Wednesday, September 28, 2011, 10:50 PM
友人で北海道の同業役員を務めたFさんの先祖は、奈良の十津川村から北海道に移住したそうです。北海道には新十津川村があるとおりで、先日もテレビに出ていましたね。この十津川郷士は、神武天皇以来ともいう歴史を持ち、税金の免除を受けてきました。それが、幕末の天誅組の乱などにもつながることにもなりましたが、明治時代になって特権がなくなり、かつ巨大な豪雨で壊滅的打撃を受け、北海道に移住したといいます。
それで思い出すのが原発の被災地です。もちろん、全て同日に論ずることはできませんが、この十津川郷士と原発被災者とには重なるところがあります。
明治時代に、被災しても、よしやるぞの気概で故郷を捨てて、別天地に羽ばたいた十津川の人と同様の気概が、今の日本人に欠けていないとはどう考えても言えないと思うのです。何やら作為的な、お涙頂戴の話や、戦争の悲惨さと同一視する傾向には強い違和感を覚えます。
あえて誤解を恐れずに一言というわけです。
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Monday, September 26, 2011, 12:32 AM
今はタクシーで帰宅途中。ふと目に入ったのが、青山の子供の城の横に立つ岡本太郎さんの彫刻。このまま行くと多摩川を超えた右側には太郎さんが作った岡本カノ子の記念碑があるわけで、この沿線は岡本さんのうちと縁が深いな、なんて考えています。と、思い出したのが大阪千里の万博跡地にある太陽の塔と国立民族学博物館のこと。もう長いこと行っていませんが、昔行った時、あの博物館はひどかったな、と。
これまたかつて誌上対談したメキシコ人の記者アナマリア女史。あそこの初代館長の梅棹忠夫氏は変、とのことが武道通信に載っています。私もあの時は、ちょうどそんなことを思っていた時で、正に意気投合。
文化人類学なるものは、共通のコンセプトが存在するのかよくわかりませんが文明の生態史観だかで、地球のあっちこっちで文明が起こるとか、日本は特別とか、どうもあり得ない小さな視点。
我々の世代は、世界史という科目を当然と思っていますが、その昔は存在しない科目だったそうです。
敗戦後、それをどう教えるか苦労された先生・伊瀬仙太郎先生の本などを読んでみると、派手な梅棹さんとは全く違う、地味ですが論理的な、しかも一から立ち上げる歴史の論理が展開されている気がします。
もちろん素人の私ですが、マスコミ受けする学者の説には相当怪しいものがあるのでは、と思っています。もちろんそれを承けた小説家の説は論外かとも。
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Tuesday, September 20, 2011, 09:27 PM
9月18日には、千鳥ヶ淵で西本願寺による全戦没者追悼法要が行われました。これから行われる福島県会津若松市における戊辰戦争西軍墓地墓前祭と同じく、その差別のない法要には感動します。その前には、久しぶりに新右翼の木村三浩さんとゆっくり話しました。
私より5歳の年少ですが、青春時代の話題はほとんど私と重なることに面白さを覚えました。
彼と私の共通点は、一貫して民族派であることです。右へ左へと動く人間は、いかに学校の成績がよくとも信用できません。成績なんて関係ないのです。
彼の場合、それと共に世界の民族派との連携が面白いです。中東、ロシアやヨーロッパ、みんな芋づる式で知り合いになったそうです。
排外も拝外も排すという立論の基本には共感を覚えます。
問題は、そうして自己を確立のするについて、何をアイデンティティーとするかでしょう。
私は、どこやらの誰か言っていた美しい日本なんていうのではだめだと思います。結論をいえば国家のシステムです。美しい置物のような日本ではなく、精密機械のように、また、有機的な動きを持って国民を守る国。それこそが逆に守るに値する国だと思っています。それは、必然的に国家という仕組みの「論理」につながります。
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Tuesday, September 13, 2011, 10:56 PM
先日は、せっかく任命された経済産業大臣が辞任。あれじゃやめてもらわなきゃしょうがないな、という御仁ではありました。ただ、最近本当に強く考えるのは、行政はこうした批判にさらされるので、まだましですよ、ということ。
先日、参議院議長が急に元気を出して、色々なことをのたまわっていましたが、あれには議院事務局も色々かんでいるようです。議院事務局は、行政を担当していますが、内閣からは独立。だから議院内閣制という範疇に入ってきません。同様のことは司法にも言えます。
こうした分野に国民代表の目が届かないこと、また、マスコミも敬して遠ざかっていることをだれも不思議と思わないし、教科書を書いている学者も問題にしない。どころか積極推進?
