5)「葉隠と島原の乱・排耶僧とのかかわり」
 1637年に発生した天草・島原の乱は、キリスト教徒による反乱という面が強調されてきましたが、その発生原因には諸説あり、4万石の石高に対して不相応な10万石の負担を領民に強いた松倉氏の荷斂誅求が元であるとの説が説得力を持っています。海外貿易が盛んな時代ならば10万石も何とかなったようですが、鎖国(1639年)直前のこの時期では、海外からの収入もなく、余計過酷な政策となったようです。突然発生した乱に武家諸法度を守った近隣の国々は、領境を越えて討伐に赴かず、みすみす乱の拡大を招いたとか。また、総攻撃の前日に攻撃を仕掛けた佐賀藩は、軍律違反を問われて閉門とされます。更に乱後、天領の代官に就任した鈴木重成は、不合理な税制の改正をはかりますが、幕府は、一旦決めたものは動かせないとして応じません。重成は遂に切腹して抗議し、漸く6年後に重成の要請がとおることになりました。
 こうしたいきさつや、乱後の処理をみていると、葉隠の理想とする時代とは異なった法治主義の時代の持つ不合理さも見えてきます。現代にも共通する反省点がないか、考えてみる余地がありそうです。
 例えば、乱の原因を作った領主、松倉勝家は、当初は軽い改易。後に撫民に落ち度があったとして斬刑となります。まさに水戸・会津型の発想なのです。
kizoku.gif (2040 バイト) *「鈴木重成の像」
 鈴木重成は三河の国に生まれ、島原の乱に功をたて、初代天草代官となります。
島民は、鈴木神社を建てて彼の徳をしたいました。
 また、重成の兄で、自身元三河武士の鈴木正三は、乱後排耶僧として天草地方に派遣され、多数の寺を建て、「破キリシタン」という本を著します。正三の書には、葉隠と共通する思想がみられ、現に、葉隠の中にも正三の直弟子の話などが出てきます。
 以上のようなわけで、天草・島原の乱は、葉隠の日本史上の位置づけを考えるに大切な事件であり、また、葉隠の思想・論理構成に影響を及ぼした鈴木正三がかかわっている点でも重要なことがらです。ここらを立体的に眺め、現代に生かしたいものです。