佐賀藩と鍋島藩との違い

引用

  2005/3/14 (月) 16:27:33 - 村岡真知子 - No.1110782412


お返事できましたら送ってください。
少し疑問になって、いました。

 

返信1返信-1

 2005/3/16 (水) 01:16:03 - 嘉村孝 - No.1110782412.1


まとめてお答えします。
そもそも、江戸幕府が、今、我々が言う諸藩を「藩」と呼んだ事例はないようです。知
行所、領分の名が普通であったとのこと。
一般では、儒教思想の影響が強まってから「藩」の名が使われ、新井白石の「藩翰譜」
などはあります。
結局、正式の藩の名は、儒教主義の徹底ともいえる明治維新から廃藩置県まで。
なお、この間の藩名は佐賀藩ですが、江戸時代は佐嘉。この話は葉隠にもあります。

佐賀城は非常に攻めにくい強固な城であったと思われます。一般に平城の方が山城より
も攻めにくいというのが戦国時代の傾向でしょう。

 

1年前の「事務室便り」

引用

  2005/3/27 (日) 13:06:00 - 嘉村孝 - No.1111895744


(添付1) 1111895744.1.P1010118

 1年前の「事務室便り」です。

 この写真は、上野の山にある堀田正盛ら三代将軍家光に殉死した人たちの墓。
 家光の墓は日光にありますから、つまりは葉隠のような殿様との「一味同心」にはな
っていないということ(正盛の墓標だけは日光にあるようです)。
 つまりはこの時代あたりから葉隠が嘆く現象が始まっているということでしょう。そ
のよさ、一方の問題点をじっと探すこと、それが今大切だと思います。
★4月1日
 新しい年度がはじまり、東京の桜は満開になりました。
 葉隠の名のいわれについて、西行法師の「葉隠に散り止まりし花のみぞ 忍びし人に
会うここちする」にちなんだもの、といわれていた大正時代までに対し、いつのまにや
ら「蔭の奉公」が由来だなどという正に単純な滅私奉公が幅をきかせた昭和。今でも大
家がその説。
 「朝鳥の霜夜に眠る日陰かな」の名句を詠んで、「朝鳥の少弐」の異名をとった室町
時代の対馬、大宰府、佐賀の武将・少弐政介の辞世の歌は「花ぞ散る 思えば風の咎
(とが)ならず 時至りぬる春の夕暮れ」でした。これまた名歌です。
 こういう話に親和性を持つ葉隠が、単純な滅私奉公といっしょではどうにも据わりが
悪いといわざるを得ません。武士道とはこんな複雑なものなのです。
★3月27日
 もう1つ「半落ち」で思い出すのが、裁判官が法廷から裁判官室に帰ってきて法服を
脱ぐシーン。全員、法服の下はワイシャツでした。
 私の知るある現職の判事は、昔、例え法服を着ていても、その下に背広を着ていない
とシャキッとしない、といわれて常に背広の上から法服を着ておられました。そして、
その厳格さゆえに逆に、無罪は無罪、とされるのです。
 それでこそ本当の裁判官像というべきだと思います。その方は、今も高裁の裁判長と
して納得いく裁判をされています。先日、その部の判決が最高裁で破れましたが、私は
その判事が裁判長の高裁判決をこそ支持します。
 官尊民卑の、いささか高圧的な裁判像でありながら、こういうシーンには弛緩がみら
れる「半落ち」の裁判官像。これが、日本の今の姿であってはほしくないと思います。
★3月25日
 最近、十数年ぶりに映画を観ました。「半落ち」というそれです。
 なかなか泣かせる映画でしたが、その中の官尊民卑はちといただけませんでした。わ
ざわざ、今やありもしない古風な法廷。おまけに、裁判長が、抵抗する陪席判事に、
「あなたをこの事件からはずしますよ」ときては司法権の独立もくそもあったものでは
ありません。
 証人らを立たせたままで証言させることも今や昔の話です。
 ああいうシーンを作っても不思議ではないと思うのが製作者で、許すのがこの国民な
のかな、とあらぬ方へ興味が行きました。
★3月16日
 千葉へ出張。県庁と裁判所の間には都川があり、県庁の後ろには山があって、今は郷
土博物館がありますが、昔の中世・亥鼻城の跡といわれます。
 そして、亥鼻城の範囲は昔はよほど広く、裁判所の敷地が城主の居住、政務エリア
で、事あったとき、背後の山へ籠もったとか。つまりは平山城というわけです。
 現在では、付近は広い道が走り、車が騒音を立てるコンクリートの塊のような場所で
すが、こんなことを考えると違った世界が見えてきます。
 ちなみに、千葉氏と佐賀は頼朝の旗揚げ以来、極めて深い関係があります。何十年か
前、成田ニュータウンから、肥前の銘の入った鐘が出土しました。九州の千葉氏が関東
で戦争をした時、持ってきたもののようです。その鐘は日本で作られたようですが、竜
頭が1つの朝鮮系の形をしています。九州、関東だけでなく、世界との関係が面白いと
いえるでしょう。この博物館のあちこちに関連することが書いてありますので、ご覧下
さい。
★3月7日
 数年前、さる会合で一度だけお会いしたテレビレポーターの薬袋美穂子(みないみほ
こ)さん。その後、本のやり取り程度のお付き合いでしたが、突然本が届き、若くして
昨年9月に亡くなられたとのこと。本当にびっくりしました。ご冥福を祈る気持で一杯
です。
 本はその遺稿集。昨日読了しました。内容は世界を駆け巡りマザー・テレサやダイア
ナ元妃に会った話から様々。もっと色々お話しておけばよかったと悔やまれます。数年
前の時は「武士道談義」ですっかり盛り上がりましたが、その折話しに出た日本人の
「12歳論」も終わりの方に出てきました。この博物館の末尾に紹介した「公民教育研
究」にもあり(マッカーサーが戦後、それを言う以前に、日本人が昭和3年に言ってい
た。だからこそ自立した個になれと)、上記の「葉隠論考」に、より詳しく書いてあり
ます。
 それにしても、この本の出版を手がけられた方も、たまたま旧知の東洋経済新報社の
元社長さん。いつも葉隠の話をさせていただいている方。
 世の中は狭いなーとつくづく思います。 
★3月3日
 鳥インフルエンザに関して、ニワトリを処理する役になった職員が、あまりの生々し
さに・・・という報道がありました。
 しかし、正にこれこそ「国民を守る」国家の本質の話であり、それを荷う人の問題で
す(彼らは国民を守ために財産権を制限。国防も同じ。ただし、そこでは鳥ではなく、
人の命を奪わねばならない)。BSEはもちろん、イラクや北朝鮮にもかかわる問題です
(イラクが同様の「防衛」なのかが問題)。また、死刑の問題にもつながります(死刑
の意義。執行の現場)。新撰組に殺すことをやらせた幕末京都の話にもかかわります。
もちろん宗教の本質の問題でもあります。
 以上の記述ではわかりにくいでしょうが、こういうことをしっかりごまかしなく議論
しなければ、この国はいつになっても「人任せ」「個の自覚なき国民」の国から抜け出
せないと思います。
★2月29日
 2月28日は、台湾では2・28事件のあった日。1947年のこの日から、台湾全
島で、やみたばこの取締に発したといわれる蜂起と、数万人ともいわれる、元々台湾に
住んでいた台湾人への殺戮が始まりました。私の知り合いの何人もがその被害にあった
ことは再三書いたとおりです。
 わが国にとっての問題は、自民党あるいは民主党の保守派ともいうべき人々が、こう
して日本の友人というべき人々を弾圧した国民党政権と、なが年にわたり仲良くしてき
