昭和の歴史の捉え方 
Saturday, November 11, 2017, 09:05 PM
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以下は、いつも言っている話なんですが、全体的には受け入れられていなくて、しかも誤った見解がリード役を果たしているので、いつまでたっても日本人の進歩がない、という見地からここに載せます。

まず、私における昭和史、つまり「私の昭和史」ですが、次のような意見を持っています。これには個人的にも非常に関係が深い真崎甚三郎陸軍大将系の考え方が大きな影響を及ぼしています(未だに、これと真逆の如きことを書いている本があることも知っていますが、何より私自身の経験や、信頼できる人の言に基づくことが大事だと思っています。私よりも若い学者で、実体験のない人が書いた本には問題があるな、と思います)。

まず昭和3年の張作霖の爆殺。そして、それに続く昭和6年の満州事変は、当然ながら昭和の歴史に極めて大きな意義を持っています。そして、この満州事変によって昭和7年に満州国が成立し、さらに熱河作戦によってひとまずの区切りがついたその当時、参謀次長を務めていたのが真崎甚三郎(当時の)中将でした。このとき、日本と中国(国民政府、つまり、今の台湾の政府です)との間に締結されたのが塘沽(タンクウ)停戦協定。簡単に言えば、日本は以後長城線、いわゆる万里の長城を越えた地区である本土には進出しないという協定が成立したのです。

真崎大将や、私が幼稚園生の時、祖父に連れて行かれたその弟真崎勝次海軍少将(元ソ連駐在武官)は、日本の相手はソ連(現ロシア)であると思っていました。ですから、さらにその後、長城線の南に冀東(キトウ)防共自治政府などが成立して様々な問題を起こしたことは間違いありませんが、とりあえずは昭和12年の盧溝橋事件に至るまで一定の平和が保たれました。

こうして昭和6年から昭和20年までが一貫した戦争状態ではなく、その間には中国(国民政府)と戦端を開かない時期があったことは、先日恩師の元仙台高検検事長、公正取引委員より私の事務所に電話をいただいたような次第です。それがどうして盧溝橋事件の発生というようなことになってしまったのかということについて、私は実際のところ、「武士道」が大きな意味を持っていると思っています。

それは昭和11年の2・26事件です。そもそも、この事件は、こうして中国と本格的な事を構えないといった態度であった真崎大将に対し、当時「陸軍の三長官」と言われた、閑院宮殿下、林銑十郎陸軍大臣、真崎教育総監、こうした将官の異動に当たっては三長官の合意が必要とされたのに、真崎大将を除いた二人によって、天皇への特別の上奏がなされ教育総監を罷免。そして、そのバックにいたと言われている永田鉄山軍務局長の相沢三郎陸軍中佐による殺害事件が起きました。更に、その裁判を傍聴し、応援していた青年将校達が満州に送られるということから、青年将校による2・26事件が暴発したというわけです(少々ラフですが、基本は押えたつもり)。

では、このような2・26事件の思想的背景は何かということですが、これには明治維新というものが極めて大きな意義を持っていると思います。そもそも、明治維新の原動力を一言をもって言うならば、穂積八束が述べているとおり水府の史論、つまりの水戸の「大日本史」であり、そのため水戸黄門は明治31年、正一位を追贈されました。それは、「君君たらずとも、臣臣たらざるべからず」といった中国由来の孝経(ただし、中国版ではない)の教えであって、大事なことは、ここでの“君”を天皇と考えた事です。その流れは、明治時代を通じて軍人に徹底的に叩き込まれ、君である天皇は「間違いがない」、つまり無謬であること、もし現状がおかしいならば、それは「君側の奸」がそれを為している、それを除けば「聖明」が発揮される、という発想です。
ですから青年将校は自らが取って代わろうとか、誰かを担ぎ上げようとかいった不純な考えは毛頭持たず、純粋に「君側の奸」を排するということでこの事件を起こしたと考えるべきだと私は思っています。現に、池田俊彦少尉の書かれた「生きている2・26」などにも、そうしたことが書かれています。それくらいピュアな存在が青年将校だったのです。この点も大間違いの本が横行していましたが、少しは下火なのかどうか。

しかして、その結果どうなったかというと、事は、彼らの優しい発想とは真逆の方に行ってしまった。つまり、彼らや真崎大将の、事を起こさない、中国本土を攻めないという発想の人たちは全て地位を追われ、逆に事を起こす方の人たちが主導権を持って泥沼の日中戦争に入りました。

