Sunday, July 3, 2011, 11:32 PM
またまた間があきました。元々PDAでメールし、それを貼り付けているのですが、いよいよPDAもおしまい。スマートフォンに切り替えましたがどうも目によくないのでなかなか使えません。IPADにでもしなきゃだめかな、と思っています。
この間に、正に身につまされる思いで読んだのが、永らく積読にしていたヘルムート・プレスナー(松本道介訳)「ドイツロマン主義とナチズムー遅れてきた国民ー」。ドイツの後進性の原因、ナチ発生の原因を鋭く分析した名著です。
エルベ川以東、ライン、ドナウの間をつなぐリーメス以北の西欧との違いは正に感じるところです。 ベルリンのロシア地区であるニコライ地区は、エルベ川の支流シュプレー川の東にあります。
2000年前、ローマがゲルマンの侵入を防ぐために造った長城・リーメスはリミットの語源になったそうですが、それはライン川、ドナウ川の間を繋ぎ、北方・東方に備えます。
いずれも行ってみました。
その東方には、ポーランド貴族が辮髪であったように、アジアとの深い繋がりが感じられます。
そんなドイツは、ルターによる宗教改革のあと、アウブスブルグの宗教和議ののち、各領邦君主により宗教が決められてしまったため、国民と宗教とが分離。イギリス、フランス、オランダとは異なった国家になってしまい、特にフランスのような政教分離に至らず、民主国への道をたどれなかった・・・・・。
そんなことを考えていると、日本の中世こそ、鎮護国家の宗教から民衆へと宗教は一般化し、京都という教と鎌倉という政が分離した、やはり健全な国家だったのではないか。鎌倉武士こそ誇るべき日本の武士、ということを強く考えることになります。
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Thursday, June 16, 2011, 01:32 PM
以下は、最近ある雑誌に書いた巻頭言です。巻 頭 言 観念論を排す
零戦の撃墜王・坂井三郎さんが逝って十年が経った。私が坂井さんのご自宅を訪問し、長時間の談話に及んだことも一再ではない。
彼は、決して戦争賛美の人間ではなかった。零戦の戦いには四つのパターンがあるという。相手を撃ち落とすこと、自分が撃ち落とされること、相撃ちになること、そして勝負をつけずに別れること。
彼が狙ったのは・・・最後のパターンであったという。零戦は決して第二次大戦中、一貫した名機ではなかった。巴戦が得意などと言って第一のパターンをねらったのでは、命はいくらあっても足りない。次のチャレンジの機会を得ることこそ大切というわけだ。
だから自分は、まず眼をよくすることを心がけ、昼間の星さえ見えるとまで言われた。そして、敵の機影を少しでも早く発見し、スルスルと忍び寄って、背後から襲う。
こうして、自分が先任搭乗員(上官)として出撃したとき、部下を一人も死なせたことがない、というのが彼の誇りであった。
日本が行った戦争の中で、九六艦戦、零戦と乗りついだ彼は、米国との戦争は横綱相手の立派な戦争。しかし、中国を相手にしたものは、どうにも説明のつかないものだったと言う。
彼と日本海海戦の話しをすると、それは東郷平八郎連合艦隊司令長官の敵前大回頭の右手の一振りで勝ったのではない。我々の先輩が一発必中の猛訓練をして「当てた」から勝ったのだ、と言うリアリズムは、観念論に流れがちな最近の風潮に厳しく警告を発するものである。
ところでもう一人、私と同じ大学の講師仲間に清瀬信次郎先生(亜細亜大学名誉教授)がおられた。
父上は、戦後最大の衆議院議長・清瀬一郎さん。東京裁判において東條英機の弁護人であったことを知る人も少なくなった。是非「秘録東京裁判」を読むべきである。
同じご町内であることもあって、清瀬先生とはそこらの一杯飲み屋で何度も話しをした。
そんな中で、よく覚えているのは、「海軍というのはね、海を見ているので、段々おかしくなってしまうんですよ」という話しだ。人間をはじめとする動物は元々海から上がってきたものなので、海を見ていると底に引き込まれるような気持ちになる、という意味であった。
それが、海軍機関学校をはじめとするところの教育から生れた人間魚雷であったり、神風特攻隊であったのだというわけ。確かに、海軍は、機械を相手ともしているので、そんな気持ちにもなる下地があるのかもしれないし、同じようなことは現在の空軍にも言えるのかもしれない。
