★7月18日 
Sunday, July 18, 2010, 03:55 PM
 先日ある会議に参加しました。
 それはタクシーの初乗価格設定についての許可の話です。
 こうした企業の料金については許可制が敷かれ、様々な考慮から許可、不許可が決まります。
しかし、スカイマークの例でわかるとおり、余りにもの仲良しは、一般消費者の便益を減殺させ、はっきり言えば組織ぐるみの詐欺になろどころか、日本自体の競争力を減退させます。

 ただでさえ和をもって・・のお国柄。こういうところの掃除はやはり必要と思います。


 我前幾天参加一個会議。
 在那会議一個律師発表了一個事件。那個事件的内容是出租車的初座車価格。在日本的某地方一個出租車公司対日本政府申請了便宜価格。
 可是日本政府没受理了那個申請。所為那個公司控訴了。透過二個月左右審判所暫定許可那個価格。
 現在、那個審判継続。
 我ting了那公司没有参加同業界的協会。那個傾向性在日本的別的業界也有。那個傾向性消弱日本的競争力。
 
 現在、在日本hen多建設公司、hen多病院。在那個業界有友好結構。
 可是、我イ門要深思那個壊影xiang。


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★7月15日 
Thursday, July 15, 2010, 10:36 PM
 7月12日は2・26事件の青年将校が刑死した日。14日はフランス革命のパリ祭と、色々「国家」を考えました。

 2・26については、様々な本などが出ていますが、ある席で「私は自分が現実に会って話した人の、その人となりと合わせて判断しなければ信用しない」と言いますと、目の前にいた女性が「その通り!」と握手を求めてきました。その人は松本清張の本など全くあてにならないと言います。私は1行も読んだことはありませんが、元々読む気もしません。
 いずれにしても、昭和維新を唱えた彼らの純粋さは明治維新を起こした志士に劣らないどころか、かえって純粋培養ともいうべきピュアな教育を受けたという意味では明治以降の最高の高まりを見せた時期とも言えるでしょう。そこのところが、多分、小説家にはわからないのじゃないかと思います。いささか不遜ながら。

 フランス革命については、我々はいくら勉強しても、し足りるということはないのではないでしょうか。以後の何十年かの歴史には人類のあらゆる政治形態がそろっているともいえますし、また向かうべき将来を示しているともいえるのではないかと思います。アメリカの独立戦争とも深いつながりがありますし。

 そして今日は、韓国から留学中の大学院生などと日本と韓国との最近の違いを話しました。
 私は、今の日本の保守的傾向は、その持って生まれた博物館性が、いよいよもってはっきりと出てしまっている現象ではないかと思っています。
 今の韓国の民主制というか、元気のよさは、アメリカの影響という面もあるでしょうが、元々、中国は当然として、大陸はヨーロッパに近いということがいえると思います。例えば、北京には戦前、街角にトイレがなかったとかもその一つでしょう。
 しかもいくら儒教的な徳目が強いと言っても、何せその本場ですから、その裏に実質を持っています。日本のように闇雲ではありません。
韓国儒教は細かい。日本の儒教はラフといえます。ラフということはただ闇雲に輸入してくっつけただけ、ということです。お墓の段階論にしても細かくない。
 でも強烈で、後生大事にしている。外側は別として、エッセンスはもらいものなのに、自分のものと思っている。
 こういう博物館性を除くには視野を広くする必要がありますが、若い人が外へ出ていかないというのは大いなる問題と思います。



