時事的な話題が役に立ちます

引用

  2003/12/22 (月) 15:17:57 - 申年 - No.1072073683


 いつも,「館長事務室だより」を見ています。
 時事問題についての切り込みが大いに役に立ちます。
 これからもどうぞよろしくお願いします。

 

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 2003/12/24 (水) 17:00:32 - 嘉村孝 - No.1072073683.1


 ありがとうございました。

 

1年前の事務室便り

引用

  2003/12/28 (日) 01:09:05 - 嘉村孝 - No.1072540570


(添付1) 1072540570.1.JPG

 今年もそろそろおしまい。
 約1年前、ホームページの「事務室便り」に書いたものを抜粋して張ります。
 写真は、アクセサリとして、先日通った神奈川県真鶴の、源頼朝脱出の場所です。つまり頼朝
は、1180年、平家追討の旗揚げの後石橋山の戦いに敗れ、ここから土肥実平の助けを得て今の
千葉県・安房に脱出しました。
 武家政治はここに始まったともいえるので貼り付けます。

★12月30日
 昨日、古代オリエントの遺跡を掘る先生、縄文の遺跡を掘る夫婦の先生に会って、つくずく自
分のしていることと似ているなと思いました。土の層の中から歴史的意味のあるものを探り出す
作業は、支離滅裂ともいうべき社会事象や人々の言語の中から法的意味ある現象や言葉を捜しだ
し、法の意味付けを与え、かつ考える作業と何と似ていることかと。
 学問(自分のしていることが「学問」などとはおこがましいのですが)の向かうべき方向を考
え、意気投合した気に(一方的に?)なりました。もちろん、こんなことで終わりとは思いませ
んが。
 葉隠も、「ただこれも非なり非なりと一生嘆息し心を守りて打ち置く事なく・・・この中に道
はあるなり」と言っていますしね。聖は「念々に非を知る」から「ひじり」なのだそうです。
★12月27日
 湘南のある市に仕事に行って、そばにある博物館に寄りました、入り口で「説明しましょう
か」と言われる紳士。せっかくですからお受けしました。しかし、大変恐縮ながら疲れました。
 全て「知識を教えてあげる」という調子だったからです。文物を見て私が考えを巡らせている
のが、ぷつんぷつんと切られるわけです。
 今の学校教育のよくない点が見えるようでした。
 ただ、そのあたりの風景から、源頼朝の旗揚げに際し、三浦一族が援軍の行く手を阻まれた馬
入川の位置関係が分かったことは収穫でした。
★12月21日
 元第18師団(菊兵団)参謀牛山才太郎氏にお会いし、お話しを伺いました。同氏は第二次大戦
のビルマ(ミャンマー)におけるフーコン作戦(北ビルマにおける連合軍阻止の作戦。インパール
作戦とも連動する白骨街道の戦争。フーコンとは「死」)などで敢闘され、「ああ、菊兵団」な
どの著書もあります。
お話しの中にはやはり実戦経験者でなければわからないものがあるとともに、日本の組織の持
つ問題点を文字通り体で感じた方の感懐がありました。
自衛隊の海外派遣など、複雑な問題に直面する今、日本という国家組織に昔のような問題がな
ければよいがと思いますが果たして如何に。少なくとも実情を知らず視野の狭い軍事オタク的発
想に振り回されることだけはあって欲しくないものです。その意味で、私は最近、官僚攻撃より
も、官僚よしっかりしてくれ、と言いたい気持が強まっています(もちろんその前提として、全
体の奉仕者で、国民に支えられる官僚像の実現が必要)。
 いずれにせよ、明治の貴重な人材牛山様のご健勝を祈りたいものです。
★12月19日
 知り合いのA判事が最近B地裁に転勤していきました。その知らせを聞いて自分にも経験のあ
る昔の赴任を思い出しました。
 裁判官が任地に赴く場合、先ずはその地裁が属する高裁の長官のところに挨拶に行きます。こ
れは、昔の武士が戦場に到着すると「着到状」という文書に証明をもらっていたことを思い出さ
せます。やはり裁判官は「武士」なのであり、軍部、司法部と呼ばれたのは意味があるのです。
 もっとも、韓国にもある代官の赴任の方がより似ているかもしれません。
 いずれにせよけじめをつけるのはよいのですが、現代において余り実質のない着到をやってい
たのでは国民の意識との間に乖離を生じます。
 ピシッとすることと国民の方を向くこととを一致させなければなりません。だから私は民族主
義と民主主義との調和と言うのです。
★12月15日
 仕事で福岡に来て、宗像大社を遥かに参拝。もちろん、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれる皇室と
もかかわり深い神社です。
 ところでこの皇室の氏神ともいうべき宗像大宮司家の奥さんが鎌倉時代の2代にわたり中国宋
の人であったことは福岡以外ではあまり知られていないかもしれませんね。王氏、張氏といい、
張氏が夫の両親の菩提を弔うために建立した石造物が残っています。中世博多は、また、京都は
もとより鎌倉なども、極めて国際的な町であったことが明らかです。統制の貿易ではない「時
代」がそうさせたのでしょう。
 例えば、博多にいた中国商人が寧波(ニンポウ)の寺に道路を寄進した石碑様のものは今も寧
波に残っています。
 こうした中世人の生き方は松浦党はもちろん、葉隠にも絶対に最後の残り火として入っていま
す。葉隠にもおかしなところは一杯ありますが、この残り火を探し当てる能力を我々は身に付け
これを生かさなければと改めて思いました。
 それができて初めて、見方の狭い国粋主義からも葉隠鍋島国粋主義からも脱皮した本当の民族
主義になれるはずです。そのとき、葉隠も本当に役に立つ本になるでしょう。
★12月11日
 今日は林ますみの判決が。昨日は新潟の監禁事件の高裁判決がありました。
 私は昨日の高裁判決にまずは拍手を送りたいと思います。確かに女性を長期にわたって監禁し
たあの犯人はとんでもない人間です。しかし、だからといって下着泥棒をわざわざ立件し、それ
を懲役10年くらいに評価して10年を15年にのばすような、世論迎合の1審判決のやりかたは
邪道です。厳罰に持って行きたいなら罪刑法定主義の原則を厳守した上で立法によるべき(だか
ら立法をしっかりさせる憲法解釈をすべしというのです。上記の本参照)。今回の判決がそのけ
じめをつけたことは、司法権ここにありのさわやかさを感じさせます。
 最近の司法は行政追随がはっきり言って目立ちます。それは、(難しくしてすみませんが)明
治時代の法実証主義の厳格さを排した姿といわざるを得ません。それに対して今回の判決は久し
ぶりにさわやかな気分にしてくれるものでした。
 掲示板の徐州さんの話も、この法実証主義と自由法学という極めて法社会学的基礎にかかわる
ものです(彼が明治がわからないというのはそこだと思いますが、詳しくはまた掲示板に応答の
形で)。
★11月26日
 田辺久子さんの「関東公方足利氏四代」を読み、初代基氏がある僧に送った手紙に心打たれる
ものがありました。
 彼は足利尊氏の三男に生まれ、父尊氏と自らが猶子となったその弟直義との観応の擾乱に巻き
込まれて板挟みとなります。それがおさまると埼玉の入間川に長期対陣するなど戦乱の中に身を
置きます。
 そんな基氏が24歳の時「そもそも工夫用心何様たるべく候か 座禅の時心乱れ雑念相起こり
候事多く候 行住座臥の間、その意何体に持つべく候か 未だ工夫純一ならざるの時生死到来候
わばその時の所存何に向くべく候か」と述べます(一部割愛)。
 戦争の現実の中に身を置いて死を突き詰めて考えた武人のこんな文章をこそ勉強すべきではな
いか。
 一方で、古典というと、「源氏」だ「枕」だと王朝物を重視しますが、それはごく一部階級
の、そもそもウソの話で、この武人らの述べる事実の重みにはかなわいと思うのです。
 もちろん、様々な考えがあってよいのですが。
★11月16日
 教育基本法の改正が話題になっており、簡単に言えば愛国心の涵養といったことが問題にされ
ているようです。それはそれで結構なんですが、やっぱり基本は武士道で考えるべきでは(笑)。
 私がかつてやっていた剣道にしても弓にしても、まずは腰が大事。弓で言えば「胴作り」がし
っかりしていなければ「ねらい」は定まりません。
 まるで膏薬(こうやく)でも貼るように愛国心を持て持てと言ったって人間の心の問題ですか
らそりゃ無理というもの。持てるような国家になる基本をきちんと作ることが大切でしょう(い
わずもがなですが)。その場合、やはり葉隠の一味同心が大事だと思うんです。
★11月10日
 刑務所での暴行事件が問題になっています。私も以前、保護房など見分したことがあります
が、窓もなくノッペリでまんまるの内部は、不安感から10分もいれば気持ちが悪くなるような
ところです。
 問題の一つはそうした場所に何時、何があったら収容するかについて非公開の通達に任されて
いる点です。つまりはこの博物館の「御定書」の世界です(「今こそ死ぬことと見つけたりで
は」参照)。吉宗のしたことは現在までも尾をひいているわけです(日本国憲法には法律による
行政の原理があるのに)。
 ただし、その旧憲法の法体系で仕事をした人、例えば正木亮(あきら)先生のような方でも、
革手錠や重塀禁(軍隊でいえば営倉)の廃止を言われていたことが思い出されなければなりませ
ん。先生は自ら刑務所に入って体験した元司法省行刑局長でした。
 いずれにしても実態を国民が知ることが大事。上の「葉隠論考」には韓国の西大門刑務所のこ
とを書きましたが、韓国では小学生でもこの間まで使用していた死刑の施設を見学しているので
す。
 御上(おかみ)任せにしている国民と自分で調べる国民と、どっちが「武士」かは明らかです
よね。
★11月10日
 最近の国際関係は、北朝鮮、イラクなどなど深刻な事態。そういうときこそ心の持ち様
は・・・「慈悲の目に憎しと思う人あらじ 科のあるをばなをも哀れめ」の葉隠れ精神を基本と
したいと思います。
 例の北朝鮮からの5人の方もそうですし、中国残留孤児などもそうですが、24年のギャップ
は、こちらの側のあこがれが強かっただけに家庭内でも様々な葛藤をよんでいると思われ、大変
でしょう。でもそんな時こそ仏教武士道が生きます。
 ただし、国家間や国民と国家との関係は法律的な厳格さ、いわば儒教武士道の合理性が大事で
はないかとも思います。
 その調和は本当に難しい。
 やっぱり、結局は前者で基本的考え方を固めて、現場では儒教型ということになるのじゃない
でしょうか。

 

電車から見える「新撰組」の故地

引用

  2004/1/11 (日) 23:54:28 - 嘉村孝 - No.1073832610


(添付1) 1073832610.1.jpg

 写真は東京の足立区綾瀬の綾瀬川岸を、綾瀬駅手前の常磐線の電車から撮ったものです。古く
は武蔵国足立郡五兵衛新田です。
 新撰組は山梨県勝沼・柏尾での西軍との戦いに敗れたあと、3月13日から4月1日まで、こ
この川岸、金子邸、観音寺などに本陣を置きました。綾瀬川は正に防衛ラインであることがわか
ります(ちなみにそのそばの東京拘置所、つまり昔の「小菅御殿」も、現在でも川や堀に囲まれ
た陣屋形態)。
 そして、その後流山に脱出するも、近藤勇はそこで捕らえられ、板橋で斬首されたことはご存
知のとおり。
 とはいっても、この間、空白の時間がたくさんあり、また、ちりぢりだった隊士がどこにいた
のかの場所もはっきりしません。小説や最近の便乗本など極めて怪しいものです。
 上記の記事は山形紘先生の「新撰組流山始末」によっています。同先生の水戸・戊辰戦争につ
いての本も、薄くても読みこたえがあります。
 しっかり足で歩いて書き、ほとんど本屋さんにでておらず、地元にしかない、しかしロングセ
ラーというこういう本こそ「本物」でしょう。

 

こんにちわ

引用

  2004/2/9 (月) 13:10:13 - 山本常朝 - No.1076299698


 私は,京王線の平山城址公園に住んでいます。
 このあたりも,いろいろな史跡があって面白いですよ。
 是非,遊びに来て下さい。

 

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 2004/2/10 (火) 00:17:58 - 嘉村孝 - No.1076299698.1


平山城址公園ですか。
 昔、タナゴを捕りに行った事があります。当時は多摩川の水量が今とは比べ物にならないくら
いありました。実は今日、京王関係の方と話したら、そのことに及び、やはり、周辺の宅地開発
等で川へ流れ込む水の量も減っているそうです。
 しかし、昔は天然の堀を構成し、防御施設として作用したんでしょうね。
 特に後北条氏と上杉氏との対峙の場所として。
 私は、西の八王子城、片倉城に行き、平山城はまだですが、枡形城、夢見が崎城と、多摩川沿
いの各城跡をめぐりました。いずれも多摩川に接する防御陣地。北方の上杉に備えます。
 こういう、城の連携は中国の万里の長城の外側で見ることができ、中世日本人の国際性を思わ
せます。
 一国一城令は正に、日本人の国際性を失わせましたね。

 

1年前の「事務室だより」・立花城

引用

  2004/2/11 (水) 22:27:37 - 嘉村孝 - No.1076505474


(添付1) 1076505474.1.JPG

 ホームページにある「館長事務室だより」の1年前のものを抜粋して貼り付けます。
 写真は、12月15日の記事にも出てくる博多。後方の山は「立花城」です。国際都市博多を
押さえる大友氏の中世の牙城。
 永禄12年の毛利との戦は、大友宗麟が守将に投降を命ずるなど、今日からみたらユニーク、
ある意味で国際的戦争です(私の本「葉隠論考」をご参照)。