海軍出身の坂井三郎さんも、実は海軍大嫌い人間であって、その身分制度や新しい飛行機を作ろうとしない発想の貧困、特攻隊を始めとする精神構造、終戦時に海軍将官で自決したのは大西瀧治郎中将だけ、といった様々な問題に対し、厳しく指弾していた。このあたり、海軍善玉で陸軍悪玉などという俗論は、全くいわれがない。
もちろん陸軍にもおかしな人が多々いたのであって、下村湖人の息子さんで、陸軍中尉として昭和天皇の今でいうSPを務めた下村覚氏とは亡くなるまで仲良くさ
せていただいたが、終戦時の録音盤奪取騒ぎの時、決起将校が惨殺した森赳師団長の遺体の処理を見て、皇軍の権威遂に地に堕ちたりと思ったとか。
こんな話しを知る人もいよいよ少なくなってきた最近、昭和30年代の古い左右対立を前提として、なんでもいいから保守になれとばかりに、「十五年戦争は」よかったとか悪かったとか、そもそもその十五年を一括りにすること自体が昔の左翼の発想なのにそれがわからず、しかもリアリズムに欠けた議論に、あるいはその後のゲバ学生相手の革命ゴッコに手柄を立てたなどと、戦争とは比較にもならない事績(?)が売り物になる傾向には、三菱重工爆破事件における法廷での大乱闘などをきちんと処理した裁判長(中には士官学校出の人も)などのそばにいた私としては違和感を覚えざるを得ない。
実は、上記のような、陸海軍の問題ある行動を起こした人物たちの更に奥には、江戸時代以来の深い思想的対立があるのであって、彼らの硬直した行動様式は今の一部の保守と同様、極めて明(みん)文化的、即ち、滅びた中国式の考え方である大義名分論であることが忘れられてはならない。
限られた紙面の中では書き尽くせないが、そのあたりを、真の日本の身の丈にあった柔軟な発想で考えなければ、日本人はこれからの世界の激動には到底対応していけないのではないかと思われる。
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Wednesday, June 8, 2011, 10:32 PM
先日、30年以上昔の職場の人と久しぶりに交歓しました。その中のお一人は、以前、沖縄で裁判官をしていた方です。私の別の任地にも同様の方がおられました。復帰後日も浅かったからです(今の人には何のことやらわからないでしょう)。
で、その方が、沖縄でアメリカ人の女性の被疑者の事件に関与されたときのことだそうですが、取り調べて通訳が文書を作って、さあ署名を、という時、彼女は絶対に署名を拒否したそうです。なぜなら、その通訳が正確か否か確実なことが言えないから、とのことでした。それで、「じゃ、自分で英語で認めれば署名しますか」と聞くと了解したそうです。
なぜこんなことが話題になったかというと、当時、つまり昭和40年から50年にかけては、日本の刑事裁判は正に荒れる法廷で、法廷での取っ組み合いとかは日常茶飯事だったのですが(私自身も実見は、以前も書いたとおり)、日本の過激派学生は、いとも簡単に自白調書に署名していたというのです。
ここにアメリカ人と日本人との強さの違いを見るということだったのでしょう。
私も残念ながら全くの同意見です。そして、局面は若干違いますか、当時の中国で「文化」大革命を標榜しながら、市中引き回しという「中国文明」から抜けられなかった中国人、お上尊重的・自白調書OKの日本人の行動パターンに、アジア人として共通の弱さと改善の余地を感じるのです。
これは、一種・文化人類学の問題かもしれません。
それにしても昨日、都心をタクシーで走っていたら、いわゆる右翼の主張をしている御仁が、ヘルメットにサングラス、手ぬぐいを口に巻くという、正に左翼過激派?の格好をしているのにはびっくりしました。民主党といい自民党といい、「頑張ろう」とかいう労働組合方式になって、一方、急に日の丸に頭を下げだしたりという、これこそ何も知らないミスマッチの固まりだなと、全く言う言葉を知りません。
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Friday, June 3, 2011, 12:39 AM
下の記事にもうひとつ付け加えれば、日本人は戦争を知らないか忘れてしまったので、人間の死ということの重みを知らない、それは近世の特徴でもある、ということになるかと思います。それは死刑制度の議論にもいえることで、要はあなた任せの刑執行なので、悪いやつは殺しちゃえ、です。一方、今正に守らなければならない人たちがいても、のど元過ぎれば知らん顔での政争です。
