江戸時代における大陸からの人々の渡来とその武士道への影響について 
Saturday, November 9, 2019, 06:58 PM
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1600年代における外国人特に明人の日本への渡来の大きな原因は、1644年の明の滅亡ですが、その前に秀吉の文禄・慶長の役もあります。そのやってきた明人たちの数については、100年後1700年ころの長崎の統計では6万人の内の1万人、全国では数万人規模でやってきたことは間違いありません。

『外来文化と九州』の、ごく一部を引用すると、「はじめに、九州以外の各地における戦国末から鎖国前の在住唐人の活動の一端を、寛政6年跋の小宮山昌秀『西州投化記』等に拾ってみよう。古くは遣明船の通事の宋素卿こと朱縞・林従傑・閻宗達、奈良西大寺で豊心丹の製造法を伝えた張三官、京一条で饅頭屋を営み虎屋の祖と言われる三官、幼くして倭寇の俘虜となり、のち嵌金等の工芸に秀れた淅人の潘鉄、同様の事情で渡日し京都妙覚寺で写書等にあたった福建興化府出身の陳体経とその父や兄があった。信長に召出されて安土城の瓦を焼き、その技法が全国に波及したとされる瓦焼一官(一寛)と、江戸芝の「八官町」に屋敷を与えられ町名はその名に因むという子の八官、天正7年(1579年)に家康の夫人関口氏を治療したという唐医減慶、また子が上総介忠輝に仕えて妻の姓により花井遠江守と称し松代城2万石を領し、孫は旗本の主水正義雄と名乗った唐人八官もいる。……」と枚挙にいとまなし。これは「九州以外」のさらに一部なのであって、同書では、佐賀を除いた博多・臼杵・府内ですら甚だしく多いです。

その中国人(明人)たちがどういう気持ちでやって来たかというと、唐通事は明の遺民とその後裔で、日本古代の鴻臚館、清朝でも鴻臚寺の属官として、たんなる訳官ではないわけで、他のオランダ通詞などとは異なり鴻臚館の格式に則った「通事老爺」として唐人の尊敬をうけている云々と。つまりは外交官。
彼らは、親の代は中国系の服装もしていますが、子どもの代になると完全に侍の恰好になって名前も「○○衛門」などと改め日本人になってしまいます。その為、同書でも「同化した」という発想で書かれています。

しかし、私としては、同化ではなくて逆に日本の中にそれらの文化が入り、あるいは徹底的に扶植したのではないかと思います。
そして、元からいた日本人も、その新しい文化に目覚めて、自分たちの行動様式を完全に変えたのではないかと考えています。ちょうど戦前の日本がアメリカに占領されることによって、今の日本になったこと以上の深甚なる影響があったのではと。要は影響を与えたのが「アメリカ」だったか「明」だったかというだけの違いです。こんなことを書くと「固定観念」からの反論があるかもしれませんが、その現象は、今の中国に日本が同化されたというわけではなくて、そもそもその前の明と清とが全く違う国だったということを踏まえなければなりません。明は伝統的中国国家、清は北方ツングース系の国です。それは、北京と南京との違いを見ればわかることですし、ここ数十年前の蔣介石の行動からも見て取れます。ここのところを正確に考えないために、「同化」という表現が出るのでしょう。それどころか、現に実際に、山崎闇斎系の「神儒一致」の武士道が出現したこと、「武士道観」がすっかり変わってしまったことを見なければいけません。

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この下の話につながる寧波の話 
Wednesday, October 16, 2019, 07:22 PM
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この下の、脊振山の話しで一部ふれた、日本と中国との貿易における中国側の入口である寧波について一言。

まず現代の寧波です。意外に日本では知られていないかもしれませんが、日本政府作成の「世界の港湾取扱貨物量ランキング」で2017年、世界第4位という大きな港です。ちなみに同じ表で日本は、2002年には20位までの間に千葉と名古屋とが入っていたのに、2017年の統計ではいずれも圏外に外れてしまいました。空港もぱっとしません。日本はもっと頑張らなければいけないとつくづく思います。
ところでこの寧波、位置的には上海の南、杭州湾の南にあって、日本の五島列島をまっすぐ伸ばすとこちらの港に行き着きます。そして、遣唐使の時代から千年以上、この寧波から運河を通って紹興、杭州と通り、蘇州から鎮江、揚州そして大運河を通って長安や北京に行くというのが日本から中国へのメインのルートでした。ですから昔から、たくさんの日本船がここにやってきました。しかもこの寧波の東側には舟山列島という合計すれば1000にも上る島々があり、正式な貿易ができないときにはこの舟山列島を通じて私貿易が行われました。

ここでは、遣唐使の時代は(空海や最澄がいますが)とりあえずカットして、中世においては栄西や道元をはじめとした多くの僧、特に禅宗の坊さんがこの寧波に行たことを指摘したいと思います。寧波の近くには、天童寺や阿育王寺、足をのばせば天台山、さらには霊隠寺、径山寺などなどの多くの寺が集まっています。ですので、日本から坊さんが行ったのも当たり前です。もちろん中国からも蘭渓道隆、無学祖元など多くの僧が来ました。

そして、貿易の面では、鎌倉の寺社造営料船はもとより、室町時代には足利義満による勘合貿易の勘合船がここを通りました。したがって、福岡市立博物館や寧波博物館を訪れると、例えば博多の商人が寧波に道路を寄進したその石、寧波で焼いた瓦が博多のお寺で使われていることなど、様々な交流のあとを見ることができます。

しかして、時代が下って室町時代後期になると中国地方の大内氏が将軍の持っている貿易権を簒奪します。その貿易ルートは兵庫つまり今の神戸から博多を通って寧波に入っていきます。また大内と対抗する細川氏の場合は、堺から南海公路を通って鹿児島の坊津からやはり同じように寧波に入ります。こうして、博多と堺が重要になり、この2つの港の勢力つまりは日本人同士と、元中国人である日本人(?)とがちょうど寧波でぶつかったのが1523年の「寧波の乱」というわけで、この際、細川方は期限切れの勘合符を利用し、明の官憲と結託して席次も上位に座ったため大内と細川の騒乱になって、隣の国で相当な戦争を行ってしまったということ。これが「寧波の乱」で、その昔日本史で聞いた話でしょう。
こうした状況を大きく見れば、いつも言うとおり、「当時は武士と商人とが一致」という中世らしい姿です。

この「寧波の乱」の後、日本が正式に中国に入って貿易することが困難になり、上記私貿易、舟山列島を中心とする私貿易が一層盛んになり、当然倭寇が跳梁跋扈し、その中の頭目である王直(彼の家の跡は平戸などにあり)が、1543年、ポルトガル人を種子島に連れてくるということもありました。いずれにせよ、全て寧波がらみの話しです。

一方、江戸時代に入ると、博多ははずれて、長崎が日本の出入口に。そして、中国が許可状を出す勘合貿易とは逆に、江戸幕府が許可状を出す、特に糸割賦制というものが始まりました。中国産の生糸をポルトガルなど経由で輸入するについて、ポルトガル商人らの儲けを押えるため、日本人の糸割賦仲間とだけ貿易ができるという逆管理貿易です。鍋島にもその割当てがありました。中世における日本と中国との貿易は中国による管理貿易であった「勘合貿易」、江戸時代に入ると今度は逆に、日本による管理貿易(朱印船や奉書船も)ということになったと言ってよいかもしれません(これまた「ド」のつく素人の私の考え)。