たこと。民進党政権になって、その点是正はされたものの、針が逆に振れた結果、相変
わらずの勘違いがあることです。
★2月26日
 今日は2・26事件の日です。もちろんこの事件には「武士道」あるいは「国家観」
が深く関係しています。
 私は幼少の頃から、立野信之の小説を映画化した「叛乱」を何度も見ましたが、青年
将校にとって、叛乱とか革命とかいうレッテル貼りは心外でしょう。もとより青年将校
によって考え方は違いますが、彼らと精神的につながる小沼正(5・15事件)は現代
史資料の対談中で、明確に否定。一昨年亡くなった池田俊彦さん(無期禁固)もそうで
した。
 天皇陛下の「聖明」を信じ、この博物館にある水戸学的国家観に立つ彼らには「君則
の奸」を除く発想はあっても自分らがそれにとって代る発想はありません。だって聖明
が自然に発揮されると考えているのですから。ここに水戸学の問題点もあります。
 この論理の分からぬ人が陰謀だ、反乱だなどというのです。実はこの点でも、私の知
り合いである台湾の老先生のほうがよほど的確に彼らを捉えておられます。
★2月23日
 1974年11月、私は福岡・大宰府の観世音寺を訪れ、戒壇院の門脇に書かれた次
の文字に目を止めました。「いつでも平気で死ねるのが禅であると思っていたが、禅は
いつでも平気で生きる(ための)ものだった。 漱石 」と。
 この言葉もまた、葉隠の「死ぬことと見つけたり」の意味を解く鍵になりました。
 その後、何度も戒壇院を訪れるたびに、当時の方丈さんの塔に手を合わせます。
 最近の武士道理解、あるいはもっと、国の進み方について、この言葉は反芻されるべ
きではないかと思います。余りにも、「前者」の禅理解が幅をきかせ過ぎているからで
す。
★2月21日
 昨晩の会合。夫の父は戦争で自殺。夫は戦死、という方の隣で、ある大先輩曰く。
「ラストサムライ観ましたか。あれを観てないなんてとんでもない。若い人は泣いて観
ていましたよ」と。もちろん、映画を誉めての話(そもそも私は「嘘」の話に興味はな
いわけ。戦死は「現実」)。
 一体、これだけ年取った人が、こういう発想を持っていることに、戦争世代もあてに
ならんな、と思いました。しかもその人、去年は「昭和天皇を思い、忍び難きを忍ぶべ
きで、イラクをブッシュがやっつけるのはおかしい」なんて言ってたんですが。
 戦争世代とはいっても戦争に行ったわけではないし、そういう教育(私は旧制中学・
高校、女学校の教育を、今、考えています)から脱皮してはいないし・・。人間とはな
んとも難しい存在であると思うと共に、福沢諭吉の「封建制度は親の敵」という言葉が
つくづく思われました。
★2月18日
 今年は日露戦争100年ということで、インターネットでその資料を見ることもでき
るようになりました。
 考えれば、その勝利の前には三国干渉があり、「臥薪嘗胆」が叫ばれました。
 即ち、死んでもいいから、あるいは、名誉のためには「突撃」などという後年の発想
とは異なる落ち着いた発想があったからこそ勝てたわけです。
 別に私は司馬遼太郎さんのファンでも何でもありませんし、彼の本もほとんど読んで
はいないのですが、ここの点は少なくとも結論としての意見は一致しているのでしょ
う。
 最近はどうもこうした発想と違う観念論が沸き起こっているような気がしてなりませ
ん。
★2月15日
 台湾は今、総統選挙事実上の真っ最中です。4年前、3候補の選挙事務所を訪ね、選
挙戦に生で触れたことが思い出されます(私にとっては小学時代以来の文通相手・何さ
んとの最後の面会の旅でもありましたが)。
 特に投票前日、3候補とも罰金まで払って大観衆の前で指定の時間後も演説を続けた
ことは感動的でした。選挙の自由、つまり表現の自由は日本よりはるかに広い世界標
準。
 今朝は両候補のTV討論が報じられていました。前回、影の薄さを感じた連戦候補も、
元気そうです。
 はっきりいって、日本の政治家、特に為政者とはダイナミズム・深さが違います。厳
しい国だからこそみんな本当のサムライです。ラストサムライとももちろん違います。
李前総統の言われるのとは「違う」意味で、武士的要素が強い。つまりは日本でいえば
「中世武士」です。
 この「違い」が大事です。台湾にあるのは新渡戸さん的近世武士道ではありません。
それもゼロとはいいませんが、むしろダイナミズムの元は日本でいえば中世武士的気質
なのです。
★2月14日
 小説をほとんど読まない私ですが、小説家の高村薫さんが書かれた新聞記事(2,3
週間前の共同の配信かと)を読んでいて、また暦のことを考えました。曰く「 いつの時
代も、日本の新年はこうしてぼんやり明けていったのだろう。・・1月1日を境にすべ
てが新しくなるという日本人の感覚は本年も変わらず繰り返され、日本中が漠とした新
年の気分の中にいるようである。・・(そして、イラク問題についての「法」を守らな
い現実を批判。末尾は、「自衛隊員ではなく、政治家こそ、遺書を書け」。)」と。
 これを読んで、前にも書いた、1月1日はこれから寒くなろうというのに「初春おめ
でとう」なんて言うことに疑問を持たない国民であること・・に思いが及びました(こ
の度貼った去年の1月1日の掲示板にあり)。
 それを「改善」するにはやはり「旧正月復活」か、とも。もちろん形だけ復活しても
だめで、精神の中身が問題です。つまりは御上が勝手に決めた実態に合わない正月を受
け入れるようでは本当の武士、個の自覚ある国民ではないわけです。
★2月7日
 アジア諸国の小正月も終わり、いよいよ今年も本格的に始動しました。
 この間、各神社・仏閣の宮司、住職の方々の新年の挨拶を読みましたが、対イラク問
題については、仏教方は平和志向で派遣反対。神社は是非分かれる感じ。これは神社と
いうものが明治維新以来、「国家」との結びつきが強くなったことによるものかと思い
ます。
 そんな中で、「国家神道」である東京の巨大神社の宮司さんが、神道なるものは何ら
の教義なく、仏教と習合しつつ発展してきた、その協調の精神こそ神道、といったこと
を述べられていたのには、意外感とともに偉いなという感を受けました。排外主義のよ
うなことまでいう宮司さんに対し、この幅と深さを学んでほしいと思った次第です。
★2月3日
 日曜日朝のテレビで、中国進出日本企業の努力と発展ぶりが伝えられていました。
 私も、昨年3月、そのうちの1企業の内陸部にある小売り店舗を訪れました。正に日
本と同じかそれ以上の盛況。内陸部が遅れている、という話も過去のものになりつつあ
る、との感を深くしました。日本の「あんパン」が一日最高8000個売れたといいま
す。今や中国は日本の最重要の市場です。お互いに提携していくべき相手です。以前も
書いたとおり、そこには「企業戦士」という日本の武士が、妻子を日本において働いて
います。
 ところで、1月12日の佐賀新聞に、韓国のジャーナリストであるユ・ファジュンさ
んの「(ノ・ムヒョン政権の幻滅に触れたあと)そこに新年早々、信頼を取り戻しつつ
ある隣国日本の総理の突然の靖国参拝で、正月酒のほろ酔い気分も吹っ飛んだ」という
記事がありました。
 アジア諸国で奮闘する企業戦士とこの問題、真の智恵と情意が必要かと思います。
「成熟した政治外交に取り組んでいただきたいものである」との言葉には正に納得で
す。
 1日に参拝した一人として。なお、靖国神社の現状に対する意見は1昨年8月16、
18日あたりの「事務室だより」に(掲示板にあります)。 

 