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★7月14日 
Wednesday, July 14, 2010, 11:48 PM
 最近読んだ本で印象に残ったのは、6月7日にも書いたナチス・ゲシュタポの本。ゲシュタポに逮捕されて生還したフランスの警察官が書いた本ですが、民族問題から文化の問題など示唆するところ多い本でした。
 人種的な観点からいうと、どうしてもエルベ川以東の東方性、それは日本にまでつながるものを感じざるを得ない気がします。ゲシュタポ幹部の中に流れる北方東洋の血を指摘したくだりを読んで。
 そんな目で最近の政治状況を見ると、結構危ないな、と思われてきます。日本がおかしな国になれば最後はアメリカの鉄槌が下るでしょうが、それもアメリカに不利益を及ぼした場合のこと。ゴ・ジンジエムなどの故事を見るまでもなく、自国に有利であればアメリカも手は出しません。
 その意味で、社会を正常な方向にもって行くのは、一つはマスコミの役割ですが、これが今や能力地を払っている感じ。売らんかなの週刊紙は論外としても、一般の新聞がお粗末(当然ですが、これも売らんかな。どころか最近は売れなくて風前の灯火状態)。
 しかも、このあたりは、昭和10年代初め、朝日新聞まですっかり当時の軍主流派に迎合していたことを思い出します。
 特に始末が悪いのは、私の若い時代の左翼(?)共が政党的には右にも左にも入って仲良しこよしで政策を立案遂行していること。
 だから、それを推進した朝日も当然文句を言わない。これでは社会の木鐸なんて空手形のようなもの。
 それに輪をかけて、深い考察力を要求する社会になっていない。考えない暗記国。
 これじゃ困る・・・というのが最近の感想です。



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★7月4日 
Sunday, July 4, 2010, 11:02 PM
 相撲界が荒れています。関係のA先生には本当に御苦労様です。
 一方、久しぶりに同窓との会合で入手した話。
 今年のある団体の入社試験の問題は、「朝昇龍について」であったとか。これはよい問題と思います。どんなふうにも論じられます。正解がありません。例え彼の日常を知らなくても色々な切り口から論じていくことができる。もちろん、試験官の力量も要求されます。
 こういうよい問題にひきかえ、最近の色々な場所における多くの問題は正解があります。
 最も創造性を要求されるはずの我々の仕事でも、正解を書かなければ白い目で見られるような風潮。
 おまけに、政治家の議論まで、各政党に応じた段階論があるような気さえします。マスコミ界も記者が正解を求める、とは先日、食事をしたあるジャーナリストの話。
 こんなことでは「世界」に太刀打ちできません。いいかげんに目を覚ますべし、と相撲界でないところにも言いたい気がします。
 それにしても、あの問題を作った人は立派です。
 そういえば、40年近く前、私が受けた裁判所でのある問題は「小野田さんの生き方について述べよ。」でした。あれもよい問題。最近、そういうよい問題が少なくなっているのでは、という気がします。
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★6月27日 
Sunday, June 27, 2010, 11:58 PM
 この季節は株主総会の季節。リスボンやアムステルダムの港を出て1年の航海をして交易し、帰国した船が、出資者にその報告をして、もうけを分配することに由来します。

 葉隠の佐賀県には昔からVOCのマークがあちこちに見られました。特に輸出品である焼き物の表面に多く、これはオランダ東印度会社のマークを表します(OはイーストのEだとか)。
 オランダ東印度会社の本社あとは今もアムステルダムにあり、近くにある倉庫のそばには当時の船が復元して係留されています。
 このオランダ、日本では最初平戸に。その後色々動いて最終的には長崎に落ち着いたのですが、新教国として自由な絵画などがはやり、その細密画は秋田の角館などに伝わって、ターヘル・アナトミア、つまり解体新書の挿絵などに大きな影響を及ぼしたとか。
 しかし一方、この博物館の本文に書いたとおり、当時のオランダには、グロチウス、デカルト、スピノザ、ライプニッツらが行き交い、人類の将来を決定づけた哲学が生まれたのに、あれほど強いつながりを持ったオランダから、そうした影響は、少なくとも表面的にはうかがわれません。
 レンブラントの家の前で東洋伝統の石碑を見てびっくりした私でしたが、我々の思想の中にこうしたものの影響が全くないわけではないのではないか、と、ひそかに思っているこの季節です。