★2月3日
 昨日のコロンビアの事故で思い出すのは10数年前のチャレンジャーの事故です。あのあと、
ワシントン近郊のアーリントン墓地を訪れる機会がありました。 
 その折り、チャレンジャーの乗員が正に国民統合のシンボルになっていることに何か違和感を
感じたことが忘れられません。彼らに対する「鎮魂」ならわかりますが、彼らを統合の手段のよ
うにすることは不自然と思ったものです。
 同様に日本の靖国神社も、正に鎮魂の場であってほしい。何かを主張するような場ではなく
(8月18日の記事)。それでこそ戦後の嵐の中でも地元の人からは普通の神社として親しまれ
てきたと思います。
 最近はいろいろな事象が人工国家の手段みたいになる危険があり、それでは日本の近くの人工
国家と同じになってしまいます。今回の事故の事後の行動が、亡くなった人への鎮魂と、再発防
止に主眼をおくものになることを祈ります。
★1月24日
 唐代に流行った仏教の一派を論じた「三階教の研究」で有名な仏教学者・矢吹慶輝博士の「法
然上人」を読んでいます。
 その中で、上人はなぜ出家したのかという話のところに、武士であった父が敵に殺される場面
で、死に行く父が、幼少9歳の上人に、敵討ちは新たな恨みを生むのみ。菩提心を起こせと諭す
話が出てきます。
 ここについて博士は、「武士道の形を捨ててその意を取ったもの」と評しておられます。「武
士道は殺戮」という観念に対して、真に強い武士道とは何か、を迫ったものと読みたいと思いま
す。矢吹博士こそ正に仏教学者にして、武士道の神髄を知る方といってよいでしょう。そこにこ
そ本当の武士道の、また仏教の強さがあり、イラク問題が焦眉の急となっている今、世界の中
に、仏教が存立していく意義があると思います。山岡鉄舟の「無刀流」などもそういうことでし
ょう。
★1月17日
 今日は「阪神大震災」の日でした。6000名余りの死亡者をはじめとする被災者の方々には心
から哀悼の意とお気の毒の気持ちを表したいと思います。
 ただ、話変わって、当時もこの地震を約14万人が死亡した関東大震災と同じく「大震災」と呼
ぶことには批判がありました。他の地震と比べてもそうではないでしょうか。これを大震災と呼
ぶと、もっと大きなものが来ることについての気持ちが弛緩してしまうと思うのです。しかも、
第二次大戦では300万人です。ソ連は2000万人とか。
 自然の災害よりも、人間の考え違いがいかに恐ろしい結果をもたらすか、そのことを肝に銘じ
て色々なこと(例えば今のイラク問題にしても)を考えなければならないと思います。
★1月1日
 明けましておめでとうございます。とはいうものの、何がめでたいのか・・・。
 この新暦で正月を祝うようになったのも明治維新で行われたことのひとつに当然数えられま
す。
 およそ支配者たるもの縦横高さの三次元だけでなく時間という四次元をも支配するものとされ
てきました(この博物館の中国の映像や暦に注目)。ですから明治政府は時間支配の象徴として
太陽暦によるお正月を打ち出したものと思います。それは1月が正月になるという意味では合理
的ですが、季節感、あるいは農業の実態からは離れ、アジア諸国とも協調できません。ですか
ら、「おめでとう」といってもピンとこないわけです。
 こうして、鍋島直茂のいう「実」から遠ざかった姿が明治維新で徹底されたのです(この博物
館の刑法と同じように)。
 実は明治維新はそれだけせはありません。例えば地名という縦横についても全く人工的な「東
京」などというものを作ったのです。それは現代にまで及んで歴史のdnaを破壊しているとも
いえます。
 しかも大切なことはこうして従前の枠組みの中で支配者を変えただけですから、民主革命など
というものとは全くちがっていたということです。
 私たちはまさに年頭にあたり、ここを根本的に考え、元気のよかった中世の国民に帰る必要が
あると思います。
★12月21日
 元第18師団(菊兵団)参謀牛山才太郎氏にお会いし、お話しを伺いました。同氏は第二次大戦
のビルマ(ミャンマー)におけるフーコン作戦(北ビルマにおける連合軍阻止の作戦。インパール
作戦とも連動する白骨街道の戦争。フーコンとは「死」)などで敢闘され、「ああ、菊兵団」な
どの著書もあります。
お話しの中にはやはり実戦経験者でなければわからないものがあるとともに、日本の組織の持
つ問題点を文字通り体で感じた方の感懐がありました。
自衛隊の海外派遣など、複雑な問題に直面する今、日本という国家組織に昔のような問題がな
ければよいがと思いますが果たして如何に。少なくとも実情を知らず視野の狭い軍事オタク的発
想に振り回されることだけはあって欲しくないものです。その意味で、私は最近、官僚攻撃より
も、官僚よしっかりしてくれ、と言いたい気持が強まっています(もちろんその前提として、全
体の奉仕者で、国民に支えられる官僚像の実現が必要)。
 いずれにせよ、明治の貴重な人材牛山様のご健勝を祈りたいものです。
★12月19日
 知り合いのA判事が最近B地裁に転勤していきました。その知らせを聞いて自分にも経験のあ
る昔の赴任を思い出しました。
 裁判官が任地に赴く場合、先ずはその地裁が属する高裁の長官のところに挨拶に行きます。こ
れは、昔の武士が戦場に到着すると「着到状」という文書に証明をもらっていたことを思い出さ
せます。やはり裁判官は「武士」なのであり、軍部、司法部と呼ばれたのは意味があるのです。
 もっとも、韓国にもある代官の赴任の方がより似ているかもしれません。
 いずれにせよけじめをつけるのはよいのですが、現代において余り実質のない着到をやってい
たのでは国民の意識との間に乖離を生じます。ピシッとすることと国民の方を向くこととを一致
させなければなりません。だから私は民族主義と民主主義との調和と言うのです。
★12月15日
 仕事で福岡に来て、宗像大社を遥かに参拝。もちろん、沖ノ島は海の正倉院と呼ばれる皇室と
もかかわり深い神社です。
 ところでこの皇室の氏神ともいうべき宗像大宮司家の奥さんが鎌倉時代の2代にわたり中国宋
の人であったことは福岡以外ではあまり知られていないかもしれませんね。王氏、張氏といい、
張氏が夫の両親の菩提を弔うために建立した石造物が残っています。中世博多は、また、京都は
もとより鎌倉なども、極めて国際的な町であったことが明らかです。統制の貿易ではない「時
代」がそうさせたのでしょう。例えば、博多にいた中国商人が寧波(ニンポウ)の寺に道路を寄
進した石碑様のものは今も寧波に残っています。
 こうした中世人の生き方は松浦党はもちろん、葉隠にも絶対に最後の残り火として入っていま
す。葉隠にもおかしなところは一杯ありますが、この残り火を探し当てる能力を我々は身に付け
これを生かさなければと改めて思いました。
 それができて初めて、見方の狭い国粋主義からも葉隠鍋島国粋主義からも脱皮した本当の民族
主義になれるはずです。そのとき、葉隠も本当に役に立つ本になるでしょう。
★11月26日
 田辺久子さんの「関東公方足利氏四代」を読み、初代基氏がある僧に送った手紙に心打たれる
ものがありました。彼は足利尊氏の三男に生まれ、父尊氏と自らが猶子となったその弟直義との
観応の擾乱に巻き込まれて板挟みとなります。それがおさまると埼玉の入間川に長期対陣するな
ど戦乱の中に身を置きます。
 そんな基氏が24歳の時「そもそも工夫用心何様たるべく候か 座禅の時心乱れ雑念相起こり
候事多く候 行住座臥の間、その意何体に持つべく候か 未だ工夫純一ならざるの時生死到来候
わばその時の所存何に向くべく候か」と述べます(一部割愛)。
 戦争の現実の中に身を置いて死を突き詰めて考えた武人のこんな文章をこそ勉強すべきではな
いか。
 一方で、古典というと、「源氏」だ「枕」だと王朝物を重視しますが、それはごく一部階級
の、そもそもウソの話で、この武人らの述べる事実の重みにはかなわいと思うのです。
 もちろん、様々な考えがあってよいのですが。
★11月10日
 刑務所での暴行事件が問題になっています。私も以前、保護房など見分したことがあります
が、窓もなくノッペリでまんまるの内部は、不安感から10分もいれば気持ちが悪くなるような
ところです。
 問題の一つはそうした場所に何時、何があったら収容するかについて非公開の通達に任されて
いる点です。つまりはこの博物館の「御定書」の世界です(「今こそ死ぬことと見つけたりで
は」参照)。吉宗のしたことは現在までも尾をひいているわけです(日本国憲法には法律による
行政の原理があるのに)。
 ただし、その旧憲法の法体系で仕事をした人、例えば正木亮(あきら)先生のような方でも、
革手錠や重塀禁(軍隊でいえば営倉)の廃止を言われていたことが思い出されなければなりませ
ん。先生は自ら刑務所に入って体験した元司法省行刑局長でした。
 いずれにしても実態を国民が知ることが大事。上の「葉隠論考」には韓国の西大門刑務所のこ
とを書きましたが、韓国では小学生でもこの間まで使用していた死刑の施設を見学しているので
す。
 御上(おかみ)任せにしている国民と自分で調べる国民と、どっちが「武士」かは明らかです
よね。

 

中山法華経寺と葉隠

引用

  2004/2/29 (日) 22:36:58 - 嘉村孝 - No.1078061629


(添付1) 1078061629.1.JPG

日曜出勤で、千葉県市川市に行き、中山法華経寺に詣でましたので、一筆。この寺と
葉隠とは深い関係があります。
 この寺は日蓮宗に帰依した千葉一族の家来、富木常忍(ときじょうにん)がその館
(城)を提供して創立しました。一方、千葉氏は源頼朝を助けた縁から、現在の佐賀県
小城町の地頭に補せられ、そこに鎮西総本山・松尾山光勝寺を造りました。
 ですから、中山と同じく、小城にも日蓮宗の光勝寺があり、千葉氏の守り神・妙見菩
薩が祀ってあります。妙見菩薩は北極星の象徴であり、千葉周作は正に北辰一刀流で
す。
 こうして、鎌倉時代以来、関東と佐賀は深く関係して互いに行き来し、北極星はその
交流・交易の道しるべになったと考えられます。この写真が、地味ですが法華経寺の妙
見菩薩です。
 なお、鍋島直茂は初め小城・千葉氏の養子になり、ために、のち小城の支藩が置かれ
たのです。
 ところで、今日仰いだ重要文化財の五重塔、比較的新しいものですが、最上層は唐
様、下は和様の折衷様で、禅宗と同じです。最上層の垂木を見ますと、大陸と同じ扇垂
木です。
 私は、こうした妙見菩薩やお寺の垂木を見るたびに、中世日本人の国際性を見て心が
広くなります。
 中山法華経寺と葉隠については語ることが山ほどあります。
 

 

返信1返信-1

 2004/3/4 (木) 21:07:50 - 嘉村孝 - No.1078061629.1


(添付1) 1078061629.1.1.1.JPG

五重塔の写真も載せます。
この最上層は扇垂木。その下は、平行垂木ですが、この写真ではよく見えません。

 

二つの武士道を生かす方法

引用

  2004/3/15 (月) 14:10:20 - 山中 - No.1079327245


久しぶりに書き込みします。
二つの武士道を標榜されているわけですが,それが現実の政治にどう生かされるべきか考えまし
た。確かに新渡戸流だけでは問題ですが,どうしたらよいのか・・・。
それにしても,「事務室便り」は「愛読」しています。

 

返信2返信-2

 2004/3/26 (金) 00:59:31 - 嘉村孝 - No.1079327245.2


恐縮です。
先ずは上の「武道通信」の記事をお読みいただきたいです。

その上で申せば、私は近世武士道は中国の都市計画と同様の研ぎ澄まされたけじめに本
質があると思っています。これは、今やわが国の財産でもあります。
しかし、そのけじめの根拠・目標を国民におかず、新渡戸さんの言う天や祖先に置いた
のではむしろ危険な代物になってしまうと思うのです。
つまり、中世武士道の、たとえば北條泰時の「道理」即ち一種の「自然法」を「都市計
画」の上にかぶせること、それが近世武士道と中世武士道との調和だと思っています。

 

返信1返信-1

 2004/3/17 (水) 00:16:57 - 嘉村孝 - No.1079327245.1


ありがとうございます。時間の都合上、少し頭を整理してからお返事します。

 

「武道通信・葉隠入門」、「新渡戸武士道」とは?

引用

  2004/3/26 (金) 00:40:27 - 嘉村孝 - No.1080228435


 「武道通信」に連載の「葉隠入門」第2回が発刊されました。
 近世武士道の代表・新渡戸武士道と中世武士道の名残を残す葉隠との対比を具体的に
記しました。新渡戸さんの大いなる問題点がお分かりになるはずです。
 この二つの武士道をどう調和させるか。それができなければ本当の日本の再生はあり
ません。

詳しくは、武道通信HP「新刊予告」をご覧ください。「購入案内」ダイレクトショッピ
ングからご注文できます。
sugiyama@budotusin.com

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
杉山頴男(ひでお)事務所
http://www.budotusin.com
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 

採用できない「新渡戸・武士道」

引用

  2004/4/8 (木) 11:18:22 - 嘉村孝 - No.1081389719


(添付1) 1081389719.1.JPG

 新渡戸さんの「武士道」が、現代日本の使用に耐えないものであることを、この下の掲示板に
ある「武道通信・葉隠入門」から、ごく一部を抜粋してお見せしておきます。
 是非、本文をご参照下さい。

 ちなみに写真は、サイパン島の沖合い、昔は「軍艦島」とも呼ばれた「マニャガハ島」にある
「明治35年製」の、呉で造られた大砲。ここにこれがあることと、新渡戸さん的発想との間には
深い関係があること、わかりますよね。