活人刑法を目指す

引用

  2005/4/11 (月) 09:22:48 - 一条 徹 - <aabrt504@kcat.zaq.ne.jp> - No.1113178310


武士道に関心を持つもにです。
武士道は殺人剣から活人剣へと進化してきました。
武士道は正義実現を本質とするものと考えています。
警察で何故剣道が盛んなのか。正義実現体質を強化している。
刑法も殺人刑法から活人刑法へと進化すべきだと考えています。

 

三笑図

引用

  2005/4/12 (火) 00:26:45 - 嘉村孝 - No.1113232764


(添付1) 1113232764.1.NEC_0082

 現在の中国、江西省の話し。 
 東晋の僧慧遠は廬山の東林寺に籠り、客を送っても虎渓の石橋を渡らないという誓い
を立て、30年が過ぎました。
 あるとき、儒家陶淵明と道家陸修静が訪ねてきて、すっかり話し込んだ慧遠は、つい
誓いを忘れ、橋を渡ってしまって、三人で大笑いになってしまった、という図。
 それが「三笑図」です。
 この絵には儒仏道の三教合一の意味が込められています。
 中国でも長年にわたってこれら3教のあつれきがあった一方、それを習合しようとい
う動きもありました。
 現今の世界では同じ神を崇めながらキリスト教とイスラム教のように敵対する厳しい
姿が見られます。こうした事象に、この三笑図は様々の示唆を与えてくれます。また、
戒といい、悟りというものの意味についても寓意をもって迫ります。
 意味深い絵というべきでしょう。

 

中国との問題

引用

  2005/4/19 (火) 00:11:05 - 嘉村孝 - No.1113835050


(添付1) 1113835050.1.P1010121

 私が2度ほどお会いした台湾出身の日本の仲間・本省人Aさんは大の中国嫌いで、何冊
もの本を書いています。
 しかし、もう一人の友人で、台湾出身、国民党の軍人の子孫である外省人Bさんは、
本省人のいわば敵ですが、「私はそのことは理解できる」と言われます。なぜなら、A
さんはその家族を何人も国民党のために殺されているのです。いわゆる白色テロです。
 そして、そのことを教えてくれたBさんの父上は、国民党とはいってもいわば拉致さ
れた農民です。
 台湾と中国との間にも様々な葛藤があります。
 今回、確かに中国デモ隊のやり方は世界の常識から見てひどいと思われます。決して
中国にプラスにもなりません。抗議すべきでしょう。
 しかし、BさんがいうAさんの話と同様、理解できる点があることは残念ながら事実
です。
 ですから、私は、今回のことを貿易に良くないから・・程度で収めて、肝心なことに
蓋をしてしまうのはよくないことだと思います。ある事実があったかなかったかをあい
まいにして、「忘れる」事のみを頼りにしても、やられた側は決して忘れません。再び
いつか問題が持ち上がります。
 BさんがAさんの実態を知って、同じ台湾人どうし理解しているように、日本人も中
国をはじめとするアジアにおける日本の過去の実態を知って、もちろん、中国人も日本
の実態を知って、同じアジア人どうし理解することが大切であると思います。
 近代史を、明治憲法を踏まえてしっかり理解すること、それが日本人にとって大事で
す。
 ところで、この書、孫文が蒋介石に与えた書の一部ですが、文天祥の「正気の歌」の
正気が書いてあります。
 以前も言うとおり、戦争の頃、中国ではこれを抗日の歌に使い、日本ではこれを改造
した藤田東湖の正気の歌で頑張る。同じアジアの隣人がそういう誤ったことだけは二度
としないようにしたいものです。国粋主義者こそ実は中国的、そんなパラドックスはい
けません。

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2005/4/23 (土) 00:44:15 - 嘉村孝 - No.1114184109


(添付1) 1114184109.1.P1010191

ちょうど1年前の「事務室だより」です。

 ここにある文章は、台湾の友人が書いてくれた武士道の極意。
 荘子の言葉から、「虚」が。それは空につながります。この文章を中国大陸の友人に
見せたら感激していました。
 同文同種のアジアの民として、こうした本来の武士の気持ちで、難しい外交も片付け
たいものです。
 ちなみに、先日の日経に、「中国の若手は漢詩などの教養がない」云々の記事があり
ましたが、今や実は逆であり、小学生が日本の高校生以上のレベルの漢詩を暗記してい
ます。書店にはそういう小学生用教科書が満載。どうしてあんな記事になったのかわか
りませんが、いずれにせよ、日本人は改めて教養、特に、アジアの教養を高める必要が
あると思います。そうしないと、自分が誰かもわかりません。

★4月25日
 平安時代末、新田家の祖、新田義重の置文(遺言。ただしこれは置文ではなく普通の
譲状との説も)を拝見する機会に恵まれました。
 「子数多あれど、らいわう御前の母の事を思へば新田の御荘ハ譲りたるなり、母の事
らいわう御前疎かにあるべからず、 それにとりても空閑とては、らいわう御前が母に
みな譲るなり、母か為に疎かにあるべからず・・・」
 この「らいわう御前」の読み方その他色々説があるらしいのですが、平安時代の関東
で、「母」という女性に対する暖かい気持が少なくとも2回にわたって表明され、死後
のことを頼んでいる文章には、心打たれるものがありましたし、草深いといわれる関東
の、しかも相当な昔が、高い精神性に支えられ、今とはむしろ異なるかもしれない女性
観や家族観を持っていたことに正に感動を覚えました。親鸞聖人の関東布教に日野氏と
の関係から新田氏が関係するとする説にも納得したくなります。 
★4月21日
 過日、北マリアナのテニアンに行ってきました。もちろん、原爆やスーサイドクリフ
関係のところにも。原爆は巡洋艦インディアナポリスでここまで運ばれ、ブロードウェ
イと呼ばれるまっすぐの道を通って北部滑走路まで運ばれて取り付けられました。この
インディアナポリスも日本の潜水艦に沈められています。バンザイクリフやスーサイド
クリフはサイパンが有名ですが、テニアンも同様です。現在も多くの遺骨が眠っていま
す。
 ホテルは豪華なのは1軒、他には何もない島・・・どころか日本にはない様々なもの
がありました。
 いつも思いますが、アメリカは近代の資料をよく残しています。それが余りにも国民
を纏め上げる道具になっている時には反発も感じますが、崩れかからんばかりの戦争の
遺跡の数々には、今問題になっている広島の遺跡もしっかりと保存すべし、と思いまし
た。
★4月14日
 11日の「臨春閣」でもう一つ感じるのは、当然ながら、その建物の配置です。
 玄関を最も手前、右下(東南の角)に置き、左上、つまり北西方向に雁行(雁が子供
を引き連れて飛ぶような階段状の配置)して行きます。これは中国やその影響を受けた
寝殿造りの南北一直線の建て方から時代が進むにしたがってできあがったもので、近世
の城の本丸などにも見られます。
 ただ、こうして基軸をずらすやり方の元にも、実は四神(青龍、白虎、玄武、朱雀)
の東西、つまり青龍、白虎の思想があるようで、東洋の広い文化を感じないわけにはい
きません。「日本式だ。素晴らしい」というだけではない、幅広い見方をしたいもので
す。
★4月11日
 土曜日は横浜三渓園での「花見」でした。ここは、明治の生糸貿易商原三渓さんが造
った庭園で、移築された数々の重要文化財の建物が建っています。
 中でも圧巻は臨春閣と呼ばれる旧和歌山藩の別邸でしょうか。桂離宮にも比される数
寄屋造りの瀟洒な建物です。
 藩侯は江戸出府に際してここに宿泊し、旅装を調えた、といいますから、会津藩でい
えば滝沢本陣にあたるのかなと思いますが、庭園はあるものの戊辰戦争の刀傷ある田舎
の農家然としたそれとは逆の貴族趣味。襖や欄間には数々の絵や彫り物が。
 慶安2年(1649年)という太平の世になってから建てられたせいか、東北と南国
の違いか、機能が同じでも、たたずまいが違うことに興味を覚えました。
★4月7日
 3月16日に書いた千葉県立郷土博物館にはプラネタリウムがあって、天体に関する
資料が数多くそろっています。どうしてそうなったかはよく知りませんが、多分、千葉
一族が北辰、つまり北斗七星を尊崇する航海の民であったことに関係するのでしょう。
 ところで、南の島、日本に近いところでいえば北マリアナやカロリンなどの民も、昔
は日月や星を頼りに航海をし、数千キロを移動しました。当然そのためには、個人が暦
の知識を体得しておく必要がありました。
 それに対して、日本を含めた中国文明の支配領域では、国、つまり皇帝が暦を下賜
し、国民はそれに従えばよく、自身への体得は不要でした。
 そんなことを考えると、ここでも、日本における「自立した個」は、千葉一族のよう
な、時分で航海する能力を持った、法律でいえば京都の律令からやや外れた、中世の武
士であったのではないか。南洋の人々こそその典型であったのではないかと思われてき
ます。