しかし、実はこうした分野のメルトダウンは相当なものではないのか、と思っています。
立法、司法、行政、それぞれの分野を有機的にどう位置づけるかということを改めて考える頭の柔らかさが必要な気がします。
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Saturday, September 3, 2011, 09:53 PM
十何歳かでブラジルに移住し、その後帰国してレストランを経営するIさん(女性)。外国からの政局の見方は、我が意を得たものでした。要するに、こんなにくるくる首相が代わる国は世界から異常と見られているし、信用喪失というものです。
「日本はさすがにすごい。あの地震や津波にも負けずに頑張っている」という、台湾の友人などからの、いや、中国だってアメリカだって、のお褒めの言葉をいただいていた私も全く同意見。
しかも、みんなでよってたかって首相を引きずり降ろそうとする卑しい連中。
彼らの中にある大きな問題は、一つは名君待望論という哀れな江戸初期以来の撫民思想(それは大宝律令の詔にみられるとおり中国伝来で、今や中国では捨ててしまったもの)であり、それを法的に構成すると、議院内閣制ということがわかっていないといことです。
日本の憲法は、東条らの勝手なリーダーシップが国を滅ぼしたことを反省し、行政権は内閣というキャビネットに属することにして、内閣総理大臣に属することにはしていません。そして、むしろ議会との協働による行政を規定しています。
だから、おかしなことがあるのなら、それは議会もおかしいわけです。
自らの顔に唾を吐きかけるような政争をする日本の政界。正に世界に恥をばらまいています。その国益を害すること著しい。
この、バックに、上記のとおり、名君待望論という中国史記ゆずり?の非日本的発想があることに、元祖民族派?としては強い憤りを感ずるわけです。
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Thursday, August 25, 2011, 08:13 PM
大学の交流の会に参加して、中国の数カ所を訪問してきました。今回は万里の長城のいわゆる塞外に行ったので、つくづく中国というより、それを統一した王朝の外交力を感じました。特に清王朝のモンゴル、チベット政策は参考になります。あの康熙帝、雍正帝、乾隆帝の政策をみれば、現在の政策はその延長にすぎません。例えば、中国政府は台湾を自国内と言い、台湾の国民党の伝統政策はモンゴルを自国の一部という。むしろ台湾の方がより正確に清を継承しています。
私はかつて、台湾を訪問した際、その中国地図を見てびっくりしました。モンゴルという国はなくて、そこは中国の一部だったからです。そして、この政策をなりたたせるには、清において、細かいモンゴル、チベットへの働きかけ、あるいは分断政策があり、それが今回私が見た塞外の諸施設でした。
こうした細かい外交政策は、蒋介石における日本への対応にももちろんみられます。外国、特に米国によって日本を制するやりかたです。
今までの日本は、戦後66年、アメリカの傘の下にいて、真の外交はありませんでいた。しかし、今こそ第三者をもって、直接対峙する相手をコントロールするという本当の外交力が求められています。ただ、声だけ強いことをいうような見透かされた遠吠えなどではなく。
それにしても、塞外から塞内に入る万里の長城のそばにいた農民には同情を覚えました。130人の部落を構成し、そのほとんどは満族。正にましらの如く山高いところにある長城に登ってお土産を買ってくれとせがみます。私の知る満族は、どちらかといえば気の毒な生活。それを思うと、つい、寝巻きがわりにTシャツを買ってあげました。
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Tuesday, August 9, 2011, 10:22 PM
昨日のネットのニュースを見ていたら、メキシコで、ある町の26人の警察官が一斉に退職した話、20歳の大学生である女性警察所長が一家でアメリカに亡命した話が出ていました。麻薬か何かの組織に脅されてのことだそうです。それで、中央政府は軍隊を送って治安を維持しているとか。私の知り合いで雑誌での対談もしたアナマリアさんは、メキシコの代表的新聞の記者として来日された方ですが、その対談でも、署名記事を書いたメキシコの記者が何人も殺された話をされていました。そして日本の記者には武士道のような意気地がないと。正にその通りでしょう。威勢のいい最近の口先だけの報道などには全くうんざりです。
ただ、私が上記の報道をみて、思い出した話は別の件です。
明治の初め、京都で槇村正直に関わる事件がありました。それは、今の富士通や冨士電気の前身ともいえる小野組が、京都から東京に移るについて、地元京都の大参事槇村正直がそれを認めず、裁判官も地元の利害に組みし、これを怒った司法卿江藤新平らは槇村に罰を下し、中央から公平な裁判官を送ることにした、というわけです(極めてラフな書き方ですが)。
中央から、地元の利害に関係ない人間を送って公平を期した、という意味では今回のメキシコも昔の日本も軍人を送ったか裁判官を送ったかという違いだけで、要は中央が事を処理したという意味では同じというわけです。
でも、メキシコの問題を考えれば江藤らのしたことが必ずしも褒められることでないことははっきりしています。もちろんそれは当時の中央集権国家製造の一環なのですが、民主主義には反することだからです。
