1年前の「事務室だより」

引用

  2004/11/4 (木) 22:48:26 - 嘉村孝 - No.1099575151


(添付1) 1099575151.1.jpg

 例によって、1年前の「事務室だより」を貼り付けます。
 写真は、中国の東北、吉林省からみたロシア。そして、昭和13年に張鼓峰事件が起き
た場所です(その方向を撮ったもの)。優勢なソ連軍の前に、ここでも「精神主義」が
最も幅をきかせ、21パーセントの死傷率を反省することなく翌年のノモンハン事件に至
りました。
 なぜ、日本人は反省しないのか。そして精神主義になるのか。この博物館にもその原
因の一端を書いたつもりですが、多くの有名な日本人論も、現象としての今の日本人を
とらえるだけで、歴史的、また、地理的原因を追求していないといわざるを得ません。
★11月8日
 その昔のある官庁の試験に「小野田寛郎さんの生き方について述べよ」という問題が
出ました。
 小野田さんは、戦後、ルパング島に何十年も残って戦った人。彼は、上官の正式な命
令がないい以上、山から出てくることなどできない、ということだったと思いますが、
正にこの態度こそ誠にピュアで、厳格な「天皇の軍人」の真骨頂です。中立の姿でもあ
ります。
 例の道路公団藤井総裁も一応そのことを言って、政治家の介入を排したなどと言って
はいるのですが、財務諸表についての失態と、ここの本質論とは直接つながりません
し、むしろ、失態を犯した(とすれば)速やかに「責任」をとるのがピュアで、中立。
そして命令を厳正に執行する官僚の姿ではないかと思われます。
 しかも、その官僚像は、「天皇の官吏」や「天皇の軍隊」を卒業した現代には、本来
妥当しません。元々、「天皇の官吏」の制度では公務員全てが官吏とはされていません
でした。天皇に近い一定の上級者のみで、下級の公務員は官吏とは言いません。こうい
う発想は極めて身分差別的なものだったことをよく見極めるべきです。
★11月3日
 6月28日の本欄に、「最近のイラクにおける米英軍の戦死者の増加を見ていて思い
出すのは第1次大戦以後(1918年から)行われたシベリア出兵です。これは多数の
国の武力干渉でしたが、結果的に「無名の師」といわれ、何ら得るところなく、いわば
無駄死にを累積させただけでした。」云々と書きましたが、最近の状況は、正にそんな
ことになってきました。
 しかも、それに参加している米軍将兵への給与の安さも以前から問題になっていま
す。
 日本にとっても、本当に「第二の無名の師」になることだけは御免被りたいもので
す。
★10月30日
 先日、証券の専門家の話を興味深く聞きました。
 銀行から金を借りる間接金融の時代から社債で集める直接金融への時代は、公平、公
正な会社が前提であり、同様の証券市場がなければならず、正に民主主義が貫徹される
べき時代です。
 つまりは、一味同心の、何事もオープンであるとともに、投資家つまり武士が、自覚
を持った「個」でなければならない時代であると思います。
 そんなことと証券がどうして結びつくんだ、という人は、もう一度、会社や証券とは
何かを考えてみるべし。
 一方、相変わらずの証券不祥事と規制の現状は、上記の理想への「道遠し」を思わせ
ます。
★10月25日
 10月23日には、会津若松で、恒例の西軍墓地の墓前祭がしめやかに神式・仏式の
混合型で行われました。
 戊辰戦争における会津の9月22日の落城にあたり、攻め寄せた西軍の将士はきちん
と葬られたのに、会津をはじめとする東軍は埋葬を許されず放置されました(のち、阿
弥陀寺などにまとめて埋葬。靖国神社にもまつられていないのは周知のとおり。官軍、
賊軍というのは勝った方の勝手なネーミングです)。
 にもかかわらず、その会津の人々が、こうして落城の日から約1ヶ月後の10月23
日に、薩長土肥をはじめとする西軍の戦死者を供養して下さっているのです。本当に頭
が下がります。
 ここから示唆される数々のことのうち、「了見の広さ」だけでも最近の日本は学ぶべ
きではと思われてきます。
★10月22日
 仕事で水戸へ。いつも思いますが、駅前のホテル脇の那珂川へ通じる道は昔の深い堀
のあと。途中、階段で上に登る厳しいもの。その東側には水郡線の線路になっている、
これも深い堀あと。
 旧県庁前の浅い堀だけしか旧景が維持されていないので、ちょっとわかりにくいです
が、那珂川と千波湖に挟まれて、掘り切りを何本も行った水戸城の厳しさがわかりま
す。
 一方、駅前には何年か前に水戸黄門の像が。どこへいっても思いますが、常陸を数百
年にわたって治めた新羅三郎義光の子孫ともいわれる佐竹などは地味な扱いで、二百数
十年の江戸時代が強調されるのは残念な気がします。
★10月18日
 今週は埼玉県のある市で、職員の方向けに、一日、憲法を話してきました。
 埼玉を東西に横断すると、つくずく感じるのは「川を横切るなー」、ということで
す。例のタマちゃんが出没する川の数々。これらは栃木や群馬まで続いていて、かつて
は水運に利用されました。2度ほど伺った群馬の尾島はもとより、栃木の足利や佐野のあ
たりも楽しいもの。
 明治の自由民権運動家河野広中の、福島から土佐へのルートが日本史の本に書いてあ
りますが、渡良瀬川から東京湾へ出て、品川から横浜へ汽車。更に水運です。
 鎌倉時代の宗教家のルートといい、これらの河川や東京湾は、それ自体が重要な遺跡
と思われてきます。
★10月11日
 今回の衆議院解散は、参議院での議案審議中になされ、数多くの案件が廃案になった
というので批判が出ています。
 そもそも、「談合解散」とか言われていますが、内閣(その実は最近では総理大臣)
が解散権の実質的主体であることは憲法に明記されていません。
 明治憲法では第7条に天皇の大権としての解散権が明記され、これは、フランス革命
で問題となったように、民主主義の下では本来国民に帰せられるべき立法権に対する、
天皇、いやむしろ官僚による制約として働きました(公定的注釈書・憲法義解には「議
会の開閉は至尊の大権〔によるのであって〕、・・閉会の後において議事をなすものは
全て無効とす」とあります。閉められてしまうと法律は作れないのです)。
 逆にフランス革命は、170年間も開かれなかった三部会が開かれたことによって始
まり、結局は近代国家が作られることになったのです。
 憲法41条に「国権の最高機関」と明記されている国会の審議が、明記のない解散権
の行使によりつぶされることに、この国の国民はまるで感心がないようです。正に、個
の自覚、つまりは武士道の問題でしょう。 
★10月10日
 土地の境が問題のある件、基点をきちんと決めましょうという話になって、国土調査
の基点を元に座標軸を引き、プラス、マイナスで土地境の各点を表示したのですが(も
ちろん土地家屋調査士さんの意見を入れて)、関係者一向不明。大きな石を基点に何メ
ールとかいう江戸時代みたいなことを言っている。
 実は前者のやり方はビルマ作戦で日本軍が散々悩まされたイギリスのやり方で、イギ
リスはそうした座標軸を入れた地図を持っていたから、正確に砲弾を当ててきたので
す。もちろん、現代日本の軍事組織もきちんと地図を作っています。
 こういう基本の基本がわからず、平和ボケといわざるを得ない社会になっているのは
やはり問題。もちろん、軍事オタクになれなどと言っているのではありません。
★10月6日
 鎌倉のある大寺で、珍しい踊躍念仏の行に出会わさせていただきました。
 「念仏は行者のために非行・非善なり」との親鸞聖人の言葉からいえばこれは非行と
しての行。本尊の周りを踊るようにして回る小学生の念仏には、言い知れぬなつかしさ
があるとともに、法然上人や一遍上人の念仏に対する考えが思い起こされて奥の深いも
のを感じます。
 ちなみにこれは踊りではなく、念仏です。昔読んだ唐木順三さんの「無常」や「無用
者の系譜」など、もう一度読んでみたい気持ちになりました。
 「我がなくして念仏申すが死するにてあるなり」この一遍上人の言葉は、葉隠の「死
ぬこと」に必ずやつながっていることでしょう。
 それにしても9月24日に行った山県にも珍しい踊躍念仏が。「中世」を立て続けに感
じた秋。