 

ベトナム戦争終結から30年

引用

  2005/5/9 (月) 01:23:04 - 嘉村孝 - No.1115568533


(添付1) 1115568533.1.NEC_0096

(添付2) 1115568533.2.NEC_0095

 事務室便りに書いたとおり、4月30日はベトナム戦争が一応の終結をみてから30年目の
日でした。
 この件は、まだまだ研究されなければならないことに満ちていますが、写真にあるよ
うな、出入り口がどこにあるともわからぬように偽装された、地下10メートルにも達す
る地下トンネルを利用し、米軍の裏をかくベトコンの戦法は、第二次大戦時の日本の洞
窟陣地につながるものがあります。

 いずれも、機能だけでなく、その精神が普通ではできません。
 一体、この精神はどこから来たものなのか。
 ベトナムも朝鮮も中国の被冊封国家であり、ベトナムは日本と同じく周囲を冊封す
る。
 その精神の中に、日本と共通のものがあることは確かです。

 

佐賀県塩田町 三浦一族 貞包 少貮 吉富

引用

  2005/5/12 (木) 05:24:01 - 吉富正和 - <yositomi@pastel.ocn.ne.jp.> - No.1115815763


   葉隠フォーラム 主宰者嘉村孝さま はじめまして。

 五月に私の先祖の三浦一族の平塚市土屋200番地の天台宗大乗院 土屋宗遠の6代
目貞包の墓にいってまいりました。                       
    そうして 天皇家より銀杏の木を植樹してありました。

 土屋貞包新左衛門の家紋は丸に三つ引きで、現在も佐賀県塩田町に紋所も新左衛門も
同じで、みゃく脈と生きずいています。

 其の塩田町中通に慶長18年10月18日に鍋島志穂が自害したので自害の責任のた
め家臣たち18人が殉死、切腹した。血で川が真っ赤にそまったので、以来血染め川と
呼ん出いる。

             横浜市港南区港南3-17-18
             電話045-842ー4413
               吉 富 正 和

 

返信1返信-1

 2005/5/15 (日) 00:54:46 - 嘉村孝 - No.1115815763.1


ご来所ありがとうございます。
塩田町は、その塩田川の下流を、その昔、佐賀赴任中、月に1回、鹿島へ行くため渡って
いたことで、親しみ深い所です。
それに、私に関係深い蓮池藩の飛び地でもありますしね。

しかも、それよりはるかに昔の三浦一族の故地があることは知りませんでした。
長崎の三浦氏と関係があるのでしょうか。
重ねて御礼申し上げます。

 

犬も歩けば・・・会津藩の故地

引用

  2005/5/16 (月) 00:23:14 - 嘉村孝 - No.1116169995


(添付1) 1116169995.1.NEC_0093

 連休の間に仕事で行ったのが、さいたま市の東浦和。
 駅の北に清泰寺という天台宗の寺を発見。
 この寺は、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられて、本尊は
十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされているとか(浦和市指定有形文化
財)。
 境内には、おびただしい庚申塔があり、これは、天明三年(1783)と万延元年
(1860)に建てられたものといいますが、かつてこの掲示板に載せた柏市の板碑の
ある神社にも同じタイプのものがたくさん。つまり多分、石工の行動範囲を知ることが
できる史料ともいえるかと思います。
 
 一方、ここにある武田信玄の娘・見性院の墓は感動的。
 見性院は、穴山梅雪(武田信玄の武将)の妻でしたが、夫の死後、徳川家康の知遇を
得、この付近の大牧村を菜地として与えられ、ここに葬られました。
 そして、その見性院が養育したのが二代将軍秀忠の子幸松丸、後の会津23万石の城
主保科肥後守正之というわけで、会津藩は数度にわたり見性院の墓を整備し、立派な廟
になっています。
 会津の悲劇とともに、こういうことでも会津藩は大変だったなあとジンときました。

 

1年前の「事務室だより」。葵祭から考える世界

引用

  2005/5/27 (金) 10:33:11 - 嘉村孝 - No.1117157376


(添付1) 1117157376.1.P1010179

1年前の「事務室だより」です。
この写真は、先日、葵祭が行われた京都の下賀茂神社。塀のようなものは社殿の入り
口、正面に建っているものですが、沖縄では「ピンプン」と呼ばれるものと同じでしょ
う。右回り、左回りの話があります。
このピンプン、実は中国では塀風。
また、私の知るところでは、礼記に「大夫士、君門を出入するには、&#38353;(げつ)
の右よ
りし、閾(よく)を踏まず」とあり、「敷居を踏むな」などという話もここに出ている
ようですが、大いに関わりを感じます。
桓武天皇は、その母や後援者の関係で、渡来人の多い京都に都を移され、この神社を尊
崇されました。
その日本の基底ともいうべきここに、こんな国際的なものが(実は沢山・・というよ
り、本質的に)あることに気宇壮大なものを感じ、世界と和することを考えたいと思い
ます。

