「湾生回家」を観て 
Saturday, November 19, 2016, 10:52 PM
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知り合い、関係者が何人も登場する「湾生回家」という映画を観てきました。戦前の台湾生まれの人を「湾生」と言いますが、その方々が家に帰る、つまり、生まれ故郷の台湾に帰るという話です。

概ね予想通りの内容で良かったのですが(というか、台湾では大ブレイク)、最も感動的だったのは、普通の湾生で台湾に帰った人ではなくて、父がわからず、母がその娘さんを台湾に置いて日本に帰り、その娘さん(といっても今は寝たきりの老人)の孫らが孫にとってはおばあちゃんの墓や関係者を探し、最後は供養を行う、というケースです。

私の身内にも引揚者はいますから、それが大変であることはわかりますが、置き去りにあった人こそ最もかわいそうです。そして、上記のような実情にあることを考えると、戦争は、最も弱い人に、最も厳しく影響することが明らかです。

実は私も、台湾に残されたある女性から、祖先探しを頼まれました。しかし余りにも縁がなさすぎて止まっています。その方は、正に天涯孤独。自分がどこのどういう出自なのかわかりません。

その昔ある医師が、闇に葬られてしまう赤ちゃんを救って他人の実子として届けることが、生命は救うものの一切のアイデンティティを欠いた人を作り出すことの罪が問題になったことがありましたが、正に国家によって、そういう人が大量に作られるのが政治であり、戦争であることを踏まえる必要があります。

いくら家族と喧嘩している人でも、自分がどこのどういう人間であるかわからない、という孤独感は、考えただけでも重すぎるものです。


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246沿いの源頼朝ゆかりの地名 
Thursday, November 17, 2016, 11:50 PM
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夜中の246をタクシーで帰宅中、最近、この246沿いのもう1つの頼朝ゆかりの地を発見したことを思い出しました。
渋谷から國學院大学を抜けた先にある常盤松です。義経の母・常盤御前に因むとか色々のようですが、伝説とはいえ絶対無視もできないかと。

246のずっと先には本来の渋谷一族の、小田急の駅でいえば高座渋谷があり、川崎に来ると頼朝が渡ったという土橋。世田谷に入って上馬、下馬。更に猿楽を催したという猿楽町。そして渋谷。金王神社。更には常盤松です。みんな奥州を攻めた頼朝ゆかりの地名。

面白いな、と思います。
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アジアも負けずに考えるべし 
Thursday, November 10, 2016, 11:39 PM
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一方、下のようなことを書くと、アジアには独自の価値観があるんだ、というような声も聞こえてきそうです。むしろ、日本にはということでしょうか。

しかしまあ、この頃流行りのやたら日本でははちょっと視野が狭すぎですので、私はアジアで考えるとして、それは一言で言えば論語などの徳目ということになるでしょう。
この論語の更なる元は周公の考えとか孝經の教えということになりますが、政治理念としては、まさに「よらしむべし、知らしむべからず」つまり為政者がしっかりとした政治をおこない、民はその中身に口を挟んではダメというあり方です(もっとも、こんな発想の本家中国でも王陽明「伝習録」などはちょっと違っていて、大いに参考にすべし、かと思いますが)。

でも、これでは「自治」が果たせません。今の日本の西にある大国・中国をはじめ、その南のベトナムやラオスも実はこのスタイルなのです。ベトナムやラオスには選挙はありません。正に一党独裁の国であることを忘れている人も多いでしょう。そして、うっかりすると日本もそうなりそうどころか一部なっているのです。

ここのところに気づき、これを超出しなければ我が国民は近代西欧や米国に追いつけないはずなのですが、その本家のはずのアメリカがこういうことでは、やっぱり色々大変ですよね、人類は。ということになるのではないでしょうか。
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大統領選挙が終わって 
Thursday, November 10, 2016, 11:02 AM
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アメリカの大統領選挙が終わりましたね。
この結果は、世界的な傾向の一顕然と考えるべきかと思いますが、それはそれとして、その昔、米国議会に行った時、読んだ本を思い出します。

その本には、「物語が歴史であるという考えがあるが、それは歴史ではない。ここで作る法律のなかに歴史がある」という趣旨のことが書いてありました。
アメリカには、いや世界に、お話が歴史であると考える人々がいます。だから、リンカーンが丸太小屋で大きくなった、なんていう話もあるわけです。それをそっくり真似しているのが日本の北の半島にある国です。

