台湾の『歴史』から見る日本の東西(武士道とパラレル) 
Saturday, June 20, 2020, 11:19 AM
コロナのせいもあって、お休みしていました。
というか、この間に400ページくらいにわたる本を一応書き上げ、いずれお目にかけるべく頑張っています。

その本の中にもちょこっと書くのがこれです。

 最初に、なぜ武士道と台湾などという話が出てくるのかということですが、台湾には元々原住民族がいます。この人達は、現在は十いくつか、ほんの少ししかいない部族もいますので分ければたくさんの部族がいますけれど、一応14とか16部族とかで、共通語は日本語です。

そして、この方々が実は武士道とも大きな関係があります。というのは、昭和5年(1930年)の霧社事件に至るまで(本当はもう少し早くやめていますが)、彼らの中には首狩りという慣行がありました。出草と言います。

これはどういうことかと言いますと、物の本によれば戦国武士と全く同じ発想のことなのだというのです。首狩りは、台湾だけではなくて北東アジアにも広がっている話なので世界共通ですが、台湾の場合は、ボルネオ、ニューギニアと近いでしょう。

ただ台湾は、1661年からの鄭成功のオランダ駆逐以来、いわゆる「漢化」をしていきました。
オランダが治めていた台湾、台南に熱蘭遮城を築いていたところ、鄭成功によってそれが駆逐されたのです。

そして、その鄭成功の孫の代で(1683年)台湾政権が陥落して以降、清朝がここを治めましたが、台湾全土を治めたわけではなくて、要するに西の方が福建省になっていたわけです。
そして、その辺りにも元々首狩りの風習をもつ人たちがいましたが、「漢化」されてこれがなくなっていきました。それで出来上がった部族が平埔族です。
そして、平埔族はほとんど中国人と同じような格好にもなっていたのですが、もう少し旧来の伝統を残したもの、これをいわゆる蕃人の中の「熟蕃」といいます。少し中国文化に熟したわけです。そして治化政策に全く染まらない人達を「生蕃」といいます。「生(なま)」です。台湾においてはそのような区別があって、長く続いたわけです。要は、中国文明に馴染む地域、準馴染む地域、全く馴染まない地域ということです。そして、そこに首狩りという武士道にもつながり得るような風習がからむわけです。

一方、日本の本州の場合、江戸時代の学者・伊藤梅宇の『見聞談叢』によれば、京都の東の不破関から西を関西と言い、その東を関東と言います。
ただし、名古屋などは関東の一部なのですが、少し京都っぽいのでここを中京と言います。では、今我々が関東と言っているところは何というかというと、箱根の坂の東なので板東と言ったというわけです。これは長い日本列島、特にその中で本州というものが中国文明に化された地域、準化された地域、本来的な日本の地域という、こういう分け方になるだろうと思います。

そうすると、そこに京都政権と鎌倉政権との違いがあるわけです。京都政権は、やはり中華化した儒学的なヒエラルキー的な世界。それに対して鎌倉は平等の世界。法律も、京都・奈良は律令の世界。鎌倉は御成敗式目の世界です。それを体したお役人(武士)がいた。

そんなわけで、台湾と武士道は発送的につながりますよと言いたいわけです。

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千葉一族の西遷と日蓮宗 
Friday, March 6, 2020, 06:20 PM
江戸時代に馬渡俊継によって書かれた『北肥戦史(九州治乱記)』はこう言います。「右大将家の御時、中祖千葉介常胤、鎮西の監職にて、関東の所領の上、肥前国小城郡晴気庄を給はりしより、子孫代々、当郡の地頭となりぬ、常胤六代の孫千葉介頼胤、去ぬる文永年中、蒙古の武備として当国に下りてありけるが、同十一年の冬、蒙古と相戦ひ疵を被り、其手癒えずして翌八月十三日、小城に於て歳三十七にて失せぬ、其子二人、関東にあり、中新介胤宗は、総領を嗣ぎて下総国を領し、太郎宗胤は肥前国小城を知行しけり、此宗胤、永仁三年(あるいは二年とも)正月十六日卒去し、其子大隅守胤貞が時、建武元年甲戌、始めて下総国より肥前の小城へ下向しけるとぞ聞えし」と。

鎌倉幕府の開府にあたり、1180年、石橋山で敗れた源頼朝は土肥実平の手引によって房総に渡り、千葉常胤の手厚い歓待を受けました。その後の常胤の処遇、鎌倉幕府における位置づけについては『吾妻鏡』を見るとよくわかります。即ち、将軍に、毎年の正月にご飯を献ずる「椀飯」という行事において、千葉一族は、ほとんどその元旦の奉仕をしています。

頼朝がいかに常胤を尊敬していたかについては『千葉氏』(千野原靖方)に「公文所・問注所が設置された翌月の11月21日のこと、頼朝は要用があって問注所寄人の筑前権守俊兼なる者を召し出した。俊兼は華美を好み、この時も行粧を繕い袖褄重色の小袖十余領を着て御前に参進し、これをみた頼朝は俊兼の刀を召し、みずからその刀を取って俊兼の小袖の褄を切り落としてしまった。そして「汝富才翰也、盍存倹約哉、如常胤・実平者、不分清濁之武士也、所謂領者、又不可双俊兼、而各位服巳下用鹿品、不好美麗、故其家有富有之聞、令扶持数輩郎従、欲励勲功、汝不知財産之所費、大過分也」(【読み下し】汝才翰に富む也、なんぞ倹約を存ぜぬ哉、常胤・実平の如きは、清濁を分たずの武士也、謂ふに所領は又俊兼に双ぶべからず、而して各位服巳下用鹿品を用い、美麗を好まず、故に其家富有りの聞こえ有り、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功に励み欲す、汝財産の費やす所を知らず、大いに過分也)と頼朝は俊兼を戒めた。俊兼は言葉もなく面を垂れて敬屈し、向後は華美を停止することを誓い、これを傍らでみていた広元・邦通らも皆魂を銷す思いであったとある。『吾妻鏡』は、常胤を賞賛して引き合いに出し、(彼を)御家人の鑑として扱っているのである。」とあるとおりです。