★5月31日
 世界のどこにもおかしな政治家はいるものですが、法治主義をわきまえない政治家は
困りものです。
 少し前、シュワ現知事のサインの入った公文書を私蔵していた我が国の法務大臣。最
近では、今回国民党の連戦候補と組んだ台湾の宋元総統候補が選挙法を無視して票の数
え直しを迫り、みんなからあきれられました。
 しかるに今晩の新聞を見て、フセイン大統領逮捕時の拳銃をブッシュ大統領がホワイ
トハウスに置いてみんなに見せているとはアメリカの法治主義も?では困ったもので
す。それには様々な情報も含まれているはず。兵士の命がそれで救われるとするなら大
変です。格好だけ軍服を着てみせてもしかたありません。そんな「軽さ」に対して日本
は・・
 そういえば、2・26事件の匂坂検事の保管していた調書につき、青年将校であった
池田俊彦さんから批判があったこともありました。
★5月30日
 ラストサムライのDVDが出始めて、再びミニ武士道ブームかと思われます。
 しかしそれにしても、相変わらずの新渡戸さんの「持ち上げ」にはあきれてしまいま
す。新聞に出ていた「負けるが勝ち」が新渡戸武士道だなんて、大学の先生ともあろう
ものが一体あの本をまともに読んでいるのでしょうか。新渡戸さんが教育者ということ
と、できた本とは別なんです。
 国家は個人に先立ち、と言って親が子を差し出すだとか、優秀な兵器より精神だと
か、もっと法的にいえば封建君主は国民には責任を負わず天にだとか、じっと目をこら
して読めば読むほどおかしな本だし、日本的ではない奇怪な本。
 「太平洋の架け橋」なんかじゃありません。これを「読み切る力」が日本人にはそれ
こそ必要です。それにはアジア全体の知識もあったに越したことはありませんが。
★5月27日
 昔、古い言葉になりますが「戦時中」、戦意高揚をぶち上げて若者を戦地に送ってい
た人が、戦後はくるりと向きを変えて共産主義礼賛のようなことを言っているのには気
を付けよと再三言われたことがあります。
 最近はその反対で、昔(といっても2,30年前)共産主義礼賛のようなことを言って
いた人間が、全く逆の行動をしているのを見ます。掲示板に書きました。
 一体、人間の一貫性、筋の通し方とは何か、考えてしまいます。
 最近の裁判を見て考えたことです。少なくとも、昔左翼の今右翼なんていう人物は信
用できません。
★5月21日
 先日の韓国の新聞・朝鮮日報の社説、「小泉首相の訪朝は、私たちに『なぜ国が存在
するか』という問いを投げかけている。自国民の保護という最も基本的な義務を怠る国
は『国らしい国』と言えないという教訓を日本から学ばなければならないのが悲しいば
かりだ。」と。
 こんなに我が国を持ち上げて下さるなんて、正に面映い感じですが、むしろこういう
視点を持って国家を考えている隣国のメディアに、敬意を表したいと思います。
 再三述べるとおり、国民に責任を負わず、天に負っているのが立派な封建君主などと
言っている本(新渡戸稲造「武士道」)がたくさん売れている我が国の現状と、この社
説の視点は対極です。
★5月17日
 韓国憲法裁判所での大統領弾劾裁判の判決にあたり、各裁判官が言い渡しに際して、
マスコミのインタビューに応じる人、応じない人、様々な人がいたこと、その答えの内
容、そうしたことが報ぜられていることに、進んでるなーと感じました。
 日本のように、何やら良くわからない人の裁判ではないのです。
 大陸は世界共通だな、と時に感じてしまいます。
★5月16日
 昨日の朝刊一面にあった首相の年金「未加入」と北朝鮮訪問を武士道で斬るどうなる
でしょうか。
 この博物館では「一味同心」の武士道こそ本物、というわけですから、未加入の人は
そもそも一味も同心もしていないわけ。つまりは共存同栄相互扶助的な保険の仕組に同
心しておらず、それでいて、税金同様に取りたてる保険の仕組を提案しているというわ
けですから、自己矛盾の極地。
 つまりこのことは「国家像」あるいは国造りの根本の話です。
 そして、そのような人が北朝鮮へ救いに行こうというのですから、いつもいうとお
り、日本は病気の体で戦争するようなもの、ということになってしまいます。
 このあたり、国家の組織と作用をきちんとさせなければと思いますが…。
★5月13日
 今(電車の中で)読んでいるのが「近世私法史」(F・ヴィーアッカー。鈴木禄弥
訳)。本文だけでも七百数十頁の大著で、ドイツの私法を、周辺の様々な思想が流れ込
む道筋を追って記した素晴らしい本。こういう本は日本にはないかなーと思わざるをえ
ません。
 しかし、素晴らしさは、それを訳した鈴木先生についても言えるわけで、先生はこの
大著を訳されただけでなく、その原本の正誤表を末尾に付け、その量がまたすごい。原
著者にも確認されたとのこと。
 変な話ですが、これだけ間違いがあっても「名著」ということは、これまた文化、あ
るいは「本観」の違いかなと思います。
 誤植恐るることなかれ、中身で勝負、とも。正に葉隠武士道でいえば「実」です。と
ても比べものにはなりませんが、上の自著も実は誤植があちこちになのですが、独創性
だけはあるはず。ただし、学問的裏づけはもっと必要。
★5月3日
 憲法記念日。この博物館では、武士道を、国民に義務を賦課する人物の倫理あるいは
理念と考えていますから、必然的に憲法を念頭に置くことになります。
 そして、江戸時代中期以降の庶民は、新渡戸さんのいう「天や祖先」に責任を負った
武士からいわばご無理ごもっとも式に義務を賦課されるだけだったのですが(五人組とか
一揆の話は別。行政法の大きな枠組として)、それでは自身が責任を負わなくていい代
わりに、いわば子羊みたいな「撫民」つまり撫でられるだけの存在になってしまいま
す。しかし、そんなことで済むような現代ではありませんよね(年金の問題を見て
も)。
 ですから、むしろ国民自身が責任を持った、中世武士のような兵農未分離の一騎当千
の兵になるべし、と言っているわけです(国民は自由と責任を)。
 ところが先日、一度お会いしたこともあるある有名な先生、あるメディアで「今どき
個の自覚なんて言っているのは古いのであって、長年にわたって築きあげた武士道精神
が大事」、とか言われていました。その武士道精神とかいわれるのは、例の近世武士道
のようですが、「個の自覚」なるものを勝手な利己主義と一緒にされているようで、中
世武士道が葉隠や吾妻鑑の放生に見られるような「他の個」をも大切にする公共的な考
えであることをご理解いただいていないようです。
 戦時中、個人主義と利己主義とを混同する議論がありましたが、夏目漱石の「私の個
人主義」でも読んでみたら、と言いたくなりました。

 

サイパン島(北マリアナ)の重さ

引用

  2005/6/27 (月) 23:16:48 - 嘉村孝 - No.1119880785


(添付1) 1119880785.1.P1010141

(添付2) 1119880785.2.P1010129

(添付3) 1119880785.3.P1010137

天皇・皇后両陛下のサイパンご訪問は本当によいことだと思います。
軍艦島と呼ばれたマニャガハ島に据えられた明治35年製の大砲は、以前この掲示板に
も貼りましたが、その周囲の弾痕は激烈です。
灼熱の太陽の下、4人乗りの中戦車の内部は正に焦熱地獄。
山中に放置された山砲を慰霊のために訪れた人が、突然「〇〇、お前はここで死んだの
か!」と絶叫したのは中国大陸で機械的に転進を命じた部下の行き着いた先がそこであ
ったことを知った悲痛極まる声であったとのこと(地元の方のお話)。
戦争とは、正にそうした紙一重のものなのでしょうが、だからこそしてはならない。純
然たる防衛のためのものであるべきです。非武装中立などという夢物語も悲劇のもとな
ら、お釈迦様の手のひらの上の孫悟空のような視野の狭い武闘ではこれもいけない。
大きく広く勉強し、鎮魂に徹することが大切だと思います。

 

返信4返信-4

 2005/7/1 (金) 00:55:02 - 嘉村孝 - No.1119880785.4


(添付1) 1119880785.4.1.P1010148

皆様、早速に貴重なご意見をありがとうございます。
それにお応えして素晴らしいサイパンの海を。遠くの島が昔の軍艦島。マニャガハ島。
数年前に、藤原紀香嬢が登場してJALのコマーシャルに使用。
でも、そこにも正に悲しい歴史があったんですね。

 

返信3返信-3

 2005/6/30 (木) 01:45:23 - かおり - <kaori@hotjp.net> - No.1119880785.3


テレビで見た 天皇・皇后両陛下が海に向かって頭を下げて黙祷していたのには なんだ
か胸が熱くなってしまいました。
戦争なんて、ホント絶対二度と繰り返しちゃいけないですよね。
戦うエネルギーがあるんなら、もっと必要な戦いに使って欲しいです。

 

返信2返信-2

 2005/6/29 (水) 20:56:49 - 石井平五郎 - No.1119880785.2


嘉村先生、こんにちは。

サイパンの話で思うこと。
やはり、名将とは、「引き際」の決断ができる人物だと思います。名将は、「負けない」のでは
なくて、「負けそうになると引く」ことができる人物なのでしょう。名将と愚将の違いはそこに
あります。さほど双方とも大差はないのですが、「負けを認め」、「諦めて」、「引く」という
人間としての素直な判断が意外と名将の素養だったりして、大変面白いですね。