東シナ海というところは、江上波夫先生らによれば、日本と大陸を映す鏡であると言われるのですが、ちょうど法的な貿易の仕組においても、中世と近世において、よく似た、しかし真逆のことが行われたという意味では一つの鏡的な働きをしていたということでしょうか。

さて、話を戻して、寧波と日本とはそのような長いつながりがあったのですが、その寧波が日本の武士道に最大の影響を及ぼしたのが何かと言いますと、これまたいつも通りの1644年の明の滅亡と、それにより日本吃師を行った明人・朱舜水がこの近くの人だったという事です。彼は復明のために日本に何回も使いし(来たのは長崎とか)、その影響を大きく受けて、中国の『史記』にならう『大日本史』を作ったのが水戸黄門だという事はかねてより壊れたテープレコーダー式に書きました。現在「寧波博物館」に行きますとその『大日本史』がしっかりと置いてあります。

東京帝国大学教授・穂積八束によれば、この『大日本史』が導いた水府の史論(後期水戸学)が明治維新を惹起したと言われているわけなので、明治維新を起こしたのは、この朱舜水たち明人だという考えもあります。これはほぼ100%当っていると思います。

最後の部分はバックグラウンドが分からないと理解しにくい話で、日本の中学高校教育において、日本史・世界史という分類により、アジアの歴史が日本の歴史にどう投影しているかということがしっかりと教えられていないことが問題かと思います。元文科省主任教科書調査官にも再三お話ししましたことなのですが。
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貝原益軒の発想と日本という国 
Tuesday, August 20, 2019, 10:45 PM
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葉隠には、福岡県、佐賀県の境にある脊振山の境界争いについてこんな記事があります。ちなみに脊振山は気象や自衛隊のレーダーサイトがあることでも有名な西日本で最も重要な山の1つです(昔は背振と書いたのですが数十年前に脊振と改名)。

「弁財公事の時百姓共相詰め候事 境目御見分の上使御下向に付、久保山公役(くやく)相當り候へば、百人の所に三百人も罷越し候。それに付山中多人数相見え、十左衛門殿より相尋ねられ候処に、百姓共申し候は、大事の時節の公役にて候へば、余計に罷出で候由申し候に付、耕作の為に罷成らず候間、相当の分罷出で候様に。と御申付け候。然れども人数相減らず、野も山も人計りにて候故、又々穿鑿これあり候処、明後日に相當り候夫丸共、今日より罷越し候。此の時節、公役と承りながら内に居り申す儀罷成らず。と申し候由。」と。

さて、この山の頂が争いになった、鍋島藩(つまり佐賀県)か黒田藩(つまり福岡県)かが争いになったことに関与した人に福岡の儒学者・貝原益軒(1630年~1714年)がいます。現在の福岡市に生れて黒田藩に仕え、京都や長崎に遊学して朱子学を身に着けました。黒田藩に仕えた間に書いたのが『筑前国続風土記』で、印刷した本でも20センチ以上あるかもという大部な本であり、現在の福岡県の筑前プラスαの相当部分の地誌について細かく書かれています。私は、この本を、より広い見地から見直してみるべきだと思っています(日本全体の歴史を考えるについても)。

「背振山は、板屋村の西南に在り。国中にて勝れたる高山也。…山上に神社あり。此上に登るに、板屋邑(むら)より原野を十二三町許登り行けば林木あり。又潤水あり、祓川と云。…老幼病弱なる者は、前なる人の帯に取付、後なる者に腰を押されて登る。板屋より御社まで廿二三町許あり。山上より四方窺い望めば甚廣遠也。秋の頃天気晴朗にし烟靄なき時は、朝鮮国見ゆ。春月霞多き時と云へ共、曇らざる日は、壱岐対馬まで能(く)見ゆ。対馬は是より百里あり。」「三代実録に、清和天皇貞観十二年五月廿九日庚辰、詔して筑前国正六位上背布利神に従五位下を授給ふと記せり。然らば朝廷よりも、殊に祟させ給ひし神なるべし。足利尊氏九州下向の時、白旗を棒て祈願有し事あり。」「又里民の云傳ふるは、古(いにしえ)辯才百済国より爰に来り給ふ時、乗給ひし馬の背を振たる故に、背振山て名付たりと云。」

というわけですが、益軒先生は、上記のとおり、背振山の頂上から朝鮮半島が見えると言うのです。私もそう思います。私自身、脊振山からは見ていませんが秀吉の名護屋城から対馬を見たことがあります。釜山との距離は、その半分もありません。それが1055メートルの山の上からは、晴れていればはっきりと朝鮮半島が見えるわけでしょう。そうであるからこそ、この「背振」という名前の由来には2説あり、一つは「ソウル」、韓国語の首都という意味、もう一つは上記百済の王女が馬に乗って日本に来る時に、馬の背が揺れたと言う話。いずれにしても、韓国系の話です。それゆえに、背振山の上宮東門寺は山頂にあり、天台宗の大寺で、その下宮は福岡側に。下宮から上宮までまとめて福岡県というのが彼の立論です。

「建武三年、當山僧院の田宅の券契にも、筑前国早良郡(福岡の地名)上宮東門寺とあり。又天正六年波多江氏の證文にも、早良背振の上宮と有れば、上宮は筑前国なる事、其證明なり云々。」と。これは宗像大社などとも同傾向です。

しかるに、平安・鎌倉時代になって、栄西禅師が、彼自身は中国に渡る前、永く福岡の誓願寺などにいたのですが、2度目の帰りは筑紫山地の南側を通り、現在の脊振町の霊仙寺の近くにお茶の木を植えた。ここら辺りから山の南側が元気になりました。そして、現在も脊振神社の中宮は南側つまり佐賀県の脊振町にあるというわけです。

この流れをよく考えてみると、律令時代くらいまではやはり韓国との関係が相当強くて、山の北側の方が韓国に向いていたというのもあって北からの文化も相当流入。それが中世に入って平戸から東への山の南側のルートが盛んになり、中国、特に寧波に行った禅僧たちがもっぱら平戸、武雄、神埼、太宰府といったルートを通るということから脊振が山の南になったのかもしれません。「日本語」というものの語順(韓国的)や単語(漢語)にも関係します。全くの素人である私の推測に過ぎませんが、しかし大きく見るとそういうことなのかなと。

この益軒先生、本格的な著述は70歳を過ぎてからはじめ、沢山の本をかき、84歳のときにはついに「大疑録」という本を書いて、これは大いに疑う本、何を疑うかというと、朱子学というものを根本的に疑っています。私としては「先生、朱子学者という看板を下ろした方がいいですよ」といいたくなるところもあります。

しかし、その朱子学の格物致知の延長が『筑前国続風土記』であり、もう一つの大きな本としては『大和本草』が挙げられますが、これは中国・明の李時珍の「本草綱目」にならう博物学の大部な本です。彼が長崎や京都に遊学した影響が大きいでしょう。その意味で西洋の影響も大いにありです。

ちなみに、貝原益軒というと、『女大学』が有名で、「女は嫁しては夫に従え」みたいなことを言っていますが、これは全くのウソで、益軒先生の文章を改造した本ですので念のため。
いずれにしても貝原益軒が韓国が見えるという話からそういう解釈をしているのは相当当っている気もします。残念ながら黒田藩は負けてしまい、一方鍋島光茂も「弁財嶽境公事御利運の段申来り候節、『同役と云い、隣国の事なるに、笑止のこと。』と御意なされ候事。」というわけで、相手を思いやる言葉を述べていることに、これまた我々は学ぶべきものを感じる次第です。
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世界の宗教事情を解くもの 
Friday, July 5, 2019, 07:27 PM
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葉隠にはこんな話が出てきます。即ち、鍋島直茂のお祖父さんである鍋島清久の話ですが、「鍋島清久夫婦、村の祭禮前に毎夜堀をたたき鮒を追うて廻る…として、