いずれにしても、こうして千葉一族は小城晴気(はるけ)庄地頭に補されました。そして、元寇のとき、千葉一族の中の長男系が、異国警固番役として九州に赴くことになり、千葉頼胤が博多で蒙古軍との戦いにおいて討死するということがありました。現在、佐賀の小城・鎮西総本山日蓮宗松尾山光勝寺には頼胤の墓がある一方、千葉にもあるそうで、このあたりは何しろ古い話なのでよくわかりません。そして、その子宗胤、胤宗の内、宗胤が佐賀に下向し晴気に居住し、弘安の役にも出陣。佐賀に領地があるだけでなく、千葉でも惣領として領地を保有しており、どこにあったかというと現在の市川から真間のあたり(千田庄、八幡庄など)だそうです。一方、弟の胤宗系は、千葉に土着しているので、次第に実力を高めていったとか。

そして、そんな中、『成田参詣記』によると、現在の東京湾上において日蓮と千葉一族の家来富木常忍とが出会うということがありました。そして、富木常忍はすっかり日蓮に帰依するところとなって、岩波の日本古典文学大系の説明(兜木正亨先生)には、この人につき、以下の説明があります。
「『立正安国論』の提出は表面的に幕府の採用するところとはならなかったが、非難を受けた念仏・禅の人たちの策謀は大きな波紋となって日蓮に及んできた。立正安国の主張は日蓮の生涯をとおして一貫して変らなかった。教義・思想の上では、佐渡配流を境として一線を引いて、転換の時とするが、『開目抄』にも『立正安国論』の名は末文近くにあげられており、その他の遺文にもたびたび引き合いに出され、全遺文には約三十カ所にこの書名が引かれている。安国論の提出によって翌月27日に松葉谷の草庵が暴徒のために焼かれ、日蓮は前からの外護者であった下総若宮の富木常忍の邸に身をよせた。今の中山法華経寺は富木邸を寺とし常忍を第一祖とする。第二世をついだ日高は、太田乗明が出家した後の名であるが、乗明や曾谷教信等の入信はこの時に始まったものであろう。弘長元年(1261)鎌倉に帰り、5月には鎌倉の浜から海路、伊豆に流され、同3年に赦されて鎌倉に帰るまでは伊豆の伊東に配流の時を送ったが、『四恩抄』・『教機時国抄』などはこの間の著作である。文永元年8月には故郷に帰り、母の病を見舞い、その病を治したといわれる。11月、安房の国東条の小松原で地頭東条景信の襲撃にあったが、あやうく難をまぬがれた。」と。こうして、常忍は、自らの城を提供して現在の中山法華経寺になったということです。

この中山法華経寺は、その後、中山門流となり、やはり千葉一族の日祐(胤貞の猶子)という人がこれを大々的に発展させました。この発展の流れが、鎌倉の小町大路にある妙隆寺等々のお寺であるとともに、日祐は九州の下って光勝寺の開山となり、室町時代妙隆寺にいた足利義則との関係で有名な日親がやはり佐賀の光勝寺に下ったとの話があります。かくして小城には千葉一族の守り本尊ともいうべき妙見社(千葉では現在千葉神社と言いますが、小城では伝統的な妙見社)があったり有田には焼き物がしっかり焼けるように祈祷する法元寺があったりなどなどの、広い展開を見せます。

そして昭和46年、千葉のニュータウン建設に伴い、肥前の銘のある釣鐘が発見されました。これは日本で4番目に古い釣鐘で、どうも佐賀の小城から、千葉での宗胤系と胤宗系との戦争についての、応援のために陣鐘として持ってきたという説があります。そんなわけで改めて中世の人々の移動の広範さに驚かされる次第です。

ところで、日蓮という人が日蓮宗を開いた理由というのをちょっと見てみたいと思います。上記「日本古典文学大系」の解説によりますと、要は、彼は比叡山に上って様々な勉強を重ねた揚句、円仁らの影響によって伝教大師が本来作ったところの天台宗の奥義が失われ、密教化していることを憂いて、それで法華経そのものに立ち返ることを考えたということのようです。それが確かに他宗を誹謗するという話になるのかもしれませんがその勉強量はすごいです。それとともに、親鸞ついては一切批判がないというのも面白いところで、一切の雑業を捨てて法華経に帰依するか、阿弥陀如来に帰依するかという類似性のせいでしょうか。また、日蓮宗というものが、批判の割には、律宗寺院との関係が極めて深く、この点は、日蓮宗の東京湾沿いの寺院と金沢文庫の称名寺(真言律宗)との関係などから見ると、むしろ商業的な営みの中でコラボしているという面が見られるようにも思います。このあたりが、現在も品川駅付近にたくさんの日蓮宗寺院があることにも関わっていくのでしょうか。中世は品川こそが正に東京港でしたから。

なお、千葉一族は九州だけでなく、全国展開しており、東北の相馬、亘理、東などなどにわかれ、それぞれの地に妙見菩薩が祭ってあります。そのほか、東国武士が鎌倉政権の命令で全国展開していったことは、いわゆる「鎮西御家人」として、極めて大きな意義を有します。ちなみに、『葉隠』に出てくる多くの武士の祖先が実は東国武士でもあります。

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今年の年賀状から 
Thursday, February 6, 2020, 08:34 PM
今年は明智光秀が大河ドラマの主要登場人物らしいですね。そこで、『名将言行録』からこんな話を引用してみました。

「秀吉曰く、信長公は勇将なり、良将にあらず、剛の柔に克つことを知り給ひて、柔の剛を制することを知られず。
一度敵せる者は、其の憤怒終に解けずして、悉く其根を断ち、其葉を枯さんとせらる、故に降を誅し、服を戮せられ、寇讐絶することなし。
是れ量狭く器少なるが故なり。人の為めに憚らるれども、衆の為めに愛せられず、譬ば虎狼の如し。

其嚼れんことを怖ると言ふとも、見る者之を殺して、其害を免れんとす。是明智が弑逆の依て生ずる所なりと。依て秀吉は其弊を革(あらた)め、敵する者は之を伐亡せしかど、降参せば、譜第同前に懇にし、心を置かざる故、昨日まで敵対せし者も、身命を棄て忠節を致すべしと思ふ故、謀反する者之なく早く天下を平治せり。」と。