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★6月22日 
Tuesday, June 22, 2010, 06:17 PM
 ある件の打ち合わせで上海に行ったついでに万博をのぞいてきました。しっかり観るには一週間あっても足りません。中国館はもとより日本館、アメリカ館、台湾館、韓国館などはすごい人気で、外から人間だけを拝見しました。それに比べて全く人気のない日本の近くの国もありました。
 中国の各省、ポルトガル、トルコ、アフリカ諸国などに入ってみましたが、いずれも大いに勉強になりました。
 例えば、現在の資源外交の時代、特に東アフリカについては、明の時代の鄭和が大きな役割を果たしていることに我が国と中国との違いを強く感じました。
 鄭和は、船団を率いて東アフリカまで到達。現にたくさんの陶磁器がアフリカから出てくるでしょ、我々は昔から友達だったんですよね、というわけ。本当をいうと日本だってそんなに捨てたものではなくて、天正少年使節だけじゃなく、色々なご縁があると思うのですが、永年、為政者の頭がすっかり鎖国概念に取り込まれていましたから、今まではだめ。何とかしたいものです。

 それよりも強く感じたのは、日本人の真面目すぎ、というか非国際性。
 宿泊地近くのデパートでは日本特集をやっていて、舞子さんのおどりをやっていました。きれいで宜しかったのですが、何しろ無表情なのは受けない。西洋人に喜ばれるから・・はだめです。
 万博会場でもちょうどステージで日本の出し物。しかし、踊りが余りにも年の方々。白塗りゴテゴテでおまけにこれも無表情。そのあとの若い人はよかったけれど、これも踊りが静か過ぎ。もっと笑えよと言いたくなりました。やってるかもですが、是非阿波踊りなどを。アフリカの迫力のは負けますが。ニュージーランドのマオリの人たちのフレンドリーさにも大いに譲るといわざるをえませんでした。
 そのあとの演歌の歌手はニコニコしていてよかったのですが、開口一番のニーハオが何とか欲しかった。ごく簡単でよいから中国語を使えばドッとどよめくのに、惜しいです。
 
 帰りの地下鉄の中、おじいちやん、おばあちゃんがどっと入ってきた途端、メガネの食い込んだ少女が、おじいちゃんどうぞ、と席を譲る。そのあと、自分は持参の小さな椅子にすわっておじいちゃんとぺちゃくちゃ。そういう国民性というか、儒教的かつフレンドリー・・?
 もちろん?お行儀の悪い人もいて、地下鉄の中で携帯。しかし、トンネル内でもしっかり通じるのは東京メトロ以上です。
 マナーといっても、初めて上海に行ったころと比べれば生活も向上し、正に衣食足りて礼節を知る、の国だけに、どこでもずいぶんよくなりました。

 本当に、日本は真の意味つまり空威張りや考えちがいでなくしっかりしなければならないと思った次第です。



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★6月17日 
Thursday, June 17, 2010, 11:32 PM
 政権交替のあと、思われるのはマスコミの問題です。今や正にマスコミこそが平均的日本人を代表して、報道やコメントをしている気がします。
 しかしてそれを担う人物は、主として西洋的教養?から事に処します。あるいはそれもない人もいるでしょう。
 大きな問題は、東洋的教養が欠けていて、逆に名君待望論的東洋思想のただ中にありながらそれを自覚しないため、為政者の個人的是非を云々していることです。
 これは学者にも大いに責任があり、つい数年前まで、憲法における「立法」概念について、通説?は、国家と国民との関係を規律する規範の定立行為などと、組織法に全く目をくれない官制大権的、明治憲法的、ドイツ的、中国的意識から抜け出していなかったのです。
 今、果たして本当に抜け出ているのか、大いに疑問と言わざるを得ません。
 このままでは本当に百年河清を待っても国家のコアの部分は変わらないでしょう。
 そんなことでは、つい最近の独立国にも劣る東洋の伝統的文化財?国家になってしまいます。

