4)「葉隠と黄檗宗とのかかわり」
 黄檗宗は、隠元により西暦1650年代に我が国に渡来しますが、当時の幕府、朝廷の人々に重んじられ、京都の黄檗山万福寺は、宮家の土地を献上する形で建てられます。そして、13代目までの住職は中国人で占められ、現在でも毎日中国語のお経が読まれています。葉隠の地元佐賀県では、煎茶道の祖といわれる売茶翁が黄檗僧であり、その出身地は佐賀市蓮池町です。また、三支藩の内、小城、鹿島の藩主菩提寺は黄檗宗。本藩の菩提寺である高伝寺にさえ黄檗三筆の一人即非禅師らの額がかかっています。そのころの日本の上層部の人々の間には、丁度現代の我々が西欧文化や米国式の文化に憧れるような感覚があったのではないでしょうか。つまり黄檗宗は、戦後の米国文化、明治維新のドイツ文化に匹敵する、いやそれ以上の深甚な影響を、当時から今日までの日本文化に与えているというのが私の考えです。そのことは、あまり意識されていませんが、目に見えない法的側面にも多大であるといえるでしょう。結局、単に黄檗宗という宗教にとどまらず、「黄檗文化」として、広く明末清初の文化と我が国との関わりを探らなければなりません。その点の深い考察なくして、最近の日本の様々な問題は解決できないとさえいえます。
 そういうむずかしい話はともかく、全国版の人物として最近注目を浴びている売茶翁など、もっと地元で顕彰したいものです。
sou.gif (2947 バイト) *「即非禅師」
 即非は中国福建省出身で、隠元の弟子となり、1657年長崎に来ました。その後、京都宇治の万福寺に行き首座となります。黄檗三筆の一人です。