 というわけで、「事件」にはそれなりの理由があったのかもしれませんし、秀吉の生き方や考え方も参考になりますね。

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伊勢神宮と中江藤樹 
Sunday, February 2, 2020, 07:03 PM
旧正月もおしまいですが、伊勢神宮の参拝が結構盛んなことから、そのことについての、いわば原理原則論と武士道との関係を考えてみたいと思います。

そのきっかけになるのが、中江藤樹という人の生き方です。
今や、近江聖人・中江藤樹の名前も忘れられそうですが、昔は孝子として、聖人として、有名ですよね。この人、1608年に生まれ、わずか41歳で亡くなった江戸時代最初期の人です。彼が書いた本、特に『翁問答』の後半部分は、士道(さむらいどう)としての侍の生き方を書いています。その中に『甲陽軍鑑』のことも書かれていますから、多分、「武士道」という言葉を最初に多用した『甲陽軍鑑』より、若干後れる書物ではないかと思いますが、いずれにしても最も古く「武士道」や「士道」を説いている一人ということができます。

さて、中江藤樹の一生の概略は彼の年譜によって知ることができます。まずは、近江の農家に生まれたのですが、おじいさんが加藤公の家来として、米子や伊予の大洲で仕事をし、彼はそのおじいさんの養子となって、大洲に行きました。しかし、27歳のころ、当時もう高齢になっていた母のため、郷里の近江に帰ったというわけです。このあたりについては、その昔の、講談社だったか小学館だったかの絵本では、若くてきれいなお母さんが帰ってきた中江藤樹を「学問の途中でやめてはいけません」と叱る場面等が出ていましたが、実際は相当な年寄りであり、藤樹も27歳になっていて、あれははっきりいって?です。
そんな話は別として、まず彼の勉強ですが、最初は朱子学から入りました。そして、彼にとって大きな問題が「格套」ということです。要は、朱子学的なピッチリとした原理原則を大事にするということです。それは一言で言えば「述べて作らず」。特に「四書」という朱子の編み出した4つの経典をそのまま内容を深化させるだけという、悪く言えば道学先生的なコチコチです。なので、彼は30歳の時、結婚します。これは論語に「三十にして立つ」という言葉があることから30歳で結婚したということの様で、いかにもコチコチ人間であることがわかります。

ところが、彼の考えは段々と深まっていきました。特に、儒教の根本的な経典である『孝経』の「孝」という考え方が、一般的には親に対する孝行、というものだったのを、どんどん深めていきました。「孝」の観念は、東アジアにおける新石器時代からのものともいわれ、現に博物館などでもそのような展示が見られますが、要するに、この体は親から受けたものだ。だから「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という有名な言葉になるわけです。そして、そこから「忠」というものも生まれてくるというようなわけで、儒教の根本です。
ただ、中江藤樹はこれをさらに深めて「孝」の元はなんなのかと考えた時に、それは「天」であり、天そのものが孝である。それは、我々の体の中に体されているということになりました。しかして、日本で天というと天照大神が祀られている伊勢神宮。しかし、30歳前半までの藤樹は、伊勢神宮はあくまでも、この格套の観念からいくと、皇室の宗廟であるから一般庶民が参るところではないと考えていたわけです。これはある意味儒教の常識であって、『佐賀新聞(2007年7月13日・高尾平良)』にも伊勢神社の話が出ているのですが、「伊勢神宮は古くから皇室の宗廟として、未婚の皇女である斎宮によって奉祀され、神前への奉幣も天皇に限られ、皇族の奉幣すら禁じられていた。が、9世紀には皇室内の主導権争いにからんで、伊勢神宮に奉幣する皇族・貴族があらわれ、延暦年間(782-805)の『皇大神宮儀式帳』によれば「王臣家ならびに諸民、幣帛を進めせしめず重ねて禁断、若し欺事をもって幣帛を進むる人を流罪に…」と、天皇以外の奉幣を重罪としている。しかし10世紀初めの『延喜式』の『大神宮式』には「…幣帛を、三后・皇太子もしまさに供すべき者あらば臨時に奏聞せよ」と皇后・皇太后・太皇太后および皇太子に限り天皇の許可を得ての奉幣を認めている。古い時代の伊勢神宮は、庶民信仰とは程遠い神社であった。」と書かれているとおりです。

そして、このことを強調したのが、むしろ後代になるのですが、水戸黄門であり、『日本倫理思想史』を書いた和辻哲郎先生は「士道の立場は怪力乱神を説くことを好まない。『西山公随筆』などには顕著にこの傾向が現れている。伊勢神宮のために初穂を集めて歩く御師の活動などは、彼(水戸黄門)の喜ばないところであった。元来伊勢は日本の宗廟であるから、その祓、供物などは、民衆のたやすく受くべきものでない。これが彼の主張であった。…士道の立場はまた鎌倉時代以来の武者の習をも好まない。軍記物で賛美された主従間の献身的道徳は、室町時代にあっては、義経記や曽我物語として民衆の間に沁み込んだが、しかし義経主従や曽我兄弟のような民衆的英雄は、光圀の眼には、士として上乗のものではなかった」。と言われています。
これが葉隠武士道と対極の「士道」です。

したがって、水戸黄門の場合は、伊勢神宮に当時あった御師、即ちお札をくばる職業などはとんでもないことだということになり、その伝統が現在も伊勢神宮にはありますから、そこには、賽銭箱というものが原則的にありません。あくまでも特に伊勢の内宮は皇室自体の宗廟であり、お参りをするのは皇室だけだというような考え方なのです。私達の今の常識からは相当離れていますね。しかし、それが逆に伊勢神宮がアジア的、ということでもあります。

もう一度話を中江藤樹に戻しますと、彼によれば、天照大神というものは天であったという考え方です。そこで、ちょうど33歳の時、王陽明系の王龍渓の書に触れることがあり、ここで初めて格套から抜け出すことができ、真実性というのはこの我々すべてのなかに備わっているのであり、その大本は天にあるのだというような、分かりやすくいえば大きな発想を持ち、そして、伊勢神宮をそのための大切な場所という風に認識し直しました。それで34歳の時、初めて伊勢神宮に参ったというわけです。

