3) 国風文化と実・情の時代
 唐が滅びまして、今度は宋の時代になっていきます(西暦960 年)。これはさっきの宋とは違いまして別の宋、いわゆる北宋・南宋。元に最終的に滅ぼされてしまった宋との関係が、この平安末あたりから出てきます。最終的には鎌倉時代の途中で南宋は滅びますが。
 例えば葉隠の故郷佐賀県でいえば、今の神埼郡を治めていた平忠盛即ち清盛の父が神埼荘での収益を日宋貿易につかって大きくなったというようなことがあります(1133年の長承事件など)。鎌倉の北条氏も宋との貿易に力を入れている。あるいは、関東の千葉氏が頼朝から佐賀県の羊羹で有名な小城に領地をもらい、更に四国の北の方や伊賀のあたりを押えて外国と貿易をした。これは最近の中公新書「武家の棟梁の条件」などにも紹介されています。
f02_01_1.gif (14827 バイト) *「源平盛衰記」
 律令時代から中世への過渡期の武士道を描いた「源平盛衰記」の一部です。

 そういうわけで、このあたりから再び中国の影響が徐々に入りだしてきました。しかし、この時代は国風文化が相当強いし、1992年に鎌倉幕府を開いた源頼朝は、関東の慣習法を規範としていた御家人層の支持により政権につきました。
 つまりは、自分たちで作った「身の丈」に合った仕組みで生きていこうとする者たちが、京都の律令政権との緊張(承久の乱など)の中で、支配権を握っていったのです。
また、仏教が非常に大きな力を持った時代であったことも周知のことです。いわば、「身の丈」を大切にする国風文化と仏教の「慈悲・情の時代」あるいは貿易の「実」益の時代といえると思います。
akahata.gif (8870 バイト) *東妙寺鐘楼
 佐賀県三田川町の東妙寺は、奈良の西大寺末寺の真言律宗の寺です。この寺は鎌倉の北条氏によって建てられ、横浜の称名寺ともつながりがあります。
真言律宗は、釈迦の時代の戒律、例えば生き物を殺してはいけないというようなことを大切にするとともに、国際的な貿易にもかかわっていました。

 いずれにせよ、こうして徐々に中国的なものが入ってきたところへ、室町時代になって再び中国の明による冊封が始まったわけです。即ち足利義満に「お前を日本国王にしてやるよ」という形になったわけですね。で、後世から非常に評判が悪い。義満はなぜ日本国王などというワンランク下の地位に立ったんだ!というわけです。しかしこれには理由があるわけで、明という国では、皇帝が貿易を独占しているので、その独占している皇帝と、こちらも日本国王に封ぜられて貿易を独占することによって利益を得ようとしたといわれていますね。その意味では、やはり利、益を大事にする、「実と情」の時代は続いたといってよいでしょう。
 そして以後、足利義持を除いたほとんどの足利将軍は日本国王になって、明による冊封を受け、かつその文化を取り入れてきました。
 ここに「実」をわざと「」カッコ書きにしましたが、これは、葉隠の大事なキーワードです。というのは、2の6)で紹介してある「愚見集」の中に、鍋島藩祖直茂の言として、「私は神様にお祈りするとき実の心おこり候ようにと祈るのだ」との言葉があるからです。戦国時代の九州を生き抜き、最後の勝利者となった直茂には、形式とか家柄よりも「実の心」こそが頼りになるものであった、というわけでしょう。
 応仁の乱の立役者、山名宗全が「例より時」こそ大切と喝破したのに通ずるところがあります。これらの実や時といった実質重視の姿勢こそ中世武士道の真骨頂なのです。歌舞伎の山名宗全像などにまどわされてはいけません。