鍋島平右衛門尉清久公、本庄村に御座なされ候。祭礼前方には、毎夜御夫婦様棹を御持ち御出で、終夜堀を御たたき、方々なされ候。祭礼用に、人々堀を干し鮒を捕り候に付、魚逃げ候様にと思召され、右の通り遊ばされ候。その外、御善根御慈悲、限り無く候。兼々彦山御信仰なされ、毎歳年越に御参籠なされ候。或時上宮なされ候ところ、大雪降り道筋相知れず、ほき落ちなされ、谷へ御落ちなされ候。其の辺を御探しなされ候へば、弥陀の三尊御拾ひなされ候。御持帰りなされ、徳善彦山御勧請の御本尊にあそばされ候。彦山の本地弥陀の三尊にて候由。不思議の御事にて候。其の功徳にて御家御繁盛と相見え候由、古老話にて候。」と。

清久は、応仁2年(1468年)、本庄館(佐賀郡本庄村)に生まれ、天文21年(1552年)3月8日85歳で亡くなった人ですが、彼は、慈悲に富み、深く神仏を崇敬し、毎日産土神社本庄社に参拝するなど信仰の事例が多いとされ、殊に彦山を信仰して毎年籠り、3年に一度盛んな彦山祭りを催し、かつて雪中参山参詣の時、崖から落ちて阿弥陀の三尊を拾い、徳善権現の本尊として勧進したなどと『校注葉隠』にあります。

清久が、現本庄神社で行なった鮒を逃がしたことは、中世的に言えば「放生」と言えるでしょう(鮒の昆布巻きにされないように)。つまり、生きとし生けるものを大切にするために魚を放したり、鳥を放鳥したりというアジア全体にある善行の一つです。これは石清水八幡宮などの八幡宮の放生会が有名で、当然鎌倉時代においては鶴岡八幡宮においても行われました。『吾妻鏡』を見ますと、毎月15日を不成就日として、その日には鶴岡八幡宮の例の2つの池に魚を放すという行事が行われました。ですから、私としてはこの清久の行為は清久だけではなく、中世全体を貫く一つの大きな行事だと思っています。

特に鎌倉時代と言いますと、私がかつて住まいした金沢文庫の傍には六浦という海がありますが、そこは文庫を作った北条実時によって殺生禁断の場所になりました。それだけではなく、その六浦から朝日奈の切通しを通って鎌倉に行く道は非常に難儀な道なのですが、牛馬を使って物を運ぶということから、その牛馬を供養するための宝篋印塔が金沢八景のすぐそばにある上行寺(日蓮宗)にもあります。つまり、鎌倉の東側がそのような生き物を大切にする場所だったというわけですが、実は西側も同じで、藤沢側の極楽寺には病人をケアするための薬の鉢などが色々と残っています。また、その極楽寺坂を由比ヶ浜方向に下りた所からはたくさんの牛馬の死体が発掘されたりしているようです。その様な場所であらばこそ、その北側には大仏様が安置されているということになるようで、とにかく生きとし生けるものを大切にするという観念は、鎌倉武士として、そして、戦国時代の清久の代までつながって来たということでしょう。戦いが次々と発生すればこそ、とも言えます(金沢文庫の資料から)。

このような発想で思い出される江戸時代の徳川綱吉なども、生類憐みの令などを出していますが、あくまでも「憐れむ」という儒教的な立場からのものであり、一視同仁の仏教的立場とは異なるように思います(ここでも仏教をバックにする武士と儒教をバックにする武士の違いが)。

ところで、清久ですが、先に書きましたとおり特に彦山との関係が深く、13年間彦山に籠って鍋島家が肥前の主になることを願い、その結果肥前の主になれたので、佐賀市の西にある高橋という所に上記徳善院が営まれています。徳善院はもともと仁和寺の末寺だったようですが、清久によってその一部に彦山が勧請され、南の方にはお寺であっても鳥居があって(その鳥居の文字は韓国から連れて来られた勝茂の家来・洪皓然の筆によるもの。彼は勝茂に殉死)、山伏の夫婦や僧が住んだ家の跡が残っていたりします。

しかし、明治の廃仏毀釈、神仏分離令によって彦山は神道に、徳善院はお寺にというわけで、本来山本定朝は、鍋島家としては、徳善院と万部島そして髙伝寺を大切にせよということを『愚見集』の中で強く言っているのに、徳善院は今や鍋島家の手も離れ一種こじんまりとしたものになってしまいました。

ここでせっかくですから以前も取り上げた彦山について改めて一言。彦山は、日本を代表する修験道の山ですが、特に九州においては上記鍋島清久のこともあって、鍋島藩の大きな崇敬を受けました。特に初代・勝茂は、国の重要文化財になっている銅(かね)の鳥居を寄進し、光茂も石の鳥居を寄進。さらに鍋島斉正はその頂上にある上宮を寄進しています。また、奉幣殿(元は霊仙寺の講堂)は、小倉の細川忠興が寄進しています。一頃は、三千数百の山伏の房があったとも言われます。しかも、この彦山は、実は大宰府の奥にそびえる宝満山と対をなしており、密教の金剛界と胎蔵界を代表している、と言われます。即ち、宝満山が金剛界で、彦山は胎蔵界です。これこそ極めて気宇壮大なものの見方と言えるのではないかと思います。大自然がいわば仏説を説いているという発想です。この発想は、佐賀県の鵜殿の石窟や韓国・慶州の南山、そして中国山東省の泰山にもつながってく話だと思います(実はもっと遠く。)。

そして、そこで活動しているのは山伏ですが、山伏は正に仏教と神道とが習合した姿であって、自らの姿を大日如来に置き換えた冠をかぶって、山野を跋渉するというわけです。禅宗や浄土真宗あるいは時宗のような、極めてピュアな一種の哲学そのものとも言える宗教からは、逆に排される面がないではありませんが、しかし、いわば総合的な宗教として成立した修験道は、全世界的にもある意味、日本の宗教として誇り得る幅の広さと包容力があるのではないかと私は思っています。浄土真宗の本山である西本願寺に、お御堂自体を廬山に見立て、虎渓の庭、即ち山や庭やそして虎の間が仏説を説いているという教えがあることからも首肯されてよいことかもしれません。

また、いわゆる本地垂迹説において、本地が「法身」とされることを考えると、この発想は、キリスト教やイスラム教、もちろん日本の神道にも応用でき、世界の宗教紛争を終わらせることにもつながっていきます。何とか夢物語ではないようにしたいものですが。

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改元、改暦、天文学と武士道 
Thursday, June 13, 2019, 10:37 PM
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改元の話が5月は特に賑やかでしたが、これは武士道につながります。

なぜ、武士道とつながるのかということについて、「不思議感」を持たれる方もいらっしゃるかと思いますが、私がいつも申し上げている近世武士道すなわち水戸黄門や保科正之らの儒教主義、特に神道と儒教とを一致させた神儒一致の、実質的には儒教に基づく「士道」と「中世武士の道」としての「武士道」とは異なり(和辻哲郎、相良亨)、近世武士道の方は、以下の事情もあって、天文暦学との関係が非常に強いと言えます。それは例えば、今でも会津若松の儒教の学校・日新館跡地に天文台の跡が残っていることからも伺えます。