以下の「今こそ死ぬこととみつけたりでは」は、ずいぶん昔の文章で、不十分ですが念のため。
中世の死の思想を見る にあります。
http://hagakurebushido.jp/f03_pop.htm
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Wednesday, June 1, 2011, 10:48 PM
裸の王様の話は、みんなが寄ってたかって「00ですね。00ですね」とやるわけですが、今の日本は、実態も考えずにムードで動く数十年前の戦争開始の時のような感じです。もちろん私は生まれていませんでしたが。様々な法改正、新制度作り、葉隠のいう「新技巧みのしそこない」でなければよろしいのですが、制度を作ると「うまくいっている」というこれまたムード作り。
正に、アメリカとの戦争を始めた、緒戦の勝利みたいなものです。
こんな現象が蔓延しているのは法律を作る場所にいる政治家の多くが裸の王様の大衆か、綺麗事を並べて国民を煙に巻く手合いだからか、あるいは無自覚者かだから、としか思えません。会社法の国会提出議案の厚さは相当なものですが、某大臣はここに至るまでに偉い先生にしっかり審議していただいていますので、なんて、国会の本質を考えればびっくり仰天するようなことを述べて恬として恥じないわけです。
どうして日本人がこんなになってしまったのかは、一言で言えば平和ボケ。戦争の実態を知らないからだだ、といえると思います。今の人間でいうと85歳以上じゃなければだめ(少々の老人はインチキ。)。仲良くしていた撃墜王・坂井三郎さんが生きていれば90何歳ですからあのあたりがやっとまとも。どこぞの特攻隊の生き残りとかいって大きな顔をしていても、外地のどこやらでごそごそしていたなんていうのは、わが1親等が滝野川の陸軍省の出先で、戦車の体当たり訓練をしていたのよりたいしたことなく、大きな口をたたくに資格なし。なのに何やらの団体の親玉とか。戦後の過激派学生対策をした、なんていうのも正にたいしたこともないのにマスコミでは神様扱い。そこいらのポピュリストは論外。
しかし、みんな戦争を知らないので、中途半端をあがめて本当の厳しさをしらない。
だから、こんな時に、法律を作るという本来の使命を忘れ、戦前の緊急命令に代わるような国家緊急事態基本法も作らず、馬鹿な政争に明け暮れているのだと思います。
具体的な被害があるだけでなく、世界に対してみっともない。こんな時なのに、日本は平和だね、といわれている感じがします。
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Monday, May 23, 2011, 10:34 PM
「笑雲入明記」を読了しました。足利義政の時代、当時の中国・明に遣明船で渡航した僧の紀行文です。寧波から杭州、嘉興、蘇州、鎮江、揚州、そして大運河をさかのぼって済南、北京、帰りは南京に寄ります。
これらの土地は私にも大いに縁のあるところで、今も変わらぬたたずまいが描写されており、興味深々です。杭州の武林門など、忠臣蔵・赤穂浪士の武林唯七の祖先のふるさとです。
1200人もの人間が9隻の船で渡航したとは、相当に航海術も発達していて、すごいものです。
朝貢貿易の形を取っていたとはいえ、もうけが2・5倍が相場だったとするとやめられなかったのもうなずかれます。
この博物館本文に書いたとおり、歴代将軍の内、足利義持は、父義満に反発して断交しましたが、他の将軍は実を追求したというわけ。
現代の外交問題も、表では喧嘩しても裏では・・とか、色々ですが、ご飯が食べられなくなることだけは避けたいものです。近くの問題国のように、自分が食べられるので、国民は餓死していても言いたい放題、なんていう為政者では困ります。
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Sunday, May 22, 2011, 10:30 PM
お誘いを受けて、仏教の声明と二胡とのコラボレーションでの震災チャリティー音楽会に出席してみました。日本の日蓮宗、天台宗、真言宗のお坊さんの声明、台湾のお坊さんの声明、そして中国の演奏家の二胡と楊琴、歌。国際的で、しかも中央アジアの雰囲気まであり、なかなかよかったです。
