き根性の曲がった法官が取り扱うから無辜の罪人が幾人もできるのじゃ。君は検事で候というて、言語動作共に傲慢無礼で、総て方角違いのことをいうて人を威嚇するが、一体事実を虚構しても、人を罪に落とせばそれで満足するのか。予は今嫌疑で捕縛された所謂疑問の人であるぞ。それに対して無礼の言語動作は何事であるぞ』と応酬。」更に居丈高な判事に対し、「天皇の名において裁判をする人間がそんなことで良いのか」と一喝(その著書『百魔』 から)。
この人が久作をつれて大宰府・観世音寺に参拝の折、今も陳列されている大黒天を古代の天皇の姿として説明したことは拙著『弁護士の目』に紹介してあります。ついでに『葉隠論考・武士道の諸相』も、よろしければ見てください。
そのような思想、行動傾向の頭山らと、これまた極めて関係が深く、援助も受けたのが宮崎滔天です。彼の三十代までのことを記した『三十三年の夢』は非常に面白い本で、彼が中国(清)の改革派・康有為や革命家・孫文を応援し、特に世界で活動していたために中国では全くと言って良いほど知られていなかった孫文を世に出したという意味で、この本には大きな歴史的意義があります。この本を読んでいると、上記と同様に、「みずから支那人として事に従わんと擬したり」云々とあって、頭山さんと全く同じ発想です。しかし、最終的には恵州の起義に失敗し、滔天は桃中軒雲右衛門に弟子入りして遂には浪花節語り(祭文語り)となり、桃中軒牛右衛門となったというわけです。
このような滔天らを応援した人には、大隈重信や元々彼と極めて近かった犬養毅がいます。大隈は爆弾で片足を失いながらも来島の墓を建てて参拝したとか。つまり、こうした人々は、いわば人間の行動傾向が似ているという意味で同じカテゴリーにくくれると思います。その対極に位置するのが山縣らの長州閥ということになるでしょうか。
ところで、彼らがこのようなアクティブな行動をとったバックないしは基底に何があったのかという事ですが、滔天の述べるところは、「余は侠客を歌わん為に浪花節界に投じたとも言わるるのである。」、「余は日本の武士というものよりも、侠客・男伊達というものに多くの趣味を有していた。」とあるとおり、当時の一般的な武士のイメージではなくて侠客の「義を見てせざる勇なきなり」の発想をもっていたというわけで、ここが極めて大事ではないかと思います。
しかし、こういう考え方は明治時代をもって終わりを告げ、大正から特に昭和になってくるとずいぶん変わってきました。その原因は、明治二二年の大日本帝国憲法という「法治主義」あるいは、もう少し難しい言葉で言うと、法実証主義の時代になると、右翼なり民族主義というものの持っていた、こうした「侠」の発想が矯められてしまった。特に明治憲法は、「国王は悪をなさず(king can do no wrong)」、アジア的に言えば、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」という『古文孝経』の教えに基づくものともいえ、その責任の名宛人は天皇、天皇の責任の名宛人は皇祖皇宗というわけで、きちんと整序され、武人なり官吏は、それを臣道として厳格に守ることが日本の武士的人間の生き方として法的に規定されたのでした。
ですから、昭和七年の五・一五事件において、犬養毅は、いわば「ゆとり」ある「話せばわかる」と述べたのに対し、「問答無用」の扱いになってしまったのだと思います。
