2) 中国の文献にみられる倭
 日本は古くは倭といったわけですが、そのことが一番最初に出てきた本といいますと漢書地理誌という中国の本なのですね。それから後漢書東夷伝、更に有名な魏志倭人伝、そして5世紀の倭王武の上表文等になっていきます。実はこの倭王武の上表文に至るまでが、日本が中国から冊封された、つまり中国が皇帝の国で日本はいわばその家来である、ということを認めてきた最初の時代なわけです。
 ですから、例の有名な金印なども、「漢の倭の奴の国『王』印」となっています。現在の福岡の西の方にいた支配者に対して、中国が「お前を倭の奴の国王にしてあげるよ」と言ったということになるわけです。
 あるいは魏志倭人伝の倭王卑弥呼も「親魏倭王」という印鑑をもらったと書いてあるわけですね。その印鑑はまだ出てきておりませんが。
 こうして冊封されるということが、西暦でいえば5世紀まで続いてきました。その最後に位置するのが倭王武の上表文でして、岩波文庫からの引用ですが、「順帝の昇明2年、使を遣わして表を上る。曰く、『冊封は偏遠にして、藩を外に作(な)す。昔より祖禰(そでい)躬ら甲胃をつらぬき、山川を跋渉し、寧處に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国」というふうに、私は中国皇帝のために、これほど東へ西へと、あちこちいうことをきかない者らを平らげてきましたよ、ということを日本の天皇は言っているわけなんですね。
 また、「道百済を遙(へ)て船舫を装治す。而るに句驪無道にして図りて見呑を欲し、辺隸を掠抄し、虔劉(けんりゅう)して已まず」と書いてあります。要するに百済は非常に良い。しかし高句麗はけしからんから一所懸命高句麗とも戦ったと書いてあるわけです。
 実は正にここに、「国際関係」が出ているのです。この時代は中国の五世紀ですが、中国には南北朝というものができまして、それが隋によって統一されるまで、南の方で朝廷が何代も生起しました。その中の宋という国の皇帝に対して倭王武はこういうものを送っているわけです。宋は南の方にあるわけですが南と我が国は仲良くなれる。というのは、日本からみれば宋は、日本のそばにいる高句麗という敵の更に敵なので友達なんですね。そういうわけで「こういうふうに高句麗と戦いましたよ」ということが書いてあります。したがって、その結果として、「密かに自ら開府儀同三司を假し、其の餘は咸(み)な假授して、以って忠節を勤む」と。つまり中国皇帝に私はこうやって忠節を励んできたんですよと言いましたので、「詔して武を使持節都督倭・新羅、任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」と。つまり私は頑張ったと言ったおかげで中国皇帝から倭王に任ぜられました、というわけなんです。
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*5世紀アジアの風景

 この武というのが誰かということについてはいろいろな説がありますが、一応通説的には雄略天皇であるということになっています。で、これが、中国から冊封された最後の、とりあえず最後の文章なんですね。それ以後日本は幸いにして島国なものですから、中国の家来になんかなっていられるかということで頑張りだしたわけです。
 即ち、宋が滅んで隋になって、西暦607 年に遣隋使というのを送って、例のとおり有名な、「日いずるところの天子、書を日没するところの天子に致す」というふうに述べて、対等外交を主張したわけですね。その後隋が滅んで遣唐使、それも送った。ところが唐に楊貴妃の問題だの安史の乱だのが起き、お手本にしてもしょうがないということになりまして、遣唐使が廃止になった。それが西暦894 年です。
 以後国風文化が盛んになったといわれていますが、実はその前からじゃないかというような説もあります。いずれにしても廃止が国風文化の形成に大きな意味をもったことは間違いありません。そうしますと、倭王武の上表文までは、つまり五世紀までは我が国に対する中国の影響は非常に強く、その後も遣唐使の廃止までは相当に強かった。法制度でいいますと、西暦701 年の大宝律令、その後の養老律令等中国的な法律を日本風にアレンジして使いましょうという時代だったわけですね。
 こういう「輸入品」は、はたして日本人の「身の丈」に合っていたか、この視点が大切です。