9)「葉隠の戦争と第二次世界大戦」
 まず、葉隠にも載っている永録12年の大友来襲に対応する立花城の攻防戦。この時、竜造寺一党は佐賀市の近郊まで大友勢に攻め込まれますが、遠く毛利に牽制を依頼し、大友は兵を引くことになります。一方毛利はそのまま大友の筑前(福岡)における牙城立花城を囲みました。それに対して大友宗麟は、いったん開城して降伏するよう指示。毛利は守将3人を助けて大友の根拠地まで送り届けます。しかし、大友は、その間に毛利の本拠山口を衝き、やむなく毛利は立花城を放棄して、今度は守将3人を大友が助けることになります。正に敵の敵は見方、落城も戦略の一つという戦国時代らしい戦争ですが、そこに世界共通の発想をみることができます。この戦争自体が、当時の日本の唯一の貿易港といってよい博多をめぐるものであったことにもその理由の一つがあるのではないでしょうか(これを葉隠武士道の「鍋島直茂型」と名付けます)。
 次に、天正12年の竜造寺隆信の沖田畷の戦い。島津・有馬の連合軍に対して、優勢であったはずの竜造寺ですが、鍋島直茂の諫言を聞かなかった竜造寺隆信は、不利な土地で不利な形勢のまま遮二無二突進し、遂にあえない最後をとげることになります(これが葉隠武士道の「竜造寺隆信型」)。
 そして最後に昭和19年のインパール作戦。ご承知のとおりの悲惨な戦争ですが、某司令官はクンタンに進出した司令部で、「日本軍というのは神兵だ。……それを泣き言を言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ。手がなくなったら足で蹴れ。足がなくなったら歯で噛みついていけ!」と訓示したとの報告があります(「責任なき戦場インパール」角川書店)。ああこの言葉こそ、実は葉隠の一節なのです。上記2つの戦争の、前者の立花城攻防戦も葉隠、後者の沖田畷の戦いも葉隠の戦争ですが、後者の発想が、日本の50数年前の悲劇の一つのきっかけをなしたことは間違いないようです。そうであるからこそ、私どもは決して葉隠を金科玉条の如くに考えてはならず、より広い目で、取捨選択しながら読むべきです。
yuuhi.jpg (4121 バイト) *「ミャンマー・ジュピー山脈に沈む夕日」
 インパールは夕日のはてに
kawa.gif (8984 バイト) *ミャンマー・イラワジ川に上方から合流する「チンドウィン川」
 1945年(昭和20年) 英印軍は、このあたりから戦車2000輌以上による攻勢をかけ日本軍を壊滅させました。
ビルマ(現ミャンマー)の戦いは、旧日本陸軍の最後を飾るにふさわしい劇的なものであったばかりか、その中には日本の組識や日本人の性癖に対する反省を迫る数々の問題が含まれています。
 その反省がうやむやのままこの五十数年が過ぎてしまった、というのが残念ながら実態のようです。