さらには、昭和一一年の二・二六事件においては、事を起こした青年将校は、いわゆる皇道派と言われ、仏教(浄土真宗)の門徒であった真崎甚三郎大将らとも親和性を持つ、暖かい心を持つ人々であったにもかかわらず、その行動様式は明治憲法的な統帥権の独立や、君君たらずの発想、つまり、君側の奸を除けば天皇の聖明が一時に現れるという、超純粋的な行動につながったものと思います。
これらを総じて言えば、明治時代の頭山や宮崎らの考え方は、国境を越えた極めて広いものであったにもかかわらず、上記のとおり、明治憲法によって、その基本に日本書紀の神勅が置かれるような方法での法的な整序がなされると共に、「シャープだけれども細い」国家観念ができてしまった。それが、「明治憲法による『右翼』のからめ取り」であり、よその国の為に骨を折るなどということとは全く違うことになってしまったのではないか、そして我が国の近くのあるくにの激派と同一レベルになってしまったのではないかと私は思うのです。
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Tuesday, March 20, 2018, 08:58 PM
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またまた随分空いてしまいましたね。
とにかくここ数年の世の動きにはちょっと困ってしまっていて。でも、自分も共同体である人類社会の構成員の1人で、その人類社会の1つの構成単位である「国」の、特に司法という世界から歴史を作る責任を負っている一員としては、こんな世界で一言物申すことも少しは意義があるどころか、本来やらなきゃいけないことのかな、とも思うので、久しぶりに一筆書いてみます。
で、最近の我が国の事象は、1つは法実証主義の喪失に由来するかと思います。
と、門外漢の方にはわけのわからない話ですが、要は、法律というものは本来解釈してはいけないものなのに、解釈を容認推奨する風潮が、大正10年あたりから力を持ち、それが先年の安保法制とやらにも行われ、今般の書き換えにも至った、ということです。
そもそも日本の行政法はドイツからの受け売りですが、その元にはフランスがあります。フランス革命後の現在の国務院、コンセイユデタの創設です。これは、革命勢力が、王党派の裁判所は信用できない、というわけで行政特有の裁判所みたいなものを作った。それは今もパリのセーヌ川の北にしっかりありますが、その文化をアルザスのストラスブール大学で勉強したのがドイツのオットーマイヤーという学者。彼によって、フランス行政法はドイツにわたり、革命勢力のつまり自由と平等の世界の行政法からドイツ皇帝の為の専制的な行政法に180度の展開をした。私がストラスブール大学の法学部に行った時は、そのファザードは正に赤青白の三色旗の色で塗ってあり、本当に感動したものでしたが、その論理を逆転させるとは、人類とは全く面白いことをするものです。
その意味で、ドイツ行政法はとんでもないものではありますが、何しろ皇帝の行政法だし、パラレル?な中国行政法にも「綸言汗の如し」という言葉がある通り、いっぺん出来上がったものを「書き換える」なんて考えられないものだった。汗がいっぺん出たならば引っ込まないのです。
ところが大正中期、「嘘の効用」なるものを言い出した法律家がいる。末広厳太郎さんです。この本が、現在においても名著ということになっているのが、我が国の悲劇だと思います。何年か前に復刻されたその本の帯にも、「名裁判官は嘘つきだ」つまり解釈で良い結果を出せば良い、と書いてあります。
この傾向は、いわゆる自由法学とか利益衡量とかいうような話になって、法律で裁判せずに「公平」というだけの物差しで裁判する傾向を生んだ。そして正に自由にやりたい放題??