こうして彼は、現在では日本における陽明学の祖であると言われており、また水戸黄門らの朱子学をもとにした山崎闇斎的な武士道とも全く異なる発想をもった、私にいわせれば広い考え方を持った士道の人だということができると思います。この考え方は、さらに押し詰めていけば、あらゆる宗教の同一性や世界的な広がりに繋がっていくのではないかとも思ってもいるのです。

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戦争時、法はとまらなかった!? 
Monday, December 23, 2019, 12:53 AM
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そもそも北部九州において、鎌倉時代・源頼朝からその統治権を与えられたのは、横浜を出身地とする武蔵の藤原氏、即ち武藤氏であり、太宰の少弐に補されたことから、後に少弐氏を称しました。武藤弐の前は、平家の家人・原田種直らが少弐家を継承しており、要は日宋貿易の日本側の窓口となる地位が少弐だったというわけです。律令のいわゆる四等官制の中で太宰府の場合は、「帥、大弐・少弐、大監・少監、大典・少典」の区別があり、実際上は現地の少弐が最も大きな力を持っていたようです。

ですから、当時の唯一の貿易港・博多を押さえた少弐氏は、極めて国際的かつ重要な地位にあり、また、もちろん利権を持っていたということです。ちなみに、同じ九州の東側は大友氏が、南は島津が、やはり鎌倉幕府からその統治権限を与えられていました。のちに、大友氏も、博多については、特に息浜(おきのはま)を押えて貿易にかかわりました。このような鎌倉以来の少弐氏の地位を簒奪し、筑前・博多に利権を得ようとしたのが中国の大内氏というわけです。

大内氏は、百済の琳聖(りんしょう)太子の末裔を称して朝鮮貿易を行い、特に大内義弘は、朝鮮に領地を請うことまで行い、日本史でも習う応永の乱において、堺で室町幕府の足利義満への反旗を翻し、鎌倉の足利満兼とタイアップしてそれを滅ぼそうとしましたが、敗北しました。しかし、その後も、弟盛見らは、国際性による十分な財力に物を言わせ、少弐氏を圧倒する姿勢を示します。

この間、将軍から中国との貿易権を得たことは、数回前の「寧波の乱」に書いたとおり。

そのような中、応仁・文明の乱で、大内氏が京都に出払っている間に大宰府を回復したのが少弐政資でしたが、1497年、佐賀の多久に追い詰められて、遂に自刃。
「花ぞ散る 思へば風の 科ならず 時至りぬる 春の夕暮」は時々お話する名歌です。
かくして、1530年頃、大内氏は佐賀を攻めましたが、田手畷の戦いにおいて鍋島清久の軍勢のため蹉跌。ただ、これらの龍造寺、鍋島らの勝利は全く局地的なものでしかありません。少弐政資の後が少弐資元ですが、これまた多久で自刃に追い込まれました。一方、大内義隆は1550年、上記局地戦の勝利に貢献して力をつけ戦国大名化してきた龍造寺隆信に、自身の「隆」の字を与えて「隆信」とし、現在佐賀にある高伝寺も山口の瑠璃光寺の末寺というわけで、着々と肥前にその地歩を占めようとしました。国宝の瑠璃光寺の塔は、中国南部の塔との共通性を強く持っています。しかし、ご存知の通り大内義隆は1551年陶晴賢のため、長門の大寧寺に於いて自刃に追い込まれます。一方の少弐氏はその後も少弐冬尚、少弐政興まで頑張っていましたが、ついに龍造寺隆信のため、その命脈を断たれることになります。

この流れをどう見るかということなのですが、一つは鎌倉政権が下した一種の行政処分(現代の法律学では公務員の任命行為は講学上特許といわれます)としての地位が数百年にわたって法的権威を持っていたこと、それによる貿易権が大きな意味を持ち、大友氏も正に鎌倉的秩序を維持しようとして肥前に攻めて来たりしていました(1570年今山の戦い)。こうした「法的地位」は全国的に確固たるもので、だから守護大名、戦国大名の区別もできたと思います。例えば、会津の芦名氏は、これまた頼朝からもらった地位を、伊達政宗に滅ぼされるまで、400年にわたって維持してきたというわけです。

「戦争時法は死滅する」というのは一つの法諺ですが、逆に、このような戦国時代の方が、自らの法的地位をきちんと提示しつつ戦争を行うという意味から室町幕府、あるいはむしろ朝廷による地位というものを大義名分として押し出して戦争をしていた。ですから、大内氏は少弐に優るために、太宰の大弐を手に入れるということも行われました。そのような法的な仕組みがあったればこそ、足利将軍もそう簡単には滅亡しないで、後々までもその地位を維持したということでしょう。織田信長は、確かに足利義昭を追放はしましたが、将軍家が潰れたわけではないわけです。

逆に、徳川時代になってからのほうが平和になって、そのような厳しい法の運用がなされなかったともいえます。例えば、末弘厳太郎教授の言われる「嘘の効用」などというのは、その極致とさえ言えます。法の解釈、即ち「嘘」に「効用」があってよいのか、名著ではあるもののちょっと反省してみたいものです。果たして現代はどうなのか。平和であるがゆえにこそ、法の支配が貫徹されて…いないかもしれませんよね。
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江戸時代における大陸からの人々の渡来とその武士道への影響について 
Saturday, November 9, 2019, 06:58 PM
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1600年代における外国人特に明人の日本への渡来の大きな原因は、1644年の明の滅亡ですが、その前に秀吉の文禄・慶長の役もあります。そのやってきた明人たちの数については、100年後1700年ころの長崎の統計では6万人の内の1万人、全国では数万人規模でやってきたことは間違いありません。

『外来文化と九州』の、ごく一部を引用すると、「はじめに、九州以外の各地における戦国末から鎖国前の在住唐人の活動の一端を、寛政6年跋の小宮山昌秀『西州投化記』等に拾ってみよう。古くは遣明船の通事の宋素卿こと朱縞・林従傑・閻宗達、奈良西大寺で豊心丹の製造法を伝えた張三官、京一条で饅頭屋を営み虎屋の祖と言われる三官、幼くして倭寇の俘虜となり、のち嵌金等の工芸に秀れた淅人の潘鉄、同様の事情で渡日し京都妙覚寺で写書等にあたった福建興化府出身の陳体経とその父や兄があった。信長に召出されて安土城の瓦を焼き、その技法が全国に波及したとされる瓦焼一官(一寛)と、江戸芝の「八官町」に屋敷を与えられ町名はその名に因むという子の八官、天正7年(1579年)に家康の夫人関口氏を治療したという唐医減慶、また子が上総介忠輝に仕えて妻の姓により花井遠江守と称し松代城2万石を領し、孫は旗本の主水正義雄と名乗った唐人八官もいる。……」と枚挙にいとまなし。これは「九州以外」のさらに一部なのであって、同書では、佐賀を除いた博多・臼杵・府内ですら甚だしく多いです。