これがどうしてまずい行動だったのかが大事です。もちろん様々な人権侵害といった問題もありますが、そのことを措いたとして、こうしたことが起きた背景には、中国という国の実態を把握していなかったことがあります。簡単に言えば、北京と南京との違いです。北京はチベット仏教の都であり、南京は儒教の都です。儒教は正に法的な整合性を追求する発想法であったのに、この戦争によって、法の中枢南京を崩すということで全てがぐちゃぐちゃになってしまったのです。虐殺云々以前の政策の問題です。それによって結果的に現在のような「清」という国のコンセプトにのった中国が出来上がってしまう、つまり「明」ではない、という最大の誤りを犯してしまったのです。

それはそれとして、こういう昭和の流れの中、即ち儒教武士道やもう一つ本当は挙げるべき復古神道の武士道(新渡戸稲造のはこれともいうべき)が支配した時代の中において、真崎大将は葉隠に対して極めて仏教的な観点を持って、そうした文章も書かれていました。そして、西本願寺の大谷光照前々御門主は「現役軍人の間では宗教的には国家神道が主流であり、仏教に関心を持つ者も内省的な浄土真宗よりも積極性の強い日蓮宗の信奉者が多かったが、真崎さんのような方が信仰の点でも軍人仲間の後輩を指導してくださったら、陸軍軍人の思想も猪突猛進型から内省的な謙虚な生き方に変り、国家の将来に対してもわが国の現実を見定め、外国とも協調して平和を重視する方向へ進んだかもしれない。もっとも真崎さんの信仰が深まったのは退役後だと思われ、また陸軍はその後間もなく敗戦によって崩壊したのだから、これは私の夢にすぎない。私は軍人としての真崎さんより、人間としての真崎さんを偲び、その心情を味わうことに大きな意味があると思っている。ご本人もおそらくそれが本望であろう。」と述べておられます。

仏教をバックにした葉隠解説本は僅かなものしか無く、逆に昭和10年代の半ばを過ぎれば、言わば硬直した葉隠教育がなされるようになってきて、中には「水戸葉隠」などという、およそ矛盾した本もあります。それが葉隠を益々「わからない本」にしてしまったかと思います。

いずれにしても、漸く真崎大将の評価は一頃のような悪口だらけから、ずいぶん解消されたものになっているようですが、もう一度考え直してみる必要があるように思います。

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国の守り方を先人に伺えば 
Tuesday, November 7, 2017, 08:26 PM
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表題の話が、まるで「もぐらたたき」然として行われるので、今年の暑中見舞の文章を一つ

「常山紀談」から。
「権現様(家康)豊太閤に御對面の時、太閤、我所持の道具粟田口吉光の銘の物よりはじめて、天下の宝といふものは集りて候、とて指を折り数へ立申され、さて、御所持の道具秘藏の宝物は何にて候哉、と尋ね申され候に、(権現様)仰せられ候には、我等には左様の物之無く候。但し我等を至極大切に思い入り、火の中水の中へも飛入り、命を塵芥とも存ぜぬ士五百騎所持いたし候。此の士五百餘を召連候へば、日本六十餘州恐しき敵は御座無く候故、此の士どもを至極の宝物と存じ、平生秘藏に存候由御返答ありければ、太閤赤面にて返答なかりけり。」と。これはいわばプラスの宝。

一方、マイナスの宝もあって、「名将言行録」より。
「秀吉西國下向の時、広島城を見て此城地形卑く、要害惡し、水攻にせば忽ち落城すべしと言ふ。毛利輝元之を聞て、(アドヴァイスをした小早川)隆景を恨みけるに、隆景聞て、要害の惡きが毛利家長久の謀なり。其故は毛利家の國多過ぎ候へば後年に至て秀吉の疑もあるべく、此城要害惡くして、籠城成り難しと、秀吉氣遣ひ之なきが卽ち当家安全の基なり。(見分にやってきた黒田)孝高は秀吉の近臣なれば、要害悪き所を見せ置き、心安く思はれ申さん爲めなり、孝高定めて要害悪きとは存ながら、秀吉の爲めを思ひ能しと申べくと推量致せし故、態と孝高に見せたり。若し亦毛利家に不意の変出来籠城に及びなん時は分国の内、何国なりとも要害能き所多く之ある間、広島の城悪くとも事欠け申すこと之なく候、只秀吉より心易く思はれ候が、何より能き城郭にて候と言はれけり。聞く人皆隆景が遠慮に感歎せり。」

