8)「葉隠と禅との関係」
 葉隠の口述者山本常朝の師湛然和尚は肥前の出身ですが、三河の寺に住していたところを、板倉周防守の菩提寺の住職で、やはり肥前武雄出身であった月舟和尚の推挙により、鍋島家菩提寺高伝寺の住職に座りました。そのため、葉隠の中には、彼らを介して三河武士の話が度々語られることになり、葉隠の論理も、禅をいわばバックボーンにしている、というのが私の考えです。
 しかし、こんなにはっきりした話しと思われるのに、このことを戦前において文書上明言していた人物は、鈴木大拙、山上曹源など2、3を数えるに過ぎません。誠に残念なことでした。おまけに戦後においてまで、「陽明学」などと、非実証的なことを言っている三島由紀夫の「葉隠入門」などが売れている(否、売っている)のも、これまた困ったことです(もちろん三島の「作品」にそれなりの文学的価値があることは認めますが)。こうなってしまったのは、実は葉隠にも「責任」があるわけで、禅といいながらも「仏名真言に違わざるなり」など、念仏的な言葉があり、論理がはっきりされていないことによるものと思われます。また、大枠として、忠や孝といった儒教的な言葉が用いられていることにもよるでしょう。
mishima.gif (19771 バイト) *三島由紀夫
 1970年(昭和45年)11月25日の三島由紀夫の死を特集する各種週刊誌。
彼は「葉隠入門」を出版しており(光文社・カッパブックス)、そのこととの関連がとりざたされました。ただ、葉隠には、彼が言うような陽明学の影響はなく、むしろ曹洞宗の影響が、そして儒教との軋轢があるというべきでしょう。
 いずれにせよ、こうした問題をよりはっきりさせるためには、幅広い思想史的な分析が必要と思われます。
 なお、三島に関係するものを汲み取るとすれば、葉隠には、西鶴の男色大鑑からの引用があり、再三衆道、いわゆる男色の話が出てきます。有名な「忍ぶ恋」などというのも男女の恋愛というより男どうしの念友の話です。これは、元禄時代という時代背景から出てきたもので、これはこれでなかなか面白いものでしょう。
sannin.gif (4807 バイト) *西鶴「男色大鑑」
 葉隠に引用された「玉章(たまづさ)は鱸(すずき)に通わす」の部分。