その中国人(明人)たちがどういう気持ちでやって来たかというと、唐通事は明の遺民とその後裔で、日本古代の鴻臚館、清朝でも鴻臚寺の属官として、たんなる訳官ではないわけで、他のオランダ通詞などとは異なり鴻臚館の格式に則った「通事老爺」として唐人の尊敬をうけている云々と。つまりは外交官。
彼らは、親の代は中国系の服装もしていますが、子どもの代になると完全に侍の恰好になって名前も「○○衛門」などと改め日本人になってしまいます。その為、同書でも「同化した」という発想で書かれています。

しかし、私としては、同化ではなくて逆に日本の中にそれらの文化が入り、あるいは徹底的に扶植したのではないかと思います。
そして、元からいた日本人も、その新しい文化に目覚めて、自分たちの行動様式を完全に変えたのではないかと考えています。ちょうど戦前の日本がアメリカに占領されることによって、今の日本になったこと以上の深甚なる影響があったのではと。要は影響を与えたのが「アメリカ」だったか「明」だったかというだけの違いです。こんなことを書くと「固定観念」からの反論があるかもしれませんが、その現象は、今の中国に日本が同化されたというわけではなくて、そもそもその前の明と清とが全く違う国だったということを踏まえなければなりません。明は伝統的中国国家、清は北方ツングース系の国です。それは、北京と南京との違いを見ればわかることですし、ここ数十年前の蔣介石の行動からも見て取れます。ここのところを正確に考えないために、「同化」という表現が出るのでしょう。それどころか、現に実際に、山崎闇斎系の「神儒一致」の武士道が出現したこと、「武士道観」がすっかり変わってしまったことを見なければいけません。

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この下の話につながる寧波の話 
Wednesday, October 16, 2019, 07:22 PM
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この下の、脊振山の話しで一部ふれた、日本と中国との貿易における中国側の入口である寧波について一言。

まず現代の寧波です。意外に日本では知られていないかもしれませんが、日本政府作成の「世界の港湾取扱貨物量ランキング」で2017年、世界第4位という大きな港です。ちなみに同じ表で日本は、2002年には20位までの間に千葉と名古屋とが入っていたのに、2017年の統計ではいずれも圏外に外れてしまいました。空港もぱっとしません。日本はもっと頑張らなければいけないとつくづく思います。
ところでこの寧波、位置的には上海の南、杭州湾の南にあって、日本の五島列島をまっすぐ伸ばすとこちらの港に行き着きます。そして、遣唐使の時代から千年以上、この寧波から運河を通って紹興、杭州と通り、蘇州から鎮江、揚州そして大運河を通って長安や北京に行くというのが日本から中国へのメインのルートでした。ですから昔から、たくさんの日本船がここにやってきました。しかもこの寧波の東側には舟山列島という合計すれば1000にも上る島々があり、正式な貿易ができないときにはこの舟山列島を通じて私貿易が行われました。

ここでは、遣唐使の時代は(空海や最澄がいますが)とりあえずカットして、中世においては栄西や道元をはじめとした多くの僧、特に禅宗の坊さんがこの寧波に行たことを指摘したいと思います。寧波の近くには、天童寺や阿育王寺、足をのばせば天台山、さらには霊隠寺、径山寺などなどの多くの寺が集まっています。ですので、日本から坊さんが行ったのも当たり前です。もちろん中国からも蘭渓道隆、無学祖元など多くの僧が来ました。

そして、貿易の面では、鎌倉の寺社造営料船はもとより、室町時代には足利義満による勘合貿易の勘合船がここを通りました。したがって、福岡市立博物館や寧波博物館を訪れると、例えば博多の商人が寧波に道路を寄進したその石、寧波で焼いた瓦が博多のお寺で使われていることなど、様々な交流のあとを見ることができます。

しかして、時代が下って室町時代後期になると中国地方の大内氏が将軍の持っている貿易権を簒奪します。その貿易ルートは兵庫つまり今の神戸から博多を通って寧波に入っていきます。また大内と対抗する細川氏の場合は、堺から南海公路を通って鹿児島の坊津からやはり同じように寧波に入ります。こうして、博多と堺が重要になり、この2つの港の勢力つまりは日本人同士と、元中国人である日本人(?)とがちょうど寧波でぶつかったのが1523年の「寧波の乱」というわけで、この際、細川方は期限切れの勘合符を利用し、明の官憲と結託して席次も上位に座ったため大内と細川の騒乱になって、隣の国で相当な戦争を行ってしまったということ。これが「寧波の乱」で、その昔日本史で聞いた話でしょう。
こうした状況を大きく見れば、いつも言うとおり、「当時は武士と商人とが一致」という中世らしい姿です。

この「寧波の乱」の後、日本が正式に中国に入って貿易することが困難になり、上記私貿易、舟山列島を中心とする私貿易が一層盛んになり、当然倭寇が跳梁跋扈し、その中の頭目である王直(彼の家の跡は平戸などにあり)が、1543年、ポルトガル人を種子島に連れてくるということもありました。いずれにせよ、全て寧波がらみの話しです。

一方、江戸時代に入ると、博多ははずれて、長崎が日本の出入口に。そして、中国が許可状を出す勘合貿易とは逆に、江戸幕府が許可状を出す、特に糸割賦制というものが始まりました。中国産の生糸をポルトガルなど経由で輸入するについて、ポルトガル商人らの儲けを押えるため、日本人の糸割賦仲間とだけ貿易ができるという逆管理貿易です。鍋島にもその割当てがありました。中世における日本と中国との貿易は中国による管理貿易であった「勘合貿易」、江戸時代に入ると今度は逆に、日本による管理貿易(朱印船や奉書船も)ということになったと言ってよいかもしれません(これまた「ド」のつく素人の私の考え)。