「まず、新渡戸さんは、「武士道」を書くにあたり、それより10年近く後に公刊された葉隠は
読んでいないと思います(序文は寄せました)。そのこともあって、彼の「武士道」は、葉隠の
仏教的「大慈悲」とは全く異なる「義、勇、仁、礼」などの「日本的」儒教主義そのものです。
そしてその内容の実証性は極めてあやしいのです。例えば菅原道真の話が出てきますが(岩波・
79頁)、それは、道真が太宰府に流されたあと、「寺子屋」で学ぶ小太郎という子供が主君道
真の子秀才の身代わりに殺されて忠を貫いたというお話。正に歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」その
ものなのです。
(以後は、もっぱら「根拠」も示さない「滅私奉公」そのもの)
・・・
そして新渡戸さんは遂には(我々に)「活力を与えるものは精神であり、それなくしては最良の
器具もほとんど益するところがない・・・。(日清戦争で)旅順において、朝鮮及び満州におい
て戦勝したるものは我々の手を導き、我々の心臓に打ちつつある我らが父祖の威霊である」と精
神主義を説きます(同146頁)。
本誌(武道通信)の読者には大空のサムライ・坂井三郎さんの愛読者も多いでしょうからおわか
りと思いますが、例えば戦闘機はいくらベルヌーイの定理に忠実にし、翼面荷重を軽くしたとこ
ろで、馬力の強い発動機がなければ高速の上昇力は出ません。それなのに「精神力」を強調し、
機体の形等に極限までの精力が使われました。それでもうまくいかないと技術陣がたるんでいる
などと見当外れの叱咤をし、米英との圧倒的な物量の差を精神で補おうとして敗れたのがかつて
の日本軍だったのです(例えば元三菱重工設計課長・曽根嘉年氏の「最後の艦戦烈風設計の秘
密」など)。
ですから、新渡戸流の陳腐な精神主義は、明治から昭和二〇年に至る日本の敗戦の、それこそバ
ックボーンそのものといっても過言ではないでしょう。
・・・
これに対して、葉隠武士道やその理想とする中世の武士道はどうでしょうか。
例えば、戦国武将である鍋島藩祖・直茂は、自分が死ぬに際してこんなことを言いました。「自
分の墓は城の北、多布施に小さなものを作るように。鍋島家の最も手ごわい相手は北方の神代
(くましろ)の残党である。だから北から攻め込まれたとき、主君の墓をそこに置いておけば、
墓が馬に蹴られては、と皆頑張るだろうから、そういう趣旨で作ればよい」と(葉隠に関係深い
「元茂公年譜」)。そして、もちろん彼・直茂は、「蹴られては困る」家来思いの優しい主君で
した。
彼は、ある寒い夜、妻陽泰院と炬燵にあたりながら、「この寒い夜に最も難儀をしているのはだ
れだろう」と話し合います。「百姓は炬燵もなくて大変だろう」と。しかし、「とりわけ寒くて
難儀をしているのは牢屋の囚人のはずだ。藁火にあたることもできず凍えているのだろう」とい
うので粥をふるまい、囚人は泪を流して喜んだという話が葉隠に出てきます(聞き書き三)。
こんな主君なら、家来も「殿様の墓を守れ」と頑張りますよね。
つまりはしっかりした「実」があるのであり、政治的シンボルとしての墓(新渡戸さんご推奨の
水戸黄門やその仲間・保科正之の墓は二千人もで造り上げた、どこやらの専制国家のそれと同
じ)ではない、中身のある戦闘用の実用の墓でもあります。・・・」

 

 

1年前の事務室だより

引用

  2004/4/28 (水) 00:20:22 - 嘉村孝 - No.1083078428


(添付1) 1083078428.1.NEC_0008

トップページにある「事務室だより」の約1年前のものを貼り付けます。
この写真は葉隠の故地ともいえる佐賀の神埼に1200年前から伝わる13(2)年に
一度の大御田舞。
田植えの踊りですが、宮中の雅楽にも近い旋律で、アジア大陸との共通性を覚えるもの
です。
山王さんといわれた仁比山神社の祭りで、「仁」は1200年前の仁明天皇の仁、
「比」は比叡山の比で、正に神仏混交。しかもそれが朝廷とつながっているというこ
と。
もとより勅使下向ありで、これが佐賀の、また、日本の「基底」というべきでは、と思
います。



★5月5日
 東洋のマタ・ハリと呼ばれた川島芳子が、昭和12年に松本で演説したものを信濃毎日
がまとめたものがあります。川島芳子記念室を松本の司法博物館内に作られた穂苅甲子
男氏らが作られた本「川島芳子記念堂報告書」38頁です。
 昭和12年、つまり盧溝橋事件が起きた年、芳子は言い、信濃毎日は解説します。「東
洋のリーダーでなくてはならぬ日本人があちらへわたれば非日本的な日本人に豹変して
中国人をして嫌忌せしめているのです」と喝波し「武士の情け」をもってこそ真の日中
親善が可能である点を力説。更に日本の外交を俎上にのせ、「肺病患者に胃の薬を投与
しているのが現在の日本の対中外交だ」と断じ、直言よく日本人の短所をつくあたり正
に東洋のジャンヌダルク。更に「日本の兵隊は靖国に祀られるのに中国満州の英霊にこ
れなきは」と涙を振るう。云々。正に「日本人たる前にアジア人でなければならぬ」と
大書した彼女の掛け軸のとおりです。もちろん、これを載せた信濃毎日のコメントも素
晴らしい。
★4月25日
 今日の日経の社説を読んでいたら、昨日の麻原裁判について「茶番劇」云々と書いて
ありました。一般の目から見るとある程度当たっているといわざるを得ないと思いま
す。
 私はかつて修習生として立会した三菱重工爆破事件を思いだしました。1976年4月の東
京地裁701号法廷。被告人が入廷し、席に着くか着かないかという時、荒井まり子被告が
「茶番劇なんかやめちまえ!」と叫ぶや机をひっくり返し、法廷で入り乱れての取っ組
み合いがはじまり、傍聴人も全員退廷。
 彼女は未決のまま11年。「未決囚11年の青春」という本がでています。
 その後ダッカ、クアラルンプール事件で相当数の被告人が国外に逃亡したのに首謀者
の大道寺被告は残って死刑判決。撃墜王坂井三郎さんに話したら「敵ながらあっぱれ」
と言われていました。本は「狼煙を見よ」。いずれもサーチエンジンで探せばすぐ出ま
す。
 この裁判は少なくとも途中からは、麻原裁判よりよほどしゃきっとしていたと思いま
す。それを主宰した裁判長は陸軍士官学校出。みんな「気合」が入っていました。
 様々な背景があるし検証が必要ですが、我々世代も先輩から茶番劇と言われるような
ことがあってはならないと思います。
★4月13日
 外務大臣がヨーロッパで無視された、との報道は、いよいよもって日本が世界から太
平洋の一島国としてしかみられていないことを意味します(3月14日の当「たよ
り」)。
 それならそれでもいいや、という見方もありますが、いくらなんでもそれじゃひど
い。何より、お仲間の太平洋の島々は、アメリカの傘の下にあっても、「真の自治」の
ために自らの向上を図っているのです(例えば、北マリアナでも、今はアメリカから裁
判官を輸入している状態ですが、何とか自前の裁判官を、と努力中です)。
 こういう時こそ、日本の病気の根源を探し、本当の意味での「普通の国」になること
が大切であると思うのですが。
 もちろん、単純な国家主義ではありません。病気の体に鎧を着けても仕方がないので
す。
★4月9日
 三国時代の蜀の都、成都には武侯祠があって、諸葛孔明らが祀ってあります。
 その、孔明を祀ったお堂の簾に、敵を屈服させるということにおいて、物理的に倒す
ということは下等の勝ち方であって、戦わずして敵の心を従わせることが上等の勝ち方
である、という趣旨の言葉があります。これは、孫子にも同じ趣旨の言葉があり、空の
エースで64機の撃墜王坂井三郎さんにしてもそうでした。
 最近の日本には、また、世界にも、こうした地に足のついたセンスが欠落しているよ
うです。
★3月22日
 米国によるイラク攻撃が始まり、その正当性として出てきたのがイラクを民主国にす
るという話。しかし、よその国による「押し付け」民主主義は、正に「のようなもの」
ができるだけだと思います。
 我が日本にしても、この博物館にいう「身の丈」を計りながらのものではありません
から、形式的に民主主義といっているだけで、実質的民主主義には到底なっていません
(その具体例として、国会が憲法にいう「国権の最高機関」に本当になっているのかと
いった問題も、上の本はじめ色々なところで書いています。もちろん戦前の日本とは一
応違いますが)。
 一方、そんな米国に賛意を表した小泉氏の言に「国際情勢は複雑怪奇」などというの
が出てきたのにもビックリ。それは昭和の平沼内閣がドイツ・ソ連との関係で自らのポ
カを認め、総辞職した辞任の弁であることくらい「日本史」で習ったはず。
 とにかく、広中さんの言うとおり、ブレア氏と比べても自分の言葉による説明が足り
ないし、堂々と議論に応じるという「武士らしさ」に欠けています。
 その基底に「一言でも矛盾があれば命取り」という近世武士道の「がんじがらめ主
義」があることも事実です。つまり、日本人の精神構造と、法による政治の意味を考え
るべし。
★3月18日
 イラク関係のテレビを見ていたら、遂に出たなと言いたくなるアメリカ人が登場しま
した。そのおじさん、戦争反対の人に向かって曰く「祖国の為に戦争したことがあるの
か。この臆病者め」と。
 この手の発言は日本人にも時々ありますが、そういうことを言う人は本当の戦場には
出ていない人がほとんど。出ていないからこそ生きて帰ってきたんです。
 かつて私に、したり顔で戦争に行ってきたなんて言った人は、呉で訓練をしていただ
けの話。 私の身内がビルマの白骨街道を歩き、東支那海で潜水艦に沈められ、船底に
くくりつけられていた担送患者の頭上に海水が滝のように降り注いで死んでいった話を
したらシュンとなってしまいました。
 まだまだ他にもそんな話はありますが、私はだから何でもかんでも戦争反対のような
ことを言っている某政党のような人間ではありません。急迫不正の侵害には国家として
国民を守る本質から立ち向かわざるを得ないこともあります。
 しかし、2人の子供を戦争で亡くした乃木大将じゃありませんが、いわゆる為政者を
はじめとする戦争の断を下す者は、戦争を生の形でとらえ、自分の子供がその戦争で死
ぬかも、くらいの覚悟を持って威勢のよいことを言うなら言えと言いたいのです(はっ
きり言って、自分や子供を戦争に行かせずに無責任なことを言うべからずです)。
 そうでなければ、第二次大戦で、ビルマの前線では19万人の将兵が死んでいるの
に、後方でごちそうを食べていたシンガポールの南方総軍と同じことになってしまいま
す。
★3月5日
 インフルエンザでダウンしている最中に世の中では色々なことが起きています。
 例えば桶川のストーカー事件の判決。はっきり言ってひどいと思いますが、ただ、公
務員は「祖先や天に高き責任感を有した」なんて言ってる新渡戸式の武士道を奉じてい
るかぎり国民は勝てません。
 基本的に「権利侵害」が賠償責任を生むのですが(現代では法的に保護された利益の
侵害)、この新渡戸流では責任の名宛人が「天」ですから、国民はその反対側にいて、
「権利」まで至らない「反射的利益」以上のものを持ち得ないからです。つまり、武士
たる公務員が天への責任をはたして下さったことによる恩恵だけ。[恩恵をくれなかっ
た]、と騒いでも、「恩恵なんだからもらえなくても違法じゃない」という話しになる。
当然国家賠償は棄却です。
 と、こんなことを書くと、「難しい話」という声が聞こえそうです。
 でも、この話を難しいというのは「撫民」政策のため勉強できない、というより、そ
の気にもならず、権利というと悪いものものみたいに考える性癖が日本人の中にでき上
がってしまっているからだと思います。
 先日あるところで講演した際、やはり「難しい」という声有り。確かにインフルエン
ザのせいか支離滅裂調ではありましたが、まずはご自身の観念を捨ててお考えになって
は、と言いたくなりました。
 そもそも、その「今まで持っていた観念を捨てる」手法がなければ学問も進歩しない
し、本当の勉強にもなりません。

 

中世日本仏教の、幅の広さと奥の深さ

引用

  2004/5/4 (火) 13:20:39 - 嘉村孝 - No.1083644219


(添付1) 1083644219.1.jpg

(添付2) 1083644219.2.jpg

先日お伺いして、大変お世話になったのが群馬県尾島町。
利根川に面する古くからの交通の要衝で、新田一族の根拠地。徳川家の発祥の地ともさ
れたことから千姫にかかわる縁切寺・満徳寺の跡や東照宮があります。中で、何といっ
ても長楽寺は圧巻。
今から約800年前の承久3年(1221)、新田氏の祖・源義重の四男徳川義季が、臨済宗の
名僧で、栄西の弟子である栄朝を開山として招き、東関最初の禅窟として開いた寺で
す。
その三仏堂には、佐賀の葉隠にも登場する鍋島直之寄進の阿弥陀様が。中世、近世と、
九州どころか中国にまでつながる広い交流の跡が見られます。
正面の額は鎌倉時代の後鳥羽上皇下賜のものを写したもの。「顕密禅」とあるのは、開
山の栄朝が三宗兼学、すなわち天台の顕教と臨済禅、そして密教も学ぶことをコンセプ
トにしたためです。そしてこの寺は、この幅広い学問の姿勢を何百年間も持してきまし
た。
「宗教」が世界の問題になっている今、日本のこんな寺のこと、その姿勢をもっとみん
なで考えたいものです。

次の写真は、藤沢市にある時宗総本山・遊行寺にある「敵御方(てきみかた)平等供養
塔」。
大きく「南無阿弥陀仏」と彫られていて、「応永23年10月6日より兵乱、同14年に至
る。
在々所々において、敵御方箭刀(てきみかたやかたな)水火のために落命せる人畜の亡
魂、悉く浄土に往生せしめん故なり。この塔婆の前を通る僧も俗人も十念あるべき者な
り。」と書いてあります。
室町時代の応永23年(1416~1417)、上杉禅宗が鎌倉公方足利持氏に乱を起こし、戦火
は関東一円に及びました.。その時戦死した敵味方、軍馬を弔うために建てられた塔で、
博愛の精神を示す貴重な資料として国の史跡に指定されています。

いずれも中世日本の幅の広さ、奥の深さを感じさせるものではないでしょうか。

 

返信1返信-1

 2004/5/4 (火) 23:34:43 - 嘉村孝 - No.1083644219.1


 1つ訂正。上杉禅「秀」の字を間違えました。
 ちなみに、遊行寺の塔の後ろに見える白い石碑には新田氏のことが書いてあり、尾島
町とのかかわりが記してあります。
 徳川の先祖は、室町時代、遊行上人のおかげで三河に落ち着いた、という話もあっ
て、徳川氏と時宗は深くつながります。

 

先日はありがとうございました

引用

  2004/5/6 (木) 23:30:10 - 今井慶聚 - No.1083853719


 嘉村先生、先日はありがとうございました。長楽寺と佐賀の葉隠れの関係、大変勉強
になりました。私はまだ佐賀県に行ったことがありませんが、今回のことで、佐賀県が
身近になったような気がいたします。時間ができたら訪ねたいと思っております。
 また、嘉村先生の掲示板の長楽寺関係の記、今日、小此木実次さんにお届けしまし
た。いろいろと話が弾み、大変に喜んでくださいました。
 嘉村先生、だんだん暑くなって参ります。体には十分に気をつけられまして、お仕事
に、研究ににお励み下さい。また、中島(山口)先生はじめ、皆様によろしくお伝え下
さい。

