4) 対する「葉隠武士道」
 さて、この徳川型武士道を「上方風の打ち上がりたる武道」と非難するのが葉隠武士道なのです。
 先ず葉隠の成立について一言しましょう。鎌倉時代以来の九州の御家人の動きをおさらいすると、中世の肥前に支配権を持ったのは、太宰の少弍に補されたことにより武藤から少弐へと改姓した少弐一族でした。しかし、少弐一族は山口の大内一族との多年の抗争により疲弊し、西暦1559年に滅亡します。そして、龍造寺、更に鍋島家が台頭してきたのでした。豊臣秀吉による1590年の全国統一を前にした九州平定にあたり、最後の勝利者になったのが鍋島直茂です。そしてその子勝茂、忠直、光茂、綱茂と続いていきます。
oshiro.gif (3546 バイト) *佐賀35万7000石の藩主の居城「佐賀城鯱ノ門」
 佐賀城の遺構は、明治7年の佐賀の乱のためほとんど残っておらず、この門にも乱の折りの弾丸が埋まっています。
f02_02_7.gif (13741 バイト) *「手紙」1
 初代、佐賀藩主・鍋島勝茂が息子、直弘にあてた手紙。
勝茂は葉隠の「主役」の一人といってもよい人物で、光茂の祖父に当たります。

 この忠直の死に際しての家来の殉死に心を痛めた佐賀藩主鍋島光茂は、1661年、追腹停止令即ち殉死禁止令を出します。そのため、幼いころから光茂の側に仕え、情としては、殉死したくて仕方がなかったのに殉死できなくなってしまった光茂の家来・山本常朝は、僧になって佐賀市北郊に隠棲。そこを訪ねてきた若侍、田代陣基に対して話しをした内容を陣基がまとめ、享保元年(1716年)に脱稿したのが葉隠ということになります。
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*「手紙」2
 鍋島直弘が父、勝茂にあてた手紙。直弘が死亡した際、佐賀藩の二代目藩主光茂は、殉死禁止令を出しました。そのことが光茂の家来、山本常朝の隠棲につながっていくのです。
 ですからこの葉隠は、徳川武士道のような儒教的な「知性」よりも、中世や戦国時代の「一味同心」であった君臣の「情」や「実」を大事にするのです。
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