こういう話には反対説があるでしょうが、私はそう思っています。
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Tuesday, January 2, 2018, 10:44 PM
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以下に昭和史、明治維新を書いたので、大正を代表する原敬、そして彼の政敵かもしれませんが、その後を継いだ人々の思考を一つ。
まず原敬は盛岡・南部藩に生まれた人で、よく「平民宰相」と言われますが、お兄さんが後を継いだために平民になっただけの話で、いわば家老格の家柄です。私もその実家や、彼の遺言に従って設けられた大慈寺のお墓に参拝したことがあります。まさに遺言通り、シンプルに、ただ原敬の墓とだけ書いてあって、極めて感動的なものでした。彼は、明治8年以来、いわゆる『原敬日記』を残しており、これは歴代総理大臣の愛読書とも言われる貴重な資料であって、これを書くだけでも相当なエネルギーを使ったと思われます。
いずれにしても、彼が、大正7年、藩閥ではない初の純粋政党内閣を組閣したという事は、明治憲法下において極めて意義のあることでした。彼の政治家としてのスタンスは、特に大時代においては、それまでの藩閥政府に対して、山縣有朋らの勢力をそぎ落としつつ、最終的に政友会という政党が政権を担わねばならないように持ってくる、その一種の手練手管は極めてすばらしく、本当の政治家と言えるのではなかろうかと思います。
一方、藩閥政治を取り除くと言う点には一種進歩的なものがあったのですが、例えば普通選挙に関しては、直接国税を10円から3円に下げたことはあるものの、完全な実施には反対でした。そして、大正9年の衆議院解散総選挙は、誰も思ってもいなかった解散・総選挙であり、それを実施することによって議会の絶対多数を握るという、つい最近もそれとそっくりの事例があったように、ポリティシャンとしての原敬のある意味面目躍如で、普通選挙の出足を挫くことに成功しました。そうしたことが原因としてか、東京駅南口において大塚駅の職員により刺殺されてしまったのですが、ただ、この際の麻子夫人の態度も見事で、前の奥さんは相当問題があったようですが、この方は原敬を世界一周の旅に送り出すなど素晴らしい人でした。
一方、原敬の為したことのもう一つは陪審法の成立です。有名な弁護士・花井卓蔵らが、「彼のおかげで陪審法が通った」と言うとおり(ただ、元々、政友会は陪審法の施行に賛成していたのです)彼の力が相当貢献したようです。
で、問題はその先で、彼の死後、護憲三派による普通選挙法の確立(加藤高明内閣)、そして陪審法の施行に合わせて(治安維持法も併せて施行されたわけですが)、この普通選挙や陪審を行うについて、一体どういう事が前提になるかということを考えた人達、彼らについて、私は正に尊敬せざるを得ないのです。
というのは、原敬と同じく岩手県に生まれた(ただし仙台藩の支藩である水沢)後藤新平や、安田善次郎、更には岡實(政治学者の岡義武先生の父上)らの作った、東京市政調査会(日比谷公会堂)、そして、『明治時代に於ける自治制度と公民的教育』という本があります。この本の序で岡は、「明治維新以来、61年を経たるに拘らず、わが同胞は今に個人の独立自尊と社会の共存と連帯条件の観念に乏しく、よしこれあるも、その調和につき適当の理解に達していない。これ果たして、民族的欠陥から来るか、また、歴史的沿革の然らしむる所か。民族が歴史の作者である以上、民族性に責ありといはなければならぬ。而して、この民族性には、かのアングロサクソンの有する多くの資質を、遺憾ながら欠如することを否認し得ないのであるが、これは必ずしも悲しむべきでない。今後の教育如何によって、しかも積極的公民教育によって補填し得ると考える。本研究の筆頭者が、『わが同胞の法治思想は、江戸時代において衰滅させられたのであって、本邦人が、本来これに乏しいのではないと断定し、徳川時代においてさえ、一応はその発現を見、且つ訓練を受けたのであった。』との見解をもっているのは、われ等として大に意を強くせしむるものである。」と述べています。
これは正に昭和26年(1951年)にダグラス・マッカーサーがアメリカに帰った後、「我らアングロサクソンは45歳の年齢に達しているのと比較して、日本人は12歳の少年のようなものです」と述べたことと全く同じとも言え、それを昭和3年に日本人自身が述べているというショッキングな話です。ただしかし、だからといって彼らは日本人が元々ダメだと言うわけではありません。「江戸時代において衰滅せめられたのである」と言っている事が重要です。