しかし、その本は、それは歴史ではないというのです。
むしろ、西部開拓のために作られた法律の中にこそ西に向かう幌馬車がイメージされる、というようなことだったかと思いますが、より進んで、法律という論理の連鎖、その機能的な動きの中に歴史があるというべきでしょう。
陪審制度がアメリカの歴史を作ったと言われるのもそれでしょう。

そして、こうした発想の基礎をなすのは、近代合理主義です。デカルト、スピノザといった人々の合理主義がスピノザに見られる民主的国家像を導いた事はこの博物館に書きました。
以後約四百年、この合理主義の発展としての今の民主政治があり、その形成の前提には、宗教改革、30年戦争、スペイン継承戦争といった数々の戦争もあって、プロテスタントの成立、政教分離といった観念もできてきました。
その意味で、この1600年代は日本にとっても世界にとっても大切です。

しかしてここにきて、この400年への巨大な挑戦が行われつつあります。それが、現象として現れているポピュリズムであり、基底にある法の無視と結果的妥当性の追求、でしょう。この後者については、相当な学者でもそれを否定しません。

もちろん、日本も例外ではなく、この傾向を元へ戻す事は、相手がポピュリズムというわかりやすい??ものだけに厄介です。
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ミャンマーとアジア諸国 
Friday, November 4, 2016, 01:06 PM
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アウン・サン・スー・チー氏の来日で、都内は厳戒態勢でした。

随分昔、ヤンゴン(ラングーン)のスーチーさんのお家の前を車で通ったことがありますが、2つの大きな遮断機が設置してあって、友人は、絶対に家の方を見ないように、と私に指示しました。もし、そちらを向いたら、2つの遮断機が直ちに降りて挟まってしますのです。その家は正に豪邸であり、そのことだけはわかりました。

彼女の父上はアウンサン(むしろヲンサン)と呼ばれた将軍で、その廟にも行きましたが(大きな事件で有名です)、日本軍に協力し、最後は逆になり、更には暗殺されました。親子揃って近代ビルマ(ミャンマー)の歴史そのもののような人たちです。

で、このビルマ人、正に日本人とそっくりの人が多くて、街中で声をかけたくなった経験が何度もあります。北のモンゴル族が東に移動して日本人となり、南に下ってビルマ族となった、という説も十分理由ありそうだ、と思われてきます。

面白いのは、こうした中国周辺民族にはいずれもファミリーネームがないことです。ですから、アウン・サン・スー・チーと・が入っていますが、実は1つの名前です。古くを辿ればモンゴル、満州、朝鮮、そして日本も、少なくとも今のような苗字はなかった。台湾の原住民族しかり。
韓国の最も古い本、「三国史記」や「三国遺事」を読めば、王様はチンギスハンと同じくハンと称していて苗字なし。
日本の天皇家も同じ。

なのに、今の韓国は特に苗字にこだわり、日本もそれに次ぎます。要は古い中国文化にどっぷり浸かり、本家?がびっくりするような状況にある。同じような現象は世界にあるでしょうが、その辺りは一度反省してみて良いのではないか。

韓国の今回の事件も本質にはそういうものがあるのではないか。
と、つくづく思うのです
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今の世に生かしたい本当の武士の発想 
Sunday, October 30, 2016, 03:55 PM
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色々と面倒な世の中、少し古いですが、今年の残暑見舞いを貼ります。

残暑御見舞申し上げます。

「常山紀談」から。
「明の鄭氏援兵を乞ふ事並びに稲葉正勝諫言の事

 大猷院殿(徳川家光)の御時、國姓爺日本に援兵を乞ければ、諸長臣を御前に召し出だされ、是を捨置れなば日本の恥なり。援兵をつかはさるべき旨仰せられしに、小事たらざる故に各ゝとかくを申出かねられし処に、稲葉丹後守正勝、援兵の事然るべからざる旨再三申されければ、(家光)色を変じ内に入らせ給ひけり。明日又召出され、昨日申せし処思召にかなはざりしが、つぐづく御思慮有りしに、申す所理なり。援兵に及ぶまじき由仰せ出だされたり。」