当今、こんなプラスの宝やマイナスの宝、つまりは深慮や遠慮の考えを持って「国民を守る」政治家はまことに稀少のような気がします。

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台湾・極ショートステイ 
Wednesday, August 2, 2017, 03:38 PM
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ほんの2週間ほど前、わずか20時間くらいのの滞在で台湾に行ってきました。
夜10時半に台北のホテルにチェックインし、翌朝4時半に目覚めて6時7分の汽車で東台湾に向かいました。お寺の95周年に参加したのです。へたくそな北京語で一席お祝いの言葉を述べさせていただきました。
わずかな滞在の後再び午後1時の汽車に乗って台北へ。汽車の上に6時間近く。教え子とお茶して帰国しました。

こんな短い滞在でしたが、得るところは非常に大きかったと思います。
最近の台湾では歴史について「東アジア史」と言う形で教えるようになると言う話です。日本時代は日本の歴史、国民党政権の時代には中国の歴史しか教えてもらえなかった台湾の人々。ここ10数年でようやく台湾史を習うようになった台湾の人々。まさにアイデンティティーの確立です。

それだけでなく、台湾の東に行くと、よく少数民族の学校に出会います。台東などは当然ですが。少数民族の言葉を大切にし、テレビを見れば少数民族のチャンネル。数々の宗教団体のチャンネルなどが様々な番組を提供しており、正にダイバーシティーそのものが台湾です。
上記のお寺も、実はアメリカで言えばインディアンの保留地内に存在し、色々と複雑な問題があります。そのことに、日本時代の植民政策も関わっているのです。

そういう中で、様々な問題を解決して、今の台湾の人々が、アクティブに動いていることに感動します。

もう1つ、大きな目標の1つであった本の買い込みをしてきました。
なぜ私が本を買い込むかと言うと、まさに言論の自由に裏打ちされた本だからです。例えば歴史の本にしても、大陸の本では話が途中で止まってしまいまう感を否めません。

こういう台湾の行動様式がどこから来たのかというと、決して日本の置き土産ではないと思っています。中国がアヘン戦争以来戦争に負け続け、その後の反省で生まれたものが、国民党政権というものといっしょに台湾に来たという要素が非常に強いのではないかと、今のところ勝手にですが思っています。
そのことは、私といっしょに仕事をしている台湾人も言うところです。

いずれにしても、ダイバーシティーの国台湾、それを私たちはまだまだ研究する必要があるように思います。
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戸籍謄本の話 
Wednesday, July 12, 2017, 11:54 PM
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またまた間が空いちゃって、皆さんにがっかりさせ・・・です。

一筋の糸の白雪富士の嶺に 残るが悲し水無月の空 だったか、太田水穂の歌

新幹線で名古屋に往復し、雪がわずかとなった富士を仰いで、水穂といえば瑞穂も浮かぶ近頃の世相。書くことは山々なれど、ありすぎてダメ。

一昨日会った地方議員さんと武士道談義をして、やっと武士道が分からなきゃ日本の歴史は分からないの意味がわかっていただいて、ちょっと嬉しかったですが。

早い話が、民進党代表が戸籍謄本を出すとかいう話。フランスだったらサルコジ元大統領なんぞすぐ直近がハンガリー、ギリシャの移民だし、要はフランス語を喋ればいい。
日本だって、私が大好きな鎌倉、中世は男衾三郎絵詞にもあるとおり正に西洋人のような侍も出て来る。

サムライ侍と騒いで、狭い視野と、日本イズナンバーワンみたいなまるっきり何もわかっていない上に暖かい心を欠いた御仁には困ったものです。昨日も韓国人のご同業と話していたらヘイトスピーチのことをやっているそうで、正に武士道にもとるよ、と言いました。