前置きはこの程度にして、そもそも元号というものがなぜ出来たのかということですが、これは中国だけではなく世界的な広がりのあることです。とりあえず中国で言うならば、中国皇帝はいわゆる天人相関説に基づき、「人君は天命を受けた天の子(天子)であるゆえ、……天による受命を公示する必要から、一朝一暦、すなわち王朝ごとに前朝の暦法を改正して独自の暦を頒行すること(改正朔)が必然化され、……。言いかえれば中国天文学は、国家的ないし王朝的な要請から皇帝授時の学、あるいは国家占星術として規定された」と言われています(溝口雄三外)。

少々難しい話ですが、中国の宮殿には日時計と升が必ず置いてあるとおり皇帝というものは、天から命ぜられて、縦横高さと時間という四次元を支配するということです。このことは現代でも同じで、清朝を強く受け継いでいると言ってよい中国政府の場合、正に授時をして中国全土には1つの時間しかない。つまり、時差がないという政策をとっています。「それは少々ずれても特に問題ないからだ」云々という解説もあるようですが、それは「甘い」と言わねばなりません。そのくらい天文暦法と政治とは強く結びついていたのです。

ですから中国にそういうことがあるだけではなくて、元々授時はイスラムから来ましたし、フランス革命でもメートル法や革命暦が出来たりしました。日本でも儒教主義が深く入った江戸以降、天文台は江戸に3か所あっただけでなく、水戸、会津、岡山やその他諸々の各藩ごとに、ついでに薩摩には天文館があったり、佐賀藩では願正寺のドンを打つというようなことが行なわれてきました。

そして、上記のとおり、こうした天文学あるいは暦といった発想が強く日本にやって来たのは、明の滅亡。明文化の受容、つまり先の水戸黄門や保科正之の時代であり、彼らの碁敵とも言われている安井算哲(渋川晴海)が貞享2年(1685年)に貞享暦をこしらえたことが大きな意味を持ちます。そして、この人達はいずれも儒教主義の武士道つまり士道の人でした。ですから中国の四夷の発想が強く、東夷のいる江戸(幕府)にはそう簡単には行かないぞというようなことまで言っていた次第です。かつて私が会ったことのある保守派の論客とも言われた村松剛氏は、アジアで唯一独自の年号をもつ日本云々、だから日本を誇るのだ、と言っていましたが、その発想自体元々中国から来たのだということをどう考えるのか。私としては、ちょっぴり矛盾を感じざるを得ませんでした。

ついでに、憲法との関係についても言うと、天皇が天から受命されたという発想は現代にはないのであり、天皇の地位は、「日本国民の総意に基づく」と憲法に規定されているとおりです。日本国憲法制定時における担当国務大臣(内閣法制局長官)である金森徳次郎さんは帝国議会での答弁で、国体とは、天皇への「憧れ」である。と答弁されました。それが「国民の総意」にもつながるわけで、そうなると、一世一元制をとった明治維新の発想に必ずしも習う必要はないという議論もうなずかれます。ですから、元号を用いることは良いとして、鍋島直茂や伊達政宗のように「実」を追求し、もう少し使いやすい便利な形にする、例えば50年ごとの改元にするといったことも考えられると思います。この点でも台湾を見れば、辛亥革命の年を元年として民国が用いられています。今年は民国108年です。ですから、あまり頑固に考えているとLGBTと同じ話になって(遂に台湾はLGBTの婚姻を認めました)、日本こそが最も中国らしい国であるということになりかねないというわけです。
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LGBTと葉隠武士道 
Friday, April 26, 2019, 08:45 PM
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この博物館本文に紹介してある通り、葉隠に井原西鶴の作品からの引用があります。「式部に意見あり。若年の時、衆道にて多分一生の恥になる事あり。心得なくしては危うきなり。言ひ聞かする人が無きものなり。大意を申すべし。貞女両夫にまみえずと心得べし。情は一生一人のものなり。さなければ野郎かげまに同じく、へらはり女にひとし。是は武士の恥なり。念友のなき前髪は縁夫もたぬ女にひとし。と西鶴が書きしは名文なり。人がなぶりたがるものなり。念友は五年程試みて志を見届けたらば、此方よりも頼むべし。浮気者は根に入らず、後は見はなすものなり。互に命を捨つる後見なれば、よくよく性根を見届くべきなり。くねる者あらば「障あり」と云うて、手強く振り切るべし。「障は」とあらば、「それは命の内に申すべしや。」と云ひ、むたいに申さば腹立て、無理ならば切り拾つべし。叉男の方は、若衆の心底を見届くること前に同じ。命をなげうちて五六年はまれば、叶はぬと云ふ事なし。尤も二道すべからず。武道を励むべし。ここにて武士道となるなり。」と。

この「念友のなき云々」は西鶴の『男色大鏡』の中の「玉章(たまづさ)は鱸(すずき)に通わす」という話の末尾です。「玉章」というのは恋文。ある侍が、それを魚の鱸の口の中に入れて好きな男性に送って仲好くなったところ、相手の男性に別の男が言い寄ってきたので、玉章を送られた男性は、あんまり邪険にすると二人が楽しくしていたこともダメになってしまうからうまくやろうよと言って、適当にあしらうことを提案。しかし、玉章を送った方は、そんなに気合いの入らない男男関係なんて、と腹を立てて、言い寄った方も加わって、徹底的に殺し合うという話。西鶴の武家物は、こんな話が満載の『男色大鏡』や『武道伝来記』そして、『武家義理物語』になると傾向が変り、町人物の『日本永代蔵』へとつながっていきます。

当時の世相は、といえば、天和、貞享、元禄という、戦国時代以来の正に「衆道」真っ盛りと言ってもよい時代。したがって衆道の家元みたいなものがあって、葉隠では「星野了哲は、御国衆道の元祖なり。弟子多しといえども、皆一つづつを伝えたり。枝吉氏は理を得られ候。江戸御供の時、了哲暇乞に、「若衆好きの得心いかが。」と申し候へば、枝吉答に、「すいてすかぬもの。」と申され候。了哲悦び、「其方を夫だけになさんとて、多年骨を折りたり。」と申され候。後年、枝吉に其の心を問ふ人あり。枝吉申され候は、「命捨つるが衆道の至極なり。さなければ恥になるなり。然れば主に奉る命なし。それ故、好いて好かぬものと覚え候」と。

以上を読めばわかるとおり、いわゆる「忍ぶ恋」というのは、あくまでも男性同士の話しであって、到底男女の関係を言っているものではありません。これをまず男女の関係と言っている人は全く葉隠を理解していないし、当時の状況も知らないということです。

次にそんな男同士の関係ですが、これは朋輩との間にだけであったのではなく、主君との関係にもありました。織田信長と森蘭丸みたいな話しです(本当かどうかは知りませんが)。ですから、そこではいわゆる追い腹を切ること、つまり主君の死んだあと、家来がその後追いをするということも大いにありました。このような現象は近世武士道、つまり儒教武士道の水戸黄門たちに言わせると、正に「分」をわきまえない汚らわしいことだという話になってしまう。かくして、鍋島藩では1661年、追い腹を禁止しました。そこから切腹は結局、責任をとっての切腹という形に変わったのだ、と私は思います。

ところで現代はLGBTの件がしばしば取り上げられます。LGBTのLはレズビアン、Gはゲイ、Bはバイセクシャル、Tはトランスジェンダーということで(『LGBTを知る』森永貴彦・日経)、LGBとTとでは内容が異なります。ですからここは区別しなくてはなりません(同書参照)。