大東亜戦争の日本の指導者たちは、「引き際」の決断ができなかったし、戦争をする前に、それ
をまったく想定していなかったわけですよね。勝利するにしても、負けるにしても、シナリオが
まったくないまま、あのように大規模な戦争に突入したわけですから、恐ろしいことです。あの
山本五十六元帥ですら、「1、2年は連合艦隊を率いて暴れまわって見せましょう。でもその後
は知りません」というようなことを言っていますし・・・。日露戦争は、日本の完全勝利というよ
うな喧伝がされているものの、実態はどっちが勝ったのか、負けたのかわからない戦争で、これ
は明治政府の「引き際」の決断こそ、勝利の要因だといえます。

 

返信1返信-1

 2005/6/29 (水) 10:07:54 - 八王子の浪人 - No.1119880785.1


同感です。
サイパンのあと、戦争の能力なき国に更に戦争を続けさせた為政者は正に万死に値しますね。

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2005/7/8 (金) 23:48:23 - 嘉村孝 - No.1120833132


(添付1) 1120833132.1.jpg

 約1年前の「事務室だより」です。
 写真は、三浦半島にある三浦按針、つまりウイリアム・アダムス夫妻の墓。
 このたびのロンドンの事件には胸が痛みますが、按針は正にテムズ川とロンドンとの
関係に相当する江戸湾と江戸との関係を利用して、九州から遠く東南アジアにまで貿易
のルートを持っていました。ロンドンの妻とも連絡を取っていたようです。
 徳川家康までは彼を厚遇し、大いに世界と通商しました。日本では、秀忠以降の国際
性の減弱が今に続いているともいえます。

 なお、この宝きょう印塔は武蔵型の近世のもので、鎌倉時代のような凛とした雰囲気
は感じられません。それでも、江戸時代中期以降のごてごてのようなものに比べればま
だ中世の雰囲気を残しています。
 改めて、この時代が日本の分かれ目かなと思わされる史料でもあります。

★7月7日
 今日は盧溝橋事件の勃発日であるとともに、昭和19年、サイパン島玉砕の日ともい
える日。
 サイパンのHさんから、今年は60周年ということで、アメリカからの来島も多く、
正に日本から解放した、という調子を強調する人も多いとのお便りがありました。
 それはチト違う。どうしてアメリカはそうまでして人口国家性を打ち出すのさ、と私
でも言いたくなります。すべてほめられはしないけれど、日本人の松江春次さんがシュ
ガー・キングとして銅像が倒されずに残っているとおり、現地の人に、日本に対する甘
酸っぱい感覚があることも事実でしょう。現地の人と話したこともあります。
 日本で近頃行われるのとは逆の歴史の歪曲で、これも根が深いといわざるを得ませ
ん。
★7月3日
 武道通信さんからご依頼の新渡戸武士道批判を大急ぎであげています。最近、新製品
が出なくなったとうわさのpdaが大活躍。電車の中で、ゲームのように親指で入力。
 実は新渡戸武士道批判はもちろん私だけではないわけで、学術的な本である「日本思
想史辞典(ぺりかん社・宇野田尚哉)」でも新渡戸さんの「武士道」について、「な
お、この書では武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸
は武士道の実際には暗かったと考えられる」とされているのです。一次資料どころか歌
舞伎の誤引用まであることを4月8日の掲示板でも指摘のとおり。
 こうまで書かれる人の本が何ゆえあれだけ売れるのか、また、売っているのか、これ
こそ日本の大問題です。
★6月27日
 幹事をしている会のバーべキュー大会を潮風がここちよいお台場で行いました。
 すぐそばに船の科学館。以前から、この博物館で取り上げている暦の関係もあって、
船の天文航法に興味があることから寄ってみましたが、ザッと見たところでは発見でき
ず残念でした。イギリスでは現在もそうした本が山ほど出ているそうですが。
 GPSの出現によって天文航法や六分儀などというものまで授業からはずされかかっ
ているそうです。しかし、電気が切れた船はどうなるのでしょう。また、ある地点から
目標となる別の地点へ太陽や星を頼りに連立方程式を解きながら進む作業は論理の組み
立てであり、法的思考にも繋がります。
 こうした教育がなくなっていくことが、単なるマニュアル式の「当てはめ社会」をも
たらしているといわざるを得ないと思います。
★6月25日
 株主総会の季節。様々な人種が会社の周りを行き来します。
 しかし、基本は真に会社を愛しているか、会社の一員としての自覚を持ち、行動して
いるかが判断の指標になるかと思います。つまりは、一味同心の発想です。
 間違っても、ハッタリや脅しで会社を種に一儲け、などという御仁には退出していた
だくべきではと思います(もちろん、会社を真に発展させて、自分も一儲けなら全く問
題ありませんし、ご推奨すべきことです)。最近、余りにもそうした人物が多いと思い
ますので。一応の専門家から見れば笑止の沙汰としか思えません。
 今の、様々なブームが去れば所詮わかることと思いますが。
★6月23日
 沖縄戦の一応の最後の日(実際は戦後まで)、2・26事件の本場?六本木の龍土軒
のそばでお酒を飲み、熱くなりました。
 しかし、一緒に飲んだ人とは同じ戦後生れながら若干の違いを感じます(私がややオ
タク過ぎは確かにあるかも)。
 この原因はなんだろう。その一つに、私の世代がいわば江戸時代の日本を知る最後の
世代であることもあるのではないかと思われてきます。
 「農業政策と農業法制」という名著がありますが1960年以降の高度成長は、正に
農業国家であった日本を変え、国民の発想を変えたかと思います。これは明治維新に匹
敵するかも。
 それらのことを考える国民に、みんながなるとよいのですが・・・。この問題はまた
いつか。
★6月17日
 2・26事件、遺族の方からメールをいただきました。
 佐賀本藩菩提寺・賢宗寺に刑死された方々のお墓があるご縁です。なぜ彼らはあの事
件を起こしたのか。その目標とするところは何だったのか。
 それは、間違っても革命ではありませんでした。なぜなら、天皇陛下は聖明であり、
「君側の奸」を除けば聖明は自然と明らかになる、という前提があったからです(水戸
武士道)。誰かにとってかわるなど考えられないのです。それほど純粋なのです。それ
が明治憲法体制だったのです。今の発想とは全く違います。
 ただ、若い青年将校が極めて純粋にそう考えたところに、やはり「よき人」の悲劇が
あります。今の世の中その考えからみれば正に乱れきっていますが、正直者が馬鹿をみ
る世界にだけはしたくありません。その意味で発想の前提(水戸武士道)を問題にした
いのです。
★6月13日
 少し間があいたうちに様々なことがありました。
 サミットにおける多国籍軍参加の総理大臣発言は、下記、5月31日の記事の延長と
いってもよいものでしょう。
 そもそも、憲法では行政権は「内閣」に属するのであり(65条)、内閣総理大臣に
ではありません。ですから閣議が必要で、勝手な発言は許されず、これは歴史の苦い教
訓を踏まえているはずです(内閣法6条の廃止は違憲)。また、一片の政令でこうした問
題が処理できるかについては、かつて日米地位協定が国会の議決を経ずに重要な法的意
味を持ったことから問題になり、現在では条約と同様の扱いになっていると思います。
 真の民主主義からの乖離は、いかに勇ましくても「匹夫の勇」と言われるもので、こ
の博物館の武士道とは別物です。

 