 

殉死者はどう扱われているか、と二つの武士道

引用

  2004/11/23 (火) 09:03:53 - 嘉村孝 - No.1101168010


(添付1) 1101168010.1.jpg

ここは、佐賀市・妙玉寺。葉隠の主人公の一人である鍋島茂賢夫妻とその殉死者の墓で
す。こうして、殉死の人々が主君とともに埋葬されるのは、佐賀だけではなく、例えば
お隣の博多・東長寺の黒田忠之の墓などもそうですし(「葉隠論考」に写真あり)、東
北・伊達政宗の墓も同様です。これが「一味同心」の具体的な姿といってよいでしょ
う。
ところが、佐賀藩幕末の名君とされる鍋島直正の墓は、佐賀の北郊・大和町にあります
が、神葬つまりは儒葬で行われ、殉死者・古川松根の墓は主君の墓の奥の蔭に小さく埋
葬されているだけです。つまり、あの墓はいくら佐賀にあっても、葉隠型の墓ではない
のです。逆に伊達政宗の墓は東北にあっても葉隠型です。
そもそも、君臣の「別」を重視する宋学では殉死はむしろ禁止。階級的区別、つまりは
差別がその本質です。神儒一致を標榜する水戸・会津もそうです。
こうして二つの武士道は明確に区別されるのです。
靖国神社が昨日も問題になっていましたが、あの境内には「華族」の献灯が。しかし、
「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵」は礼記の言葉です。「日本では」とか述べながら、
その行動は逆のことを行っていないか、自身反省してみる必要があります。
水戸や会津の巨大な墳墓に、この小さな墳墓は意識として優っているともいえます。

 

武士にとって責任とは

引用

  2004/12/1 (水) 12:17:47 - 三多摩の浪人 - No.1101871000


いつも感心して拝見しています。
ところで、武士と責任について教えて下さい。

 

返信2返信-2

 2005/9/18 (日) 22:51:15 - t - No.1101871000.2


こんばんは、「木」や「船」のためにこれだけの切腹者を出したのは悲劇と書いてありま
すが私も同感です。おかしいです。対してアメリカSF映画『デューン』の中で、惑星領
主が、貴重な重要物資をとるか部下をとるかの二者選択を迫られますが、結局、領主は物
資を放棄させて部下の命を助ける選択を取りました。

物資なぞは再び取れるが、人の命は再び取得できないことを知っているのでしょう。

 

返信1返信-1

 2004/12/4 (土) 00:17:22 - 嘉村孝 - No.1101871000.1


(添付1) 1101871000.1.1.jpg

お答えします。
私は、実は「武士と責任」とが当然に結びつくものとは思っていません。その理由はこ
の博物館に書いたとおりです。
つまり、農民にも商工業者にも責任はあるべきだし、あったのであって、責任を武士の
専売特許にすることは一種の差別主義だし、正に夜郎自大的な視野の狭さを感じるので
す。
現に葉隠では、武士が米強盗をしたのに主君・鍋島直茂に助けられた話や、殿様の食事
のつまみ食いをしたのにとがめられなかったどころか、殿様がそのままその食べかけを
食べた話など、むしろ責任を取らなかった話が再三出てきます。
ただし、それらの家来は、その殿様が死んだ時、「追い腹」しているのです。上記「米
盗人」斉藤佐渡らは歴代そういう死に方で、今もその切腹の折の袴などがご子孫に残さ
れているとか。この下の妙玉寺の殉死者の一人が、上記「つまみ食い」の人です。
これは、極めて濃密な、「実」のある君臣関係です。
ただしこういう関係には一方で男色のようなことも起き、和辻哲郎が述べるとおり、水
戸黄門の儒教主義からみると否定されるべきものということになります。
ですから、ここで、二つの武士道が分かれるのです。葉隠でも、時代が下ると、江戸へ
の参着が遅れる、というので責任を負って切腹する武士が登場します。ここの「差」を
見なければいけません。
そして、私は、それぞれの武士道の良いところを取るべしと言っているのです。だらし
ないのは、もちろんよくありません。

ちなみに、写真は有名な「薩摩十六烈士」の墓です。
これは葉隠より少し前の貞享5年、薩摩砂土原藩の船が、明暦の大火後の江戸城復興な
どのため、将軍綱吉に献上する高級建材栂を積載して江戸へ向いました。しかし、途中
の遠州灘で大風に遭い、船が沈没しかかったので宰領達が自分達が責任を負って船と水
主たちの命を助けようと考え、建材を海に捨てさせ危うく沈没をまぬがれて下田の港に
漂着しました。しかし、不可抗力とはいえ御用材を失わせた責任を取らねばというわけ
で、宰領と船頭の3人が切腹。これを見た水主達も切腹。15歳になったばかりの七蔵に
「若年だからお咎めもなかろう。事の顛末を国元に知らせ、遺髪を届けるように」と言
いつけました。しかし、この様子を見た七蔵も、自分だけ帰るわけにはいかないと切
腹、という、「責任」の典型のような話です。
しかし、考えてみれば「木」や「船」のためにこれだけの切腹者を出したのは悲劇。け
じめをつけるのは大切ですが、8月に私が「事務室だより」に書いたとおり、あまりに
も「個人の徳義心」に依存する国家は、むしろ敗れることもある。第二次大戦でもこう
したことは起きました。

現代は余りにも責任感の喪失が著しいともいえますが、その復活がこれであってはいけ
ないのではないか。要は民主主義を貫徹、と言いたいのが私です。

 

12月8日と米国・中国の話

引用

  2004/12/9 (木) 01:41:37 - 嘉村孝 - No.1102523716


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今日は12月8日。大学で日米開戦の日といっても知らない学生が沢山。やれやれ、そ
んな「時代」になったのか、と自分の年のことも考えてしまいました。

ところで、最近の日本との関係で重要な国はこの戦争の当事国、特に米国と中国でしょ
う。
そして、そのいずれとの関係でも、今や「ねじれ」のあるのが残念です。
昨日、ある会合に参加させていただきましたところ、米国の方が「日本は米国の真の友
人・同盟国として今のブッシュ政権の世界政策をやめるよう助言して欲しい」との話。
しかし、日本には本当の軍事、外交の力はありません。いつも書くとおり、米国に軍
事・外交を受け持ってもらっている北マリアナが大きくなった程度。もちろん、まとも
になるには自身の「病気」を治すのが先で、常任理事国になったり、やたら重たい武器
など持ったら倒れてしまいます。そんなわけで助言の力はない。でも、言わないよりは
よいでしょう。

一方の中国、12月8日の米国より、7月7日の盧溝橋事件の意味を先ずは考えるべ
き。
昭和12年ころまでの日本には陸軍内部でも中国との戦争を構える一派と構えない一派
とがありました。もちろん、2・26事件後の粛軍人事によって前者が実権を握り、日
本を、そしてアジア全体を破滅的な戦争に導いたのです。ここをきちんと清算しないで
「日本(という抽象化をして)」は良かったとか、悪かったとか、あやふやなことにす
るから「病気」がいつまでも治らないし、世界から「理屈のわからない日本人」と見ら
れるのです。
この、構える一派と構えない一派の意味は大きいです。
後者の、日本の真の相手は北方のソ連であり、中国や英米とは強調すべし、として、結
局葬られてしまったある将官の、士官学校入校時の同期の表がありますが、ショックな
のはその方だけが平民の出。他は士族です。実際、そんな差別人事が戦争中まで行われ
たようです。そういう実力無視の身分秩序、つまり中国でも捨てられた「儒教システ
ム」を採用していたのですから、平等・実力主義の米国には物量・火力の違いは当然で
すが、ソフト面でも勝てなかったのは当たり前。
よく、韓国が日本に負けたのは儒教にこり固まって戦争中に喪に服すようなことをして
いたから、という有名な議論がありますが、実は日本人も五十歩百歩であったこと、そ
のことは今も根強く日本人の頭の中を支配していることを反省すべきでしょう。
とにかく反省点は沢山あります。
撃墜王・坂井三郎さんも「米国との戦争は堂々たるものだったが、中国との戦争は何と
も名文のないものだった」と言われていたことをご披露し、その戦争の結果としての沖
縄戦、平和の礎そばの佐賀県戦死者の塔を貼り付けて、本日の弁とします。