いずれについても難しい法律問題、人権上の問題がありますが、そこに一つ、関わるのは、アジアにおける儒教の存在です。元来の儒教というものには男と女というものはあっても中間が有りません。というのは二千年前の儒教ファンダメンタリズムは根源的に2元論で、こうした多様なジェンダーの存在を断固排するということでした。水戸黄門らが排除したのもそういうわけです。しかし、そんなアジアで、例えば台湾で2017年に同性婚を認めるという大法官解釈が出ました(先日の国民投票はキリスト教も反対し、後退でしたが)。そもそも台湾という所は�拔介石が持ってきた南京文化の影響で、儒教主義が非常に強く残っています(台湾が日本の影響を受けていると考えるのは国家の仕組みとしてはまちがい)。そこに差別というものも生まれるわけですが、台湾の憲法裁判所にあたる司法院は、こうした問題につき、いくつもの違憲判決を出してきています。ちなみにそれを北京語、英語、日本語に翻訳して国中に知らしめているわけです。

一方、もう1つの儒教国家韓国では安楽死(尊厳死法)ができました。しかし親からもらったこの体を自殺的な行動によってなくすというのは『孝経』の教えに反する親不孝の極致の様な気がしますが……。逆に韓国では、親からもらったこの身体を尊厳を持たないで死ぬことはよくないこと、という発想も。しかしそこには必然的に差別の問題が起きて来るのでは、とか。このあたりが、なかなか一筋縄ではいきませんが、いずれにしても儒教を超えることが一つのテーマになっています。

さて、日本ではどうするべきか。人間が生理的に本来女性として発生し、途中でメカニズムの具合でLGBTのような方が生まれたりするということを考えると、元々男と女しかいないとか、男は女と一緒になるべきという前提で作ってしまった「法」は、葉隠的な「実」の精神からいくと変更されなければならないのではないかと私は思っています。この部分は台湾、韓国だけでなく、中国、北朝鮮、ついでにベトナムやモンゴルも互いに較べてみると参考になるのではないでしょうか。モンゴルは今や極めてアメリカ的価値観によっておおわれているようです。そうするとアジア伝統の儒教思想を、最も強く残しているのはうっかりしたら日本かもしれないなどということにもなるかもしれません。いずれにせよ葉隠の前の時代までは、今とは全く違う日本だったことを思い出してみるべきでしょう。
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センター試験に葉隠が出た 
Sunday, March 24, 2019, 07:17 PM
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センター試験の倫理に以下の次第で葉隠が出ましたが・・・・

「問3、次の文章は、中世から近世における武士の心のあり方についての説明である。文章中の a ・ b に入れる語句の組み合わせとして正しいものを、下の①~⑥のうちから選べ。
中世の武士たちは、戦いで勝つために強さを求め、見る者の心を動かすような武勇をその理想とした。仏教的世界観からこの世を a であるとみなしつつも、彼らは、自己の武勇が『名』として後世に語り継がれることを信じた。
 戦いの絶えた近世には、代々受け継いだ家職において、主君への奉公を全うすることが武士たちの目的と考えられるようになった。 b で語られる『武士道と云うは、死ぬことと見つけたり』という言葉は、生への執着を離れて、奉公を一途に徹した見事な生涯を貫こうとする覚悟を表したものである。
 ①a,無常 b,『自然真営道』 ②a,無常 b,『葉隠』  ③a,無常 b,『翁問答』
 ④a,浄土 b,『自然真営道』  ⑤a,浄土 b,『葉隠』   ⑥a,浄土 b,『翁問答』 」

正解は、一応消去法で②ということになるでしょうが、この文全体が、本当のことをのべているのかについては?が付きます(私としては)。
話しの前段は一応そういうこと「も」言えるとして、後段は大いに問題です。まず、そもそも『葉隠』というもの自体に原本がないということ。従って、原本がない以上、このように断定してしまってよいのか。それに、武士道なるものをこんなふうに理解してよいかということが第2段ですが、こうしたことの理解には、やはりバックグラウンドをしっかり考えてみる必要があるのではないでしょうか。

私がいつも申し上げることですが、本来「武士道」というものは昔からの言葉ではなかったわけです(久米邦武先生の『鎌倉時代史論』)。それが今言われるような「武士道」になってきたのには、国際関係が大きく関係している、特に私としては1600年代が大事だと思っています。この辺は、その昔文化勲章を受章された法制史の石井良助先生が、受賞の時のインタビューで、「私は1600年代をもっと勉強してみたい」とおっしゃっていたことが常に私の頭の隅っこにあるわけです。
それというのも1600年代はこの東アジアが激動していました。そして、その影響が日本にも強く及んだというわけです。特に、1500年代末に秀吉が起こした文禄慶長の役、つまりこれは、朝鮮半島で日本が明という国と対峙した。それによって、逆に日本に明文化が入り、人間もやって来た。例えば、赤穂浪士の一人武林唯七のお祖父さんは孟二官、つまり唯七さんは中国人の子孫です。そして1644年の明の滅亡というものが、逆にその後明を復活させようという「復明」の運動と共に日本に色々な影響を及ぼした。そして、最後の1683年に鄭成功の孫が台湾を失陥したことから、またまた色んな物が来た。
そして、簡単に言うと明という国は完全な儒教国家であって、そこから日本でも湯島の聖堂にみられるように、また佐賀の多久聖廟にもみられるように儒教文化というものがやって来た。このことがけじめをつける儒教の教えと武士の傾向、そして文治主義とが一致することによって、新しいいわゆる「武士道」なるものが生まれたと、簡単に言えばそうことになると思っています。

その立役者としては会津や水戸あるいは岡山の池田光政が典型だということになりますが、それに対して、「昔がよかった!」と言っている、つまりはノスタルジーの塊みたいな人が山本定朝さんなので、かつて相良亨東大名誉教授がおっしゃったとおり、葉隠というものは中世的な仏教をバックにしたものであり、近世的な士道は儒教をバックグラウンドに持っていると、こういうことになるわけです。ただし葉隠が複雑なのは、時代背景に加えて石田一鼎という、儒教的な要素が相当入っている人が常朝さんの先生なので余計複雑になるわけです。ですから、この問題のような断定はできないのではないかと思っているわけです(正解は出せますが)。

ちなみに足のナンバー③⑥にある『翁問答』、これは中江藤樹の書いたもので、これが実際のところ中々深いものだと思っています。相良先生は山鹿素行を士道(さむらい道)の典型と言っていますが、その事をむしろ先駆的に述べているのは中江藤樹かと思います。彼の発想法は「孝」を基本にしたと一般的に言われますけれど、その孝なるものは単純な孝ではなく、孝から全てを導きだそうとする演繹的発想の元であり、であるがゆえに三十何歳の時に朱子学から陽明学に転換したと言われています(彼は40歳で死亡)。

いずれにしても、朱子学のような二元論から発したのでは思考が止まってしまいます。孝を基本に考えていく一元論の中江藤樹こそ演繹的発想の人で、山下龍二先生は彼が非常にハイカラであるということを言ってらっしゃいますけれど、それも正に国際情勢の為せる技であり、特に葉隠に先行する中江藤樹の時代の方が、日本がより国際的であったがゆえに余計彼のような発想が生まれたのではないかと思っています。