しかし、また一方、民主主義が常に正常に機能するかというと、メキシコの例をみればわかるとおり否定です。槇村もひどかったですし。
最近の日本では、地方分権ということがいわれますが、分権のためには、団体自治を担うだけの能力と博愛精神がある国民の存在が前提になります。
果たして今の日本人が明治初年の江藤の時代以上に民主主義の担い手として高い能力を持っているのか。江藤に対して、中央が余計なことしないでよといえるだけの力と優しさがあるのか。
むしろ危惧を覚えるのは私だけではないのではないかと思います。
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Thursday, August 4, 2011, 09:50 AM
ニュースのコメントがくだらないというのは、現象面へのコメントのみで、本質論からのコメントがないからです。この現象は、色々なところに出ていると思います。
政治の世界では官僚支配の打破が叫ばれ、それは、コメントの裏にいる筋書き作り屋さんの支配打破ということでもあります。で、ニュースくらいならまだよいのです。うっかりすると、ニュースどころか、国民の権利義務を制限する様々な処分、つまり行政や司法のなす処分の後ろにそうした筋書き屋さんがいます。これらは、基本的には優秀。でもそれは、そのいわゆる専門分野についてです。
だから、近しくさせていただいている元最高の官僚の方が言われるとおり、官僚は「使うべきもの」です。
しかし、その「使いこなし」のためには、使う方に相当な力量が必要です。その力量とは、はじめに書いた本質論の力量でしょう。その本質論を誤り、出先の現象面に関する意見に引きずられて大失敗をしたのが、そして300万人以上の死者を出したが70年前の戦争でした。
それを思うと、トップになる人に何が必要かというと、わかりやすく?いえば、文化人類学だと思います。この総合的学問の、いわば入り口を持つ事が大事です。それは、やはり漫画を読んでいる人間にはできません。かと言って、重箱の隅をつつくような学者である必要もない。この塩梅が難しいと言えるのかもしれません。
昨日は、ある米国人から、日本はどうしてこんな政治になっちゃったんだ、という質問を受けました。しかし、議院内閣制が働き、議員やマスコミの批判に曝される立法、行政の世界はまだましかもしれません。我が国には、議院内閣制が働いていない分野が相当にあります。「小さいもの」でいえば、電力会社も、実際は行政そのものの事業をしているのに、私企業の衣というベールを被って批判から逃れていました。
実はもっと大きなものもあります。そこが組織のメルトダウンを起こしていたら、本当に大変です。
その危険、そして分野を問わない無責任の現象は相当にこの社会を蝕んでいます。それに対する正義派?の対応にも大きな問題があります。
総じていえば、やはり広い視野をもって勉強するしかない、ということになりそうです。
それにはやはり若い人が外国にいくことは大切。手っ取り早く、佐賀県でも最近のおこなった若者の現代の米欧回覧でもやってみてはいかがでしょうか。
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Saturday, July 30, 2011, 01:51 PM
余りにもくだらないコメントばかりなので、このところ普通のニュースは観てもいませんが、大雨の情報を見るためにチャンネルをひねる(押す)と、またも腹が立つ映像とコメント。こうやってテレビに怒るのは歳をとった証拠とも言えますが。それは、大雨で川の中州が水に浸かり、ビニールハウスをはじめとする施設が台無しになっている映像でした。
おかわいそうに、といったコメントでしたが、そもそもきちんとした河川は河川法以下の法律の下にある国民のための営造物であり、勝手に施設を設置することはできないはずです。きちんとした許可をえて、置かれているものなのか、もし、許可をしたとすれば、本来そういうときには速やかに水が流れなければならない河川の効果を損なう許可をしていた、という責任が問題にされるべきではないか。
それが、かわいそうだけでは余りにもナイーブな感情論。
そもそも歴史をお話と理解する御仁がこういう発想になる。春の小川はサラサラいくよ、のお話の類いです。国民にこうした河川の意味を理解させない法学部を含む教育にも問題がおおあり。
こういうセンスは、地震、原発、全てに通ずるのですが、特に社会の木鐸?たるマスコミが、まともなオファーのできない国であることが、正に我が国の悲劇かなと思います。
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Thursday, July 14, 2011, 10:26 PM
仕事で横浜へ行っていました。かつて3年間過ごした横浜は、思い出深い場所です。特に当時の金沢文庫はよかった。国宝がそのあたりにコロコロ並べてあるのはまずは情報量として素晴らしかったです。これを造った北條実時は沢山の本を集めた人で、その中には既に本場中国でえ失われたものもあります。多くの文書がワラにくるんで置いてあったというのも面白いことです。
そんな彼は熱心な仏教徒で勿論僧形。六浦の海を殺生禁断の海としました。一方、アジアとの貿易にも多分熱心で、今もその痕跡は、同地に残された焼き物など数々の文物にうかがうことができます。
行動の全てが国際的で深いものを感じることができる彼。
私は彼を尊敬するとともに、彼のような人を生み出した中世鎌倉の素晴らしさを思うわけです。
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