 

歴史と広い視野からアジアの今を考えたい

引用

  2004/12/24 (金) 01:44:57 - 嘉村孝 - No.1103819502


(添付1) 1103819502.1.jpg

天道是というペンネームで、ある公務員の方が「右翼運動100年の軌跡」という本を
書かれています。特別新規なことは書いてありませんが、戦前の日本人に比べ、最近は
余りにも発想が小さくなってしまったとあるのは同感です。ご当地ソングも、戦前は黒
竜江だアムール川だったのが、夜の新潟とか釧路とか。最近の中国、台湾、北朝鮮にか
かわるぎくしゃくした関係をみても余りに視野が狭い対応といわざるを得ません。
この写真は、松本の司法博物館内に穂苅甲子男会長らが作られた「川島芳子記念室」に
ある彼女19歳の書。「日本人たる前にアジア人でなければならぬ。」と。正にそのとお
りでしょう。毀誉褒貶著しい彼女ですが犠牲者であることは間違いないと思います。
彼女が昭和13年に松本高女で演説した内容は、以前「事務室便り」に書きましたが、
「自白書」の中で「日本では大体2派に分かれて中国に相対していることを知っていた
から、希望を捨てませんでした。その後、軍部の後援やら色々で、後者の勢力(中国と
戦争を構える一派)が勝って来て、私は憲兵隊の圧迫により無言の行に入らねばならな
くなった」と述べていたこともよく考えてみるべきです。つまりは、この下の掲示板で
私が述べていることです。
ちなみに、この2派の内の中国と事を構えない一派の一人である荒木貞夫大将の書も、こ
のすぐ左にあります。昭和初期の荒木陸軍大臣の人事について、派閥的などと書いてあ
る本が多いのですが、谷田勇中将が書かれているとおり、それまでの明治以来の派閥人
事や身分差別に問題あり。そして、荒木大臣らを昭和11年の2・26事件後のいわゆる粛軍
人事で追い落とした一派が戦争を起こしたわけでしょう。しかも、この博物館の色分け
でいえば荒木さんたちは葉隠型、その反対は水戸型とでもいうべきものです。荒木大将
も、芳子も昭和17年の満州国10周年には理想と違うといって参加していません。
戦前、いやここ四百年間の厳しい反省のもとに大きな視点からアジア・太平洋の今の枠
組みを考えるべきかと思います。

 

謹賀新年

引用

  2004/12/31 (金) 23:48:29 - 嘉村孝 - No.1104504353


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謹賀新年
今年も武士道を歴史的に、地域的に、また、現代に引きなおして考えてみたいと思いま
す。
中世、近世の二つの武士道のうち私が好きなのはもちろん中世武士道の方で(全てよい
とは言いません)、それこそ「日本の」武士道というわけですが、もちろん、世界との
かかわりを無視した武士道などというものはありません。
その中世の、塑像造りの技法に「土紋(どもん)」というものがあります。粘土でいわ
ば部品を作り、本体に貼り付けるもので、鎌倉国宝館の韋駄天像などが有名です。
しかして、この写真、正に今、上海のある古い寺で、塑像補修のために土紋の技法が用
いられているところです。
このほかにも、東シナ海の東・西は、韓国、台湾を含めて深くつながっており、更に、
太平洋やサハリンにももちろん考えは及ぼされるべきです。
近視眼的な見方でなく、広く世界的に見る、そうすれば本当の武士道がわかるし、実力
行使は最後の最後であることもわかるはずです。

 

「二つの武士道」が浸透しないのは・・

引用

  2005/1/12 (水) 14:25:40 - ハマッコ - No.1105507284


あけましておめでとうございます。

武士道には少なくとも二つのタイプがあって、その違いを踏まえることが大切、というお説、大
いに敬服の至りです。
しかし、世の中では、未だにそういう声は大きくなっていません。
その原因もわからないではありませんが、どのようにお考えでしょうか。
また、どうしたらよいとお思いですか。
年頭にあたりうかがいたいと思いまして。

 

返信1返信-1

 2005/1/16 (日) 23:36:29 - 嘉村孝 - No.1105507284.1


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うーん、難しいですね。
我々の頭が近世武士道の観念で凝り固まっているといわざるを得ないのは、やはり4百
年の「伝統」でしょうね。中国でも「文化大革命」といいながら、正に中国文明そのも
のの市中引き回しをやっていたわけで、建築物などを壊すのは簡単でも、人間の頭に染
み付いた観念を壊すのは洋の東西を問わず至難の業です。
だから、私はトルコのケマル・アタチュルクのような人はすごいなと思います。
少なくとも、真の民族主義とは何なのか、それが民主主義につながること、そんなこと
を知るために北条泰時など見直されるべきですし、「小中華」主義をとってきた儒教の
優等生・韓国の最近の行き方などもっと学ぶべきではないかと思います。
写真は韓国の資料館でみた天文の道具で、この博物館の渋川春海に一致していくもので

が、このような陰陽、天地、四神などの観念を突き詰めたものは極めて精緻です。日本
の研ぎ澄まされた工業製品などは、こうして、大陸にもつながる実は同方向の観念のな
せる業ではないかと思っています。
そこへ「ゆとり」を入れ、世界と和するためには仏教の力が必要ということでしょう
か。
いずれにせよ、葉隠の言葉で言えば「これも非なり、非なりと思うて一生嘆息」してい
く国民にならなければならないと思います。暗記の教育じゃだめですね。

 

神道と武士道は車の両輪

引用

  2005/1/22 (土) 23:11:17 - 八洲岐 - No.1106402888


日本母神イザナミの神陵はどことたずぬれば
           島根大和の安来がそれなり

 

返信1返信-1

 2006/2/5 (日) 20:29:55 - 鉄也 - No.1106402888.1


 安来って山陰でしょ。いいですね。さて、
日本文明の特色は、一言で言うと「縄文と弥生の融合」
ということになると思いますが、その融合というものを
最初に達成したのは、古代出雲王朝であろうかと思います。
出雲王朝は邪馬台国よりも40年前に出現し、東西日本の
分け目となるフォッサマグナを超えた連合政体を日本海側
に実現しているからです。現在でも太平洋側はここを境に、
東は縄文的西は弥生的な名残が残っています。一方日本海
側はあまり明確でなく、山陰の出雲弁と東北弁が類似して
いるといったことが見受けられます。

一方、古事記/日本書紀などのような日本古代の文書も
縄文と弥生の葛藤と融合がイザナミとイザナギの国産み
神産みの物語として描かれています。しかし最終的には
縄文が弥生に席巻され、イザナミは死に、出雲と伯耆の
境、比婆の山に埋葬されてしまったのです。縄文のシン
ボルとしてのイザナミは一体どうなったのかあまり手が
かりはありませんが最近の考古学には目覚ましいもの
があります。それで私などは、島根県と鳥取県の県境付
近の考古学的ニュースには目が離せないのです。

 

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2005/1/25 (火) 01:18:15 - 嘉村孝 - No.1106581487


(添付1) 1106581487.1.jpg

 何ヶ月分かたまってしまいましたが、ホームページ(一番最初のページ)にある「事
務室だより」の1年前のものから、いくつかを取り出して貼り付けます。
この写真は、筑後川沿いに、葉隠の登場人物・成富兵庫茂安が築いた「千栗(ちりくと
読む。ちくりではない)の土居」の上から見た「千栗八幡宮」方向。
 昔はこの上を道路が走っていて、八幡宮がしっかり見えたのですが、今は見えないの
でどうなったのかと思っていましたが、全長12キロの内、一部だけここに残されていま
した。
 芯に粘土を埋め込んだ現代にもつながる工法で、数百年にわたり住民を守ってきまし
た。この工法がどうして出来上がったか、茂安と朝鮮との関係など調べると武士道にも
つながっていくかと思っています。また、千栗八幡宮は宇佐八幡宮の九州における5つ
の出先の1つで極めて格の高い八幡宮です。