東シナ海というところは、江上波夫先生らによれば、日本と大陸を映す鏡であると言われるのですが、ちょうど法的な貿易の仕組においても、中世と近世において、よく似た、しかし真逆のことが行われたという意味では一つの鏡的な働きをしていたということでしょうか。

さて、話を戻して、寧波と日本とはそのような長いつながりがあったのですが、その寧波が日本の武士道に最大の影響を及ぼしたのが何かと言いますと、これまたいつも通りの1644年の明の滅亡と、それにより日本吃師を行った明人・朱舜水がこの近くの人だったという事です。彼は復明のために日本に何回も使いし(来たのは長崎とか)、その影響を大きく受けて、中国の『史記』にならう『大日本史』を作ったのが水戸黄門だという事はかねてより壊れたテープレコーダー式に書きました。現在「寧波博物館」に行きますとその『大日本史』がしっかりと置いてあります。

東京帝国大学教授・穂積八束によれば、この『大日本史』が導いた水府の史論(後期水戸学)が明治維新を惹起したと言われているわけなので、明治維新を起こしたのは、この朱舜水たち明人だという考えもあります。これはほぼ100%当っていると思います。

最後の部分はバックグラウンドが分からないと理解しにくい話で、日本の中学高校教育において、日本史・世界史という分類により、アジアの歴史が日本の歴史にどう投影しているかということがしっかりと教えられていないことが問題かと思います。元文科省主任教科書調査官にも再三お話ししましたことなのですが。
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貝原益軒の発想と日本という国 
Tuesday, August 20, 2019, 10:45 PM
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葉隠には、福岡県、佐賀県の境にある脊振山の境界争いについてこんな記事があります。ちなみに脊振山は気象や自衛隊のレーダーサイトがあることでも有名な西日本で最も重要な山の1つです(昔は背振と書いたのですが数十年前に脊振と改名)。

「弁財公事の時百姓共相詰め候事 境目御見分の上使御下向に付、久保山公役(くやく)相當り候へば、百人の所に三百人も罷越し候。それに付山中多人数相見え、十左衛門殿より相尋ねられ候処に、百姓共申し候は、大事の時節の公役にて候へば、余計に罷出で候由申し候に付、耕作の為に罷成らず候間、相当の分罷出で候様に。と御申付け候。然れども人数相減らず、野も山も人計りにて候故、又々穿鑿これあり候処、明後日に相當り候夫丸共、今日より罷越し候。此の時節、公役と承りながら内に居り申す儀罷成らず。と申し候由。」と。

さて、この山の頂が争いになった、鍋島藩(つまり佐賀県)か黒田藩(つまり福岡県)かが争いになったことに関与した人に福岡の儒学者・貝原益軒(1630年〜1714年)がいます。現在の福岡市に生れて黒田藩に仕え、京都や長崎に遊学して朱子学を身に着けました。黒田藩に仕えた間に書いたのが『筑前国続風土記』で、印刷した本でも20センチ以上あるかもという大部な本であり、現在の福岡県の筑前プラスαの相当部分の地誌について細かく書かれています。私は、この本を、より広い見地から見直してみるべきだと思っています(日本全体の歴史を考えるについても)。

「背振山は、板屋村の西南に在り。国中にて勝れたる高山也。…山上に神社あり。此上に登るに、板屋邑(むら)より原野を十二三町許登り行けば林木あり。又潤水あり、祓川と云。…老幼病弱なる者は、前なる人の帯に取付、後なる者に腰を押されて登る。板屋より御社まで廿二三町許あり。山上より四方窺い望めば甚廣遠也。秋の頃天気晴朗にし烟靄なき時は、朝鮮国見ゆ。春月霞多き時と云へ共、曇らざる日は、壱岐対馬まで能(く)見ゆ。対馬は是より百里あり。」「三代実録に、清和天皇貞観十二年五月廿九日庚辰、詔して筑前国正六位上背布利神に従五位下を授給ふと記せり。然らば朝廷よりも、殊に祟させ給ひし神なるべし。足利尊氏九州下向の時、白旗を棒て祈願有し事あり。」「又里民の云傳ふるは、古(いにしえ)辯才百済国より爰に来り給ふ時、乗給ひし馬の背を振たる故に、背振山て名付たりと云。」

というわけですが、益軒先生は、上記のとおり、背振山の頂上から朝鮮半島が見えると言うのです。私もそう思います。私自身、脊振山からは見ていませんが秀吉の名護屋城から対馬を見たことがあります。釜山との距離は、その半分もありません。それが1055メートルの山の上からは、晴れていればはっきりと朝鮮半島が見えるわけでしょう。そうであるからこそ、この「背振」という名前の由来には2説あり、一つは「ソウル」、韓国語の首都という意味、もう一つは上記百済の王女が馬に乗って日本に来る時に、馬の背が揺れたと言う話。いずれにしても、韓国系の話です。それゆえに、背振山の上宮東門寺は山頂にあり、天台宗の大寺で、その下宮は福岡側に。下宮から上宮までまとめて福岡県というのが彼の立論です。

「建武三年、當山僧院の田宅の券契にも、筑前国早良郡(福岡の地名)上宮東門寺とあり。又天正六年波多江氏の證文にも、早良背振の上宮と有れば、上宮は筑前国なる事、其證明なり云々。」と。これは宗像大社などとも同傾向です。

しかるに、平安・鎌倉時代になって、栄西禅師が、彼自身は中国に渡る前、永く福岡の誓願寺などにいたのですが、2度目の帰りは筑紫山地の南側を通り、現在の脊振町の霊仙寺の近くにお茶の木を植えた。ここら辺りから山の南側が元気になりました。そして、現在も脊振神社の中宮は南側つまり佐賀県の脊振町にあるというわけです。

この流れをよく考えてみると、律令時代くらいまではやはり韓国との関係が相当強くて、山の北側の方が韓国に向いていたというのもあって北からの文化も相当流入。それが中世に入って平戸から東への山の南側のルートが盛んになり、中国、特に寧波に行った禅僧たちがもっぱら平戸、武雄、神埼、太宰府といったルートを通るということから脊振が山の南になったのかもしれません。「日本語」というものの語順(韓国的)や単語(漢語)にも関係します。全くの素人である私の推測に過ぎませんが、しかし大きく見るとそういうことなのかなと。