 

返信1返信-1

 2004/5/9 (日) 14:06:51 - 嘉村孝 - No.1083853719.1


(添付1) 1083853719.1.1.jpg

こちらこそ、本当にお世話様になりました。
小此木先生は、正に長楽寺の生き字引であられるとともに、全国的視野で考えられてい
る定方先生の後継者ですね。
ちなみに、この写真が長楽寺と関係深い佐賀の安国寺の案内板です。この奥に寺があ
り、江戸時代黄檗宗・即非禅師の遺髪塔もあります。思想史は本当に奥が深いですね。
 
なお、この下の遊行寺の石碑の奥の道、旧東海道ですが、鎌倉街道でもあり、町田、府
中を通って、群馬・新田一族のもとへ。新田義貞の進撃路ともいうべきかと思います。

 

山口良忠判事について

引用

  2004/5/23 (日) 18:24:32 - 今井慶聚 - No.1085303505


 嘉村先生 今井です。先日はご苦労様でした。
 先生にここで一つ意見を拝聴したいなと思いまして、書き込みをしました。
先般、山口良忠判事のことが産経新聞に載っておりました。
私は昭和19年生まれでありますから、「闇米を拒否して餓死した判事がいる」という
話は、子供心に覚えておりました。今まで気にもしておりませんでしたが、嘉村先生や
佐賀の葉隠れの皆様を知ってから、この山口判事が佐賀の人だというので、大変気にな
りました。嘉村先生も、判事をやられ、今は弁護士をやっておられると言うことも聞き
ましたし、何か、葉隠れの武士道に関係でもあるのではないかと興味を持った次第で
す。
 もし、差し支えないようでしたら、山口判事に関するご意見を拝聴させていただきた
いと思います。よろしくお願いいたします。

 

返信1返信-1

 2004/5/26 (水) 00:27:28 - 嘉村孝 - No.1085303505.1


今井様
いやーこの問題は難しいですね。問題そのものは難しくないと言ってもよいと思います
が。
確かに山口判事は佐賀県出身で、80万なにがししかいない県民数ですから何かと世間
が狭くって。おまけに同じ世界の方ですから「霞」以上のご縁がないわけでもない。
で、ごく基本だけ述べることにします。
まず、佐賀の、特に戦前の風土は、葉隠についても近世の官僚武士道と同じに考えてい
ましたから、山口さんもそういう裁判官として、ヤミ米を摘発する事件を担当している
裁判官がヤミ米を食えるか、というストイックな責任感を真正面から身に帯して行動し
た結果、ああいうことになったのでしょう。
 私が昔ご指導を受けた裁判官の話の中に、「裁判官に必要なのは[勇気]だ、などと
いう人がいるが、そんなものは必要ない。弱虫でも泣き虫でもかまわない。ただ、[責
任感]だけが必要なのだ」、といわれた方がおられまさす。正に至言ということになる
のでしょうね。
 この方も福岡の方で、陸士出でした。この発想は明治維新以来の「徹底化された近世
武士道」の「精華」といってもよいでしょう。ここでの「責任」が、「国民への責任」
か否かについては吟味が必要かと思いますが、とにかく筋は通っています。
 が、本当は中世武士道でも同じ結果になるはずです。
 例えば今回の年金問題。事務室便りにも書きましたが、「一味同心」としての「互助
会」に加入していない人がそういう法律を提案するなんて自己矛盾なわけです。つまり
中世武士道の一味同心では、論理必然的に、年金を納めていない人が義務を課すのは変
だし、ヤミ米を食べている人がヤミ米を摘発するのはおかしい。なにしろそういう制度
の「契約者」なのですから。
 しかし、いずれにしても、この問題は近世武士道、中世武士道を通じて、本来、国民
に義務を課す人はどう行動すべきかについて、以上のとおり同じような結果をもたらす
のでしょう。
 それにしても最近はこの「責任」が弛緩しています。中世式でも、不満はあれど近世
式でも、徹底することが大事だと思いますが。
 そしてより広く「裁判官の一貫性」という面から見てみますと、驚くばかり。昔やた
ら「人権」を振り回していた裁判官が、いつの間にやらえらく強権的になっていたり、
非人権的になっていたり(つい最近もそういう判決あり)、あげくは自衛隊違憲などと
いう判決を出した人が勲章までもらっていたり。その逆もあったり。人間の深みという
問題について考えさせられることの多い最近です。

 

1年前の事務室便り

引用

  2004/5/31 (月) 00:21:55 - 嘉村孝 - No.1085929996


(添付1) 1085929996.1.jpg

 トップページの「事務室便り」を貼り付けます。
 写真のアクセサリーは今日、日曜日、柏まで仕事に行って駅そばの神社に参拝。江戸
時代までは神仏混交だったらしく青面金剛などが並んでいる端っこに、鎌倉・室町と思
しき板碑の残欠。こぶりながら中世の信仰を物語る一枚として貼ります。


★6月1日
 昭和60年ころ、ある席で辰巳栄一元陸軍中将にお会いしたことがあります。中将は
ロンドン駐在武官を2度勤め、吉田茂に近く、日独伊の三国同盟に終始反対の行動をと
ったことで有名ですが、当時は旧陸軍の将校団体である偕行社の理事長をされており、
正に知性あふれる好々爺でした。
 戦争が激しくなったころ、学童疎開を推進したことも有名で、これに対して東条英機
首相は「大和魂が大切。国民精神の基盤は家族制度で、疎開など必要ない。死なばもろ
ともだ」などと述べたといいます。本当の家族の絆とは何か、について厳しく対立した
のです。
武士道が2つ以上のタイプに分かれるように、戦前の日本も分かれていたわけで、それ
を単純に日本は悪くない式に言うのは正に「単細胞」であり、建設的でありません。中
将と中尉の違い、陸軍と海軍の違いはあっても、辰巳さんとゼロ戦の撃墜王・坂井三郎
さんとは同じ考えです。私は両方から話を聞いているのですから(坂井さんも佐賀県人
で私が最後の講演会を主催)。何とか若い人にそこをわかってもらい、盲目的な軍事オ
タクみたいにならないでほしいものです。
 ところが、最近の日本の対外姿勢を見ていると、この東条流の声が大きくなっている
ように思えてなりません。東条さんの奥さんは福岡の人で、当時どんな具合だったかは
私もわかります。
 5月10日に書いた古賀大将の言葉と合わせ、もっと冷静にならなければ、と思わざ
るを得ません。その意味で、勝海舟の「氷川清話」や「海舟座談」など読まれるべき本
だと思います。 
★5月28日
 元弘3年(1333年)5月21日、鎌倉幕府滅亡。それに最後まで殉じた御家人を
供養する板碑がいくつかあります。
 埼玉県入間市にあるそれには、中国からの渡来僧で北条時宗の先生・無学祖元が、中
国にいるとき、元の軍隊に踏み込まれた際に発した「臨剣頌」が刻んであります。その
内容は掲示板(3月27日)に書きましたが、鎌倉武士の禅的シャープさと国際性を見
事に示したものとして感動を覚えないわけにはいきません。そもそもこの無学祖元の頂
相彫刻が素晴らしいものです。
 殺戮の時代でもある鎌倉時代ではありますが、こうした彫刻、鎧、刀、どれをとって
も後世が真似できないのはなぜなのか。その答はこの「博物館」に書いたつもりです
が、更によく考えて、今に生かしたいものです。
★5月21日
 会津に行き、たまたま通りかかったのが土津(はにつ)神社。つまり名君といわれる
保科正之の墓。久し振りに寄ってみました。同行の人が「あれ、中国みたいですね」と
言いました。正にそうであって、神葬とはいうものの、実際は儒葬です。明の墓などと
同様の巨大な墓誌があり、それは亀のような動物に背負われています。これは実は亀で
はなく、龍の6番目の息子の贔屓というのであると中国の人から教わりました。「儒葬
と神葬」という本によると2000人以上の人や牛馬を動員して引っ張り上げたなどと
あります(松平家墓所も)。
 以前来たときは、奥の円墳まで登りましたが、冬だったのでまん丸の石がごろごろし
た坂道はひっくり返りそうになりました。正に巨大なお城と同じ土木工事が行われたわ
けです。
 一方、葉隠の鍋島直茂は「わしの墓は敵対勢力に近い城の北に埋めるように。そうす
れば、主君の墓が足蹴にされるのはいやだからというので、家来も頑張るだろう」と多
布施というところに小さな墓を作らせました。
 この、「墓のコンセプトの違い」は、正にこの博物館で言っている「二つの武士道」
の具体例といえるものです。
★5月10日
 佐賀・千代田町の下村湖人記念館で、新資料が11日まで展示されています。湖人は
葉隠の「大慈悲を起こし、人のためになるべきこと」を次郎物語の根幹としている人
(ちなみにご子息様は昭和天皇のSP〈中尉〉から貿易会社社長。親しくご指導を受け
ています)。
 湖人が,山本五十六のあと連合艦隊指令長官になった古賀峯一大将(有田の人。次郎物
語には新賀という名で出てきます)と語ったくだり
 「白鉢巻の薙刀訓練なんか僕の性に合わんのでね」と湖人が自分の考えを述べると、
古賀は「戦争なんかめったにやるもんじゃないよ。遺族がかわいそうだ」「戦争をしな
いための軍隊だということが軍の首脳にも分かっていない」と返答。
 このセンスは4月9日に書いた諸葛孔明の話にも通じ、防衛に携わる人間の忘れては
ならないことと思います。
★5月7日
 連休は、「休」ではなく、仕事で1泊だけ中国・大連に行ってきました。
 遼寧省は今のところサーズもまずまず。あの大きなマスクは一つのカルチャーショッ
クを覚えます。
 興味あったのが、夜の広場で多くの人々が羽根突きと蹴鞠の中間のような遊びに興じ
ていた事(名前を忘れました)。蹴っている対象が羽根突きの羽の大型。1個3元(4
5円くらい)。ミャンマーでは蹴鞠そのものを見たり、タイにもあるとか、いわば世界
共通なんでしょうが、日本文化を見るにしても、日本独自とみるより、世界との関連で
みたほうがやっぱり面白いと思います。
 リンクを張ってある「武道通信」で、以前、札幌の戸部アナマリアさんと対談した時
もそんなことで意気投合しました。

 

葉隠れのテキストは?

引用

  2004/6/10 (木) 10:17:31 - 視聴者 - No.1086830133


 素晴らしいサイトです。
 ところで、葉隠れのテキストを探していますが、どれがよいのでしょう。現代語訳や英文はい
かがですか。

 

返信1返信-1

 2004/6/11 (金) 23:24:54 - 嘉村孝 - No.1086830133.1


 実はよく聞かれるんですが、この質問が一番困るんですよね。適当なものがなくて。
 一番のお勧めは、昭和15年に出て、その後復刻された、「校注葉隠」ですが、最近は古書店
でもめったに見なくなりました。次が岩波の日本思想体系の「三河物語・葉隠」でしょう。これ
は古書店によくあります。ただ、註は前者に比べ不足しています。これ以外の例えば岩波文庫程
度では中々真意を掴むことが難しいと言わざるを得ません。余りにも地方的、土着的要素が強い
本だからです。
 しかし、以上は全文ですからまだよいほうで、抄録本はむしろ百害あって・・の感が強いと言
わざるを得ません。三島由紀夫の葉隠入門などはそのだめなほうの代表みたいなものです。こう
いう新書程度なら、吉田豊さん、森川哲郎さんらが昔出された本を勧めますが、今や絶版。
 その中間で、一応お勧めなのが神子ただしさんの徳馬書店の本。最近文庫にもなったような。
 そして、現代語訳や英訳は、間違いといわざるを得ないところも多いですし、一部しか訳して
いないものも多いので、真意は掴めないと思います。何といっても、「原本」自体、誰が書いた
のかはっきりしませんし、校訂不可能。対象とする時代も長く、矛盾だらけ。そこが面白いとこ
ろでもあるわけで、全部を読まず、現地を見ずでは大いに危険なのだという自覚だけは持って読
むべき本でしょう。
 ちなみに、私は全文を総ルビつきでフロッピーに入れています。どこかで本にしていただけれ
ば有り難いですが無理でしょうか。
 それと、トップページの私の本も、是非(!笑)。コピーを本屋さんへ持って行きご注文を。

 

 

沖縄の戦いから考えること

引用

  2004/6/20 (日) 10:27:42 - 嘉村孝 - No.1087693288


(添付1) 1087693288.1.jpg

(添付2) 1087693288.2.jpg

 6月は沖縄戦の月です。
 数万人の軍人の戦死に対し、守られるべき非戦闘員十数万人の戦死は改めて様々なこ
とを考えてしまいます。
 戦争をしない、という当然の事とともに、明治憲法という枠の中で、指導的立場にあ
った政治家や軍人の行動や生きかたに問題はなかったかも含めて。
 写真は、日本軍の組織的戦闘の最後の地・摩文仁の丘からの眺めと、そこにある牛島
満第32軍軍司令官、長勇参謀長の自決の壕の入り口です。
 長参謀長といえば、十月事件の首謀者の一人で、いわば上からの政権交代を意図した
人物。そうしたことを画策した人はここで何を思い、あるいは考えて自決したのか。
 わずかの人が政権を壟断できるシステムは、その人が命をもって責任を取るとして
も、余りにも多くの犠牲を伴う、とも思います。
 今の世の中はそうではないシステムのはずですが、運用においてそうでは困るし、ま
してや責任が取られないようでは、正に奇怪なシステムといわねばならないでしょう。

 

返信2返信-2

 2004/7/9 (金) 22:22:55 - 嘉村孝 - No.1087693288.2


 石井さん
 ありがとうございます。
 島田知事は佐賀県警察部長の時、私の祖父も忠霊塔の件でお世話になっておりまし
て、昔から話を聞いております。
 産業組合の運動家で、村長、県議などをつとめていた祖父は、村に忠霊塔の建立を企
図しましたが、当時は
内務省の通達で簡単には建てられなかったそうです。その時の島田さんとのやり取りは
なかなか面白いもので、真崎甚三郎大将揮毫にかかるその忠霊塔は、戦後、米軍をはば
かっての倒壊問題も乗り越えて、今も納骨式の塔として建っています。