★1月31日
 発光ダイオードの200億円の裁判で思い出したのが10数年前の中国。
 共産主義の残り火がまだ強かったその頃、友人のお兄さんは立派な技師でしたが、発
明でご褒美をもらっても職場の皆さんのお陰、というわけで、みんなに分けてあげねば
なりませんでした。自分の手元にはほとんど残りません。
 この発想は、共産主義というよりも、東洋的美徳のようです。
 しかし今や、中国も発想を転換。日本も、金額は別にしても、インセンティヴの考え
は強く持たなければ世界に伍せないのではないかと思われます。
 頭の切り替えは大変ですが、必要なことでしょう。
★1月29日
 霞ヶ関の官庁街で感じる事。ここ数年、守衛さんの業務を外部委託し、ガードマンさ
んが前面に出ています。
 しかし庁舎管理権を執行する時、彼らに正式な権限はないはず。理屈の専門家が考え
てのことですから、理論に遺漏はないでしょうが、面倒なことは外部委託という発想が
もしあれば新撰組を雇った発想と同様、武士(公務員?)にあらざる発想です。勿論厳
格性と民主制は両立させるべしで、おいこら的なことをせよというわけではありませ
ん。民間のよい点があることも事実。
 ちなみに、葉隠の鍋島光茂(2代目藩主)は2番目の奥さんは公家からでした。私は
この段階で藩当局は「武士性」を喪失したと思っています。ですから幕末ともなれば武
士が武士性を喪失していたのは当然で、そのことが幕末史にも大きな影を落としていま
す。
★1月25日
 数日前から、アジアで、また世界で春節が始まっています。
 この点でも日本は「わが道」を行き、先日の元旦も、これから寒くなるというのに
「新春」おめでとうというわけです。元旦は伝統的言葉なのですが。
 この明治以降の、特に戦後の葉隠的・中世的「実」から外れた正月、つまり、真の季
節からずれた正月については、昨年・正月の本欄でもふれたとおり、やはり何とか旧正
月を復活させ、本当に世界とともに春を喜べる国になるべきではと思います。それは不
合理でもないし、守旧でもありません。逆に暖かくなる季節に適合し、本当に「おめで
たい」わけです。
 このことは、この博物館の「暦」の話に関係し、奥は深いです。
★1月22日
 先日千葉県船橋市に行き、バス停の前に郷土館があったので寄ってみました。
 色々、興味あることが展示されていました。習志野空挺団のあるところは薬円台とい
いますが、ここは徳川吉宗が小石川と同様、薬園を置いたことに由来するとのこと。
 つまりは会津の御薬園と同じ。でもどうして今は薬円と、円の字になったのか?
 また、習志野という地名も陸軍の練兵場ができて作った名前とか。1月10日の記事
にも関係しますが、明治政府は東京以下、新しい名前を付けるのがよほど好きだった?
神奈川県などというのは神奈川条約の開港地が神奈川だったのに、防衛上横浜にしたこ
とから言い訳で県名までそうしたとの話がありますが、果たしてこの場合は?
 更に、船橋の戊辰戦争も激しかったようです。犬も歩けばで、色々考えます。
★1月10日
 12月6日の本欄に、「明治政府が勝手に県名を創造したのはおかしい」と書いたと
ころ、長野県の田中知事さんのお正月の話題が「信州」。やはりここは「信濃」に戻す
ということで賛成したいと思います。
 ちなみに、昔の松本深志高校の校長先生・清水謙一郎先生は私が時々取り上げる佐賀
の真崎勝次海軍少将と極めて近く、少将は戦後、代議士になってからしばしばあのあた
りで講演されており、その周辺の人脈には極めて共感を覚えるものがあります。
★1月4日
 昨日の続きで、そういう「子供みたいなこと」をなくすには、やはり広い視野を持つ
事、また、葉隠の言葉、「念々に非を知る」ということ(まだまだ足りないと、考えを
深めること)に落ち着くかと思います。
 日本人は韓国人と同様、幸いにして中国・台湾いずれにでも自由に行き来できるので
すからできるだけ両方、それに韓国をじっくり見てみることが大切です。
 水戸の藤田東湖神社には文天祥の「正気の歌」をアレンジしたものが掲げてあります
が、もとよりこれは中国・南宋の武人の作に由来するもので、戦争の時、日本の若い人
が熱唱した一方、その反対の中国では抗日のシンボル的な歌でもありました。北京にも
その遺跡があります。
 だから、そういう歌を互いに掲げて両方の国民がぶつかったなどというのは正に喜
劇、あるいはもちろん悲劇でしかありません。私はこの歌を称揚した東湖さんの墓前で
そのことを思わずにはいられませんでした(東湖さんより新しい現代の為政者が、そこ
がわからないのが大問題)。
 「国粋主義者こそ実は非日本的」という勘違いは、情報化時代の今日早急に卒業し
て、お互いの国民が「身の丈」を大事にし、それを互いの誇りとする姿勢で世界と和し
たいものです。
 水戸武士道、あるいはそれを受けた明治から今日に至る武士道の最大の問題はここで
す。
★1月3日
 十数年前訪韓したとき、大統領顧問であった韓国の法律家A先生とお話ししたことが
あります。その折、先生は、「米国は日本、韓国、台湾を順繰りに標的にして門戸開放
をはじめとする要求を出してくる。この3国は連携しなければ」ということを言われて
いました。
 私は今や、これに中国を加えて考えるべきだと思います。複雑な問題はあっても、い
ずれも同根の文化を共有する国です。
 ですから、喧嘩しそうな国どうしあるいは地域があれば「まあまあ」となだめるべき
で、喧嘩をあおるようなことをしたり、自分が紛争の種をわざわざ蒔くようなことはす
べきでありません。
 それでは「子供以下」であり、外交をやっているのの反対で、正に国益を害します。
昨年来、またお正月の事象を見ていてそう感じました。
★12月23日
 今日は天皇誕生日です。
 今朝の朝刊に報じられた天皇陛下のお言葉は、正に感動をもって拝見しました。
 平成の15年に対する昭和の15年を語られたくだり。満州事変や二・二六事件など