山陰いいとこ

引用

  2005/7/28 (木) 21:22:47 - 米子節 - No.1122553016


 おはつで~す。
私、隣の鳥取市からなんですが、
足立美術館最高ですよね。圏外から
友人が訪ねてきたときのドライブコース
にいいですよね。
 あと安来は、比婆山なんかイザナミ神
の御神陵があるのでちょっと穴場ですね。
この前の和鋼博物館の公開講座ではじめて
知りました。。
 安来にはさらに、武士道の源流ともなった、戦国j武将、山中鹿介幸盛
の銅像や尼子一族のお墓がありいってきました。静かに先祖の
声を聞く有意義な旅ができました。

 

返信3返信-3

 2005/9/11 (日) 22:16:04 - 佐々木和久 - No.1122553016.3


 雲伯地方といえば、日本刀の名刀が多いところですね。
源平盛衰記などに登場する「抜丸」などもこの地方の
刀匠、大原真守の作ともいう話など有名ですよね。

 

返信2返信-2

 2005/8/29 (月) 19:03:39 - 雲伯天理 - No.1122553016.2


 イザナミと聞くとマハティール元マレーシア首相の
言葉が思い起こされます。彼は日本という国はまるで
古事記に出てくる伊邪那美神のようだいった。
 「第二次世界大戦は、アジア諸国に軍事的被害をもたら
した。しかしもっと大きな歴史的流れで見ると、日本の
五族協和はその後の民族自決主義につながりアジア太平
洋に無数の独立国を誕生させた。
 白人に対して近代世界ではじめて反旗を翻した日本という母親はその苦労から死んでしまっ
た(占領・伝統の破壊と洗脳)が、我々マレーシアなどを誕生させてくれた。その苦労にむくい
るためにもマレーシアをしっかりと発展させなければならない。」
 これは、古事記にあるイザナミが日本国土や神々を生み
それが祟り死んでしまい、出雲と伯耆の堺に葬られたという話を例えにしていったのだと思わ
れる。

 

返信1返信-1

 2005/7/29 (金) 09:21:41 - 嘉村孝 - No.1122553016.1


ご来所ありがとうございます。
鳥取は1度しか行ったことがありませんが、歴史の宝庫のようですね。大火は災いしたか
もしれませんが、佐賀と同じか、それ以上に人かいませんから、古いものが絶対残って
いるかと思います。
中国山地のことは、以前、たたら製法の遺跡のことを書いたことがありますが、木炭の
もとになる木がたくさん生えていて、砂鉄を産出するあの地域はかつての(大)工業地
帯。今も、安来などにはその残り火があるわけでしょう。
 また、佐賀との関係からいうと、戦国時代は佐賀の竜造寺の敵は、豊後・大友。その
敵は中国の毛利。そのまた敵は尼子というわけで、互いに連携の関係があり、無視でき
ない関係かと思います。

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2005/8/2 (火) 01:08:45 - 嘉村孝 - No.1122911921


(添付1) 1122911921.1.jpg

例によって、1年前の「事務室だより」です。
この写真は、東京の鎌倉街道沿いにある「元弘の板碑」と呼ばれる、1333年、つま
り鎌倉幕府滅亡時の、戦死者を供養した供養塔の一部(見えやすいので、レプリカの写
真です)。
新田義貞の鎌倉攻めの経路を実証し、かつ、太平記や梅松論の不足を補う貴重な金石文
字。
しかもそれだけでなく、戦死者3名の供養の意図には感動します。入間市のものもすごい
です。
こういう中世の貴重な史料が東京にもあるのに、どうして江戸時代にばかり目が行くの
か。それは相当深い理由によるものと思われてなりません。

★7月26日
 7月17日の本欄に書いた「戦艦大和ノ最期」。これについて三島由起夫は、角川文
庫の末尾に、「いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠ってもっ
て人が死にうるところの一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範の象徴であ
る。・・・」と書きました。
 盲信では本質的に困るわけですが、そもそも17日に書いたとおり「私的な潔癖や徳義
にこだわって真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。」と言っているのが「戦艦大和
ノ最期」なのに、その「徳」を称えているのでは全く逆で、葉隠の解説本にしろ、彼は
本の趣旨をとらえていないといわざるを得ません。もちろん亡くなった方に徳があるの
は間違いないのですが、臼渕大尉らは、それのみに頼った国家のいきかたがおかしい、
と言われて、それを反省するきっかけとなって死ぬと言われ戦死されたのです。そこを
はきちがえるべきではない。 
 天才とはいっても、表現力についてであって読解力ではない芸術家。それが人を誤信
させる。
 一方、「大東亜戦争肯定論」を書いた林房雄さんは、その2頁ばかり前に、「一つの
戦争をまともに生き抜いた者のみが次の戦争を欲しない。然らざる者は終戦の翌日から
再び戦争を開始する。(戦死者や吉田さんらはまともに生き抜いた人だ)」と書きまし
た。アジテーターではない、「緑の日本列島」などを書かれた人らしい本質を提示した
文章。同じ70年安保時代の珍しい右寄り論客でも、二人は本質的に違います。私は当
時、林さんの本はよく読みました。
 林さんの言葉は、今の為政者やアメリカの指導者に読ませたい一言です。
★7月23日
 韓国で初の女性最高裁判事が実現とのこと。これだけでは日本より遅れているかと思
いきや、裁判官の13%を女性が占め、ここ2年間で輩出された予備判事の47%が女
性だというのですから、これは(やはり)進んでいる。
 しかも、その金判事は、14人の最高裁判事のうち唯一40代でもあると聞いては、
日本の高齢化した最高裁判事とは大違い。十数年前にも49歳の最高裁判事が。
 国民所得を上げるために女性の社会進出を益々進めようというその動きは、北條政子
らの活躍した中世武士道をも思わせます(なお、韓国の平均年齢(相当伸びている)、現
政権との関係も考察の要ありか)。
★7月17日
 吉田満「戦艦大和ノ最期」
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩とい
うことを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れ
て目覚める。それ以外に、どうして日本は救われるか。今、目覚めずしていつ救われる
か。俺たちは、その先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃない
か。」
 「私的な潔癖や徳義」それしかない武士道は真の経綸ある武士道ではないはずです。
ダメ押し的にいえば、今の武士道ブームは余りにも「私的な徳義」を美化することに偏
っています。今は亡き吉田さんの、戦を前にして感じた一言(但し、哨戒長・臼渕大尉の
言葉。角川文庫39頁。同氏戦死)を考えてみるのも意味あり。
★7月12日
 お昼、2・26事件、69年前の本日、刑死の15名の方の法要に出席。
 この事件を理解することは明治憲法体制を知ること。そして、それは難しい作業とい
わざるを得ません。相当な識者が勘違いをしているとしか思えないからです。
 数年前の澤地久枝氏と池田俊彦元少尉の意見の食い違いなどその典型であり、そのあ
たりをきちんと書いたものが出なければ、おかしな精神論の世界に埋没する危険のある
こと、つまりは本当の青年将校の遺志が生かせなくなることを思いました。

 

アジアに開かれた佐賀・百済武寧王の故地

引用

  2005/8/26 (金) 01:05:28 - 嘉村孝 - No.1124985821


(添付1) 1124985821.1.jpg

(添付2) 1124985821.2.jpg

台風の接近する今日の夕べ、佐賀県鎮西町の加唐島の話にホットになりました。
2001年の天皇誕生日、今上陛下が皇室とのゆかりについて述べられた場所です。写
真は、その武寧王生誕の場所と伝えるオビヤの浦。そして、呼子港の壱岐への連絡船。
百済の25代目の王、武寧王はこの加唐島で生まれたと日本書記にあります。しかも、
この王の子が仏教をもたらした聖明王。更に、武寧王は桓武天皇の母・高野新笠の先祖
であるとの続日本紀の記事もあります。