 おっしゃるとおり、沖縄戦での島田さんのことは色々なところで取り上げられていま
すが、最後、不明になる時点でつき従ったのが当時の警察部長だけだったという話に、
益々かわいそうなものを感ずるとともに、個人の倫理観(これは美濃部達吉の「行政法
撮要」にある官吏の根本的理念の言葉)に余りにも依存するシステムは悲劇を生むとと
もに、その有効性に問題を感ぜざるを得ないわけです。
 立派な島田さんのような人を皆で支える社会にすることが大切ではと思っています。

 

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 2004/7/8 (木) 13:05:28 - 石井平五郎 - <nabeshima_ishii@yahoo.co.jp> - No.1087693288.1


嘉村先生、ご無沙汰しております。

話しはややずれますが、沖縄戦前夜に沖縄県知事として赴任した島田叡氏。彼は、佐賀県警察部
長在任中、佐賀市赤松町の龍泰寺で開かれていた「西郷書院」に参加し、当時の住職佐々木雄堂
から、『南州遺訓』と『葉隠』に大きく影響を受けたそうです。

エリート官僚たちが、いずれ戦火が及ぶであろう沖縄県の知事への就任を断り、また、現職知事
ですら、戦火が及ぶ前にだだをこねて離任するという状況下、その任を引き受け、県民と生死を
ともにせんと敢然と赴任したのが島田知事でした。そのとき、知事が携えていたのが、佐々木氏
が贈呈した『南州遺訓』と『葉隠』の二冊だったそうです。結局、盟友の警察部長とともに、最
後まで県民とともに行動し、最後は戦死を遂げたそうです。軍部の牛島司令は、「あなたは文官
だから死ぬ必要はない」と諌めたにも関わらず、知事はそれを受け入れず、最後まで知事として
の責務をまっとうしようとしたところに、私は感動しています。

詳しくは、『沖縄の島守~内務官僚かく戦えり』(中央公論)田村亮三著に書かれています。

葉隠 現代語訳 完訳できました

引用

  2004/7/13 (火) 20:41:45 - 野村源左衛門 - <メール送信> - No.1089716323


はじめまして。野村です。
すばらしい、ホームページですね。今日、偶然見つけ、立ち寄り、喜んでいます。
まだ、すべて読みきれていませんが、ぼつぼつ読んでいきたいと思っています。

ぼくの生業は広告コピーライターです。縁あって、十年来、葉隠の世界の深みにはまっ
ています。

さて、昨年よりほぼ一年をかけ、このたび葉隠を全文、現代語訳にしました。
現在、発行されている現代語訳では、作家、松永義弘さんの教育社出版のものが
「全訳」と銘打っていますが、結構省略されています。完訳ではありません。

この掲示板でも、「ベストなテキストは?」との質問がありましたが、
実はぼくも、長年捜し求めてきました。が、結論は「ない」…。

それで、「なければ、自分がつくってしまえ」と思い立ち、
20年間の会社生活をやめて、丸一年間、翻訳作業に没頭し、今年五月に完成しまし
た。

底本は、岩波文庫です。現在、本にすべく、日々出版社めぐりをしています。
出版事業は難航していますが、必ずどこかから出します。
少し時間はかかると思いますが、気長にお待ちください。
すべての葉隠ファンの皆様へ。

 

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 2004/7/13 (火) 23:07:33 - 嘉村孝 - No.1089716323.1


野村様

はじめまして。
20年間も勤めた会社を退職されて現代語訳とはすごいですね。外国の方から質問されたとお
り、葉隠の訳は本当に難しいと思います。
奈良本氏の日本の名著の一冊などにも省略がありますし、仏教を前提にすると適切でないな、と
思われる部分などもあります。

よき、現代語訳が早く出版され、世の中の人の誤解が解かれることを祈ります。

1年前の「事務室便り」

引用

  2004/7/15 (木) 22:31:35 - 嘉村孝 - No.1089897875


(添付1) 1089897875.1.jpg

 トップのページに連載中の「事務室便り」の1年前のものを貼ります。1年というと
色々なことがあったな、と思います。
 写真は、鎌倉・名越の大切岸。鎌倉時代、北条氏が三浦一族に備えて造ったものとい
われる絶壁。800メートルにわたるといわれますが、周囲全体が防御施設です。
 鎌倉といい、もちろんその他も、「地べた」自体奥が深いなと思います。


★7月26日
 数十メートル四方を制圧するには一定の火器をもった兵士1人が必要で、海・空に対
し、比べ物にならない数の陸上自衛隊員が日本にいるのはその故です。最後は陸軍が押
さえるのです。
 しかして、イラクの現状では当然たくさんの兵士がいなければ「おさまり」はつきま
せん。
 その中に自衛隊員を派遣する議論につき、安全かどうかわからない、などというのは
正に暴論。坂井三郎さんの「大空のサムライ」「ゼロ戦の真実」でも読んでみれば、国
家は先ずは戦闘員を守れることが前提であることを深く認識するはずですから。
 旅順の203高地には乃木大将の亡くなった息子さんの死地が示してあります。余り
にも真面目すぎのような乃木大将ではありますが、司令官としての責任は今の政治家に
その万分の1でも学ばせたい点です。
★7月25日
 仕事で静岡へ。ここでいつも思い出すのが「地名」。元々ここに賎機山(しずはたや
ま)はあっても静岡はなかったはず。他県もそうですが、明治政府の行った人工国家作
りの代表のようなものです。
 現代でも「平成町」みたいな無味乾燥の地名作りが先人の歴史・文化あるいはむしろ
機能を無視して行われているのはその延長でしょう。
 しかもそれが海外についてもかつては行われました。これじゃ現地の人が怒り出すは
ず。
 そこへいくと、日本人はやはりおとなしいということでしょうか。その原因もこの博
物館に書いてあります。
★7月20日
 連休の1日、鎌倉国宝館を訪ねると、外国人の先生が他の外国人に説明されているの
に遭遇。板碑に彫られている仏像やその光背について、ギリシャとの関係など述べてお
られました。
 正に、日本の仏像も、アレキサンダー大王の東方遠征などにより、いわゆるヘレニズ
ム文化の影響を強く受けていることは明らかです。特にガンダーラ系はそうでしょう。
 こうした話、どうしても外国人の方が広い見方ができるように思えてなりません。
 逆に、「武道通信」の戸部アナマリアさんとの対談でも述べましたが、日本有数の学
者(とされている方)が、日本文化は他との関係なく成立した人類の奇跡である、みた
いなことを言われているのには、真にビックリしてしまいます。視野を広く、と言いた
いですね。
★7月17日
 小原直回顧録を久し振りに紐解きました。
 大逆事件や2・26事件など数々の大事件に関与した検事で、無罪の論告をしたとも

われます。そして、司法大臣や戦後の法務大臣も歴任。
 こういう人と同じような人が今の検事の中にいるのだろうか、といっては失礼かもし
れませんが、むしろ構造的にいない、つまり存在し得るような仕組になっていないとい
うことでしょう。
 明治憲法は公務員を天皇の官吏とし、「拷問など中古の断獄は歴史上既往の事跡とし
て現時に再生することを得せしめず」としました。現実には様々の問題があって、建前
どおりはいかなかったのですが、一応の基軸が立っていたのです(理解しにくいかもし
れませんが、中古の断獄云々は軍人勅諭と同じ歴史認識です)。
 現代において基軸を立てるなら、中世を否定する軍人勅諭型はこの博物館に書いたと
おり御免で、民主主義・全体の奉仕者ということですがその真意の国民への徹底がいま
だし、という点が、正に構造問題の本質と思っています。
★7月12日
 長崎の12歳少年による殺人事件についての鴻池大臣の発言が問題になっています。
被害者には本当にお気の毒と申し上げるしかありませんが、一方あの大臣の発言はこの
博物館で取り上げている儒教武士道のマイナス面そのものと言わざるをえません。
 「市中引き回し」なるものは「中世の死の思想・・」で取り上げた中国法が大好きの
徳川吉宗の発想です。公事方御定書が秘密法典なればこそ皆に知らしめるための引回し
をしたのです。
 また、「祖先・お天道様に申し訳ない」は、度々書いている新渡戸さんの岩波文庫5
0頁にある「祖先や天への責任」の発想です。新渡戸さんはここで、封建君主は領民に
は責任を負わなかったが祖先や天に高き責任感を有した、と書きます。しかしそれでは
国民は「権利」を持ちえず「反射的利益」以上のものを持てません。勿論、政治参加な
どなし(ちなみに「中世の・・」では神戸の事件を取り上げました)。
 お役所時代、相当数のこうした事件に遭遇した私の経験からは、単なる勧善懲悪でな
くなるような話とは思えません。むしろ、プライバシーには配慮しつつ問題をオープン
にして、
個人だけでなく社会そのものがこうしたことを防ぐ国家の枠組みを作る問題であること
(つまり国民が権利と責任を持つ国家像)を考えてほしいものです。
★7月10日
 陸軍中将谷田勇さんの「龍虎の争い」が「実録・日本陸軍の派閥抗争」と表題を変え
て複刻されていることは喜ばしいことです(本屋さんで発見。展望社より)。
 昭和史におけるいわゆる皇道派、統制派の対立を、いわば人間の肌合いの差にまで踏
み込んで、比較的公平に書いているのではないかと思うからです。興味本位で読むので
はなく、戦前の日本に深刻な路線の対立があり、その選択の誤まりが、よりひどい結果
つまり巨大な戦争と敗戦をもたらしたことを知るためです。特に「日本は悪くなかっ
た」と単純な「日本」一本で考えている若い人に有益。
 あたかも今日、霞ヶ関を歩いていたら日教組のデモが行われていました。そのシュプ
レヒコールは相変わらずのもので、これでは憲法も贔屓の引き倒しです。6月10日に
書いたとおり、きらいな言葉ながら、「右も左」もともに単純であることが、日本がこ
れから進むにあたり、どこに基軸を置いたらよいのかわからない悲劇の原因と思いま
す。
それから抜け出すために、こうした本を読みましょう。
★7月5日
 10年位前の時事通信の連載に、日本はシンガポールとマレーシアとが一体になった
ような国(現に戦後一時、両国は一体)と書きましたが、最近益々そんな気がしてきま
した(イラクの話など見ていても)。もちろん、シンガポールは東京で、クアラルンプ
ールが大阪です。
 戦後の日本はシンガポールのような綺麗な国になりたいと、国会議事堂の周りにして
も、一生懸命片付けを行い、私の知る東南アジアの外国人は「日本は綺麗ですね」とみ
んな言います(時にはこわいくらい、とも)。最近は、中国や台湾もそれを見習う雰囲
気があります。
 しかし、シンガポールで汚す行為に厳しい刑罰があるように、また、マレーシアで
様々な人権侵害が指摘されているように、正に専制的にそうした綺麗な国が作られ、国
民は従順にそれに従わされていることも事実でしょう。先日、マレーシアから来日して
いる人にそうではないか、と聞きましたらそのとおりと言っていました。日本のマスコ
ミの多くはかの地の指導者を大いに持ち上げますが、そうした「名君」が国民の力をそ
いでいる事、その底に大きな東洋の思想の流れの一つがあることを忘れてはならないと
思います(もちろんシンガポール等、英国の影響あり)。
★6月28日
 最近のイラクにおける米英軍の戦死者の増加を見ていて思い出すのは第1次大戦以後
(1918年から)行われたシベリア出兵です。
 これは多数の国の武力干渉でしたが、結果的に「無名の師」といわれ、何ら得るとこ
ろなく、いわば無駄死にを累積させただけでした。
 大量破壊兵器を除くためとか言っても結局は出てこず、大義名分がぐらついているの
は、チェコ軍を救うため、とか言いながらうやむやとなり、石油利権に似た領土的野心
も結局は遂げられなかったその出兵の日本や諸外国の対応・結果とよく似ています。
 しかも、それにより最大の被害を被ったのは現地住民であり、干渉した諸国の戦闘員
です。
 今回、かつての日本の役回り、米国の役回りはそれぞれ異なりますが、日本が同様の
状況に置かれ、「第二の無名の師」になることは御免被りたいものです。正に「歴史に
学べ」でしょう。
★6月25日
 「鎌倉ー禅の源流」展でもう一つ感激したもの、それは「三笑図」です。これはたく
さんの同様の絵が作られていますが、展示されたものは室町時代とはいえ、その形式は
相当古い方ではないでしょうか。
 東晋の僧慧遠は廬山の東林寺に籠り、客を送っても虎渓の石橋を渡らないという誓い
を立て、30年が過ぎました。あるとき、儒家陶淵明と道家陸修静が訪ねてきて、すっ
かり話し込んだ慧遠は、つい誓いを忘れ、橋を渡ってしまって、三人で大笑いになって
しまった、という図です。 この絵には儒仏道の三教合一の意味が込められています。
中国でも長年にわたってこれら3教のあつれきがあった一方、それを習合しようという
動きもありました。
 現今の世界では同じ神を崇めながらキリスト教とイスラム教のように敵対する厳しい
姿が見られます。こうした事象に、この三笑図は様々の示唆を与えてくれます。また、
戒といい、悟りというものの意味についても寓意をもって迫ります。意味深い絵です。
★6月22日
 寸暇を見つけて一時間だけでしたが上野の国立博物館で「鎌倉ー禅の源流」展を見て
きました。つくずくと鎌倉時代の持つ国際性と奥の深さを感じました。
 鎌倉は京都に比べれば規模は小さいのですが、特にそこで学んだ僧の法系が足利氏や
朝廷との関係で京都に及んでいることを考えると、鎌倉・京都、そして博多は広く一体
で考えないと本当のことが分からないでしょう。
 それどころか、中国との関係は絶対的で、今回見たかった無準師範の像など、その日
本に及ぼした影響を考えると正に感動的です。特にそれら頂相彫刻や絵の、真に迫った
姿は、仏像彫刻の衰退を補う迫力があり、それはやはり「深く考える」という禅の所産
のような気がしてなりませんでした。
★6月19日
 地方分権が大きな問題として浮上しています。江戸時代は正に分権のようですが、家
光以後はこの博物館に書いたとおり相当な中央集権になりそれがわかる一つの例が東照
宮かと思います。
秀忠が日光に造った東照宮は天海によってこの博物館で時々ふれる群馬県尾島町に移築
されました。古色を帯びた、規模は小さくても立派なものです。それに対する家光の東
照宮は、ご承知のとおりです。
そして、家光というと慶安のお触れ書き。その内容は、「公儀ご法度を怠り、地頭代官
のことをおろそかにせず、さてまた名主、組頭をば真の親と思うべきこと」など、お前
達は静かにしていればご飯が食べられるんだからいいよな。みたいなもの。後の綱吉の
先駆です。
 これじゃ武士道の方も変質したんだろうな、と思うのが正常でしょう。本来、「農民
は武士」だったのに、ここでいよいよ「農民意識」が植え付けられ、従順なお百姓にな
ったのです。
 そして、武士は偉いのであり、その代わり間違いがあれば切腹してわびなさい、とい
う近代武士道観が生まれたわけです。
 本当の地方分権のためには、ここの意識改革が伴わなければなりません。そして、そ
のためにはここでも、団体自治(地方分権)、住民自治(民主的運営)という「憲法の遵
守」が必要なのです。まぜならこれらの規定の実現には国民のしっかりした「個」の確
立が前提になるからです。
★6月14日
 このところ固い話が続いていますが、尻切れトンボもよくないので、もう1つだけ。
6月10日の話を理解いただくには5月5日の川島芳子の話がわかりやすいかもしれま
せん。
 彼女は蒋介石の軍隊、つまり国民党の政権によって殺されました。というのは、台湾
に行ってみるとわかりますが、その政権は、中国領として今のモンゴルまで考えていま
す。そうなると、モンゴルを独立させたなんて正に裏切り者、というわけなのです。
 でも、2度にわたる満蒙独立運動は、当時世界的に盛り上がった民族自決の企てであ
り、現在も内モンゴル自治区が中国に置かれていることは、その自決の考えと勢力に沿
う日本の政策、つまり万里の長城を越えずに周辺を納得させる政策が有り得たことを指
します。荒木・真崎はそれであり、A級戦犯の武藤章や東条さんらは反対です。だから
こそ、昭和17年の満州国10周年に、荒木大将は自分らの理想と違うといって出席し
ませんでした。
 川島芳子の憤りもそれであり、彼女の悲劇もそこにあります。彼女をばかな女のよう
に扱う小説家は、全く論理を分かっていない。
 そこをしっかり分かることが日本の本当の間違いを知ることにもなり、単純な見方に
決別することにもなるのです。
★6月10日
 先日、日曜出勤して、夕飯を食べようかとラーメン屋さんに入ると、旧知のk先生に
出会いました。先生も法律の先生で、私の大学の元講師仲間。お父さんは衆議院議長を
務め、東京裁判の副弁護団長。と言えば分かる人には当然分かりますよね。
 話は、近くで起こった226事件のことに及びました。よく、真崎甚三郎大将が黒幕
だ、なんていう俗説がはやりますが、互いに「とんでもない」で意見一致。およそ水戸
学的武士道観、つまり天皇陛下は聖明であり、その君側を倒せば維新成就と思っている
人間にだれかをかつぐなんていう発想はありません(聖明が発揮されるだけなんですか
ら。そのくらい当時の青年将校は純粋だったんです)。5・15の先駆小沼正が現代史
資料で述べているところや、昨年亡くなった青年将校の生き残り・池田俊彦さんの書か
れたものなど参照。こんな実は簡単なことまで、武士道観の違いという「論理」が分か
らないことから歴史認識に過誤が生じるなんて本当に残念です。この「論理」で考えな
いのが6月1日に書いた「単細胞」です。
 そして、「昔の日本は悪くない」みたいに「日本」と「一つ」にしてしまって、その
中が2つに分かれていたことを考えない単細胞の見方は、日本人の針を右へ左へと大き
く振らせることになります。つまり、「一億総ざんげ」か、「悪くない」かです。最近
の若い政治家にネオ・コンサーバティブが多いというのもそういうことでしょう。右
翼・左翼なんて言葉は死語と思っている私ですが、昔左翼で、今右翼なんていうのはま
ず信用できません(それが日本の枢要な位置にいる点が問題。私達が学生のころは、昔右
翼で、今左翼が多かった)。
 派閥の名で言うのは不適当ですが、昭和史のいわゆる統制派(東条さん、その一派)、
皇道派(名前が不適、荒木、真崎)の政策の違いを時の人の生の声を聞いて考えてみる
べきです(評論家の書いているのは相当な誤りあり。また「生の声」だからといって全
て信用はできません)。
★6月7日
 6月1日の話を敷延し、本当に偉い人(つまり武士道の人?(笑))は、戦争にどう
「負けた」のかを海舟の話をもとに考えてみます。
 海舟は日清戦争における山東半島・威海衛の海戦で敗れた清国の提督・丁汝昌につい
て、彼が、将来の清国を託すべき200名からの有為の部下を救い、また、諸国の干渉
を排除して自殺の道を選んだことを「丁汝昌の境遇の如きは部下には数年来苦心養成し
たところの他日中国海軍の要素たるべき200名の秀才があり、傍らには面倒なことを
言い出す雇い外人あり、これらの処置をつけねばならぬ。倒れるまで奮戦しようとすれ
ば10年素養の200名を殺さねばならぬ。それで降参しようとすれば自分の良心がどう
しても許さない。そこで丁は沈思黙考中国海軍の将来を慮り、自分の面目も立て、かつ
は雇い外人との義理から一身と軍艦とを犠牲にして顧みなかったのだ。・・丁の処置は
実に戦闘力を失った艦長の取るべき模範を示しただけでなく、しょうじょうたる海戦史
の秋の野に一点の紅花を点じたのだ」と言って評価しています(氷川清話)。
 「死なばもろとも」などと言っておきながら、部下を死なせて自分は死ななかった、
あるいは国の将来を託すべき学童の疎開にも反対するなどということがあった第二次大
戦時の政治家の話と海舟の言うところとを比べてみれば、何が本物で、我々がどうしな
ければいけないのかは自然に明らかになることでしょう。兎に角、よーく事実を見よと
いうことです(イラクも同じ)。
 ちなみに、威海(旧威海衛)やその近くで、私の祖父が第一次大戦においてドイツへ
の攻略戦に参加した青島も、今や最先端の都市として発展しています。丁汝昌の思いや
いかに。