この益軒先生、本格的な著述は70歳を過ぎてからはじめ、沢山の本をかき、84歳のときにはついに「大疑録」という本を書いて、これは大いに疑う本、何を疑うかというと、朱子学というものを根本的に疑っています。私としては「先生、朱子学者という看板を下ろした方がいいですよ」といいたくなるところもあります。

しかし、その朱子学の格物致知の延長が『筑前国続風土記』であり、もう一つの大きな本としては『大和本草』が挙げられますが、これは中国・明の李時珍の「本草綱目」にならう博物学の大部な本です。彼が長崎や京都に遊学した影響が大きいでしょう。その意味で西洋の影響も大いにありです。

ちなみに、貝原益軒というと、『女大学』が有名で、「女は嫁しては夫に従え」みたいなことを言っていますが、これは全くのウソで、益軒先生の文章を改造した本ですので念のため。
いずれにしても貝原益軒が韓国が見えるという話からそういう解釈をしているのは相当当っている気もします。残念ながら黒田藩は負けてしまい、一方鍋島光茂も「弁財嶽境公事御利運の段申来り候節、『同役と云い、隣国の事なるに、笑止のこと。』と御意なされ候事。」というわけで、相手を思いやる言葉を述べていることに、これまた我々は学ぶべきものを感じる次第です。
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世界の宗教事情を解くもの 
Friday, July 5, 2019, 07:27 PM
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葉隠にはこんな話が出てきます。即ち、鍋島直茂のお祖父さんである鍋島清久の話ですが、「鍋島清久夫婦、村の祭禮前に毎夜堀をたたき鮒を追うて廻る…として、

鍋島平右衛門尉清久公、本庄村に御座なされ候。祭礼前方には、毎夜御夫婦様棹を御持ち御出で、終夜堀を御たたき、方々なされ候。祭礼用に、人々堀を干し鮒を捕り候に付、魚逃げ候様にと思召され、右の通り遊ばされ候。その外、御善根御慈悲、限り無く候。兼々彦山御信仰なされ、毎歳年越に御参籠なされ候。或時上宮なされ候ところ、大雪降り道筋相知れず、ほき落ちなされ、谷へ御落ちなされ候。其の辺を御探しなされ候へば、弥陀の三尊御拾ひなされ候。御持帰りなされ、徳善彦山御勧請の御本尊にあそばされ候。彦山の本地弥陀の三尊にて候由。不思議の御事にて候。其の功徳にて御家御繁盛と相見え候由、古老話にて候。」と。

清久は、応仁2年(1468年)、本庄館(佐賀郡本庄村)に生まれ、天文21年(1552年)3月8日85歳で亡くなった人ですが、彼は、慈悲に富み、深く神仏を崇敬し、毎日産土神社本庄社に参拝するなど信仰の事例が多いとされ、殊に彦山を信仰して毎年籠り、3年に一度盛んな彦山祭りを催し、かつて雪中参山参詣の時、崖から落ちて阿弥陀の三尊を拾い、徳善権現の本尊として勧進したなどと『校注葉隠』にあります。

清久が、現本庄神社で行なった鮒を逃がしたことは、中世的に言えば「放生」と言えるでしょう(鮒の昆布巻きにされないように)。つまり、生きとし生けるものを大切にするために魚を放したり、鳥を放鳥したりというアジア全体にある善行の一つです。これは石清水八幡宮などの八幡宮の放生会が有名で、当然鎌倉時代においては鶴岡八幡宮においても行われました。『吾妻鏡』を見ますと、毎月15日を不成就日として、その日には鶴岡八幡宮の例の2つの池に魚を放すという行事が行われました。ですから、私としてはこの清久の行為は清久だけではなく、中世全体を貫く一つの大きな行事だと思っています。

特に鎌倉時代と言いますと、私がかつて住まいした金沢文庫の傍には六浦という海がありますが、そこは文庫を作った北条実時によって殺生禁断の場所になりました。それだけではなく、その六浦から朝日奈の切通しを通って鎌倉に行く道は非常に難儀な道なのですが、牛馬を使って物を運ぶということから、その牛馬を供養するための宝篋印塔が金沢八景のすぐそばにある上行寺(日蓮宗)にもあります。つまり、鎌倉の東側がそのような生き物を大切にする場所だったというわけですが、実は西側も同じで、藤沢側の極楽寺には病人をケアするための薬の鉢などが色々と残っています。また、その極楽寺坂を由比ヶ浜方向に下りた所からはたくさんの牛馬の死体が発掘されたりしているようです。その様な場所であらばこそ、その北側には大仏様が安置されているということになるようで、とにかく生きとし生けるものを大切にするという観念は、鎌倉武士として、そして、戦国時代の清久の代までつながって来たということでしょう。戦いが次々と発生すればこそ、とも言えます(金沢文庫の資料から)。

このような発想で思い出される江戸時代の徳川綱吉なども、生類憐みの令などを出していますが、あくまでも「憐れむ」という儒教的な立場からのものであり、一視同仁の仏教的立場とは異なるように思います(ここでも仏教をバックにする武士と儒教をバックにする武士の違いが)。

ところで、清久ですが、先に書きましたとおり特に彦山との関係が深く、13年間彦山に籠って鍋島家が肥前の主になることを願い、その結果肥前の主になれたので、佐賀市の西にある高橋という所に上記徳善院が営まれています。徳善院はもともと仁和寺の末寺だったようですが、清久によってその一部に彦山が勧請され、南の方にはお寺であっても鳥居があって(その鳥居の文字は韓国から連れて来られた勝茂の家来・洪皓然の筆によるもの。彼は勝茂に殉死)、山伏の夫婦や僧が住んだ家の跡が残っていたりします。

しかし、明治の廃仏毀釈、神仏分離令によって彦山は神道に、徳善院はお寺にというわけで、本来山本定朝は、鍋島家としては、徳善院と万部島そして眦岨を大切にせよということを『愚見集』の中で強く言っているのに、徳善院は今や鍋島家の手も離れ一種こじんまりとしたものになってしまいました。