その衰減の原因について、この本ではまだまだ深堀りはできていない感じがしますが、それは、私がいつも言うところは国際情勢によるものと思っています。後藤新平と原敬とは最初は良かったものの、特に明治40年代以降になってからは、原敬による後藤の評価は極めて低いものになってしまいました。しかしいずれにしても、彼らは民主主義を担うため(民本主義の時代といわれた大正デモクラシー期においても、例えば美濃部達吉は民主主義の語を用いています)の前提として、国民自体のレベルアップを図らなければならないと考えたこと、そのための日比谷公会堂でもあり、東京市政調査会でもあったということ、こうした前提考えた大正あるいは昭和初期の政策を担う人々は、やはり極めて現実的であり、かつレベルも高かったと言えるのではないかと思います。
今の世の中、政権交替がないのは先の交替の失敗が預かって大です。再び過ちを起こさず、かつ日本が本当にステップアップするために、大正の政治家に学ぶところは大きいと思います。
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Tuesday, January 2, 2018, 06:17 PM
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今年の年賀状は以下のとおりでした。
謹 賀 新 年
明治37年のベルツの日記に云く、
「夜、ドイツ公使館でカルル・アントン殿下のため盛大な饗宴。皇族の宮殿下、妃殿下を始め奉り、日本の文武顕官ことごとく列席。(桂太郎首相は)本職は軍人だが、今夕は将官としてではなく、首相として招待されたので、文官の礼装で出席しているのが目に立つ。これに反して、予備役の士官にすぎないドイツ公使館員が軍装を着用していた。日本側の解釈の方が確かに正しい。」と。
このことを山岡鉄舟の「武士道」に引用した勝部真長先生は、何かと
評判のよくない桂でさえ、文官と武官の区別を厳密にとらえたこの時代に比して、昭和の軍服を着した首相を批判しておられます。そして、このよくない傾向は米国大統領や日本の首相も、いまだひきずり変わっていません。
国の将来において、このことは基本中の基本だと思うのですが。
それにしても勢いだけよくてけじめのない昨今の武士道論。ここをただすことがまずは大切と思います。
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Friday, December 8, 2017, 11:38 PM
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近頃、葉隠の佐賀も明治維新150年とかで色々なイベントを用意されているようです。
明治維新の“維新”とは、『詩経』の「周旧邦と云えど も、其命維(これ)新まる」に由来するとされています。つまり中国の古代国家、殷が周に変わった時、天の命が改まり、それを“維新”と言ったというわけです。いずれにしてもこうした名前がつくと自体、この当時の発想の中には極めて中国的なものがあることが分かります(当時の鎖国体制下の情報源からは当然とも言えますが、そうでもない)。
次に、この明治維新はいったい何時から何時までのことを言うのかという話も大事で、嘉永6年(1853年)のペリー来航は良いとして、終期についてはいくつかの説があり、特に、明治12年の琉球処分を画期とする説があります。これはそれ以前の樺太・千島列島交換条約によって北方の領土が定まり、この琉球処分によって南の領土の範囲が定まったということによるようです。しかし、私はむしろ、その後の明治22年の明治憲法制定まで下らせたほうが良いのではないかと思っております。それは、ウエストファリア条約(1648年)などによっても、国家というものは領土・国民と共に主権がなければいけませんが、その主権が近代法的に定まったのがこの明治憲法においてだからです。