歴史を理解し、平和と安寧に務めねばとのご抱負。戦争でたくさんの人々が亡くなった
ことを悲しまれるお気持ち。
 皇室自体がある意味で家庭内の、重たい歴史を持たれているだけに、尋常でないお言
葉として心にズシンときますし、こうしたお気持ちの陛下を、是非ご希望どおり南洋の
戦跡におつれする日がきてほしいと思います。
 それにしても、ここ何年かのお言葉は実に重たいものを感じます(ちなみに、一昨年
お話しされた百済・武寧王の生誕地とされる加唐島は佐賀県鎮西町にあります)。
★12月10日
 昨日この欄を書いて帰宅すると、「イラク派遣決定」が。
 今回のことで、つくづく感じるのは深く、実質的な、その時に応じた考慮が払われた
か、という点です。「正当防衛を予想しての派遣」などというのも概念的矛盾チック。
 応仁の乱の主人公・山名宗全の言葉として、「塵塚物語」という本に、「向後(きょ
うこう・これから)は例という文字を時という文字に変えてお心得あるべし」という趣
旨の言葉がありますが、「ああ決めたからあとへは引けない」とか、「先例がどうだっ
たからどうの」などという堅い考えではなく、その時どうすべきか、という実質論を基
に、これからも柔軟に変更すべきは変更べきでしょう。
★12月9日
 昨日は12月8日、正に日米が開戦した日でした。その時問題になったのは、中国戦
線から将兵を引き上げるべきかというハル・ノートにかかることでした。
 それから62年、現在はイラクに自衛隊を出すべきか、という問題が喫緊の話です。
 私は、前に書いたシベリア出兵に似た今のような情勢からすれば、本来、出すべきで
はないと思います。いわゆる「無名の師」であり、石油がどうのは、シベリアと同じ論
理です。
 ただ、あれだけ米国に対していの1番に賛成をぶち上げ、諸外国もそれなりに参加し
ているというと、出さないのは「難しい」ということになるでしょう。これは、62年
前の日本とやや似ています。心性としてはそっくりかもしれません。
 この点、リヒャルト・ゾルゲらが逮捕されたのが日米開戦の直前。いわば旧ソ連の手
玉にとられていたことがわかったのに開戦に突き進んだ、ということとも似てしまいま
す。
 同じことを避けるにはどうしたらよいか。
 昔だったら為政者が切腹して英霊にわびて兵を引く。今だったら、内閣総辞職して世
界に日本の行きかたを示す、なんていうのも考えられると思うのですが、今の政治家は
そこまで世界にインパクトを与える力が・・・でしょうか。いずれにしても「決めたか
ら」じゃなくて葉隠の「実」で判断すべきと思います。
★12月6日
 もう一つ「旧満州」の話をしてみます。
 私が初めて、長春を訪れ、当地の医科大学を見てびっくりしたのは、それが横浜地方
裁判所にそっくりの建物であったことです。ただし、その建物の上には横浜にはない塔
様の部分が付いていました。
 旧関東軍司令部と旧軍人会館(九段会館)がそっくりなのは知っていましたが、他の
大抵の建物が日本と共通です。当時は興亜式と呼ばれ、西洋とアジアを折衷したものと
されました。現に上記医科大も昔は法院で、横浜地裁と同様なのも当然です。
 問題はこの試みが成功しているかですが、少なくとも親しみを持てる建物かというと
失格でしょう。余りにも人工的で威圧的。どこかの本にも同類の愛知県庁が奇怪とあっ
たとおりです。
 こうして、やはり「人口国家」は失敗しました。「満州」という名前も人工的で、こ
れは国内で、明治政府が東京、栃木、静岡などありもしない、あるいは字まで作って県
名としたのと同工異曲で決して現地の人には喜ばれません(今の、歴史無視の「平成
町」などというのも同じ)。
 ところで、新渡戸稲造さんの「武士道」の問題点は上記の本に詳しく書いてあり、特
に、国民は反射的利益は得ても、権利を持てない点、大いに問題で、あちこちに論じて
ありますが、忠や義を日本古来のもののように言って、上から押し付けるやりかたは正
に近世武士道の、そして、その徹底化であるこのような明治政府のやり方です。
 それは人工国家の手法であり、また、本当の「日本の」武士道ではないことを何とか
多くの人に知っていただきたいのですが、なかなか大変です。でも、それができない
と、今の日本は本当の改革にもならない中途半端な復古主義しか得られないでしょう。
「忠」のために子供の命を差し出すなどという正に滅私奉公そのもの、実証性も大いに
「問題」なのです。
★12月1日
 昨日は「流転の王妃」つまり、清朝最後の皇帝の弟溥傑さん夫人・嵯峨侯爵家の娘浩
さんが主人公のドラマがあったようですね(忙しくて見ていませんが)。
 私がご好誼いただいている、あるおひい様の学習院での1学年下の方だそうです。兎
に角気の毒だったとのこと。
 私もあの本は読みましたが、確かに酷い。かわいそうです。
 泣く子も黙る関東軍どころか、敗戦の時はさすが逃げ足は1番、などというのでは何
のための軍隊かということになります。
 ただ、救われるのは敗戦時に自決した本庄繁関東軍司令官(のちの侍従武官長)が、
やはり立派な人だったらしいと思われること。
 今の政治家も、難しいこの時期、元気なのは掛け声だけなどということのないようじ
っくり考えてほしいものです。
★11月30日
 昭和19年7月、サイパン島陥落。絶対国防圏は崩れ、いよいよもって日本は戦う力
を無くしました。にもかかわらず、更に1年以上戦争を続け、この間、南の海で多くの
兵士が潜水艦の餌食となり、免れても救助さえなく海上を漂ったわけです。つまり本当
は、戦闘員さえ守れない国は戦争をする資格はないし、戦闘地域に出動する資格もない
というのが世界の常識のはず。
 このことを言いたいのが掲示板の坂井三郎さんの話やこの下のイタリア、ドイツの
話。
 そしてあたかも、イラクでは外務省職員が死亡。
 これに対して、イラクは日本の生命線だ、では昔と全く同じ発想。
 前にも書いたとおり、せめて主権線、利益線といった法的発想になれないのかな(掲
示板の「1年前の事務室だより」9月11日の文参照)、と思います。もちろん、国民
を守る国家として軍備が必要な事は当然です。問題は、それをいつ、どう使用するかと
いうこと。
★11月26日
 最近の諸情勢で興味あるのはグルジアの大統領辞任。それに何といってもイラクの情
勢でしょうか。
 あのシュワルナゼ大統領が辞める場面は中国・明の崇禎帝が、臣下から見放された場
面を思い出させましたが、流石は新思考外交を推し進めた大統領。崇禎帝のような流血
の騒ぎはとりあえずなく、無血の政権交代を選択したのは立派か、というところ。
 イラクについては掲示板に論じているとおり、今こそ国家というものをその初現に戻
し、「国民を守る機構」としてとらえ、そこから、一体国民を本当に守ることに役立つ
派遣なのか、また、派遣される自衛官自身が守られ得るのかという視点が新しい視点と
して求められていると思います。
 第二次大戦におけるイタリア、ドイツのことも参考になることはあちこちに書いたと
おり(イタリアがムッソリー二を逮捕したのは弱虫でも何でもなく、戦う力が無い事が
明らかな以上、個の自覚ある国民によって構成された国家の本質が出たというべき、
等)。

 

 

ありがとうございました

引用

  2005/2/23 (水) 19:42:13 - 豊島啓史 - <メール送信> - No.1109152363


はじめまして。本日陸上自衛隊小平学校において先生の講話を拝聴しました、
陸上自衛官です。「葉隠」について先生に質問させていただいた者です。
この国の歴史と未来に向かってのあり方と軍人としての自らの生き様を考える中で、
思うところあって「葉隠」を今月初旬から読み始めておりました。まさか今日、
講話に来られる先生から「葉隠」の話が聴けるとは夢にも思わず、まさに僥倖であった
と感じているところで御座います。
先生の圧倒的な知識と迫力を前に、学ぶべきことあまりにも多く、お話いただいた
ことの半分も理解できていないのがお恥ずかしい限りでありますが、いわゆるハウツー
本で武士道を判った気になろうとせず、最初に「葉隠」と向き合った選択は間違って
いなかったかな、と自負してもおります。
早速ホームページを拝見させていただき、あれこれ興味深く閲覧させていただき
ました。まだ全巻の通読も終えておりませんので、逐次読み進めていきますとともに
「武士道バーチャル博物館」にもしばしばアクセスさせていただこうと思います。
本日は本当に有難う御座いました。今後もよろしくお願い申し上げます。

 

返信1返信-1

 2005/3/2 (水) 00:01:16 - 嘉村孝 - No.1109152363.1


豊島様

過分なお言葉恐縮です。
本来、法律の講演でしたが、「つい」、武士道話。もっともそれが法律話でもあります
が。
私は、ここに書いているとおり、武士道には大きく二つのタイプあり、という考えで
色々な武士道事象を解いているのですが、昭和10年代の歴史もこの二つの武士道がない
交ぜになって出来上がっているような気がしております(先日、事務室便りに書きまし
たとおり)。
その意味でも、武士道の本質を極めることは重要と思います。

これからもどうぞ宜しく。お仕事、ご苦労様です。

 

 