そう言えば、何年か前にソウルの忠武路のシネコンで観た「風のファイター」大山倍達さんの
映画の方がバッチリ武士道的でした。ああいう落ち着いた人間が増える我が国じゃなきゃレベル低下で本当に困りますね。
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歴史と論理と 
Sunday, June 18, 2017, 11:28 PM
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まあ、とにかく歴史に学ぶことは大切で、また、論理的にものを考えるということも大切ですよね。前者は、法律で言えば歴史法的で、後者は自然法的と言えるかもしれません。歴史は経験。論理は道理という自然法則的なものですから。法律の考えにもこの二派というか、存在形態があります。

で、共謀罪云々なんていう話も、吉田茂も捕まっちゃったんだよ、という話から、正に歴史的にわかりそうなものです。あるいは、台湾の戦後、戒厳令期のことを知ればわかるはずですけれど、何しろ平和ボケなのでピンとこないんでしょうね。実は日本のつい何十年か前、あるいは1987年までの台湾が恐ろしい世界であったのに。

後者でいうと、近代刑法の保障機能を前提とした議論がどうも聞こえてこなかったですね。少なくともテレビマスコミでは。やっと昨日あたり、ちょっとありましたけど。
近代刑法は、自由の保障ということが前提になっています。なんていうと、何だって、刑法は罪人を罰する法律に決まってるじゃないか、的な声も聞こえそうですが、それじゃ19世紀以前か、そういう人が大好き?な、中国酷刑の世界になっちゃいますよ。
で、そういうわけで、刑法は、一定の行為をやらない限り人間は自由である、という保障のための法律です。
そのために、実行行為という典型的な行為を罰する。しかし、重大な犯罪については、実行行為以前の予備も罰する、中にはごく一部、共謀が罰せられる場合もある、ということになっています。そして実行行為を共同で行えば共同正犯ですが、予備にはどうか、過失にはどうか・・・と共犯論の複雑な議論がある。しかしテレビを見た限りでは、末梢の話ばかりで骨太の基本的な議論が聞こえてこなかった。

ある意味当たり前で、昔民法や刑法を作った時には美濃部達吉さんみたいな超のつく一流の学者が、貴族院議員として議論をしていた、先年の会社法改正の折も、大臣が、ここに至る前に立派な先生方に何とか審議会で議論していただいているので、国会ではもう結構、みたいな本末転倒を答えていましたが、それをおかしいと思わない国民は、本当に異常です。
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実体験を踏まえて 
Sunday, May 28, 2017, 08:07 PM
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貫達人先生の「鶴ヶ丘八幡宮寺」をちょっと読んでみました。新書なのに、今では古本屋さんで3,000円近くもすると言うことを知って驚きました。
明治になるまで、鶴ヶ丘は「八幡宮寺」であって、僧もいたし何重の塔もあったしは、ちょっと勉強した人はわかりますよね。八幡信仰については、中野幡能先生の本に詳しいです。

で、貫先生があとがきに書かれていることがちょっと面白くて、それは自分ももう相当な歳になったので、ある程度言いたいことを書く、というようなことのようです。

今、この「表現の自由」と言うことを最も深く考えています。
私は中国に何十回も行き、相当な量の歴史の本を買ってきたのですが、どうもしっくりしない。もちろん昔のマルクスレーニン主義時代のものでは話にもなりませんが今のものでも、どうもいまいちです。それで、アメリカの友人が中国の大学に留学して法律を勉強した話を思い出しました。先生の長い授業の最後、結局、我が国あるいは中華民族は世界最高!みたいな話でまとめられて、ありゃま、という感じだったそうです。それじゃ学問になりません。

一方、台湾で買ってきた「中国の歴史」の本はまさにバッチリです。相当ディープです。言論の自由が日本よりはるかに高いレベルで存在すると言われる台湾の本がそれだけ内容のあるものであると言うことです。
そして私の専門とでも言うべき司法の分野でも台湾には日本がお手本にしなければならない素晴らしい要素が多々あるのです。こうして言論の自由のある国とない国との違い、あるいは日本と台湾との違いを考えると、言論の自由がいかに素晴らしいもので、それが社会を進歩させるのだ、ということをひしひしと覚えるのです。

ちなみに、ではそういう台湾の「バッチリ」がどこからきたか。これが問題です。私は日本の置き土産とかじゃないと思っています。むしろ、近代中国からのものです。中国がアヘン戦争で負けて以来の深刻な反省が海を渡ってやってきたのではないか。そう思います。