 

アクセス100000件おめでとうございます。

引用

  2004/7/30 (金) 00:32:47 - NISHIGORI - <メール送信> - No.1091114673


今日フト何を感じたか昼休みにこちらへお邪魔しました。
そうしたら、アクセスカウンターが、99999でしたので、瞬間、反射的に「更新ボタ
ン」を「クリックしていました。
このような行為は罰せられるのでしょうか?
密かに「キリ番」をねらっていた方がおられましたら、ゴメンナサイ m(__)m。

さて、ともかく100000アクセスおめでとうございます。
(これをカキコむために開いた時は、もう100090になっていました。)
今後の発展に期待しています。

 

返信1返信-1

 2004/8/6 (金) 17:33:33 - 嘉村孝 - No.1091114673.1


いやー、遅くなってしまい、すみません。
何かと立てこんでいまして。
年金問題の専門家にして、最初からリンクを張っている錦織さんに決定的瞬間を味わっていただ
き、うれしいです。
これからもどうぞ宜しく。 

 

広島・長崎の季節

引用

  2004/8/8 (日) 12:14:19 - 嘉村孝 - No.1091933929


(添付1) 1091933929.1.jpg

明日は長崎に原子爆弾が投下された日です。
少々、写りがわるいのですが、これがテニアン島にある、B29が原爆を機体にセット
した場所です。
左に見える白い碑の後ろに3メートルともいわれる穴を掘って積み込みました。
その後、穴は埋め戻され椰子が植えられていますが、大きく育たないとのこと。

テニアンに原爆を運んだ巡洋艦・インディアナポリスも日本の潜水艦に沈められ、沢山
の人が亡くなったことは以前書いたとおり。

テニアン島には今も沢山の遺骨が収容されることなく眠っています。

日本の感覚からは「何もない島」ともいえるテニアンですが、日本にないものが沢山あ
ります。

 

円月殺法の由来

引用

  2004/8/21 (土) 23:28:06 - たけのこ女神 - No.1093098440


 無双正宗の眠狂四郎が使うこの無敵剣法は
瀬戸内海の小島で、老兵法師から伝授された
ものということになっている。この老兵法師
の先祖は出雲尼子の家臣だったということに
なっている。
 島根の郷土史家は尼子氏の居城広瀬町に
かつて神業月の輪斬りという剣法が存在して
いたというこれが転じて円月殺法かと考えて
いるそうだ。
 この広瀬がある安来地方では夏祭りに「
月の輪神事」という1000年以上もまえから
つづく催しがあるが、おそらくはこれから
ちなんでつけた名前と思われる。
 同地方では今でも日本刀の原料となる
和鋼(玉鋼)をたたら製鉄で製造している
唯一の場所らしい。またこのたたらから
発達した近代製鉄工場が最新の鋼を製
造している。また、この地方近辺に、国
宝「童子切り」とう最古の名刀で知られた
刀匠安綱の工房もあったと伝えられて
いる。いずれにしても、美麗強靭な日本
刀に縁が深い品格の高いところである。

 

返信1返信-1

 2004/8/25 (水) 00:14:46 - 嘉村孝 - No.1093098440.1


ありがとうございます。
私は、広島県芸北町に2度ほど行きましたが、そこは私の田舎以上の(失礼)田舎でし
た。
どうしてこんな山の中に人が?といぶかっていましたら、「牛鉄」でしたか「鉄牛」で
したか忘れましたが、多々良製法の鉄採取を失敗した場合にできる鉄さいの塊が記念品
として置いてあるところに出会いました。
良質な砂鉄と木炭の宝庫であったわけですね。
石見銀山にも近い。
尼子氏もこうした軍需品をめぐって毛利氏との争いをしていたのだな、と感じました。
それにしても、現代でも可部線の一部廃止などの中で奮闘されている地元の人々には頭
が下がりました。

 

1年前の事務室便り

引用

  2004/8/29 (日) 10:47:47 - 嘉村孝 - No.1093743309


(添付1) 1093743309.1.jpg

(添付2) 1093743309.2.jpg

このサイトのホームページ(トップページ)にある「事務室便り」の1年前のものをは
ります。
2つの写真は、韓国の慶州にある佛国寺とソウルの大法院(最高裁判所)の正面の写
真。
仏国寺は、世界遺産の立派な寺ですが、秀吉の戦争で仏閣は焼き払われ、その傷は今も
癒えません。
そのような国の首都にある大法院の正面に「自由・平等・正義」の文字があり、民族の
服を着た「正義の女神」があることに、「民族主義と民主主義の融合」を見る思いがす
るのです。詳しくは私の本をご覧下さい。


