3) 水戸・会津型(徳川)と葉隠との国家観のちがい
 先に述べたとおり、この法治主義に資する武士道というのが儒教的武士道でして、その典型は明の遺臣朱舜水がブレーンになって作られた水戸の武士道です。水戸の義公、あの水戸黄門ですが、彼は儒教をきわめて大事にしました。そして逆に、仏教系の特に淫祀邪教は厳しく取り締まりました。正に合理性あるいは知性があったわけです。
 これこそが、多くの人が観念する秋霜烈日ともいうべき武士道でしょう。このことをもう少し詳しく説明しましょう。
 水戸黄門は、水戸学の祖であり、彼は18歳のとき、司馬遷の史記を読んで、特にその中の伯夷、叔斉の伝に心を打たれました。
f02_02_2.gif (13540 バイト) *「梅里先生碑」
 水戸黄門が生前に作った自身の墓の文章です。これが水戸学の元になり、水戸黄門の国家観や家族観を伝えています。それは、「君君たらざるとも、臣臣たらざるべからず」、「長幼の序をみだしてはならない」といった考えです。
 常陸太田市端竜山所在。

 大切なことは、以下のとおり、黄門の考えたことは、中国的政治思想の1タイプであり、かつ中国では、採用されなかったタイプであるということです。
 黄門は、中国のいわば少数派の政治スタイルを「皇帝を放伐する国なんて野蛮だ!」という論理で日本に持ち込んだのです。

 これは、紀元前中国の殷の紂王という人がメチャクチャな政治をして周の武王のために牧野の戦いで破れ、周王朝が成立したことに関係します。この伯夷・叔斉という兄弟は、例え紂王であろうと王様というものは絶対に悪いことなんかしない。悪いのはそんな王様にしてしまった家来、即ち「君側(くんそく)」の人なのだから、もし統治者たる主君に不始末があった場合には、官僚すなわち「君側の奸」が責任をとるべきなのだ、というのです。そして、王様をやっつけた周の飯など食べられないといって、首陽山、別名西山(せいざん)に籠もって、蕨を食べて餓死します。
 まさに「King can do no wrong」の発想です。
f02_02_3.gif (18775 バイト) *「西山荘」
 水戸黄門が晩年に住んだ常陸太田市の西山荘。西山の名は、史記の伯夷伝からとったもので、極めて中国的な命名です。

 この話に心を打たれた黄門でしたが、しかしそうなると、天皇家を京都に押し込めている徳川幕府は、正に武王以下であり、一方、自分がそれを支えるべき御三家の1つであることとの間には矛盾が生じます。この矛盾は水戸藩を徳川幕府の「獅子身中の虫」化させ、幕末に桜田門外の変のような形で現実化したのでした。
f02_02_4.gif (12226 バイト) *吉田松陰の肖像画
 松陰は、水戸に遊学し、会澤安(やすし)らに会いました。いわゆる後期水戸学的な尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)を相当身につけたと思われます。

 一方、黄門とともに、同じ「君君たらずとも臣臣たらざるべからず」の論理によりながらも、会津の保科正之(徳川家光の異母弟)の場合は、ここにいう「君」を将軍とすることにより、黄門のような論理矛盾からは開放されますが、幕末には、大君、即ち将軍に最後まで殉ずることになり、もっとも手痛い目にあうことになります。
 しかし、こうして主君に殉ずることこそ徳川武士道の貫徹であり、精華であるといってよいでしょう。
f02_02_5.gif (16198 バイト) *会津藩の「家訓(かきん)」
 会津武士道の根本を定めた、保科正之(徳川家光の異母弟)の記した家訓。冒頭に「大君の義一心大切に存ずべし」とあるのは将軍に心から尽くせ、と教えているのです。
(会津武家屋敷出版)
f02_02_6.gif (11956 バイト) *「日新館童子訓」
 会津藩五代目、松平容頌が作った「日新館童子訓」。正に「秋霜烈日」の厳しさを持つ会津士魂(あいずしこん)の根本を定めたものです。

 戊辰戦争の折りの西郷頼母夫人の歌「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」こそ、その代表的な歌といえるでしょう。
kouyou.gif (10710 バイト) *会津若松市にある西軍墓地
 戊辰戦争により新政府から最も過酷な処分を受けたのが会津藩でした。その会津の人々が、薩長ほか攻撃軍の戦死者を西軍墓地として手厚く葬り、毎年10月23日に慰霊祭を行っておられます。
このことも会津武士道の素晴らしさの一つです。

 ただ、これら徳川武士道の論理の前提には、国民の自
 由、財産を、君主が当然に上から制限できるという専制的な国家観があります。これが儒教的な武士道なのです。
 ところが、こうした国家観に対して葉隠は、中世的な一揆、あるいは君民協約的な国を理想とし、「主君との一味同心」を標榜します。
 この一揆や一味同心は、皆が盟約しあって一つの組識を作り、共同して事に当たる中世の観念です。
 つまりは、水戸、会津、葉隠を比べることは、正に国家観の違いを探ることにほかならず、極めて今日的な問題なのです。
   
 そして江戸時代と明治時代とでは、上の「君」が将軍すなわち大君か(会津型)天皇か(水戸、明治型)という違いだけであり、以来、「悪をなさない」将軍や天皇が責任を負わず、官僚の責任や自己犠牲の精神に国家の運営が任されてきたのです。逆に中国では、先に述べたとおり、農民軍に追い詰められた明の崇禎帝は自身責任をとって、ある意味で民主的に自殺したわけです。
 こうして最も国粋的とみられる水戸、会津の発想は、その本質が中国では捨てられた制度を輸入したものなのです。先に「あくまでも中国を参考にしながらも、というのがこれからの話しのミソです」と述べたのはこの趣旨です。
 ですからこのことにより、それまで日本にあったよいもの即ち「身の丈」を大事にする発想などの内で、失われたものも極めて多かったことを反省する必要があります。特にこのようないわゆる大君体制は、先に述べた伯夷・叙斉伝のような主君の無謬性という、本来あり得ない「神話」に依拠している上、神様のような主君が国民を撫する「撫民思想」になってしまうことです。現在、問題になっている様々な「規制」の本質もここにあります。
kenpou.gif (17148 バイト) *伊藤博文らによって作られた明治憲法の公定的注釈書「憲法義解(ぎげ)」
 この本の第一条の注釈には、文武天皇即位の詔が引用され、天皇は「天下をととのえたまい、平げたまい、公民(おおみたから)を恵みたまい、「撫でたまわむ」といわれた。」とあります。
 つまり、天皇は統治権の総覧者である代りに国民に恵みを与え、これを撫でてやらなければならないことになっているのです。その大御心を体して仕事をするのが官僚即ち「武士」です。
 つまり、こうした撫民体制は江戸時代も明治維新後も変わっていないわけで、明治維新の「文明開花」に目を奪われ、それを「維新」だなどという見解は大いに考えものです。
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