 唐王を擁した鄭成功らだけでなく、魯王とかかわった朱舜水も、日本に対し再三の乞師をなしました。しかし、南にいた明朝の遺臣を救おうとなれば、北方の清からの攻撃もあり得たことでしょう。北に兵を出しても正面の衝突。南北に長い日本、稲葉正勝の慧眼が日本を救った、といえるのかもしれません。今の世にもほしい真の国際性と考えます。

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三笠宮様の薨去 
Friday, October 28, 2016, 11:09 PM
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三笠宮崇仁親王殿下が薨去されたことはもとより残念でなりません。
殿下が書かれた『古代オリエント史と私』は色々なことを考えさせてくれました。何より、南京など中国大陸に軍人として行かれ、一億火の玉的な宣伝と現実との差をしっかりと認識され、皇室のあり方にもきちんとした筋を通される発言をされました。

思い出すのは応仁の乱の立役者・山名宗全の「向後(きょうこう)は例という字を忘れ、時という文字にお心得あるべし」です。先例よりも今の実質を大切にする生き方は、戦国武将と同様です。彼は、「公家はそれを忘れ、武家に天下奪われ媚をなす」とまで言いますが、現地での軍人経験を有された殿下は、正に公家ではなく武家でした。

上記の通り中近東の歴史や遺跡に造詣深く、トルコのカマンカレホユックには三笠宮記念公園や博物館もあり、私も伺ったことがあります。そして、その遺跡のあり方は、現代を分析するについても極めて大きな示唆を与えてくれます。
丸くて大きなテペと呼ばれるそれは、中近東のあちこちにあり、何千年もの重層的な遺跡です。

そして、そういう重層的な遺跡は何も中近東にだけあるのではなく、実は我々の足下にあるということに気づかせてくれました。大切なことは遺跡の地下に多くの情報が埋まっているだけではなく、今の最上層に遺跡の一部が顔を出しているということです。つまり、我々今生きている人物こそいわば遺跡の一部なのです。ですから、自分自信を見つめ直すこと、そして、それをよく踏まえて、未来により良いものを作っていくこと、そういうことを宮様の生き方は示唆されていたかと思います。

そういうことを汲み取るには、若い人(それは60歳以下と言って良い)は、もう一度、重たい歴史や文化人類学の本を読んでみること。最近の政治家の書いた本を見てみて、その余りの表層採取ぶりに唖然としました。こんな程度で歴史や現状を論じているのかと。もっと深い遺跡の探索が絶対に必要です。
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大戦間の議論から 
Wednesday, October 12, 2016, 09:59 PM
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今の日本、第一次大戦と第二次大戦の間に似ているという話があります。
根拠については色々な考えがあるようですが、私はこんな具合に考えます。
まずは関東大震災ならぬ大地震がありました。そのころ、民主党政権という昭和3年の普通選挙に類する民主化?もありました。そして、日ソ中立条約ならぬロシアとの少しよい関係?があります。

戦前の場合は、民主的傾向はむしろ一億総動員体制となり、ソ連からは見事に裏をかかれ、日本は破綻しました。

で、一億総動員になっては困るので、そこはまず気をつけねばなりません。この点に関しては、我が生家に「国民精神総動員」と書いた額がありますから、私は反省していて大丈夫。「活躍」とかいう言葉にも踊りません。

一方、ソ連ならぬロシアですが、私は大晦日をあの国の首都でおくったことがあります。日本では紅白歌合戦ですが、あの国では同じく巨大なスタジアムで、目指せモスクワ、チンギスハンの大合唱。素晴らしい音楽とは思うもののちょっとどうかなというお下品な歌詞もあります。ここのところが大事じゃないかと思います。ある意味、日本のみじかな国のrudeぶりを超えています。
ロシアの大地は素晴らしいロマンを掻き立てるとともに、そこは北方騎馬民族の故地であることを忘れてはなりません。戦前の関東軍の報告書がありますが、要は、その昔の金という国と似たり寄ったり、いやそれ以上の激しいものです。
金の首都上京会寧府にも行きました。ハルビンの東にあって、今はトウモロコシの畑みたいなところですが、こんなところまで北宋の皇帝や皇后らを拉致し、めちゃくちゃなことをしたところです。
ですから、北方は要注意です。

ところで、戦前の日本は、そういう三段階のあと、というか二段階のあと、日華事変、そして太平洋戦争へと突入、破綻しました。
なぜそんなことになったかを考えると、究極的には憲法に行き着くような気がします。だから憲法は大事なのです。