★9月5日
 7月10日の本欄で、陸軍中将谷田勇さんの「龍虎の争い」が「実録・日本陸軍の派
閥抗争」と表題を変えて複刻されていることを紹介したところ(展望社)、大正生まれ
の元軍人の方からメールを頂戴。
 「非常に良い本ですが、上手に世を渡った人との感想を持ちました」とのこと。
 いわれてみればそういう面もあるでしょうが、あの時代に、また、その組織で、言い
たいことを言ったりしたりしたとて、正にドンキホーテ。あるいは2・26事件前の相
沢中佐と同じ運命ではと思い、私は少なくともこの本の価値・意義は大いに認めたいと
思います。
 しかし、幾百万の兵隊・戦死者は「幹部の人間がそこまでわかっていながら、なぜ
我々をあのような戦争で死地に駆り出したのか」と言いたくもなるでしょう。ビルマの
戦史には「愚戦」という言葉まであります。そういう声こそ本当の魂の叫びであること
を忘れてはならないと思います(靖国神社の議論でもそこが大事)。
 だからこそ、今も昔も変わっていない国の仕組自体を変えることを考えなければなら
ないのです。つまり、自由にものが言えて、本当によい案が採用されるような国の組織
になるよう。
★9月1日
 港区の神谷町へ行ったので、近くの愛宕山に登ってみました。といっても、エレベー
ターがあるのです。曲垣平九郎もビックリ。
 愛宕権現といえば戦の神、というか仏様みたいなもの。葉隠にも出てくるので、どう
なっているのかな、とみてみると、明治初年の神仏分離でやや怪しい状態に。勝軍地蔵
は壊されたとか、秘仏とか、はっきりしませんが隣のお寺に復活した馬上のお地蔵様が
おられました。昔は寺と神社がいっしょだったのです。そして一つの信仰の理屈があり
ました。
 つまり、この勝軍地蔵の信仰は、地蔵信仰の最後の段階で、長い歴史とアジア全体に
つながる広さとかかわりを持っています。
 偏狭な国粋主義は正に文化と思考の破壊。葉隠でも鍋島一国主義から愛宕権現につい
て否定する記事がありますが、そこはいただけないところです。
 なお、近くのお寺には南北朝時代の板碑が建っていました。どこにでも歴史はありま
す。
★8月29日
 宅間被告に対する死刑判決が出ました。
 私は、刑罰としての国家による殺人には、掲示板に1年前に書いたとおり懐疑的です
(ただし、国民を守るための、やむを得ざる、行政警察的・民主的な、粛々とした、人
の命を奪う行為は肯定せざるを得ないし、むしろそれによって国民が救われるケースが
あったと考えることも一緒に書きました)。
 しかして、今、死刑を廃止すれば、少なくとも一時的にせよ殺人事件は増えるような
気がします。正に国民のレベルの問題です。となると、やはり()内に書いたとおりの
「国民を守る国家」であれば、死刑廃止には相当な考慮が必要です。
 この点は、立法機関の行政裁量的問題、つまり立法裁量の問題であり、国会議員がし
っかりすべき分野と思います。例えば、政策的には死刑の執行猶予を規定した国もある
わけです。また、無期懲役はあっても終身刑がないのも問題。色々な立法があってしか
るべきではないでしょうか。もちろん世界では死刑存置国が遥かに少ないわけです。
 こうした点に頭を働かせることができない国会では本当に困ります。
それにしても親鸞は「わが心のよくて殺さぬにはあらず。また、害せじと思うとも百
人・千人を殺すこともあるべし」と言いました。宅間被告のような人間にとりあえず生
まれていないことを感謝することも大切な気がします。
★8月25日
 昨日はようやく夏らしい暑い日曜日。片道2時間半かけて埼玉県の寄居まで現地の視
察に行ってきました。小川町や男衾といえば「男衾三郎絵詞」を思い出す武蔵七党の本
場。線路から見える景色に「中世」を感じ、楽しくなりました。
 そして、寄居には戦国時代の北条氏邦の居城・鉢形城をはじめとする数々の城が。
 荒川の断崖に立つ鉢形城は田山花袋の「襟帯山河好し、雄視す関八州、古城跡空しく
在り、一水なお東流す」の詩碑でも有名(ただし、残念ながら時間の関係でそれは見る
ことできず)。
 虎口(城の入口)の造りや、土塁、深い掘り切りがよく残り、もう一度、しっかり訪
ねてみたい城でした。
★8月21日
 三宅雪嶺の「武将論」を読みました。昭和13年に出た本ですが「人が軍部をはばか
り、言いたいことを言わぬとて、それで何から何まで軍部に威服しているとしてはなら
ぬ。道理はどこまでも道理としてとおるようにするのが帝国の民心を鼓舞し、勇んで国
力の増進に貢献せしむるゆえんである」とあるところなど納得。
 一方、最近編集長の飯塚昭男さんが亡くなった「選択」の記事をみていたら、三宅の
娘さんが東条英機に反対し、自決した中野正剛の妻であることを発見(新聞社の関係
で?)。正剛は言わずと知れた福岡玄洋社の関係者。また、三宅、荒木貞夫大将らが互
いに勉強会を開いていたことを「選択」の記事「古典からのめっせーじ」で知りまし
た。
 戦前、日本の行く末について、大きな二つの流れがあったことを強調しましたが(6
月14日とかの記事)、その流れはやはり人間の趣味の違い、もっと本質的には肌合い
の違いによったような気がしてなりません。上記のようなことを言った三宅、東条首相
に抗した中野、満州国の現状は五族協和に遠いとした荒木。これらは一くくりにくくれ
ます。
 ところが、昭和6年ころの荒木陸軍大臣時代の人事について、派閥色が濃いとして批
判する昭和史の本が相当流布しています。この人達は、教科書的な項目的知識はあって
も、一人一人の人物の思想が分かっていない。荒木人事は満州事変後の、それを起こし
た派閥への掣肘なのにです。つまりは後の誤りの芽を摘むものだったのです。
 逆に226事件後の寺内寿一大臣の人事は上記と同傾向の人々を追い落とし戦争を起
したというべきでしょう。それに抵抗したのが浜田国松代議士の「腹切り問答」。三宅
の言もこの時期。
 では、上記の人と、そうでない人とはどう違うかというと、表面的には人情味のある
人、無い人、悪い意味での官僚臭の無い人、ある人、といった風に分けられるでしょ
う。何より大切なことは、人情味のある我々(?)のような普通の人が、無い人を偉い
人と勘違いし、誤った行動をすることでしょう。正に、歴史は「心理学」でもあるので
はと思います。
★8月17日
 8月15日前後は様々な戦争に関する番組が組まれました。ガダルカナルを日米両者
から撮ったものは坂井三郎さんのことも思われ深刻。
 更にロンメルを主人公にして、ノルマンジー上陸作戦を扱ったものは実際に見たこと
もあるサイパンやグアムとの防御陣地のコンクリートの厚さとの差に改めてため息が出
ました。あのノルマンジーの鉄壁ともいえる守りをたちまち打ち砕いたアメリカと、あ
の薄い厚さの施設で戦ったのかと。それは戦車の装甲の厚さの差に勝るとも劣らないも
のものです。
 それから飛んで、昭和初期の日本には臥薪嘗胆なんて言葉は実際上死語になってしま
っていたんだなとも思いました。今の日本にも、あらゆる意味でこの言葉は大切なよう
な気がします。いわば国家が「切れた」のがあの戦争ともいえますから。
 ちなみに私の小学校の担任の先生はガダルカナル奪回に関わるソロモン海戦の生き残
りでした。我々はこういう二次的(戦争)世代の最後かもしれません。二次的ですから
正確とはいえないことを自覚しつつ、一応貴重な経験ではありますから、後世に伝えな
ければと思います。
★8月12日
 夜11時からの「大地の子」を見ていました。国家と個人との関係や、人間の感情は
万国同じだな、と思っていて、ふとチャンネルを回すと、サッカーの通訳で有名なフラ
ンス人フローランさんが、日本の先生とユーモア談義中。
 先生の方は、イギリスのおもしろ話もアメリカへ持っていくと人間の感情がちがうの
で、「受ける」ためには話の筋を変えなきゃいけないという例があった、と言われてい
ましたが、フローランさんは、最初はわからなくても人間の感情は万国共通で必ずわか
る、筋を変えるのはよくない、と。
 私はやっぱりフローランさんの姿勢に共感を覚えました。
 終戦の時、私の出身村の忠霊塔を倒すという話があって(下の松江春次さんの銅像と
同じ話)、昔、福建省の領事館にいたことのある私の祖父は、英米人も日本人と同じ人
間であり、倒さなければどうこうということは無いはず、といって断固反対し、現在も
納骨式の塔として残っています(実際のところ、全国で多くの塔が倒され、また再建さ
れたのです)。
 何より、人間というDNAの集合体のレベルで考えれば感情も大して変らないでしょう。
 私は中国によく行き、「大地の子」の舞台、公主嶺や鄭家屯も通ったことがありま
す。それで、「中国大好きなの」と聞かれることがありますが、国が好きとか嫌いとか
はありません。その構成員である人間が、そして、そのDNAを生み出した大地が、また、
それが乗っている地球が、大切であり、互いに宇宙船地球号の乗組員どうしだと思うだ
けです。
そしてその地域の気候・風土、何より自分の身の丈に合った服を着ていることを互い
に尊重しあえればよいし、それが本当の民族主義ではないかと思っています(武道通信
14巻・「日本再生のナショナリズム」木村三浩さんとの対談)。これが平等かつ差別
の仏教の教えであり、葉隠が「その境あやうきなり」という部分かとも思います。
 これに対して、近世武士道は折角身の丈に合わせた中世武士道を壊した点が問題なの
です。
★8月9日
 その原爆を積んだB29の発進地テ二アンは、戦前90パーセント以上が砂糖きび畑でし
た。北マリアナの博物館で、先日、現地の方と昔の話しをする機会がありましたが、当
時の砂糖は正に高価品で、内地の人が考えられないよい生活もあったわけです。私自身
が台湾に大きく関係していますのでわかります。
 ですから、サイパン、ロタ等々の砂糖をはじめとする産業を開発した南洋興発の社
長・松江春次さんは、その銅像が、米軍に抗した地元の人の要望で、今も倒されること
なく、サイパンに建っています。南洋興発は海の満鉄とも呼ばれました。
 ところで、この松江さんの出身地はというと、会津。
 別段調べていませんが戊辰戦争による苦労の影が感じられます。兄は第1次大戦の時、
徳島でドイツ捕虜を寛大に遇したことで有名な軍人。のち、若松市長。やはり、やられ
た側に立つことは大きな意味があることなんでしょう。
★8月6日
 今日は広島原爆の日。その原爆をマリアナのテニアン島に運んだ巡洋艦・インディア
ナポリスもまた、日本の伊号潜水艦によって沈められ、多くの人命が失われたことは以
前記しました。
 「討つものも討たるる者もかわらけよ 砕けて後は元の土くれ」とは三浦一族最後の
棟梁で、北条早雲に滅ぼされた三浦道寸の歌ですが、そのかわらけのような人間がこの
世界に生かされていることの価値に対する認識と恐れとを人間は持たなければいけない
のではないかと思います。
70年安保世代で、反共産主義の自分にとって、防大の校長もされた猪木正道先生の
「共産主義の系譜」は一つの愛読書でしたが、その冒頭にある「一回生起的な個人人格
の尊厳」という言葉が忘れられません。それを元に5月10日の古賀長官らの話になる
かと思います。
 こうした、昔の人に対し、最近の政治家の言葉はやはり「軽い」と言わざるを得ませ
ん。
★7月29日
 掲示板に貼ってあるやりとりから、"Win first, fight later"という葉隠の訳語が、
アメリカで、真珠湾攻撃に代表される「葉隠的やりかた」として有名であるとの話を知
ることができました(ウラジさんからのメールで。確かにそうでした)。
 「始勝後戦」という11巻にある言葉の訳、という話ですが、掲示板にも書いたとお
り、訳の元になった日本語が問題。
 先日もある経済学の先生に葉隠は一体学問のどこに位置付けられるのですか?と聞か
れたのですが、校訂もしっかりできていませんし、位置付け作業の前提ができていない
本です。
 「始勝後戦」も「何か深遠な意味があるのだろう」などと無理やりこじつけてありが
たがってきたといえないか、考えてみるべきでしょう。

 

水戸は親鸞の故地

引用

  2004/9/16 (木) 00:15:07 - 嘉村孝 - No.1095259841


(添付1) 1095259841.1.jpg

 約1年前の8月29日、「事務室だより」で宅間死刑囚のことを書いたら、正に今
週、死刑が執行されました。
 私の意見はそこに書いたとおりですが、誰にも知られぬ内に執行されるという方法
は、結局、「あなた任せ国」の国民の本領発揮?のような気がします。律令法やその後
継たる中国でたまにみられ(私も以前撫順で見たことがあります)、日本にも昔あった
「引き回し」の方がオープンで、皆が考える機会を提供するともいえます。
 少なくとも、韓国のように、最近まで使用していたところを見せるくらいのことはす
べきでしょう。
 ところで、去年のその欄には、親鸞聖人の「わが心のよくて殺さぬにはあらず。ま
た、害せじと思うとも百人・千人を殺すこともあるべし」との「歎異抄」の言葉を引き
ました。
 この博物館では、水戸の武士道について否定的なわけですが、本当に水戸を長いこと
支配したのは常陸大じょう、江戸氏らの中世武士であり、常陸太田に本拠をおいた佐竹
氏でした。徳川は二百年に過ぎません。
 ですから、水戸・茨城には沢山の浄土真宗の寺があり、「二十四輩」と呼ばれる弟子
のほとんどが茨城に寺を起こしています。
 そして、歎異抄をまとめたといわれる河和田の唯円の開いた報仏寺も水戸にありま
す。この写真は、黄門の寺社整理により移転させられたあとの現在の報仏寺ですが、実
は河和田城の跡でもあります。少し高いところは土塁のあとです。
 水戸に行ったら黄門様、ではなくここや薬王院など、しみじみと心の洗われるような
寺をまわるのもよいのではと思います。

 

葉隠の入口に立って

引用

  2004/9/24 (金) 06:07:09 - 憂国士 - No.1095972377


昨日今日と、NHK深夜便で佐賀の栗原さんの
葉隠の話がありました。昔から名前だけ知って
いるという程度の者ですが、聞いているうちに
まずはウェブでとググってみると・・・この世
界の広く深いのが、ちょっぴり分かって来まし
た。まずはこのHPを少しずつ、時間をかけて
読んでみようかなと思います。

 

返信1返信-1

 2004/9/26 (日) 00:06:11 - 嘉村孝 - No.1095972377.1


ありがとうございます。
栗原さんというと県立図書館におられた栗原さんでしょうか。20数年前にお会いし、
過日、葉隠の研究誌に私の本の紹介文も書いて下さいました。
その栗原さんのお父上が栗原荒野さんで、この方が編成された「校注葉隠」が一番よい
本(ただし、昭和15年に出た本なので、時代背景からくる解説は割引要)。でも、今
は絶版というわけです。
葉隠を語るには是非全巻本をお読みいただきたく、せめて、岩波の「日本思想体系」本
くらいは、と思いますが、なかなか大変です。
それに、葉隠にいう「上方風の打ちあがりたる武道」とは何かも是非問題意識として持
ちたいですね。

 