ちょっとした「宣伝」です。

引用

  2005/3/3 (木) 13:41:51 - 嘉村孝 - No.1109824752


(添付1) 1109824752.1.jpg

最近の拙稿を紹介させていただきます。まず、「教育と医学」3月号(慶応義塾大学出版
会)の「武士道における〔恥〕のあり方と現代」。
武士道と恥とは日本歴史において決して不即不離のものではなかったこと。現代におい
ては厳しいけじめを再認識すべきとしても、いたずらな恥の強調は単なる個人の徳義に
頼る国家を造ることになってしまい、民主主義とは無縁になってしまうこと。中世武士
道の一味同心の組織法を改めて構築すべきことを論じています。
URLは、 http://www.keio-up.co.jp/kyoiku/

もうひとつはこれから発行される「武道通信」の24の巻(杉山ひでお事務所)。連載
中の「葉隠入門3」ですが、今回は特集に合わせて新渡戸武士道批判。スペースの関係で
まだまだ不十分ですが、新渡戸武士道と葉隠とは正反対であること、新渡戸武士道は明
治国家の官僚武士道であり、滅私奉公を本質とし、しかもその根拠を歌舞伎に置くとい
う非実証的なものであること、更に、いかに素晴らしい武器や制度があっても精神がな
ければ戦争には勝てないなどとのたまわる日本の敗戦のバックボーンそのものであるこ
と、その精神論は彼の奇妙なキリスト教理解に起因しているかもしれないことなど、骨
子だけは記してあります。

より詳しくは、東京弁護士会内の弁護士グループ・至誠会の50周年記念誌「至誠」に昨
年載せてありますが、まだまだこのことで論ずることはあります。

ちなみに、本来の仕事もちゃんとやっておりますので、昨年、ある労働関係の事件で勝
訴したことについての講演を、これから発行の「労働法学研究会報」に(労働開発研究
会)。

そして、写真は、先日の台湾における春節。
有名な台北の龍山寺で、子宝が授かりますようにと祈る人の姿。正にアジアはひとつ。
「四海同胞」の精神でアジアに世界に、怪しいものではない本当のかけ橋をかけるべき
ことを痛感します。

 

返信1返信-1

 2005/3/4 (金) 11:10:50 - 嘉村孝 - No.1109824752.1


(添付1) 1109824752.1.1.P1010122

写真を貼りそこないましたので、正しいものをとりあえず掲示します。

 

 

武士道ってマヤカシくさいのですが・・・

引用

  2005/3/6 (日) 14:13:27 - フーテンおやじ - No.1110084589


初めまして。もう直ぐ還暦を迎えるおやじです。
なんとなく疑問を持たずに、まあ生きていく上での美学かと思っておりましたが、最近
は大いなるマヤカシではと考える次第。

1.為政者によって作られたインセンティブシステムではないか?
  美学ではなく、そうしないと生きていけない(広い意味で損得)だけ?
2.武士が戦士である限り、必要なのはルールであり、勝つか負けるかが第一義。
  負け方や勝ち方の美学なんてことより、まず勝つ事。負け=死のはず。
3.武士が戦わなくなった(刀が飾り物になった)社会で武士道が云々されている。
4.もし普遍のものであれば、現代には企業道や勤め人道もあるはず。勝った企業だ
  けが倫理や哲学(?)を云々するが、負けた企業は仮にどんなに立派な負け方を
  しても無価値であり、社会的責任を果たせなかった悪い企業となる。
  仮に経営者が企業道・経営者道などと言ったら?? そんな事より企業倫理と
  ルール遵守が責任では??
5.昔も今も責任を負って自決することがあるが、本人にとって(家族などのことを
  考えると)死ぬ事しか解決を見出せないのでは? それは美学か? 人としてあ
  るべき道か?

歴史を勉強している諸先輩のご意見を聞かせていただきたいところです。


 

返信3返信-3

 2005/3/14 (月) 01:05:39 - 嘉村孝 - No.1110084589.3


そうですね。「武士道。武士道」と声高に言うのは私も嫌い?です。
この博物館で取り上げた鈴木正三には「万民徳用」という本があって、士農工商はある
ものの、差別はないことを深谷克己先生も指摘されています。

その時代の前は兵農未分離、どころか兵商未分離。鍋島の祖先ともいわれる少弐やその
相手大内など、みんな貿易家ですから。今の米国と同じということ。私の「葉隠論考」
に「IT革命と武士道」という一文がありますが、「あれは良かった」と言って下さった
政治家がおられました。

そういう時代の武士道こそ本物で、武士が長袴をはき、公家の娘を嫁にもらった時代は
武士ではないと私は言っております。

今の世では武力は国民を守るために使用されるべきもの。その行使にあたる執行者が武
士とすれば、坦々とその任に当たってこそ武士。

そんな感じかなと私は思います。

 

返信2返信-2

 2005/3/11 (金) 12:10:51 - フーテンおやじ - No.1110084589.2


言葉足らずで乱暴な書き込みに返信ありがとうございました。

私が言いたかった事は、武士道を議論するときに、その時代背景・社会を前提にすべき
であり、武士道に言われる事をそのまま現代社会に当てはめて道徳規範とすることの疑
問です。

大昔であろうとも、社会がある限り利害がぶつかり合いますが、暴力(武力・実力)で
支配するのが歴史です。現代社会も例外ではありませんが、卑近な例では暴力団で、彼
らには任侠道があり、つい最近までは社会的な価値もあったかと思います。
今では警察がありますからヤクザの社会的価値はなくなった?
警察は国家が武力を認め、暴力に対する武力は正当化されています。

多少飛躍しますが、イラン・イラク・北朝鮮などの国際問題もあまり大きな違いがな
い。

さて、現代社会で「武士」とは? 武力を持つ支配階級とは何でしょうか?

そんな事を考えるにつけて、武士道と言う言葉を使って道徳規範にする風潮に「待っ
た」と言いたくなった次第。

失礼しました。

 

返信1返信-1

 2005/3/6 (日) 23:40:19 - 嘉村孝 - No.1110084589.1


 ほとんど私も同意見です。
 そもそも「美学」とかいう言葉こそまやかしとしか思えません。
戦国武将の言行録「朝倉宗滴話記」においては、「武者は犬ともいえ、畜生ともいえ、
勝つことが本にて候事」と述べられているとおりです。
 この考えこそむしろ責任ある殿様の言であり、「道」を押し付けるのは、家元制度と
同じく、葉隠的にいえば上方風のうち上がりたる武道かと思います。

 

知非便捨(ちひべんしゃ)の意味がわかりません!?

引用

  2005/3/12 (土) 01:08:40 - Ryo - No.1110556699


 葉隠れ初心愛読者の者であります。初歩的な質問ですいません。
 
 葉隠れに出てくる宗龍寺の江南和尚が、仏は知非便捨の四文字をもってわが道を成功
なされると説いたとの事なのですが。どういう意味でしょうか!?辞書などで探すので
すが、仏教用語で見つかりません。

 

返信2返信-2

 2006/4/7 (金) 11:24:12 - 嘉村孝 - No.1110556699.2


なお、中国語では「便」には「既に」の意味があります。この意味でしょう。

 

返信1返信-1

 2005/3/14 (月) 00:53:09 - 嘉村孝 - No.1110556699.1


遅くなりました。
何しろ一年で一番忙しい時期なものですから。3月15日前は。

「知非便捨」、特に非を知るということは、葉隠で最も大切な言葉ですよね。念念に非
を知るから聖(ひじり)であるとか。
水戸学のような武士道からは出てこない言葉です。

「知非便捨」の意味について、岩波の日本思想体系本では「非を知れば直ちにそれを改
める」などと注記してありますが、感心できませんし、意味も通じません。
「便」はむしろ「即ち」とか「たちまち」の意味に解すべきではないでしょうか。つま
り、非を知り、即ち捨てる、という読み方です。何を捨てるかというと、自己を捨てる
わけです。
禅でいうところの百尺竿頭一歩を進める。下村湖人さんは尺取虫の話で説明されます
(青年の思索のために)。
即ち、身心放下(しんじんほうげ)ということであり、自身の見解を捨て、「これも非
なり非なりと一生嘆息し」と葉隠がいう立場に自らを置けば、自由が生まれ、自利利他
の境地となり、相手に対する慈悲も生まれる・・・・と。あるいは、道元禅師の「学道
の人は自解を執することなかれ」にもつながります。