この辺り、今の憲法の理念は西欧の合理主義という極めて立派なものに依拠してはいますが、合理的過ぎてアジアのドロドロとした歴史が忘れられている嫌いがあります。
その点をきちんと押さえての議論も必要な気がします。
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国分寺から思うこと 
Tuesday, September 27, 2016, 12:05 AM
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国分寺の恋ケ窪近くにある施設で、半日法律のおしゃべりをしてきました。このお話し、もう20年になります。
恋ケ窪は畠山重忠を恋い焦がれた娘が身を投げたところという言い伝えがあります。確かにあのあたりから北へ、東村山、入間等々、鎌倉時代の数々の遺跡があって、楽しいところです。その昔、ガラクタ寺と呼ばれたお寺など、ガラクタどころか太平記の記述を裏付ける貴重な板碑など、鎌倉時代を目の前に現出させてくれます。
そればかりでなく、奈良時代かそれ以前の瓦塔も出土し、本物は東京国立博物館に置いてあります。私はこの瓦塔の垂木の表現に、大陸との深い共通性を感じます。
でも、こういう話はあまりポピュラーではありません。

昨日乗った九州福岡のタクシーの運転手さんも言っていました。「佐賀にゃ何もなか」と、「嬉野さ、いたばってん、近くの名所と言うぎ祐徳稲荷くらいのもんじゃろう」と。
祐徳稲荷は確かにあの辺では規模が大きくて、近頃は映画のせいでタイからの観光客も多いようです。
でも、本当は、もう1つ深掘りすると、もっと面白いものがあるんですけどね。不動山のキリシタンの遺跡とか大野原からは大村、針尾の「新高山登れ」の塔も見えて、気宇壮大というか、世界とのつながりも見えるんですが、そういう深堀りが、学問的に通説化していないということか何か知りませんが、ダメで、あまり紹介もされないんですね。

仕事場の近くの都道府県会館にある各県のパンフを見てもそうです。各県、十年一日同じ名所だけが並んでいます。

でも、この傾向が日本人を駄目にしているのではないかと思います。
例えば、風景の中に歴史や文化の一定の傾向を見出すためには、それなりの知識と直感が働かなければいけません。
例をあげると、私の生家は、南面し、北には正に北極星を背負っています。それを前提にして東北を見るとお寺があり、西北には墓があります。
このことから、祖霊のことや鬼門のことを考えるには、それなりの勉強も必要でしょう。
そして、そうした勉強にむしろとどまっていなければ、より深く、現状を変えることも考えるでしょう。

その昔、下村湖人先生は、「真理に生きる」の中で、植物の種のように、美しくもない大きくもないものを大事にすれば、それから真に大きなものが生まれるという趣旨のことを言われました。
我々の身の回りの何の変哲もない事象から豊かなものを汲み取れるような傾向を促進する教育が確立されなければならないと思います。
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ブルキニから色々 
Saturday, August 27, 2016, 09:27 PM
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フランスの海水浴場での「ブルキニ」の着用禁止をめぐって裁判になり、パリのコンセイユデタ(国務院)は、禁止は許されないという判断をしたそうですね。
裁判の結論については取りあえず意見はありませんが、世界の宗教界を大きく見たとき、こうした戒律のようなものから最も離れているのが、西欧のプロテスタントと日本の鎌倉仏教であることに興味以上のものを覚えます。
スカーフを被る云々は、その間の中東とロシアです。いずれも宗教改革のない(一応)世界。

日本の場合は、ヨーロッパに先立って宗教改革があったのに、江戸時代において改革の効果は衰滅させられた、と言えるのかもしれません。この衰滅という言葉は原敬らの仲間が作った本にある言葉です。

一方、中東でも、いつも書くとおり、トルコのケマルアタチュルクは、断固としてスカーフ、トルコ帽を取らせました。彼を祀ったアンカラの廟では、そうしたことの写真が沢山並べてあります。

この辺り、世界には、再び衰滅気味になる国、政教分離という異なった面から断固たる姿勢を示そうとする国。色々あって複雑です。

それにしても、ビキニ環礁での原爆実験(水爆はそのあと)から生まれたビキニといえば、東京の晴海にその姿を残す第五福竜丸に行き着きますし、コンセイユデタというと日本の行政法の元・ドイツのそのまた元でありながら、これまた日本とは全く異なる発想を持つ機関。色々考えてしまいます。
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