では、次にそのような明治維新の原動力になったものは何か。そのことを端的に述べているのが国権主義の憲法学者穂積八束が法学協会雑誌に書いた帝国憲法の由来を記した論文であり、そこで彼は、水府の史論そして国学の振興を挙げています。私も、彼の全般的な考え方に賛成するかしないかは別として、それが正しい見方ではないかと思っています。すなわち、いつも申し上げるところの水戸の『大日本史』を始めとする発想即ち水府の史論であり、また国学も、特に復古神道がそうであるということになるわけです。そして、これらもいつも言うとおり、いずれも中国文明に由来しているというところがミソです(本居宣長らの先生筋を探索してみてください)。
このような原動力が特に蛤御門の変、長州征伐といった事件が起きて行く中で最終的に幕府の限界が見え、朝廷と江戸の将軍との二元政治から1本に纏めるということになった時、特に火力に勝る薩長土肥の強烈な力が働いて、結局は朝廷政府が出来上がったということでしょう。
そこで次に、そのような中で例えば大隈重信がどんな動きをしていたのかと見てみますと、実際のところ、年上の江藤はまだしも大隈の方は他藩の志士ようにまでは動き回るという事はなかったようですね。そして、大隈重信自身が語ったところを記した『大隈伯昔日譚』にはこんなことが書いてあります。
「私が初めて学問をした時の佐賀藩の学制はこのようなものであったが、更に窮屈な思いをしたのは、佐賀藩特有の国の定めとも云うべき一種の武士道が加えられたからであった。その一種の武士道というのは、今から凡そ200年前に作られた。実に奇妙なもので、その武士道は一巻の書に綴られ、書名を『葉隠』(はがくれ)と云った。その要点は、武士であるなら、佐賀藩のためには唯死を以て尽くせと云うにあった。いかに世界が広くとも、藩の所領が多くとも、佐賀藩より貴重なものは他にないように教えたものである。この奇妙な書は、佐賀藩士凡てが遵奉しなければならないもので、実に神聖にして侵す可からざる経典であった。巻を開くと『釈迦も、孔子も、楠も、信玄も、嘗て一度も鍋島家に奉公した事のない人々であるから崇敬するに足りない』旨を記した一章がある。これだけでもこの本の性質がわかるだろう。なお信玄を釈迦や孔子と一緒にしたのは、その当時信玄がどれだけ武人の人間に尊敬されていたかが明らかである」と。
つまりここで葉隠が出てくるわけです。この大隈重信の述べているところは『葉隠』という書物の中の、特に山本常朝が述べた部分の内、さらに些か極端な部分をピックアップしているわけで、しかし、相当程度当たっていると私は思っております。
一方、その当時、佐賀藩では義祭同盟というものが行われました。これは副島種臣の兄である枝吉神陽が主導して行われたものですが、これも実は葉隠と極めて大きなつながりがあるのであって、1700年ころ、山本常朝の友人である深江深渓という人が、楠木正成と正行、つまり楠公父子の像を現在の佐賀市大和町で祀り始めました。
そして、幕末、現在の佐賀市龍造寺八幡宮の隣に楠公社というものを作って盟約が結ばれたのが、いわば尊王攘夷の人々の集合体・義祭同盟という訳です。バックを仏教に置いた葉隠といっても、常朝らの中にある儒教的なものが大義名分論化してここで勢いを持ったということでしょう。
ちなみに大隈重信は、同じく『大隈伯昔日譚』の中で、正に、維新改革の原動力の1つはいわゆる儒学であり、2番目は国学であり、3番目は神道に属するものであると言っています。この分析は、正にズバリ当たっていると私は思います。
さて、そこで明治維新に至る経緯については、そのような様々な経過があり、また様々な問題点が指摘できるとは思うものの、一旦起こってしまえば、では大君(将軍)から天皇にいわば主権が変わったあと、どのような国家像を目指すべきだったのかという所が一番大事なことではないかと思います。
ここで大隈らの動きをみますと、明治6年の政変、つまり征韓論者の政府退出後、大隈は政府に残りましたが、結局明治14年の政変でその地位を追われ、後の日本は、正にドイツ(というよりもプロシア)の影響が強い国を目指すことになったわけです。
これに対し、放逐された大隈らの一派がどんな政体を考えていたのかを考えてみると、それは、物の本にいわゆる英国流であると書いてあるとおりです。
