今こそ「死ぬことと見つけたり」では?
 我が国の中世は、正に殺戮の時代であった。保元、平治の乱から豊織政権に至るまで、中世人の目の前には、ほぼ数年ないし数十年おきに大きな戦乱が引き起こされ、人々はいやでも死を見、あるいは死に直面することになった。
 そこに平安末からの末法思想や、天文知識の不足が加わり、人々は死後の世界に対する恐れをいやがうえにも抱かされた。
 人間は、死ねば十人の王の前に引き出され、裁きを受ける。その裁判で助かるために、残されたものが追善、即ち、善行を積むことをなした。そうであるから、人々は死ねば一刻も早く極楽に往生することを願った。例えば鎌倉に近い三浦の海に船を浮かべ、その上に、阿弥陀如来を初めとする仏の面を被った人々が乗って、鎌倉政権の統治者の前に極楽へのお迎え然として次々と現れ、それを見た者らは、随喜の涙を流して喜んだと吾妻鏡にある。この行事即ち練り供養は、現在でも京都の寺院等で行われている。
 こんな現象は、現代から見れば、迷信ともいえ、むしろ、それを種にして一儲けを企む者さえいることを考えると、危険であるともいえるが、「死」を正に正面から受け止める中世の人々の真剣な姿であったことは間違いない。更にこのような殺戮の時代は、一方、経済上の競争の時代でもあった。平安末より、人々は中国・朝鮮との貿易に精を出し、我が国の交易船は、勘合貿易、朱印船貿易と海外に雄飛し、時には官貿易の規制を排して、正にビッグバンの盛況を呈した。そんな発想は、後に、堺、博多、安土などの自由都市を生み出す原動力ともなった。こうして、戦争と競争とからは、強大な権力や多大な富が生まれるとともに、一方、「死」が、あるいは「敗者」が数多く排出されることになったのである。
 そんな中世であったが、死者や敗者の存在が、先に述べたとおり、人々に対して、常に「死ぬこと」を意識させ、死を恐れる一方で、生を尊重し、これを慈しむことが行われたことを忘れてはならない。吾妻鏡によると、毎月15日の不成就日には、鶴岡八幡宮において放生会が行われ、魚を池に放すことが行われた。あるいは、鎌倉の入口である横浜市六浦の上行寺には、大きな牛馬供養の宝篋印塔が立ち、旅人や物資を運んでくれた動物への感謝の念が示されている。
 さて、「武士道というは死ぬことと見付けたり」と喝破したのが、永らく「武士道書」と位置づけられてきた葉隠である。
 第二次大戦中において、この葉隠の「死」は、死に突入することを意味する、とのみ読まれ、痛ましい特攻隊の精神的バックボーンにもなった。しかるに戦後は、そんな読み方の不当さが指摘され、これを仏教的な無我の境地と読む見解がそれなりに力を得た。だが、葉隠が、戦国時代以前の中世武士の生活を良いとし、徳川の体制を否定していることを考えると、この「死」を、一種思弁的な「無我」とのみ読むことにも問題があり、むしろ、中世以来の、死を見すえ、物理的に「死ぬこと」を覚悟し、そうであればこそ、生をたたえ、生きるものを慈しむ姿勢をあらわしたものとも読んでいくべきではないだろうか。また、武士道というと、一般に江戸幕府以降の武士道がイメージされ、新渡戸稲造の「武士道」などもその論で書かれているが、それは、どうみても「殿様だから忠を尽くせ」という権力的、儒教的な響きが強く、合理性はあるものの冷たい。これに対して葉隠の理想とする社会は、仏教的な、いわゆる「一味同心」の社会であり、主君と家臣とは情や互いの合意の関係で結ばれ、そのような「実質的な情」があるからこそ、主君が死ねば、自然に「追い腹」することも行われたのである。それは我が国にもかって存在した民主的な国家像であるともいえるわけで、徳川時代以降とは相当に異なる。

 現にこうした時代の法は、御成敗式目など、我が国固有の慣習を元とした自分達の身の丈に合ったものであり、例えば中国の影響を受けた律令法では女子が養子をとることを禁止していたが、御成敗式目は、それは当然許されるとしてこれを認めている。
f03_pop1.gif (23939 バイト) *「御成敗式目」
 鎌倉時代、北条泰時が定めた「御成敗式目」。これは、江戸時代の流布本で、書道の手本にもされて親しまれました。
 徳川武士道とは相当異なる我が国独自のものです。
f03_pop2.gif (26025 バイト) *「お定め書」
 徳川吉宗が定めた「お定め書」。これは、裁判官のいわば覚えであって公布はされず、秘密法典とされました。
 死刑ひとつにしても、こと細かにわかれており、裁判官の裁量の範囲は狭くなっています。それに比べると、現行刑法は裁判官の裁量の範囲が広く、それだけ官僚の責任に依存する面が強いのです。
 ですから、「明治維新」は、官僚主義の徹底化だ、ということになるのです。
 こうして、「死ぬこと」や「戦争をすること」を常に考えなければならなかった中世は、そうであるからこそ、より人間の本質を捉えた実や情の生き方に沿うものであったといえるだろう。
 最近の世の中では、神戸の事件をはじめとして、このところ、おびただしい少年の凶悪犯罪が世間の耳目をそばだたせている。そして他方「ビッグバン」が喧伝され、今後、国家間、会社間の競争はますます厳しさを増すだろう。だが、そこでも、死者や敗者が次々に生み出される。こんな時代、宇宙船地球号を標榜する我々は、中世的ビッグバンを実現しつつ、死をおそれ、敗者や生き物に心を配り、生きていることの素晴らしさを讃えた中世日本人の行き方をもう一度みつめ直すべきではないか。
 それは端的には、「死」の意味を、深く深く皆で考えるということであろう。先にあげた十王の像も、鎌倉のそれは、一様にこわい仏として、真にせまった彫刻がなされているのに、江戸時代以降は、まるでまねき猫の態といわざるを得ない。すなわち、中世においては、正に死ぬことを胸にあてることが行われ、そうであるが故にこそ、こうした素晴らしい芸術が生み出されたのである。
 私達は近世といわれる時以来の過去数百年間、こうして「死」を忘れた民族になってしまったことを、どれだけ反省しても、足りることはないというべきであろう。
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