やはり台湾のお坊さんは、正に気合が入っていて、あれを全く楽譜も本もなく節をつけて読み上げるのですからたいしたものです。あのお坊さんたちは昼過ぎからはご飯も食べませんよ、と言うと、同行の人は驚いていました。
その台湾では、地震についても、「さすが日本はすごい」という評価が多いのですが、ひるがえって最近の日本の政治家にはひどいのがいるな、と思います。ましてやいわば模範ともなるべき議長が中立を害する発言をするなどというのは、内容は全く別として、正に政治のメルトダウンです。
これを支持する声が多いのにもびっくりで、こういう傾向は10日に書いたとおり既に大正時代から始まっており、法律を厳密に解しようという考えの基礎がそもそもない人が実務家の中にも多い。日本国民の法的仕組みについてのレベルの低さを思わせます。別に難しい話ではありません。世界の常識の話です。
こんな調子なのにコンプライアンス、なんて言ってるから、ただの形だけか、実態無視の話で終わってしまい、会社で言えば貴重なお金をどこやらの国の会社に召し上げられているわけです。しかも気がつかないうちに、そうだそうだのムードで。
そもそも台湾の人は、日本の仕組み、制度、その運用をほめているのであって、その部分がすごく大事です。個人を俎上に上げて品定めするのは、名君待望論の江戸時代的なもので、当時おそまつに扱われた農民意識から抜け出ていない典型で、全くサムライなんかじゃないことを知らねばなりません。もうひとついえば、本紀、列伝の史記の発想か、キャビンを大事にしてリンカーンを神様にしている一部アメリカの発想でしかなく、日本のものでもないのです。
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Tuesday, May 10, 2011, 01:58 PM
地震のテレビを看ていると、どうにも困った報道に出くわします。下の方に書いたのもそうですが、今日の朝は、自衛官が被災者の写真を探してあげている行為について、「これは、命令ではなくやっている行為である」というコメントでした。
もちろん自衛官には御苦労様ですが、命令ではない行為とはこりゃいかに、です。
自衛官は自衛隊法に基づき命令を厳格に執行するのが職務。そこに指揮官の責任もあるはずです。
言いたいことは、やさしい気持ちからしています、とでも言いたいんでしょうが、それでは法律家としての自衛官を軽視しています。
その昔の防大の校長・猪木正道先生はファンでしたが、ああいう方がそんなことをいうとも考えられないし、最近の防大校長の訓示にも真逆の話があったはずです。
淡々と職務をこなす、昔の軍人直喩でいえば、上官の命令は朕が(の)命令と心得よ、です。命令で動いていないなんていうのは違勅罪(律令法)です。
そういう発想は、もちろんある意味、今の日本を象徴するもので、東南アジアで人気の「萌え系」の発想といってもよいかもしれません。これで稼いでいるのが日本、ともいえます。しかし、これが主流では困るのです。
そして、この発想の更に奥には、法律というものに対する学者をはじめとする人々の「緩み」があると思っています。
それは、大正時代に始まりますが、戦後を指摘しているHさんという学者もいます。要は、裁判はかわいそうな人を勝たせればよい、という考えです。
しかし、裁判はあくまでも法に則らねばなりません。勝手にかわいそうか否かを裁判官に判断されてはかないません。
ライン川に沿って電車で走ったことがありましたが、ドイツもスイスも中世は小さな単位としての町です。だったら、スイス民法にあるように、裁判官の法創造も許されるかもしれません。
でも日本は大国です。裁判官の顔も見えないのに勝手な判断は困るのです。
しかし、今から20年も前の、H先生を囲む座談会でも、H先生の攻撃にあったこれまたH先生は「何が悪いのさ」ってな感じでした。
いずれにしてもこの人達、ドイツやアメリカの勉強ばかりで、日本や中国、韓国の勉強は皆無に近いのではないでしょうか。
だから自分がわからない。このことも、最近亡くなったR先生が指摘しておられたことです。
しかし、その先生の専門である法制史は「絶滅危惧種」だそうで、本当に困ったことです。