では更に、その英国流なるものの中身はどんなものなのかと考えてみますと、私は、まとめていえばジェレミー・ベンサムやジョン・スチュワート・ミルらの主張する功利主義(最大多数の最大幸福)の見解だと思っています。なぜそう考えるかというと、現に、明治初年から20年位までにかけては、このベンサムやミルらの書いたものが『自由論』や『自由の権利』などなどたくさん翻訳されました。そして、特に、こうしたことについては大隈重信のブレーンといわれる小野梓らが非常に大きな役割を果たしたようです。そして、このベンサムらの考え方はどういうことかと言うと、これまた中身は極めて複雑ですが、具体的に果たした役割を考えれば、そもそもビクトリア朝のイギリスは、当初経済は発展したものの社会の格差が広がって、底辺に喘ぐ人々は非常に苦しかった。そのことはイギリスの国民的小説家・ディッケンズのいくつもの小説に出てきます。そんな中、例えば学校で言うならばオックスフォードやケンブリッジなどの超エリート校だけではダメなのだと、中間層となるべき人たちをしっかり作る学校が必要だというベンサムらの発想がありその尽力によってロンドンにロンドン大学ができました。現在、ロンドン大学の入り口には最大多数の最大幸福を目指し、自分の遺体も役立ててほしいという遺言に従い、ベンサムのミイラがしっかりと座っておられます(以前は足元に頭のミイラが置いてありましたが、学生が盗んでしまったので、回収して厳重保管)。そして、そのような考え方から数々の社会政策的な施策も施され、イギリスはビクトリア朝の絶頂期を迎えることになりました。
こういう考え方に親和性を持っていた大隈らでしたが、上記のとおり明治14年の政変によって中央を追われ、大隈は早稲田大学を作ることになります。一方、日本は上記のとおり軍事国家ドイツを模範とする国家になっていったのです。
歴史にもしもはないとも言われますが、これからの日本を考えるについても『大隈伯昔日譚』や『大隈候昔日譚』は改めて読む価値があると思いますし、近頃出版された『佐賀学掘戮飽用された大隈の反省文も十分味読 に値します。
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Saturday, November 11, 2017, 09:05 PM
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以下は、いつも言っている話なんですが、全体的には受け入れられていなくて、しかも誤った見解がリード役を果たしているので、いつまでたっても日本人の進歩がない、という見地からここに載せます。
まず、私における昭和史、つまり「私の昭和史」ですが、次のような意見を持っています。これには個人的にも非常に関係が深い真崎甚三郎陸軍大将系の考え方が大きな影響を及ぼしています(未だに、これと真逆の如きことを書いている本があることも知っていますが、何より私自身の経験や、信頼できる人の言に基づくことが大事だと思っています。私よりも若い学者で、実体験のない人が書いた本には問題があるな、と思います)。
まず昭和3年の張作霖の爆殺。そして、それに続く昭和6年の満州事変は、当然ながら昭和の歴史に極めて大きな意義を持っています。そして、この満州事変によって昭和7年に満州国が成立し、さらに熱河作戦によってひとまずの区切りがついたその当時、参謀次長を務めていたのが真崎甚三郎(当時の)中将でした。このとき、日本と中国(国民政府、つまり、今の台湾の政府です)との間に締結されたのが塘沽(タンクウ)停戦協定。簡単に言えば、日本は以後長城線、いわゆる万里の長城を越えた地区である本土には進出しないという協定が成立したのです。
真崎大将や、私が幼稚園生の時、祖父に連れて行かれたその弟真崎勝次海軍少将(元ソ連駐在武官)は、日本の相手はソ連(現ロシア)であると思っていました。ですから、さらにその後、長城線の南に冀東(キトウ)防共自治政府などが成立して様々な問題を起こしたことは間違いありませんが、とりあえずは昭和12年の盧溝橋事件に至るまで一定の平和が保たれました。
こうして昭和6年から昭和20年までが一貫した戦争状態ではなく、その間には中国(国民政府)と戦端を開かない時期があったことは、先日恩師の元仙台高検検事長、公正取引委員より私の事務所に電話をいただいたような次第です。それがどうして盧溝橋事件の発生というようなことになってしまったのかということについて、私は実際のところ、「武士道」が大きな意味を持っていると思っています。