1年前の「事務室だより」

引用

  2004/10/3 (日) 00:20:19 - 嘉村孝 - No.1096728850


(添付1) 1096728850.1.jpg

 トップのページ(ホームページ)にある「事務室だより」の1年前のものです。
 写真は、横浜の鶴ヶ峰にある畠山重忠の首塚です。近くには、秩父からやってきて、
夫の死を知り自害した妻の墓もあります。
 鎌倉初期の1205年、北条時政、義時らの他氏取り潰しの謀略によって非業の死を
遂げた重忠にまつわる古戦場が横浜旭区の二俣川を中心とする地域です。
 こうした中世の戦争をじっくり考えることも、現代への参考になるでしょう。
★10月4日
 自民党総裁選が終わり、首相が指名されて、新内閣が始動しました。
 つくづく感じるのは、国民を守り、あるいは弱者をいたわる、といった発想の政治家
のよすがとする「武士道」が、一定の単純な観念、つまりは徳川・明治武士道(その典
型は新渡戸武士道であり、それに親和性を持つ国家像。なお、新渡戸武士道は菅原伝授
手習鑑など歌舞伎からの引用などの非実証性や極端な精神主義で、日本の本来の文化と
は無関係。私以外にも、ぺりかん社の日本思想史辞典など同意見)になってしまって、
中世武士道つまりは民主主義にならないことです。
 明治憲法制定において伊藤博文は、日本書紀の「神勅」を国家の基軸としましたが、
「今の日本ではいけない」と叫ぶ、しかも「慈悲心もある」一応良心的な政治家が、こ
の神勅(豊葦原のちい穂秋の瑞穂の国は・・・という天照大御神の勅)に代わる民主的
で、しかも実は民族的でもある国家像・基軸を確立すろことができません。もちろん、
本人は意識せずに昔の観念に縛られているのです。真に法的な思考方法を持てないから
です(瑣末な六法全書とは無関係)。
 これは本当に日本の悲劇と考えます(私の本「葉隠論考」の韓国、台湾に関する記述
など参照)。
★9月28日
 米国がイラクで劣化ウラン弾(徹甲力が強力で戦車を破壊するが、前線の兵士も危険
で発癌など多い)を使用した旨のテレビ番組は、そのことが前線の兵士にも知らされて
いなかったとのことで、やはりそうかという感を抱かせました。
 南太平洋での原爆実験でも一線の兵士には危険性が十分知らされず、多くの病人や死
者が出たことはかねて報告されたとおりです。米国の方が日本より兵士のことを考えて
きた、とは一応言えても、この現実。
 米国議会には「我ら国民(we the people) 」という本が置いてあり、「立派な強い国
民を作る活力がアメリカの政治制度に内在している。神殿は建てなかったが国会議事堂
がある。神託に頼る代りに合衆国憲法がある」との言葉があります。
 国民を守る政治制度が強い国民を作る、そのための議会、ともいえ、正にその理念や
よし、ですが実現は難しい。しかし、理想がそこにあることだけは間違いないのではと
思っています。
米国がそうなら日本こそその理想を実現する「一味同心」の国にならねばならない
し、その逆があってはならないと思います。
★9月24日
 秋分の日から出張で山形県へ。
 「めでためでたの若松様よ」で有名な若松寺に参拝。修験道・神仏習合を実地に考え
ました。
 路傍にある数々の石仏や碑にも、祖先が千年にわたって作り上げた日本特有の宗教の
成立とその理論がうかがわれます。
 それにしても、会津盆地の数々の寺々もそうですが、平安時代の比叡山との関係な
ど、日本海などを通じての東北への人の動きは大したものだなと思われます。 
 そういえば、続日本紀には出羽にやってきた渤海の使者などのことがしばしば出てい
ました。
 仙台の壺の碑(いしぶみ)にも、奈良の大仏様より古い昔にまっかつ国から何里と
か。気宇壮大にしてくれる東北です。
★9月19日
 葉隠に登場する鍋島の殿様はその時代に応じて様々な庭園趣味をみせます。逆に、彼
らの庭園趣味を見ることで「時代」と「各自の武士道」がわかります。
 ところで、中根金作先生は何十年も前に、「日本の庭」という本の中で、ある米国の
33歳になる青年がこんなことを言ったと紹介しています。
 「最近、美しい写真を主として解説を少なくした豪華版の美術本が盛んに出版される
傾向にあるが、アメリカの知識人や研究者はもはやあのような『絵本』は希望していな
い。我々は写真は小さくても、精神的な内容のある専門的な本をほしい」と。
 こんな話が書かれたあとで、例えば芸術新潮などもB5からA4になり、かつ極めて
ビジュアル化されました。パッと目に入るのはよいのですが確かに論理で芸術を語る力
量は落ちた気がします。それにしても、「庭園の論理」は面白く深いですよ。
★9月17日
 このところ裁判がらみのメールを沢山いただきます。死刑にして当然のケースに弁護
人が控訴するとはけしからん、とか、知人がやってないのに軽犯罪で逮捕され20日以上
逮捕勾留された結果、大したことないからと、検事の罰金申出に応じたらマスコミに出
て退職させられた、とか。
 前者は、遠山の金さんや大岡越前みたいに捜査機関と裁判機関、どころか弁護の機関
までいっしょになって、悪いやつをやっつけろ、という発想。つまり、裁判官・検事、そ
れに弁護士が一体でもよいというある意味でお上を信ずる発想(組織法の意義を知らな
い)。
 後者も、「お上を信頼してたのに」、という意味では実は同じ「根っこ」に根ざして
います。
 へー、そうなのという声も聞こえそうな話ですが、ここをしっかり把握して上記のよ
うな正直者の国民が馬鹿をみない国にしたいのです。「お上意識」と「武士道観」の対
比は大事です。
★9月15日
 千葉、房州で焼き物を焼いているイギリス人がいます。
 その人の、塩を用いた釉薬の結果生まれる模様と鍋島の染め付けとがそっくりなこと
から興味を持ってみています。
 もちろん、結果的な模様がよく似ていても、釉薬と染め付けとでは工程が全く別、つ
まり、釉薬は染付けの上にかけるものですから、大違い。
 一方、それはそれとして、鎌倉時代に外房大原から長崎に下った三浦一族・深堀氏
は、葉隠に巨大な影響を与えています。特に「長崎喧嘩」の影響大。
 しかし、これまたその影響をどう読むかは釉薬か染め付けかという明確な順序の違い
のようなものではないだけに余計ややこしいです。
 歴史をできるだけデジタル的に見ることが必要かと思っていますが、それがむずかし
いのが奥の深さと誤りの元か、そして見る側も様々だな・・・と。 
★9月10日
 先日台湾で、その呼称を「台湾」にしてほしい、とのデモ行進が行われました。
 私の知り合いの知り合いであるある台湾人が読んだ歌(台湾の高齢者は日本人以上に
日本語が上手)。
 血の祖国 法の祖国のむなしさよ 我があこがるるは心の祖国
 つまり、血(中国)の祖国でも法(日本の植民地)の祖国でもない、真に心から祖国
と呼べる祖国でありたい、という意味です。
 我が日本も、無理矢理愛国心を持て、なんていう専制ではなく、「愛したくなる国」
にすることが大事です。それには、この博物館でいう「一味同心」の武士道国家でなけ
れば。
 それにしても2・28事件(日本の2・26じゃありません)の実態など、もっと日
本人は知るべしです(私はあちこちに書きました

 

サムライの呼称

引用

  2004/10/10 (日) 23:17:46 - 野田孝雄 - <メール送信> - No.1097417004


映画「ラスト・サムライ」はいうにおよばず、サムライということばは
世界で通用しているわけですが、果たして当事者たちはその名称を使ったの
でしょうか。別階級の人々が使用したことは想像できるのですが、
当人たちの自己定義は「武士」もしくは「もののふ」などというものでは
なかったのでしょうか。
海外でのサムライ理解もしくは大衆化は「7人の侍」に端を発したと
思われますが、これは娯楽映画であり、武士(道)を表現したものでは
ありませんね。
海外でのサムライ認識に歪曲があるのはしかたない面もありますが(私自身
理解してるわけではないですから)、ことばの違和感を非常に強く感じるのです。
はたして武士階級の人々は自らをサムライと呼称することが一般的であったのかどうか。
印象的な疑問でしかないのですが、お知恵を拝借できれば幸いです。

 

「サムライの呼称」についてお答え 附「新渡戸論」

引用

  2004/10/11 (月) 11:26:08 - 嘉村孝 - No.1097461414


ご質問のようなケースでは、正確を期するため、とりあえず学者の助けを借らねばとい
うことになるでしょう。
田中稔先生「侍・凡下考」によりますと、この問題は何期かに別れ、①よくいわれる
「さぶらう」つまり平安時代の近侍の総称。②鎌倉以降は凡下との身分上の差を持った
御家人。種々の特権を持つ武士階級。その意味ではこの博物館の武士も凡下とは区別さ
れます。③江戸時代において士農工商の士が侍と一致。
ということです。
そんな「侍」という呼称の歴史ですが、葉隠あるいはその前段階ともいうべき「要鑑抄」
(山本常朝の先生、石田一鼎の書)、更に鈴木正三の書などにも侍という言葉は出てき
ますので、江戸時代において、侍が自分のことを「さむらい」と言ったことは間違いな
いかと思われます。ただ、この段階、つまり江戸初期の侍は深谷克己先生のいわれると
おり、強烈な身分差別を前提とはしていないように思われます。ただの区分の要素が強
い。それが、時代が下るに従い、差別的になっていったかと思います。

ところで、「サムライ」ですが、例えば「大空のサムライ」の坂井三郎さんの本は世界
で100万部以上売れ、しかも何カ国語にも訳されていますから、大いに「サムライ」
の語を広めたかと思いますが、それには更に前提があり、明治時代から「サムライ」の
語が、フジヤマ、ゲイシャのように広まっていたという事実があろうかと思います。
そして、そのことにも新渡戸さんの一定の役割がありそうなのです。
例えば、文明開化後の横浜の有名な財界人で、後にホテル・ニューグランドの会長も務
めた野村洋三は、明治23年に望みがかない洋行しますが(名前を梅太郎から洋三に変
える)、帰路、新渡戸と知り合い、共鳴して、自分の経営する美術商の屋号を「サムラ
イ商会」としたのです(横浜商工会議所の報告。なお、野村洋三伝)。
新装なる前のホテル・ニューグランドに私も行ったことがありますが、沢山の骨董品が
並べてあり、いかにも外人さんの喜びそうなホテルでした。もちろん戦後一時、GHQ
が置かれたほどの格式あるホテルです。
こうしたことから「サムライ」の語は昔から外国に広まっていたのでしょう。

ちなみに、その新渡戸「武士道」は一向本物の武士道ではない、正にフジヤマ、ゲイシ
ャクラスのものに過ぎないことは私も再三書き、講演したりしてきました。また、現
在、部内誌などに原稿も渡してあります。「ラスト・サムライ」についても現地の新聞
の取材を受けてそこらも強調し、あるいはDVDをお預かりして感想を書くことになっ
ていますが、本業優先のためまだまとめていません。
そこで、ここで、学者の先生の一言だけを引用しておきます。まともな頭であの「武士
道」をじっくり読めば、奇妙かつ罪ある滅私奉公の本としかいえません。もっとよくみ
てくださいね、と世の人に言いたいのです。

日本思想史辞典、(宇野田尚哉・ぺりかん社)「なお、この書(新渡戸の『武士道』)
では武士道関係の基本的な一次史料はほとんど踏まえられておらず、新渡戸は武士道の
実際には暗かったと考えられる」と。

 

返信1返信-1

 2004/10/16 (土) 02:47:32 - 野田孝雄 - <メール送信> - No.1097461414.1


嘉村様
稚拙な疑問への早々の回答ありがとうございました。
もう少し勉強して、また質問させていただくかも
しれませんが、その際はよろしくご教示ください。
取り急ぎお礼まで

はじめまして

引用

  2004/10/28 (木) 02:03:04 - 賀村真弓 - <mhachan@mc.neweb.ne.jp> - No.1098894489


初めてお便り致します。「鍋島藩 石井一門」石井先生より、嘉村先生を教えて頂きました。
札幌在住の賀村(がむら)真弓と申します。全国的に見ても変わった名字で、自分のルーツにと
ても関心があり、父より「賀村」は以前は「よしむら」姓だったことは聞いてたのですが、明治
時代に「賀村」に変わったとのことでした。石井先生のHPで「嘉村」だったことを教えて頂き
ました。自分の知るところでは、明治20年に佐賀県川久保より屯田兵として札幌へ渡ったそう
です。賀村(当時は嘉村?)千平というご先祖様とその妻ユキ(執行武13女)が佐賀郡川久保
189に住んでいたそうです。更にそれ以前のことを知りたいと思い、佐賀藩関係のHP等を調べ
ていましたら、石井先生のHPにて「嘉村」姓について教えて頂き、「嘉村孝先生にご相談して
みては」の一言から不躾ながら、書き込みさせて頂きました。ご先祖様を辿る知恵、「嘉村」に
ついて教えて頂ければと…よろしくお願いします。

 

返信2返信-2

 2004/10/31 (日) 00:43:03 - 賀村真弓 - <mhachan@mc.neweb.ne.jp> - No.1098894489.2


嘉村様

ありがとうございます。一文字、一文字拝読させて頂き、広大無辺な思いが拡がります。私の知
るところのご先祖様(賀村千平・天保生まれ)までは辿れましたが、鎌倉・室町まで遡れるとは
思ってもいませんでした。今から、800年も900年も昔から、関東、九州、北海道と、戦国
時代、飢饉、幕末、戦争、あらゆる歴史背景、時を越えて自分が存在していることが、一つの奇
跡のように思えます。
この掲示板を拝見させて頂き、学問的な内容が多かったので、場違いな気がしたのですが、あり
がとうございます。
また、「葉隠武士道」を興味深く拝見させて頂き、それが禅、仏教精神「大慈悲」からというこ
とに驚いたと同時に、藤原の頃の神主とは。何の宗教というのではなく、神仏を大切にし、毎
朝、太陽に向かい手を合わせる父の姿を見て育ちましたが、直接聞いたことはありませんが、こ
れも脈々と受け継がれて来たものかと感じずにはおられません。昔は禅宗だったらしいのです
が、いつの頃からか、ご先祖様は日蓮宗に変わっておりますが(笑)。私もまた、ご先祖様のD
NAなのか、社会へ出てから佛教大学の通信の「佛教学部」へ編入し「佛教」を学んでおりまし
たが、会社との両立は難しく退学してしまいました。いつの日か、生涯学習としてまた学べたら
と思っておりますが…
今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

 

返信1返信-1

 2004/10/29 (金) 00:14:51 - 嘉村孝 - No.1098894489.1


(添付1) 1098894489.1.1.jpg

本当に初めまして。
サーバーの具合が悪く、遅れてすみません。
嘉村姓は、戦国時代に佐賀山内(さんない)を支配した神代(くましろ)一族のことを
記した「神代家伝記(くましろかでんき)」によりますと、鎌倉時代、関東の千葉一族
が佐賀の小城に下向する際、近江国・神崎郡・常富荘・嘉村から従ったとのことです
(千葉氏のことはこの博物館に書いてあります)。室町・戦国期には賀村と書いて「か
むら」と読んだこともありますので、どちらでもよいわけです。
元来、藤原秀郷系の神主のようで、山内に多くの神社を勧請することに携わっています
が、特に、現在の富士町・無津呂城主嘉村(賀村)讃岐守が有名で、神代勝利の家来と
して、現在の大和町・川上における竜造寺隆信との戦いで敗死しています。
ですから、私にとっては、竜造寺・鍋島は敵みたいなものなのです(笑)。
しかし、神代は勝利の息子長良の時、竜造寺と和睦して、江戸時代には現在の佐賀市川
久保に一万石をもらいましたので、賀村様のご先祖は間違いなく、川久保の殿様といわ
れた神代氏(後、鍋島の血が濃くなる)の家来だったのでしょう。
昔の人の行動範囲の広さにはびっくりしますが、賀村様の直接のご先祖も気宇壮大な考
えのもとに北海道に行かれたのでしょう。
まだまだ、書くことはたくさんありますが、詳しくは別途メール致します。
これからもどうぞ宜しく。
石井様のサイトへもリンクを張りたいのですが、多忙でなかなか根本的更新ができず、
失礼しています。どうぞ宜しくお伝え下さい。
なお、川久保方向を撮った1,2キロ東の写真を貼ります。左の山は、律令時代から烽火
台があった日の隈山。右は少弐氏滅亡の城山です。神埼町です。このあたり、吉野ヶ里
遺跡にも近く、正に歴史の宝庫で、様々のことを考えさせてくれます。