ところで貫達人先生の話の続き、私もすでに65歳を過ぎてみれば、言論の自由を使ってもっと色々なことを後世に、いや現世に伝えるべきじゃないかな、なんて思ってきました。50年どころか60年前より前の様々なことを知っていますし。それは経験に近いものでもありますし。

祖父は日清戦争の年に生まれ、その10年後の日露戦争のお祝いをやったときの話。台湾や福建省時代の生活、そして帰国してからの産業組合活動、それに伴う国民精神総動員運動、大政翼賛会の運動。これらはまさに生きた歴史であるとともに、戦後生まれの私でも、そうしたことから真崎甚三郎大将のご長男(昭和天皇の通訳)や勝治少将との面会、交流がありました。もう1人の祖父は第一次世界大戦の青島攻略戦に参加。父は志願してビルマ、現在のミャンマーのの最北フーコン渓谷の戦闘に参加し、技術部であったがために東京への転属を命ぜられ南シナ海で潜水艦の攻撃を見て受けて18時間近く漂流、これまた貴重な経験です。

こうして昭和の歴史に関わったことから必然的に二・二六事件の青年将校の生き残りあるいは遺族の方々との出会い、更には零戦の撃墜王坂井三郎さん・世界で500万部の本を売ったエースとの交流。ついでに真珠湾の千早正隆参謀。そして東條英樹とぶつかった辰巳栄一中将。などなどあげただけでも今の若い人達から考えると得難い経験を相当してきたので、ここでそういうことをある程度以上喋ることも極めて大事な時期になったのかなと思うのです。
それと言うのも現在の国会などの議論があまりにもお粗末すぎますし、ちょうのつく薄っぺらな観念論で、しかも、国家を動かす機能的な発想に欠けているからです。

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教育勅語は日本のものか。 
Saturday, May 6, 2017, 12:04 AM
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近頃の議論を聞いて思うのは、日本の寺子屋教育の強烈さと、そのバックにある中国・明の文化です。

そもそも寺子屋は、室町時代の文明あたりから始まっているようですが、それが爆発的に増えたのはやはり江戸時代に入ってからで、特に元禄あたりに相当沢山の寺子屋が出来たようです。それは絵などで見えますので、ここでは省略します。

そこで、問題はその教材なのですが、武士道との関係で特に取り上げたいのが『六諭衍義大意』です。まず「六諭」とは1368年に元を北方に追いやって明国を開いた明の太祖朱元璋が作ったものです。諭は軍人直喩の諭。その内容は「孝順父母(父母に孝順なれ)」「尊敬長上(長上を尊敬せよ)」「和睦郷里(郷里は和睦せよ)」「教訓子孫(子孫を教訓せよ)」「各安生理(各生理に安んぜよ)」「母作非為(非為をなすなかれ)」というものです。これ自体は、ある意味当り前(的)なことが書いてあるのですが、その中国において出来上がったものが、その後、特に日本との関係でどういうことになったのかが大事です。

1663年に、現在の沖縄県那覇市の久米村で生まれた程順則という人は、5回中国に留学し、1708年つまり葉隠が出来る少し前に中国の北京から琉球にこれを持ち帰りました。今も北京には、沖縄留学生の寄宿舎が残されています。その時持ち帰ったものは清の康熙帝が范鋐に命じて「六諭」をいわば膨らませてその趣旨を詳しくした「六諭衍義」というものでした。この「六諭衍義」は、薩摩の島津氏を経て8代将軍吉宗に献上されました。そして吉宗は、これまた結構ということで、家来である「駿台雑話」で有名な室鳩巣に命じて『六諭衍義大意』とし、更にそれに様々な付録が付いて、分厚い本となり、これが特に寺子屋の教科書に用いられたわけです。その基本となる考え方は「孝順父母」であり、この我々の体は父母からうけたものであって、正に父母そのものの体である。その父母の恩は山よりも高く海よりも深い。親孝行をしなければならない、というところから始まり、上記のとおり、長上を敬えとか、様々ないわゆる「良いこと」の教えが書いてあるわけです。

なお、同時に寺子屋で使用されたものには「慶安の御触書」というものがあって、慶安の家光のころ出来たかについては様々な説があって、最近は偽書だ云々といった議論がありますが、いずれにしても、特に徳川末期においてはこの御触書も含めたものが日本の寺子屋で大いに用いられ我々の「頭を作った」ことは間違いありません。