竜造寺家菩提寺曹洞宗宗龍寺・江南和尚の言としてその方がぴったりするはずです(た
だし、宗龍寺に江南は見えないとのこと)。

 

佐賀城の不思議さ

引用

  2005/3/14 (月) 15:40:12 - 村岡真知子 - No.1110781469


佐賀藩と鍋島藩との違いは、佐賀城にどううつっているでしょうか
私の考えの中で、はっきりとしていません。
よろしかったら、お教え願いませんでしょうか

 

佐賀藩と鍋島藩との違い

引用

  2005/3/14 (月) 16:27:33 - 村岡真知子 - No.1110782412


お返事できましたら送ってください。
少し疑問になって、いました。

 

返信1返信-1

 2005/3/16 (水) 01:16:03 - 嘉村孝 - No.1110782412.1


まとめてお答えします。
そもそも、江戸幕府が、今、我々が言う諸藩を「藩」と呼んだ事例はないようです。知
行所、領分の名が普通であったとのこと。
一般では、儒教思想の影響が強まってから「藩」の名が使われ、新井白石の「藩翰譜」
などはあります。
結局、正式の藩の名は、儒教主義の徹底ともいえる明治維新から廃藩置県まで。
なお、この間の藩名は佐賀藩ですが、江戸時代は佐嘉。この話は葉隠にもあります。

佐賀城は非常に攻めにくい強固な城であったと思われます。一般に平城の方が山城より
も攻めにくいというのが戦国時代の傾向でしょう。

 