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辰巳栄一元陸軍中将のこと 
Sunday, March 24, 2019, 06:58 PM
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私が小城出身の辰巳栄一元陸軍中将にお会いしたのは、昭和60年頃のことでした。正に「立派な方」という印象です。人品麗しく、かつ知性の塊のような人でした。ただ当時私は、中将と吉田茂との関係については、吉田の『回想十年』などで知ってはいたものの詳細は知らず、それほど印象に残る話は覚えていません。また、刺激的な話はされない方という印象です。しかし、その人柄、肉声に触れたということが極めて重要ではないかと思っています。また、辰巳さんに会ったことのある何人かの人とも関係はあります。

辰巳さんに関係する伝記のようなものとしては、先に高山信武大佐の書かれた『昭和名将録(二)』(芙蓉書房出版)があり、新しいものとして湯浅博氏が書いた『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問辰巳栄一』という本があります。一般的には後者が文庫本化され、ポピュラーなものになっているようですが、両方読み比べてみると、はっきり言って先に書かれた、そして、辰巳さんに以下のとおり奉仕した高山大佐のものがはるかに優れていると思います。後者は著者自身辰巳さんに取材されていませんし、前者の中に載っている辰巳さんの言葉を、彼のヒストリーの中に取り入れただけのものであって、よりオリジナルなもの、また貴重な情報が入っているのは高山さんの書かれたものです。

現に、高山さんはその『昭和名将録(二)』の中で、以下のように述べておられます。「附記、辰巳は彼の伝記を刊行することについては極めて慎重であった。敗軍の将、兵を語らずというか、責任感の強い彼は、敗戦の責を胸に秘め、苟も言いわけに類したこと、自己弁護の傾向を極度に忌避した。従来二、三の出版社ないし同僚等から執筆の依頼もあったが、尽くこれを辞退した。しかるにこのたび芙蓉書房代表取締役上法快男氏の要請に基き、かつて辰巳に奉仕した筆者の再三に亙る懇請を辛うじて容認されたのは、筆者にとって無上の光栄とするところである。とくに彼から提供された若干の直話、手記、写真等は、大東亜戦争の真実を語るものとして、永遠に後世に残るであろう。記事の内容については辰巳の校閲を得ていないので、事実の表現等にあるいは本人の意向に添わぬ点があるかもしれないので文責は筆者にあることを特に附記しておく。」と。

そして、この記録は昭和54年にこの本になっていて、以後別段辰巳中将はそれに異を唱えることもされていません。ですから、ここに書かれた一言一句は、やはり最も辰巳さんの肉声に近いものと言ってよいと思うわけです。一方、後者の著者は、現実に辰巳中将を取材してはいないとのこと。にもかかわらず末尾には、いわば推測を前提とした断定気味のことがある程度以上書かれていて、これらが本当に辰巳栄一さんや特に吉田茂の考えたことかどうかは、疑問符をつけねばならないのではないかと思っています。最も政権末期あるいは政権以後の吉田さんが全てにおいて正しかったかはもちろん疑問でしょう。ある程度その行動を知りえた世代から見て。

そこで、辰巳さんの一生で最も有名な話は、昭和11年11月の日独防共協定を締結する際、辰巳さんがロンドンまで訪ねて行って吉田茂にこの締結を進言した時の話でした。それについては、辰巳さん自身が吉田茂の『回想十年』の中に一文を寄せ、「いわばミイラ取りがミイラになってしまって、米英を敵にまわすことは絶対にできない」という吉田茂の慧眼に打ちひしがれて、説得を思い留まった、とリアルに書かれています。前後10年以上イギリスに駐在した辰巳さんにしろ、吉田茂にしろ、いわゆる「英米派」であって、陸軍の主流である「ドイツ派」とは全く一線を画した存在。英米派ということはどういうことかというと、決して軟弱ではなくて、むしろ当時のヨーロッパのことを考えてみますと、ダンケルクに追い詰められて大陸を撤退することになったイギリス軍が、ダイナモ作戦によって漁船まで使い、また積極的に志願して、その兵員をイギリス本国に帰還させ、そのような負け戦の事実を堂々と開陳したチャーチルに対し、国民は圧倒的な支持率で彼を鼓舞したという、そのアングロサクソンの持つ強靭さに惚れた人と言って良いのではないかと思います。
私自身もロンドンのチャーチル博物館・内閣戦時執務室の現場を訪問したことがありますが、同様な感じを持ちました。そして、第一次大戦時、あえて負け戦を報じて勝利につなげたデーリーメールの社主の話が、その昔教科書に載っていたことも思い出されます。ちなみに『葉隠』にもある永禄12年(1569年)の立花城の戦い、つまり大友宗麟による「落城の命令」も同じパターンでしょう。中世日本の世界標準は見事です。

その後、ロンドンで空襲を経験した辰巳さんは、交換船で日本に戻り、昭和19年、学童疎開を進言しますが、東條首相は「死なばもろとも」と答えてこれを拒否。しかし、いろいろと手を回して40万人の少年たちの学童疎開を実現させました。
そして戦後には、警察予備隊、保安隊等の再建、そして自衛隊創設についてのブレーンとなりました。この際の辰巳さんと吉田茂の会話を『昭和名将録(二)』から引いてみると
「辰巳 総理。ご報告した警察予備隊の幹部の件ですが、やはり元大佐クラスの採用が必要です。大佐ですと連隊長として軍隊の統率の経験もあります。今のままでは素人ばかりの寄木細工で、どうにもなりません。
吉田 (新聞を読みながら)ウイロビーのところにいる元軍人らを追放解除して、採用しろというのかね。
辰巳 そうです。
吉田 辰巳君、私は、旧陸軍にはさんざんいじめられた男だよ――。
辰巳 駄目ですか……。
吉田 駄目だな、あの連中は。
辰巳 そうですか。
吉田 (ザ・タイムスをとりあげて見ている)また動き出す、ダレスが……。公式には中間選挙がすんでからだろうが。」
このやり取りについても辰巳さんは高山さんに否定されなかったとのこと。ここでいう「ウイロビーのところにいる元軍人」が大事です。それは、『大東亜戦争全史』を書いたドイツ派・服部卓四郎元大佐らを指していることは明白です。この服部や辻政信のラインがノモンハン事件以来、チャーチルと真反対の、事実に基づかない強気強気の作戦指導を行って、多くの人命を失わせたことも事実です。しかも、そのラインのおかげで吉田茂自身憲兵に40日間拘束されたという経験もあります。つまり「いじめられた男」です。そう考えてみると同じような経験をしていた人には眞崎甚三郎大将もいるわけです。

辰巳さんが尊敬する人物として『昭和名将録(二)』では本間雅晴中将、吉田茂、武藤信義元帥が出てきますが、私の知る警察トップの方ががお聞きになったのがもう一人、眞崎甚三郎大将でした。明治以来の陸軍は長州が握ってきたわけですが、それにいわば風穴を開けたのが大正時代の上原勇作元帥(都城出身ですが都城はもともと薩摩ですから薩摩閥)。そして、佐賀の宇都宮太郎朝鮮軍司令官、そして、やはり佐賀の武藤信義元帥らであり、これらが眞崎大将にもつながってくるということでしょう。
こうしてみると書きたくもないことではありますが、特に昭和初期の政治との関係で、派閥を見ることは大事です。眞崎らいわゆる皇道派と、英米派、宮中グループ、本来は「国本」という雑誌を出していた平沼騏一郎らの一種右寄り路線も、対するもう一派とは全く違いました。この人たちは失敗もありましたが、英米と事を構えようとはしていなかったわけです(平沼にしても英米派)。そのあたりの一種の人脈の違い、例えて言えばDNAの違い、これは最も大きな要素ではないか。いわば武士道観として葉隠のいうところの「上方風の打ち上りたる武道」を引きずった長州と、上記「立花城」に見られる中世武士道との違いといってもよいのではないかと思います。