そして、この2つの「教科書」は、明治維新後もまだまだ命脈を保ち、正に国定教科書の修身、青砥藤綱の話や静御前の話、鉄眼一切経の話など、そのものの中身になっているわけです。更には「夫婦相和す」の話しは正に教育勅語の中の文言と全く同じです。ちなみに、私の実家には教育勅語が全文漢文で床の間にかけてあるわけで、教育勅語というのも、元をただせばこの中国の「六諭」ないしは「衍義」に行き着くというわけです。

そして、もう少し時代を大掴みにして捉えてみますと、このような教育が行われ始めたのは、正に享保年間、吉宗の時代あるいはその少し前からということになり、私の言っている明文化の移入の一環といっても良いものです。つまり士道としての武士道と同じであり、中世的な日本のオリジナリティを発揮した武士道の仲間ではありません。

私としては、輸入品だろうと何だろうと、良いものは良い主義ではありますが、あまりにも単純と言えば単純です。逆にこのような儒教つまり朱子学を精緻に極めていった朝鮮儒教の場合は、数学的な度合がはるかに強くなって、一言で言えばそれほど「甘く」はないということにもなります。朝鮮儒教は、いわば儒教のファンダメンタリズムということになるでしょう。

しかしそもそも、こうして親孝行!を強調したとして、その親が孝行に値しないとどうなるか?これについても答えは用意してあって、それでも従えということになる(古文孝経)。この古文孝経は中国には無くなって、日本にだけある、と喜んでいる人もいる。

でも現実には葛藤があって、正に歌舞伎の題材にいっぱい。

なんてことをやっている日本の?文化は、実にところ本当の日本かどうかもわからないし、そもそもが親と子という二元論から出発しているので、世界の哲学?からは正に少数派。二元論を突き詰めるだけ突き詰めた上記朝鮮儒教も、私には技術ではあっても哲学とは言えないと思っています。同じ儒教でも、陽明学のような一元論に克服される所以です。

何はともあれ、日本大好きで、昔の私のように「豊葦原の瑞穂の・・・」と言っている人間が、実は中国由来を奉っているなんていうおかしさは、正に卒業しなければ、この国は浮ばれません。
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お久しぶりといい加減にしてくれと 
Tuesday, April 4, 2017, 11:20 AM
このところ止まってるね、という声をよく聞きます。確かに一ヶ月以上書き込みなし。

というのは、書くことがないわけじゃなくて、ありすぎるからです。それもマイナスの事柄が多すぎで。国の内外を問わず余りにもひどい。
この酷さの根本を言えば、いつも書く通りみんな「物語」に酔っているということでしょう。

アメリカで言えば、その人工国家的要素を極度に打ち出して、無理やりパワーで企業を国内に閉じ込めようなどとするトランプ政権。日本で言えば、無理やりお金バラマキで株価を上げようとあくせくしている政権。いよいよ限界と思いきや、今度は教育勅語とかを持ち出して、益々中国古代に回帰しようとする滑稽さ。いつも書く通り、教育勅語は全部漢文に直せるのであり、我が家にもそれがあります。勅語は軍人勅諭とセットで、明の朱元璋の六諭などの大きな影響を受けている。
それを、元祖民族派??の私は子供の時から丸暗記していたものでしたが、成長し、本を読み、外国を見てみれば、全然国粋的でもなければ民族的でもないことがはっきりわかった。
逆に言えば、真の民族派はそんなもんじゃない、ということがわかった。

ところが、お勉強が足りなかったり、遠大な思考に欠けた多くの保守を標榜する政治家らが、これを道徳の教材にするとかなんとか。

「夫婦相和し、朋友相信し」とかがいい、なんて言ったって、時には喧嘩もするのがその関係で、わざわざ上から言われる話でもない。しかも一旦緩急あれば云々で天壌無窮の皇運を扶翼すべし、はつまりは陛下1人のために死ねということなのに、これを国と置き換え、論理を突き詰めない。ルイ14世の「朕は国家なり」の意味が全くわかっていない。
こうなるので、憲法の話にしてもゆるゆるで、まともな議論になっていない。