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★6月13日 
Monday, June 14, 2010, 12:01 AM
 東京の千代田区では、日枝神社のお祭りでにぎやかでした。
 東叡山寛永寺からみると南西に当たる江戸城の逆鬼門。いずれも比叡山・三井寺に対するもの。家康という人は常人の及ばぬ深い考えをもって江戸を造り、徳川の体制を造ったなと思われます。

 これらの社寺も江戸防衛のためですし、久能山のご神体に罪人を切らせた血塗りの刀を西国目指して向けさせた(葉隠などにあり)など鬼気迫るばかり。そのほかにも芝の増上寺の一角にある東照宮に自身の木像があることも、殿様の像がやられてはいけないと家臣が頑張るだろうという深謀遠慮かと思われます。
 鍋島直茂が敵に向けて小さな墓をこしらえさせたり、伊達政宗のお墓が仙台城の出丸というべき地点にあったり、戦国武将は戦略ということを本当に深く考えたなと思いますし、この発想は以前書いたフリードリッヒ大王も同類かと思われます(小さな墓で、愛玩していた6匹の犬と一緒)。
 
 ところが親の心子知らずで、三代家光ともなれば殉死した堀田正盛らは上野公園のそばに置いてけぼりで、自身の墓は日光に行ってしまう。
 正にここから葉隠のいう「上方風の打ちあがりたる武道」始まれり、という気がします。
 ところがこれを武士道なりと称している人が多いから困ったものです。
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★6月7日 
Monday, June 7, 2010, 11:16 PM
 友人で中国旅行などをいっしょにしたKさんがかつて言ったものでした。「日本人もドイツ人もスーツケースを蹴飛ばさない。やっぱりよく似ているなだよな」と(今は両方とも蹴飛ばし派?)。

 今、電車の中で読んでいる「ゲシュタポ・狂気の歴史」を読んでいるとつくづくそうだよね、と思われてきます。
 何世紀にもわたってお上の言うことに従順だった国民なんていう表現は日本人にすっぽり当てはまります。
 著者のジャック・ドラリュはあるナチ幹部の顔立ちの中に潜むモンゴリアンの血のことも取り上げます。彼らが歌い上げたアーリアン人種なるものが、あのあたりに純粋に存在したはずもない。
 ベルリンのニコライ地区を見れば明らかなスラブ文化があり、東方との共通性は顕著です。
 問題は、そんなわけなのに、「自分たちは特殊だ」と考える志向傾向。
 日本でも、いまだに日本人は特殊な民族、日本語は独自に発達した特殊な言語、などというありえない視野の狭い見方が大先生によって唱えられていることに大きな疑問を感じざるを得ません。
 まずは教科書をしっかり検証する必要を強く感じます。
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★5月29日 
Sunday, May 30, 2010, 12:03 AM
 1年過ぎた裁判員制度。ネーミング役さんたちは、順調な滑り出しなどと言っているようですが、何を基準に順調なのかさっぱりわかりません。司法への国民の理解が深まったなんていうのは正にお門違い。あそこは勉強の場ではないはず。適正な刑罰権の行使がなされているかこそが問題でしょう。
 ところが、わざと軽い刑で起訴してみたり何なりと・・・どうも(やはり)変。
 漏れ聞いたところでは、裁判員の恐怖感というかいやな気持ちを軽減するため、証拠を手直しとか。以前もマネキンが登場なんていうのもありました。とんでもないことです。
 怖いシーンを見ることができない裁判官が裁判官として不適格であるのと同様、見ることができない裁判員も裁判員として不適格です。適正な刑罰権の行使ができないのですから。もちろん、適正とは無罪の推定を受けている被告人の人権も踏まえてのこと(裁判員裁判も人民裁判じゃありません。当然有罪なんていう前提はありません)。
 早期にしっかり見直すべしです。
 
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