2.葉隠の「上方風の打上がりたる武道」批判
1) 「上方風」武士道の発生
 ここからやっと葉隠に入っていくのです。こうして明が滅亡して中国の色々なものが本格的にわが国に入ってくる一方、明のあとを継いだ清は、1600年代から1700年代にかけて康煕帝など中国の最高の時期を迎えるわけですね。で、日本もそれに負けてはいられなくて、上記のとおり、日光東照宮のようなゴテゴテの建物を建て、家康を東照神君という神様にして中国に対抗しました。
 で、その思想的バックボーンとして明の遺臣により日本に入ってくるのが儒教の思想なんですね。中世では仏教的なものが基礎にあって、儒教はあくまでも僧の教養だったんですが、このときから法制度としてドンと入ってくる。で、そこで「上方風の打上がりたる武道」と、葉隠から批判されるような日本的儒教をバックボーンにした統治の原理としての武士道が生まれたのです。
 このことは、佐賀藩も同じで、三代藩主綱茂は、聖堂を建てたり将軍綱吉に儒教の講義をしたほどのいわば儒教マニアです。
そのころは、藩主の葬式を本来の曹洞宗ではなく、黄檗宗で行おうとして大もめにもめたこともありました。
 「そして、その黄檗僧を追い出し、本来の曹洞宗での葬式を強行したのが山本常朝の仲間だったのです。
 つまり葉隠は、世の中が滔々と「上方風」つまり一種の中国風に変わっていくことに対して、中世武士道こそがよいものであると異を唱えた書であるということができます。では、上方風武士道とはどんなものなのでしょうか。」