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見直されるべき真崎兄弟をはじめとする人々の考え 
Monday, January 14, 2019, 06:17 PM
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真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)とその著書について一言。

今般、何故このようなテーマを取り上げる気になったかと言いますと、近頃の世上、第二次大戦という戦争、あるいは戦争の前提となる明治憲法下の制度、更にはそれを体した軍人に対する認識等に余りにも間違いが多く見受けられるようになったと思うからです。
例えば、あまり書きたくもありませんが例の従軍慰安婦の問題などについて、ある自治体の若い首長は、テレビで、「それは戦争の時代なのだから当然なのだ」などという暴論を吐いていました。
しかし、明治憲法下における日本の軍人は、「天皇の軍隊」を構成する者であり、それはあくまでもピュアな執行機関の一員として、絶対にそのようなことがあってはならないというものでした。それが軍人勅諭にうたわれた「軍人は禮儀を正くすへし」であり、裏付けとしての軍法会議もありました。文官も同様に、官吏服務規律を前提に「品位を保つ義務」(美濃部『行政法概要』)を課され、重たい刑罰による裏付けもありました。
しかるに現実には不祥事が起きたのは事実であり、それがなぜ起きたのかということを、そういった「仕組みの脆弱性」等々を含めて今後の課題として考えることが本当の制度論であり、また憲法論でもあるのに、何やら真の歴史認識を欠いた、極めて論理性の無い話が横行しているわけです。

あるいはまた一方、私が最近購入した日本国憲法制定時の議事録の縮刷版(といっても超縮小版。日本国憲法の制定に当っては、膨大な量の議事録に相当する議論が行われたことを知る人さえ少なくなりました。)には、リベラルとされる評論家のH氏が、真崎勝次元海軍少将のことを、「その著書『亡国の回想』について、余りにも謀略史観まがいの歴史認識に激しい反発をもった」云々という記述をもって書かれていました。以下のとおり、私が会った真崎少将は、決して、「日本は謀略によって戦争に巻き込まれたのだ、日本は悪くない」などという、正に「暴論」とは無縁の人であり、世界的視点から、今も問題とされている、北方の大国ロシアによる工作のことを述べているだけなのにです。
こうして、極めてラフに言えば、右も左(いや中立?)も誤っており、これを糺すことが大事ではないかと思うのです。

また、いわゆる旧軍の人々の話を聞くについては、まずはその前提としての「制度・仕組み」やそれによって出来上がった「彼らの頭脳の傾向」をしっかりと把握しておく必要があると思います。更に、現実に戦争をした人、指示した人、訓練で終わった人では全く違います。あるいは、二・二六事件の水上源一さんのように、民間からこうした事件に関わった人でも軍人に勝る軍人精神の人もいます(墓は賢祟寺の二・二六事件の軍人の墓の後ろにあります)。

そしてもちろん、そのような「傾向」が出来上がってきた明治維新以前の日本も当然知らなければなりません。これらを欠いて表層的なことばかりを言っていたのでは、「日本は悪くなかった」的な言説になってみたり、「戦争は極めて悲惨である」という、正に左右の、つまりはステレオタイプのいずれも「お話歴史」の分野に留まってしまいます。いつも言う通り、「お話歴史」での歴史の捉え方は、あくまでも「物語」であって論理性を欠き、かつ法的なロジックを欠くものでしかなく、時代をどのように持って行くかという将来的なビジョンを欠くものだと思います(しかも、その発想法は、これまたいつも言うとおり、中国由来かつ中国が捨てた史記的見方です)。

前置きはこのくらいにして、私が小学校に上がる前に松原のお宅でお会いしたのが、上記真崎勝次元海軍少将(当時衆議院議員)でした。この方が書かれた本の中には、上記『亡国の回想』があり、もう一つの『隠された真相』を私は何度も読み返してきました。この本は日華事変以来の戦争の遠因、特に明治維新にまで遡り、例えばそこで行われた廃仏毀釈といったことが、日本の戦争を惹起する大きな原因になったことなどを詳しく記しておられます。つまりは思想史的で文化人類学発想があります(時代背景もあって、十分成功しているとは言いませんが、アプローチの仕方は正しいものです)。

この本の元は、戦後真崎少将が、長野県大町市等において、旧制松本中学の校長清水謙一郎先生の呼びかけに応じてされた講演が元になっています。ちなみに清水先生の弟子には、穂苅甲子男氏(元松本商工会議所会頭)がいますし、その同窓には山口富永氏がおり、この山口氏も『昭和史の真相』という本を書いています。これらの本における大将らの考えに対する見方は、長い間主流ではなく、しかし真崎大将らを悪く言っていた人々の根拠のない話が下火になると共に、最近は改めて見直されているようです。
例えば、『真崎甚三郎日記』の解説(東大のI名誉教授)でも、真崎大将らが「日本の対峙すべき相手はソ連(ロシア)であって米英ではない」と考えていたことがきちんと書かれています。

少将は、モスクワの駐在武官もされたロシア語に堪能な方で、兄上の真崎大将らが、日本軍を絶対に万里長城以南に入れないこと、特に、真崎参謀次長時代の最後に当る、昭和8年5月31日の塘沽(タンク)停戦協定などに見られるとおり、断固として「不拡大」の方針を取っていたことをよく知る人でした。
特に、大きな世界史的傾向を見るならば、昭和初期のソ連(現在のロシア)と米英そして中国との関係について見たとき、日本の真に対峙すべき相手は上記のとおりソ連であるにも関わらず北の防備を固める反対に、米英や蒋介石政権との戦争を惹起し、現在につながる多様な大問題をアジアはもちろん世界が背負い込むことになってしまったと私は思っています(もちろん原因はそれだけではありませんが)。

真崎大将、少将らがいわば追い落とされた昭和12年以降、日本は、南京を首都とする蒋介石と提携せずして、むしろそこを攻めてしまうという、いわばめちゃくちゃなことをやったために、せっかくきちんとまとまるはずの話がおもちゃ箱をひっくり返したような形になって、旧満州、内モンゴル、チベット、新疆などが大きな中国というコンセプトの中に入れられる結果を招くことになってしまいました。上記のとおり、それが現代における世界的大問題も引き起こしているのに、そういったことが分からなかった人々が戦争を始めたというわけです(謀略は、その中の一要素です)。