要は、2・26の青年将校のような研ぎ澄ました論理も法の運用も知らない。この原因には大正時代のいわゆる自由法学の悪影響もあるかと思います。

その昔、ローマ帝国の滅亡と法の解釈の関係を言われた先生がいましたが、正にそういう大きな歴史の流れも感じるものです。

それにしても、自衛隊の最高指揮官がお化粧につけまつげにイヤリング?耳飾り?ちなみに、旧軍隊ではベルトなんぞと言わず革帯(かわおび)と言った。ふざけるな、と言いたくなります。
私に近い経験だけでも、ビルマの果てのジャングルどころか飢えと渇きの行軍にフラフラになり、毎日毎日機銃掃射を受けて行軍。そういう戦争の実態を全く知らず、A級戦犯合祀の意味もさっぱりわからずに、なんとかの誠を捧げるとか、綺麗事、物語の発想もいい加減にしてもらわなければ、第一線の自衛官は、命をかける基本的ポリシーを毀損され、たまったものではありません。

今からでも遅くはない。亡くなった兵士の遺骨収容に、ミャンマーのアラカン山脈でもニューギニアでもよいから行って、かつ、戦史をしっかり読んでから大臣になれ、と言いたい。
そこいらへんのハウツー本みたいな戦争ものは百害あって一利なし。

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アメリカの最近雑感 
Monday, February 13, 2017, 07:15 PM
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トランプ氏の大統領就任で、予測可能性がなくなった、ということが言われます。
これは、法律の不完全な中国などへの批判としてよく言われていましたし、逆に、きちんとした法律を作ることで、予測可能性が確立し、資本主義が発達したのだ、などと言われてきました。
その予測可能性が立たなくなっているということはアメリカが中国の逆方向だということです。
もっとも、それがアメリカだけかというと、日本もとっくの昔にそうなっていますし、フィリピンもそうでしょう。法というものの尊厳(というよりも、国家の仕組みとして絶対に守らなければならない国家の本質)と、具体的妥当性がこんがらがってめちゃめちゃです。

一方、アメリカでは大統領令が乱発。実はこれも、日本の旧憲法には、天皇に、今の2つの政令以外に帝国議会から一応独立した勅令、つまり今で言えば政令制定権があって、2・26事件後の暗黒裁判も正にそれで行われ、ついには戦争開始、ということになったのに、我が身に引き当てて考える事ができず、どころか、憲法改正で復活させようなんて、全く無反省の日本人は困ったものです。

再び一方のアメリカ。マティス国防長官はやっぱり大したものでした。要は実戦経験のない人間の評価はダメ。彼がインタビューに答えた英語はきちんとした話であって、殺人が好きなどというものではないように思います。要は「白刃の雨は好かないけれど、許せ世のため人のため」という、昔の隠密剣士みたいな話。

保守系と言われる最高裁判事候補は相当程度まともそうに見えましたが、最後の言葉として「勇気が必要」はちょっといただけないか。わたしがいつもいうように、勇気がなくても責任感があればよい。大統領の判事への批判発言を聞いて「裁判官の士気を削ぐ」と批判したのは、批判は良いとして、正にその勇気が必要の裏返し。
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戦国武将の実の発想 
Tuesday, January 3, 2017, 06:11 PM
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今年の年賀状は以下のようなものでした。

謹 賀 新 年

 初詣で、「実(じつ)の心起こり候様に祈るなり」と言った鍋島直茂は、自身のお墓について以下のとおり計画を立てました(お正月早々・・・ではありますが、何かの参考になるかもと)。

「日峯様御遺言に任せ・・・宗智寺御草創これあり候。此所に寺院御取立て、御遺骸御納まり成さるべく、兼て思召られ候御賢慮の儀は、此の以後若し乱世にも相成り候はば、他國より必ず佐嘉へ人数を差向くべき事ある時に、北山筋の儀至つて大切の儀と思召され候。右の所へ御遺骸御納まり御座成され候はば、御家中の者共定めて敵の馬の蹄には懸け申すまじと覚悟致すべく候。多布施より内に敵を入れ立て申さず候はば、佐嘉は持ち堪へ申すべしとの御賢慮にて候由。」

 つまり、後年の大名のように大きな墓を志向したのではなく、小さくてもよいからそれを敵の方へ向けておきなさい、という考え。これはフリードリヒ大王などに通じる機能的な考え方であり、オリンピックその他、何かと「大きなもの」を喜ぶ昨今、先人のこんな発想に大いに学ぶべきではないかと思われます。

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