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Wednesday, May 4, 2011, 11:10 PM
今日は憲法記念日でした。こういう日こそ、そしてこんな時こそ憲法の意味を本当に考えたいと思います。というと、9条改正とか、逆に人権、となるのがステレオタイプ国のメディアや国民です。
以前、新右翼の木村三浩さんと誌上対談した折も言いましたが、まずはこの国の組織と作用という「体」が問題で、体が病気なのに勢いのいい改正をしても肝心の人間が動きません。
その意味で、例えば先日、原発の周辺住民を立ち入り禁止にした処分を「とんでもねえこった」みたいなことを言っていた人を登場させていたメディアは失格と思います。要は、国民を守るために行政警察的活動をするのが国家の責務であるという基本がまるっきりわかっていない。あれで「そうだそうだ」になっちゃったら、交通整理もできなくなります。
つまりはメディアがわかっていないからあんな発言を大きく載せるわけ。もちろん言論は自由ですが、ずれています。
一方、今度は、何とか委員会の委員であった大学の先生が辞任して、記者会見を開こうとしたら、守秘義務で止められた、とかの話。こういうのもしっかり考えれば、正にブレークスルーする話です。
今から40年も前、自衛隊の違憲性が問題になったある訴訟。担当裁判官に所長からアドバイスのお手紙が。司法権の独立を害するというので、当該所長は懲戒。また、そのことをマスコミに言った担当裁判官も司法部内部の話を外に出したというので懲戒になりました。
そのあと、学生であった私たちが東京地裁に見学に行って、裁判官とそれが話題になり、のちに札幌の長官になったK判事と話し、ある学生が「国民のためには記者会見してもよいのでは」と尋ねたところ、Kさんは「いや、私は言いません。私だったら部内の会議で処理します」と言われました。
当時は、なるほど、と思いました。
つまり、古い日本の伝統からすれば官僚の責任感に依存すべきで、マスコミに流すなどということは正道から外れるということなのです。
しかし、今もそれでよいかは一考の余地ありと思っています。私の著書でいうならば、(ややラフにいうと)民主か、責任か、ということです。
あるいは、その辞任した先生、真に国民のためを思えば刑事処分覚悟でぶちまけるという選択肢もあるでしょう。杉原何とかさんのように。公務員には常にそれがつきまとうのです。そのくらい公を背負った公務員は厳しいし、その自覚が必要。
ところが、平和ボケで、そのあたりを詰めきれないのが今の日本の最大の問題と思います。日本はすごい、なんて簡単には言えません。
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Monday, May 2, 2011, 12:48 PM
リビアでは、カダフィ大佐の息子さんが多国籍軍の攻撃で死亡したことが大きな問題になっているようです。それで思い出すのが、日本が当時の中国の首都南京を攻撃、占領したとき、真崎甚三郎大将だったか真崎勝次少将だったか(多分、大将)が言われた一国の首都を攻撃、占領するようなことをしてはならない、との話し。
その意味では、東京に無差別攻撃をかけたアメリカも同罪ですが、そういうことをきちんと言われていた人を何やら悪人のように書いているそこらの本には、困ったものです。
昔、偕行社の理事長をされていた辰巳栄一元中将と席を同じくしたことがありました。
偕行社は陸軍の将校クラブのようなものです。以前は九段坂の途中にありましたが、今は、どういう経緯か知りませんが違った姿になっています(靖国神社の中に偕行資料室はあります)。
中将が最も尊敬する人は吉田茂、本間雅晴中将、そして真崎大将だったそうです。
イギリス駐在武官の時に、ドイツとの提携を吉田茂から断固拒否され、吉田さんと同じ考えになったことは有名です。
学童疎開を推進した辰巳中将、死なば諸共なんていって拒否した東条総理。
今の世の中、東条的な観念論が横行しているように思えてなりません。
その「体質」はどこから出てくるのか、歴史学や文化人類学の分野なのかもしれませんが、単なる学問で終わらせるのではなく、実地の日本や日本人の進み方、生き方に生かせなければいけないと思っています。
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