それは昭和11年の2・26事件です。そもそも、この事件は、こうして中国と本格的な事を構えないといった態度であった真崎大将に対し、当時「陸軍の三長官」と言われた、閑院宮殿下、林銑十郎陸軍大臣、真崎教育総監、こうした将官の異動に当たっては三長官の合意が必要とされたのに、真崎大将を除いた二人によって、天皇への特別の上奏がなされ教育総監を罷免。そして、そのバックにいたと言われている永田鉄山軍務局長の相沢三郎陸軍中佐による殺害事件が起きました。更に、その裁判を傍聴し、応援していた青年将校達が満州に送られるということから、青年将校による2・26事件が暴発したというわけです(少々ラフですが、基本は押えたつもり)。
では、このような2・26事件の思想的背景は何かということですが、これには明治維新というものが極めて大きな意義を持っていると思います。そもそも、明治維新の原動力を一言をもって言うならば、穂積八束が述べているとおり水府の史論、つまりの水戸の「大日本史」であり、そのため水戸黄門は明治31年、正一位を追贈されました。それは、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」といった中国由来の孝経(ただし、中国版ではない)の教えであって、大事なことは、ここでの“君”を天皇と考えた事です。その流れは、明治時代を通じて軍人に徹底的に叩き込まれ、君である天皇は「間違いがない」、つまり無謬であること、もし現状がおかしいならば、それは「君側の奸」がそれを為している、それを除けば「聖明」が発揮される、という発想です。
ですから青年将校は自らが取って代わろうとか、誰かを担ぎ上げようとかいった不純な考えは毛頭持たず、純粋に「君側の奸」を排するということでこの事件を起こしたと考えるべきだと私は思っています。現に、池田俊彦少尉の書かれた「生きている2・26」などにも、そうしたことが書かれています。それくらいピュアな存在が青年将校だったのです。この点も大間違いの本が横行していましたが、少しは下火なのかどうか。
しかして、その結果どうなったかというと、事は、彼らの優しい発想とは真逆の方に行ってしまった。つまり、彼らや真崎大将の、事を起こさない、中国本土を攻めないという発想の人たちは全て地位を追われ、逆に事を起こす方の人たちが主導権を持って泥沼の日中戦争に入りました。
これがどうしてまずい行動だったのかが大事です。もちろん様々な人権侵害といった問題もありますが、そのことを措いたとして、こうしたことが起きた背景には、中国という国の実態を把握していなかったことがあります。簡単に言えば、北京と南京との違いです。北京はチベット仏教の都であり、南京は儒教の都です。儒教は正に法的な整合性を追求する発想法であったのに、この戦争によって、法の中枢南京を崩すということで全てがぐちゃぐちゃになってしまったのです。虐殺云々以前の政策の問題です。それによって結果的に現在のような「清」という国のコンセプトにのった中国が出来上がってしまう、つまり「明」ではない、という最大の誤りを犯してしまったのです。
それはそれとして、こういう昭和の流れの中、即ち儒教武士道やもう一つ本当は挙げるべき復古神道の武士道(新渡戸稲造のはこれともいうべき)が支配した時代の中において、真崎大将は葉隠に対して極めて仏教的な観点を持って、そうした文章も書かれていました。そして、西本願寺の大谷光照前々御門主は「現役軍人の間では宗教的には国家神道が主流であり、仏教に関心を持つ者も内省的な浄土真宗よりも積極性の強い日蓮宗の信奉者が多かったが、真崎さんのような方が信仰の点でも軍人仲間の後輩を指導してくださったら、陸軍軍人の思想も猪突猛進型から内省的な謙虚な生き方に変り、国家の将来に対してもわが国の現実を見定め、外国とも協調して平和を重視する方向へ進んだかもしれない。もっとも真崎さんの信仰が深まったのは退役後だと思われ、また陸軍はその後間もなく敗戦によって崩壊したのだから、これは私の夢にすぎない。私は軍人としての真崎さんより、人間としての真崎さんを偲び、その心情を味わうことに大きな意味があると思っている。ご本人もおそらくそれが本望であろう。」と述べておられます。
仏教をバックにした葉隠解説本は僅かなものしか無く、逆に昭和10年代の半ばを過ぎれば、言わば硬直した葉隠教育がなされるようになってきて、中には「水戸葉隠」などという、およそ矛盾した本もあります。それが葉隠を益々「わからない本」にしてしまったかと思います。
いずれにしても、漸く真崎大将の評価は一頃のような悪口だらけから、ずいぶん解消されたものになっているようですが、もう一度考え直してみる必要があるように思います。
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