この博物館の「中国の文献にみられる倭」でも、西嶋定生先生のことに触れてあります
が、こうしたアジアとの関係は、古代史だけの問題ではありません。この博物館に書い
たとおり、近世武士道の理解についても極めて重要な視点と思います。
身辺雑事が歴史か、と西嶋先生は述べられたそうですが、実証と論理、それを大事にし
て歴史を「考える」国民になりたいものです。ただの「お話」ではなく

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2005/9/3 (土) 00:14:12 - 嘉村孝 - No.1125672940


(添付1) 1125672940.1.jpg

 吉田茂が戦前、軍人の会に呼ばれて感想を求められた時、「皆さんが集まられている
のを見て、インディアンが白人と戦う打ち合わせをしている話を思い出しました」と言
ったとか。それから彼は、軍に反抗する者と見られて、戦争末期には遂に逮捕されるま
でに至りました。
 ところでこの写真、アメリカのグランドキャニオンです。
 絶景といえば絶景ですが、このあたり、インディアンの保留地だらけ。つまり、イン
ディアンはこんな不毛の土地に押し込められてしまったわけです。
 ところが、このあたりのインディアンの子孫がサイパンなど南太平洋の日米の闘いに
相当数参加していたことを知りました。インディアン特有の言語を生かした暗号要員と
してです。
 白人に完膚なきまでにやられながら、そこまで合衆国に忠誠を誓ったインディアン。
 日本人も、鬼畜米英を叫んでいてやられた割にはすっかり親米?の人もいる。
 もちろん、互いに色々な人がいるわけですが、行動を反省する一助になりそうな気が
する奥の深い話です。

 以下、1年前の「事務室だより」です。
★8月31日
 今朝の朝日新聞に、遂に出ました。この博物館からリンクを張っている「バリアフリ
ーダイビング」の話。
 私はずっと欠席続きで本当に申し訳ないのですが、近藤先生はじめボランティアの皆
様には心から頭がさがります。
 この会に少しでも参加させていただいた最大のメリットは、自分自身の世界が大きく
広がったことです。外国に行くのと同じように別の角度からものを見ることができる
し、感動があるし。
 何とかまた伺いたいです。 
★8月28日
 それにしても野球の銅はいただけません。
 そもそも、本当の監督が現地に行かず、おまけに現地の指揮官が試合前に柔道観戦で
オーストラリアに連敗とは、オリンピックをなめていますし、しかもそれがドリームチ
ームのプロ集団とは。やはり軍団自体に無理あり。誰がそんなことにしたのか。
 更に「長嶋監督のために金を取ってきます」などという発言は、納税者たる国民を何
と考えているのやら。新渡戸武士道の臭いがプンプンします。本当の戦争なら大変。
 それを持ち上げているマスコミの姿勢はまるで戦時中のようで、「良かったよね金以
上」などの裸の王様症候群。辛うじて共同通信などの記事にまともなものがありまし
た。
 ヤフーのアンケートで、今回の結果に不満が80パーセント以上という報告に、何と
か日本人の健全さを見る思いでした。
★8月25日
 オリンピックの盛況はなかなかよろしいことです。
 ついでに、もう1つ、このギリシャという国にまつわる古代ギリシャの政治の仕組み
を、今こそ日本人は勉強してみてよいものではないかと思います。
 日本では帝政のローマが小説で興味が持たれているようですが、民主制・理性主義こ
そギリシャ人が人類に贈った最大の贈り物といわれています。
 専制主義ローマの数々の「物語」に加えて、制度としてのギリシャの「仕組み」を勉
強しましょう。 
★8月14日
昨日書いた雲南の番組、残念ながら突っ込み不足といわざるを得ませんでした。
番組の言いたいことは、一兵卒は無理無体な上官の命令にさえ従わされ、命を無くし
ていった、という悲惨さを訴えるものであり、それ自体はわかります。
しかし、兵隊だけでなく、およそ国家を構成する組織は、上官の命令に従うという原
則が守られなければ成立しません。守らなければ抗命であり、反逆です。12日に書い
た臼淵大尉の話もそれが前提になっているのです(番組でも若干それ「めいた」言葉は
出ていました)。
ですから、ここで話を終えたのでは、可愛そうにという情緒的な話で終わってしまい
ます。
問題は、そういう無理無体な命令を下した、あるいはそういう段階にまでなって戦を
続けさせた特に国・軍中央の責任がきちんととられたかということです。
そこをきちんと検証すれば、命令に従い死んでいった一兵卒といわゆるA級戦犯とを
いっしょに祀るなどということは考えられないことが自然と明らかになるはずです。
単なる、悲惨や、可愛そうだけではない論理の突き詰めが、より戦争を避けることに
繋がります。
★8月13日
 お盆の帰省。博多から昔18師団(菊)のあった久留米に入り、善導寺に参拝して筑後
川を渡り佐賀へ。ちなみに善導寺は浄土宗興隆の元を築いた寺で鎌倉の光明寺の前身と
もいうべきもの。
 自宅でテレビを見ていると、今日の夜9時、第二次大戦・雲南省の戦いを特集すると
のことで、正に菊の兄弟兵団・龍のことだな、と久留米に行った奇遇に驚き「騰越玉砕
記」を読みました(拉孟・騰越の事は以前、ちょっと書いたこともあります)。菊は隣
のフーコン戦。
 この玉砕記は、騰越約3000名の戦死者の中の数少ない生き残りの方が書かれたも
のです。
 こうした実戦の人の言には正に肺腑を突くものありです。先日読んだ沖縄戦の本もそ
うですが死体の腐肉に飛び込むような話、敵将の後日における丁重な対応・・。日本の
発想との違い。
 こういう本を読んで最近の世相をみれば、亡くなった人々に対して余りにも酷い。な
るほど、こういうパターンで戦争を始めたのかと思いたくなる事が多いことも事実で
す。 
★8月12日
 もう一つ、7月26日の続きの臼淵大尉の話。
 吉田少尉は大和で、上官である吉田さんに敬礼を欠いた少年の通信兵を、厳しく叱責
した上で説諭して見逃す。とたん、振りかえりざま鉄拳一閃。臼淵大尉によって。
 ものの分かった上官を演じた吉田少尉に「貴様にも一理ある。それは分かっている。
-だからやってみようじゃないか。砲弾の中で、俺の兵隊が強いか、貴様の兵隊が強い
か。あの上官はいい人だ、だからまさかこの弾の雨の中を突っ走れなどとは言うまい、
と貴様の兵隊がなめてかからんかどうか。軍人の真価は戦場でしか分からんのだ。いい
か。」と。
 正に砲弾一閃、臼淵大尉は肉片も分からぬくらいの死だったそうですが、7月17日
の言葉といい、これらの言葉は重い。昔のような陸軍・海軍刑法もない自衛隊・・とい
う話に繋がる。ただし、それがあるためには、7月17日の臼淵大尉の言のとおり、個
人的徳義に依存する国ではいけないでしょう。それを間違えると再び悲劇が起きる。
 吉田さんの著書の真価の一つと思います。
★8月7日
 中国におけるサッカーのブーイングが問題になっています。重慶といえば戦略爆撃。
済南といえば済南事件。それぞれ大変なところです。私が初めて中国に行ったとき同行
した社長さんはその戦略爆撃を行った人で、いわば罪滅ぼしでの投資を意図したもので
した。色々な議論はありますが後の東京大空襲の先鞭をつけたといえるもの。
 私も北京の街中の書店で、東条英機の本を示されながら激しく抗議されたことがあり
ますが、それを必死に止めた人がちゃんといることを忘れてはならないと思います。
 そもそも中国社会は都市と農村という巨大な二重構造を持つ社会であり圧倒的な人口
を持つ農村の人々がスタジアムに来たわけではありません。「中国」という一まとめは
だめ。中国当局が動いているとおり、日本の為政者も頭を冷やして東洋の英知を出し合
うべきでしょう。