4) 明の遺制の本格的移入
 で、明を始めたのは朱元璋という人ですが、この人は豊臣秀吉と織田信長と徳川家康とを合わせたような人物だという人もいるんですね。破れ乞食というか、そういう者から身を起こして皇帝にまでのぼった人で、そのため金儲けに走る商人が大嫌いだったらしい。それで例の士農工商という考えを特にバンと打ち立てた。で、そのバックに「儒教」をすえたというわけなんです。
 つまりは、江戸時代日本の士農工商というもの、これは明の受け売りであると思います。なぜ受け売りになったのかは、明の滅亡が関係しています。江戸時代初期の1644年、明の崇禎帝は農民軍の反乱で自殺に追い込まれ、そのあとを継ごうとしていた一族も、清のためにどんどん南に追い詰められて遂に滅亡してしまう。それとともに、明からいろんな人がやってくるわけです。代表的な人が水戸の朱舜水という儒教の学者。京都の黄檗山万福寺の隠元もそう。その他いろんな人が各地の殿様のところにやってきた。佐賀の鍋島藩にも来ました。ですから各地の殿様のお墓や寺をみると、黄檗宗のものが非常に多い。亀趺という亀の上に位牌のようなものが乗ったような形の中国式の墓が。新らしい外来文化である明の文化即ち黄檗文化に、みんなが憧れたんですね。
keizanpk.gif (4794 バイト) *1644年に明の崇禎帝が自殺した景山公園
 北京の故宮の北にあり、毎日、観光客で賑わっています。
manpuku.gif (7676 バイト) *京都宇治の黄檗山万福寺
 隠元はここに中国風の寺院を開き、朝廷や幕府、大名らに強烈なカルチャーショックを与えました。
zencya.gif (5467 バイト) *万福寺内にある黄檗僧・売茶翁の堂
 売茶翁は佐賀、蓮池の人で、晩年は道ゆく人に茶を売って禅の教えを広めました。
 これを外交的にみますと、江戸時代、徳川幕府は冊封を受入れませんでした。ですから中国との正式の国交がないわけですね。正式の国交がないということは法的な意味での国交がない。そのため日本では、江戸時代における中国との交流を不当に教科書に載せていません。しかし実際は今の台湾との関係に比べられないくらい明の遺制の本格的移入には大きな意義があるのです。