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西学の話 
Monday, January 14, 2019, 06:07 PM
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久米邦武先生は、江戸時代の天保10年(1839)、現在の佐賀市八幡小路に生れ、大隈重信の1歳年下として共に弘道館で学び、大隈家とは後年に至るまで家族ぐるみのおつきあいであったとのことです。佐賀での勉強を経たのち、江戸に上り、昌平坂学問所において古賀精里の孫・古賀謹一郎らの指導を受けて、再び弘道館に戻りその教諭になりました。そして、岩倉具視の子ども3人が佐賀に遊学した縁と思われますが、明治四年からの岩倉を団長とする米欧回覧の使節団書記官としてアメリカ・ヨーロッパを2年間近くにわたって視察してきました。
そして帰国後、5年間かけてでき上がったのが有名な『米欧回覧実記』です。岩波文庫で5冊もある膨大なものですが、その内容は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルキー・ドイツ・イタリア・ロシアなどなどヨーロッパのほとんどを網羅した「旅行記」というにとどまらず、各国の人文・地理・気候・工業・農業・商業・宗教等々に渡るすばらしい報告書となっております。そして各国への感想も、すべてが礼賛というわけではなく、その中身を厳しくひとつひとつチェックしており、付属の銅版画と相まって、今でも充分に通用するどころか、汲めども尽きぬ味のある本になっています。
当日は、この報告を完成させるにつき、5回ともいわれる書き直しの跡を見せて頂き、いかに心血を注いで書かれたのかということに感動を覚えました。そして私は、それだけではなくて、どうしてこのような、いわば博物学的な内容を久米先生が自ら体得し、かつそれを前提に欧米を見ていたのか、その下地はどんなことなのかということに大いに興味を覚えました。もちろん鍋島直正の近習であったことや父邦郷の影響は言うまでもありませんが。これは一般的な蘭学とも相当違うところにも興味を引かれます。
そこで考えてみるに、一体、佐賀にしろ、昌平坂学問所にしろ、いかに儒教主義の学校といっても、単なる訓古注釈や、いわゆる道学先生的な頭の固いことをやっていたわけではないわけです。それは、この米欧回覧のはるか昔、例えば佐賀の隣の福岡にいた、葉隠にある背振山境界論争にもかかわった貝原益軒即ち折衷主義の大学者が、極めて柔軟で、観念的な大義名分論に陥るわけではないどころか、『大和本草』など正に博物学的な書を物していることからもうかがえます。そして、上記古賀謹一郎は、儒学者ではあっても洋学に広く目を開いた人でした(後洋学所頭取となる)。
本来の儒教そのものが、特に大陸においては、1600年代のはじめ、イタリアの宣教師マテオリッチらがキリスト教を中国に布教しようとして北京に到達。明朝はこれを禁止したため、最初は仏教との習合を図っていましたが、途中からは、むしろ儒教との習合となり、「天主実義」に見られるようにキリスト教の神・ゴッドを「上帝」とみるというようなことが行われてきました。
そして、キリスト教の布教にあわせて、むしろ、中国に「科学」を入れたわけで、代表的なものとしては、ユークリッド幾何学の最高のレベルを伝えた『幾何原本』があったり、世界地図としての『坤輿万国全図』があったりしたわけです。西欧文明つまり西学の東への伝播が彼らによってなされ、リッチの弟子で遂にはキリスト教徒になったのが『農政全書』やアダム・シャールとの協力により『崇禎暦書』を著した徐光啓です。その影響は、日本の農書や天文学などにも顕著です。私は、かつての上海郊外にあたる徐光啓の故地「徐家匯」を歩き回ったことがありますが、今更ながら江戸時代における西洋、中国そして日本の関連性に感動を覚えました。
リッチには中国・元の時代の戯曲・元曲の翻訳がありますが、それが正に洋の東西に行き、東では歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」となって、新渡戸稲造さんの「武士道」にも引かれ、西ではボルテールによる「支那孤児」としてハッピーエンドの物語となる。平田篤胤の国学そして神道が、キリスト教と極めて似ているということも既に村岡典嗣先生によって説かれているところです。
いずれにしても、このような文化の東西交流、特に西から東への伝播は、久米先生のような方の頭には、しっかりインプットされていたものと思います。現に博物誌ともいうべき、「毛詩品物図考」が昌平坂学問所において、教材としてとりあげられていたことも、古賀精里・尾藤二洲と並ぶ寛政の3博士の1人柴野栗山によって書かれています。こうした意味からも『米欧回覧実記』は、日本の歴史について、改めて別の角度からの貴重な示唆を与えてくれる本ではないかと思うところです。


久米邦武先生は、江戸時代の天保10年(1839)、現在の佐賀市八幡小路に生れ、大隈重信の1歳年下として共に弘道館で学び、大隈家とは後年に至るまで家族ぐるみのおつきあいであったとのことです。佐賀での勉強を経たのち、江戸に上り、昌平坂学問所において古賀精里の孫・古賀謹一郎らの指導を受けて、再び弘道館に戻りその教諭になりました。そして、岩倉具視の子ども3人が佐賀に遊学した縁と思われますが、明治四年からの岩倉を団長とする米欧回覧の使節団書記官としてアメリカ・ヨーロッパを2年間近くにわたって視察してきました。

そして帰国後、5年間かけてでき上がったのが有名な『米欧回覧実記』です。岩波文庫で5冊もある膨大なものですが、その内容は、アメリカ・イギリス・フランス・ベルキー・ドイツ・イタリア・ロシアなどなどヨーロッパのほとんどを網羅した「旅行記」というにとどまらず、各国の人文・地理・気候・工業・農業・商業・宗教等々に渡るすばらしい報告書となっております。そして各国への感想も、すべてが礼賛というわけではなく、その中身を厳しくひとつひとつチェックしており、付属の銅版画と相まって、今でも充分に通用するどころか、汲めども尽きぬ味のある本になっています。
この報告を完成させるにつき、5回ともいわれる書き直しの跡を見せて頂いたこともありm、あすが、いかに心血を注いで書かれたのかということに感動を覚えました。

そして私は、それだけではなくて、どうしてこのような、いわば博物学的な内容を久米先生が自ら体得し、かつそれを前提に欧米を見ていたのか、その下地はどんなことなのかということに大いに興味を覚えました。もちろん鍋島直正の近習であったことや父邦郷の影響は言うまでもありませんが。これは一般的な蘭学とも相当違うところにも興味を引かれます。

そこで考えてみるに、一体、佐賀にしろ、昌平坂学問所にしろ、いかに儒教主義の学校といっても、単なる訓古注釈や、いわゆる道学先生的な頭の固いことをやっていたわけではないわけです。それは、この米欧回覧のはるか昔、例えば佐賀の隣の福岡にいた、葉隠にある背振山境界論争にもかかわった貝原益軒即ち折衷主義の大学者が、極めて柔軟で、観念的な大義名分論に陥るわけではないどころか、『大和本草』など正に博物学的な書を物していることからもうかがえます。そして、上記古賀謹一郎は、儒学者ではあっても洋学に広く目を開いた人でした(後洋学所頭取となる)。

本来の儒教そのものが、特に大陸においては、1600年代のはじめ、イタリアの宣教師マテオリッチらがキリスト教を中国に布教しようとして北京に到達。明朝はこれを禁止したため、最初は仏教との習合を図っていましたが、途中からは、むしろ儒教との習合となり、「天主実義」に見られるようにキリスト教の神・ゴッドを「上帝」とみるというようなことが行われてきました。

そして、キリスト教の布教にあわせて、むしろ、中国に「科学」を入れたわけで、代表的なものとしては、ユークリッド幾何学の最高のレベルを伝えた『幾何原本』があったり、世界地図としての『坤輿万国全図』があったりしたわけです。西欧文明つまり西学の東への伝播が彼らによってなされ、リッチの弟子で遂にはキリスト教徒になったのが『農政全書』やアダム・シャールとの協力により『崇禎暦書』を著した徐光啓です。その影響は、日本の農書や天文学などにも顕著です。私は、かつての上海郊外にあたる徐光啓の故地「徐家匯」を歩き回ったことがありますが、今更ながら江戸時代における西洋、中国そして日本の関連性に感動を覚えました。

このような文化の東西交流、特に西から東への伝播は、久米先生のような方の頭には、しっかりインプットされていたものと思います。現に博物誌ともいうべき、「毛詩品物図考」が昌平坂学問所において、教材としてとりあげられていたことも、古賀精里・尾藤二洲と並ぶ寛政の3博士の1人柴野栗山によって書かれています。こうした意味からも『米欧回覧実記』は、日本の歴史について、改めて別の角度からの貴重な示唆を与えてくれる本ではないかと思うところです。

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