1年前の「事務室便り」

引用

  2005/3/27 (日) 13:06:00 - 嘉村孝 - No.1111895744


(添付1) 1111895744.1.P1010118

 1年前の「事務室便り」です。

 この写真は、上野の山にある堀田正盛ら三代将軍家光に殉死した人たちの墓。
 家光の墓は日光にありますから、つまりは葉隠のような殿様との「一味同心」にはな
っていないということ(正盛の墓標だけは日光にあるようです)。
 つまりはこの時代あたりから葉隠が嘆く現象が始まっているということでしょう。そ
のよさ、一方の問題点をじっと探すこと、それが今大切だと思います。
★4月1日
 新しい年度がはじまり、東京の桜は満開になりました。
 葉隠の名のいわれについて、西行法師の「葉隠に散り止まりし花のみぞ 忍びし人に
会うここちする」にちなんだもの、といわれていた大正時代までに対し、いつのまにや
ら「蔭の奉公」が由来だなどという正に単純な滅私奉公が幅をきかせた昭和。今でも大
家がその説。
 「朝鳥の霜夜に眠る日陰かな」の名句を詠んで、「朝鳥の少弐」の異名をとった室町
時代の対馬、大宰府、佐賀の武将・少弐政介の辞世の歌は「花ぞ散る 思えば風の咎
(とが)ならず 時至りぬる春の夕暮れ」でした。これまた名歌です。
 こういう話に親和性を持つ葉隠が、単純な滅私奉公といっしょではどうにも据わりが
悪いといわざるを得ません。武士道とはこんな複雑なものなのです。
★3月27日
 もう1つ「半落ち」で思い出すのが、裁判官が法廷から裁判官室に帰ってきて法服を
脱ぐシーン。全員、法服の下はワイシャツでした。
 私の知るある現職の判事は、昔、例え法服を着ていても、その下に背広を着ていない
とシャキッとしない、といわれて常に背広の上から法服を着ておられました。そして、
その厳格さゆえに逆に、無罪は無罪、とされるのです。
 それでこそ本当の裁判官像というべきだと思います。その方は、今も高裁の裁判長と
して納得いく裁判をされています。先日、その部の判決が最高裁で破れましたが、私は
その判事が裁判長の高裁判決をこそ支持します。
 官尊民卑の、いささか高圧的な裁判像でありながら、こういうシーンには弛緩がみら
れる「半落ち」の裁判官像。これが、日本の今の姿であってはほしくないと思います。
★3月25日
 最近、十数年ぶりに映画を観ました。「半落ち」というそれです。
 なかなか泣かせる映画でしたが、その中の官尊民卑はちといただけませんでした。わ
ざわざ、今やありもしない古風な法廷。おまけに、裁判長が、抵抗する陪席判事に、
「あなたをこの事件からはずしますよ」ときては司法権の独立もくそもあったものでは
ありません。
 証人らを立たせたままで証言させることも今や昔の話です。
 ああいうシーンを作っても不思議ではないと思うのが製作者で、許すのがこの国民な
のかな、とあらぬ方へ興味が行きました。
★3月16日
 千葉へ出張。県庁と裁判所の間には都川があり、県庁の後ろには山があって、今は郷
土博物館がありますが、昔の中世・亥鼻城の跡といわれます。
 そして、亥鼻城の範囲は昔はよほど広く、裁判所の敷地が城主の居住、政務エリア
で、事あったとき、背後の山へ籠もったとか。つまりは平山城というわけです。
 現在では、付近は広い道が走り、車が騒音を立てるコンクリートの塊のような場所で
すが、こんなことを考えると違った世界が見えてきます。
 ちなみに、千葉氏と佐賀は頼朝の旗揚げ以来、極めて深い関係があります。何十年か
前、成田ニュータウンから、肥前の銘の入った鐘が出土しました。九州の千葉氏が関東
で戦争をした時、持ってきたもののようです。その鐘は日本で作られたようですが、竜
頭が1つの朝鮮系の形をしています。九州、関東だけでなく、世界との関係が面白いと
いえるでしょう。この博物館のあちこちに関連することが書いてありますので、ご覧下
さい。
★3月7日
 数年前、さる会合で一度だけお会いしたテレビレポーターの薬袋美穂子(みないみほ
こ)さん。その後、本のやり取り程度のお付き合いでしたが、突然本が届き、若くして
昨年9月に亡くなられたとのこと。本当にびっくりしました。ご冥福を祈る気持で一杯
です。
 本はその遺稿集。昨日読了しました。内容は世界を駆け巡りマザー・テレサやダイア
ナ元妃に会った話から様々。もっと色々お話しておけばよかったと悔やまれます。数年
前の時は「武士道談義」ですっかり盛り上がりましたが、その折話しに出た日本人の
「12歳論」も終わりの方に出てきました。この博物館の末尾に紹介した「公民教育研
究」にもあり(マッカーサーが戦後、それを言う以前に、日本人が昭和3年に言ってい
た。だからこそ自立した個になれと)、上記の「葉隠論考」に、より詳しく書いてあり
ます。
 それにしても、この本の出版を手がけられた方も、たまたま旧知の東洋経済新報社の
元社長さん。いつも葉隠の話をさせていただいている方。
 世の中は狭いなーとつくづく思います。 
★3月3日
 鳥インフルエンザに関して、ニワトリを処理する役になった職員が、あまりの生々し
さに・・・という報道がありました。
 しかし、正にこれこそ「国民を守る」国家の本質の話であり、それを荷う人の問題で
す(彼らは国民を守ために財産権を制限。国防も同じ。ただし、そこでは鳥ではなく、
人の命を奪わねばならない)。BSEはもちろん、イラクや北朝鮮にもかかわる問題です
(イラクが同様の「防衛」なのかが問題)。また、死刑の問題にもつながります(死刑
の意義。執行の現場)。新撰組に殺すことをやらせた幕末京都の話にもかかわります。
もちろん宗教の本質の問題でもあります。
 以上の記述ではわかりにくいでしょうが、こういうことをしっかりごまかしなく議論
しなければ、この国はいつになっても「人任せ」「個の自覚なき国民」の国から抜け出
せないと思います。
★2月29日
 2月28日は、台湾では2・28事件のあった日。1947年のこの日から、台湾全
島で、やみたばこの取締に発したといわれる蜂起と、数万人ともいわれる、元々台湾に
住んでいた台湾人への殺戮が始まりました。私の知り合いの何人もがその被害にあった
ことは再三書いたとおりです。
 わが国にとっての問題は、自民党あるいは民主党の保守派ともいうべき人々が、こう
して日本の友人というべき人々を弾圧した国民党政権と、なが年にわたり仲良くしてき
たこと。民進党政権になって、その点是正はされたものの、針が逆に振れた結果、相変
わらずの勘違いがあることです。
★2月26日
 今日は2・26事件の日です。もちろんこの事件には「武士道」あるいは「国家観」
が深く関係しています。
 私は幼少の頃から、立野信之の小説を映画化した「叛乱」を何度も見ましたが、青年
将校にとって、叛乱とか革命とかいうレッテル貼りは心外でしょう。もとより青年将校
によって考え方は違いますが、彼らと精神的につながる小沼正(5・15事件)は現代
史資料の対談中で、明確に否定。一昨年亡くなった池田俊彦さん(無期禁固)もそうで
した。
 天皇陛下の「聖明」を信じ、この博物館にある水戸学的国家観に立つ彼らには「君則
の奸」を除く発想はあっても自分らがそれにとって代る発想はありません。だって聖明
が自然に発揮されると考えているのですから。ここに水戸学の問題点もあります。
 この論理の分からぬ人が陰謀だ、反乱だなどというのです。実はこの点でも、私の知
り合いである台湾の老先生のほうがよほど的確に彼らを捉えておられます。
★2月23日
 1974年11月、私は福岡・大宰府の観世音寺を訪れ、戒壇院の門脇に書かれた次
の文字に目を止めました。「いつでも平気で死ねるのが禅であると思っていたが、禅は
いつでも平気で生きる(ための)ものだった。 漱石 」と。
 この言葉もまた、葉隠の「死ぬことと見つけたり」の意味を解く鍵になりました。
 その後、何度も戒壇院を訪れるたびに、当時の方丈さんの塔に手を合わせます。
 最近の武士道理解、あるいはもっと、国の進み方について、この言葉は反芻されるべ
きではないかと思います。余りにも、「前者」の禅理解が幅をきかせ過ぎているからで
す。
★2月21日
 昨晩の会合。夫の父は戦争で自殺。夫は戦死、という方の隣で、ある大先輩曰く。
「ラストサムライ観ましたか。あれを観てないなんてとんでもない。若い人は泣いて観
ていましたよ」と。もちろん、映画を誉めての話(そもそも私は「嘘」の話に興味はな
いわけ。戦死は「現実」)。
 一体、これだけ年取った人が、こういう発想を持っていることに、戦争世代もあてに
ならんな、と思いました。しかもその人、去年は「昭和天皇を思い、忍び難きを忍ぶべ
きで、イラクをブッシュがやっつけるのはおかしい」なんて言ってたんですが。
 戦争世代とはいっても戦争に行ったわけではないし、そういう教育(私は旧制中学・
高校、女学校の教育を、今、考えています)から脱皮してはいないし・・。人間とはな
んとも難しい存在であると思うと共に、福沢諭吉の「封建制度は親の敵」という言葉が
つくづく思われました。
★2月18日
 今年は日露戦争100年ということで、インターネットでその資料を見ることもでき
るようになりました。
 考えれば、その勝利の前には三国干渉があり、「臥薪嘗胆」が叫ばれました。
 即ち、死んでもいいから、あるいは、名誉のためには「突撃」などという後年の発想
とは異なる落ち着いた発想があったからこそ勝てたわけです。
 別に私は司馬遼太郎さんのファンでも何でもありませんし、彼の本もほとんど読んで
はいないのですが、ここの点は少なくとも結論としての意見は一致しているのでしょ
う。
 最近はどうもこうした発想と違う観念論が沸き起こっているような気がしてなりませ
ん。
★2月15日
 台湾は今、総統選挙事実上の真っ最中です。4年前、3候補の選挙事務所を訪ね、選
挙戦に生で触れたことが思い出されます(私にとっては小学時代以来の文通相手・何さ
んとの最後の面会の旅でもありましたが)。
 特に投票前日、3候補とも罰金まで払って大観衆の前で指定の時間後も演説を続けた
ことは感動的でした。選挙の自由、つまり表現の自由は日本よりはるかに広い世界標
準。
 今朝は両候補のTV討論が報じられていました。前回、影の薄さを感じた連戦候補も、
元気そうです。
 はっきりいって、日本の政治家、特に為政者とはダイナミズム・深さが違います。厳
しい国だからこそみんな本当のサムライです。ラストサムライとももちろん違います。
李前総統の言われるのとは「違う」意味で、武士的要素が強い。つまりは日本でいえば
「中世武士」です。
 この「違い」が大事です。台湾にあるのは新渡戸さん的近世武士道ではありません。
それもゼロとはいいませんが、むしろダイナミズムの元は日本でいえば中世武士的気質
なのです。
★2月14日
 小説をほとんど読まない私ですが、小説家の高村薫さんが書かれた新聞記事(2,3
週間前の共同の配信かと)を読んでいて、また暦のことを考えました。曰く「 いつの時
代も、日本の新年はこうしてぼんやり明けていったのだろう。・・1月1日を境にすべ
てが新しくなるという日本人の感覚は本年も変わらず繰り返され、日本中が漠とした新
年の気分の中にいるようである。・・(そして、イラク問題についての「法」を守らな
い現実を批判。末尾は、「自衛隊員ではなく、政治家こそ、遺書を書け」。)」と。
 これを読んで、前にも書いた、1月1日はこれから寒くなろうというのに「初春おめ
でとう」なんて言うことに疑問を持たない国民であること・・に思いが及びました(こ
の度貼った去年の1月1日の掲示板にあり)。
 それを「改善」するにはやはり「旧正月復活」か、とも。もちろん形だけ復活しても
だめで、精神の中身が問題です。つまりは御上が勝手に決めた実態に合わない正月を受
け入れるようでは本当の武士、個の自覚ある国民ではないわけです。
★2月7日
 アジア諸国の小正月も終わり、いよいよ今年も本格的に始動しました。
 この間、各神社・仏閣の宮司、住職の方々の新年の挨拶を読みましたが、対イラク問
題については、仏教方は平和志向で派遣反対。神社は是非分かれる感じ。これは神社と
いうものが明治維新以来、「国家」との結びつきが強くなったことによるものかと思い
ます。
 そんな中で、「国家神道」である東京の巨大神社の宮司さんが、神道なるものは何ら
の教義なく、仏教と習合しつつ発展してきた、その協調の精神こそ神道、といったこと
を述べられていたのには、意外感とともに偉いなという感を受けました。排外主義のよ
うなことまでいう宮司さんに対し、この幅と深さを学んでほしいと思った次第です。
★2月3日
 日曜日朝のテレビで、中国進出日本企業の努力と発展ぶりが伝えられていました。
 私も、昨年3月、そのうちの1企業の内陸部にある小売り店舗を訪れました。正に日
本と同じかそれ以上の盛況。内陸部が遅れている、という話も過去のものになりつつあ
る、との感を深くしました。日本の「あんパン」が一日最高8000個売れたといいま
す。今や中国は日本の最重要の市場です。お互いに提携していくべき相手です。以前も
書いたとおり、そこには「企業戦士」という日本の武士が、妻子を日本において働いて
います。
 ところで、1月12日の佐賀新聞に、韓国のジャーナリストであるユ・ファジュンさ
んの「(ノ・ムヒョン政権の幻滅に触れたあと)そこに新年早々、信頼を取り戻しつつ
ある隣国日本の総理の突然の靖国参拝で、正月酒のほろ酔い気分も吹っ飛んだ」という
記事がありました。
 アジア諸国で奮闘する企業戦士とこの問題、真の智恵と情意が必要かと思います。
「成熟した政治外交に取り組んでいただきたいものである」との言葉には正に納得で
す。
 1日に参拝した一人として。なお、靖国神社の現状に対する意見は1昨年8月16、
18日あたりの「事務室だより」に(掲示板にあります)。