ここでせっかくですから以前も取り上げた彦山について改めて一言。彦山は、日本を代表する修験道の山ですが、特に九州においては上記鍋島清久のこともあって、鍋島藩の大きな崇敬を受けました。特に初代・勝茂は、国の重要文化財になっている銅(かね)の鳥居を寄進し、光茂も石の鳥居を寄進。さらに鍋島斉正はその頂上にある上宮を寄進しています。また、奉幣殿(元は霊仙寺の講堂)は、小倉の細川忠興が寄進しています。一頃は、三千数百の山伏の房があったとも言われます。しかも、この彦山は、実は大宰府の奥にそびえる宝満山と対をなしており、密教の金剛界と胎蔵界を代表している、と言われます。即ち、宝満山が金剛界で、彦山は胎蔵界です。これこそ極めて気宇壮大なものの見方と言えるのではないかと思います。大自然がいわば仏説を説いているという発想です。この発想は、佐賀県の鵜殿の石窟や韓国・慶州の南山、そして中国山東省の泰山にもつながってく話だと思います(実はもっと遠く。)。

そして、そこで活動しているのは山伏ですが、山伏は正に仏教と神道とが習合した姿であって、自らの姿を大日如来に置き換えた冠をかぶって、山野を跋渉するというわけです。禅宗や浄土真宗あるいは時宗のような、極めてピュアな一種の哲学そのものとも言える宗教からは、逆に排される面がないではありませんが、しかし、いわば総合的な宗教として成立した修験道は、全世界的にもある意味、日本の宗教として誇り得る幅の広さと包容力があるのではないかと私は思っています。浄土真宗の本山である西本願寺に、お御堂自体を廬山に見立て、虎渓の庭、即ち山や庭やそして虎の間が仏説を説いているという教えがあることからも首肯されてよいことかもしれません。

また、いわゆる本地垂迹説において、本地が「法身」とされることを考えると、この発想は、キリスト教やイスラム教、もちろん日本の神道にも応用でき、世界の宗教紛争を終わらせることにもつながっていきます。何とか夢物語ではないようにしたいものですが。

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改元、改暦、天文学と武士道 
Thursday, June 13, 2019, 10:37 PM
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改元の話が5月は特に賑やかでしたが、これは武士道につながります。

なぜ、武士道とつながるのかということについて、「不思議感」を持たれる方もいらっしゃるかと思いますが、私がいつも申し上げている近世武士道すなわち水戸黄門や保科正之らの儒教主義、特に神道と儒教とを一致させた神儒一致の、実質的には儒教に基づく「士道」と「中世武士の道」としての「武士道」とは異なり(和辻哲郎、相良亨)、近世武士道の方は、以下の事情もあって、天文暦学との関係が非常に強いと言えます。それは例えば、今でも会津若松の儒教の学校・日新館跡地に天文台の跡が残っていることからも伺えます。

前置きはこの程度にして、そもそも元号というものがなぜ出来たのかということですが、これは中国だけではなく世界的な広がりのあることです。とりあえず中国で言うならば、中国皇帝はいわゆる天人相関説に基づき、「人君は天命を受けた天の子(天子)であるゆえ、……天による受命を公示する必要から、一朝一暦、すなわち王朝ごとに前朝の暦法を改正して独自の暦を頒行すること(改正朔)が必然化され、……。言いかえれば中国天文学は、国家的ないし王朝的な要請から皇帝授時の学、あるいは国家占星術として規定された」と言われています(溝口雄三外)。

少々難しい話ですが、中国の宮殿には日時計と升が必ず置いてあるとおり皇帝というものは、天から命ぜられて、縦横高さと時間という四次元を支配するということです。このことは現代でも同じで、清朝を強く受け継いでいると言ってよい中国政府の場合、正に授時をして中国全土には1つの時間しかない。つまり、時差がないという政策をとっています。「それは少々ずれても特に問題ないからだ」云々という解説もあるようですが、それは「甘い」と言わねばなりません。そのくらい天文暦法と政治とは強く結びついていたのです。

ですから中国にそういうことがあるだけではなくて、元々授時はイスラムから来ましたし、フランス革命でもメートル法や革命暦が出来たりしました。日本でも儒教主義が深く入った江戸以降、天文台は江戸に3か所あっただけでなく、水戸、会津、岡山やその他諸々の各藩ごとに、ついでに薩摩には天文館があったり、佐賀藩では願正寺のドンを打つというようなことが行なわれてきました。

そして、上記のとおり、こうした天文学あるいは暦といった発想が強く日本にやって来たのは、明の滅亡。明文化の受容、つまり先の水戸黄門や保科正之の時代であり、彼らの碁敵とも言われている安井算哲(渋川晴海)が貞享2年(1685年)に貞享暦をこしらえたことが大きな意味を持ちます。そして、この人達はいずれも儒教主義の武士道つまり士道の人でした。ですから中国の四夷の発想が強く、東夷のいる江戸(幕府)にはそう簡単には行かないぞというようなことまで言っていた次第です。かつて私が会ったことのある保守派の論客とも言われた村松剛氏は、アジアで唯一独自の年号をもつ日本云々、だから日本を誇るのだ、と言っていましたが、その発想自体元々中国から来たのだということをどう考えるのか。私としては、ちょっぴり矛盾を感じざるを得ませんでした。

ついでに、憲法との関係についても言うと、天皇が天から受命されたという発想は現代にはないのであり、天皇の地位は、「日本国民の総意に基づく」と憲法に規定されているとおりです。日本国憲法制定時における担当国務大臣(内閣法制局長官)である金森徳次郎さんは帝国議会での答弁で、国体とは、天皇への「憧れ」である。と答弁されました。それが「国民の総意」にもつながるわけで、そうなると、一世一元制をとった明治維新の発想に必ずしも習う必要はないという議論もうなずかれます。ですから、元号を用いることは良いとして、鍋島直茂や伊達政宗のように「実」を追求し、もう少し使いやすい便利な形にする、例えば50年ごとの改元にするといったことも考えられると思います。この点でも台湾を見れば、辛亥革命の年を元年として民国が用いられています。今年は民国108年です。ですから、あまり頑固に考えているとLGBTと同じ話になって(遂に台湾はLGBTの婚姻を認めました)、日本こそが最も中国らしい国であるということになりかねないというわけです。
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